2023年8月13日日曜日

論語雑感 述而篇第七(その16)

 論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。

【原文】

子曰、「加我數年、五十以學、亦可以毋大過矣。」

【読み下し】

子し曰いはく、我われに數年すうねんを加くはへて、五十以もつて學まなばば、亦おほいに以もつて大過たいくわ毋なかる可べき矣なり。

【訳】

先師がいわれた。

「私がもう数年生き永らえて、五十になる頃まで易を学ぶことが出来たら、大きな過ちを犯さない人間になれるだろう。」

『論語』全文・現代語訳

************************************************************************************

 子供が進学する、あるいは就職するとなると、口を出す親はかなり多いと思う。それどころか、子供が小さいうちに習い事をさせたり塾に通わせたりする親も多い。それらは基本的に親の考えであるが、親の考えとは「子供の幸せ」である。つまりそれが子供の幸せになると考えて口を出すのである。もちろん、それが悪いわけではない。親は親なりに子供の幸せにとって必要だと考えているわけである。学歴で苦労した親なら、子供をいい学校に行かせようとする。苦労していなくても、自分がそれで成功しているなら尚更である。


 もちろん、子供も素直に親の言うことに従う子供ばかりではない。時には「親の決めた路線」に反発する子供もいる。そうなると、親子間の対立が生じ、こじれると親子関係の断絶ということにもなり得る。本来、子供の幸せを考えているはずが、こうなると本末転倒である。しかし、子供の希望が「ミュージシャン」だったりすると親の心配もよくわかる。成功すればいいが、成功できるのなんてほんの一握りの世界である。夢を見て路上で歌を歌っていたりすれば、親としては気が気でないだろう。


 なぜ、そんな親子間の断絶が発生するのだろうかと言うと、それはすなわち「考え方の相違」であり、なぜそんな考え方の相違が生じるのかと言うと、それは「経験(あるいは知識)の差」であろう。親は当然、子供よりも長く生きている。その間にはいろいろな「経験」をしている。小さな子供が沸たったやかんに平気で触ろうとして、親が慌てて止めるということがある。なぜかと言えば、親には沸騰したやかんを触れば火傷するという「知識」があるが、小さな子供にはない。その差である。


 そうした親心が理解できれば、子供も少しは対応が変わるだろうが、得てして子供は親に反抗しがちだったりするから対立に繋がったりする。本来、知識や経験は言葉で伝えることができるのだが、親も「○○しなさい」的な押し付けになったりすると伝わらない。このあたりは双方の責任でもあるが、実にもったいない。そんな風に思うのも、自分も年齢を経て様々な経験を通して学んでいるからであり、20代の頃にはそんな考えなど欠片もなかったのである。このあたりが難しい。


 説明しても相手が理解できないと、「お前はバカか」と毒付いていた(直接言葉にして出すかはまた年齢にもよったと思う)。しかし、今では「伝わらないのは伝え方が悪いせい」と考えるので、言い方を変えたり、事細かく丁寧に説明したりと工夫する。立場がある相手なら、へりくだるのはもちろん、「自分はこう考えるがどう思うか」というように自分の意見を押し付けるのではなく、相手に伺いを立てるような形にすることも多い。それも歳を経て身につけた知恵だと思う。


 今も会社でよく議論をする機会がある。同じ会社の取締役なのに、それに相応しい行動を取れない人がいる。その人がバカなのかと言えばそうではなく、ただ考え方の違いだけである。その考え方の違いだが、致命的なところがあり、なんとか考え方を変えてもらおうとしているが、なかなか難しい。人の考え方はそう簡単には変わらない。ただ、だからダメだというのではなく、どうしたらうまく伝えられるかと考え続けている。無理に押し付けても反発を招くだけである。


 そんな風に考えるのが、今は自然になっているが、たぶん20代の頃の自分が知ったら驚くかもしれない。争い事も、今はまず第一に避けることを考えるし、相手をバカなんじゃないかと思うこともずっと少ない。勝つことよりも負けないことの方が大事だと思うし、仕事でもラグビーでも自分よりも周りの人を生かすことを優先して考えている。いつの間にかそんな風に考えるようになっているのは、年齢を経て「知識と経験」を積んだ結果であると思う。


 人もただ歳を取るだけでは脳がない。それなりに「進化」する必要がある。もっとも、その「進化」の結果、保守的になって冒険的でなくなっている部分もあるかもしれない。それによって大きな失敗も少ないかもしれないが、大戦果も少ないかもしれない。若い頃は、失敗をしても取り戻す時間があるが、歳を取るとそうもいかない。考えてみれば、だから今の考え方でいいのかもしれないと思う。孔子のように易を学ぶのではなく、それが人生経験からの学びだとしたら、それはそれでいいのではないかと思うのである・・・

 

ElasticComputeFarmによるPixabayからの画像


【本日の読書】

 




2023年8月10日木曜日

スナック

 先週は夏休みであったが、ここ数年恒例となっている「温泉+墓参り+従兄弟との飲み」をまた今年も繰り返してきた。母親を連れての旅であり、「温泉+墓参り」は親孝行の意味が強い。個人的には1歳年上の従兄弟と飲むのが楽しみであった。母を交えて夕食を食べた後、従兄弟と2人で夜の街に繰り出す。長野県の佐久に住む従兄弟と行ったのは、とある田舎の駅近くにある従兄弟の行きつけのスナック。そこは昼は閑散とした寂しい田舎の駅前通りだが、夜ともなるとネオンが輝き出す。ずらりと並んだスナックの看板の灯る路地は、昔懐かしい昭和の香りが漂う。

