2020年4月19日日曜日

論語雑感 里仁第四(その19)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。
〔 原文 〕
子曰。父母在。不遠遊。遊必有方。
〔 読み下し 〕
子し曰いわく、父母ふぼ在いませば、遠とおく遊あそばず。遊あそぶに必かならず方ほう有あり。
【訳】
先師がいわれた。
「父母の存命中は、遠い旅行などはあまりしないがいい。やむを得ず旅行する場合は行先を明らかにしておくべきだ」
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 子供も成長して大人になれば親元を離れることになる。私などは自立心が強かったので、とにかく早く家を出たいと考えていた。しかし、最初の機会であった大学入学の際は、家を出る=家を借りることであり、家賃を考えればその選択はありえなかった。自分で払えるものではないし、親に負担を強いるのはそもそも自立ではない。片道1時間半という距離は通えない距離ではない。結局、学生時代は真面目に片道1時間半の通学をやり通した(授業やラグビー部の練習で週7日通う「優等生」であった)。

 銀行に内定をもらって真っ先に人事部の人に尋ねたのも、そういうわけで「寮に入れるか」ということであった。当時はまだ新入行員は入行時には全員寮に入る時代。そんなこと聞くまでもなかったのであるが、それだけ家を出たいという気持ちが強かったのである。と言ってもそれは実家が嫌だったのではなく、早く自立したかったのである。かくして、就職と同時に24年間共に暮らした家族の元を離れ、1人暮らしをするようになったのである。以来、両親とは別々に暮らしている。

 後で聞いた話ではあるが、私が就職して家を出た後、しばらく母は気が抜けて何もやる気になれなかったそうである。思うに、初めての子を授かり、おしめを替え、食事をさせ、何くれとなく世話をして育てた子供が出て行ってしまい、喪失感に苛まれたのだろう。今は大学の卒業式に、「子育て卒業証書」をくれる大学もあるのだとか。考えてみればその通りであるが、母親としては寂しかったのかもしれない。そんな思いが後々「母親と息子」の関係に影響するのだろう。そんなことは露とも知らない私は、初めての寮生活を満喫していたのである。

 鉄砲玉ではないが、寮に入った私はほとんど実家には帰らなかった。週末は銀行のラグビー部の練習があったし、寮にいれば仲間が誰かいるし、実家に帰る理由がなかったのである。実家が近い友人には、毎週帰宅している者がいて(そもそも寮に入るのが嫌だったという者もいた)、私もよく「実家に帰らないのか」と聞かれたものである。人それぞれだろうが、私は「週末に実家に帰るってことは、週末家にいるってことと同じだろう」と答えていた。したがって、実家に帰るのは特別に用事がある場合を除き、ほとんど年末年始のみであった。

 それでも結婚する時は、将来は同居したいと思ったし、それを受け入れてくれそうな妻を選んだつもりであったが、のちにそれは大間違いであったことに気付く。結果的に同居しなくてよかったと思うが、今やすっかり生活は別々で固定してしまっている。それでも親も歳をとれば何かと心配になってくるし、今は最低でも月に一度は実家に顔を出している。このコロナ騒動で(菌を持ち込んではいけないから)ちょっと行きにくくなっているが、それがなければ電話くらいは毎週し、2週間に一度は実家に顔を出したいと考えている。

 今回の孔子の言葉は、時代背景も大きいと思う。2,500年前の世界は、地球もまだまだ広く、遠い旅行などと言えばそれこそ一ヶ月単位の時間がかかったのかもしれない。何があるかわからないし、連絡手段も乏しい中、場合によっては今生の別れになるかもしれない。そんな帰ってこられるかわからないほど遠くへの旅行などするべきではないし、やむを得ず旅行する場合は、行き先を明らかにせよという説明も頷ける。だが、今は日本全国、いや世界のどこにいてもスマホで連絡が取れる時代であり、もはや孔子の指導も意味をなさなくなっている。

 しかしながら、母親とちょくちょく話をしていて、よく話題に出るのは弟のこと。長く連絡がないのはしょっちゅうであり、母も気になるようである。「便りのないのは良い便り」とはいうものの、やはり「毎日が日曜日」の母親としては、子供たちの様子が気になるのであろう。そういう姿を見ていると、余計自分としては連絡を密にしようという気になる。それは今生の別れとなった昔の遠くへの旅行とは異なり、「日々の安心」だろう。元気でやっているということがわかるだけでも違うと思う。

 今は世界のどこにいてもスマホで連絡が取れる時代。だからどこへ行こうとわざわざ連絡する必要はないかもしれないが、簡単に連絡が取れるからこそ、離れていても近くにいる存在感は出せると言える。それこそが孔子の言葉を現代に翻訳したものになるのではないだろうか。せっかく親にもスマホを持たせたし、電話のみならず、メールやLineなんかを通じてでも近くにいる存在感を出していきたいと思うのである・・・


Erik TangheによるPixabayからの画像 


【今週の読書】
 本当にわかる論理学 - 三浦 俊彦 猪木伝説の真相 天才レスラーの生涯 (宝島SUGOI文庫) - アントニオ 猪木, 佐山 聡, 前田 日明, 蝶野 正洋, 天龍 源一郎



2020年4月15日水曜日

母親と息子

実家の両親も80の大台を超え、離れて暮らしているので何かと心配なこともあり、ちょくちょく顔を出している。一緒に食事をし、スマホの使い方をレクチャーし(親父は最近paypayを始めた)、母親とは他愛もない会話をしている。行けば母親は何くれとなく世話を焼いてくれ、フルーツやスイーツやビールやコーヒーなどを次々に出してくれる。陰で親父に対する不満を聞かされるが、親父に対する態度とは違い、誠に居心地がいい。実家に行くたびに母親のありがたさを実感している。

翻って家ではそうはいかない。一応生活費を稼いでいるという立場であり、建前ではそれなりの立場を維持しているが、妻の態度は冷ややかで、娘とは友達のように会話をし、息子には何くれとなく世話を焼いているが、私には素っ気ない。食事の時にそれは顕著で、息子にはおかずを取ったり足りなければいろいろと出してきたりするが、私にはそんなことはしてくれない。まぁ、甲斐甲斐しく世話して欲しいなどとは思わないからいいのであるが、「お金をもらっているから最低限のことはするけど・・・」という態度はいかがなものかと思わなくもない。

