2024年1月28日日曜日

人に勧める

 「映画を観るのが趣味です」と答えると、「何がお勧めですか?」と聞かれることがある。「最近、何観ましたか?」という質問であればまだいいのだが、この質問をされると答えに窮する。あるいは「これまで観た映画の中で一番良かったのはなんですか?」という質問も同様である。答えに窮する理由は二つあって、一つはその場ですぐに答えられないというのがある。お勧めと言っても相手に合わせたものである必要がある。女性に激しいアクション映画を勧めてもピントがズレるかもしれない。また、「これまで観た映画の中で一番良かったのはなんですか?」など自分でもいろいろあって選びきれ他ものではない。

 今一つは、「自分の好みを勧めることへの抵抗」だろうか。自分なりの好みを伝えるのは構わないのだが、それが相手の心にヒットすればまだしも、ヒットしなかった場合の落胆感が嫌だということもある。そういう私もよく人にお勧めを聞くのであるが、そのお勧めが私自身の心に響かないということもよくある。一生懸命情熱的に語って勧めてくれるのはいいのであるが、観た結果それほどでもなかったというのがよくあるからである。それは読書でもまた然り。感動的な感想を聞かされて、いざ自分で読んでみたが、それほどでもなかったりすると、自分の感性がおかしいのかなと思ってしまったりする。

 しかし、よくよく考えてみると、一本の映画が心に残ったり、一冊の本が感動をもたらしたりするのは、「絶対価値」ではなくて「相対価値」によるものだとすると合点が行く。「絶対価値」とは、その作品自体が持つ誰が観ても感動を催すもの。「相対価値」とは、その作品自体に加え、その人にとっての感動要素を有するものである。過去に互いに相思相愛になったが、事情があって一緒になれなかったなどという経験があれば、似たようなストーリーの映画はその思い出を刺激し、余計に心に響くかもしれない。あるいは主人公が過去に戻ってやり直すというストーリーでも、自分自身の思いを重ねて共感するかもしれない。

 「相対価値」はその人自身の過去の経験や考え方に影響されるので、普通の人には目に留まらないような映画が、その人の心にはヒットするということもありうる。あるいはその時代の雰囲気、その時の状況がサイドストーリーとなって影響するかもしれない。かつて私はプロレスが好きでよく観ていたが、生涯で一番のベストバウトは何かと問われたなら、迷いなく新日本プロレスの1995年10月9日の武藤敬司対高田延彦戦を挙げるだろう。この試合は録画してあり何度も観たのであるが、ではこの試合だけを観て「ベストバウト」だと思うかと言えば、それはわからない。試合はもちろん面白いが、それだけではないのである。

 その試合は打撃と関節技を主とする「格闘技系」のUWF勢力と従来のプロレスとが激突するという流れがあり、「果たしてどちらが強いのか」という興味が最大限に上昇していたタイミングで行われたのである。武藤と高田の試合はメインイベントであり、その勝敗が両団体の勝敗を決めると言っても過言ではない。打撃と関節技の凄みを全面に出したUWFが勝ってしまうのかという不安の中、最後は足4の字固めという古典的なプロレス技で決着がつくという誰も想像しない結果に終わったのである。演出としてはこれ以上にないストーリーだろう。そういう試合以外の要素も加わっているのである。

 映画も読書もスポーツもそのものだけの「絶対価値」もさることながら、周辺の事情や個人の経験などが「相対価値」として加わった場合、その作品が持つ絶対価値をさらに特定の人に向けた価値を創出するということになる。だから、人にお勧めを聞いても、それはその人にとっての相対価値であることを意識しておかないと、後でガッカリすることになる。もっとも、それをわかった上で敢えて人にお勧めを聞くということにも価値はある。それはその人にとっての相対価値が、自分にとってもジャストフィットすることもあるからである。

 かつて若い頃、取引先の親しくしていた方にお勧めの一冊を聞いたところ、藤沢周平の『蝉しぐれ』をご紹介いただいた。当時、私は時代劇にはまったく興味はなかったが、それでもと思って読んでみたら、これが私にもジャストフィットした。以来、藤沢周平は私のお気に入りの作家の1人である。自分の枠を広げるという意味でも人にお勧めを聞く意味はある。そう思って、私もダメもとで人に聞かれたら、お勧めを答えることにしようと思うのである・・・

Gábor AdonyiによるPixabayからの画像


【今週の読書】

格差の起源 なぜ人類は繁栄し、不平等が生まれたのか - オデッド・ガロー, 柴田 裕之, 森内 薫  なれのはて - 加藤シゲアキ








2024年1月27日土曜日

論語雑感 述而篇第七(その27)

 論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感

【原文】

子曰蓋有不知而作之者我無是也多聞擇其善者而從之多見而識之知之次也

【読み下し】

子し曰いはく、蓋けだし有あらん、智しら弗ざる也や、し而て之これを作なす者もの。我われは是これ無なし。多おほく聞ききて、其その善よき者ものを擇えらび而て之これに從したがふ。多おほく聞きき而て之これを志しるすは、智しる之これ次つぎ也や。

【訳】

先師がいわれた。

「無知で我流の新説を立てる者もあるらしいが、私は絶対にそんなことはしない。私はなるべく多くの人の考えを聞いて取捨選択し、なるべく多く実際を見てそれを心にとめておき、判断の材料にするようにつとめている。むろん、それではまだ真知とはいえないだろう。しかし、それが真知にいたる途なのだ。」

『論語』全文・現代語訳

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 現在の職場ではいろいろな情報が入ってくる。特に気を付けているのはネガティブ情報である。何か対処しなければならない事があるかもしれないからである。某氏はかなり批判系の意見を述べてくる。ベテランだけあって、その意見はいつももっともであり、なるべく耳を傾けるようにしている。しかし、一方でその批判を聞きながら、「それではそれを相手に伝えて改善すればいいではないか」と思っているが、某氏は言うだけでそこまではしない。要は「評論家」なのである。そうすると問題を放置するわけにもいかず、聞いた以上は、と私が動く事になる。


 ところが実際にヒアリングしてみると、そこには違う事情が表れる。傍からは見えていない事情があって、その事情を勘案すると、批判されていた行動にはきちんとした理由が見えてくる。「その状況下であれば」、その行動ももっともであるという事がわかってくるのである。相手の行動を批判する時は、単に自分から見えている面だけで判断するのではなく、「自分から見えていない面」もあるかもしれないと考えないといけない。評論家某氏の意見はいつもそんな批判が多い。


 以前にも述べた思考実験であるが、AがBを刃物で刺すという事件が起こったとする。当然、Aは傷害罪で逮捕され罰せられる。しかし、実はそもそも刃物を持って襲い掛かったのがBで、Aはその刃物を奪ってもみ合ううちにBを刺してしまったとなると、正当防衛で無罪という事もありうる。事情がわかると印象はがらりと変わる。さらになぜBは刃物を持ってAに襲い掛かったのかと調べたら、実はAは詐欺師でありBはその被害に遭って全財産を失い一家離散となって絶望のあまり犯行に及んだ、となるとまた印象は変わる。