 昨年、行ったスナックは残念ながら満席。昨年席についてくれた女の子(?)が、私の顔を覚えてくれていたのはちょっとした驚きであった。泣く泣く違う店へと行く。そこは私にとっては初めての店であるが、従兄弟は「顔」であった。あちこちに行きつけの店があるようで、一体、どれだけ通っているのかと思うほどである。席に着けば女の子(?)がボトルを出してきてくれて、つまみを置いてくれる。大概、つまみは乾き物なのであるが、奈良漬などの漬物も出してくれる。意外と美味しいのは、田舎だからだろうかと思ってみる。

 考えてみれば、若い頃はよくみんなでスナックに飲みに行ったものである。そこで飲んで歌っておしゃべりに興じる。女性陣も参加していたが、楽しいひと時であった。飲みに行くとなると、だいたいスナックだったと思う。そして考えてみれば、東京ではもう随分長いことスナックには行かなくなってしまった。年齢を経てくると、だんだん会社の仲間と飲みに行くのが億劫になってきたのと、大手町界隈にはスナックがなく(あったのかもしれないが目につかなかった)、行くのはもっぱら居酒屋であり、その後カラオケルームというパターンになっていった。

 そんなわけで、長野県の片田舎にある街のスナックは随分と懐かしい気がするのである。初めて行ったその店では、「女の子」と言っても孫がいそうなので年齢を聞くのも野暮というもので、ママなどは「この道50年」と豪語していた。最後に席についてくれたのは30代前半のようやく女の子と言える女性であった。従兄弟は酔いも手伝ってか、かつてファンであったというキャンディーズを熱唱。私も好きであったから、流れる映像もまた懐かしいものであった。「おじさんが好き」というその女の子は当然知らない。引退したのは生まれる前である。「おじさんが好きなら、覚えると人気が出るよ」と教えておいた。

 周りを見回せば、お客さんは白髪の「紳士」が多数を占めている。この道50年のママでもいいのだろう。1人で来ている人もいる。私もかつて行きつけの店を持って1人静かに飲みに行くのもいいかなと思ったが、今のところそんな行きつけの店ができそうな気はしない。家の近所でも探せばスナックぐらいはあると思うが、なんとなくいきなり1人で行くのには抵抗があるから、たぶんそんな店はできないような気もする。こうして夜な夜な飲み歩いている従兄弟がちょっと羨ましい気がした。

 楽しい時間はあっという間に終わり、お愛想となる。1人8,000円。焼酎ボトル1本と乾き物と漬物の飲み代にしては高いのもスナックならではだろう。そして従兄弟は代行で帰る。田舎は車社会。飲んだら帰りは代行が当たり前。そう言えば、若い頃はいつもタクシー帰りだった。終電の時間など気にもしなかった。結構散財できたのは、独身貴族だったことも大きい。今思い返してみても楽しかったと思う。この田舎町のスナックもまた来年、と思う。長野県は第二の故郷とだと思っている。来年もまた「里帰り」しようと思うのである・・・

user32212によるPixabayからの画像

【本日の読書】

  



2023年8月6日日曜日

自殺の法制化はできないものだろうか

 日本では毎年大勢の人が自殺している。以前はその数3万人を超えていたが、今はそれを下回っているそうである。それでも多いと思う。個人的にこれまで自殺などしようと思った事はないが、敬愛する祖父が自殺であった事もあり、自分もいつかそう思う日が来るかもしれないという思いはある。と言っても、いわゆる「世を儚んで」というのではなく、「もういいだろう」という満足感である。祖父も最後は癌を宣告され、「もういいだろう」と思ったのだと思う。そういう時、自分で自分の人生に終止符を打つのは悪くないと思う。

 しかし、日本では安楽死は認められていない。そこには「命は大切」という考え方があり、それはそれで悪くはない。しかし、「何がなんでも」というのは疑問である。人によっては、自ら命を断つという選択肢があってもいいと思う。それを他人が安易なヒューマニズムで一律反対するのはいかがかと思う。今は自ら死を選ぼうと思ったら、飛び降りるか飛び込むか、あるいは首を括るか、薬物をあおるか刃物を自らに突き立てるか等々、考えるだけで死にたくなくなってしまう方法しかない。もっと穏やかに、医師の処方で眠るようにして死ねたらいいのにと思う。

 そんな事を考えていたら、これって法制化して制度化できないだろうかとふと考えた。自殺は届出をして一定の手順を踏めば、安楽死させてくれるという制度である。まずは届出をする。しないで勝手に自殺すると、それは違法行為とされ、生命保険はおりず、場合によっては遺族が損害賠償責任を負うものとする。届出をしたものは合法行為とされ、生命保険もおりるし、遺族に本人が払い込んだ年金の一部を返金してもいいかもしれない。まずは入り口で、合法行為と違法行為とを分け、違法な自殺をしないように導くのである。

 届出をした後は、カウンセリングが義務付けられる。「なぜ自殺したいのか」を明らかにさせる。そこでたとえば借金苦のような場合であれば、弁護士等の専門家が相談に乗り(費用も無料が望ましい)、解決へと導く。自己破産等を活用すればうまく借金を整理することができるかもしれない。健康問題もカウンセリングによって解決できるものがあるかもしれない。特に精神疾患系は、有効のような気がする。死にたくなるほど思い詰めている人の話を聞いて、解決方法を一緒に考える機会を得るという意味では、結果的に自殺を防ぐことになるかもしれない。

 カウンセリングでも解決できなければ、一定期間の熟考期間を経て自殺を認める。それも仕方ない。人によっては生きるよりも死んで楽になった方がいいという人もいるだろう。それを助けもしない人が、ただ考えもせずに「死ぬのは良くない」と言って反対するのは無責任である。もしも、このような法制化が認められれば、年間の自殺者は今より減るだろうと思う。それによって飛び降りや飛び込みで迷惑を被る人も減るだろうし、世の中的には間違いなくいい結果になると思う。

