2020年5月17日日曜日

論語雑感 里仁第四(その22)

論語を読んで感じたこと。あくまでも解釈ではなく雑感。
〔 原文 〕
子曰。古者。言之不出。恥躬之不逮也。
〔 読み下し 〕
子し曰いわく、古者いにしえ、言げんの出いださざるは、躬みの逮およばざるを恥はずればなり。
【訳】
先師がいわれた。
「古人はかろがろしく物をいわなかったが、それは実行のともなわないのを恥じたからだ」
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 日本人はもともと伝統的に言葉に出すのを良しとしない文化があると思う。天皇をはじめとして高貴な人物の名前を呼ぶのを避けたり、「言霊」信仰があって「縁起でもないこと」を口に出すのを憚られたり。「不言実行」という言葉がある通り、「黙ってやる」ことが美徳とされたり。それに対して、ビジネスの世界では「有言実行」が良しとされることが多い。ビジネスは割と「大勢の人を巻き込んでやる」という意味合いが強く、従って「言葉にする」ことが大事だという面があると思う。

 「有言実行」は確かにカッコいいが、「できなかった」場合も当然あるわけで、できなかった場合には当然恥ずかしい思いをする。「不言実行」という言葉の裏には、「黙ってやる美徳」とともに、「できなかった場合の恥の回避」という意味もあるだろう。「できなかった場合の恥の回避」を消極的ととるか、それもまた美徳ととるかは難しいところかもしれない。「できもしないことを言う」のはホラ吹きも同様であり、それに対する非難もあると思う。

 5年前に転職した際、不動産業なだけに、宅地建物取引士の資格を取るように言われ、2年かけてこれを取った。その次に自ら必要性を感じて「マンション管理士」の資格も取った。こちらは3年かかった。どちらも「取る」と宣言して(宅建は業務命令だったが)取ったので、「有言実行」である。まぁ、取れたからよかったものの、やはり落ちた時はカッコ悪いなぁとバツの悪い思いをした。業務命令の宅建はともかくとして、マンション管理士は自発的にチャレンジしたものであり、宣言する必要性はなかったのは事実である。

 それでもあえて宣言したのは、部下にいろいろとチャレンジ目標を与えている立場上、自分もやっているということをPRする意味もあったが、自らにプレッシャーを与えるという意味もあった。なんとなく落ちたらカッコ悪いと気にするよりも、黙って受けて合格して、「実はこっそり勉強していました」という方がカッコ悪い気がしたからである。実は同僚もどうやらこっそりマンション管理士の勉強をしていたようなのだが(本人は明言しない)、合格したとは聞かないから受験を諦めたようである。それもなんだかなぁと思うわけである。

 宣言した時は高揚感にあふれているから気分もいい。しかし、1回落ち、2回落ちると凹んでくる。合格率8%だし、50代で記憶力も減退しているし、と弱気の虫も盛んになってくる。宣言した手前、どうやってやめようかとやめ時を探すようになるし、「たった3回」で諦めるのかという批判も怖い。かと言って受かりそうもないのに勉強するのは苦痛であるし、3回目の受験前にはかなりのネガティブ思考に襲われたものである。受験を黙っていた同僚のスタンスは正解である(でもわかっちゃったりするのであるが・・・)。

 考えてみれば、昔からそういうことは人に言う方だったなと我ながら思う。高校受験の時も志望校を聞かれれば隠さず答えていたし、大学受験の時も然り。友人の中には、教えてくれない者もいた。努力は人に見せたいとは思わなかったが、元からそういう目標的なものは隠さない性分だったと言えるのかもしれない。「夢は“口”に出して“十”回言えば“叶”う」という言葉があるが、宣言する効果というのは確かにあると思う。「有言」は「実現できれば」これに越したことはない。

 論語の言葉も「有言」を否定しているわけではない。むしろ有言実行を推奨していると解釈することもできる。「言うだけでやらない(やれない)」ことを戒めているわけであり、「言うならやれよ」ということであろう。「大言壮語」は実際が伴ってこそ凄いのであって、そうでなければただのホラ吹き。ホラ吹きになるなというのは当たり前といえば当たり前である。だが、その境界線は難しいと思う。

 その昔、ソフトバンクの孫さんは、創業期にたった2人の社員の前で段ボール箱に乗り、「将来は売り上げを豆腐のように一丁(一兆)、二丁(二兆)と数えるようになる」と宣言したそうである。当時は「大言壮語」と笑ったかもしれないが、それを実現した今は誰も笑う者などいない。「宣言」したから、否、宣言するような心意気だったから実現できたと言えるかもしれない。

 不言実行がいいか有言実行がいいかは、性格にもよるだろうし、無理をする必要はないと思うが、「恥ずかしいから黙っている」のが健全かと言うとそうではないように思う。ホラ吹きは論外であるが、「躬之不逮」を「恥」て黙するのではなく、「逮」ぶように努力する方が健全であると思うのである・・・




【今週の読書】
 ハイ・コンセプト「新しいこと」を考え出す人の時代―――富を約束する「6つの感性」の磨き方 - ダニエル・ピンク, 大前 研一 狭き門(新潮文庫) - アンドレ・ジッド, 山内 義雄




2020年5月14日木曜日

妥協について

我が社は地場の小さな不動産業者である。不動産賃貸を主としており、その一環で他のオーナーが所有されている不動産の管理も行っている。事業は何でもそうだが、お客様からお金をいただくことで成り立っている。当然、「顧客志向」があるべきスタンスで、我が社もこれを意識している。ところで不動産賃貸と(賃貸)管理は、やることは似ていてほとんど同じであるにもかかわらず、大きく異なる点がある。それがこの「お客様は誰か」という点である。

「不動産賃貸」のお客様は、当然、入居していただく「賃借人」となる。賃借人から家賃をいただくのが収入となる。必然的に顧客志向を貫くと、「いかに快適に住んでいただくか」を追求していけばいい。ところが、「賃貸管理」の場合、オーナー様から不動産管理のご依頼をいただいてこれを管理する。やることは「不動産賃貸」と同じだが、お金をいただくのは賃借人ではなく、オーナー様である。「顧客志向」の顧客はオーナー様であり、オーナー様の満足を追求しないといけない。

同じことをやるのであり、同じようにやればいいと思うが、「お客様」が違うとそうもいかない。何よりオーナーと賃借人とでは利害関係が異なる。単純に言えば、オーナーから見れば家賃は高い方がいいが、賃借人の立場から言えば家賃は安い方がいい。これが同じことをやっていても大きな違いが出てくる理由である。オーナーのタイプもいろいろで、とにかくリターンの最大化を求めるタイプから、我が社同様、賃借人志向の考えを持ってくれるタイプまである。我が社と同じであれば問題はないが、違えば問題となる。

たとえば室内のエアコンが故障した場合、それはオーナーが交換の義務を負う。それはすなわちオーナーの支出となるわけで、「とにかく安く済ませてくれ」というタイプもいれば、入居期間等を勘案し、「多少高くても機能のいろいろと揃っているのにしてあげて」というタイプもいる。我が社は基本的に「顧客志向」を大事にしているが、考え方の合わないオーナー様とどう付き合うかは悩ましいところである。「顧客志向」を追求するのであれば、自分の勝手な考えよりもお客様たるオーナー様の意向を大事にすべきとなるが、それをどこまで重視すべきだろうか。

