2023年3月12日日曜日

信頼とは責任を取ること

 我が社には典型的な指示待ち族の人がいる。言われたことはきちんとやるが、言われないことは全くやらない。それは見事なほどである。以前、ある事をやっていない事を咎められたそうであるが、その時の回答が「指示されていませんから」だったそうである。咎めた人は「指示がなければやらないのか」と怒ったそうであるが、おそらく本人にしてみればやっていない事に対する精一杯の言い逃れだったのであろう。そんな指示待ち族ではあるが、いいところもあって、やれと言われたことはきちんとやる。その事務能力のクオリティは高い。もしかしたら私以上かもしれない。

 なぜ、言われなければやらないのだろうか。おそらく、そこには仕事に対する根本的なスタンスがあるのだと思う。自分で考えるのが面倒だというのがあるかもしれない。あるいはそもそもそういう発想がないのかもしれない。真面目な方なので、入社時から言われたことを真面目にやるのが仕事だと思ってきたため、「自分からやる」という発想がないのかもしれない。仕事をやり終えると、時間が余ればネットサーフィンをしているので、しばしばそれを見咎められたりもしている。

 私は高校生の時、将来の進路として「サラリーマンにはなりたくない」と友人に語っていたのを覚えている。その理由は単純で、「人に顎で指示されたくない」というものであった。会社の中で意思の持てない歯車の一つになるのが嫌だったのである。その気持ちは今でも変わらない。ただ、違うのは、「サラリーマンになったから歯車になるわけではない」ということを知ったことである。意識があれば自分から仕事を、そして会社を動かしていける。だからこそ、今楽しく働けているわけである。

 その指示待ち族の方は、おそらくそれほど指示されることに抵抗がないのだろうし、むしろ指示してもらわないと困るとさえ思っているのだろう。それはもうご本人の性格だから仕方がない。ただ、若いうちならともかく、定年退職して嘱託の身分となると厳しくなる。我が社も余剰人員を抱えていられるほどゆとりはない。解雇にこそならないものの、出勤を減らして減給という方向に進んでいる。本人としては不本意らしいが、評価からすればやむをえない。

 およそ信頼というのはどこから生まれるのだろうかと考えると、それは「責任」に行き着くと思う。「責任」を取る人は信頼され、取らない人は信頼されない。「指示されていません(からやりませんでした)」という回答に「責任」はない。「指示されていません」という回答には、指示をするべき人(責任者)の存在を指し示す。その言葉通りに「責任」を回避するわけであるが、責任から逃れながら同時に信頼を失っている事になるのである。事実、そうした指示待ち族を信頼する人はいない。

 「それでも私は真面目に働いています」と言うかもしれない(私の人生最初の部下もそう言った)。しかし、真面目にやるのは当たり前である。「毎日会社に来ています」と言うのと同じで、それは小学生なら褒めてもらえるかもしれないが、社会人なら当たり前のことであってわざわざ強調することではない。真面目に働く上で、どう働くかが問われているのである。いちいち指示されなければ何もできない、しないのでは当然、評価もされないし信頼もされない。最低限の保証はしてくれるかもしれないが、そこで終わりである。

 その指示待ち族の方も、ひょっとしたら働き方がわからなかったのかもしれない。誰だって責められたり怒られたりするのは嫌である。嫌なことから逃げるために、いつしか言われた事だけやるようになったのかもしれない。その方が怒られないという意味で快適である。余計な事を考える必要もない。その楽な地位に安住してきた結果、そこから抜け出す方法がわからなくなったのだろうと思う。それも一つの働き方ではあるが、ご本人は給料はこれ以上減らされたくないと思っている。であれば働き方を変えていただくしかない。

 どうやって変えたらいいのか、ご本人にはわからないようである。もう変われないとは思わない。人はいくつになっても変わることはできるし、働き方ならいくらでも変えられる。これから少し、どうやったらいいのかについて自分なりにその方にレクチャーしてみたいと思うのである・・・

 

PexelsによるPixabayからの画像 

 

【今週の読書】

 


2023年3月9日木曜日

逆境に育て

 子供たちもいつの間にか大きくなった。娘は22歳、息子は17歳ともなればもう子供とは言えない。いずれ数年のうちに2人とも社会人である。娘は来年は就活、息子は大学受験。しかし、自分の就活時代(当時は就活などという言葉はなかった)や大学受験時と比較すると、どうにも2人とも何か物足りなく思えてしまう。男と女の違いはあるだろうから、娘の方はまだしも、息子の方はどうもなぁと感じる部分がある。もちろん、まだまだ半人前だから当たり前なのであるが、自分の高校時代と比べてもどこか物足りないような感じもする。

 と言っても、自分については人は誰でも甘く見がちであり、過剰に美化、脚色されるところがある。もしかしたらそんな色眼鏡で見てしまっているのかもしれない。息子を客観的に見れば高校は自分よりもランクの高い都立高校だし、ラグビーには見向きもせず野球に行ってしまったが、弱小都立高校の野球部とは言えキャプテンだし(私もキャプテンだったが・・・)1年の時から彼女はいるし(私よりも早い)、どう見ても父親を上回っているじゃないかと言われればその通りなのである。