 およそ自殺をしようとする人は、なんらかの「悩み」を抱えているのだと思う。そんな悩みを余さず受け止める機関があれば、すべてとは言わなくとも、一定数は解決できると思う。それで解決できないものであれば、そこは本人の苦しみを理解し、死を選択するサポートをしてあげる方が逆に人道的であると思う。特に不治の病に冒された人であれば、苦しまずに安楽死できるようにする事は必要だと個人的には強く思う。実際、世界的にはベルギー、オランダ、ルクセンブルク、スペイン、ポルトガルなどが既に安楽死を合法化している。

 私の祖父は明治の世に生まれ、2度の招集を経て生き残り、四男二女と八人の孫をこの世に残した。認知症になった祖母の介護をして見送り、長男の伯父に家督を譲り、齢89の時に癌で余命宣告を受けた。「もういいだろう」と思ったのだと思う。家族にすれば「もう少し」と思っただろう。もしもこういう制度があって、カウンセリングの結果、家族を交えて話し合うこととなったら、もう少しみんなが祖父と話をし、祖父も「延長」に応じたかもしれない。そしてみんなが祖父との時間をもっと持ち、いよいよとなればみんなに見守られて安楽死できたかもしれない。

 考えれば考えるほどいい制度だと思うが、反対論はかなり多いと思う。ただそれは、断言してもいいが、似非ヒューマニズムであろう。ただ「命は大事だから」という呪文を考えもせず唱えているだけだろう。命を大事にするということは、「死ななければいい」というものではない。より良い人生だからこそ、生きる価値があるのである。とは言え、自殺を禁止しているキリスト教のような宗教であれば一定の効果はあるだろうが、我が国にはそういう「歯止め」がない。ならば逆に「合法化」というアクロバチックな方法も一手ではあると思う。

 まぁ、こういう極端な制度もいいが、まずは自分が将来利用するかもしれないので、せめて安楽死の合法化から取り組んでもらいたいと切に思うのである・・・

Goran HorvatによるPixabayからの画像

【今週の読書】

 



2023年8月2日水曜日

死後の世界は存在するのか

『死は存在しない 最先端量子科学が示す新たな仮説』と言う本を読んだ。著者の田坂広志は、多数の著作があるが、原子力工学の博士号を持つ人物。そんな著者が「死後の世界」について語った一冊である。もともと私は、「人間は脳の活動によって思考しているのであり、脳の活動が止まれば思考も止まり、人間はそれでおしまい」という考えである。したがって死後の世界も霊魂も存在などしないと考えている。著者が「唯物論的思想」と呼ぶ考え方である。そう考える方が自然であり、違和感がない。

 そもそもなぜこの世に神や仏があり、霊魂の存在や死後の世界がまことしやかに語られるのかと言えば、それは人間の不安からきているのだと思う。「人間は死んだらどうなるのか」と問うても誰も答えられない。一度死んで死後の世界を見て来た人間がいない以上(臨死体験は除く)、それも仕方ない。そこで死後の世界を「考えた」わけである。「人間はどうやって生まれて来たのか」、「この世はどうやってできたのか」そんな疑問を太古の人たちは「神」を生み出して答えにしたのである。

 著者もそう考えていたらしい。しかし、「直感」「以心伝心」「予感」「予知」「シンクロニシティ」「コンステレーション」などの説明ができない出来事や、何より人類はまだ物質からどのように「意識」が生まれてくるのかを解明できていないという事実などを突き詰めていくと、「ゼロ・ポイント・フィールド」と呼ばれる場が量子真空の場に存在するのではないかという仮説をこの本で主張しているのである。『なぜ宇宙は存在するのか はじめての現代宇宙論』を読んだ時は、科学と宗教の違いが曖昧になってきているようにも感じたが、あまり合理的な考えに凝り固まるのも良くないのかもしれないと感じる。

 この本を読んで、著者の主張する仮説が本当かどうかは半信半疑(と言っても「疑」の方が強い)だが、この世にふしぎな現象があるのも事実。父からはよく父が体験したふしぎな話を聞かされてきたし、それをすべて笑い飛ばしたり、合理的な説明を加えることはできない。私自身はあまりそういう経験をしたことはないが、子供の頃、親戚が集まって甲子園の優勝校を当てる賭けをやった時、出場校の名前を眺めていてなぜか目を惹かれた2校が決勝に残ったという経験ならある。「第六感」とでもいうのであろうか。あの時は何故かこの2校がくると確信めいた閃きを得たのである。

 そのほかにも野球を見ていて、ホームランを打つような「予感」が当たることなどはよくあったが、著者はそれも「ゼロ・ポイント・フィールド」という場で説明する。なるほど、とは思うが、まだ半信半疑。しかし、なぜ人間が死後の世界があると考えるようになったのかと言えば、それはやはり「不安解消」だと思う。私も神は存在しないと考えているが、信じてはいる。神社にお参りに行き、首を垂れることによって安心感を得られるのであれば、それはそれで有意義であり、宗教の効能だと思う。自分の限られた知識の中で、「合理的でない」からと言って否定するのもおかしいだろう。

 確かに死後の世界があれば安心はする。体がなくなるだけで、心が存在し続けると考えられれば不安はなくなる。ただ、そこに映画館はないだろうし、本屋もないだろうし、ラグビーもできないだろう。そんな死後の世界があるからと言って安心するかと言えば、そんなことはない。つまらない世界のように思えてならない。著者は自我が消えて宇宙意識と一体になると語るが、不安や苦痛はなくともいい世界なのかどうかはわからない。著者の意見を否定するつもりはないが、不安や苦痛はあっても喜びや楽しみのある世界の方が圧倒的にいいように思う。