基本的に我が社の考え方を説明し、歩調を合わせてしまえばそういう問題は起こらない。ただ、必ずしも同意できるとは限らない。考え方の合わないオーナーとはお付き合いしなければいいという考え方もあるが、そうも言っていられない事情もある。また、どんなオーナー様であろうと、合わせるのがプロという考え方もある。銀行員時代も、上司の指示と自分の考えが合わなくてイライラしたことは随分あった。上司も見方によってはお客様といえる(→『プロフェッショナル・サラリーマン』)であるが、この手の意見の違いはどこにでもあると思う。

意見が異なる場合、議論して同意点を見つけ出せればそれに越したことはないが、対立を解消できなければ、どうしても指示を受ける立場、お金をもらう立場の方が弱い。勢い、自分の考えを殺して仕事をすることになる。サラリーマンの場合、それが赤ちょうちんの酒のつまみとなるのであろう。金のためと割り切ってやるのが大人の対応なのか、それとも信念を貫いて高楊枝を決め込むか。「妥協」という言葉が脳裏を過る時、どうするべきかは実に悩ましい。

起業したあと、資金不足を補うために外部の投資家から資金を入れてもらう場合、お金だけ出して口は出さないという投資家ばかりではないだろう。当然、早く上場しろとか、収益を上げろとかいうプレッシャーが出てくることもある。意見が一致してすべて任せてくれる投資家ばかりならありがたいが、そういう贅沢も言えないケースだって多いだろう。この場合、悪いのは口を出す投資家ではない。それぞれの価値観があって動いているので、意見の相違はあって当たり前であり、要はそれをどうこなすかである。

安易に妥協はしたくないが、オーナーの気持ちにも応えないといけない。収益だって上げないといけない。自分だけならまだしも、社員を抱えていれば贅沢も言っていられない。当面は顧客志向を徹底しつつ、我が社の考え方もPRしていくしかないだろう。そこで揺るぎなき信頼感を得られれば、意見の対立もなくなるかもしれない。「妥協」は諦めではなく、努力目標だと考えたい。己を更なる高見に持ち上げるための。そうして試練を前向きにこなす先に、望ましいゴールがあるのだと考えたい。

 そういう意味で、オーナーの意向に沿うことは、「妥協」ではなく「課題」であると考えたいと思うのである・・・




【本日の読書】
 ハイ・コンセプト「新しいこと」を考え出す人の時代―――富を約束する「6つの感性」の磨き方 - ダニエル・ピンク, 大前 研一 狭き門(新潮文庫) - アンドレ・ジッド, 山内 義雄





2020年5月10日日曜日

コロナ騒動雑感(その4)

 GWも家にこもり、週末も家にこもりの生活がもう1ヶ月以上。それなりに満喫はしているが、やはりラグビーの練習ができないのが大きなストレスである。世間ではいよいよ10万円の給付金申請受付がスタートし、早速オンラインで手続き。1人10万円で、我が家は4人家族につき40万円。ありがたいので素直に受け取らせていただくが、「何故に?」という疑問は残る。給料は確保できているし、家ごもりの不自由はあるが、金銭的には困っていない。困っているところに集中すべきだと客観的には思う。

 この騒動で本当に困っているのは、飲食店(特に居酒屋系)をはじめとする小売店や宿泊施設、娯楽施設などの事業主体だろう。休業で収入がなくなるが、従業員に対する給料は払わないといけない。残業代が減る社員もそれなりに大変だろうが、事業主は資金繰りで頭が痛いだろうと思う。行政も支援策を出しているが、内容的にはもう一工夫できるのではないかと思う。資金繰りには「融資」も有効だが返済をしないといけない。むしろかつてのような「返済猶予」を金融機関に要請し、無条件でできるようにした方がお金も使わなくていいように思う。

我が家はルール通りに生活できていると思う。妻も1人で買い物に行っている。ただ、スーパーに買い物に行って帰ってくると、どこかの家族が3人で買い物に来ていたと気色ばむ。「老夫婦ならまだわかるが、子供連れの若い夫婦は信じられん」と言う。「買い物は極力1人で」と呼びかけられており、いろいろと言い分はあるのかもしれないが、ルールからは外れている。なんとなくそこまで真剣にルールを守ろうという意識はないのかもしれない。どこか他人事に考えている人たちも当然いるだろう。

家にいるのも飽きるので、ちょっとした用事も兼ねて散歩に出かける。歩いている人はかなりいる。もちろん、自分もその1人だし、他の人も散歩や日常の買い物なのかもしれない。夫婦2人で、あるいは家族であっても散歩ならいいだろうし、誰がルールを守っているのか、あるいはいないのかはわからない。マスクをしていない人も目につく。店舗に目をやれば開いているところもあるし、休業中のところもある。ショッピングセンター内の店舗の休業はやむを得ないだろうが、路面店などは微妙だ。飲食店など一斉に休業されたら困るし、かと言ってそれが居酒屋である必要はない。

 ネットニュースを見ていると、苦しい中、「ルールを守って」営業している店舗に対し、それを批判して嫌がらせをする「自粛ポリス」なるものが横行しているという。自分で見ていても、この店は開ける必要があるのかと思うものもあるが、小さな店舗なら別にいいようにも思う。自粛ポリスの活動も、わからなくもない。根底にあるのは正義感。「こういう事態なんだからみんなでルールを守って生活するべきだろう」という意見には同意する。ただし、それが行き過ぎるのは当然問題である。

自粛ポリスの標的になった店舗には、「ルールを守っている」ところもあるという。それを知らないのか、あるいは知っていても自粛すべきだと考えているのか。無知な前者はもちろん、勝手にルールを拡大解釈する後者も問題である。自分たちは正義感に溢れているのかもしれないが、歪んだ正義感ほどタチの悪いものはない。「正義であれば何をやってもいい」という大いなる勘違いは是正されないといけない。

戦前は、こうした「歪んだ正義」が陸軍の暴走につながっている。何かあれば「正義の鉄槌」を下しても構わないという理屈は5・15事件や2・26事件につながり、やがて怖くて自由にモノが言えなくなる。ルールを守らない人たちには確かに腹立たしいところはあるが、それはソフトにわかってもらう方法を考えないといけない。自粛ポリスも結構だが、抗議をしたいのなら堂々と名乗って意見表明すればいいと思う。そこで実はルール内だということもわかるかもしれない。

そう考えれば、腹立たしくとも家に帰って来てから家族にそれを話している程度であればなんの問題もない。そういう親の態度によって、家族内でも遵法意識が育まれるかもしれない。テレビでも政府の曖昧な対応を批判する意見を聞く。だが、前例のないこの事態にキッチリ決めてなんでもやれるわけがない。事態の推移に合わせて柔軟に対応せざるを得ないところもあるだろうし、何でもかんでも決めて行動できるものでもない。底の浅い批判には、テレビに出るならもう少し勉強すべきだろうにと密かに思う。