 しかし、それでも物足りなさを感じるのは、男としての信念的なところであろうか。「これと決めたら誰がなんと言おうと貫き通す」的なところがまだ感じられない。どこかまだ「ママの言うことを聞く良い子」的なところがある。私はと言えば、早くから自立心だけは旺盛だったと思う。中学生の頃には塾に行けとうるさい母親の言葉を聞き流し、高校生の時にはもう親に小遣いをもらっていなかった。もちろん、大学は自分で決めたし、予備校へ行ったらなどと言う言葉はすべて無視して宅浪した。

 息子はその点従順で、塾にも行っているし、母親の勧めはよく聞いている。母親はもともと息子には甘いものだし、甘い母親の甘い子育てが男をダメにすると信じている私としては、ちょっと心配なところがある。我が息子にはもう少し厳しい環境が必要な気もする。「獅子は我が子を千尋の谷に落とす」という言葉があるが、たくましい大人に育っていくには、特に男の子には逆境が必要なように思う。

 我が父は子供時代は貧しく、教室のゴミ箱から裕福な家の友人が捨てた鉛筆を隠れて拾ってきて使ったそうである。進学など夢物語で、中卒で東京に出てきて働いた。私が自立心旺盛に育ったのは、そんな話を聞かされて育ったからではないかと思う。私自身、当たり前のように大学へ進学したが、大学では授業をサボるのが当たり前という風潮の中で、真面目に授業に出続けたのも、単なる「知りたい」という好奇心だけからではない。私なりのハングリー精神である。

 息子はそんな祖父の苦労など知らないし、今ある環境が当たり前だと思っている。小学生の頃から自分の部屋があり、傍から見れば恵まれている。この先、何か大きな逆境に落ちた時、そこから這い上がれる精神力があるかと問われると心許ない気がする。人間、逆境で育つということが、どこかで必要な気がしてならない。私自身、逆境で育ったというわけではないが、逆境で育った父の話を我が事のように聞けたのが良かったと思う。松本零士の漫画の影響もあるかもしれない。

 逆境を跳ね除けて成功した人の話はよく聞くが、恵まれて育ったお坊ちゃん(我が息子はお金持ちのお坊ちゃんとは残念ながら程遠い)が成功したという話はあまり聞かない。うまくいっている時は何も心配はない。心配なのは、何らかの苦境に立たされた時、あるいは逆境に陥った時、そこから這い上がれる精神力があるだろうかということである。かく言う自分がそれだけ逆境に強いかというと、必ずしもそう言い切れないが、少なくともある程度の逆境には打ち勝ってきたつもりである。

 人間、逆境に陥った時にこそその人の真価が発揮される。そういう時の訓練をどこかでする必要がある。今の甘いママの下では、親父としては心配である。千尋の谷に落とすとまではいかなくても、心構えくらいはママのいない所でじっくりと話し聞かせたいと思うのである・・・

Jerzy GóreckiによるPixabayからの画像 

【本日の読書】

 



2023年3月7日火曜日

論語雑感 述而篇第七(その5)

 論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。
【原文】

吾不復夢見周公也。

【読み下し】

いはく、はなはだしかり

おとろへたる

ひさしかりわれふたたしうこうゆめみまみ。 


【訳】

先師がいわれた。

「私もずいぶん老衰したものだ。このごろはさっぱり周公の夢も見なくなってしまった。」

『論語』全文・現代語訳

************************************************************************************

 周公とは、孔子よりさらに古い紀元前11世紀くらいの周代の政治家らしい。孔子が理想とするくらいの大人物であったらしい。夢にまで見たということは、それだけ憧れというか目標意識を強く持っていたのだろう。それだけの思いを持っていたのに、夢を見なくなったというのは、孔子は老いとしているが、実はそれだけの境地に達したということなのかもしれない。


 私が若い頃、悩んでいた一つは、「目標とする人物が身の回りにいない」ということであった。仕事そのものはやり方を覚えればある程度できる。しかし、仕事に対する取り組み方とか考え方、立ち居振る舞いなどはお手本があればやりやすい。それらは1人で考えていても思いつくものでもない。身近な疑問点をぶつけたり、参考にしたりする相手がいなかったのである。もちろん、まったくいないわけではなかったが、「身近に」いなかったのである。否、時間をとって月に一度でも会いに行けば良かったのだろうが、そこまで知恵が回らなかったということである。


 初めて部下を持った時の事、途中から1人優秀な部下をつけてもらった。彼はそつなく仕事をこなし、前任者の倍くらいのスピードで仕事をこなした。なぜこうも手早く仕事ができるのだろうかと思ったら、優先順位をつけてうまく仕事を捌いていたのである。私も仕事を頼むとしばし、「急ぎでないなら後でもいいですか」と言われたものである。もちろん異論はなかったが、それまで私は頼まれればすぐやらないといけないような感覚だったが、案外後回しにしても頼んだ方はなんとも思わないものだと身をもって知ったのである。部下に学ぶというのも情けない気もしたが、それも学びであった。


 最初に仕えた上司は、よく「仕事は盗むものだ」と言っていた。その時は、ただただ反発していた。「盗むのなんて非効率だ」と。「初めからきっちり教えた方が効率的だ」と。それはその通りであるが、一方で「盗んだものは忘れない」のも事実。盗むという事は、まず問題意識があって、それに対する気づきがあってのもの。気づきがあるから、自分のものにしようと思うのである。つまり、身近にそういう気づきを与えてくれる人がいなかったのである。