しかし、ふと気がついたのであるが、息子に対する妻の態度は、まさに実家へ行った時の母親の私に対する態度と同じである。母も父親には冷たい。妻の私に対する態度と同じである。親である以上、子どもはかわいい。それはそれで不満はない。しかし、そんな母親の、特に息子に対する態度を見ていると、ふと閃くものがあった。その愛情こそが嫁姑戦争の元凶ではないだろうかと。つまり母親からしてみれば、それまで愛情を注いできた息子に対し、妻となる女性の「貢献度」はどうしても物足りなく感じるのではないだろうか。「もっとちゃんとやれ」という不満があるのではないだろうか。

いつだったか、我が家に両親を呼んだ時、私が珈琲を入れて出したのであるが、どうも母はそれが気に入らなかったらしい。「息子にそんなことをやらせて」というわけである。もちろん、私にすればその時すでに夫婦で珈琲を入れるのは私の役割だったし、「嫁が働かないから」やっていたわけではない。後でそれを聞いた時は、「嫁の粗探し」かと思っていたが、今から思えば自分自身の「息子に甲斐甲斐しく世話する」意識から「物足りない」と感じたのだろうと思う。「息子に尽くす自分の役割」を妻に求めたのかもしれない。

その時、母に「物足りない」と思う事を夫(私の父)にやっているかと問うならば、「そんなことやるわけない」と即答しただろうと思う。今の妻も息子に甲斐甲斐しく尽くすように私にするかと問われれば、「そんなことやるわけない」と即答するだろう。つまり、息子に対する自分の役割を嫁に求めても無駄であろう。実家に帰れば、母はいろいろと私に良くしてくれる。父にはやらない。母親の役割と妻の役割を分けているのであり、母親の役割は今でも果たすが、妻の役割はもういいだろうというのだろう。

そう考えれば、いずれ息子が結婚した時に、「息子を取られた」妻の厳しい視線が息子の結婚相手に向かうのは想像に難くない。妻の息子に対する愛情を目の当たりにしていると、将来息子と結婚する相手は大変な思いをすることになるのは間違いない。間に挟まれた息子は、たぶん私以上に苦労するだろう。まったくもってご愁傷様である。どうしたらいいのかは難しいところである。夫婦円満のために黒川伊保子さんのトリセツシリーズ(『妻のトリセツ』、『夫のトリセツ』)を息子夫婦にプレゼントしようと思っているが、それだけでは足りない。ここはひとつ、ファンレターでも書いて『母親のトリセツ』を書いて欲しいとお願いしようかと思う。息子のために。

 世の中、晩婚化・未婚化が進んでいるが、我が家の娘と息子はどうなるだろう。結婚するか(できるか)しないか(できないか)という心配とともに、結婚してもそれはそれで幸せと同じくらいの苦労が待っている。せめて、散々苦労した自分の経験をうまく伝えて生かしてほしいと2人には思う。それとあわせて、子育てが一段落したら、自分は自分で1人自立して生きていくことを考えたいところである。今からそんな将来像を真剣に考えておこうかと思うのである・・・


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【本日の読書】
 本当にわかる論理学 - 三浦 俊彦 Red (中公文庫) - 島本理生




2020年4月12日日曜日

コロナ騒動雑感(その2)

通勤者の7割減、首相要請 「接客飲食店の利用自粛」全国に拡大 政府対策本部
政府は11日、新型コロナウイルス感染症対策本部会合を首相官邸で開き、クラスター(感染者集団)の発生が懸念される「繁華街の接客を伴う飲食店」の利用自粛要請を全国に拡大することを決めた。安倍晋三首相はまた、緊急事態宣言の対象の7都府県の全事業者に対し、通勤者を最低7割減らすよう求めた。
毎日新聞2020年4月11日 20時49分
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 緊急事態宣言が出され、身の回りが一気に閑散とした感がある。通勤電車はいつも以上に座れるようになっているし、休業するところも多く職場の最寄りのショッピングモールも閉店している。図書館もいきなり休館だし、普段は賑やかな飲み屋も閑散としているか臨時休業だし、月曜からは休業も増えるのだろう。個人でもマスクしないで街中を歩いたり電車に乗ったりするのは憚られる雰囲気である。

「不要不急」と言ってもなかなか難しいかもしれない。店を開けているところも、医療食品関係であれば堂々と開店していられるだろうが、「不要不急」と考えると、理美容院や時計店などはどうなんだろうと考えてしまう。開ける方は開けたいだろうが、行く方も「行っていいのか」と脳裏をよぎる。時計店など「不要不急」ではないが、電池交換などできないと不便だし、髪を切るのだって然りである。開ける方も行く方も「おっかなびっくり」かもしれない。

 政府が「通勤者を最低7割減らせ」というのも考え方はよくわかるが、社員総勢10名の我が社ではなかなか難しい。テレワークの環境など整えようがないし、せいぜい交代で「在宅勤務」という名の休暇を取らせるくらいである。それでも工事関係者は休みを取れないし、私も立場上は出社せざるを得ない。最低限の機能を残すとしても、3割減がいいところである。

 マスクの供給不足も困っもので、ちょっと買おうにも手に入らない。世の中のみんなはどうしているのだろうと不思議に思う。会社で購入して支給することになり、ネットで買うことにしたが、なんと50枚で5,000円であったという。妻によれば「暴利を貪っている」ということであるが、モノによってはいろいろあるようである。仮にいくら性能が良くてもマスクに5,000円を出す気にはなれない。個人としては絶対に買わない。

ただし、会社の経費であれば5,000円は痛くもかゆくもない。50枚だと社員10人で1人あたり5枚分。とりあえず1週間分である。給料は増やせないが、こういう時にマスクぐらい気前よく供給してもバチは当たらないだろうと、当初はストックする予定だったが、提案してすべて社員に配布した。あと3箱も買えば当面みんなの通勤用マスクは確保できる。こういう気軽にいろいろ決められるのが中小企業のいいところである。

年老いた両親が離れて暮らしているのも案じられるところ。日々の買い物はどうしているのかと思わなくもない。遠くもないので会社帰りに尋ねることは簡単だが、訪ねていいものかどうか迷わなくもない。ウィルスは自分自身だけならいいが、無症状の保菌者になっていて、人にうつしてもいけない。なにせ今だにどこか「自分は(うつっても)大丈夫」と変な自信を持っている。感染症は自分は良くても、というところがあるので、誠に厄介な代物だと思う。

 世の中、これだけ人の動きが少なくなり、接点が減れば自然とウィルスの蔓延も減るだろう。そういう意味ではどこかで転換点がやってくるはず。不自由ではあるものの、土日は終日溜まった録画やNetflixなどで映画を堪能できるいい機会だろう。世のため人の為、大手を振って巣ごもりを楽しみたいと思うのである・・・