 物事は一面だけを見て判断するわけにはいかない。自分から見えている面だけで判断すると間違える可能性がある。間違えないためには、見えていない部分を見る努力が必要である。私も某氏の意見を聞くと、まずは本人に事情を聞く。「なぜそういう行動を取ったのか」、「どういう状況で」、「なぜそれが最適と判断したのか」、その上で自分としてその行動をどう考えるか。両面から見ればだいたい適切な判断ができる。逆に言えば、一方の意見だけでは動かない。


 当たり前であるが、両面から見る意識は大事である。その応用もある。自分とは違う意見の人と議論する場合である。自分の意見を否定されれば心中穏やかではないが、相手の意見を一旦冷静に受け止めて相手の視点から見てみる必要がある。もしかしたらもっともかもしれないし、自分には見えていない問題点があるかもしれない。相手の立場に立って相手の意見を考えてみる事が反論する場合には役に立つ。相手がなぜ自分と意見が違うのか、原因がわかれば対処もわかる。


 会社で人と議論する時には特に意識している。まずは相手の意見を聞く。その上で相手の考えをあれこれと考えてみる。そうするとそこに問題点が浮かび上がってくるかもしれない。その上で自分の意見と照らし合わせ、判断する。自分の意見の方が正しいと思えば、その理由と相手の意見の問題点を説明すれば、自分の意見が通る。相手に質問をし、問題点を考えさせ、必然的に自分の意見に導くソクラテスの産婆術が使えれば尚良いかもしれない。


 某氏は自信満々で批判を繰り返す。確かに某氏の「視点」ではそれは正しい意見なのかもしれない。しかし、物事には必ず裏表がある。ウクライナとロシアの戦争もウクライナから見れば正しい行動であり、ロシアから見ればそれもまた正しい行動である。イスラエルとパレスチナについても然り。しかし、「相手の視点」を意識することができれば自分の意見とは異なる別の解決策に辿りつけるかもしれない。相手だけではなく、広く他の意見を聞けばさらに正しい道へと辿りつけるのではないかと思う。


 自分も己の意見に固執する前に、広く他人の意見を聞くスタンスを持っていたいと思うのである・・・



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【本日の読書】

格差の起源 なぜ人類は繁栄し、不平等が生まれたのか - オデッド・ガロー, 柴田 裕之, 森内 薫  なれのはて - 加藤シゲアキ







2024年1月21日日曜日

採用の現場にて

 仕事では本職の財務の他に人事も兼務している。人事の仕事の柱の一つは「採用」である。採用には新卒採用と中途採用があるが、どちらも大事である。新卒採用は、学校ルートが中心。専門学校と大学とであるが、知名度の低い中小企業の悲しさで、首都圏での採用はなかなか難しい。もう少し大学生を採用したいと考えているが、偏差値の高い大学の学生には相手にしてもらえない。かと言って偏差値にこだわらなくても難しい。学生からすれば、なるべく大手の企業に就職したいと考えるであろうから、やむを得ないと言えばやむを得ない。

 大学には就職課というものがあって、学生の就職相談に乗っている。企業から情報を集め、学生向けに会社説明会を開催したり、企業と推薦制度を交渉したり。専門学校も大学も「就職率」がやはり生徒募集の大きな強みになる。ランクの高い大学はふんぞり返っていられるが、そうでない大学や専門学校はかなり力を入れている。地方では特にその傾向が強く、我々のような中小企業でも歓待していただける。学校推薦がつけば生徒は内定が出たら承諾しなければならないという縛りがつくが、確実に内定はもらえる。企業も確実に採用できるのであればWin-Winである。

 面接をして内定を出しても、辞退となると企業も採用計画が狂ってしまう。学生もいくつか内定をもらってもギリギリまでどこにするか決めずに、最後に決めるという人もいる。辞退された企業は大変である。我々も首都圏の大学の学生を採用したいと思うが、狙うのは夏休み前である。それ以前の「第一波」では学生の関心は大手に向かう。そこで決まらなかった学生が「第二波」としてレベルを落として次の企業群へと向かってくる。「夏休み前に決めたい」という学生を狙うのである。当然、「第一波」で選考から漏れた学生となるので、それなりの学生が多くなるが、中には「掘り出し物」もいるからこちらも全力投球である。

 我が身を振り返ってみると、超売手市場の環境下、ふんぞり返っていられる大学出身だったから大学の就職課なぞあるのも知らなかったくらいである。学生は意外と就職課を利用し、就職課の人も意外と骨を折っているのだと、今になって初めて知った次第。理系の大学になると、就職課よりは教授のルートが大事だったりして、教授に連絡を取ると学生を推薦してもらえたりする。その場合は、こちらが内定を出せばまず確実に採用できる。専門学校生と比べると、大学生は「余白」が多いと感じる。専門学校の学生はみっちり知識を得てくるが、「余白」の部分が少なく、大学生もそれなりに4年間の重みはある。両方バランス良く採用したいところである。

 中途は人材紹介会社が中心となるが、人材紹介会社も商売であり、採用実績の高い比較的大手の企業に優先的に紹介が行くようで、我々のような中小企業はここでも苦戦する。紹介してもらっても、採用できるかはまた別問題。悩ましいのは転職回数だろうか。昔から転職が多いと不利になると言われているが、採用する立場からするとその通りである。なぜ、頻繁に転職するのか。最近も現職に就いて半年しか経っていない人が応募してきたが、転職理由が気になる。もしかしたら問題社員なのかもしれない。採用した途端、社内に問題を抱えたくはない。

 アメリカは転職社会だとよく聞く。簡単に首になるし、ステップアップのためにどんどん転職すると言う。そういう社会なら問題はないが、簡単に首にならない我が国では、自分から辞めるのは、我慢が足りないとか、周りと協調してやれないとか、気に食わないことがあるとすぐ辞めるような人物なのかと勘繰ってしまう。採用すれば社会保険の手続きなど煩雑な事務もあるし、紹介料などのコストもかかる。面接の受け答えなどいくらでも誤魔化せるし、良い材料は見つけにくい。やはり転職回数の多さはマイナスでしかない。

 その点、新卒採用はやはり楽しいものである。みんな春からの就職に対して期待と不安とを抱えており、入社してからだんだん逞しくなっていく様子を見られる楽しさがある。中途採用でも溶け込んで楽しそうに働いている姿も当然嬉しく思う。会社が大きくなっていくためには採用は絶対に必要であり、大事な仕事であると認識している。今は、内定を出した学生から春の入社に向けての問い合わせが多く来たりしている。4月1日に彼らと会うのが楽しみである。私もこの会社は3社目であるが、人事の仕事も楽しみながら、ここを安住の地としたいと思うのである・・・

TumisuによるPixabayからの画像

【本日の読書】

哲学がわかる 哲学の方法 - ティモシー・ウィリアムソン, 廣瀬 覚 勉強が一番、簡単でした――読んだら誰でも勉強したくなる奇跡の物語 - チャン・スンス, 吉川 南







2024年1月18日木曜日

映画『ほんとうのピノッキオ』に見る人の成長

 この正月、『ほんとうのピノッキオ』という映画を観た。基本的に原作にかなり忠実なストーリーらしい。と言っても、大筋は子供の頃から慣れ親しんでいるピノッキオの物語と大きくは違わない。貧しい木工職人のジェペット爺さんが作った木の人形が命を宿し、様々な経験を積んでやがて人間になるというものである。映画自体は実写版として楽しく観ることができたが、ピノッキオの行動にこれまでとは違うものを感じた。それは、「改心」と言うより「成長」と言うピノッキオの姿にである。

