或謂孔子曰。子奚不爲政。子曰。書云。孝乎惟孝。友于兄弟。施於有政。是亦爲政。奚其爲爲政。
或るひと孔子に謂いて曰わく、子奚ぞ政を為さざる。子曰わく、書に云う、孝なるか惟れ孝、兄弟に友なり、有政に施すと。是れ亦た政を為すなり。奚ぞ其れ政を為すことを為さん。
【訳】
ある人が先師にたずねていった。先生はなぜ政治にお携たずさわりになりませんか。先師はこたえられた。書経に、孝についてこのようにいってある。『親に孝行であり、兄弟に親密であり、それがおのずから政治に及んでいる』と。これで見ると、家庭生活を美しくするのもまた政治だ。しいて国政の衝にあたる必要もあるまい
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孔子の言動を追って行くと、それはそれはなかなかの人格者だというのがわかる。そんな人格者なら、当然誰もが人々の指導者になってもらいたいと思うだろう。ましてや2,500年前の中国では、人々の「権利」などという概念もなかっただろうし、安定した生活を送るためにも人格者に政治を任せたいという気持ちはあっただろう。従って、孔子に政治をやらないのかというのは、当然な疑問であり願望であったと思う。
それに対する孔子の答えは、「家庭生活を美しくするのもまた政治」というもの。何も国家の指導者にならずとも、生活を良くしていくという意味では政治家も家庭の夫も変わらないという考えはよく理解できる。逆に言えば、家庭生活を美しくできなければ、国なんて余計に美しくできないという事が言えるのかもしれない。似たような事は、実は自分も「リーダーシップ」ということに関してよく考えている。
リーダーシップというものは、どこの組織であろうとそれほど大きく変わらないものではないかと思うのである。例えばスポーツのチームと会社組織などはそれがよく当てはまると思う。スポーツでも会社組織でも、まず組織の目標というものがある。リーグ戦に勝ち抜くことか、ライバル企業との競争に勝ち抜くことかの違いはあるとして、競争の中で目標を達成するという意味では同じである。
その目標に向けて、チームのメンバーを鼓舞していかなければならない。目標を明確に示し、メンバーにその役割を認識させ、そしてその力を最大限発揮するように仕向ける。個々人がその力を最大限発揮し、組織としてのチームワークを織りなせば、いい成績を残せるだろう。会社やチームの組織の大小はあろうが、この原則は変わらないと思う。更に言えば、組織を国と考えると国民のリーダーとしての政治家にも同じことが言えるのかもしれない(最も国家としての目標が何かということに影響はされるかもしれないが・・・)。
政治の目的を「国民生活の安定」、あるいは「国民の幸せ」と定義するなら、「国民」を「家族」と置き換えればそれは家庭に当てはまる。大小の違いはあるとしてもやるべき事は(大小の違いだけで)同じだと言えるのだろう。そう考えれば、孔子の言わんとしている事はよく理解できる。ただ、そういう返事をもらった「或る人」は、たぶんその答えに満足しなかったのではないかと思う。小さな組織でうまくやっている人なら、それをもっと大きな組織でやってほしいと思うからである。
ただ、やっぱりリーダーシップと違って政治は家庭と比べるのは無理があるかもしれないとも思う。「家庭生活を美しくする」とはどういう事かを考えてみると、一家の大黒柱(何をもって「大黒柱」とするかは最近疑問であるが、とりあえず経済的な意味とする)とすれば、まずは収入の安定(できればその増加)がある。国家も経済力は重要であるから同じであるが、医療や福祉、治安維持等組織が大きくなれば組織作りも必要となってとても家庭規模では収まらない。それに良き家庭人が必ずしも良き政治家という事にはならない事は想像に難くない。そういう意味では、孔子の答えはちょっと違うと言えるかもしれない。
そもそもであるが、ここにあるやり取りは孔子の思想を伝えているのかと思うと個人的には疑問に思う。例えば自分が政治家にならないのかと尋ねられたら、「No」と答えるであろう。たとえそういう機会に恵まれたとしても、政治家を目指すのはなんとなく「面倒」である。もしかしたら、孔子も実は「そんな面倒臭いこと」と内心思ったのかもしれない。そう言っては身も蓋もないから、「家庭も一緒」と答えたのではないかと疑ってみたりする。
案外、それが真相だったりして、と思ってみたりするのである・・・
【今週の読書】
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