 人間は間違いなく死ぬのであり、私も残りの人生はたぶん長くても40年くらいだろう。いずれ行く世界ではあるだろうが、早く行きたいとは思わない。まだまだ観たい映画もあるし、読みたい本もある。ラグビーもやりたいし、今年のW杯も楽しみである。仕事は大変ではあるが、やり甲斐もあって楽しい。辛いことも困難もあるが、やっぱり今の現世をしっかりと楽しむ方がいい。死後の世界があろうがなかろうが、興味はあるがどうでもいい話。大事なのは現世であり、それがすべてである。生まれた意義は現世においてのみにあるのだろうと思う。そんな現世を最後まで楽しみたいと思うのである・・・

PexelsによるPixabayからの画像

【今週の読書】






2023年7月30日日曜日

論語雑感 述而篇第七(その15)

読んで感じ 論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。

【原文】

子曰、「飯蔬食、飮水、曲肱而枕之、樂亦在其中矣。不義而富且貴、於我如浮云。」

【読み下し】

子し曰いはく、蔬あらき食じきを飯くらひ、水みづを飮のみ、肱うでを曲まげ而て之これに枕まくらす、樂たのしみ亦また其その中うちに在ある矣なり。義ただしから不ずし而て富とみ且かつ貴たふときは、我われに於おいて浮うき云ぐもの如ごとし。

【訳】

先師がいわれた。

「玄米飯を冷水でかきこみ、肱を枕にして寝るような貧しい境涯でも、その中に楽みはあるものだ。不義によって得た富や位は、私にとっては浮雲のようなものだ。」

『論語』全文・現代語訳

************************************************************************************

 人にはいろいろな価値観がある。日本は儒教などの影響もあって、「商売は卑しいもの」「お金は汚いもの」という感覚がそれほどひどくはないものの、なんとなく我々の感覚の根底に残っている。もちろん、それらはいずれも「利用の仕方次第」であるが、それでも「私はお金が一番」などと言えば、あまり人には尊敬されないであろう。そう言えば、私の前職での社長は、「通帳のゼロが増えていくのが何より楽しみ」と公言していた。今にして思えばやはりそういう人物であったが、そういう人は尊敬という言葉とは縁がないだろうと思う。


 「不義によって得た富や位は、私にとっては浮雲のようなものだ。」という孔子の言葉は、本心で語っているなら当然人から尊敬を集めるだろう。前述の社長など、自分の力では黒字にできなかった会社を私以下の役職員の奮闘によって累積赤字を一掃できたのにも関わらず、史上最高益を達成した時に会社を売却し、売却資金はすべて独り占めし、社員は全員解雇して引退した。きっと今頃は億の金を手にし、悠々自適の引退ライフを送っているのだろう。まさに「不義によって得た富」であるが、本人はゼロを数えて満足しているのだろう。


 「そんなにしてまで金が欲しいか」というのは、我々庶民の僻みであり、本人にしてみれば「自分が持っていた権利を売って何が悪い」というのだろう。たぶん、「不義」などという感覚はないはずである。経営能力がなかったのは事実だが、そんな意識はかけらもなかっただろう。「部下に任せてやらせていた」という感覚であればそれが「経営能力」だと思っていたのだろう。人の感覚などは人それぞれであり、自分の感覚で正義を語ってもそれは所詮、独りよがりである。


 そう言えば以前、「清貧」なんて言葉が流行った。歌の文句でも「ボロは着てても心は錦」なんてのもあったし、「人生において大事なのは金ではない」というのは、誰もが否定しない事だろうと思う。だが、では「玄米飯を冷水でかきこみ、肱を枕にして寝るような貧しい境涯を送ってください」と言ったら、みんなどう思うだろうか。少なくとも私はごめん被りたいと思う。もちろん、例えば学生時代のような若い頃であればいいだろうが、来年は還暦などという年齢ともなればそうは言ってられない。


 「清貧」などは、はっきり言って今の私にしてみれば綺麗事にしか映らない。もしも目の前に「清貧」を説く者がいたら、「あなたは自分の子供に大学進学を諦めろと言えますか」と問うだろう。もちろん、価値観は人それぞれ。子供の進学よりも「玄米飯を冷水でかきこみ、肱を枕にして寝るような貧しい境涯に楽みがある」という価値観を否定するつもりはない。ただ、家族を持って責任が生じた身としては、なかなか真似のできない尊敬すべき価値観だと言える。


 もっとも、そういう責任をすべて果たした後は、そういう心境になることもあるかもしれない。もともと私はそれほど物欲があるわけではない。例えば車にしても高級車にはあまり興味をそそられない。むしろ今、「金に糸目をつけず好きな車を買っていい」と言われたら、迷わず買うのはトヨタのスープラ70である。若かりし頃、唯一欲しいと思った車だが、憧れのまま終わってしまったのである。フェラーリやBMW、レクサスなどこれまで欲しいなどと思った事はかけらもない。


 お金を否定するつもりはまるでない。「世の中には金で買うことができないものがある」という言葉は言い古されているが、私の好きな言葉は、「金で幸福を買うことはできないが、不幸を追い払う事はできる」というもの。特段、贅沢をしたいとは思わないが、家族を含めて不幸を追い払うことができるのは確かであり、そういう意味で人並み以上の金銭欲はある。どんな境遇でもその中に楽しみを見出す心掛けは必要であるが、私は清貧ではなく、お金のある境遇に楽しみを見出したいと思う。


 この孔子の言葉に強く賛同したいと思うのは、「不義によって得た富や位」に意味はないという部分だろう。金は欲しいが、人に不義を働いてまでとは思わない。その最低ラインは守りつつ、最低でも住宅ローンを払い終える70歳までは、今の給料をしっかり維持できるように働きたいと思うのである・・・

 