 ジェペット爺さんは、自分が作った人形が生命を得たのに驚き、そして喜ぶ。貧しいゆえに自分の着ていたコートを売ってピノッキオのために教科書を買い、ピノッキオを学校へ入れる。ところが、ピノッキオは学校へ行く途中に見かけた人形劇が気になり、学校を抜け出して人形劇を見に行ってしまう。一般常識からすればとんでもない悪童だが、しかしピノッキオは生まれたばかりである。暖炉に足を向けて燃やしてしまうほど無知である。人はみな物事の善悪は「経験」によって学ぶものである事を考えると、より好奇心を刺激される方に動いたピノッキオの反応は普通であると言える。

 さらに人形劇団から解放されたピノッキオは、親方にもらった金貨5枚を握りしめて家に帰る途中、キツネとネコに出会う。そこで金貨5枚を持っていると言ったものだから、たちまちカモられる。金貨を増やそうと持ちかけられ、埋めれば金貨のなる木が生えるからとそそのかされてその話を信じる。もちろん、金貨は後で持って行かれてしまうのだが、人を疑う事もまた学習で身につくものであり、経験のないピノッキオが簡単に騙されてしまうのも当然である。疑う事を知らない小さな子供を騙すのは簡単であるのと同じである。現代ではお年寄りも簡単に騙されるし、いい歳をした我が弟もだまされた。

 さらに、ようやく真面目に学校へ通い勉強するようになったピノッキオだが、今度は友達に誘われて一緒におもちゃで1日遊べる所へ行ってしまう。この時点ではそれまでの学びから躊躇するようになっているが、結局誘いに乗ってしまう。このあたりは普通の大人でもあり得ることである。正しい道を選ぶのは大人でも難しい。しかし、その成長は確実であり、くじら(映画では怪獣のようだった)のお腹の中でジェペット爺さんと再会したピノッキオは、知恵と勇気を使いジェペット爺さんを助けて脱出する。こうした精神的な成長が認められて、晴れて最後は人間の子供になれるのである。

 何となく「親の言う事を聞かない悪い子は酷い目に遭い、言う事を聞く良い子にはご褒美がある」といった単純な話のように思っていたが、実はそうではなかったのである(今さら気づいたのかもしれない)。子供用のお話であり、子供がいい子になるようにという教育的配慮がなされているとしても、人は誰でも白紙の状態からスタートするという事を、実は描いている。初めはこおろぎの警告を聞かない悪い子なのではなく、経験がないので判断基準となる正しい道がわからないのである。

 人は誰でも親に叱られていつの間にやら「正しい道」を覚えていく。学校には行かなければいけないし、先生の話はきちんと聞かないといけない。そして何よりも、途中で黙って学校を出てはいけないと学ぶ。そうしたことを教えられなければ、誰もがピノッキオと同じ行動を取るに違いない。人間には高度に発達した脳があるから、動物にはできない高度な学習をすることができる。学校に行くのもその一つ。そして経験からさまざまな事を学ぶ。そこには人間の悪意もある。

 騙されて悔しい思いをした人は、自分も誰かを騙してやろうと思うかもしれない。しかし、モラルが高い社会であれば、それは社会的な制裁を受けるから、それが自制に繋がる。そうでない社会は、「騙した者勝ち」の社会になってしまう。幸い我が国は前者である。そして騙された経験は学習として残り、(同じパターンで)二度と騙される事はなくなる。キツネとネコに再び遭遇したピノッキオも、今度はその甘言に耳を貸さずにその場を立ち去る。学習経験のあるなしではかくも大きな違いとなる。

 親は(白紙の心の)子供にあれこれと価値観を植え付けて育てる。子供はその価値観の中で育つ(あるいはその価値観に反発してかもしれない)。少し大きくなれば、他の大人や先生やあるいは童話などからも影響を受けるだろう。このピノッキオの物語も、子供は「言う事を聞かないピノッキオが酷い目に遭う」という風なメッセージで受け取るかもしれない(私もそうだったように思う)。そして「良い子にしていれば最後にいい結果が待っている」と。大人としては、正しいメッセージを子供に伝える義務があるのである。

 さらに物語の舞台となっているイタリアの田舎の町は貧しい町である。ピノッキオを騙したキツネとネコも食べていくのにカツカツで、人を騙して何とか食い扶持を確保していたと見ることもできる。貧しくとも悪の道に走らずに踏みとどまる人もいることを考えると、弱い存在なのかもしれない。嘘をつくと鼻が伸びるというのも、子供達には良い教育なのかもしれない。だが、大きくなるにつれて「嘘をついてはいけない」というメッセージも雲散霧消してしまう。童話の効果も結局、素直な子供時代限定なのかもしれない。

 できれば我が家の子供たちがまだ小さかった頃に一緒に観たかった映画である。良く知ったストーリーだったからかもしれないが、映画を観ながら余計なことをあれこれと考えてしまった。たまにはこういう映画鑑賞もいいかもしれないと思うのである・・・



【本日の読書】
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2024年1月15日月曜日

働く目的

 人は何のために働くのか。その理由は人それぞれだが、共通しているのは「生きるため」。すなわち、「お金を稼ぐため」である。動物は餌を獲る。肉食動物は獲物を狩るが、食べて満足すればあとは自由気ままに過ごす。人間もまずは食べることが生存に絶対必要な条件であり、食べられなければ必死になるが、満腹になれば満足して自由気ままに過ごす(あるいは次の食糧確保の準備をするかもしれない)。次の食べ物の心配がなくなれば、動物も人間も自由気ままに過ごす。つまり「余暇(レジャー)」である。生きる目的は食べるためか、余暇を楽しく過ごすためか、は人によるのかもしれない。

 人間は社会を築き、貨幣制度を構築し、今は働いてお金を稼ぐ事がすなわち生きる事である。必要なお金を稼ぐためには必死に働くし、ある程度余裕ができればその関心は「余暇」に向かう。世の中にはその日暮らしの人もいれば、ダブルワークを必死でこなすシングルマザーの人もいるが、たいていの人はそこそこ余裕を持ち、「余暇」に関心を移すのだろう。あるいは「余暇」のために必要最低限だけ働くという人もいるだろう。生きる目的が「生存」という社会は発展度が低く、「余暇」という社会ほど発展したゆとりある社会だとも言える。

 我々の国は発展したゆとりある社会であり、働く目的も「生きる」という本質に近いところではなく、「余暇」に比重を移している。かく言う私も、住宅ローンはまだまだ残っており(居住確保)、まだまだ子供の養育・教育が必要であり(生存)、家族を含めて生活を維持しなければならないのはもちろんであるが、余暇に比重を乗せるゆとりもある。そうなると、ただ働くのではなく、より楽しく働きたいと思うようになっている。働くことと余暇が一致している人は幸せだろうと思う。

 仕事も余暇にできればいいが、そうでなくてもより効率的に、つまり「より多く」稼げれば、それは余暇の拡大へと繋がる。生きるためとは言え、「辛い仕事」より「楽しい仕事」がいいに決まっている。では「楽しい仕事」に就くにはどうしたらいいのだろうか。私の場合は、楽しい仕事に就くより就いた仕事を楽しむ方が自分に向いていると思う。そして現在はそれがうまくいっている。今の仕事はとても楽しい。

