2023年12月28日木曜日

論語雑感 述而篇第七(その25)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。

【原文】

子曰、「聖人、吾弗得而見之矣。得見君子者、斯可矣。」子曰、「善人、吾弗得而見之矣。得見有恒者、斯可矣。亡而爲有、虛而爲盈、約而爲泰、難乎有恒矣。」

【読み下し】

いはく、聖人ひじりわれこれなり君子くんしなるものるをものかかるはむべなりいはく、ひとわれこれなりつねものるをものかかるはむべなりくしりとし、むなしくしてりとし、つづまりやすらかなりとす、かたかなつねなりこと。

【訳】

先師がいわれた。

「今の時代に聖人の出現は到底のぞめないので、せめて君子といわれるほどの人に会えたら、私は満足だ。」

またいわれた。

「今の時代に善人に会える見込は到底ないので、せめてうそのない人にでも会えたら、結構だと思うのだが、それもなかなかむずかしい。無いものをあるように、からっぽなものを充実しているように、また行きづまっていながら気楽そうに見せかけるのが、この頃のはやりだが、そういう人がうそのない人間になるのは、容易なことではないね。」

『論語』全文・現代語訳

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 聖人君子という言葉はよく使われるが、なかなか実在の人物にはお目にかかれない。その理由は、1つには身近なところにそのような聖人君子がいない(したがって会えない)という事があり、もう1つには身近な人だと欠点も見えるため聖人君子とは言えないという事もあるかもしれない。考えてみれば欠点のない人などいないわけであり、そもそも聖人君子とはどんな人物なのかというと非常に曖昧である。もちろん、「欠点はあるけれども立派な人」はかなりいるだろう。そう考えると、聖人君子な人物などいるのだろうかと思ってしまう。

 

 欠点も愛嬌のあるものならいいかもしれないが、愛嬌のある欠点て何だろうと考えると難しい。若い頃、一緒に働いた人で、後輩の面倒見はよく、業務知識も豊富でお客さんへの対応なども見習うべき点が多い先輩がいた。昼間はとてもいい方だったが、酒を飲むと豹変して大変だった。いわゆる絡み酒で、それだけですべての長所を消してしまっていたと言っても過言ではない。あまり出世していなかったのもその欠点のせいかもしれない。たった1つの欠点がすべてダメにしていたと言える。


 そう考えると、欠点1つもバカにできないものがある。私なども家に帰れば妻から小言の嵐を浴びせかけられる。たぶん妻からは欠点だらけに見られているのだろう。友人知人を見渡してみても欠点のない人間はいないが、少ない人間はいる。そう考えると、むしろ欠点が少ない、あるいは気にならない程度の人物が「君子」なのかもしれない。それに「人のいい奴」ならそこそこ数は増える。孔子の定義はよくわからないが、善人と言ってもいいと思う。


 しかし、その善人も「どこから見ても」という人はいないかもしれない。かく言う私も「部分的」には善人のところもあると思う。「部分的」とは、当然相手によって態度を変えるからである。嫌いな奴にいい顔するほど私は人間ができていない。嫌いな奴はめったにいないが(なぜならそんな奴とは友達にはならないから)、そういう相手には冷たく接する。自分を裏切った人間に対しては躊躇なく報復する。ただ、心を許す友達には徹底して善意を尽くす。たぶん、「いい奴」だと思われていると思う。


 そう考えると、相手もまた同様かもしれず、相手に善意で接してもらいたいと思えば、こちらから先に善意で接する必要があるかもしれない。その人物が善人かどうか、それはその人がどういう人物かという事ももちろんあるが、一方で(その人物に接する)自分がどうなのかという問題もあるかもしれない。相手を善人たらしめるのは、もしかしたら自分なのかもしれない。


 世の中に嘘をつかない人間などおそらくいない。嘘には善意のうそと悪意の嘘があると思う。相手に心配をかけまいと気丈に振る舞うのは善意の嘘であり、善意の噓は噓ではあるが責めるのも酷である。弟が被害に遭ったような詐欺などは悪意の嘘であり、これは問題外である。それでは善意の嘘ならいいのかと言えばそこは判断が難しい。相手のことを考えてのものだとしても相手にとってそれがいいかどうかはわからない。


 ちょっと前、会社の若い女性社員が精神的に不安定になり休職するかどうかという時、私は実家の両親(特に母親)に話はしたかと問うた。その社員は案の定、「心配かけるのでしていない」と答えた。それに対し、私は話をしろと諭した。それは私自身親の立場であり、親であれば当然娘が困難な状況にあれば助けたいと思うだろうと考えたからである。親に話せば心配するだろう。だが、それが親であり、親は知らずに心配しないのと、知って心配するのとどちらがいいかと言えば誰もが後者を選ぶだろう。心配はしても「何かあれば相談してくる娘」という安心感は与えられると話したのである。


 いろいろな嘘はあると思うが、やはり究極的に「相手に嘘をつかせない」というのが一番ではないかと思う。嘘のない人を求める気持ちはわかるが、「嘘をつかせない自分」になるのも大事ではないかと思う。「類は友を呼ぶ」ではないが、聖人君子・善人と付き合いたければまず自分の人間力を高めるところから始めないといけないように思う。悪意の嘘は「あいつには通じない」と思わせることが大事であり、心から信頼してもらえれば善意の嘘もないかもしれない。


 相手に求めるのではなく、自分の中にそれを求めるようにしたいと思うのである・・・

 

Mohamed_hassanによるPixabayからの画像


【今週の読書】


 






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