 気づきを与えてくれる人がいなかったのかもしれないし、あるいは気づけなかったのかもしれない。ただ、「この人違うな」と思うような人であればその人の言動に注目するし、そうすると気づきも得やすくなる。それもまた事実である。それでも今の自分になれたのは読書の成果が大きいと思う。ビジネス書などにはいろいろなヒントや気づきがある。読んでも大半は忘れてしまったりするが、考え方のエッセンスは知らず知らずのうちに残ったりする。門前の小僧のようにいつの間にかいろいろな考え方に触れて自分を磨いてこられたのかもしれない。


 夢にまで見るような尊敬すべき人物はいなかったが、読書などによっていつの間にか多くの学びを得られてきたのだろうと思う。誰か1人尊敬すべき人を持つのもいいかもしれないが、身の回りの様々なものから柔軟に学べるというのも大事だと思う。尊敬すべき人が身近にいなかったと嘆くよりも、老いてもなお何からでも柔軟に学べる自分であり続けたいと思うのである・・・


svklimkinによるPixabayからの画像 

 

【本日の読書】

 




2023年3月4日土曜日

新入社員に望む

 いよいよ来月、我が社に8名の新入社員が入社する。従業員100名に満たない中小企業で8名の新卒を採用できるというのもなかなか大したものだと思う。新入社員研修は外部の専門機関に委託することにしているが、自社内でもそれなりの研修をやろうと考えている。その中で、基本的な意識については私自身が講師となって研修をする予定である。そこで毎日せっせとパワーポイントで資料作りに悪戦苦闘している。「会社とは」から始まり、我が社の社歴も必要だし、身につけてもらいたい心構えなどをあれこれと頭を悩ませている。

 そのうちの一つのテーマが「給料について」である。これについては、「給料はもらうものではなく稼ぐもの」という私の持論があるので、ここは強調しようと思う。黙っていても給料日になれば口座に給料が振り込まれるというのは、当たり前であるが当たり前ではない。社員だからという理由で与えてもらうものではなく、自ら仕事をこなして会社に利益をもたらし、その報酬として自ら獲得するものでないといけない。ベンチを温めているだけで給料をもらうのではなく、ヒットを打って会社に払わせるのである。こういう意識は是非とも持ってもらいたいと思う。

 仕事だから残業もある。私の社会人1年目は残業しても残業代などもらえないのが当たり前だった。今はそういう時代ではないし、我が社は残業代をきちんと払う。しかし、そこに考えなければならないことがある。同じ仕事を1人は時間内に終えたが、もう1人は終わらずに残業をした。すると、残業をした方が残業代をもらえて収入が多くなる。当然、時間内に終えた方が優秀なわけであるが、優秀な者の方が収入が少なくなるという矛盾が生じるのである。それが認められると、なるべくゆっくり時間をかけて仕事をしようとする。これでいいのか。

 当然、よくはない。それはきちんとバランスが取られる。優秀な者についてはきちんと評価して翌年の昇給に反映される。そうでない者は昇級できないか、昇級幅は少なくなる。そしてそれは賞与にも反映され、いずれ昇格にも反映される。目先の残業代を稼ごうとセコく考えると、その時はいいかもしれないが後できちんと帳尻が合うのである。だから目先の残業代をセコセコ稼ごうなどとは考えず、効率的に仕事をしてしっかり実力をつけるようにと伝えるつもりである。

 「給料分だけ働いていると給料分の人間で終わる(植松努:()植松電機社長)」という言葉がある。私の好きな言葉であるが、これも実に真実である。そういう私も新人時代は「給料分以上働いたら損」と考えていた。働いた分に見合う給料をもらうのは当然のように思うが、そうではない。払う方から見れば、給料分だけ働いているならそれでいいと考える。ところが、給料分以上働かれると「給料を上げないといけない」と考える。結果、給料分以上働いている人の給料は増えるが、給料分だけ働いている人の給料は増えない。当たり前である。

 何事かを成し遂げようと思ったら、「考え方(意識)」「熱意」「創意工夫」の三種の神器が必要であるというのも私の持論。日本電産の永盛会長も「能力の差は5倍、意識の差は100倍」という名言を語っているが、どういう考え方(意識)で臨むかはとてつもない差となる。また、「努力する人は、夢中な人に勝てない」という言葉がある。夜寝るのも惜しんで夢中になるような熱意こそが何事かを成すのである。そしてそこに創意工夫が加われば必ずやできるビジネス・パーソンになるだろう。

 どんな社会人生活が待っているのかと、期待と不安とを抱いて入社してくる新入社員たちについて思う。縁あって同じ会社で働くことになるわけであるし、つまらないビジネス・パーソンになることなく、成功できるようにと願う。今度の研修がそんな一環になればいいなと思うのである・・・

Andreas LischkaによるPixabayからの画像 

 

【本日の読書】

 




2023年2月26日日曜日

どこのポジションでもやる

 先日、所属しているシニアラグビーのチームで新キャプテンからアンケートを頼まれた。新チームの運営の参考にするのだと言う。いくつかある質問の中で、これぞ自分の信念の特徴だと思えるものがあった。それは「試合で出場可能なポジション」という質問であった。私の回答は、「やれと言われればどこでも」というものである。ラグビーの場合15のポジションがあるが、私は割と器用な方で、これまで13のポジションは経験がある。そういう経験があるからということもあるが、だからというわけではない。未経験のポジションは私には難しいが、それでもやれと言われればやる。