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【今週の読書】
 ラグビー知的観戦のすすめ (角川新書) - 廣瀬 俊朗 構造主義 (図解雑学) - 小野功生 Red (中公文庫) - 島本理生




2020年4月8日水曜日

頼れるサラリーマン

30年以上もサラリーマンをやっていると、いろいろな同僚と一緒に仕事をしてきたものである。人それぞれであるが、優秀であるか否かは別として、「頼りになる」と感じられる人がいる。それはどういう人かと言えば、「自分の仕事の範囲を決めない人」である。いわゆる「指示待ち族」と言われる人とは対極にいる人である。サラリーマンであれば、たいてい部なり課なりで仕事の範囲は決まっていると思われがちだが、実はそうではない。仕事はやりようによってはいろいろとできるものである。

たとえば、今の会社にもそういう人はいる。前職の伝手を辿って仕事を受注してくる。会社で指示した仕事だけをこなしていれば楽だろうし、評価もされる。されど、誰にも言われないのに勝手に話を決めてきて受注してしまう。もちろん、会社としては売り上げにプラスになるだけであり、大歓迎である。その分、忙しくなって休みもおちおち取れないのに、涼しい顔をして仕事を取ってくる。こういう人がいると、会社としては誠にありがたい。さらに他の係の仕事でも気がつくと意見を言ってくる。

やる事をやって、時間が来たら帰るというのも悪くはない。会社から命じられた仕事をきちんとこなしているわけであり、それに何か問題があるというわけではない。みんなそれのどこに問題があるのかと思うかもしれない。問題はない。仕事を指示すればきちんとやってくれるわけであり、期待通りに、あるいは期待以上にやってくれる人もいて、それはそれで立派である。ただ、「頼んだ仕事をやってくれる」のと、「頼んでもいないのにやってくれる」のとでは大きく違う。

会社が成長していくには、どこかで仕事を生み出さないといけない。10の仕事が11、12と増えていくには、誰かが増やしていかないといけない。ただし、営業が仕事をとってくるのはこれにあたらない。「仕事を取る」のが自分の仕事の範囲だからである。要は、求められている範囲を超えて自分の仕事を増やしているかどうかである。たとえば、自分の仕事でなくても、「こうしたらどうか」という意見を言ったりする。場合によってはわざわざ調べてみたりする。これが「範囲外の仕事」である。

「仕事の範囲を決めない」というのは、人の仕事を取るということではない。それぞれの領分は守らないといけない。その上で「範囲を決めない」ということである。後藤田五訓にも「自分の仕事でないと言うなかれ」というのがあったが、要はそういうことである。部でも課でも係の中でも時としてぽっかりと空白に仕事が生じる時がある。その時、「では自分がやる」と言えるかどうか。黙っていて、「運悪く」上司に指示されたらやむなくやるという人は「範囲内」の人である。

そうして具体的に見てみると、実は指示待ち族に該当する人はかなり多いのではないかと感じる。「あなたは指示待ち族ですか?」と問えば、ほとんどの人は「違う」と答えるだろう。しかし、具体的な行動ベースで見てみれば、「実質的な指示待ち族」はかなりの割合に昇るのではないかと思う。小さいながらも中小企業に身を置いてみると、そんなことによく気がつく。それが悪いというわけではない。人それぞれ、働き方もそれぞれ。指示待ち族が良ければそれでいいだろう。

 ここで言いたいのは、指示待ち族が良いか悪いかではなく、「仕事で頼りになるのはどういう人か」ということである。周囲をよく見ているし、気付けば動いてくれるし、自分の意見を持って(評論家ではなく)実践的な(いざとなったらやってくれる)意見を言ってくれる。そんな人物なら、大いに頼りになるというもの。自分自身がそうであるつもりではいるが、あらためて自分自身のこととして意識したいと思うのである・・・


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【本日の読書】
 ラグビー知的観戦のすすめ (角川新書) - 廣瀬 俊朗 地面師たち (集英社文庫) - 新庄耕




2020年4月5日日曜日

論語雑感 里仁第四(その18)

論語を読んで感じたこと。あくまでも解釈ではなく雑感
〔 原文 〕
子曰。事父母幾諫。見志不從。又敬不違。勞而不怨。
〔 読み下し 〕
子し曰いわく、父母ふぼに事つかうるには幾き諫かんす。志こころざしの従したがわざるを見みては、又また敬けいして違たがわず、労ろうして怨うらみず。
【訳】
先師がいわれた。
「父母に仕えて、その悪を黙過するのは子の道ではない。言葉をやわらげてそれをいさめるがいい。もし父母がきかなかったら、いっそう敬愛の誠をつくして、根気よくいさめることだ。苦しいこともあるだろうが、決して親をうらんではならない」
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 2,500年も前の孔子の言葉が残されているのも凄いなと思うが、一体どういうシチュエーションで語られた言葉なのか興味が沸くものがしばしある。この言葉もまさにそんな例である。孔子自身の親なのか、あるいは誰かの相談を受けてのものなのか。子供も本当に子供のうちは善悪などわからない。親の悪いところがわかるのは、それなりに分別がつくようになってからだろう。自分もそれなりに成長して経験を積んでくると、親のアラというものも見えてくる。そんな中で、親の悪行に対していかにすべきかと悩んだのかもしれない。

 親も人間だし、それぞれ1人の個性を持っている。考え方もそれぞれである。当然、善行ばかりということもないだろうし、時には人知れず何かやっているかも知れない。孔子は「悪」と言っているが、親が何か悪事を働いているという事ばかりとは限らない。もしかしたら石油ショックの時にトイレットペーパーを買い占めたりという類のことはあったのかもしれない。さらにもっと広く、「考え方の違い」ということまで含めると、それは多々あるだろう。

私が生まれたのは、両親がともに27歳の時である。つまり、常に私より27歳年上なわけである。幾つになっても自分より27歳年上なわけであるが、それは両親が今の私の年齢の時には、すでに私は28歳であったことを意味する。当然小・中・高校、そして大学時代は、両親は今の私よりも若かったことになる。その時々の親の様子を覚えているが、今の自分より若かった両親は、今の私より未熟だったかもしれない。「あの時あんなことを言われた」という記憶も、今の自分より未熟な夫婦だと考えれば、また見方も違ってくる。

今でもよく母親とは議論をする。母親の意見に対して、「それは違うよ」ということはよくある。年の功では27年の差があるとしても、こちらも人生を積み重ねて広く学んできている。知識も知恵もそれなりに備わっていれば、年の功以上のものもある。私の方が教えることもあるし、それなりに判断できることもある。自然と「言い負かす」ことが多くなっている。ただ、それで気分がいいかと言うとそうではない。どうしても不満が残っているように思えることもある。