 楽しい理由は簡単で、自分で思う通りに仕事がコントロールできるからである。これが言われた事をやるだけとなると、楽しみはぐっと減るだろう。それはそうだが、誰もが初めからそうできるわけではない。初めは言われたことをこなすことからスタートする。そこからどう抜け出せるかはやり方次第である。少なくとも言われた事だけをこなしているだけだと、いつまでもその状態を脱する事はできないかもしれない。

 今の会社に猛烈な指示待ち族のベテラン社員がいる。頼んだ仕事はきちんとやってくれるが、頼まれない仕事は見事にしない。たとえ時間が空いていても、である。私であれば、手が空けば何かできることはないかと見まわし、できそうであれば「やってもいいか」と許可をもらい自分の仕事にしてしまう。やろうと思えば我が総務部にはいくらでも仕事はある。長年未整理の棚の整理だってできる。だが、言わなければ決して自分からはやらない。そういう人には、こちらも徹底して指示すればいいのであるが、ただ残念だなと思う。

 言われた事だけやっていれば楽でいいと思う。よけいな事をすれば手間もかかるし、同じお金をもらうなら仕事は少ない方がいいだろう。ただ、指示する側としては、そういう人に重要な仕事を任せたいとは思わない。私もその人にお願いするのは基本的に「作業」である。責任のある仕事を任せることはない。年齢的にも「もういいや」と思っているのかもしれないが、私なら単なる作業員ではつまらなくて仕方がないと思う。

 現代社会はゆとりある社会。仕事も生存のためだけに必死にこなすものではなく、レジャー化しようと思えばできる。どうせ働くなら(働かざるを得ないなら)、生存のためではなく、余暇のために働きたいし、余暇も兼ねて働きたいと思う。自ら仕事を探し(増やし)、いつの間にかその職場では「なくてはならない人」になれば、いつまでもいてほしいと思われるだろうし、もっと重要な仕事をやって欲しいとなるだろうし、いつしか指示する側にまわり、自分の仕事をコントロールできようになるだろう。会社を動かせるようになればさらに仕事は面白くなる。

 何のために働くのか。生活のためでもあるがむしろ働くことがレジャーである。問われれば今はそう答えたいと思うのである・・・

นิธิ วีระสันติによるPixabayからの画像



【今週の読書】
  勉強が一番、簡単でした――読んだら誰でも勉強したくなる奇跡の物語 - チャン・スンス, 吉川 南  哲学がわかる 哲学の方法 - ティモシー・ウィリアムソン, 廣瀬 覚






2024年1月11日木曜日

論語雑感 述而篇第七(その26)

 論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感

【原文】

子釣而不綱弋不射宿

【読み下し】

し子釣つり而て綱はへなはせ不ず、弋いぐるみし而て宿いこふを射い不ず。

【訳】

先師は釣りはされたが、綱(はえなわ)はつかわれなかった。また矢ぐるみで鳥をとられることはあったが、ねぐらの鳥を射たれることはなかった。

『論語』全文・現代語訳

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 「釣りはしたが、網は使わなかった」とは、1匹1匹を釣るがまとめて網で捕るという事をしなかったということだろうか。また、「ねぐらの鳥を射たれることはなかった」とは、鳥を矢で射る事はしても、巣にいるところは狙わなかったという事なのだろう。前者は、「食べるのに必要なだけを捕った」ということで、後者は「卑怯な振る舞まいをしなかった」あるいは「安易な方法を取らなかった」ということなのだろうかと考えてみる。単なる現代語訳で2,500年前の時代も言語も違う古典の真意を探るのは難しいと感じているが、この言葉もまた然りである。


 釣りに関して、「必要なだけを捕る」という事であれば、実に共感するところである。私も一時釣りにハマっていた父に連れられて海釣りをした事がある。しかし、自分がそれにハマるという事はなかった。子供の頃、近所に釣り堀があって、友達に誘われて行った事があるが、それもまたしかり。やりたいとも思わず、結局見ているだけであった。なぜに釣りに興味を持てなかったのか、考えてみるとたぶん「無駄な殺生」が嫌だったんだろうと思う。


 社会人になって間もなくの事、新人歓迎会という事で、八王子の山奥に釣り&バーベキューイベントに連れて行かれたことがある。そこでマス釣りを楽しんだのであるが、私は歓迎される新人であるにもかかわらず、釣り竿を持つことはしなかった。それは何となく「無駄な殺生」が嫌だという感覚が働いたものである。釣った魚はその場で焼いてみんなで食べたが、終わってみれば食べられることもなく捨てられた魚が山と残っていた。今でもそれを思い出すと心が痛むのである。みんな食べる事を考えず、釣り上げることだけを楽しんだのである。


 鳥に関しては、巣にいる鳥は射やすいのだろうが、親鳥を射れば小鳥が生きていけなくなるという意味もあるのかもしれない。いずれにせよ、孔子は「必要なだけ」捕るという考えだったのだろうと推察される。当時は趣味で釣りや狩猟をしていたのではなく、自分が生きていくための糧を得るためだっただろうと思う。それゆえに、自分が生きていくのに「必要なだけ」捕るという考えを述べた言葉ではないかと思う


 翻って現代では、生きていくために漁(猟)をする人たちもいるが、大半の人はそうではない。今や釣りはレジャーである(さすがに狩猟はそうはいかない)。町に出れば釣具屋のチェーンもあるくらいフィッシングはレジャー化している。私の新人歓迎会もそうであった。子供が小さい頃、マス攫みをやれるところに遊びに行った事がある。小さな囲いでマスを追い回して素手で捕まえるのである。子供にはちょうどいいレジャーだった。そのあと、それを焼いて食べるのであるが、1匹だけだったので子供が食べて終わりである。私の心が痛むこともなかった。


 釣り好きな人を責めるつもりはない。自分で獲ってさばいて食べるのが好きという人もいるし、釣る行為だけを楽しむ「キャッチアンドリリース」なんてのもある。ただ、個人的には「趣味で」殺生をしたいとは思わないので、これまでのように、またこれからも私が趣味で釣りをすることはないだろう。かと言ってベジタリアン、ビーガンを気取るつもりもないので、食べることを否定するものではない。必要なだけ、買って食べるだけである。


 我が国は食べ物がたくさん捨てられる国である。個人的に何とかできるものではないが、せめてせっかくの命をいただくのだから、「必要なだけ」は心掛けておきたいものである。それは孔子の精神と通じるものではないかとも思う。そういう心掛けは大事にしたいと思うのである・・・



Khalid MehmoodによるPixabayからの画像

【本日の読書】

シンクロニシティ 科学と非科学の間に――画期的な科学の歴史書。 - ポール・ハルパーン(Paul Halpern), 権田敦司 勉強が一番、簡単でした――読んだら誰でも勉強したくなる奇跡の物語 - チャン・スンス, 吉川 南