食事の時、そんなことを考えてそんな番組を観ていたら、中学3年の息子が「安倍総理はよくやっている」と偉そうに語った。中学3年ともなればそんな意見の1つや2つ持っていてもおかしくはない。安倍総理を支持しようが批判しようが自由だが、そういう意見を持っているということを知ってちょっと嬉しく思う。世の中のことをいろいろと考えるには、今回の事態もいい経験だろうと思う。

 人の振りはともかく、自分にできること、自分が守らねばならないことはきちんとする。それが世の中のためであるし、人を批判するのではなく、自分の行動を正しくしたいと思う。明日も自分の仕事をこなし、会社を維持することに全力を傾け、そして10万円の使い道をゆっくり考えたいと思うのである・・・





2020年5月6日水曜日

幸福について

幸福は人が人生の目標として掲げる1つとして間違いないだろう。人は皆幸福を求めるものだろうし、求めない者などいないだろう。ではその幸福とは一体なんだろうか。コロナ自粛で家にこもっていると、そんなことをつらつら考えてみる。

とりあえず今自分は幸せだろうかと問うてみると、なんとなく幸せのような気がする。はっきり断言しにくいのは、「取り立てて不幸だという理由もないがもっと幸せになる要素があるような気がする」からである。貧困国に生まれて1日1ドル以下で生活する人に比べたら、我々日本人はそれだけで幸せだと思うが、不景気で失業し住むところも失うかもしれないと言う人にしてみれば、とても幸せなどといえないだろう。そういう意味で、幸福は相対的なものと言える。

しかし、例えば天涯孤独で仕事もアルバイトで食い繋ぎ、細々と一人暮らしをしている人がいたとして、その人が不幸かどうかは傍からは断言できないであろう。その人なりに少ない収入の中でも仲間と交流したり、ささやかな趣味に没頭したりとそれなりに幸せに生きているかもしれない。他人と比較して幸不幸を決めることは当然できない。金持ちで豪邸に住んでいても、不幸を抱えている人はいるだろう。そう考えると、幸福は絶対的なものであるとも言える。

幸福とは自分のものか他人のものか。一見、幸福とは自分の幸福だと思うが、そうでもない。例えば初詣でいつも神様にお願いするのは家族の健康。自分のことはお願いしない。家族が(特に子供が)健康で幸せであればというのが私の変わらぬ願い。幸福が自分のものかと考えてみると、ここにおいては子供や親(他人)のものである。ただ、それで自分が幸せになれるわけであり、そういう意味では幸福は自分のものでもある。

幸福は目に見えるものだろうか、それとも目には見えないものだろうか。なんとなく目に見えるものではないように思うが、子供が喜ぶ姿を見ているとたいていの親は幸せ感に包まれる。子供の喜ぶ顔という形で幸福は目にすることができる。子供に限らず、自分のしたことで誰か他の人が幸せになっているのを見ることは、とてつもない幸せである。そう考えると、幸福は目に見えるものである。

幸福は数えられるものだろうか、それとも数えられるようなものではないだろうか。なんとなく数えられるようなものではない気がするが、例えば結婚しても子宝に恵まれない人はいるもので、子供がいるということは間違いなく「1つの幸福」である。それと同様に、仕事があって収入が安定していること、家族が健康でいること、毎週末になんの気兼ねもなしに映画が観られること、これら1つ1つが幸せと考えれば、幸福は数えられる。

幸福に大きさはあるのだろうかと考えると、実はある。例えば安定した仕事があることは1つの幸福ではあるが、それで人生すべて幸せになれるというものではない。それは「1つの」幸せであり、「小さな幸せ」である。「週末の深夜に1人で映画を観る」というのは、私の幸せを感じる瞬間であるが、それが人生の幸せすべてではない。いわば「小さな幸せ」であり、「大きな幸せ」を構成する1つの要素と言える。そう考えれれば、「幸福には大きさがある」と言える。

幸福は一時的なものか、それとも永続的なものか。今、幸せかと問われてもそうだと答えても、明日には不幸になるかもしれない。禍福は糾える縄の如しで、今日は幸せを感じていても、明日は不幸のどん底に落ちるかもしれない。1つ1つの幸福は永遠のものではないが、その1つ1つが織りなす人生全体で見れば「いい人生」を送れた人は永続的な幸福を満喫できたと言えるかもしれない。そう考えると、幸福は一時的なものであり、永続的なものとも言える。

幸福は「長ければ長いほど良い」のだろうか。例えば交通事故で死ぬことは不幸であるだろう。では94年間幸せに生きてきて、最後に交通事故で死んだ人は不幸なのだろうか。なんとなくそうではない気がする。逆にずっと不幸な人生を送ってきた人が、最後は幸せに包まれて安らかに息を引き取った場合、その人は不幸な人生を送ったことになるのだろうか。これもなんとなくそうではない気がする。幸福は「長ければ良い」と言うものでもなさそうである。

人が幸福かどうかはどうしたらわかるのだろうか。例えばある人が火事で焼死したとしたら、その人は不幸なのだろうか。少なくとも周りの人はそう思うだろう。でももしそれが、子供を助けた末の焼死だったらどうだろうか。周りの人はともかく、(自分だったら)しっかり自分の子供を守っての死であればむしろ幸福だろう(もちろん、自分も死なないのが良いに決まっているが)。人が幸福かどうかは、結局その人でないとわからない。

幸福は量か質かという問題もある。小さな幸福が数多く集まれば大きな幸福になることは間違いないが、「これだけあれば幸せ」というのもあるだろう。そういう意味で、幸福は量でもあり、質でもあると言えるのかもしれない。とりとめもなく考えてみると、幸福はいろいろな角度から眺めることができる。突き詰めると、半分水が入ったコップを「半分しか」入っていないと考えるか、「半分も」入っていると考えるかの例ではないが、「考え方次第」と言うところもあるだろう。

何をもって幸福とするかは、人それぞれだろう。小さな幸福を積み上げる人もいるかもしれないし、今一瞬の幸福を追求するタイプもいるかもしれない。やっぱり幸福な人生を送りたいと思うが、それには何が自分にとって幸福なのかを考えないといけない。ただ漠然と幸福になりたいと思っていても、いつまでも追い求め続けて満足できないかもしれない。逆説的かもしれないが、幸福は「不幸でない」ことであるとも言える。自分が幸福なのかどうかわからなかったら、「不幸かどうか」を考えてみても良いかもしれない。不幸でなければそれでよし。それがすなわち幸福とも言える。

 人生折り返し地点は過ぎたと思うが、残りの人生を幸福に送りたいと思う。されど不安要素はたくさんある。多くは望まないが、不幸をできるだけ回避したいとは強く思う。自分にとっての幸福とは、「不幸でないこと」かもしれない。そんな幸福をこれからもずっと求めてもいってもいいのではないかと、家にこもりつつ思うのである・・・