スープラ70
【本日の読書】
  






2023年7月27日木曜日

企業経営に大事なもの

 ♪車を売るならビッグモーター♪で有名なビッグモーターが揺れている。なんでも修理で預かった車に故意に傷をつけて保険を割り増し請求していたとか。常識で考えればとんでもない事であるが、経緯を見れば何年も遡ることができるみたいであり、常態化していたようである。なぜそんな悪質な行為が蔓延していたのかと言えば、それは経営からの「売上に対する圧力」だそうである。どこかで聞いたような話である。そしてトップはそれを「知らなかった」というのもまた然り。東芝で大問題になったのに、他山の石にはならなかったようである。

 企業が売上を重視するのは当然である。企業は成長し続けなければならない。と言うと反発心を持つ人もいるかもしれない。しかし、単純な話だが、そういう反発心を持つ人に対しては、「毎年給料が上がってほしいか?」と尋ねてみればよい。売上が上がらなければ、当然ながら給料だって上がらない。我が社でも人事面談でそう質問すれば100%の人が「上がってほしい」と答えるし、したがって企業が成長しなければならない必要性も理解してくれる。

 しかし、難しいのは簡単に成長できるものではないという事である。市場環境もあるし、競合もいる。企業はどこだって支払は低く抑えようとするし、それは自社の取引先も然り。そこを何とか上げていかないといけないのである。東芝もビッグモーターも法令やモラルに反してまで儲けろとトップが指示したわけではないのだろう(私は基本的に性善説の立場に立って考える)。ただ、儲けろという指示だけで、「どうやって」がなかったのだろうと想像できる。

 それにどうやらノルマを達成できないと降格人事もあったようで、降格となれば給料も下がる。家族持ちには大変だろう。「達成不可能なノルマを与え、できなければ降格」となれば、私も良心が咎めつつも不正に手を染めるかもしれない。現場で不正を働いた人を責めるのは酷なように思う。責めるべきは、そういう環境を作り出した幹部という事になる。「儲けろとは言ったが、不正をしてまでとは言っていない」というのは、負け犬より空しい遠吠えである。

 責められるべきは社長であり、トップのただ儲けろというだけの無能な指示をなんの疑問も持たずに下に下ろした取締役であり、その下の部長なりの現場までの責任者だろう。経営者であれば、東芝事件が起こった時に、「我が社は大丈夫か」という危機感を持たなければならない。取締役も然り。そして現場に近い管理職ほど、「無理なノルマ」だという事はわかるだろうから、そういう可能性も考えないといけない。おそらく、そういう正論を吐ける空気もなかったのだろう。

 最近は「心理的安全性の高い組織づくり」などということがもてはやされている。「こんなノルマ無理です」と言える環境も大事だし、上に立つ人間はそれに対し、「何としてでもやれ!」という根性論をぶつのではなく、「こうすればできるのではないか」という方法論で対処すべきであり、先頭に立って実行するリーダーシップが大事だし、それができないなら責任は上へ上へと行くべきである。つまり、ノルマ未達で降格させたなら、その直属の上司も降格すべきであり、その上の取締役、社長まで降格すべきなのである。そうでなければ人心は廃れ、組織は荒廃するだろう。

 上場企業であれば、成長を求められるのは当然であり、そのレベルも高いものが要求されるだろう。どういうレベルを目指すかは難しいが、少なくとも高過ぎもせず低過ぎもしない目標というのも難しいのは事実。簡単に手が届く目標はもちろん、「どう考えても無理」という目標を立ててもモチベーションは上がらない。ただ、「考えに考え、さらに考えてがむしゃらに実行したら目標達成できた」という事もあるから、一概に高過ぎる目標はダメとも言い難い。そこを見極めるのは難しい。

 1つ言えることは、「売上至上主義」ではダメだということ。それは言い換えれば「何をやっても売り上げを上げたら勝者」ということであり、何でもやるだろう。それがたとえ不正であっても。成果主義なども同様で、売上を求める一方で、モラルも維持するような風土も同時に育まなければならない。考えてみれば、「売上を上げろ」と言っているだけであれば、誰でも経営者になれる。自分が「誰でもなれる経営者」ではないと思いたいのであれば、ただ「売上を上げろ」だけではなく、その道筋も示さないといけない。

 我が社も年率15%アップの中期経営計画を立てている。そしてその筋道もきちんと示している。やる事は明確である。できなければ取締役の責任で、できなければボーナスも出ない(社員は出る)。当たり前だと思っていたが、どうやらビッグモーターよりは立派な経営陣だと胸を張れるのかもしれない。胸は張れてもボーナスが出ないのでは洒落にならない。妻にも白い目で見られてしまう。何とか頑張って業績目標を達成したいと思うのである・・・


3D Animation Production CompanyによるPixabayからの画像



【本日の読書】

 




2023年7月23日日曜日

争いごとを避ける

 ウクライナでの戦争は未だ収束の兆しを見せない。どちらにも負けられない事情があり、本来なら単独では勝ち目がないウクライナに欧米諸国が支援をしているためにウクライナにも抵抗力が生じて善戦している。戦争が長引けばそれだけ戦死傷者が増えるわけであり、欧米の支援は戦死傷者を増加させる原因となっているとも言える。それが良いのか悪いのか、判断は難しい。そもそも戦争などせずに話し合いで決着をつければ良いのであるが、まだまだ人類はそこまで高度に発達していない。

 個人間でも、時折朝の通勤電車、あるいはホームで揉めている人を見かける。たぶん、きっかけは当たったの当たらないのというくだらない事情だろう。ちょっと譲り合えば何事もなく済むことなのに、「なんだ!」と声を荒げて噛み付く。言われた方も頭を下げてやり過ごせば良いのだろうが、そうではないから勢い言い合いになる。流れによっては殴り合いということになる。そうなると、駅員さんや周りの人が間に入って収まるまで続く。当事者同士だけだと解決は難しい。

