2023年9月14日木曜日

最近、よく夢を見る

 最近、よく夢を見る。寝ているときに見る夢である。最近、『すばらしい人体 あなたの体をめぐる知的冒険』という本を読んで改めて人体の不思議さを思ったのであるが、夢というのも考えれば不思議なものだと思う。起きている時は、夢を見ることはない。夢想することはしばしばあるが、それは自分の意思で展開していく。しかし、寝ている時に見る夢はまったく展開が読めない。出てくる場面も見覚えのある所もあればない所もある。見覚えのない所はいったいどこからその風景が出てきたのかと不思議に思う。

 よく見る夢は、トイレを探す夢である。昔、よく遊びに行った御代田の従妹の家でトイレに入ろうとするが、見当たらない。よく見れば記憶にある御代田の家とはどこか違っている。トイレだと思って入ったが、そこは普通の部屋で、どこかトイレらしくない。なぜかと言えば便器がない。この便器がないというのも共通項で、デパートでトイレに入ったが便器がないというパターンもあったし、どこかの病院でトイレに入ったらやっぱり便器がないという事もあった。やむなくそれらしき所で用を足すのであるが、そのバツの悪さに目が覚めるというパターンが多い。

 フロイトによれば、夢の素材は記憶から引き出されていると言う。そしてそれは意識的なものではなく、無意識的なものだそうで、それゆえに見たこともない風景に思えるのかもしれない。一般的には夢とは潜在的な願望を充足させるものであるらしいが、トイレの夢は「トイレに行きたい」という願望であることは間違いない。実際、便器のない所で用を足すところでたいてい目が覚めるのだが、そこで実際にトイレに行くのである(いつか夢と現実の区別がつかなくなる日がくるのかもしれない・・・)。

 夢はたいてい、目が覚めた時に「夢を見ていた」と意識する(忘れてしまうこともかなり多いが)。つまり過去形なわけであるが、たまに「これは夢だ」と気づく場合もある。その時よくやるのが、空を飛ぶことである。夢なら空を飛べるだろうと飛んでみるのだが、なぜか背の高さほどのところを平泳ぎするというパターンが多い。はたから見たらかなり笑える「飛行」だと思う。それも潜在的な願望と言われればそうなのかもしれない。どうせならスーパーマンのようにさっとひとっ飛びしたいところだが、夢でもそれは叶わないらしい。

 そう言えば子供の頃、初夢に見たいものを枕の下に入れておいたらそれを夢で見られると聞いたことがあった。素直にさっそく試してみようと女性のヌードの絵を描いて枕の下に入れて寝た。下手くそな絵だったから若干の不安があったが、夢でしっかり見られればと願って寝た。すると、翌朝目が覚めてその夢を見られなかったとガッカリするという夢を見た。嘘ではなかったから文句は言えないが、なんだか騙されたような気がしてならなかった。今から思えば可愛いものである。

 20代半ばを過ぎてある女性を好きになった。人生で一番惚れた女性である。もちろん、アタックはしたのだが振り向いてもらえず、随分と切ない思いをした。その時耳にしたのが大瀧詠一の『夢でもし逢えたら』。「♬夢でもし逢えたら 素敵なことね あなたに逢えるまで 眠り続けたい🎶」という歌詞に心惹かれた。本当に夢で逢えるなら眠り続けたいと思った。ずいぶんと純情だったと思う。結局、思いは叶わなかったが、今でもたまにその女性の夢を見たりすると朝から幸せな気分になれる。いつか夢の中で思いが通じるだろうか。

 一方、夢には悪夢というものがある。幸いにして今まで悪夢なるものを見た事がない。悪夢のような現実ならあるが、ひょっとしたら悪夢という夢などないのかもしれないと思ってみたりする。ただ、これも子供のころ、怖い夢ならよく見た。それは足下の大地が大きく割れた所に立っている夢で、その深淵の淵に立ち、引き込まれそうな恐怖の夢である。特別、高所恐怖症というわけではないが、高い所に立てば誰でも怖いと思うだろう。今はもう見ることもないが、現実の世界の苦難からすれば、どうってことはない。

 アラビアのロレンスこと、トーマス・エドワード・ロレンスの言葉に、「両目を開いて夢をみる」というのがある。何かを目指している人には勇気を与える言葉である。夢という言葉には、どうも「現実的ではない」というイメージがある。現実的ではないことを夢想するのではなく、しっかり両目を開いて目指していこうという意味の言葉であり、いいなと思う。しかし、やっぱりかつて憧れた女性に両目を開いて会いに行くのは、妻子持ちとしては問題があり、やっぱり夢の中で逢うのがいいだろうし、そういう事もあると思う。ただ、不安に襲われている時にはこの言葉を思い出すといいかもしれないと思う。

 以前、読んだ漫画に見たい夢を見せてくれるというサービスが出てきた。事前にリクエストを受け(スーパーマンになるとか、海賊として活躍するとか)、それに沿った内容の物語を夢で体験させてくれるというものである。そういう技術が実現したら是非利用したいところだと思う。なんでも思い通りになったら、人生は楽しいだろう。今のところ、思い通りの夢を見ることはできないので、予想もできないストーリーを楽しむしかない。残念なのは、目が覚めて忘れてしまうこと。せっかく見たのに忘れてしまうのは何かもったいない気がする。せめて、見た夢くらい覚えていたいものである。

 夢を見る人体の仕組みはわからないが、そういう不思議な能力は悪くない。今度夢の中で、これは夢だと気づいたら、空中を泳ぐほかに何かもっとないか、なかなか現実ではできないことを試してみようかと思うのである・・・