2024年1月8日月曜日

格差社会は悪なのか

 近年、日本経済の低迷に伴って、「格差社会」という言葉が使われている。確かに、人は本来「平等」であるべきであり、格差はよくないと思う。そういうイメージから「格差社会」は問題であり、解消すべきものだと何となく思う。されど、なぜそんな「格差社会」になるのだろうかと考えてみる。近年、日本経済が低迷し、企業は業績を維持するために社員の給料を抑え、下請けに対する価格を抑制したり、海外へ生産拠点を移動したりしてきた。その結果、正社員になれない非正規社員が増加し、所得に階層が生まれている。

 かつては一億総中流と言われたが、今や中間層が減少し、上か下かという感じになってきているのだろう。下になってしまうと、なかなか上へ行くのは困難であろう事は想像に難くない。では、そうした「格差」は本当に問題なのだろうかと思う。世のお母さん方は、子供に勉強させ、いい学校に入れ、いい会社に就職させようとする。それが良いか悪いかは別として、そこそこの会社に入れればまずまずの収入を得られる。「下」の定義が年収で言えばどのくらいなのかはわからないが、それほど生活苦にはならない程度には稼げるだろう。

 「下」の定義としては、一つは契約社員という人たちがいるだろう。雇用は不安定だし、収入も少ない非正規社員は、確かに大変だろうと思う。政府も政策的に契約社員に代表される非正規雇用の人たちを正規雇用に切り替えた会社を優遇したりしている。では、どういう人たちがそういう非正規雇用に甘んじているのだろうか。身の回りにそういう人がいないから何とも言えないが、少なくともそれなりに学校を出て就職した人たちではないわけである。そういう「ルートから外れた人たち」であろうと想像される。

 では、それはどういう人たちか。勉強を嫌って大学へ行かなかったとか。大学へ行かなくても、高校や専門学校を卒業して就職した人たちは違うだろうから、就職すらまともにせず、アルバイトのままとか、ニートとか。さらに就職しても辞めてしまって、きちんとして転職もしなかったという人たちがそうかもしれない。女性はまだまだ不利だから、一旦退職してしまったシングルマザーなんかはそうかもしれない。いろいろと人によって事情はあると思うが、一つ言えるのは、みんなその人の「選択の結果」なのではないかという事である。

 我が国では、今のところ生まれによって差別されるという事はない。中には虐待などでまともに育ててもらえなかった子供もいるかもしれないが、それがすべてではないだろう。我が国では、本人が努力すればそれなりの地位を確保できる環境にはあるのではないかという気がする。つまり、格差というのは「努力の差」、「選択の結果」なのではないかと思うのである。それなりに真剣に仕事に取り組めば、何らかの成果は上がるだろうし、アルバイトでも働き方いかんで正社員に引き上げてもらえる事もあるだろう。我が国では人種差別もないし、努力次第でいくらでも安定は手に入れられるように思う。

 我が社でも、なるべく自分の仕事は少なくしようとしているとしか思えない指示待ち族のおじさんがいる。一方、ある若手の女性社員は細やかな気遣いで、頼んだ仕事にプラスαの結果を出してくれている。2人の仕事に対するスタンスは対照的で、おじさんは定年退職して65歳までの契約社員になったが、この春2人の給料は逆転する。おじさんもかつては役員経験者であるが、その仕事ぶりから一期でお役御免となり、契約社員に格下げとなっている。これも本人の努力(が足りなかった)の結果であり、そういう働き方を「選択した結果」であると思う。

 大学へ進学するのも、普通に就職するのも、そしてそのままきちんと働き続けるのも、多かれ少なかれ本人の努力の結果であり、選択の結果と言える。中には勤めていた会社が倒産してしまったというケースもあるかもしれないが、それなりの成果が残せている人であればそれなりの転職もできるだろう。ある程度の収入格差は仕方がないが、問題となるような格差が本当にあるのかは疑問に思う。努力あるいは選択の結果としての格差は問題視すべき格差ではない。むしろ、そういう努力と選択の結果に「格差」がつくのは当然とも言える。

 格差社会を問題視するのは構わないが、本当に努力していて、それでも不可抗力でついてしまう格差を問題視すべきではないかと思う。資本主義は競争社会である。人を押し退ける競争がいいとは思わないが、指示待ち族が脱落するのはやむを得まい。選択を間違えての脱落も仕方あるまい。昔は指示待ち族でも通用したが今はもう通用しない。そういう時代としての格差社会なら仕方あるまい。格差社会を問題視する前に、どういう人たちが底辺に落ちてしまっているのか。本当に問題のある格差なのだろうかと思うのである・・・


MariaによるPixabayからの画像







2024年1月3日水曜日

2024新春雑感

 新しい年が始まった。年末年始は7連休なのであるが、例によって7日間は矢の如く過ぎていく。今年は長男が大学受験ということもあり、妻も帰省せずに家にこもった7日間。私はと言えば、年末2日間と年始2日間を実家で過ごす。大掃除らしきことを手伝ったり、年始の用意を手伝ったり。かつてのように実家に帰れば上げ膳据え膳というわけにはいかなくなった。両親も齢86となり、体も思うように動かせなくなり、家の中も乱雑になりがちである。同居できたら良かったと思うが、そこは不肖の息子の及ばぬところである。

 新しい年は、私にとっては還暦となる節目の年。還暦と言っても、長生きの時代、かつてほどありがいものでもないが、それでもなんとか暮らしていけるのは感謝である。これから悠々自適というのであればよいが、まだまだスピードダウンするわけにはいかない。住宅ローンはまだ10年残っているし、弟のために新たに作った借金もある。トラック競技で言えば第4コーナーを曲がったところだろうか、ゴールまでラストスパートが残っている。その後、ウィニングランができるかどうかがこれからにかかっている。

 元旦は1人、近所の氏神様に初詣に行く。毎年の恒例行事である。神様の前で首を垂れるのも下手をすると年に一回であるが、それでも1年の初めの挨拶として欠かせないと考えている。思えば日本の神道は実に素晴らしいと思う。教義などないから、信徒に義務を果たすこともない。八百万の神々は、自分だけを信仰せよと強制することもない。「キリスト教徒でなければ人にあらず」と信仰を強制した血塗られた歴史もなく、「聖戦(ジハード)」の名のもとに殺人を正当化することもない。だからこそ安心して首を垂れることができるのである。

 妻と子供たちはのんびりと寝坊を楽しみ、お雑煮を食べてから、夕方おっとりと初詣に出かけて行った。私のように「元旦の最初の行事として参拝する」という考え方とは違う。それはそれで悪くはないが、こういう時、自分はどこまで家族に自分の考えを伝えるべきかとよく考える。家長として号令をかけ、強制的に起こして参拝するのか、家族に従って自分の考えを曲げるのか。「父の教え」を伝えるには前者だし、みんなの考えを尊重するなら後者である。多くの人が「親の教え」を後から振り返ったりする。嫌がられても押し通すべきなのか、嫌がられずに自分の考えを伝えることなく終わらせるのか、なかなか判断は難しい。

 毎年、1年間の目標となるキーワードを決めているが、今年は「もう一段高く」にしようと思う。まだまだペースダウンはできないが、一気に駆け上がるのも体力的に厳しいものがある。無理せず着実にステップアップしていけば、やがては眺めの良い景色に辿り着けるかもしれない。後ろを振り返るのはほどほどに、まだまだ顔を上げて一歩一歩高みを目指して行きたい。仕事でも会社の状況は楽観できる状態ではないし、社員みんなの生活もかかっているので真剣に取り組んでいきたいところである。