 学校でも会社の中でも、およそ人間関係のあるところは揉め事がつきもの。どこの誰かもわからない駅のホームと違って、学校や会社ではお互い身元は割れているので、多少はブレーキはかかるのだろうが、それでも小さな軋轢はある。ほんの些細な物の言い方だったり、良かれと思ってした事が真逆の効果を生むということもある。会社の中では上下関係があるので、弱い立場の者は自然と耐えることになる。学校では上下関係ではなく力関係だろうか。それがストレスになったり不登校になったりするのだろう。

 その昔の銀行の職場で、誰からも距離を置かれているお局さんがいた。仕事はできるが、融通が効かない。口調も冷たいし、頼み事をするなら他の女性社員に頼むという流れが出来上がっていたが、時折、そんな頼みを受けた女性社員がお局さんに怒られていたりするのも目にした。そんな煙たいお局さんだったが、私は平気で話しかけていた。何よりお互い仕事なので頼まざるを得ないものは頼むしかない。そしてお局さんもルールに沿った依頼ならやってくれる。意地悪していたわけではなく、決められた通りのルールに従っていただけなのである。

 要は、「そのルールをちょっとまけて」という事をしてくれないからみんなから不評だったわけで、その「ちょっと」が重なると大変なので、ベテランのお局さんは平気で断るが、若手の女性社員は断れない。そんな状況だったのである。なのでこちらもきちんとルールに従って依頼すればやってくれるのである。どちらがどうかは難しい。少しぐらい融通をきかすべきなのか、甘えずに仕事なのできちんとやるべきなのか。ただ言えることは、きちんとルール通りにやればお互い不快な思いをしなくて済むということであった。

 にも関わらず、「このくらいやれ」と力関係で従わせようとすれば当然軋轢が生じる。そんなことをしようものなら、お局さんは上司に言いつけるだろうし、事務的にはお局さんが正しいから上司も叱るわけにはいかない。「まぁ、まぁ」と取りなすのがせいぜいということになる。さすがに殴り合いになるような事はないが、どこかで調整力学が働き、どこかで誰かが我慢して表面上を取りなして事なきを得る。会社内ではあくまでも平和的解決が優先されるから、殴り合いになるのはほとんどない。

 国家間もそんな取りなしができればいいが、そうでなければ戦争になる。もっとも、さすがに近年は過去の戦争の反省から、すぐに戦争手段に訴えるという事は無くなってきている。ただ、ゼロではない。争いごとを力で解決する事は現代ではなかなか難しい。サラリーマンの喧嘩も殴り勝てばいいかと言うとそうではなく、警察沙汰になれば当然タダでは済まない。社会的なペナルティもあるし、下手をすれば傷害罪という前科がつくかもしれない。勝ってもその場はスッキリするかもしれないが、後で後悔することになるかもしれない。

 ウクライナの戦争も、どちらかが勝つというより、そのうち厭戦ムードが出て、どこかの国の仲裁で収まるのかもしれない。すぐにでもと思うが、それはある程度時間をかけなければそういう状況にならなかったりするものかもしれない。力による解決しかできないというのは情けない事なのだが、現実の世界ではそれがまだ罷り通っている。駅のホームでの喧嘩程度ならまだ良いのかもしれないが、国家間となると厄介である。我が国は平和憲法があると言っても、それはせいぜいアメリカの戦争に巻き込まれないための免罪符程度の効果しかない。

 人間の理性によってのみ争い事を解決できる時代がいつか訪れるのだろうか。いつかはなどと言っていても仕方がない。世界を変えるには、まず自分から。通勤電車ではなるべく譲り、会社では感情ではなく理性で話をし、家庭では忍の一字で、老いた両親と接する時は春のような心で対応し、争いごとを避け、穏やかな生活を送るように、まずは心がけようと思うのである・・・

Renan BrunによるPixabayからの画像

【本日の読書】

 




2023年7月20日木曜日

成果報酬

 仕事で採用を担当しているが(本業は財務なのだが)、求人の手法には苦労している。何せ売り手市場なのでなかなか採用に結びつかない。そんな我々の足元を見透かしてか、よく採用関係の業者から電話がかかってくる。ビズリーチ、デューダ、インディード等の大手からそれらを扱う中小まで様々である。しかし、基本的に我が社では「媒体」は利用していない。それには理由があって、過去にお金を払って利用したのに効果がなかったという経験があるからである。今利用しているのは、成果報酬の人材紹介である。

 媒体の場合、基本的にお金を払って所定の求人サイトを利用する。採用できてもできなくてもお金は払う。一方、人材紹介会社は、基本的に成果報酬である。すなわち、紹介して「採用されたら」年収に応じて手数料を払うというものである。こちらは基本的に採用できなければ費用は発生しない。その代わり、発生したとするとその費用は「媒体」より割高なのであるが、確実性だけは間違いがない。割安である事よりも確実性を重視しているのである。

 給料でも一定の高額になってくると成果報酬というところがある。給料は基本、企業の売上から支払われる。売上が充分あげられれば高額の給料も支払えるが、そうでなければ下手をすると赤字になる。したがって、高い給料を払うならその分、売上も上げてもらわないと困るというのは当然の理。外資系などでは多く採用されているようだが、特に金融機関などはビックリするような高給だったりする。その分、ハードなのだろうが、本人がいいのであればやりがいもあるのだろう。

 M&Aなども基本的に成果報酬だ。売りたいという希望の企業の情報を買いたいという企業に紹介する。うまくマッチングして成約すれば手数料が発生する。それも基本的に1千万円単位の高額の手数料である。さらに細かく言えば、基本契約締結時に20%、決済時に残金と分けるパターンも多い。これは途中で破談になるのを防ぐとともに、破談になったとしてもそこまでの手間賃はもらおうというものだろう。高くても、その内容を考えれば仕方がないと言える。