→ 『幸せはお金で買えるか』



2020年5月3日日曜日

論語雑感 里仁第四(その20)

論語を読んで感じたこと。あくまでも解釈ではなく雑感
〔 原文 〕
子曰。三年無改於父之道。可謂孝矣。
〔 読み下し 〕
子し曰いわく、三年さんねん、父ちちの道みちを改あらたむること無なきは、孝こうと謂いうべし。
【訳】
先師がいわれた。
「もし父の死後三年間そのしきたりを変えなければ、その人は孝子といえるだろう」
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 人間は言葉によって経験を後世に伝えることができる。それが人間と動物との大きな違いである。誰もが自らの経験や考えを残そうとする。それは自分の子供や事業を継ぐ者への愛情ゆえもあるだろうし、成功体験を広く残したいという思いかもしれない。自分よりも経験を積んだ人たちが残したものを上手に利用できれば、それは受け継ぐ者の成功へとつながるものだろうし、当然重視すべきである。ましてや肉親の自分の父親が大事にしていたしきたりを守ることも、当然意味のあることであり、親の思いを大事にする「孝」という考え方にあっては大事なことであると思う。

 それはそれでその通りであると思うが、それでもどこまでそれを守るかということは考えないといけないことである。まぁ、3年程度であれば問題はないと思うが、長くずっととなるとそうもいかない。それはやはり時代の流れというものがあるからである。その時点では正しいことも、時間が経って環境が変われば時代に合わなくなってくることはある。にも関わらず、後生大事に守り続けると不具合が出てくる。その時にどう対応すべきかは大事である。

 会津藩初代藩主・保科正之は、会津藩の憲法ともいえる家訓を残した。その中には「法を犯す者は宥すべからず」なんて今でも当たり前のこともあるが、「婦人女子の言、一切聞くべからず」なんてのもある。父祖の定めたものであっても、金科玉条の如く大事に守るのではなく、時代に合わせて柔軟に変えていくことも大事である。しかるに、「婦人女子の言、一切聞くべからず」はさすがにもう変えようという意見であれば、異論を唱える人は(少なくとも公には)いないだろうが、もう少し前の過渡期の時代であれば「初代藩主から伝わる家訓を変えるなんて」という意見もあったと思う。

 江戸時代末期、黒船来航で日本の社会は真っ二つに割れる。尊王攘夷運動である。祖法(神君徳川家康公が定めたこと)である鎖国政策(正確には家康ではない)はあくまでも維持すべきという攘夷派と開国派が争うこととなった。今となっては開国は時代の流れであり、誰も異論など挟まないだろうが、時代の過渡期たる当時はどちらの言い分もそれぞれ一理あり、一概にどちらが正しいとは言い難かったと思う。祖法を守るべしというのは、いわゆる前例踏襲で、新しいことには消極的。とにかく今まで通りやっていれば問題ないという今でもお役所や大企業に見られる考え方である。

 それは現代でも同様で、さしづめ今なら憲法改正問題と言えるかもしれない。75年前に制定した憲法を金科玉条のごとく守り、一切変えさせまいとする護憲派と、改正派が長年論争している。特に憲法改正を堂々と掲げる安倍政権の誕生以来、改憲派の声が大きくなってきている。自分はどうかと問われれば、個人的には憲法改正論者ではあると答えるが、では今国民投票があればどちらに投票するかと言えば間違いなく「反対」に投票すると思う。自分自身、そんな風に非常に微妙な考え方をしている( →『憲法第9条はやっぱり改正すべきなのだろうか?』)。

 何事にせよ大事なことは、「思考停止してはいけない」ということだと思う。なぜそれをやるのかと問われた時に、きちんと説明ができるかである。「父の定めたしきたりだから」では、理由になっていない。それは「思考停止」に他ならない。憲法改正にしても、「戦争に反対だから」改正すべきではないという答えだと「思考浅薄」だと言わざるを得ない。ましてや「安倍総理は戦争をしたがっている」などという意見にいたっては、まったく根拠の乏しい思い込みに過ぎない「思考迷走」と言える。ある意味「停止」より悪いかもしれない。

 今日は憲法記念日。折からのコロナ騒動も相まっていろいろな意見が飛び交っている。それはそれで大いに議論すべきだと思うが、自分自身の考えもしっかりと深めてみたいところである。今もし孔子の言葉に付け足すのであれば、「五年父の道を改むること無きは、愚と謂うべし」であろうか。自ら考える事こそ「孝」だと、我が子には伝えたいと思うのである・・・






2020年4月29日水曜日

猪木社長と馬場社長

猪木伝説の真相 天才レスラーの生涯 (宝島SUGOI文庫) - アントニオ 猪木, 佐山 聡, 前田 日明, 蝶野 正洋, 天龍 源一郎
「この道を行けばどうなるものか 危ぶむなかれ 危ぶめば道はなし  踏み出せばその一足が道となり その一足が道となる 迷わず行けよ 行けばわかるさ」
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 小学校6年の時、今は伝説ともいうべき全日本プロレスのオープンタッグ選手権(ザ・ファンクスvsシーク、ブッチャー)を知ってプロレスを観るようになった。以来、20年くらいは熱狂的にプロレスを観ていたものである。テレビはもちろん、会場にも足を運んだ。今ではほとんど観なくなってしまったが、その手の本があるとついつい手を伸ばしてしまう。最近では、『猪木伝説の真相 天才レスラーの生涯』を読んだ。様々なレスラーが証言する中で、ちょっと興味を惹かれたのがグレート小鹿の話である。

 それはアントニオ猪木とジャイアント馬場を比較してのもの。グレート小鹿は「アイデアの猪木、カネの馬場」と2人を評す。それで改めてあの頃を思い出した。プロレスのスタートは、前述の通りジャイアント馬場率いる全日本プロレス(全日)であったが、やがてのめり込んだのはアントニオ猪木の新日本プロレス(新日)の方。理由は簡単。新日の方が面白かったからである。当時、全日はアメリカのNWAを頂点としたアメリカンプロレスの世界で、確かに大物外人レスラーは多数全日に来日していた。ところが新日はそれとは違う世界だった。

 タイガーマスクによる四次元空中殺法(全日のミルマスカラスのそれとははるかに次元が違った)、藤波・長州名勝負数え歌、猪木vs国際軍団抗争などは日本人同士のものだし、数少ないながらも外人レスラーもスタン・ハンセン、ハルク・ホーガンやアンドレ・ザ・ジャイアント、タイガー・ジェット・シンなど凄みがあった。それぞれの個性が光っていた。シンやハンセンなどはなぜか全日移籍後はそれほど光らなかった。かつての巨人のように4番打者をずらりと揃えても結局、その中で4番打者は1人だけという理屈である。

 猪木は日本プロレスを追放されて、ゼロからのスタートで新日を立ち上げた。それに対し、馬場は崩壊する日本プロレスの資産を引き抜いて全日を立ち上げた。波乱万丈のスタートと順風満帆のスタートがその後の違いの大きな理由である。何もないからとにかくアイデアを出す。力道山の時代からの日本人対外人という対立構造を維持した全日に対し、日本人抗争を取り入れた猪木。異種格闘技戦も外人不足という懐事情のなせる技だが、それがモハメド・アリ戦に結び付く。

