2023年8月27日日曜日

論語雑感 述而篇第七(その17)

 論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。

【原文】

子所雅言、詩、書。執禮、皆雅言也。

【読み下し】

いにしへにところは、しよゐやこゑみないにしへのことのはなり

【訳】

先師が毎日語られることは、詩・書・執礼の三つである。この三つだけは実際毎日語られる。

『論語』全文・現代語訳

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 古典というのは、時間の経過によって言葉の意味も変わるので、本当にその真意が正しく伝わっているのか疑問に思うところがなきにしもあらず。今回の言葉も、「毎日語られる」という部分を「正しい発音で読まれた」と訳すものもある。どちらが正しいのか私にはわからないが、意味がだいぶ異なるので、孔子の真意を知りたいところである。


 古典がいいという人は多く、それを否定するつもりはないが、個人的にはあまり食指は動かない。なぜなら、歴史に残るような古典は大勢の人が読み、そして引用する。また、そのエッセンスを違う言葉で伝えたりする。そうした真理はいつの間にか様々な形で受け継がれる。ある考え方に関心したとして、著者に尊敬の念を抱いたが、実はそれはとっくに古典に出てきていたりするというのは少なくない。逆にさまざまな人の手を経て磨き上げられ、古典の原点の方が色褪せてしまったりもする。「古典だからいい」というわけでもない。


 もちろん、時代を経ても変わらない真理はある。現代でも十分通用する真理も多いから、「古典なんか」とは思わない。要は古典であろうがなかろうが、いいというものであれば分け隔てなく読んでみるというスタンスがいいと思う。論語を読んでいろいろと考えるが、中には現代に通じる真理だと思うものも多い。時代を経ても大事なことは変わらないという証でもあるが、論語を読んで「発見」するよりも「確認」することが多いのも事実である。それだけ世の中、自分の中にすでに浸透しているのである。


 それにしても思うのは、「言葉の変化」だろうか。論語の原文を読んでもそもそも中国語がわからないので、現代の中国語(正確には北京語なのだろうか)としても違和感がないのかはわからない。しかし、日本の古典は明らかに現代の日本語とは異なって読みにくい。例えば、「今は昔、竹取の翁という者ありけり。野山にまじりて竹を取りつつ、よろづのことに使いけり」(竹取物語)という具合であるが、なんとなく意味が理解できるのは同じ日本語だからだろう。これが漢文になると難易度が増すのは、そもそも日本語ではないからだろうと思う。


 娘が高校を卒業した時、使わなくなった高校の教科書を一部もらい受けた。国語(現代文、古文、漢文)、数学(IIIAB)、物理である。自分の興味の対象が見事に表れている。国語は現代文と古典についてはよく教科書を開いているが、漢文は躊躇している。というのも、やはり読みにくいというのがいちばんの理由である。古典も漢文もなぜ学校の授業で採り上げられるのだろうと考えてみるが、逆に授業でやらないと一生触れる機会もない。授業でやったから、「よくはわからないがなんとなくわかる」というレベルにあるのだろう。「教養」(それも本当に初歩的なレベルだ)としての意味は間違いなくある。


 今回の言葉であるが、本来の正しい訳がどちらなのかはわからないが、個人的には「語る」の方がしっくりくる。「正しい発音で読む」ことが、当時は正しいことだったのかもしれないが、現代ではあまり意味はない。外国人のような外国語訛りの発音ならダメで、綺麗な発音ならいいというのもおかしい。真理は発音には関係ないと思うからである。それこそ毎日語るような、口癖となっていることこそ、その人の考えに深く浸透している真理だと思う。そのあたりは自分なりに解釈して理解した方がいいように思う(例え孔子の本来の意図ではなかったとしても・・・)。


 温故知新を求めて論語は全文を少しずつ読むことに決めている。現代でも十分納得できるものもあれば、よくわからないものもある。時代も文化も違うので、すべてが納得というものではないだろうが、中には思わず膝を打つものもあるだろう。そう考えて、これはこれで最後まで続けたいと思うのである・・・


PexelsによるPixabayからの画像

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