 膝の痛みは相変わらずで、早く試合に復帰したいが、まだ走れるかどうかもわからない。客観的に考えれば、年齢的にラグビーなどやるものではないと思うが、頭の中は20代のままであり、まだまだできると思ってしまう。実際、同年齢のおじさんたち相手ならまだまだできると思うが、まともに動けないと話は始まらない。老化に抵抗し、美容のためのアンチエイジングに力を注ぎたいなどとは思わないが、まだまだラグビーをやりたいというただその一心で、筋トレをしたり走ったりという努力は続けたいと思う。

 今年、娘は就職である。公務員を選んだのは娘らしい。働く上での心構えを伝えたい気もするが、難しいとも感じている。せめて2人でゆっくり話をする時間くらいは作りたいようにも思う。そして息子は大学受験。私立の難関を目指しているが、自分の経験を伝えることはできていない。それが必要なのか、それとも疎ましいだけなのかはわからないが、親父の経験を知ってほしい気もする。もしも万が一、浪人することになったら、どこかで自分の考えをしっかり伝える機会を作りたいと思う。

 スタートした2024年もあっという間に過ぎていくのだろう。年末に振り返った時に、「今年はこれをやった」というのをしっかり残したいと思う。映画もたくさん観たいし、NetflixやAmazonPrimeのドラマも観たい。本も読みたいし、自分の考えをブログに綴ることも続けたい。誰かに読んでもらうというより、後から自分で読み返すためだけに。週2回のペースを維持できれば100本くらいの雑感が溜まるだろう。それも自分自身の記録である。年末には今より一段高いところにいられるように、今年1年頑張って過ごしたいと思うのである・・・

Annette MeyerによるPixabayからの画像

【今週の読書】

  




2023年12月31日日曜日

2023年末雑感

 2023年も最後の1日となった。振り返れば365日、1日とて同じ日はなく、その1日1日が自分の人生を作っている。2年越しの裁判は和解という形で終わった。会社として借りていたお金の返金裁判を起こされ、結局全額返済させられた。たった1回返済が遅れただけで、次の月末には払うと告げていたのに裁判を起こされ、和解とは言え、全額返済させられたのだから負けに等しい。法律とは公平でもあり、冷たくもある。うまく利用した者が勝つとも言える。もう過ぎた事と諦めるしかない。

 裁判は元同僚たちにも支えられた。結果は驚くほど仕方ないと受け入れてもらえた。年末には忘年会にも声をかけてもらい、楽しいひと時を過ごした。元社長は恨まれた挙句、元社員たちとの人間関係を失った。本人はそんなものよりお金の方が大事なのだからいいのだろうが、価値観の違いというものは大きいものである。私としては、元社長には少なくとも一矢報いたし、元同僚たちとはこれからも年に何回か飲みに行ったりできるだろうし、それで良しと致したい。

 夏には息子の高校野球観戦に3度行った。炎天下の中であったが、両親も同行した。昔から高校野球は高校スポーツの中でも優遇されていたが、1回戦で駒沢球場、2回戦から神宮球場というのは贅沢である。ただ、親としてはありがたい。どこかの高校のグラウンドで立ち見となったら、高齢の両親はとても観戦できなかっただろう。3回戦でシード校に負けたが、1点差の接戦だったし、相手は結局甲子園に行ったし、十分だったと思う。親子ともどもいい思い出になったと思う。

 秋には伯父が亡くなった。突然の訃報で驚いたが、家族によると突然でもなかったらしい。コロナ禍で行くこともなかったので仕方がないが、伯父の時間は動いていたが、こちらから見た伯父の時間は止まったままだったのである。同い年の従兄弟が喪主を務め、私も弟と共に遺族側として葬儀を手伝った。いずれ伯母の時がくるし、その前に我が両親かもしれない。亡くなってから偲ぶのもいいが、生前に十分話をしておきたいと思う。父も急速にボケてきているから尚更である。

 年末には喪中葉書が例年より多く届いた。私の年代だとやはり親が亡くなったというのが多い。いずれみんなその時はやってくるわけであり、私と同年代の人の親ということは、みんなそれなりに長生きしていると言えるわけであり、それはそれでいい事だと思う。今年も一年を通じて毎週実家に通い、掃除と料理をした。料理も主菜と副菜の組み合わせとか、肉好きの父と肉を食べない母との嗜好の違い、高齢者向けの味付けの工夫と、ただ作ればいいというものではない難しさを味わっている。来年はもう少し腕を磨きたいと思う。

 順調だったのは仕事だろうか。会社の業績は目標未達であったが、M&Aに挑戦して成功させた。間違いなく自分がいなければできなかった事であり、会社の歴史に名前を刻んだという自覚を持てた。買収して子会社にした会社の役員にもなり、そこでの役員報酬をもらえることになって収入も増えた。その分、仕事は増えたが、収入増の対価であれば仕方がない。それに買収した会社にも社員がいる。みんながハッピーになれるようにしないといけない。本当の意味で成果に胸を張れるようになれるかどうかはこれからである。

 ラグビーではまたも秋の試合で膝が悪化してしまった。昨年同様、2ヶ月試合も練習もできず、復帰の予定は見えない。やはり頭の中とは違い、体は確実に老化しているのだろう。いつまでも同じようにラグビーをやり続けることはできないと思うが、自分よりも年上の人たちがまだまだやっているので、体に合わせてうまくやっていこうと思う。とは言え、体で覚えたラグビーを変えるのは難しいのも事実である。

 あと何時間かしたらまた新しい年を迎える。人の人生など壮大な宇宙の時の流れの中では、瞬きするよりも短い時間かもしれないが、これも一つの区切りである。ずっと続く長い道でも、途中にいろいろと区切りがあった方が道中の変化になっていいと思う。今年もいい年だったかと問われれば、幸福より不幸が少なかったという意味ではいい年だったと思う。また、次の一年もそう思えるように過ごしたいと思う。何はともあれ、健康で一年を終えられることは何より。感謝の気持ちと共に2023年を見送りたいと思うのである・・・

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【今週の読書】

 







2023年12月28日木曜日

論語雑感 述而篇第七(その25)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。

【原文】

子曰、「聖人、吾弗得而見之矣。得見君子者、斯可矣。」子曰、「善人、吾弗得而見之矣。得見有恒者、斯可矣。亡而爲有、虛而爲盈、約而爲泰、難乎有恒矣。」

【読み下し】

子し曰いはく、聖人ひじりは吾われ得え而て之これを見み弗ざる矣なり。君子くんしなる者ものを見みるを得える者もの、斯かかるは可むべ矣なり。子し曰いはく、善よる人ひとは吾われ得え而て之これを見み弗ざる矣なり。恒つね有ある者ものを見みるを得える者もの、斯かかるは可むべ矣なり。亡なくし而て有ありと爲なし、虛むなしくし而て盈みてりと爲なし、約つづまり而て泰やすらかなりと爲なす、難かたき乎かな恒つね有あり矣なりこと。