 そうした日本人抗争も異種格闘技戦もリング上での技も完全決着試合(3カウントフォール勝ち)もブームは新日のリングで起こり、全日に流れるという形であった。新日がなければ、今も全日は日本人対外人の対立構造でNWA世界ヘビー級ベルトを巡って争い、「不透明な決着」でお茶を濁していたかもしれない。リング上での実力はともかく、「経営者」としては圧倒的に猪木の方が上だったと思う。新日はビッグマッチといえば東京ドームだったが、全日は日本武道館だった。馬場は経営とは「いい外人を連れてくる」というそれまでのセオリー(成功体験)から離れられなかったと言える。

 得てして業歴が長い会社ほど、「前例踏襲」が王道となりがちなのではないだろうか。我が社も中小企業ながら業歴は20年を超え、私が入社するまでは見事に過去の成功体験の中で生きていた。というか、もはや「成功」体験ではなくなっていた。それを利益が望めるビジネスモデルに変換して行ったが、うまくいくかどうかわからないことを進めるのは非常に勇気がいることである。だから役所や大企業がリスクを取らない前例経営に傾くのである。この勇気が取れるか否かはやっぱりトップの覚悟だろう。

 アントニオ猪木の新日本プロレスは、それまでの成功セオリーである「実力外人レスラーの招聘」ができなかったがゆえに、いろいろとお客さんを引きつける知恵を絞らねばならなかった。ジャイアント馬場の全日本プロレスはうまく行っているだけにそのセオリーから離れられなかった。勢いづく新日に対抗するため、馬場は日本テレビから引っ張ってきた金を湯水のごとく外人レスラー招聘に使ったとグレート小鹿は語るが、結局、全日が面白くなったのは新日流の「日本人選手同士の実力決着試合(不透明な両者リングアウト引き分け試合の排除)」だったのは皮肉だろう。

 経営が順風満帆だったとしても、今回のコロナ騒動のようなこともあるかもしれないし、ある日突然危機に襲われるかもしれない。その時に必要なのは、常に危機感とそれに裏付けされる勇気と覚悟なのだろうと思う。「この道を行けばどうなるものか」それが分かれば苦労はないが、あえて行ってみる勇気を失ってはならないと思う。今、我が社もコロナではないが、大きな外因によるそんな危機にある。怖くもあるが、燃える闘魂を意識して乗り越えていきたいと思うのである・・・


Greg MontaniによるPixabayからの画像 



2020年4月26日日曜日

コロナ騒動雑感(その3)

「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」
ヨハネによる福音書
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週末の巣ごもりも4週間目を迎えた。東京都ではなんとなく感染者数が減ってきているように思われるが、まだまだ続くのであろう。通勤電車はすっかりガラガラ。もともと時差通勤をしているようなものだが、行きも帰りもこれだけガラガラだと座れる時間も長くなり、不謹慎だがこれはこれで続いて欲しいというのが正直なところ。一応、中小企業なりに時差通勤、在宅勤務を一部の社員で行なっているが、その実態は休暇でありいろいろと支障は出ているのは致し方ないところだろう。

勤務先のある蒲田駅周辺は、いつもは賑わっているが、このところずっと閑散としており、繁華街から人がいなくなっているのはニュースを見るまでもなく事実である。一方で周辺の小さな商店街の方がむしろ人出が多かったりするのは、なんとなく皮肉めいている。この時期、売り上げが伸びたとしても大っぴらに喜ぶわけにもいかないだろうが、そういうことがあってもいいのだろう。逆に休業しているところは大変だろうなと思う。我が社が直接的な影響がないのはまったく幸いである。

大阪では休業要請に従わないパチンコ店に対し、大阪府が店名公表に踏み切った。6グループのうち2グループは慌てて休業に切り替えたが、4グループは無視するようである。休業に切り替えた2グループは、公表などブラフだとタカをくくっていたのだろうか。それなら最初から休業すればいいのに実にみっともない。逆にそれでも営業を継続するところはどんな判断なのだろうかと興味深い。背に腹は変えられない事情があるのだろうか。パチンコ店は結構経営が苦しいものだというのは、銀行員時代にいろいろと担当していて知っているだけにそんなことも考えてしまう。

こういう時に、要請に従う方がいいに決まっているが、従わないのも勇気がいると思う。それにしても営業を継続するとしても、そこには「利用者がいる」という事実があるのも確かである。開ける方が悪いのか、利用する方が悪いのか。こういう時期にパチンコに行く人はたぶんあまり公共心などないのであろう。「自分が良ければ」という考え方だろうし、そういう人を相手に商売して何が悪いと考えて営業しているのだろう。営業を自粛したところで、それで倒産しても誰も助けてはくれないだろう。

政府も休業補償をいろいろと考えているだろうが、それで充分かという問題もある。それにパチンコ店はただでさえ白い目で見られているところがある。日銭商売という商売柄、営業を再開したら在庫を売ればいいという商売と違って、休んだ日の売り上げは永久に取り戻せない。単に少しでも儲けてやろうという金の亡者的な理由よりも、懐が厳しいという事情のような気がする。世間的には「パチンコ店けしからん!」という雰囲気があるが、少し踏み込んで事情を知りたいと思う。パチンコ店は高い機械を買って営業しているところがあり、新しい機械を次々に導入するために資金繰りは大変だったりする。そういう苦しい事情があるかもしれない。

仮に儲けだけが目的であったとしても、企業は存在するだけで社員に給料を払わないといけない。資金を借りて投資をしていれば毎月返済もある。自粛要請を無視するパチンコ店を非難するのは簡単だが、それは例えばコロナ騒動が治るまで給料をもらえなくてもいい、売り上げがゼロでもいいという人だけが非難することができるのではないかと思う。むしろ、利用する人をこそ非難すべきだろう。利用者がいなければ営業していても害はないのだから。「開いているから」というのは理由にならない。少しぐらい我慢できないのかと思う(我慢できないし、したくないのだろう)。

それにしても日本の場合、「非常事態宣言」と言っても、中国をはじめとした海外諸国に比べると強制力という点では弱いらしい。だからもっと強制力のある制度をという意見もあるようだが、それが良いのか悪いのか。中国は論外としても、強制力の強い制度があるということは、「そこまでしないとダメ」ということと表裏一体とも言える。「自粛」できないから強制力を伴わせているのである。となれば、強制力のない「非常事態宣言」は誇らしいとも言える。完璧とは言えないが、我が国にはそれだけの自粛力があると考えたい。

 まだまだ先は見えないが、こういう事態もいい経験ではないかと思う。そういうと不謹慎かもしれないが、そう考えてモラルある行動を意識したいと思うのである・・・






【今週の読書】
 面白いほどよくわかる!臨床心理学 - 下山晴彦 NHK「100分de名著」ブックス 三木清 人生論ノート: 孤独は知性である - 岸見 一郎 誰もが戻れない (講談社文庫 ろ 10-1) - ピーター ロビンスン, Robinson,Peter, 敦子, 幸田