 そもそも誰でもそうであると思うが、やりたいポジションというのは誰でもあると思う。不得意なポジションをやっても面白くはないかもしれない。どうせやるならやって面白いポジションでやりたいだろう。だが、人数が足りない場合、誰かが空いているポジションをやらなければならない。キャプテンがメンバーを決める際、誰かにそのポジションを頼まないといけない。その時、快諾してくれればキャプテンの負担も減るというもの。嫌だと言われればやってくれる人を探さないといけない。

 ラグビーのようなスポーツはメンバーが揃わないと試合ができない。きちんとメンバーが揃って活動しているチームなら問題はないが、そうでないチームでは誰かがやらないといけない。そんな時、「自分にはできない」、「自分はやりたくない」と断るのではなく、たとえ不得意なポジションであっても自分はやる人間でありたいと考えている。もちろん、やり慣れないポジションであればうまくできないのは当然であるが、そこは勘弁してもらうしかない。自分がやることで試合が成立するわけであるからそれがチームに対する貢献である。

 それは割と他のことでも当てはまる。仕事でも「これが自分の領域」と決めることはあまりなく、必要があれば「領域外」でもやることを厭わないようにしている。もちろん、技術が必要でやる気だけではできないものもあるからそういうのは別であるが、そうでなければやることは厭わない。それで会社として何かが進むのであればそれが自分の存在価値になると考えている。今の会社では総務担当であるが、必要があれば営業だってやるだろう。そういう「穴を埋められるプレーヤー」たらんと思うのである。

 学生時代、三年時に私は先輩人とポジション争いをしていた。右と左のフランカーという2つのポジションを3人が競う構図である。熾烈な争いだったので(何せ先輩2人は最後の年である)、キャプテンとしてもなかなか決めにくかったのだと思う。そこでキャプテンが出した結論は、私の別のポジションへのコンバートであった。隣のロックのポジションがどうにも弱く、そこで私を代わりに、となったのである。もちろん、私としてはポジション争いを制する自信もあったし、フランカーのポジションにこだわりたかったのであるが、そこは折れることにした。

 学生時代はとことん勝ちにこだわる試合をしていたし、そのためには自分も一番得意なポジションで出たいという思いが強かった。しかし、他の先輩2人と比べ、私が唯一上回っていたのが、器用なところであった。他の2人の先輩にはロックは無理だとキャプテンに言われてしまった。それもあるが、そもそも私にはチームのためであれば我を通すというところはない。ましてやキャプテンが私にいう前にいろいろと考えたであろうことはわかったし、それゆえに私には断るという選択肢はなかった。その年、天下の早稲田大学と公式戦を戦ったが、唯一残念だったのはフランカーで出られなかったということである。

 不動産業だった前職では、新たに室内清掃事業を内製化しようということになった。私にルームクリーニングの経験はない。しかしながら、人数も少ないため言い出しっぺの私もやらざるを得なかったのでやること自体に抵抗はなかった。そして記念すべき第一号案件は、見事に汚れ切った部屋だった。10年くらい掃除していないのではないかというほどであった。特にひどかったのがユニットバスに付属しているトイレ。自分で内製化を提案した手前もあるが、他の人にトイレを掃除しろというのが憚られ、自らやることにした。

 結局、それ以降もバス・トイレは私の担当になったが、おかげでバス・トイレの掃除は上手くなったと思う。人によっては掃除なんかと思うかもしれない。ましてやトイレ掃除となるとよけい抵抗感があるかもしれない。中にはひどく汚れたトイレもあるわけであるから尚更である。その経験を通じて改めて実感した事は、私は割となんでもできるという事である。よく、「こんな仕事をやるために入社したわけではない」と言ったりする人の話を聞く事があるが、自分がやれる事をやるというのも大事であると思う。

 人によってそれぞれであると思うが、「やりたい仕事をやる」というのも大事であるが、「必要とされる事をやる」というのも大事であると思う。何よりそういう「必要とする仕事をやってくれる人」は組織にとって大事にされるし、それがその組織における自分の存在価値になるだろう。もちろん、便利屋になってしまうこともあるかもしれないが、私はそれでも「必要とされる事」に喜びを感じるタイプである。便利屋で大いにいいじゃないかと思う。

 これからも「どこのポジションでもやる」というスタンスは維持していきたいと思うのである・・・

Simona RobováによるPixabayからの画像 

【今週の読書】

 




2023年2月23日木曜日

妻が口をきいてくれません

 何ともグサリと胸に突き刺さるタイトルを目にして思わず手にしたこの一冊。中身を見れば、実は漫画。漫画だろうが小説だろうがノンフィクションだろうが、本質を押さえているなら変わりはない。そのものズバリのタイトルに反応したのは、「思い当たる節があるから」に他ならない。我が家も口こそきいてくれるものの、どうもどこかよそよそしく、おおよそ他人行儀である。いかに鈍感な私でも、妻が不満を抱えていることぐらいはわかる。そんなところから中を読み進めていく。

 登場するのは、妻、娘、息子という家族を持つ夫、誠。どこにでもいる、まさに我が家と家族構成まで同じ一家である。まずは「夫誠の章」から始まる。ある日突然、妻が口をきいてくれなくなる。「行ってきます」と言っても「ただいま」と帰ってきても妻は口をきいてくれない。喧嘩をした記憶もない誠には理由がわからない。口をきいてくれなくてもお弁当を作ってくれるし、夕飯も用意される。されど会話だけがない。幸い子供がいるので誠は子供と話す事でとりあえず救いがある。