Stefan KellerによるPixabayからの画像


【本日の読書】

  




2023年9月10日日曜日

論語雑感 述而篇第七(その18)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。

【原文】

葉公問孔子於子路、子路不對。子曰、「女*奚不曰、其爲人也、發憤忘食、樂以忘憂、不知老之將至*云爾。」

【読み下し】

葉公せふこう孔子こうしを子路しろ於に問とふ。子路しろ對こたへ不ず。子し曰いはく、女なんぢ何なんぞ曰いはは不ずる、其その人ひとと爲なり也や、憤いきどほりを發おこして食じきを忘わすれ、樂たのしんで以もつて憂うれひを忘わすれ、老おい之の至いたるを知しら不ず云壐しかじか。

【訳】
葉公しょうこうが先師のことを子路にたずねた。子路はこたえなかった。先師はそのことを知って、子路にいわれた。
「お前はなぜこういわなかったのか。学問に熱中して食事を忘れ、道を楽んで憂いを忘れ、そろそろ老境に入ろうとするのも知らないような人がらでございます、と。」

『論語』全文・現代語訳

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 孔子が子路に言ったのは、自分がどういう人間かということ。それは自分自身に対する自己評価ということになる。それが正しいかどうかと言うと、「評価は人が下したものが正しい」という野村監督の言葉からすれば「正しくない」という事になるが、自己評価は自己評価として、「正しい」、「正しくない」という観点とは別にして考えるのもいいと思う。自己評価とは、「自分はこういう人間である」という思いと、「こういう人間であると思われたい」という思いが入り混じっていると思う。そういう意味で、孔子の自己評価は興味深い。


 自分自身の自己評価はどうだろうと考えてみる。

仕事は楽しんでやるように意識し、ラグビーを愛して自ら汗を流し、人とつるむよりも孤独を選び、受けた恩は石に刻むが、仇は目には目をと考える。そんなところだろうか。あくまでも自己評価は自己評価であって、他人から見れば必ずしもそうではなく、野村監督の言葉によれば、正しくない評価である。それでもあくまでも自分自身はそう考えているというだけのことである。


 仕事はどんな仕事でも割と楽しんでやる方である。銀行員時代は、同僚などは不平不満に明け暮れ、嫌だ嫌だという者も多かったが、私はそれなりに楽しんでいた。もちろん、人間関係では嫌な上司に不満を持つ事もあったが、自分自身の仕事自体については楽しんでいた。それは不動産業界に移っても、今のシステム開発の会社に移っても同じである。前職では空き部屋になった部屋のルームクリーニングでは、率先してトイレ掃除を行なっていたのもその表れである。


 もともと人見知りのところがあり、他人とはどちらかというと常に距離を置きたい方である。今も会社の同僚とは会社を出たら距離を置きたいと考える。だから電車すら一本遅らせて一緒に乗らないようにしたりする。ラグビーなんてチームスポーツをやっているが、練習後にいつも飲みに行くメンバーを横目に、飲みに行くのは月に1回くらいだ。人のプレーをあれこれアドバイスするよりも、自分のプレーをひたすら磨いている。自分から友達を誘うということも滅多にない。


 お世話になった人には常に一目置く。自分から関係を蔑ろにするようなことは絶対にしない。ただし、裏切られれば必ず報復しないと気が済まない。自分から水に流せるほど寛大ではない。銀行を辞めた時、一緒にやろうと不動産業界に誘ってくれたのは高校の先輩である。以来、6年半にわたり、先輩が赤字まみれにしていた会社を立て直し、6期連続で利益を計上させるまでにした。任せてくれたというのも大きかったが、ほとんど自分で考えてやったので、それなりに自信にはなった。ただ、最後に裏切られた。


 冷静に考えてみれば、その先輩も持病もあって将来も不安だったのだろうから、会社を売却して売却代金を独り占めしたいという気持ちはわからなくもない。ただ、長年働いた社員を首にして、退職金もほとんど支払わないで億単位の金を独り占めするというのはいかがなものかと思う。社員からの要望もあり、私がなんとかしようと、子会社を合法的に手に入れた。自分のものを取られたという思いの先輩とは、現在法廷バトルが続いている。ただ黙って泣き寝入りするほど私も人間はできていない。


 他人と争って意思を通そうというよりも、合わないのなら袂を分つ方を選ぶ。夫婦関係も然り。子供に対しても然り。サラリーマンだから関係ないが、もし医者になっていたとしたら、子供に跡を継がせようなどとは思わなかっただろう。子供は子供で、自分の道を行けばいいと思う。だから息子にも無理にラグビーをやらせなかった。小さい頃からテレビで一緒に試合を観て洗脳しようとはしたが、結局、息子は野球を選んだ。それはそれでいいと思う。将来、娘が結婚相手を連れてきても、どんな相手でも反対はしないだろう。


 孔子は子路を叱ったが、私なら何も言わなかっただろう。子路が自分をどう評価しようがそれは子路の勝手であり、黙っていようと自分の思惑とは違うように言おうと、それは子路の自由だと考える。誹謗中傷でも文句は言わないだろう(ただし、そのあと距離を置くだけである、それも遠い距離を)。人は人、自分は自分。基本的にはそのスタンスであり、他人の考えは尊重するが、自分の考えを無理に合わせることはしない。それで自分が常に居心地良くいたいと考える。


