2018年3月7日水曜日

常に正しい正義


大学時代、法学部に所属し法律を学び始めた私は、法律の考え方に感心するとともに疑問を持つことも多々あった。その一つが「違法収集証拠排除法則」である。これは、刑事訴訟法(私はゼミでは刑事訴訟法を選択したのである)で、その名の通り「違法に(手続きに反して)収集された証拠」について(たとえそれがホンモノだとしても)「その証拠能力を認めない」とするものである。これに該当すると(手続きを間違えると)、犯罪を犯した人が合法的に無罪になることもあり得るというものである。

 それでいいのかと、法律を学びたての私は思ったものである。しかし、それは「正義であれば何をしても良い」という考え方を排除するもので、真犯人を釈放するリスクがあったとしても、守らなければならない大事な原則とされている。正義を追求するあまり、行き過ぎた捜査によって冤罪などの最悪な結果だけは防ごうという趣旨だろう。しかし、悪は常にずる賢い。そんな法律の趣旨をあざ笑うかのように、巧みに法の網の目をかいくぐり悪は世にはびこる。そんな悪に善人である庶民は煮え湯を飲まされる・・・

 そうした悔しさがあるからこそ、「必殺仕事人」のような番組が創られ、ヒットするのであろう。私も藤田まことが演じる八丁堀の旦那こと中村主水が、昼行燈と呼ばれながら影では正義の裁きを求める声に応じて仲間たちと天に代わって成敗するストーリーが大好きであった。それは世の東西を問わず、ハリウッド映画の世界でもいろいろ創られている(バットマンパニッシャーなど)からいずこも同じなのであろうと推測させられる。

「法で裁けぬ悪を成敗する」というのは実に心地よいが、それは一方で危うさをも秘めている。要は、「本当に正しいのか」という部分である。例えば『殿、利息でござる!の先代・浅野屋甚内十三郎のように、世間では強欲商人と言われていても、その実は貧しき人に慈悲深かったりするような人は、誤解されて成敗されてしまうかもしれないのである。正義もある一面だけを持って判断するのは難しい。

それに人はとかく自分の意見こそが絶対的に正しいと思いがちである。そしてそれについてしばし盲目的になりやすい。その場合、反対する相手の意見をとにかく否定し、聞く耳すら持たなかったりする。自分の意見も大事であるが、そこには常に客観的になれる冷静さも必要だと思う。そのように言えばだれもが賛成するだろうが、具体的に自分のことになると客観的にはなれず、「正義の暴走」になることもよく目にすることである。特に権力や影響力を持つ人は意識しないといけない。

昨年、ニュースで世間を騒がせた「森友・加計学園」問題に対する朝日新聞を筆頭とするマスコミの報道は(収まったかと思ったらまた再燃しているが)、そんな「正義の暴走」を思い起こさせる。『徹底検証「森友・加計事件」――朝日新聞による戦後最大級の報道犯罪』を先日読んだばかりであるが、その本を読んだからというわけではなく、自分の主張に不利なニュースは流さないという「報道しない自由」などという言葉を振りかざされると、まさに「暴走」の感がある。本の内容もそれだけで真実の裏付け感がある。

それは例えば、警察が事件の犯人を逮捕した際、実は(犯人に有利な)アリバイが出てきた時、「捜査しない自由」などと言ってそのアリバイを調べないで起訴したとしたら、それこそ冤罪につながる恐ろしいことである。そういう証拠が出てきたら、一旦冷静になり客観的立場からもう一度事件を捜査するスタンスが必要である。自分たちの主張に不利なニュースを「報道しない自由」もこれと同様に考えると、よくもまあ堂々と主張できるものだと呆れてしまう。

思えば子供の頃は、新聞に書いてあることはすべて真実だと思っていた。そしてマスコミは常に公平なのだと。相対する意見を両論対等に扱い、何が真実か冷静に追求していくというマスコミの理想像は、もはや朝日新聞などのメディアには当てはまらないようである。いや、朝日新聞にとどまらず「俺たちが真実だと考えるものが真実」という傲慢な姿勢は、すべてのマスコミに通じると言っても大げさではない。

自分としてはそんなマスコミに何かを期待するなどいうことはもうない。期待するだけ無駄なのでニュースは自分なりに取捨選択していくしかないと思っているが、「人の振り見て我が振り直せ」は心掛けたい教訓だろう。権力も影響力もない身であるが、そんなスタンスを常に意識したいと思うのである・・・







【本日の読書】
 
   
   

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