 何とか口をきいてもらえるよう誠は努力する。お弁当のお礼を言ったり、積極的に家事を手伝ったり、花とケーキを買って帰ったりする。思いつくことはやってみるが、状況は変わらない。そして3ヶ月、4ヶ月と経過し、やがてそれが5年、6年となる。誠はついに「家に帰りたくない」と思うようになり、あの二文字が脳裏を過ぎる。家はもはや誠にとって安らぎの場所ではなくなり、生き地獄と感じるようになる。そしてとうとう「離婚したい」と妻に告げる。

 ひどい奥さんだとここまで読んできて思う。「我が家と同様だ」と。しかし、続く「妻美咲の章」では、奥さんの視点から描かれる。何気ない夫の一言一言が、子育てに追われる妻の「小さなイラっ」を誘う。それはもののありかだったり、やり方だったり、思いやりのない一言だったりする。妻の言うことを関心なさげに聞き流す。挙句に妻のぞんざいな対応に対し「愛はあるのか」と無邪気に問う夫。美咲は「ああ、今妻は大変なんだなあ」と察する愛はないくせにと、キレて言う。ごもっとも。そしてついに妻は限界に達する。

 相手の立場に立ってみれば、それは至極もっとも。夫の章を読むと、奥さんが悪いと思うものの、妻の賞を読むとその切ない気持ちがよくわかる。いかに夫が心無い言動を取っているか。夫に罪はあるかと問われると難しいところがあるが、強いて言うなら、「鈍感こそが罪」と言えるかもしれない。無言を貫く妻に夫は何かを感じて行動に移す。それを見ていた妻は思う。「あんなに何度も口に出してお願いしてもしてくれなかったのに、口にしなくなったら私がしてもらいたかったことをどんどんしてくれる」。

 人は他人の考えを読むことはできない。だから相手が何を感じているのかもよほど意識しないとわからない。ここに出てくる夫は100%自分思考で、妻が何を感じているのか考えようとも感じようともしない。しかし、口をきいてくれなくなった事でようやくその意識を妻に向ける。「あんなに何度も口に出してお願いしてもしてくれなかったのに、口にしなくなったら私がしてもらいたかったことをどんどんしてくれる」という妻の思いは身に堪えるものがある。

 しかし、と思う。我が家も妻は私に対してかなり不満を抱えていると思う。そしてその原因は鈍感な私にあるのだと思う。だが、家事に関する妻の細かいマイルールにはついていけない部分も大きい。人一倍きれい好きの妻に対し、男は1〜2週間くらい掃除しなくても何ともないという感覚がある。そこにはどうしても相容れない感性の違いがある。「いちいち言わないとわからないのか」という妻の感覚と「いちいち言われなければわからないし、察するなんて煩わしい」という私の感覚は真っ向から対立する。

 勢い、妻の小言が重なれば、それがやがて私の心にダメージとなって蓄積されていく。「家に帰りたくない」と思う夫、誠の気持ちはよくわかる。私も妻がいると家にいて寛げないのも事実である。そんな家にいる必要ってあるのだろうかと思う事、しばしばである。漫画は、ちょっと漫画チックな展開があって無事夫婦仲が改善して終わる。羨ましいが、漫画のお話だからゆえに現実的にはなかなか難しい。身につまされるが参考にはならない。妻を理解したいとは思うが、自分なりの限界も感じている。

 夫婦とは言え、男と女の感性の違いもあれば、互いに育ってきた環境の違いもある。当然、価値観も違う。うまくやっていくにはどちらかが、あるいは互いに譲り合う必要がある。初めのうちは愛でカバーできても、やがて「いい加減にしろよ」と思うようになる。言わなくてもわかればいいのだが、生憎と人は言葉にしなければ互いの感情はわからない。どうすればいいのだろうかと思うも、何とかしようと思うのなら諦めずにできることからやるしかない。

 とりあえず言われたことはきちんとやる。なるべく気を使って過ごす。1人になるという選択肢は、いろいろやってダメなら最後に選べばいい。まずはできることからやってみようか。漫画を読んでそんなことを考えたのである・


Victoria_WatercolorによるPixabayからの画像 


【今週の読書】

  






2023年2月19日日曜日

論語雑感 述而篇第七(その4)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。

【原文】

子之燕居、申申如也、夭夭如也。

【読み下し】

くつろたるたり申申如のびやかたり沃沃如ゆたかたり

【訳】

先師が家にくつろいでいられる時は、いつものびのびとして、うれしそうな顔をしていられた。

『論語』全文・現代語訳

************************************************************************************

 家とは本来、くつろぐ場所である。誰に気を遣うこともなく、自分のあるがままの姿でいられ、思うままの行動を取れる場所である。素っ裸でいても誰にも咎められる事はないし、無防備に惰眠を貪る事もできる。心身の疲れを癒し、リフレッシュし、そしてまた外の労働等へと出向く元気を養う場所である。また、家でなくても、仕事がオフの時は同様である。そのはずである。本来は・・・


 ところが必ずしもそうではない。家にいてもくつろげるかと言われると、妻がいれば自然と気を使う。それどころかモノの置きっぱなしを指摘されたり、使用方法、利用方法について事細かく言われるので、とてもではないがリラックスなどできない。さらに妻は過度とも言えるきれい好きのところがあり、微に入り細を穿つ「指導」にはとてもついていけるものではない。勢い、「いないとホッとする」のが正直なところである。