【訳】

先師がいわれた。

「今の時代に聖人の出現は到底のぞめないので、せめて君子といわれるほどの人に会えたら、私は満足だ。」

またいわれた。

「今の時代に善人に会える見込は到底ないので、せめてうそのない人にでも会えたら、結構だと思うのだが、それもなかなかむずかしい。無いものをあるように、からっぽなものを充実しているように、また行きづまっていながら気楽そうに見せかけるのが、この頃のはやりだが、そういう人がうそのない人間になるのは、容易なことではないね。」

『論語』全文・現代語訳

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 聖人君子という言葉はよく使われるが、なかなか実在の人物にはお目にかかれない。その理由は、1つには身近なところにそのような聖人君子がいない(したがって会えない)という事があり、もう1つには身近な人だと欠点も見えるため聖人君子とは言えないという事もあるかもしれない。考えてみれば欠点のない人などいないわけであり、そもそも聖人君子とはどんな人物なのかというと非常に曖昧である。もちろん、「欠点はあるけれども立派な人」はかなりいるだろう。そう考えると、聖人君子な人物などいるのだろうかと思ってしまう。

 

 欠点も愛嬌のあるものならいいかもしれないが、愛嬌のある欠点て何だろうと考えると難しい。若い頃、一緒に働いた人で、後輩の面倒見はよく、業務知識も豊富でお客さんへの対応なども見習うべき点が多い先輩がいた。昼間はとてもいい方だったが、酒を飲むと豹変して大変だった。いわゆる絡み酒で、それだけですべての長所を消してしまっていたと言っても過言ではない。あまり出世していなかったのもその欠点のせいかもしれない。たった1つの欠点がすべてダメにしていたと言える。


 そう考えると、欠点1つもバカにできないものがある。私なども家に帰れば妻から小言の嵐を浴びせかけられる。たぶん妻からは欠点だらけに見られているのだろう。友人知人を見渡してみても欠点のない人間はいないが、少ない人間はいる。そう考えると、むしろ欠点が少ない、あるいは気にならない程度の人物が「君子」なのかもしれない。それに「人のいい奴」ならそこそこ数は増える。孔子の定義はよくわからないが、善人と言ってもいいと思う。


 しかし、その善人も「どこから見ても」という人はいないかもしれない。かく言う私も「部分的」には善人のところもあると思う。「部分的」とは、当然相手によって態度を変えるからである。嫌いな奴にいい顔するほど私は人間ができていない。嫌いな奴はめったにいないが(なぜならそんな奴とは友達にはならないから)、そういう相手には冷たく接する。自分を裏切った人間に対しては躊躇なく報復する。ただ、心を許す友達には徹底して善意を尽くす。たぶん、「いい奴」だと思われていると思う。


 そう考えると、相手もまた同様かもしれず、相手に善意で接してもらいたいと思えば、こちらから先に善意で接する必要があるかもしれない。その人物が善人かどうか、それはその人がどういう人物かという事ももちろんあるが、一方で(その人物に接する)自分がどうなのかという問題もあるかもしれない。相手を善人たらしめるのは、もしかしたら自分なのかもしれない。


 世の中に嘘をつかない人間などおそらくいない。嘘には善意のうそと悪意の嘘があると思う。相手に心配をかけまいと気丈に振る舞うのは善意の嘘であり、善意の噓は噓ではあるが責めるのも酷である。弟が被害に遭ったような詐欺などは悪意の嘘であり、これは問題外である。それでは善意の嘘ならいいのかと言えばそこは判断が難しい。相手のことを考えてのものだとしても相手にとってそれがいいかどうかはわからない。


 ちょっと前、会社の若い女性社員が精神的に不安定になり休職するかどうかという時、私は実家の両親(特に母親)に話はしたかと問うた。その社員は案の定、「心配かけるのでしていない」と答えた。それに対し、私は話をしろと諭した。それは私自身親の立場であり、親であれば当然娘が困難な状況にあれば助けたいと思うだろうと考えたからである。親に話せば心配するだろう。だが、それが親であり、親は知らずに心配しないのと、知って心配するのとどちらがいいかと言えば誰もが後者を選ぶだろう。心配はしても「何かあれば相談してくる娘」という安心感は与えられると話したのである。


 いろいろな嘘はあると思うが、やはり究極的に「相手に嘘をつかせない」というのが一番ではないかと思う。嘘のない人を求める気持ちはわかるが、「嘘をつかせない自分」になるのも大事ではないかと思う。「類は友を呼ぶ」ではないが、聖人君子・善人と付き合いたければまず自分の人間力を高めるところから始めないといけないように思う。悪意の嘘は「あいつには通じない」と思わせることが大事であり、心から信頼してもらえれば善意の嘘もないかもしれない。


 相手に求めるのではなく、自分の中にそれを求めるようにしたいと思うのである・・・

 

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【今週の読書】


 






2023年12月27日水曜日

被害に遭う前に

 昨年から今年にかけて、随分とお金が動いた年であった。前職の退職に際してまとまったお金を手にしたが、弟が詐欺被害に遭い、弟に貸したお金が戻らなくなった。さらに前職の社長との裁判で、和解とはいうものの実質的な敗訴でさらに支払いを余儀なくされ、結局手にしたお金はマイナスになる有様である。幸い、仕事では(妻には内緒の)収入が確保できたが、マイナス分を取り戻すにはかなりかかりそうである。

 それにしても、弟の詐欺被害は影響が大きい。親も私もかなりの損失を被った。親がオレオレ詐欺に引っかからないように何度も注意していたが、まさか弟が詐欺に遭って連鎖被害に遭うとは予想もしていなかった。私もおかしいとは思いつつ、何度も弟にはよく調べろと言いつつ、本格的に我が事として動いたのは自分も貸せなくなってからだった。弟という安心感と、困っているなら助けなければという思いからだが、もう少し早く動くべきであった。

 なぜ人を騙してお金を手に入れようとするのか、と問うてみても仕方のないこと。それぞれにみなもっともな理由はあるのだろう。困窮してどうにもならなくなって犯罪行為に走る者もいれば、ただ単に楽して金儲けがしたいと思うのかもしれない。悪いことだとわからずにやる人はいないだろう。悪いとわかっていてもやるわけであるから、単に「悪いことをするのはやめましょう」と言って解決するものでもない。結局のところ、被害に遭わないようにするしかない。

 どんな人が被害に遭うのかと言えば、一つは正直な人であり、一つは欲張りな人であろう。その昔、『銀河鉄道999』という漫画に善人だけの星が出てきた。善人だけの星なんて良い星だとは思うが、メーテルは鉄郎に教えるのである。人間は悪の心があるから相手の悪を見破れるのだと。それがなければ、相手の言葉をすべて信じてしまい、簡単に騙されるのだと。オレオレ詐欺に引っかかるお年寄りもみんな善人なのだろう。孫が困っていれば、何をさておき助けなきゃと思ってしまうのだろう。

 弟の場合は、欲をかいた結果である。フィリピンの友人に誘われてリゾート地を購入。その時はささいな金額で、弟も万が一にも損してもいいと考えて投資したそうである。それが政府による収用の対象になったと説明され、必要な費用だと説明して少しずつ送金していき、そろそろいい加減にしてほしいと思い始めたところで、今やめると投資した分が無駄になると説明され、もったいないからと注ぎ込んでいったそうである。外国の話でもあり、日本ではおかしな話も仕方ないのかと思わされたところもある。