2020年4月23日木曜日

リーダーの素養

まだ10代の頃、小学校時代から仲の良い4人組で何度かスキーに行ったことがある。4人中3人が初心者であった。何とか滑れるようになると、みんなでリフトで上に上がる。そして滑り始める。最初の内は唯一の経験者が先頭に立って滑っていたが、そのうちその役割を嫌がるようになった。リフトで上に上がった後、「さぁ誰から滑るか」とみんなで顔を見合わすのである。誰も最初に滑りたがらない。微妙な沈黙タイムが流れるのである。今でもスキーと言うと思い出すシーンである。

私としては、唯一の経験者だった男に先陣を切って滑ってもらいたかった。後からついていく方が楽だからである。だが、よく言えば民主的、悪く言えば責任放棄。先陣を切るより後からついていく方がはるかに楽であり、「みんな普通に滑れるようになったんだから、俺がいつも先頭でなくてもいいだろ」と彼は考えたのであろう。他の3人にしてみれば、ようやくなんとか滑れるようになった程度であり、みんなの先頭に立てるほどではないと尻込みする。リーダー不在の混沌である。

これはたとえばみんなで飲みに行く場合、「どこに行く?」「俺、どこでもいい」というやり取りにも表れたりする。そんな時、「じゃぁ今度はこっちを滑ろう」とか、「あそこの店に行こう」とか提案できる人はリーダーの素養があると思う。リーダーの仕事で一番大事なのは、みんなの先陣を切って動けることだろう。要は「決定」である。結論を下し、自ら動く。これこそがリーダーにとって求められることだろう。小さいながらも会社組織の中で働いていると、この「決定」ができるかできないかで、リーダーとしての頼りがいがすべて決まってくると言っても過言ではない。

社内でも技術はあるものの、「決めてくれればその通りにやります」というのが口癖の人がいる。腕は確かなのであるが、常に「指示」を求めてくる。もちろん、立場的なものもあるかもしれない。しかしその一方で、「それだったらこうしたらどうですか?」と常に自分の意見を言ってくる人がいる。どちらが頼りがいがあるかは言うまでもない。「指示」に従っている方が、責任もないし楽ではある。その代わり権限は持てないし、やり甲斐も(たぶん)持てないだろうと思う。それでも(その方が)いいと言う人もいる(というかその方が多い)かもしれない。

これまで多くの人と一緒に仕事をしてきたが、どちらかと言えば、リーダータイプの人は少なかったと感じている。みんなどこかで常に責任を回避しているのである。「決めてくれればその通りにやります」とか「自分には権限がないから」とか、「上に聞いてみます」とか。実際に権限があるかどうかは実は関係がない。権限がなくても「こっちにしましょう」という提案はできる。それで上司の「決定」を引き出せたのであれば、それはその人が「決定」したのと結果的には同じである。ましてやリーダーの立場に立ったのであればなおさらである。

それでもまだ自らの決定に自信が持てないのか、「みなさんどうしますか」と聞いてくるのである。リーダーシップにもいろいろあって、「民主的リーダーシップ」が好みの人もいるかもしれないが、あまりそれにこだわると、かえってみんなで顔を見合わせて動きが取れなくなる。あのスキーの時のように。会社としてこうすべきと客観的な基準があるのなら、みんなの都合を聞くのではなく、「合わせてもらう」ように仕向けることも大事である。

 経験も能力もあるけど、ちょっと物足りない。自分の次のリーダーを指名する時に対象の人物がそんな感じであれば、「決定」できるように導いていかないといけない。そんなことをこの頃強く思うのである・・・


PIRO4DによるPixabayからの画像 


【本日の読書】
 面白いほどよくわかる!臨床心理学 - 下山晴彦 NHK「100分de名著」ブックス 三木清 人生論ノート: 孤独は知性である - 岸見 一郎 誰もが戻れない (講談社文庫 ろ 10-1) - ピーター ロビンスン, Robinson,Peter, 敦子, 幸田




2020年4月19日日曜日

論語雑感 里仁第四(その19)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。
〔 原文 〕
子曰。父母在。不遠遊。遊必有方。
〔 読み下し 〕
子し曰いわく、父母ふぼ在いませば、遠とおく遊あそばず。遊あそぶに必かならず方ほう有あり。
【訳】
先師がいわれた。
「父母の存命中は、遠い旅行などはあまりしないがいい。やむを得ず旅行する場合は行先を明らかにしておくべきだ」
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 子供も成長して大人になれば親元を離れることになる。私などは自立心が強かったので、とにかく早く家を出たいと考えていた。しかし、最初の機会であった大学入学の際は、家を出る=家を借りることであり、家賃を考えればその選択はありえなかった。自分で払えるものではないし、親に負担を強いるのはそもそも自立ではない。片道1時間半という距離は通えない距離ではない。結局、学生時代は真面目に片道1時間半の通学をやり通した(授業やラグビー部の練習で週7日通う「優等生」であった)。

 銀行に内定をもらって真っ先に人事部の人に尋ねたのも、そういうわけで「寮に入れるか」ということであった。当時はまだ新入行員は入行時には全員寮に入る時代。そんなこと聞くまでもなかったのであるが、それだけ家を出たいという気持ちが強かったのである。と言ってもそれは実家が嫌だったのではなく、早く自立したかったのである。かくして、就職と同時に24年間共に暮らした家族の元を離れ、1人暮らしをするようになったのである。以来、両親とは別々に暮らしている。

 後で聞いた話ではあるが、私が就職して家を出た後、しばらく母は気が抜けて何もやる気になれなかったそうである。思うに、初めての子を授かり、おしめを替え、食事をさせ、何くれとなく世話をして育てた子供が出て行ってしまい、喪失感に苛まれたのだろう。今は大学の卒業式に、「子育て卒業証書」をくれる大学もあるのだとか。考えてみればその通りであるが、母親としては寂しかったのかもしれない。そんな思いが後々「母親と息子」の関係に影響するのだろう。そんなことは露とも知らない私は、初めての寮生活を満喫していたのである。

 鉄砲玉ではないが、寮に入った私はほとんど実家には帰らなかった。週末は銀行のラグビー部の練習があったし、寮にいれば仲間が誰かいるし、実家に帰る理由がなかったのである。実家が近い友人には、毎週帰宅している者がいて(そもそも寮に入るのが嫌だったという者もいた)、私もよく「実家に帰らないのか」と聞かれたものである。人それぞれだろうが、私は「週末に実家に帰るってことは、週末家にいるってことと同じだろう」と答えていた。したがって、実家に帰るのは特別に用事がある場合を除き、ほとんど年末年始のみであった。

 それでも結婚する時は、将来は同居したいと思ったし、それを受け入れてくれそうな妻を選んだつもりであったが、のちにそれは大間違いであったことに気付く。結果的に同居しなくてよかったと思うが、今やすっかり生活は別々で固定してしまっている。それでも親も歳をとれば何かと心配になってくるし、今は最低でも月に一度は実家に顔を出している。このコロナ騒動で(菌を持ち込んではいけないから)ちょっと行きにくくなっているが、それがなければ電話くらいは毎週し、2週間に一度は実家に顔を出したいと考えている。