 そんな妻だから、私が休日に家でリラックスしようとすれば最大の脅威となる。と言っても、妻には妻の考えがあり、言い分があるだろう。おそらく私の行動の一つ一つが妻の神経を逆撫でているのだろうことは想像に難くない。しかしながら、同じ事をやっても、私と息子とでは妻の態度が異なる。そこは腹を痛めた我が子が可愛いのだろう、私よりも対応はソフトである。それを嘆いても仕方がない。


 そもそもであるが、別々の環境で育った2人が一緒に暮らすとなると、どうしても価値観の衝突はおきる。さらに男は1週間や2週間掃除をしなくてもへっちゃらだが、女はそうではない(一般的に、ではあるが)。そのあたりの感性の違いもある。付き合っている時はそんな違いも大目に見られるが、一緒に暮らす期間が長くなると、「いいかげんにしろよ」となる。私も多少ならなんとか合わせられるが、あまりにも細かい妻の「マイルール」に最近ではついて行くのを諦めている。


 また、家の外でもそれはある。シニアラグビーのチームに加わっていれば、土日のどちらかは練習だし、試合も入る。試合などは月に2回程度にして欲しいと思うが、毎週末に入ったりする事もある。それは様々な都合があり、チームでやる以上、個人の都合で決めるわけにもいかないから仕方がない。雨の日は試合をしたくはないが、そうも言えない時がある。好きでやっている事とは言え、そういう思い通りにならない事はある。


 最近の週末はのびのびのんびりと言うよりも、やらなければならない予定で埋まって、「たまにはのんびりしたいなぁ」と思わず独りごちてしまう事もある。のびのびして家でくつろげる週末なんて、年に何回あるだろうか。孔子が当時どんな生活を送っていたのかはわからないが、いつものびのびとくつろいでいたのであれば、それはかなり幸せな事だと思う。もしかすると、亭主関白の時代であれば(少なくとも夫は)、可能だったのかもしれない。


 およそ人との関わり合いの中で生きている以上、自分の思い通りにいかないことは多々あるだろう。聞かれれば今晩何を食べたいかは答えるが、聞かれなければ出されたものを美味しくいただく。不満はグッと堪える。先日の夕食時、ふと見ると息子の前には私の前にないおかずがある。食べ盛りだし、特別なのかと思って黙っていたら、どうやら私に出し忘れていたらしい。「なぜ言わないのか」と問い詰められたが、言って「息子だけ特別」と言われても傷つくだけである。家庭では、「言わぬが花」が己の心の安寧には大事である。


 最近では、妻に小言を言われないのが、家でくつろぐためには欠かせない。その為には細心の注意と、仮に小言を言われても心にダメージを残さず受け流すことが必要である。妻のマイルールを一つ一つ覚えようなどと思わず、自然と頭に残るものだけを残す。小言は無我の境地でやり過ごすことがコツである。考えれば、世の中は人と人とが関わり合って生きているのであり、思い通りになるということがそもそもの勘違い。家でくつろぎたいのであれば、あらゆる関係を断ち切って一人暮らしをするしかない。


 考えようによっては、年に数度ある家で1人くつろぐひと時。それは妻が帰省したり、娘とジャニーズの地方コンサートに泊まりで行った時などの何もやることがないひと時。たとえわずかでもあるだけいいし、その時は心からリラックスして楽しめる。そんな至福のひと時は毎週でなくてもいいではないかと自分に言い聞かせる。たまにだからありがたみも増す。逆に家族と共に暮らす幸せはそれはそれとしてある。孔子は羨ましいが、いつものびのびくつろげなくてもいいではないかと1人思うのである・・ 

 


Free PhotosによるPixabayからの画像 

 

【本日の読書】

 




2023年2月15日水曜日

うさぎとカメに思う

 今年は卯年とあって、いろいろなところでうさぎをたとえに出す例を見かける。最近目にしたのは、あるエクササイズ系のサービス。「カメさんとの勝負に負けた日からグダグタしてきたが、今年は卯年でもあり再びジャンプしようと思う」とし、一緒に跳びませんかとお客さんを誘う。なるほど、単なるありきたりの勧誘文と比べると、ちょっとクスッとさせるところもある一種物語風のテイストは感じが良い。うまく干支とかけているなと思う。

 うさぎとカメの昔話はあまりにも有名であるが、話はどうしても「才能があっても怠けたうさぎ」と「才能はなくても地道に努力したカメ」という対比で語られる。コツコツと真面目に努力することを教えるという意味では、子供に対する教訓として適切な昔話ではあると思う。されど、どうしても素直にその教訓を受け取れないところが私にはある。それはカメには絶対に勝てないうさぎの持っている「才能」である。

 確かにうさぎはカメを舐めて、途中で昼寝をする(そして寝過ごす)という過ちをする。しかし、もう一度やったらどうなるだろうか。普通に考えれば、さすがに今度はうさぎも油断しないだろう。そしてうさぎは油断しさえしなければカメに負けることは絶対にない。そこには圧倒的な差がある。そして一度油断して負けたうさぎは二度と油断はしないだろう。そして亀はどんなに努力しても油断しないうさぎには勝てない。

 力のはるかに勝る相手と戦う時、最初から諦めるのではなく、相手の油断という奇跡のような可能性もあると信じて全力を尽くすことは大事である。しかし、勝てたとしても1回のみである。うさぎだから油断はしたと言えるが、うさぎを狩るにも全力を尽くす獅子が相手であれば万に一つの勝ち目もない。これは才能のない者から見ると、悲しいまでの真実である。うさぎは獅子のように油断さえしなければいいわけである。負けた経験を持つうさぎの強さは圧倒的である。カメの勝利に溜飲を下げる子供たちは、どこまでこの冷徹な現実に気づいているだろうか。