 自己評価は自己評価。他人の評価の方が正しいと思うが、自分自身はこんな人間だという自己評価もある意味大切だと思う。何より自分のことは自分が一番よく知っている。自己評価をいかに高くするか、快適に生きていくためにはそれが必要だろうとも思う。これからもそんなことを大事にしていきたいと思うのである・・・


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【今週の読書】

  




2023年9月6日水曜日

インボイス制度に思う

 インボイス制度がいよいよ10月1日から始まる。経理を預かる私も税理士と打合せして準備を整えるとともに、子会社で取引のある個人事業者に対する説明等にも追われている。このインボイス制度であるが、一体何のためのものなのか。制度を導入するには必ず目的がある。その目的を理解していると制度に対する理解も一層深まる。その昔、銀行に勤務していた時、しばしば事務のルール変更があった。「何のための変更か」とよく考えた。大概、それはどこかの支店で事務事故か不祥事があったのだろうとわかるもので、ルール自体を考えればそれがどんな事故だったのか推測できたものであった。

 しかし、インボイス制度はそれがよくわからない。国税庁のホームページによると、以下のように説明されている。

【適格請求書(インボイス)とは】

売手が買手に対して、正確な適用税率や消費税額等を伝えるものです。具体的には、現行の「区分記載請求書」に「登録番号」、「適用税率」及び「消費税額等」の記載が追加された書類やデータをいいます。

【インボイス制度とは】

<売手側>

 売手である登録事業者は、買手である取引相手(課税事業者)から求められたときは、インボイスを交付しなければなりません(また、交付したインボイスの写しを保存しておく必要があります)。

<買手側>

 買手は仕入税額控除の適用を受けるために、原則として、取引相手(売手)である登録事業者から交付を受けたインボイスの保存等が必要となります。


 これだけだとわからない。しかし、実務の流れを追うとわかってくる。買手側に立つと、取引相手がインボイスを提示しない場合、支払う消費税は納める消費税から控除されない。企業は売上を上げた場合、消費税を受け取るが、それは後に税務署に納めるものである。その時、支払った消費税をそこから差し引きできる。しかし、インボイスのない取引相手に支払った消費税は差し引きできない。つまり、消費税を二重に支払うことになる。勢い、「インボイスのない相手には消費税を払わない」という選択をするしかない。


 一方、その取引相手は消費税を受け取れないので、実際に受け取る金額が減る。今まで10万円+消費税1万円の合計11万円受け取っていたところ、10万円しか受け取れなくなる。実は、消費税には、免税業者という者がいる。年間の売上が1,000万円未満の事業者は消費税の納税を免除されているのである。免除されているのは納税で、受け取ることはできる。11万円受け取っても1万円の納税が不要なのである。これが「益税」と呼ばれるもので、小規模事業者のメリットであった。インボイス制度がスタートすると、この益税がなくなることがわかる。


 このあたりまでくると、目的が見えてくる。つまり、これまで納税を免除されていた小規模事業者から消費税を巻き上げようというものだ。インボイスの登録事業者となれば受け取った消費税を納税しないといけない。つまり、11万円受け取っていたものを1万円納税しないといけない。どちらに転んでも、これからは10万円しかもらえなくなる。おそらく、「小規模事業者から消費税を徴収する」としたら、共産党を筆頭に大反対の声が起こることは間違いない。だからそれとは知らせず、うまくわかりにくい手続きに包んでごまかしたのだろうと推察される。


 なるほどこれは小規模事業者をターゲットにしたイジメかと思うが、そもそも益税があるのがおかしくて、消費税としてもらったのなら納めるべきだという理屈に立つのであればおかしなことではない。ただ、導入時に小規模事業者を免税とすることで、消費税導入のダメージを緩和するという目的があったような気もする。時間も経ったことだし、ここにきてそれをさりげなく撤廃しようと意図したのかもしれない。そしてさらに考えてみれば、買手からすると、これまで11万円払っていたものを10万円払えばよくなるので、メリットと言えばメリットである。小規模事業者が享受してきた益税が消失し、買手の下に戻ったということだろうか。


 いずれにせよ、支払う企業側から見れば、面倒な手続きはあるものの、経済的なデメリットはない。文句を言われたとしても、「お上の決めたことだから」と答えるしかない。これで税収がどのくらい増えるかは、どれだけ免税事業者が登録をするかによるのだろう。だとすれば、税務署は一生懸命登録を勧めることになるのは当然の流れだろう。それにしても、国家財政難の現在、国税局もあの手この手で税収を上げることに躍起になっている。そしてここまで手順を複雑化させて本来の目的を隠し、「机の下」で税収を増やす手法は凄いの一言である。


 これからも身の回りでルールが変わったりすることは多々あるだろう。そのすべてをというわけにはいかないが、せめて自分に関係のあるルール変更については、「その目的は何か」を読み取るようにしたいと思う。抵抗はできなくても、その意図はしっかりと理解したいと思うのである・・・


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【本日の読書】

  




2023年9月3日日曜日

最低賃金に思う

最低賃金「30年代半ばに1500円」 首相表明

 岸田文雄首相は31日、最低賃金について「2030年代半ばまでに全国平均が1500円となることを目指す」と表明した。最低賃金は10月から平均1004円に上がるものの、主要国に比べ水準はなお低い。物価高で消費は弱含んでおり、賃上げ持続で内需主導の成長を促す。

日本経済新聞2023.8.31

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 政府が2030年代半ばまでに最低賃金の全国平均を1,500円となることを目指すと表明し、それについてさまざまな意見が飛び交っている。例えば「X」では、ちきりん氏が、

