【原文】
齊必有明衣、布。齊必變食、居必遷坐。
【読み下し】
斉すれば必ず明衣有り、布もてす。斉すれば必ず食を変じ、居は必ず坐を遷す。
【訳】
ものいみする時には清浄潔白な衣を着られる。その衣は布製である。また、ものいみ中は食物を変えられ、居室をうつされる。
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論語に載せられているのは格言ばかりのようにイメージしていたが、これまで見てきたように必ずしもそうではない。今回は風俗的な話である。わかりにくいが、「齊」という儀式があって、この儀式に臨む時の様子がここでは描かれている。その期間中は布製の清潔な服を纏い、食べる物も部屋も変えるのだとか。日本にはそのような儀式がないのでピンとこないが、イスラム教にはラマダンがあるし、戒律の厳しい宗教になると、そういうものもあるのかもしれない。
先日、会社のある部署で新入社員歓迎会をやろうとしたところ、その新人はミャンマー人で、実は今は「ワーゾー」という時期で、お酒も飲めないし、食事も肉食を控えるのだと言う。それを念頭にお願いしたいと謙虚な申し出があり、それならそのワーゾーの期間が終わった11月以降にしようということになったそうである。よくよく聞けば、それは仏教行事との事。我が国にも仏教は浸透しているが、同じ仏教でも我が国のそれは「大乗仏教」であり、ミャンマーは「上座部仏教」という違いがあるようである。
仏教はもともと釈迦が解脱をして始まったことからもわかるように、個人の修行的色彩の強いものであったが、それが伝播するうちに救済的な面が多くなり、個人の解脱よりも大衆の救済となって我が国に伝播している。お釈迦様も今の日本の仏教のあり方を見たら驚くかもしれない。それでも死んだら「戒名」をもらって仏様の弟子になるわけで、そこから修行するのかもしれない(私は弟子入りするつもりはないので、戒名も念仏も要らぬ被仏教式の葬儀を遺い残そうと思っている)。
こうした行事はあった方がいいのかない方がいいのか。それは習慣に左右されるところがあるだろう。生まれた時からそういう習慣のある環境に育ってきていたら、必然的にワーゾーの3ヶ月間は静かに過ごすというのが普通の感覚になるだろう。逆に我々日本人としてみれば、3ヶ月間も飲みに行かない「禁欲生活」なんてごめんだという人も多いだろう。我が国でも喪中は年始の挨拶を辞去するので、まったくないわけではないが、ミャンマーからすれば緩やかである。
イスラム教のラマダンは、「日の出から日没までの間、水を含む一切の飲食、喫煙、性交渉などが禁じられ」るそうである。性交渉も禁止と言われると驚くが、そもそも昼間からするのかと考えれば影響は軽微なのだろう。しかし、私のヘビースモーカーの先輩など困るだろうな、などと思ってしまう。ただ、一定期間、人々に生活上の戒めを行わせるのは、悪くはないのではないかと思う。我々日本人も一定期間、少し不自由な生活を送るのも悪くないと思う。
そう言えば子供の頃、戦時中の苦労を忘れないために、一定の日にすいとんを食べるようにしているという話を聞いたことがある。宗教行事とは違うが、そういう苦労を忘れないようにしようという心掛けは大事だと思う。ラマダンやワーゾーにはそういうところから始まったのかもしれない。現代の無宗教の共産党政権下の中国ではわからないが、孔子の時代には生活の中に宗教色が入っていたのだろう。いつもと異なる服を着て、いつもと異なるものを食べ、いつもと異なる部屋で過ごすのは、己自身の振り返りにもなったかもしれない。
ありがたいことに、現代は物資が豊富で恵まれている。特に我が国では日本人として生まれただけで恵まれているところがある。先人の苦労の賜物であるが、それに感謝するためにも、一定期間制約のある生活を送るのはいいことかもしれない。初詣だけではなく、神社に行って(願い事をするのではなく)頭を下げるのもいいと思う。少しの不自由と謙虚な姿勢が、もっと必要なような気がする。個人的にそういう1日をどこかで作るのも悪くはないと思う。自分だけでも、そんな日を1日でも設けてみようかと思うのである・・・
【今週の読書】

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