 給料が基本的に成果報酬になったらどうなるだろうか。ガムシャラに頑張る人は頑張るだろうし、成果が上げられない人は(薄給に)耐えきれなくなって辞めていくのかもしれない。かつてある外資系企業の人と一緒に働いたことがあるが、みんな2月の契約更改の時はドキドキしていた。その場で「契約しない」と言われれば、即時パソコンも使えなくなり、荷物をまとめて出ていかないといけないそうである。そのためかみんなよく働いていたし、よく勉強していたようである。そういうのも良いんじゃないかと漠然と思ったが、外資に転職を考えるまでには至らなかった(英語もそこまで出来なかったし・・・)。

 給料が定額だと安心して働けるということはある。「今日は疲れたからもういいか」というのも自由である。成果報酬よりも金額的には少なくなるが、何より安心感というのはある。ボーナスも言ってみれば成果報酬的なところがある。業績連動にしている企業などはそうなるだろう。我が社も業績連動で総額が決まり、その配分は個人の評価によるので、成果報酬と言えなくもない。まぁ、まったく定額だと段々と成果も劣ってくるのが人間というものだろうからこのくらいは良いのかもしれない。

 先の求人媒体も、基本的に最初に手数料を受け取って、「あとは頑張ってね」という感じだ。採用できてもできなくても手数料は戻ってこない。営業のセールストークも軽快であるが、「過去の成果」は紹介してくれるが、「未来の成果」は約束してくれない。こちらが求めるのは「成果」であるから、多少費用が高くとも、確実なる「成果」を求める立場としては求人媒体を利用する気にはなれない。もっとも、自社にもっと求人できる魅力があれば関係ないのであるから、なまじっか求人媒体だけが悪いとも言い切れない。

 不思議な事に、自分が払う立場だと成果報酬が良いと思うが、もらう立場だと嫌だなと思う。それは「成果が挙げられなかった場合」を考えてしまうからで、払う方ももらう方も考えてみれば、この「成果が挙げられなかった場合」を考えるから良い悪いとなるわけである。成果が確実に挙げられるとわかれば、給料だって成果報酬の方が良いし、求人は媒体の方が良いとなるのである。突き詰めれば、成果を挙げられるかというリスクに行き着くわけである。

 求人はともかく、今から成果報酬で働くかと問われたらどうだろうか。あまりお金のためにガムシャラに働きたくないというのは、還暦手前の年齢のせいと言えば言い訳になるのだろうか。それでもほどほどにもらいながら、成果は成果で全力で追求して行くというのが個人的には心地良い。そういうスタンスでしっかり働きたいと思うのである・・・

3D Animation Production CompanyによるPixabayからの画像


【本日の読書】

 




2023年7月17日月曜日

論語雑感 述而篇第七(その14)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。

【原文】

冉有曰、「夫子爲衞君乎。」子貢曰、「諾、吾將問之」。入曰、「伯夷叔齊、何人也。」曰、「古之賢人也。」曰、「怨乎。」曰、「求仁而得仁、又何怨。」出曰、「夫子不爲也。」

【読み下し】

冉有ぜんいう曰いはく、夫子ふうしは衞君ゑいくんを爲たすけむ乎か。子貢しこう曰いはく、若だく、吾われ將まさに之これを問とはむと。入いりて曰いはく、伯夷はくい叔齊しゆくせいは何人なんびとぞ也や。子し曰いはく、古いにしへ之これ賢人けんじんなる者ものぞ。曰いはく、怨うらみたる乎か。曰いはく、仁よきひとを求もとめ而て仁よきひとを得えたり、又また何なんぞ怨うらみむと。出いでて曰いはく、夫子ふうしは爲たすけ弗ざる也や。

【訳】

冉有が言った。「先生は衛国の君主を補佐するつもりがあるか?」

子貢が言った。「ああ、私が行って聞いてみよう。」

子貢は進み出て、言った。「伯夷叔斉とはどんな人ですか。」

答えた。「古代の賢者だな。」

問うた。「彼らは後悔しましたか?」

答えた。「仁を求めて仁を得た。後悔するか?」

子貢は出てきて言った。「先生は決して行かない。」

『論語』全文・現代語訳

************************************************************************************

 これも現代語の訳になるとよく意味がわからない。まぁ仕方がないだろう。孔子はよほどの賢者であったのだろう。諸国の君主の補佐をすることについては選べる立場にあった様である。私も今の会社では取締役として社長の補佐をする立場である。そして前職でも同様であった。選り取り見取りの中から選んだというわけではなく、縁があって紹介されたというだけである。「受けるか、断るか」の選択肢しかなかったので、孔子とは大違いである。


 前職では一択、今職では二択の選択肢であったが、どれを選ぼうと私の基本的なスタンスとしては「相手を選ばない」ということであろうか。社長が優秀であろうがなかろうが、それに合わせて全力を尽くすだけであり、「優秀な社長だから選ぶ」というものではない。そうでない社長であっても、それならそれに合わせて自分の力を尽くすだけである。逆に、あまり優秀でない社長であれば、自分の力がそれだけ発揮できるという考え方もある。


 実際、前職はまさにそのパターンであった。当時、会社は赤字を重ねており、債務超過一歩手前、メインバンクからは新規の融資を見合わせられている状態であった。社長自身も迷走しており、早急に手を打たないとすぐに再就職の活動を始めなければならないほどであった。そこで中期経営計画を策定し、会社の在り方を決め、何で稼ぐかを明確にし、社名まで変更して再スタートを切った。幸い、社長がすべて任せてくれたので思う通りできたということもある。


 その結果、信用金庫を中心に融資に応じてくれる金融機関がいくつか現れ、業績は少しずつ改善し、6年間で累積損失は一掃して業績は機動に乗った。そしてこれからという時に、突如社長は会社をM&Aで売却して我々は路頭に迷うことになった。人を見る目がないという意味ではその通り。まさか最後にそんな裏切りにあうとは思わなかったが、それでも赤字会社を自分が中心になって建て直したというのはいい経験になったし、自信にもなった。「恨み半分」といったところだろうか。