孔子の言葉は、そんな時の自分に当てはまるものなのかもしれない。「言葉をやわらげてそれをいさめるがいい。もし父母がきかなかったら、いっそう敬愛の誠をつくして、根気よくいさめること」。すなわち、ただ己の正しさを前面に出して親の意見を押しつぶすのではなく、優しく噛み砕いて説明する態度である。親には親なりの価値観があるわけであり、時に知識が不足していることもあるだろうが、そういう価値観は尊重しなければならないと改めて思う。

幸いなことに我が両親は、犯罪行為はもとより、道徳的に如何なものかと思うようなことはしていない。このコロナウィルス騒動下にあっても、マスクやトイレットペーパーやその他の日常品の買い占めをすることもなく、穏やかに暮らしている。もちろん、聖人君子というわけではないだろうが、子の立場からして諌めるようなことはない。それがありがたいことである一方、自分も子供に諌められるようなことがないようにしないといけないと思う。

孔子が2,500年前に語った趣旨とは違うのかもしれないが、現代流に己の事情に鑑みてみれば、そんなことを思ったりするのである・・・


Sasin TipchaiによるPixabayからの画像 


【今週の読書】
 ドーナツを穴だけ残して食べる方法 - 大阪大学ショセキカプロジェクト ノーサイド・ゲーム - 池井戸 潤 地面師たち (集英社文庫) - 新庄耕





2020年4月2日木曜日

コロナ騒動雑感

コロナウィルス騒動は、まだまだ収まる気配がない。あっという間に全世界に広がってしまい(すばらしいことに北朝鮮は感染者ゼロらしいが・・・)、著名人が罹患し、さらには志村けんがお亡くなりになるに至り、さすがに危機感が共有されつつあるように思う。中小企業ゆえに、会社は通常営業を続けざるを得ないが、もともと時差出勤(朝6時の電車に乗っているのである)していることもあって、今のところ日々の仕事にはあまり大きな影響もなく過ごせている。

巷では非常事態宣言を出すの出さないのとやっているが、東京都では既に不要不急の外出、夜の繁華街の利用等自粛要請が出ている。個人的には素直に従い、先週末は自宅にこもっていた。シニアラグビーの練習も当面中止になり、あえて外出する理由もない。実家の両親のもとを訪ねようと思っていたが、それも取りやめることにした。特に買いだめもしていないし、冷静に対処していると思うが、それゆえかマスクが枯渇しているのだけが悩ましいところである。

東京都では、毎日新たな感染者が60人出た、70人出たとやっているが、考えてみれば潜伏期間を考えると、新たな感染者が感染したのは少し前であり、自粛効果が出るとしても今しばらくはかかるのかもしれない。政府の対応について批判意見もあるが、結果から見た後付け批判というのは、個人的には好きではない。このような情勢になってこそ、「自粛要請」も「非常事態宣言」も当然のように受け入れられるだろうが、もっと早い段階でできたかと言えば、それはかなりの抵抗を受けたことだろう。転んではじめて杖が受け入れられるというところはあるだろう。

会社の同僚がこんなLINEが来たと言って見せてくれたのは、薬に関する注意喚起。何でもある薬はコロナウィルスに罹患しているとリスクがあるというもの。ホントか嘘かはわからない。そう言えば震災の時も放射能に関する注意として知人がメールを転送してきたことがあった。たぶん、善意で回してくれたのだとは思うが、こういうものに懐疑的な私としてはいい気がしない。たとえ親切であろうと、真偽のわからない情報は拡散すべきではないと思う。もしも事実であるなら、出元(権威ある人物あるいは専門家)を明示して拡散すべきだろうと思う。無知の善意は時には害になるものであると思う。

 先週末は、恒例の週末シネマにそなえておつまみを買いにスーパーに寄った。会社帰りの時間だったが、スーパーの棚はガラガラ。買占めとは言わないが、巣籠りに備えて皆さん買い込んだ結果なのかもしれない。人の心理としてガラガラの棚を見ると、必要がなくても買っておかなければという気になるのかもしれない(実際、私もわずかに残っている商品を買った方がいいのかもと思ったくらいである)。一家の主婦ではないからそのあたりは余裕で観察できるのかもしれない。

 こうした状況下、ジタバタしても始まらない。都の自粛要請にはきちんと応じるべきだろうから今週末も家で大人しくしている予定。この機会に撮り溜めした録画番組をせっせと見て、一方でNETFLIXでもAmazonPrimeでも観たいビデオは山積しているし、暇を持て余すどころか、時間が足りないくらいである。世のため人のためと思って巣籠りしたいと思う。見えないところで不眠不休の努力をしてくれている人たちがいるのだろうし、今はただ自分の出来ることをしたいと思う。

 感染者にならないことが個人にできる最大限の貢献だろうから、今週末もせっせと巣籠りに励みたいと思うのである・・・




【本日の読書】
 ドーナツを穴だけ残して食べる方法 - 大阪大学ショセキカプロジェクト ノーサイド・ゲーム - 池井戸 潤



2020年3月29日日曜日

勉強は楽しい

 浪人をしていた娘の大学受験が無事終わった。親としてはホッと一息であるが、現在中二の息子が今度は受験生。勉強については親が何をするわけでもないが、何かと教育費の負担はバカにできないものがあり、これから厳しさが増す我が家の家計である。それはそれとして、息子と勉強について話をした。今は塾の春期講習に通っている。成績も上位であるし、それ自体問題はないが、息子ともいろいろと話をしたいと思っていたのである。

 私は塾が嫌いで、学生時代はとうとう塾や予備校の類には行かずに終わった。浪人して臨んだ大学受験ですら宅浪であった。それが自分のスタイルだったのである。もともと人前ではあまり勉強できないタイプで、例えば図書館に行って勉強するということが苦手であった。いつも自宅で1人こもって黙々とやるタイプである。例えれば水面を優雅に漂う白鳥が水面下では一生懸命足をかいているように、人に見えないところで努力するのが好きなのであった。

 ところが息子は逆で、1人だとついついずっこけてしまうので、人がいた方がいいのだとか。それも塾のように人はいるが、学校の友達がいないという環境の方がよりベターなのだとか。それに友達に「お金をかけて(=塾へ行って)」勉強しているのをあまり知られたくないという心理もあるようである。どうやらタイプは違えど同じ水鳥気質なようである。そんな息子は今のところ勉強は面白いらしい。