 私がもしカメであったら、そもそも不利な陸上でのかけっこ競争などしないだろうと思う。もしも仮にしなければならないとしたとしたら、やはり全力を尽くすだろう。そしてうまく油断すれば良し。油断しなくて圧倒的な差で負けてもそれはそれで仕方ないと割り切る。そしてまた挑戦されれば受ける。何度負けても「負けるから嫌だ」と逃げることはしないだろう。逃げさえしなければ、勢い余ったうさぎが途中で足を挫いてリタイアするという幸運にあずかれるかもしれない。やる以上は勝つつもりで諦めずにやる。

 ただ、その前に自分の得意なフィールドでの戦いに持ち込むことは考えるだろう。負けたうさぎが悔しがってリターンマッチを申し出てきたら、「今度はあの島まで泳ぐ競争をしよう」と切り返す。チャンピオンには選ぶ権利がある。戦うフィールドを選ぶことは北風にも言えることだったが、カメにもまた然りである。「敵を知り、己を知り、そして地の利を知れば百戦危うからず」である。自分が勝てるフィールドを選ぶことは重要である。

 しかし、フィールドが選べなければ見るも無残。神様に元旦に山頂に集まれと言われた動物たちが競って山頂を目指し、巧みに牛の背に乗ったネズミが干支の1番を飾った。うさぎがなぜ4位だったのかはわからないが、馬や犬や猪といった強力なライバルを抑えての4位だからやはり実力はあるわけである。そしてカメは干支に入っていない。その他の動物たちと共に圏外だったのである。これが現実である。

 うさぎとカメのどちらがいいかと言われたら、私は迷いなくうさぎを選ぶ。油断さえしなれば実力を遺憾なく発揮できるわけであるからその方がはるかにいい。カメも相手の油断という偶然の産物に頼って勝ったはいいが、得意分野で戦うという工夫をしなければいつまで経っても勝つことはできない。競争時の状況は知らないが、何も考えずに勝負に臨んだとしたら、努力はすべて無駄に終わることになる。陸上でうさぎとかけっこをするという事は、どんなに努力しても報われる可能性は低い。努力の方向も大事である。

 考えてみれば、子供向けのたわいない昔話ではあるが、いろいろと示唆に富んでいる。常にそこからどんな事を学べるのか、あるいは考えられるのか。つまらないことのようだが、そういうつまらないことを大事に考えたいと思うのである・・・

Franz W.によるPixabayからの画像 

【本日の読書】

 



2023年2月12日日曜日

人目を気にしたくない

 日中、外出すると、この頃マスクをしていない人をちらほら見かけるようになってきた。ほぼ3年にわたって我々を苦しめてきたコロナ禍も58日には季節性インフルエンザと同じ「5類」へ移行されるという。既にマスクについては、「原則として屋外では不要、屋内では着用を推奨」とされているから、道を歩く人がマスクをしていなくてもいいわけであるが、まだまだマスクをしていない人を見ると、思わず目が行ってしまうのは、やはり慣れてしまったからだろうと思う。

 新型コロナ対策としてのマスクの着用について、政府は来月13日から屋内・屋外を問わず個人の判断に委ねる方針を決定した。政府の指針では、全員が着席できる新幹線や高速バス内でのマスクを不要とする一方、混雑する通勤電車やバスでは引き続き着用を勧めている。58日を待たずとも、マスクをしなくてもいい環境に戻っていくのだろう。自分はそれに対してどうするだろうかと思うに、多分しばらくはマスクをしているだろうと思う。

 日本人は割と周りを見て行動するところがある。「赤信号みんなで渡れば怖くない」という精神が行き渡っている。だからたぶん来月13日になっても一気にマスク姿を見かけなくなるということはないのではないかと思う。ただ、私がしばらくマスクをし続けるであろうという意味は、これとはちょっと違う。周りの目というより、気を使うのが面倒だという理由である。外を歩く時は外し、通勤電車に乗る時はつけ、降りて歩く時はまた外し、なんて面倒この上ない。

 特に通勤時間帯は私にとって読書タイムである。いつも読んでいる本の世界に集中するため、同じ時間の電車の同じ車両に乗り、意識を本に集中させたままでも乗り換え等間違いなくできるようにしている。ゆえにマスクになどに意識を取られたくはない。つけるかつけないかのどちらかしかない。そして混雑した通勤電車内では引き続き「推奨」されるというのであれば、付けっぱなしでいる方が「考えなくて済む」。人目を気にしなくて済む方法に合わせるのが一番楽である。

 もともと私としては、「人目を気にする」事が大の苦手である。人が何をどう思うかなんてわかるわけがないと考える私は、昔から空気を読んだり合わせたりするのが大の苦手であった。よほど恥ずかしい行為であれば別であるが、そうでなければ人がどう思おうと気にしないのが私の基本的な考えである。だからファッションなんかは特に困惑する。人がどう思おうと、着たいものを着ればいいではないかと考える。だから「それ変!」と言われると戸惑ってしまう。