《現時点での他の先進国の賃金より低い時給を10年後の達成目標にするなんて、本当に日本て余裕があるというか呑気というかスピード間の欠如した国というか、腰が抜けそう》

と酷評しているほか、批判の意見も多いようである。ちなみに、2023年1~4月の為替相場で各国の最低賃金を比較すると、日本は961円で最低レベル。ドイツ・フランス1,386円、イギリス1,131円で、日本は韓国の991円よりも下回っており、オーストラリアは7月1日から時給2,230円に引き上げているという。


 これに対してどう考えるべきなのであろうか。確かに単純比較ではわが国の賃金の低さが際立っている。ちきりん氏はかなり思考能力が高く、さまざまな情報を元に鋭い意見を表明していて、私も著書を何冊も読んでいるが、果たして公平に比較している意見なのだろうかと思う。例えば、各国の失業率を見ると、日本の2.80に対し、ドイツ3.57、フランス7.86、イギリス4.83、韓国3.64、オーストラリア5.12といずれも日本より高い。いくら最低賃金が高くても、そもそも就職できなかったら意味はない。


 それに気になるのは物価水準。例えば、ロンドンは物価が高いと言われている。ランチ代の平均は、日本の1,118円に対して2,511円だそうである。ニューヨークも似たようなものだと以前テレビでやっていたし、それがすべてとは言わないが、そういう物価も考慮に入れないと本当に日本の賃金が安いのかどうか(安いとしてもそれが問題なのか)は一概に言えないのではないかと思う。外国とだけではなく、国内でも同様。以前、長野県に住む従兄弟と話したが、東京は賃金が高いとは言え、生活コストの高さを考えるとどちらがいいかわからない。

 

 従兄弟は長野県の佐久市で働いている。給料は、たぶん私の方が高い。しかし、土地の単価は東京と佐久市とでは一桁違い、私は30坪の家に住んでいるが、従兄弟の家は100坪で住宅ローンもない。夜な夜なスナックに行くお小遣いも私よりある。まぁ、1,500円は全国平均だから、当然、東京の最低賃金は長野県よりも高いだろう。そこは目をつぶるとしても、賃金と物価とを併せて比較議論しないと公平な議論にはならない。私も給料が上がるのは嬉しいが、今なんとか苦心してワンコインに抑えているランチ代が上がるのならあまり意味はないと考える。


 また、中小企業経営の立場から考えると、ここも苦しいところがある。今年はまた最低賃金が引き上げられ、東京都は1,113円になるが、我が社の初任給の一部がこれに引っ掛かり、来年の専門学校卒の初任給の一部を引き上げざるを得なくなった。社員の給料はなるべく高くと思うが、それには収益力が伴わないといけない。社員を低賃金で働かせるつもりは毛頭ないが、毎年昇給を実施していくためには収益力も上げないといけない。しかし、経営環境は厳しく、それは簡単ではない。一つの指標だけを取り上げてどうこうという議論には違和感を禁じ得ない。


 私が銀行員になった1988年の初任給は確か128,000円だったが、2022年は205,000円である。失われた20年とか言われているが、初任給ほど物価は上がっていないような気がする。若手時代は土日の昼飯はよく吉野家の牛丼の大盛りを食べていたが、当時は確か500円だったように思う。なんとなく、ではあるが、賃金は「相対的に」それなりに伸びているように思えてならない。政府は最低賃金だけを目標にするのではなく、「物価の抑制と併せて」、最低賃金の引き上げを目標にしてもらいたいと思う。その時大事なのは、諸外国と比べてどうかという事ではなく、あくまで国内の生活実感としてどうかである。


 中小企業の経営の立場としては、もちろん、最低賃金以上の給料を払うのは当然の事。少しでも多くなるようにしていきたいところ。最低賃金はあくまで「最低」、業界平均を上回れるよう、頑張っていかないといけないと思うのである・・・



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【本日の読書】

  


2023年8月30日水曜日

議論に思う

 このところX(旧ツイッター)をチラホラ眺めている。見るだけでつぶやきはしないのだが、いろいろな考えが発信されていて興味深い。このところ福島の処理水の海洋放出を巡る意見に目が留まる。賛否両論を読んでいると(と言っても圧倒的に反対論が多い)、自分も考えてしまう。そもそも論として、「貯水の限界」があると思う。事故から12年半経っていて、その間ずっと冷却しているわけだから、その冷却水をずっと貯められるのも凄いと感じてしまう。しかし、それにも限界があるのは当然なわけで、海洋放水という出口に行きつくのも当然だと思う。海洋放水の議論はここから始まっていると理解している。

 反対論は、一言で言えば「危険な水を海洋に放水するな」ということになる。ここから、議論は「安全だ」、「安全でない」というものに終始している(ように思える)。一体、どちらなのか。「安全」なら海洋放水に何の問題もないのは当たり前で、そうでないなら海洋放水などするべきでない。そこが我々にはわからない。「トリチウム」という物質が焦点になっているようだが、これは安全基準の40分の1というレベルのようであり、それだけ聞けば問題はなさそうに思う。しかし、反対論の中には、トリチウム以外の物質についてチェックしていないという。