 今回の孔子の言葉は、時代背景も大きいと思う。2,500年前の世界は、地球もまだまだ広く、遠い旅行などと言えばそれこそ一ヶ月単位の時間がかかったのかもしれない。何があるかわからないし、連絡手段も乏しい中、場合によっては今生の別れになるかもしれない。そんな帰ってこられるかわからないほど遠くへの旅行などするべきではないし、やむを得ず旅行する場合は、行き先を明らかにせよという説明も頷ける。だが、今は日本全国、いや世界のどこにいてもスマホで連絡が取れる時代であり、もはや孔子の指導も意味をなさなくなっている。

 しかしながら、母親とちょくちょく話をしていて、よく話題に出るのは弟のこと。長く連絡がないのはしょっちゅうであり、母も気になるようである。「便りのないのは良い便り」とはいうものの、やはり「毎日が日曜日」の母親としては、子供たちの様子が気になるのであろう。そういう姿を見ていると、余計自分としては連絡を密にしようという気になる。それは今生の別れとなった昔の遠くへの旅行とは異なり、「日々の安心」だろう。元気でやっているということがわかるだけでも違うと思う。

 今は世界のどこにいてもスマホで連絡が取れる時代。だからどこへ行こうとわざわざ連絡する必要はないかもしれないが、簡単に連絡が取れるからこそ、離れていても近くにいる存在感は出せると言える。それこそが孔子の言葉を現代に翻訳したものになるのではないだろうか。せっかく親にもスマホを持たせたし、電話のみならず、メールやLineなんかを通じてでも近くにいる存在感を出していきたいと思うのである・・・


Erik TangheによるPixabayからの画像 


【今週の読書】
 本当にわかる論理学 - 三浦 俊彦 猪木伝説の真相 天才レスラーの生涯 (宝島SUGOI文庫) - アントニオ 猪木, 佐山 聡, 前田 日明, 蝶野 正洋, 天龍 源一郎



2020年4月15日水曜日

母親と息子

実家の両親も80の大台を超え、離れて暮らしているので何かと心配なこともあり、ちょくちょく顔を出している。一緒に食事をし、スマホの使い方をレクチャーし(親父は最近paypayを始めた)、母親とは他愛もない会話をしている。行けば母親は何くれとなく世話を焼いてくれ、フルーツやスイーツやビールやコーヒーなどを次々に出してくれる。陰で親父に対する不満を聞かされるが、親父に対する態度とは違い、誠に居心地がいい。実家に行くたびに母親のありがたさを実感している。

翻って家ではそうはいかない。一応生活費を稼いでいるという立場であり、建前ではそれなりの立場を維持しているが、妻の態度は冷ややかで、娘とは友達のように会話をし、息子には何くれとなく世話を焼いているが、私には素っ気ない。食事の時にそれは顕著で、息子にはおかずを取ったり足りなければいろいろと出してきたりするが、私にはそんなことはしてくれない。まぁ、甲斐甲斐しく世話して欲しいなどとは思わないからいいのであるが、「お金をもらっているから最低限のことはするけど・・・」という態度はいかがなものかと思わなくもない。

しかし、ふと気がついたのであるが、息子に対する妻の態度は、まさに実家へ行った時の母親の私に対する態度と同じである。母も父親には冷たい。妻の私に対する態度と同じである。親である以上、子どもはかわいい。それはそれで不満はない。しかし、そんな母親の、特に息子に対する態度を見ていると、ふと閃くものがあった。その愛情こそが嫁姑戦争の元凶ではないだろうかと。つまり母親からしてみれば、それまで愛情を注いできた息子に対し、妻となる女性の「貢献度」はどうしても物足りなく感じるのではないだろうか。「もっとちゃんとやれ」という不満があるのではないだろうか。

いつだったか、我が家に両親を呼んだ時、私が珈琲を入れて出したのであるが、どうも母はそれが気に入らなかったらしい。「息子にそんなことをやらせて」というわけである。もちろん、私にすればその時すでに夫婦で珈琲を入れるのは私の役割だったし、「嫁が働かないから」やっていたわけではない。後でそれを聞いた時は、「嫁の粗探し」かと思っていたが、今から思えば自分自身の「息子に甲斐甲斐しく世話する」意識から「物足りない」と感じたのだろうと思う。「息子に尽くす自分の役割」を妻に求めたのかもしれない。

その時、母に「物足りない」と思う事を夫(私の父)にやっているかと問うならば、「そんなことやるわけない」と即答しただろうと思う。今の妻も息子に甲斐甲斐しく尽くすように私にするかと問われれば、「そんなことやるわけない」と即答するだろう。つまり、息子に対する自分の役割を嫁に求めても無駄であろう。実家に帰れば、母はいろいろと私に良くしてくれる。父にはやらない。母親の役割と妻の役割を分けているのであり、母親の役割は今でも果たすが、妻の役割はもういいだろうというのだろう。

そう考えれば、いずれ息子が結婚した時に、「息子を取られた」妻の厳しい視線が息子の結婚相手に向かうのは想像に難くない。妻の息子に対する愛情を目の当たりにしていると、将来息子と結婚する相手は大変な思いをすることになるのは間違いない。間に挟まれた息子は、たぶん私以上に苦労するだろう。まったくもってご愁傷様である。どうしたらいいのかは難しいところである。夫婦円満のために黒川伊保子さんのトリセツシリーズ(『妻のトリセツ』、『夫のトリセツ』)を息子夫婦にプレゼントしようと思っているが、それだけでは足りない。ここはひとつ、ファンレターでも書いて『母親のトリセツ』を書いて欲しいとお願いしようかと思う。息子のために。

 世の中、晩婚化・未婚化が進んでいるが、我が家の娘と息子はどうなるだろう。結婚するか(できるか)しないか(できないか)という心配とともに、結婚してもそれはそれで幸せと同じくらいの苦労が待っている。せめて、散々苦労した自分の経験をうまく伝えて生かしてほしいと2人には思う。それとあわせて、子育てが一段落したら、自分は自分で1人自立して生きていくことを考えたいところである。今からそんな将来像を真剣に考えておこうかと思うのである・・・


Vânia RaposoによるPixabayからの画像


【本日の読書】
 本当にわかる論理学 - 三浦 俊彦 Red (中公文庫) - 島本理生




2020年4月12日日曜日

コロナ騒動雑感(その2)

通勤者の7割減、首相要請 「接客飲食店の利用自粛」全国に拡大 政府対策本部
政府は11日、新型コロナウイルス感染症対策本部会合を首相官邸で開き、クラスター(感染者集団)の発生が懸念される「繁華街の接客を伴う飲食店」の利用自粛要請を全国に拡大することを決めた。安倍晋三首相はまた、緊急事態宣言の対象の7都府県の全事業者に対し、通勤者を最低7割減らすよう求めた。
毎日新聞2020年4月11日 20時49分
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 緊急事態宣言が出され、身の回りが一気に閑散とした感がある。通勤電車はいつも以上に座れるようになっているし、休業するところも多く職場の最寄りのショッピングモールも閉店している。図書館もいきなり休館だし、普段は賑やかな飲み屋も閑散としているか臨時休業だし、月曜からは休業も増えるのだろう。個人でもマスクしないで街中を歩いたり電車に乗ったりするのは憚られる雰囲気である。