 自分はどうだっただろうかと考えてみると、あまり「面白い」という感想は持たなかったように思う。ただ、もともとなんでもそつなくこなすタイプだったから、勉強もその一環でそつなくこなしていたように思う。受験は志望通りに受かったからまず成功だったと言える。その後も社会人になっても社内の試験とかでよく勉強したし、最近でも仕事で必要な宅建やマンション管理士の資格を取る勉強をした。勉強はつくづく一生縁は切れないものだと思う。

 最近、大学受験を終えた娘が身辺整理を始め、高校で使った教科書をすべて処分しようとしていた。私は前から娘に頼んでいたのだが、そのうちの何冊かを譲り受けた。選んだのは、国語(国語総合・現代文)、古典(古文・漢文)、数学( I・II・A・B)、物理である。なんだか改めて勉強してみたくなったのである。以来、仕事から帰ってきて夕食後のひと時に少しずつページをめくっている。気分は高校一年の春で、そういえばあの頃も真新しい教科書をめくるのに喜びを覚えたように思う(それになぜか娘の教科書は新品みたいに綺麗だし・・・)。

 そして、「面白いか」と問われると、これが面白い。数学では因数分解が出てきたが、X2+2XY-3Y2-5X+Y+4なんて式になるとすんなりとは解けない。悪戦苦闘してできた時の喜びはなんとも言えない。物理については、「物理学は、さまざまな自然現象に向き合い、それらがどのようにして引き起こされるのかを問い、探求していく学問」と定義されているが、だから音や光や熱や、果ては宇宙まで幅広いのだと改めて思い至る。高校時代、苦手なゆえに文系になった身としては、改めて理系に再チャレンジしてみる気分である。

 国語と古典は、難しいというよりも文章を深く読むということを改めて意識させられる。「〜とはどういう意味か」、とか「説明しなさい」とか求められる。読み流すのは簡単だが、そういう問いに答えようとすると、前後も含めて改めてなんども読まないといけない。読解力を求められるとともに、小説だけでなく、哲学や批評や詩、エッセイ等幅広い文章に触れることになる。改めてさすが教科書だけあってよく作られているなぁと感心させられる。

 今さらながら高校生の教科書を手にとってみると、そこには学ぶことの楽しさが詰まっている。高校生の時にこういう気持ちで勉強していたら、勉強ももっと違っていたかも知れない。単なる受験ツールとしてしまうのは誠にもったいない。今まで長く勉強してきたが、それは受験のためだったり、(社内外含めて)資格を取るためだったりが多かった。いわばやむなく勉強したわけであるが、今回はまったくの趣味である。期限もないし、合否もない。なんの制約もない中で純粋に楽しめる。

 そう思うと、「学校の勉強」って実はものすごく楽しいものだったんだと改めて思う(ただ高校時代、唯一赤点を取った苦手な「化学」についてもそう思うかどうかは自信がない)。息子が今「勉強が楽しい」と言うのと同じかどうかはわからない。ただ、受験に突入してこの本来の勉強の楽しさを見失って欲しくはないなと思う。それと同時に、自分もこの面白さをもっと追求していきたいと思う。高校の教科書が終わったら、次は何をやろうか。今から考えるとワクワクして仕方がないのである・・・


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【今週の読書】
 21世紀の啓蒙 上:理性、科学、ヒューマニズム、進歩 - スティーブン・ピンカー, 橘 明美, 坂田 雪子 慈雨 (集英社文庫) - 柚月裕子 ノーサイド・ゲーム - 池井戸 潤





2020年3月25日水曜日

伊香保温泉

先週末、母親を連れて伊香保温泉へ行ってきた。「腰が痛い」と常々もらしている母親は、温泉に入ると痛みが和らぐらしく、暇を見ては近場の温泉に連れ出しているのである。伊香保温泉は、東京からだと関越自動車道で2時間ほど。気楽にちょっと「温泉に入りに行く」ことができる。春のお彼岸の三連休ではあるが、世の中はコロナ騒動でみんな出かけることはないだろうと、得意の逆張り発想で予約を取った次第である。ガラガラの温泉宿なら、かえって通常以上のサービスをしてもらえるかもしれないという期待があったのも事実である。

森秋旅館
ところが、道路は渋滞だらけ。都内から抜けるのに一苦労。関越の渋滞はそれほどではなかったが、予約していた森秋旅館に着いてみれば結構な賑わい。意外に思って尋ねてみれば、外国人や団体客はキャンセルとなったが、個人客はほとんど変わらないという。移動制限がされた外国人は仕方がないし、団体客は建前上中止せざるを得なかったが、個人ベースでは関係ないと皆さん考えての行動だろう。ちょっと思惑が外れたが、宿にとっては良いことだろうから良しとしたい。

伊香保温泉は銀行員時代の店内旅行で何度か来た記憶があるが、宿泊したのか通過したのかは覚えていない。ただ、有名な石段街を散策した時、「ああ、来たことあるな」と改めて思った次第である。暇に任せて周辺をブラブラ歩いてみたが、石段街を外れると潰れた旅館や店舗がそのまま放置されていて「寂れ感」はどうしようもなく強い。そんな中でも射的の店舗が何軒かお客さんが入っていて元気そうだった。今の若者にはかえってレトロ感があってウケるのかもしれない。あとは老舗らしき温泉饅頭のお店である。
石段街

 ストリップの看板を見かけたが、今も営業しているのだろうか。その昔は社員旅行なんかで賑わったのだろうと思う。浴衣を着た大勢のサラリーマンがワイワイ言いながら行き交ったのだろう。今の時代だと、ストリップなどに大手を振って行こうものなら女性社員からセクハラ扱いされるかもしれない。自分が店内旅行に参加したのはもう30年くらい前になるが、とてつもなく嫌だったのを思い出す。今の時代には確実に受け入れられないだろうし、それゆえに温泉街も寂れていくのかもしれない。

 こうした温泉街がかつてのような輝きを取り戻す方法はあるのだろうか。団体客はもう復活はしないだろうが、外国人客と我々のような個人客だろう。外国人なら温泉街の雰囲気を売り物にするのもいいかもしれないが、日本人なら「観光地」というよりも「身近な温泉」というあり方がいいように思う。ただ、旅館のお湯はちょっと温めであり、硫黄臭もそれほどではない。濁っているところは温泉ぽかったが、硫黄臭がそれほどではなかったのがちょっと残念であった。

 それにしても、と思う。旅館独自のサービスというものを改めて考えてみた。到着してフロントで受付をする。部屋に案内してもらって一通りの説明を受ける。ここまではホテルでも同じ。食堂が一杯だったらしく、食事は部屋食であった。担当者がついてくれて料理の説明とともに配膳してくれる。ホテルで言えばルームサービスだろうが、部屋で食べる和食もなかなか風情がある。そして布団を敷きに来てくれる。外国人であれば興味津々かもしれない。注ぎ込まれる湯の音を聞きながら、露天風呂にゆっくり浸かるのもなかなかの風情である。ホテルもいいけど、旅館もやっぱり風情がある。