 それに対しては、トリチウム以外にもチェックしているという反論もあり、その範囲も考えると素人的にはついていけない。一つの指標として、外部の専門機関の意見はどうなのかと言えば、国際的な権威であるIAEAの査察を受けて「問題なし」とお墨付きを得たことを考えれば、やはり問題ないと思わざるを得ない。そもそももうこれ以上貯められないという問題をどう解決するのかが気になるところ。問題の出発点があるわけで、その解決策を提示しない反対論は意味がないと思う。個人的には「代替論のない反対論」は意見として認めたくないという思いがある。何らかの問題があって意見を出しているのであり、反対するならその問題をどう解決するかを提示しないといけない。

 では、この点はどうかというと、「敷地はある」というのがその代替論。どのくらいなのかまでは示されていないが、ではこれが代替論として相応しいかというと、「敷地がなくなるまで問題を先送りするのか」と考えてしまう。それはどうだろうと思う。敷地に余裕がなくなってから議論するよりも、早い段階で(と言っても12年半も経っているが)議論すべきであるのは言うまでもない。どちらが正しいのかという事に関しては、個人的にどちらの肩を持つつもりもなく、中立的に考えているが、そこにももしかしたらバイアスがあるのかもしれない。

 反対論の主張者の中には「何でも反対」の人がいる。政府のやることはとにかく間違っていて、間違ったことばかりであると思っているのだろう。共産党の人はその最たる人たちである。そういう「何でも反対」の人は、それだけで「またか」と思わされる。その点、「是々非々」で意見を言う人であれば、その都度「どんな意見なんだろう」と聞いてみたいと思わされる。それは逆に「何でも賛成」の人にも当てはまることで、やはり数は少ないが、政府のやることをいつも擁護する意見を主張している。

 「何でも反対」でも「何でも賛成」でも信頼性は薄い。「是々非々」の人に関しては、信頼性は高い。本当は是々非々の人の意見だけ聞ければいいのだが、そうもいかない。であれば、賛成反対それぞれの意見を聞いて、自分の中でバランスを取って考えるしかない。福島の処理水の海洋放出については、自分に直接何の利害関係もないので、比較的冷静・公平に考えられる。しかし、それでも何が正しいのか判断に迷うのは、結局のところ「安全か安全でないか」が我々にはよくわからないということに尽きる。そこで「安全」というのに100%を求めてはいけないが、もう少し分析結果を詳しく公開したらいいのではないかと思えてならない。

 こういう議論を読んでいると、自分が何かの立場を主張する時の参考になる。身近なところでは仕事での議論だが、常に是々非々で判断する態度と、事実に基づいて考えるスタンスは大事だとわかる。取締役会で、常にある役員の意見に否定的だったり、肯定的だったりではなく、是々非々で判断する。誰にでもわかりやすい事実を根拠として自分の考え方を説明する。そういう態度が、他の人の信頼を得る元になるように思う。感情論を振り回すのは論外だろう。

 たまにはXなどを除いて、そういう賛否論に触れて見るのも悪くはないと思うのである・・・

Susanne Jutzeler, Schweiz 🇨🇭 suju-fotoによるPixabayからの画像


【本日の読書】

  






2023年8月27日日曜日

論語雑感 述而篇第七(その17)

 論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。

【原文】

子所雅言、詩、書。執禮、皆雅言也。

【読み下し】

子しの雅いにしへに言いふ所ところは、詩し、書しよ。禮ゐやを執とる疾こゑ、皆みな雅いにしへの言ことのは也なり。

【訳】

先師が毎日語られることは、詩・書・執礼の三つである。この三つだけは実際毎日語られる。

『論語』全文・現代語訳

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 古典というのは、時間の経過によって言葉の意味も変わるので、本当にその真意が正しく伝わっているのか疑問に思うところがなきにしもあらず。今回の言葉も、「毎日語られる」という部分を「正しい発音で読まれた」と訳すものもある。どちらが正しいのか私にはわからないが、意味がだいぶ異なるので、孔子の真意を知りたいところである。


 古典がいいという人は多く、それを否定するつもりはないが、個人的にはあまり食指は動かない。なぜなら、歴史に残るような古典は大勢の人が読み、そして引用する。また、そのエッセンスを違う言葉で伝えたりする。そうした真理はいつの間にか様々な形で受け継がれる。ある考え方に関心したとして、著者に尊敬の念を抱いたが、実はそれはとっくに古典に出てきていたりするというのは少なくない。逆にさまざまな人の手を経て磨き上げられ、古典の原点の方が色褪せてしまったりもする。「古典だからいい」というわけでもない。


 もちろん、時代を経ても変わらない真理はある。現代でも十分通用する真理も多いから、「古典なんか」とは思わない。要は古典であろうがなかろうが、いいというものであれば分け隔てなく読んでみるというスタンスがいいと思う。論語を読んでいろいろと考えるが、中には現代に通じる真理だと思うものも多い。時代を経ても大事なことは変わらないという証でもあるが、論語を読んで「発見」するよりも「確認」することが多いのも事実である。それだけ世の中、自分の中にすでに浸透しているのである。


 それにしても思うのは、「言葉の変化」だろうか。論語の原文を読んでもそもそも中国語がわからないので、現代の中国語(正確には北京語なのだろうか)としても違和感がないのかはわからない。しかし、日本の古典は明らかに現代の日本語とは異なって読みにくい。例えば、「今は昔、竹取の翁という者ありけり。野山にまじりて竹を取りつつ、よろづのことに使いけり」(竹取物語)という具合であるが、なんとなく意味が理解できるのは同じ日本語だからだろう。これが漢文になると難易度が増すのは、そもそも日本語ではないからだろうと思う。