 途中、弟は親と私にフィリピンで買った別荘が10倍の価値になったと得意気に説明し、それを聞いた私も羨ましいと思ったものである(もっとも、私には基本的に現地を簡単に見に行けないところの土地には手を出さないという信念がある)。弟もおかしいと思って現地にいったが、相手は友人に頼んで金融機関や政府機関の人になりすましてもらうという手の込んだ芸当も披露したらしい。

 結局のところ、昔から「上手い話にはウラがある」という類のものであり、後から騙されたと怒ってみても仕方がない。私は私で、もう少し早く一緒になって手を打っていれば良かったと反省しているが、その分、弟には文句を言うこともなく、積極的に後始末に協力している。何せ数千万円の被害であり、破産寸前で自宅も失う瀬戸際にある弟をさらに鞭打つのも憚られたところである。まぁ、将来の相続時に返してもらうことにしている。

 ライプニッツによれば、悪は人間の不完全性に因由しており、悪は単なる完全性の欠如に過ぎないと言う。悪はかえって宇宙全体が善であることを悟らせるのに貢献しているのだとか。悪があることを嘆いてみても仕方がないことは確かである。それよりもやはり自衛が必要なのだろう。騙されるのを完全に防ぐのは難しい。私もいつ巧妙な手段の詐欺に引っかからないとも限らない。その際、防御手段としてはお金を出すルールを決めておくぐらいのことだろうと思う。

 この先も悪はなくならない。詐欺もしかり。ただ、騙されたとしてもなるべく被害を小さくする工夫を普段からしておく事として、あとは普段の心構えで「欲の皮」型の詐欺には引っかからないようにはできるだろう。引っかかるとしても「人助け」型にしたいところである。それは何より善人である証拠であるし、それならば恥ではないと思う。私も弟にお金を貸した事自体は後悔していない。それは何より他ならぬ弟の頼みであったし、おそらく今後も頼まれれば助けるだろう(と言ってもお金はもうないが)。今回の件で兄弟仲も悪くなっていない。そこは誇りたいと思う。

 「騙すより騙されろ」と言う気はないが、盾としての「悪の心」をしっかりと構え、欲の皮は弛ませておこうとは思う。騙されるにしても騙され方と被害の抑え方はしっかりと持っておきたい。そんな武装をした善人でありたいと思うのである・・・

Kevin SandersonによるPixabayからの画像
    【本日の読書】

   




2023年12月23日土曜日

正義とは

 今、帰りの電車中で『監禁依存症』という小説を読んでいる。その中で登場人物の1人が元警察官の父に向って問う。「正義ってなんだろう?」と。その小説は、性暴力を受けた被害女性が加害者のやり手の弁護士によって泣く泣く示談に応じさせられていく様子が描かれる。冒頭の問いはその理不尽さに憤った登場人物の人の発したものである。小説はあくまでも小説であるが、その問いは突き詰めて考える価値のあるものである。しかし、実はその問い自体が前提を間違えていると思う。すなわち、それは「唯一絶対の正義」を前提にしているところである。

 この世に唯一絶対の正義があると思うから、そのような問いになるのである。理不尽な目に遭ったキリスト教徒が「この世に神はいるのか」と嘆くのと同じである。「そのようなものはない」と考えれば当然の帰結だとわかる。そもそも「正義とは何に対する正義か」と考えれば、それは実は「自分に対する正義」なのである。小説の中では被害者の立場から正義を問う。それでいけば、被害者は救済され、加害者は罰に苦しむべきなのである。しかし、実は加害者にも加害者の(身勝手なとは言え)正義があるのである。

 私も前職では請われて入社してから社長に成り代わって赤字会社を立て直し、業績を向上させた。しかし、ある日突然、社長は会社を売却して引退を宣言した。私を含めて役職員は全員解雇。一応、再就職先は紹介してくれたものの、条件は大幅に悪化、退職金もなしとされた。我々はその理不尽さに怒りを覚えたが、社長からすれば自分は会社のオーナーであり、会社を売却するのは自由、退職金の規定も整備されておらず、払わなくても法的に問題はない。「何が悪いのか」と問われれば、倫理的な問題以外は何もない。そういう「正義」に基づいて動いていたのである。

 世界中から非難されるロシアにもロシアの正義がある。ウクライナがNATOに加盟すれば、国境にアメリカの核ミサイルが配備されることになる。そんな事は認められないと思うのは、アメリカがまさにキューバ危機で反応したのと同じである。そしてそんなロシアを弱体化させたいアメリカが、まさにそんな意図をもってウクライナを支援し、戦争の長期化に繋がっている。どちらが正義かという事を断言することができないのは、事実上ロシアを支持する国がかなりあることからも明らかである。

 突然、侵攻して無抵抗の市民を虐殺し、人質まで取ったハマスも独自の正義で動いている。反撃したイスラエルも当然、反撃は「正義」の行動である。ハマスの行為はどこからどう見ても悪であるが、そもそもイスラエルに不当に占領されていると考え、それに対する正義の抵抗だと考えているのだろう。アルカイダも自らのテロ行為を「聖戦」と称している。テロを「聖戦」などと言われても、そんな正義などあるかと思う。しかし、当の本人からすればそれはあくまでも神の認めた正義の戦いなのである。その正義感を覆すことは難しい。

 我が社でも一部の役員と社長との間がギクシャクしている。それぞれ自分の正義の観点から意見を主張し、それが相互不信へと繋がっている。間に立つ私は、いかにしてそれを解消すべきかとずっと考えているが、そこはお互いの正義をあわせていくことだろうと思う。すなわち、「どちらの正義が正しいか」ではなく、そもそも「何が正義か」というところである。我々の場合、それは「会社が良くなること」であると思う。

 当該役員は自分なりの正義を持ってはいるが、それはどちらかと言えば「担当部の正義」であり、自分のやり方、考え方によるものである。まず「何が会社にとっていいことか」から始まり、社長の考えが間違っているなら「会社にとっての正義」に基づいて話をすればいいだけの事。相互不信と対立はそれでだいぶ解消するように思う。「同じ土俵で勝負する」「同じ言語で話す」と言ってもいいかもしれない。

 国際平和も「自分の正義」ではなく、「相手の正義」を考えれば自ずから解決策は見えてくると思う。アメリカには隙あらば自分に反抗する中露叩きをしようという国益追及を緩和すればいいし、パレスチナ問題も結局は「どうやって共存共栄を実現するか」を考えればいい。犯罪者の身勝手な正義については難しいところがあるが、犯罪でない限りでは、「相手にも正義がある」と考えれば冷静に解決策を考えられるかもしれない。

 私も前職の社長に対しては、関連会社をいただくという形で反撃し、裁判で事実上敗北してだいぶ取り戻されてしまったが、それでも仲間とともに最低限度と考えていただけの退職金は確保できた。己の正義にばかり囚われていたら、気持ちが滅入っていたと思う。「人は誰でも自分の人生の主人公」なのである。映画『コンフィデンスマン』は、詐欺師を英雄化している映画である。悪人を騙すことで正当化しているものの、詐欺は詐欺である。しかし、それでもそこに正義はあるのである。

 「正義は相対的なもので、唯一絶対的なものはない」と考えるのが正しい正義論であると思うのである・・・

「ソクラテスの死」Gordon JohnsonによるPixabayからの画像


【今週の読書】