「不要不急」と言ってもなかなか難しいかもしれない。店を開けているところも、医療食品関係であれば堂々と開店していられるだろうが、「不要不急」と考えると、理美容院や時計店などはどうなんだろうと考えてしまう。開ける方は開けたいだろうが、行く方も「行っていいのか」と脳裏をよぎる。時計店など「不要不急」ではないが、電池交換などできないと不便だし、髪を切るのだって然りである。開ける方も行く方も「おっかなびっくり」かもしれない。

 政府が「通勤者を最低7割減らせ」というのも考え方はよくわかるが、社員総勢10名の我が社ではなかなか難しい。テレワークの環境など整えようがないし、せいぜい交代で「在宅勤務」という名の休暇を取らせるくらいである。それでも工事関係者は休みを取れないし、私も立場上は出社せざるを得ない。最低限の機能を残すとしても、3割減がいいところである。

 マスクの供給不足も困っもので、ちょっと買おうにも手に入らない。世の中のみんなはどうしているのだろうと不思議に思う。会社で購入して支給することになり、ネットで買うことにしたが、なんと50枚で5,000円であったという。妻によれば「暴利を貪っている」ということであるが、モノによってはいろいろあるようである。仮にいくら性能が良くてもマスクに5,000円を出す気にはなれない。個人としては絶対に買わない。

ただし、会社の経費であれば5,000円は痛くもかゆくもない。50枚だと社員10人で1人あたり5枚分。とりあえず1週間分である。給料は増やせないが、こういう時にマスクぐらい気前よく供給してもバチは当たらないだろうと、当初はストックする予定だったが、提案してすべて社員に配布した。あと3箱も買えば当面みんなの通勤用マスクは確保できる。こういう気軽にいろいろ決められるのが中小企業のいいところである。

年老いた両親が離れて暮らしているのも案じられるところ。日々の買い物はどうしているのかと思わなくもない。遠くもないので会社帰りに尋ねることは簡単だが、訪ねていいものかどうか迷わなくもない。ウィルスは自分自身だけならいいが、無症状の保菌者になっていて、人にうつしてもいけない。なにせ今だにどこか「自分は(うつっても)大丈夫」と変な自信を持っている。感染症は自分は良くても、というところがあるので、誠に厄介な代物だと思う。

 世の中、これだけ人の動きが少なくなり、接点が減れば自然とウィルスの蔓延も減るだろう。そういう意味ではどこかで転換点がやってくるはず。不自由ではあるものの、土日は終日溜まった録画やNetflixなどで映画を堪能できるいい機会だろう。世のため人の為、大手を振って巣ごもりを楽しみたいと思うのである・・・


panos13121によるPixabayからの画像 


【今週の読書】
 ラグビー知的観戦のすすめ (角川新書) - 廣瀬 俊朗 構造主義 (図解雑学) - 小野功生 Red (中公文庫) - 島本理生




2020年4月8日水曜日

頼れるサラリーマン

30年以上もサラリーマンをやっていると、いろいろな同僚と一緒に仕事をしてきたものである。人それぞれであるが、優秀であるか否かは別として、「頼りになる」と感じられる人がいる。それはどういう人かと言えば、「自分の仕事の範囲を決めない人」である。いわゆる「指示待ち族」と言われる人とは対極にいる人である。サラリーマンであれば、たいてい部なり課なりで仕事の範囲は決まっていると思われがちだが、実はそうではない。仕事はやりようによってはいろいろとできるものである。

たとえば、今の会社にもそういう人はいる。前職の伝手を辿って仕事を受注してくる。会社で指示した仕事だけをこなしていれば楽だろうし、評価もされる。されど、誰にも言われないのに勝手に話を決めてきて受注してしまう。もちろん、会社としては売り上げにプラスになるだけであり、大歓迎である。その分、忙しくなって休みもおちおち取れないのに、涼しい顔をして仕事を取ってくる。こういう人がいると、会社としては誠にありがたい。さらに他の係の仕事でも気がつくと意見を言ってくる。

やる事をやって、時間が来たら帰るというのも悪くはない。会社から命じられた仕事をきちんとこなしているわけであり、それに何か問題があるというわけではない。みんなそれのどこに問題があるのかと思うかもしれない。問題はない。仕事を指示すればきちんとやってくれるわけであり、期待通りに、あるいは期待以上にやってくれる人もいて、それはそれで立派である。ただ、「頼んだ仕事をやってくれる」のと、「頼んでもいないのにやってくれる」のとでは大きく違う。

会社が成長していくには、どこかで仕事を生み出さないといけない。10の仕事が11、12と増えていくには、誰かが増やしていかないといけない。ただし、営業が仕事をとってくるのはこれにあたらない。「仕事を取る」のが自分の仕事の範囲だからである。要は、求められている範囲を超えて自分の仕事を増やしているかどうかである。たとえば、自分の仕事でなくても、「こうしたらどうか」という意見を言ったりする。場合によってはわざわざ調べてみたりする。これが「範囲外の仕事」である。

「仕事の範囲を決めない」というのは、人の仕事を取るということではない。それぞれの領分は守らないといけない。その上で「範囲を決めない」ということである。後藤田五訓にも「自分の仕事でないと言うなかれ」というのがあったが、要はそういうことである。部でも課でも係の中でも時としてぽっかりと空白に仕事が生じる時がある。その時、「では自分がやる」と言えるかどうか。黙っていて、「運悪く」上司に指示されたらやむなくやるという人は「範囲内」の人である。

そうして具体的に見てみると、実は指示待ち族に該当する人はかなり多いのではないかと感じる。「あなたは指示待ち族ですか?」と問えば、ほとんどの人は「違う」と答えるだろう。しかし、具体的な行動ベースで見てみれば、「実質的な指示待ち族」はかなりの割合に昇るのではないかと思う。小さいながらも中小企業に身を置いてみると、そんなことによく気がつく。それが悪いというわけではない。人それぞれ、働き方もそれぞれ。指示待ち族が良ければそれでいいだろう。

 ここで言いたいのは、指示待ち族が良いか悪いかではなく、「仕事で頼りになるのはどういう人か」ということである。周囲をよく見ているし、気付けば動いてくれるし、自分の意見を持って(評論家ではなく)実践的な(いざとなったらやってくれる)意見を言ってくれる。そんな人物なら、大いに頼りになるというもの。自分自身がそうであるつもりではいるが、あらためて自分自身のこととして意識したいと思うのである・・・


Hans BraxmeierによるPixabayからの画像 


【本日の読書】
 ラグビー知的観戦のすすめ (角川新書) - 廣瀬 俊朗 地面師たち (集英社文庫) - 新庄耕