 娘が高校を卒業した時、使わなくなった高校の教科書を一部もらい受けた。国語(現代文、古文、漢文)、数学(I、II、A、B)、物理である。自分の興味の対象が見事に表れている。国語は現代文と古典についてはよく教科書を開いているが、漢文は躊躇している。というのも、やはり読みにくいというのがいちばんの理由である。古典も漢文もなぜ学校の授業で採り上げられるのだろうと考えてみるが、逆に授業でやらないと一生触れる機会もない。授業でやったから、「よくはわからないがなんとなくわかる」というレベルにあるのだろう。「教養」(それも本当に初歩的なレベルだ)としての意味は間違いなくある。


 今回の言葉であるが、本来の正しい訳がどちらなのかはわからないが、個人的には「語る」の方がしっくりくる。「正しい発音で読む」ことが、当時は正しいことだったのかもしれないが、現代ではあまり意味はない。外国人のような外国語訛りの発音ならダメで、綺麗な発音ならいいというのもおかしい。真理は発音には関係ないと思うからである。それこそ毎日語るような、口癖となっていることこそ、その人の考えに深く浸透している真理だと思う。そのあたりは自分なりに解釈して理解した方がいいように思う(例え孔子の本来の意図ではなかったとしても・・・)。


 温故知新を求めて論語は全文を少しずつ読むことに決めている。現代でも十分納得できるものもあれば、よくわからないものもある。時代も文化も違うので、すべてが納得というものではないだろうが、中には思わず膝を打つものもあるだろう。そう考えて、これはこれで最後まで続けたいと思うのである・・・


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【今週の読書】

 





2023年8月23日水曜日

芸は身を助く

 就職の時、会社選びで意識していたのは、「この会社に入れば安泰だ」という考えは持たないということであった。「どんなに一流企業でも将来はわからない」ということは当たり前であるが、当時は(今もだが)就職人気ランキングの上位企業がもてはやされていたが、そんなもので企業を選びたいとは思わなかった。それは当時、凋落が取りざたされていた企業が、かつては日本を代表する企業であったことを考えれば、学生でもわかることであった。そうして銀行に入ったが、入った時から「銀行が倒産しても他で生きていかれるようにしよう」と意識していた。「銀行が倒産する」ことなど当時は考えるのも愚かであったが、結局、当時入った銀行の名前はもうないことからもそれは間違った考えではなかった。


 そして意識していたのは、常に外に出る覚悟であった。いつ何時銀行を辞めてもいいようにと考え、当時の私は財務知識をしっかり身につけておこうと考えた。それも実際の実務を踏まえたものである。銀行員はいろいろな会社の決算書を扱うが、その決算書がどんな過程を経て作成されているかはほとんどわからない。数字の根拠がわかっているのといないのとでは企業分析も精度が違ってくる。粉飾決算だって見破るにはそういう理解がないとダメである(それでも見破るのは難しいのだが・・・)。


 そういう意識で身につけた財務知識は、その後大いに役に立ち、今でも自分の助けになっている。経理の仕分け実務などまったくやったことはないが、それでも現在部下の相談に乗り、指示を出せるのはその成果である(それは銀行員なら誰でもできることではないし、むしろできない人の方が多いと思う)。「芸は身を助く」というが、これは仕事でもラグビーでも真理である。さらに、企業再生の観点からいろいろな業績不振企業の相談に乗り、対応を考えていたのは、「いずれ役に立つかもしれない」という思いもあってだったが、それが現在中小企業の役員になって役立っている。


 そんな私だからか、会社の仲間にもそういう意識を持ってもらった方がいいと考えている。経理ならどこの会社にもある。女性であれば結婚して配偶者の転勤などで転職しないといけなくなるかもしれない。その時、「どんな会社にもある」経理ができれば、転職先のレパートリーは広がる。だから我が社の事務だけを覚えて満足するのではなく、資格であれば簿記2級くらいまでを取得するように勧めている。「雇われる力」を磨いておけば、いざという時に「身を助ける」かもしれないからである。


 「雇われる力」があれば、どこででも職を得ることができる。それは別に大企業に限るわけではない。むしろ、転職するのであれば企業規模は問わないくらいの意気込みがあっていいと思う。大企業で稼ぐ年収600万円と中小企業で稼ぐ600万円に違いはない(まぁ、退職金とか福利厚生とかを考えると必ずしも同じとは言い切れないだろうけど)。それならむしろ中小企業で700万円、800万円稼いだ方がいいと考えるべきなのではないかと思う。要は会社に頼らず、自立して雇われる事を意識するべきであると思う。


 世の母親たちは、我が子を一生懸命塾に通わせ、勉強させていい高校、いい大学と目指させる。その最終ゴールは「いい会社」であるが、名の通った大企業に就職すれば、親としては「目標達成」だろう。だが、当人にとってはそこがスタートである。長い社会人人生何があるかわからない。「入って安心」というわけにはいかない。無事、定年まで勤め上げれば御の字であるが、途中で船が沈没するかもしれない。その時、助けを待ってただ浮き輪につかまっているのではなく、自ら力強く泳いでいける力があった方がいいだろう。自分はそんな考え方でやってきた。


 そういうわけで、同じ部の若手には、「(簿記などの)資格を取れ」と常日頃言っている。どこで役に立つかわからないからと。幸い、我が社の総務部は人事も経理も総務も兼務する「総合総務部」と言える総務部である。「経理だから経理だけ」ではなく、人事の仕事でもやろうと思えばやれる。覚えておけば、どこかの中小企業の人事部で働けるかもしれない。目の前の仕事を一生懸命やるのは大切であるが、その目の前の仕事がどこか見知らぬ未来に繋がっているかもしれない。だから、ただ「やらされている」のではもったいない。会社のためではなく、「自分のため」にやりたいものである。