伊香保神社
 母は合計4度温泉に浸かり(夕食前、就寝前、起床後、朝食後)、満足そうであったから何より。石段街を軽く散策して伊香保神社に参拝。老舗の大黒屋本店で温泉饅頭を食し、食の駅でご近所へのお土産を買って岐路につく。帰りは関越自動車道で2時間ちょっと。やっぱり距離的には近場の手軽な温泉であることは間違いない。帰宅して感想を聞いたところ、母としては「(昨夏行った)万座温泉の方が良かった」とのこと。次はまた夏に万座温泉に行くことになりそうである。

 あとどのくらい母を温泉に連れていけるかはわからないが、このペースで頑張って連れて行きたいと思うのである・・・

眼下に望む伊香保市街


【本日の読書】
 21世紀の啓蒙 上:理性、科学、ヒューマニズム、進歩 - スティーブン・ピンカー, 橘 明美, 坂田 雪子 慈雨 (集英社文庫) - 柚月裕子




2020年3月22日日曜日

論語雑感 里仁第四(その17)

論語を読んで感じたこと。あくまでも解釈ではなく雑感。
〔 原文 〕
子曰。見賢思齊焉。見不賢而内自省也。
〔 読み下し 〕
子し曰いわく、賢けんを見みては斉ひとしからんことを思おもい、不ふ賢けんを見みては内うちに自みずから省かえりみるなり。
【訳】
先師がいわれた。
「賢者を見たら、自分もそうありたいと思うがいいし、不賢者を見たら、自分はどうだろうかと内省するがいい」
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 生まれつきの天才などという人物はいるのだろうかと考えてみると、やっぱりそんな人間はいないと思う。生まれてからの「学習」がその才能のすべてだと思う。では、その「学習」とはどのようなものだろうか。学校の勉強も確かに「学習」の一つではあるだろうがそれだけではない。興味・関心・情熱なんてのもその要素だと思うが、もう一つ大きいのは、「人の影響」だろうと思う。

 「学ぶ」とは「真似ぶ(まねぶ=真似をする)」から転じたと言われているが、これという人から受ける影響は、人が成長する大きな要因だろう。自分もこれまでの人生を振り返ってみると、「あの時ああしていれば」と思うことが多々ある。今にして思えば、経験不足・知識不足等により、うまくできなかったのである。今の自分があの頃の自分に伴走してその都度アドバイスできたら、さぞかし満足度の高い人生を送れていただろうと思うのである。

 その最たるものが仕事で、もう少し身近にお手本となるべき人がいたら、随分違っていただろうと思う。これは学ぶ方の問題かもしれないが、自分にはお手本となるべき先輩とは一緒に仕事ができなかったのである。それでもゼロではなく、何人かはお手本にしたい人はいた。そんな数少ないお手本の1人は、なんと部下であった。あれは昇格して役席者になってしばらくのこと、1人の男が部下として配属された。あたふたと慣れない責任者振りを見かねた支店長が優秀な部下をつけてくれたのである。

 その男は、仕事を振ると実に見事に優先順位をつける。そしてその優先順位に従って仕事をこなしていく。当たり前のことだが、私の場合、頼まれた仕事すべてが「優先順位第1位」だったのである。当然、いくつもの仕事を同時にこなすことは不可能である。それをやろうとしてパンクしていたのであるが、その男は優先順位の低い仕事は「後回しにします」とはっきり言ってやらないでいた。だから優先度の高い仕事が終わっていく。「そうか、こうやって断ればいいのか」と当時の私は納得したのである。

 以後、私も言われた仕事に対し、できない場合は「これこれこういう理由ですぐにはできない」と断る術を覚えた。断られる立場(断られても対して問題ではないこと)がわかっていたので断りやすくなったと言える。部下に習うというのも恥ずべきことだが、それまで出来なかったのだから仕方がない。あの男はどこでそんな術を身につけたのだろう。転勤して別れ別れになってから今はどこでどうしているのかはわからないが、優秀な男だったからどこかで活躍しているのだろう。自分も素直に部下から学びとれたところは良かったと自画自賛している。

 優秀な人を見て自分もかくありたいと思うのは、(それが自分より上の人間であれば)それほど難しいことではないだろうと思う。ただ、不賢者はどうだろうか。「あの人はあそこがダメだ」というのは日常よくあること。仕事では特にそうである。人のアラはよく目につくが、自分のは難しい。というか、「あの人はあそこがダメだ」という時、無意識に「自分はできているが」というのが前提になっているように思う。もしかしたら、「自分のことは棚上げ」しているかもしれない。

 先日、私の以前勤めていた銀行に今も務める友人が、この度のコロナ対策にボヤいていた。曰く、23階の職場から上下への移動を制限されているとか、時差出勤が大変だとか、下階にある食堂に行けなくなり、同じフロアーの食堂しか利用できないとか。しかし、我らが中小企業には時差出勤できる余地はないし、オフィスは古い8階建のビルの3階で、「食堂」は自分の机か、会議スペース兼食事テーブルの兼用だ。友人には自分がいかに恵まれているかが見えていない。自分もいつの間にか「今の当たり前」に慣れきっていないか考え直してみたところである。

 不賢者を非難する前に、あるいは非難すると同時に、どうすればそれを改善できるのか。自分としては何ができるのか。仕事では特に「ただ非難する」だけには終わらせたくないと思う。それが孔子の言う「自省」なのかもしれない。そんなことを考えさせられた今回の言葉である・・・・


Keith JohnstonによるPixabayからの画像 


【今週の読書】
 21世紀の啓蒙 上:理性、科学、ヒューマニズム、進歩 - スティーブン・ピンカー, 橘 明美, 坂田 雪子 慈雨 (集英社文庫) - 柚月裕子





2020年3月19日木曜日

№1より№2

 「日本で一番高い山は富士山、では二番目に高い山は?」という質問がビジネスの現場では使われることがある。要は、「№1にならないと覚えてもらえない」ということを言いたいがための例であるが、それはその通りであると思うしそれを否定するつもりはない。商品やサービスなどビジネスではやはり№1になることは重要であろう。ただ、個人のあり方としては必ずしもそうではない。そこは好みの問題であるが、私個人としては№1より№2の方が居心地がいいと常々思っている。