 現職でも同様で、「今度は裏切られることはなさそうだ」という感覚で選ばせていただいたが、二択だったので孔子のように余裕で選ぶというわけではなかった。それでもやれることはあるもので、自然と実力を評価していただいて役員にしていただいたので、役には立っているのだろう。孔子の様に自由に選べる立場であればいいが、そうでないのであれば、「置かれた場所で咲く」気構えが必要になるのではないかと思う。そしてそういう気構えと実力があれば、どこへ行ってもやっていけるだろう。


 現代においては、孔子のような「選べる」立場の人は少ないだろう。であれば「誰であっても」という事は必要な事であると思う。少なくとも自分はそうである。まぁ、年齢的にも現職をもって骨を埋めるところにしたいと思うのである・・・


MarlaによるPixabayからの画像

【今週の読書】

   


2023年7月12日水曜日

高校野球観戦

 

 猛暑の中、夏の甲子園大会の東京予選を観戦に行ってきた。スポーツ観戦と言えばラグビー以外はあり得ない私が、わざわざ高校野球の観戦に行ったのは息子が高校球児であるからに他ならない。母校が何年か前、春の甲子園大会に出場した時も、さすがにテレビ観戦はしたが、現地に行くという選択肢は端からなかった。そこには何となく高校時代から「高校野球」に対して持っていた「不公平感」が大いに影響している。「同じ高校スポーツなのになぜ野球だけが特別扱いされるのか」という不公平感である。


 それは今でも変わらない。地方予選の1回戦から新聞に掲載される、それも名前まで載る。メディアの高校野球特別視は何よりも甚だしい。まぁ、それは国民の関心度からすれば仕方ないのであるが、先週末の1回戦は駒沢球場、本日の2回戦は神宮球場という特別扱いもそうである。ラグビーの場合、1回戦などどこかの高校のグラウンドがせいぜいで、間違っても秩父宮など使わせてもらえない。「たかだか1回戦で」である。しかも一般席は「有料」である。私も大人1,000円を支払っての観戦である。


 そんな私だから、高校野球の生観戦は人生初であることにも気づく。神宮球場は当然であるが、駒沢球場もなかなか立派な球場である。こういうところで試合ができるというのは、幸せな事だなと思う。これまでは不公平感たらたらであったが、我が息子がこういう恵まれた環境で、「1回戦から」試合できるというのは良いことだなと今は思う。長年抱えてきた不公平感がようやく解消されたような気になる。そんな感慨を抱きながら、2試合ともバックネット裏に陣取る。


 試合前の練習は、両チームとも公平に持ち時間ピッタリを使って行われる。観客はまばら。ほとんどは両チームの関係者であると思うが、中には根っからのファンなのかと思われる人もいた。予選の1回戦、2回戦あたりだとまだレベル的には低いが、そんなレベルでも面白いと思うコアなファンなのだろう。地方予選の1回戦から観戦していると、本番の甲子園までの1ヶ月は楽しい期間なのだろうと思う。私もこの9月に開催されるラグビーのW杯を楽しみにしているからその感覚はよくわかる。


 レベルという話でいけば、やはりプロとは格が違う。ピッチャーの投げるボールも、打球も送球も当然ながら差がある。内野ゴロに打ち取ったと思って安堵したら、内野安打になってしまうというのが何回かあった。たぶん、甲子園クラスになればアウトになるのだろうが、まだまだそのあたりは大きな差なのだろう。ラグビーでも強豪校になれば体格から違う。わが母校も何年か前に全国レベルの高校と対戦してボロクソに負けたが、それを考えれば無理もない。


 それでも小学生の頃から見ていると、さすがに随分野球らしくなってきたなとこれも感慨深い。何せ初めて息子に野球をやらせた頃は、どうやって息子が振るバットにボールを当てようかと四苦八苦したものである。休みの日にキャッチボールをやろうと連れ出した時は、取った時に手応えのあるボールを投げるようになったのが嬉しかったものである。もう相手などしてくれないだろうが、あの時キャッチボールをやっておいて良かったなと心から思う。


 息子はチームのキャプテンである。弱小都立高校であるが、それでもキャプテンを任されるというのは、そこそこのものがあるのだろうと思う。ポジションはキャッチャー。相手チームの攻撃で、ランナーが出ると敵のベンチをじっと見ている。何をしているのかと聞いてみたら、「サインを見ている」と言う。「わかるのか」と聞くと、わかる時もあるらしい。何より、見ていること自体がプレッシャーにもなると言う。いつ間にか町内少年野球レベルの親父を超えている(当然ではある)。


 ガラガラの観客席で私の後ろの方に座っていたのはどうやら相手チームの関係者。私も両親を連れて行ったが、同じような祖父母世代もいたようである。両チームとも似たようなユニフォームで(ラグビーでは似たようなジャージの場合、どちらかがセカンドジャージを使用する)、間違えたお婆さんが我が息子チームの応援をしてしまって怒られていた。私の親も何度も孫の姿を見間違っていたからその微笑ましさはよくわかる。本日の試合は息子のチームがコールドで勝利した。嬉しかったが、どこの誰か知らないお婆さんの家族のことはちょっと気の毒であった。接戦での勝利でも良かったかも知れない。


 息子は勝利の余韻に浸る間もなく、塾へと向かう。部活も大事だが、高校3年は受験生でもある。まあ、親父も浪人したから現役合格にこだわることもないが、文武両道は小学生の頃から言い続けてきたから、しっかりこなしてほしいと思う。そしていよいよ今度の日曜日は3回戦。相手はシード校だから勝つのは難しいかも知れない。炎天下の観戦は大変であるが、息子の最後の晴れ姿であるし、しっかりと一挙手一投足を目に焼き付けてきたいと思うのである・・・



【本日の読書】