 新卒で大企業を目指すのは悪くない。むしろ、大企業の方が基本的なマナーや仕事の進め方や組織など、社会人としての基礎固めにはいいと思うし、何より「箔」がつく。転職して無名の中小企業に行ったとしても、「元〇〇出身」という「箔」があれば軽く見られないというメリットがある。会社は無名でも個人は大企業に採用されるほどだったという「箔」の効果は大きい。しかし、そこに一生しがみつくのではなく、何があっても困らないよう「牙」を研ぎ続ける努力は惜しむべきではない。


 大企業に入って「太った豚」で満足するよりも、「雇われる力」を磨き常に「やせた狼」であり続けたいと今も思うのである・・・


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【本日の読書】

  





2023年8月20日日曜日

夏休み

 今週は世間的にはお盆で、夏休みの最盛期だったと思う。私はと言えば、8月の第一週にすでに夏休みを取得し、今週は仕事であった。毎年、この時期には夏休みをずらして取っている。それはそもそも私が天邪鬼であるというのが大きいが、みんなが夏休みとあって、通勤電車は空いているし、日頃仕事の邪魔になるセールスの電話はほとんどかかってこないしと、働く上ではいい事づくしのこの時期に働かないでどうするという気持ちからである。今週改めてそれをつくづく実感したところである。


 ところで、今の会社では、あまりみんなが休まないのがちょっと気になっている。夏休みなのに休暇は2〜3日で、土日と絡めてもせいぜい5日程度の連休で終わらせてしまっている。制度的にはもっと取っても構わないし、私などは立場上積極的に1週間以上の連休を奨励している。5日間の休暇なら、月曜から金曜まで取得すれば土日と絡めて9連休になる。そういう休暇の取り方をすればいいのにと思うが、そういう取り方は少数派である。


 試しに何人かに聞いてみたところ、「好きな時に取りたい(9連休にはこだわらない)」という意見が多かった。まぁ、本人の希望通り取るのが一番なので、それがいいならそれが一番である。だが、中には「お客さんに迷惑がかかる(あるいはお客さんの要望)」というのもあったし、何となく「目に見えない空気」というのもあった。これはこれで改善するのが私の役目でもあるだろう。「空気」については、こまめにそういう声を拾うとともに、「会社としての9連休推奨」を声高に強調するしかない。「会社から言われている」というのが長期休暇取得の大きな後押しになるのは間違いない。


 「お客様の声」というのは、個人的には「交渉次第」という気がする。お客さんだって夏休みは取るわけである。そのあたりは「お互い様」な訳で、しっかりと上司も交えて話をすれば十分認められると思う。長年の習慣で、「そういうもの」という思い込みが強く、「休めない」と思い込んでしまっているだけのような気がする。まぁ、まだ私も今の会社は2年目であり、詳細に実情を掴んでいる訳ではないから、少しずつ時間をかけて「休む会社」にしていこうと思う。


 そんな風に私が思うのも、もともと「メリハリ」を大事にする考えだったし、欧米では1ヶ月くらい平気で休みを取ると聞いて羨ましいと思ったこともあり、基本的にはせめて1週間プラスαくらいはしっかり取りたいと思うからである。この時期、いつも思い出すのは、銀行に入って2年目の夏休みの事である。当時も交代で夏休みを取っていたが、それぞれ5日間の休暇を取ることになっていた。しかし、当時の上司は仕事が趣味と公言する人で、私が指定された夏休みは、「水曜から翌火曜日までの7日間」であった。「なんで?」というのが、最初の感想であった。


 当時も土日は休み。月曜から取れば9連休である。なのになぜわざわざ週の真ん中から取るのか。私だけではなく、同じ課の者全員がそうであった。すべて上司が「お前はここ」と有無を言わさず指定する形であった。そして自分は忙しいと言い、「俺がいないと仕事が回らない」と言い、休みにも関わらず、出てきて仕事をするような人であった。「休まないで働くのが美徳」という時代の考え方でもあったかもしれない。しかし、私は納得がいかない。指定されるのはまだいいとして、9連休は取りたい。こっそり先輩に訴えだが、みんな黙して語らずであった。


 先輩は頼りにならない。諦めたくはないし、支店長に直訴すべきほどものでもない。みんなから恐れられていた上司であったが、私は意を決して直接交渉した。「月曜日から取らせてくれ」と。最初は「引き継ぎの必要性」と言われ、ならば「夏ではなく他の時期に」と言うと、「1人違うことをするのか」と言わると「なぜ全員夏でないといけないのか」と反論し、最後は「わがままだと言うのはわかっているが、どうしても月曜日から取りたい」と主張した。上司も最後は根負けして渋々認めてくれた。あとで独身寮に帰り、先輩に伝えたら驚かれた。みんな我慢して諦めていた時代である。


 自分がそういう苦労をしたから、今の会社ではみんなに長く休んでもらいたいと思っている。もちろん、自分も連休を取る。今年は自分の都合で火曜日から月曜日までの7連休だったが、遠慮したのではなくあくまでも自分のスケジュールだからいい。そういう意識だったから、「(7〜9)連休でなくても良い」という意見には拍子抜けしてしまう。「特に予定もないから」と言う一部の若手には言ったのだが、「予定なら作ってこの時期にしかできない経験を積んだら」と思う。