 もともと「無冠の帝王」的なところが好きな性分があるからかもしれない。英語とか将棋とかで級や段という資格を取ることに興味がない。なぜなら英語なんか英検もっていなくても喋れる人は喋れるし、将棋でも柔道でも剣道でも段があるから強いというわけでもないだろう(段が上の方が常に勝つというわけではない)。それゆえに級や段を取って悦に入っている暇があったら真の実力の向上に目を向けるべきだという風に考える。「大事なのは中身だ」と。

 ちなみに日本で二番目に高い山は「北岳」であるが、その標高は3,193mだという。日本一の富士山(3,776m)とは583mの標高差がある。調べてみると、北岳以下は第10位の大喰岳(3,101m)まで標高差は100mもなく、団子状態。富士山だけが飛び抜けて高いので、そういう意味では二番目が知られていなくても不思議はない。ただ、無名とは言え3,000m級の山である。「実力があって無名」ということもできる。2位だから実力がないというわけでもないところが、あまり表立って目立ちたくない自分には性に合っている。

そんなわけで、№2がいいと言っても「2位に甘んじている」というより、「目立たない心地良さ」を選んでいるところがある。実際、高校時代ラグビー部のキャプテンを務めていたが、単にチームリーダーという役割以外にも学校側との折衝役的なところもあり、それほどいいところばかりではなかった。逆に大学時代はラグビー部のキャプテンではなかったが、「対外交渉担当」という重責を担っておりながら(練習試合などは、現況に合わせてどこのチームと試合をするかまで決めていたのである)、トップではないことに気楽な立場の充実感を味わえたものである。

さらに、現在では会社の№2であるが、これもまたやりやすいものがある。我が社はワンマン社長ではないから、会社の方針等の運営には大いに関与させてもらっている。大きな交渉事でも交渉役を任されることも多いが、そうした交渉では№2であることが有利に働くこともある。それは、「その場で決定せずに会社に持ち帰ることができる」ということである。社長の立場であれば、結論を求められたら答えねばならない。しかし、№2であれば「帰って社長に報告し、その後で返答する」と回答することができる。簡単かつ前向きな話であればいいが、慎重に検討すべきことであれば、一旦回答を保留して持ち帰ることができる。会社の意思決定において、このメリットは大きい。

徒競走等ではやはり負けると悔しいし、一番になりたいとは思う。だが、2位の心地良さもある。大学時代、まだレギュラーになれなくて悪戦苦闘していた時、本来レギュラーが出る国公立大会の公式戦で、2軍中心にメンバーを組むことになった時があった。負ければ敗退の勝ち抜き戦。相手は当然一軍。一軍メンバーであれば勝てる相手ではあったが、果たして二軍で勝てるのか。そういう緊張感があったが、結果は見事に勝利。その時改めて感じたが、一軍同士で勝つのもいいが、二軍で相手の一軍に勝つのはなかなかの優越感に浸れるというもの。責任を果たした喜びとあわせてそんな感情を抱いたのである。

考えてみれば就職の時も「業界№1」の企業は選択しなかった(当時の№6を選択した)。もともとのアマノジャッキーな反骨精神もあるのかもしれないが、№1志向がないことはいろいろな面であると思う。良いのか悪いのかではなくて、あくまでも「嗜好」の問題であるが、№2に居心地の良さを感じるのが自分という人間だと思うのである・・・




【本日の読書】
 21世紀の啓蒙 上:理性、科学、ヒューマニズム、進歩 - スティーブン・ピンカー, 橘 明美, 坂田 雪子 慈雨 (集英社文庫) - 柚月裕子




2020年3月15日日曜日

アナスタシア鑑賞記

 先日、東急シアターオーブにミュージカル『アナスタシア』の鑑賞に行ってきた。折からコロナウィルスによる自粛ムードの中、なんと3日間だけ公演が行われたものである。翌日から再び公演中止になってしまったので、誠にラッキーと言えばラッキーである。これも日頃の行いが良いせいであろうかなどと思ってみたりする。

 いつものことであるが、観たいと思った映画やミュージカルや読みたいと思った本の知識はなるべく入れないようにして臨む。故に今回もストーリーなど何も知らない状態での鑑賞であった。とは言え、アナスタシアとは「ロシアの革命で殺されたロシア皇帝の悲劇の皇女」という知識ぐらいはあった。そして「実は生きていた」という伝説があったのも知っている。そんな教養レベルの事前知識で会場に向かう。

 公演に際しては、事前に「キャンセルしたければ可能」「マスク着用(推奨)」「入り口で体温チェックし、37.5度以上あった場合は入場お断り」などの注意がなされていた。主催者としては中止にしたくはないだろうから、効果はともかく、パフォーマンスとしては必要な配慮だと言える。それでも会場内はほぼ満員。みんな心のどこかで「大したことない」「大げさ」だと思っているのだろう。そういう私もそう考えたクチで、キャンセルなどハナから考えもしなかった。

 ストーリーは帝政末期のロシアから始まる。アナスタシアは、皇帝ニコライ2世の娘として何不自由のない生活の中、パリへ帰る祖母と別れる。しかし、それがアナスタシアと祖母マリア皇太后との長い別れとなる。革命が起き、両親と兄弟を殺されたアナスタシアは記憶を失い、アーニャという名前で生き延びる。アナスタシアが生きているという噂はロシア国内はもとより、パリの皇太后の耳にも入り、皇太后は懸賞金をかけてアナスタシアの行方を求め、ロシアの革命政府もまた、殺し損ねたアナスタシアを殺害するべくこれ追う。

 そんな中、アナスタシアにかけられた多額の懸賞金を狙った2人の詐欺師が、アーニャと知り合い、これを利用しようとする。つまり、アーニャをアナスタシアに仕立て上げ、懸賞金をいただこうというもの。一方、政府から命を受けた役人のグレブはアナスタシアを追うが、実はアナスタシアが生きていたのは、グレブの父が幼いアナスタシアを殺すのに忍びなく、密かに逃がしていたという経緯がある。こうしてアナスタシアを巡り、それぞれの人々の思惑を秘めて、物語はサンクトペテルブルクからパリへと舞台を移して進んでいく・・・

 実際の歴史ではアナスタシアは家族共々無残にも殺されてしまっている。しかし、伝説が生まれたという背景には、まだうら若いアナスタシアが殺害されてしまったことに対する世間の同情心があったのだろう。革命には革命の理論があるが、それでもせめて罪は(あるとしたら)皇帝までだろう。理不尽の極みである東京裁判でさえ、死刑判決は戦犯とされた本人のみである。フランス革命すらルイ16世の子供らは処刑されておらず(マリー・アントワネットは恨みを買ったのかもしれない)、ロシアの革命政府の残忍さが伺える。