 その昔、結婚した当時だが、妻に持っている服をことごとくダメ出しされたなんでダメなのか自分ではまったくわからなかった。機能的に問題なければいいじゃないかと思うが、流行遅れなのかどうなのか、着るなという。まだ着られるものを着ないのはもったいない。今で言うエコ精神であるが、よほどみすぼらしい格好でなければ構わないと(今でも)思う。たとえみすぼらしくても、今では穴の空いたジーンズだってファッションだと言うのだから(私はそんなジーンズを履く気はサラサラない)、それもファッションだと言えてしまいそうな気もする。

 そんなの気にしていたら表は歩けなくなる。だから、ドレスコードがゆるい今の会社でも何も考えなくていいスーツを着て毎日出勤している(私服で出勤となったら苦痛である)。マスクもしたがってしている限りは何も考えなくてもいいだろうから、当分はつけたまま過ごすと思う。そして世の中の大半がマスクを取るようになり、何も考えずにマスクなしで歩けるようになってからマスクを取ると思う。

 ただ、すべてがこうだとは限らない。自分が信念を持ってやるものであれば、人が何と思おうと、世の中で自分1人であろうとやると決めたらやるだろう。それもまた違う意味で「人目を気にしない」と言えるのかもしれない。何にせよ、「マスクをつけるかつけないか」などという些細なことで人目を気にしたくはない。そんなことをマスクなしで歩く人を眺めながら、つらつら思ったのである・・・


Justin KilianによるPixabayからの画像 

【本日の読書】

  


2023年2月9日木曜日

理想的な会議

 「やってみなはれ」とは、サントリーの創業者鳥井信治郎の言葉として有名である。何でもうまくいくかどうかはやってみないとわからない。だからやってみたらいいというのはその通りであるが、そう簡単に思う人と思わない人がいる。私は簡単に思う方である。あれこれと議論するより、やってみた方が早いとすぐに考えてしまう。うまくいけば良し、いかなければ反省して次に繋げれば良い。実に簡単な理屈である。ところが世の中にはそうは思わない人がいて、時折意見が合わずに精神的疲労感に苛まれることがある。

 私は現在の会社では取締役であり、会社の行末をいろいろと考えないといけない立場である。足元の事業が安泰であれば問題はないが、残念なことにそうではない。緩やかな下のエレベーターに乗っているかの如くであり、それを駆け上っていかなければ未来はない。当然、昨日と同じことをしていては明日はない。そういう危機感があれば、新しいことにチャレンジしていこうという発想は自然と出てくるだろうと思う。だが、そうは思わない人がやはりいる。

 新しいことをやろうとすれば、そこには当然リスクがある。思い通りに行けばいいが、必ずしもそうはいかない、あるいは予想外の事態が起こるリスクである。それを一々あげつらって、「だからやるべきではない」と言われてしまうと、そこから先には進めなくなってしまう。ならどうするのか。昨日と同じことをやり続けるのか。それだと緩やかな衰退に身を任せることになるのではないのか。そう思うのであるが、反対する人からはそれに対する回答はない。

 世の中には、「問題の中に解決策を見出す人」と「解決策の中に問題を見出す人」がいると言われる。確かに言い得て妙だと思う。問題があって、それを解決するために解決策を考える人がいる一方、その解決策の中にはこんな問題があると指摘する人がいる。指摘するのはいいが、「ではどうするのか」だ。問題をそのまま放置するのか。反対するのであれば代替案を出すべきであるが、そういう人は大概反対だけして代替案は出さない。それだと解決されない問題が残るだけである。

 そう言えば、何か物事に反対する場合、私は代替案を出すべきだと考える方である。世の中には「代替案を出さなければ反対もできないのか」という意見を言う人がいるが、私はその通りだと思う。そもそも解決しないといけない問題があって、その解決策を提示した人に対し、反対するなら「それならどうするべきか」を提示するのは当然だろう。それをせずに反対するだけなら極めて無責任である。反対だけして無責任に放置するから、解決されない問題が放置されてしまう。その危うさを「代替案を出さないといけないのか」とのたまう人は考えていない。

 特に会社の会議などでこの手の人がいると、議論は停滞して何も進まなくなる。よく言われる「決められない会議」である。すると会社全体が旧態依然のまま、ゆるま湯のゆでガエルになってしまう。代替案がないなら反対するべきではない。黙っていた方がまだマシだと言える。「反対だけ」の人は実に厄介である。「代替案がなければ反対できないのか」と言う人は、そもそも何も考えていない人だと言える。そういう人と建設的な議論をするのは難しいというより不可能だと言える。

 とは言え、何でもやってみればいいというものでもないのは事実である。当然、そこにはリスク管理が必要になる。うまくいけばいいが、うまくいかなければどうするのか。そこは考えないと単なる「無謀」になってしまう。「何もしなければ会社が潰れる」という状況なら、一か八かという割り切りもあるかもしれないが、そうでないなら考えうるリスクに対する備えは必要だろう。「ダメならどうするか」、というリスクを考えた上でチャレンジするというのが正しいスタンスだと思う。

 会議で議論が収束しないのは、一番大きな原因は見ている景色が違うからとも言える。会社全体を見ている人と、自分の部署だけを見ている人とでは自ずと意見も違ってくる。立場が異なれば意見も異なるのである。まずは同じ土俵に乗って、同じ景色を見た上で、反対意見があれば代替案を出して議論する。それでこそ健全な議論になると思う。そして最後は「やってみなはれ」。それが理想的な会議だと思うのである・・・


FrantichekによるPixabayからの画像 

【本日の読書】