 私も20代の独身の頃は、好きな海外旅行に行ったものである。海外勤務の先輩を訪ねて宿泊費を浮かし、香港、シンガポール、フィリピン等へ行ったのはいい経験であった。海外旅行でなくてもいいから、普段できないことをするというのも、特に独身者にとっては独身の特権として良いことである。特に必要ないという若手にも、そういう話をもっとしていきたいと思う。仕事ばかりで終わっていては、つまらない人間になりはしないか。そういう考えで、社内ではこれからも長期休暇の伝道師となりたいと思うのである・・・

 

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【今週の読書】





2023年8月16日水曜日

コップに半分の水

 先日、『127時間』という映画を観た。アメリカの峡谷で、岩に腕を挟まれて動けなくなった青年が、タイトル通り127時間かけて脱出する映画である。実話だそうであるが、その脱出劇はなかなかである。印象に残ったシーンの一つは、青年がなんとか岩場を脱出し、意識もうろうとしながら助けを求めて歩くうちに、とある水たまりを見つけるところである。何日も溜まっていたような汚い水たまりであったが、青年は意を決してその水を飲む。普通であれば誰も飲みはしないが、ほぼ5日間、水筒の水と最後は自分の尿まで飲んで渇きをしのいだ青年に迷いはなかったのだろう。


 究極的に渇けば、汚れた水でも飲むだろう。それが便器の水であってもだ。渇きだけでなく、食べ物でも飢えればゴミ箱に捨てられた食べ物でも食べるだろう。そしてそれは何にでも当てはまる。NETFLIXのドラマ『配達人』は、汚染された大気の地球で、「酸素」を配達するSFドラマである。映画『トータル・リコール』も酸素が有料となった未来社会を描いたSF映画であった。失って初めてその価値に気づくのはよくあることで、恵まれているとその価値に気づけなかったりするのは人の常であろう。人類がSDGsなどと言って環境に目覚めたのも、温暖化や環境汚染で自分たちの住む環境の大事さに気づいたからに他ならない。


 コップに半分の水が入っていて、それを指して「コップに水が半分“も”入っている」と考えるか、「コップに水が半分“しか”入っていない」と考えるかによって、物の見方、考え方は大きく異なるという話はいたるところで耳にする。これも似たようなもので、水の価値に気づいている人は「半分“も”」と考えるし、そうでない人は「半分“しか”」と考えるだろう。砂漠から命からがら逃れてきた人などは、あるいは近隣に汚れた水場しかなかったり、水場まで何キロもあったりすれば、きれいな水が「半分“も”」入ったコップはありがたいだろう。


 『シリアにて』という映画は、内戦下にあるシリアのあるマンションの一室に住む家族の話であった。外に出た住人が狙撃されて目の前で倒れているが助けにも行けない。水道は止まっているから、汲み置きした水を小分けして使う。「普通に」水を使った子供が母親に怒られるシーンが出てきたが、水の貴重さに気づいていない子供と気づいている母親との意識の違いである。物資に恵まれた日本にいると、あまりそうした飢餓感は感じられない。だから、そういう感覚は鈍りがちである。昨年春に地震があって、久しぶりに停電を体験したが、たまにはああいう経験も必要だと思ってみたりする。


 それは物資のみに限らず、勉強などもそうである。進学したくても家庭の事情等で進学できないとなれば、人は勉強したいという思いが強くなるだろう。何の苦労もなく進学するから授業をさぼったりできるのである。私は中卒の父親の話を聞いて育ったせいもあり、浪人中に予備校に行きながら適当に勉強している先輩などの姿を見て反発し、宅浪中は1日10時間のノルマを己に課して勉強した。そして大学へ入ってからは、授業はさぼって適当に単位だけを集めていた周囲にバカじゃないかと言われるほど講義に出席していた(その割に成績はイマイチだった)。私なりに恵まれた環境に甘えたくなかったのである。


 それは仕事にも当てはまる。いざ失業となると不安に駆られるものであり、毎月収入があるありがたさは収入を失わないとわからない。仕事に対して不満を言う前に、就活で苦労したり、失業したりした時のことを考えてみるといいと思う。もちろん、ブラックな会社は別であるが、不満を言う前にそれを改善する努力をしたり、考え方を変えたりすることができるのではないかと思う。自分が果たしてもらっている給料以上の働きをしているかは、一度己自身に問うてみる必要はあるだろう。少ないと不満に思う給料であっても、深刻な職探しよりはるかにマシだと思う。


 そうしたもののありがたみを意識する事は大事だが、それに捉われるのもよくないと思う。127時間かけて脱出した青年でなければ汚れた水など飲む事もないし、飲む必要もない。むしろ今はお金を払っても天然水などを飲む時代である。お値段の高いオーガニックな食品を求めたりもするし、だから成城石井のようなスーパーが利益を上げられるのであり、それはそれで悪くない。それらは人類の進歩であり、飽くなき満足感の追求こそが人類が発展してきた理由だろう。ありがたみを意識しつつ、「もっともっと」と求める探求心も必要だろうと思う。


 大事なのは、コップに「半分“も”」水が入っていると何時いかなる時もそのありがたみに感謝しつつ、「半分“しか”」入っていないとして残り半分を求めて努力する気持ちだろうと思う。私自身も今の恵まれた生活に感謝しつつ、まだまだ「半分“しか”」と考えて飽くなき改善努力を続けていきたいと思うのである・・・


AnjaによるPixabayからの画像

【本日の読書】