 実際の歴史にフィクションを交えるやり方は『ベルサイユのばら』もそうだったが、なかなか面白い。ストーリーも実際の歴史と辻褄を合わせて終わる。これによればやっぱりアナスタシアは生きていたのかもしれないという夢が残る。少なくとも、家族もろとも無残にも殺害されたという残酷な歴史を見せつけられるよりはいい気がする。ミュージカルなんて夢のあるものだし、無残な現実を晒しだすよりもいいだろう。エンターテイメントという意味では、面白いストーリーであった。

 出演者も実は交代で演じているらしく、主役の1人が「千秋楽」ということで最後に舞台挨拶があった。1ヶ月ほど稽古期間があったらしいが、不可抗力とは言えわずか3日間で終わってしまったのは残念だっただろうと思う。思えば競争の激しい世界だろうし、舞台俳優も大変だろうと思う。ついつい収入はどのくらいなのか、みんな生活できているのかなどと考えてしまう。それでも万雷の拍手を浴びるのは気持ちのいいことだろうと思う。9,500円もしたA席とは言え、3階席で舞台からは遠く、表情がよくわからなかったのが残念ではある。

 映画もいいが、こうした生の演技、生の演奏で観るミュージカルはちょっとした贅沢感が味わえる。次は6月に行く『ミス・サイゴン』。これも日頃の行いを正しくしつつ、楽しみにしたいと思うのである・・・




【今週の読書】
 貧乏人の経済学――もういちど貧困問題を根っこから考える - アビジット・V・バナジー, エスター・デュフロ, 山形浩生 東京貧困女子。―彼女たちはなぜ躓いたのか - 中村 淳彦 俺か、俺以外か。 ローランドという生き方【電子特典付】 - ROLAND





2020年3月12日木曜日

子供の幸せ

最近は幼児虐待などという我々の感覚からは信じ難い事件が頻発しているが、普通の人間(というか生物)的な本能からいけば、我が子の幸せを望むのが親たるものだろう。我が子の幸せと言っても漠然としているが、要は人並み(以上に)成長して、就職して家庭を持ち、子どもをもうけて子孫繁栄につなげるといったところだろう。私も普通に生活していける程度でいいというくらいで、基本的には同じである。

世の母親が我が子の教育に熱心になるのもその一環である。効果は疑問に思うが、世の学歴信仰はまだ健在であり、「良い高校→良い大学→良い就職先」を視野に入れて塾だ通信教育だ家庭教師だと騒いでいる。父親だって医者であれば我が子を医者にしようとし(結果的に歯医者にしかなれなかったりすることも多い)、創業社長が二代目にしようとする。自分の事業(顧客)を維持しようという意図もあるかもしれないが、基本的には我が子が生活していけるようにという親心だろう。

そういう「親心」に子供が反発するというのもよくあるパターン。現実のみならず、映画やドラマでもありがちだ。本当は音楽をやりたいのに、親に医者になれと言われているとか(映画『キセキ あの日のソビト』など)。そういう場合、我々はついつい子供の立場で見てしまうが、その背景にある親心にも思いを至らせる必要がある。親はそれなりに人生経験を積んでいるわけであり、何が子供にとって良いのかを考えれば、あれこれと口出ししたくなるものだろう。

我が家の場合も、母親はとにかく「いい成績」を重視している。それは、「いい高校へ入れば良い大学へ行けるし、いい大学へ行ければ就職にも困らないだろう」という考え方である。少なくとも上から下へはいけるが、下から上へ行くのは難しいので、選択肢を広く持つためにもそうするべきという考えである。しかし、今はたとえ一流企業に入っても会社自体が潰れたりリストラされたり、鬱になったりと一昔前のように安泰ではない。求められるのは精神的なタフさと三種の神器(「考え方=意識」「情熱」「創意工夫」)だと考える私とは、残念ながら妻の考え方は相容れない。

幸い、「息子にはスポーツをやらせたい」という部分では我が夫婦の考えは一致しており、結果として今息子は野球をやっている。「ラグビー最高!」という父親としては息子にもラグビーをやらせたい。しかし、幼い頃からラグビースクールに入れてラグビーをやらせることには何となく抵抗があって、学校の友達が多い野球にした。「自分も中学まで野球をやっていた」、「日本人であれば野球ぐらい経験させたい」という思いもあったが、自分の考えを息子に押し付けることに若干の抵抗感があったのも事実である。ラグビーは高校に進学してやってみたければやってみればいいと今は考えている。

残念ながら私は医者でもなければ会社社長でもない。子供たちに提供してあげられる幸せな人生などない。そういう意味では子供たちも自分たちの人生を歩むことができる。ただ、そうすると人並みに幸せな人生を歩めるだろうかという心配は残る。妻はそれに対し、「良い高校、いい大学・・・」というルートを示し、塾へ行けと尻を叩く(自分はそんなに勉強しなかったくせに、だ)。その気持ちはわかるが、私としては「どう転んでもひるまず生きていける気構えと知恵を身につけさせたい」と思っている。

どんな人間でも人生の一時期に苦しい時を迎えるだろう。それはいい高校に行っても、いい大学に行っても、いい会社に入っても避けることはできない。ならば、その時に歯を食いしばって頑張り抜く力をつけさせたいと思う。自分自身の経験を振り返ってみても、それこそが生きていくのに必要なことではないかと思う。政治家になれたって、高級官僚になれたって、一流会社の役員になれたって、最後に首を括るのでは意味がない。一流でなくても、しっかり人生のゴールラインまで走り抜いてほしい。それに必要なのは学歴ではない。

スポーツ、特に野球やラグビーなどのチームスポーツは、苦しい練習に耐えたり、仲間と協力して1つの目的に向かっていったり、勝利の喜びや敗北の悔しさを味わえたり、リーダーシップやフォロワーシップを学べたりといった利点がある。あとは模範だろう。身近な人や公の人物かもしれないし、映画や小説やマンガの主人公かもしれない。感動を得られるものであれば何でもいいと思う。宿題なんかやる暇があったら、母親の目を盗んでNetflixで『ワンピース』を観る方がはるかにいいと思う。そのために息子にはタブレットを与えたのである。

思春期を迎えた子供たちも、これから「心の成長」にはより大事な時期に入ると思う。子供の幸せのために、私の考える「生きる力」を是非とも伝えていきたいと思うのである・・・


Hermann TraubによるPixabayからの画像 


【本日の読書】
 貧乏人の経済学――もういちど貧困問題を根っこから考える - アビジット・V・バナジー, エスター・デュフロ, 山形浩生 東京貧困女子。―彼女たちはなぜ躓いたのか - 中村 淳彦