2019年11月19日火曜日

数字の意味するところ

 先日読んだ『偏差値37なのに就職率9割の大学』という本で、「就職率」についての話が載っていた。普通の大学では、「就職率」は「就職者数」/「就職希望者数」で算出しているとのこと。ところがこの本で採り上げられている金沢星稜大学では、「就職者数」/「卒業者数」で算出しているという。当然ながら卒業生の中には「就職を希望しない人」もいるわけであるから、金沢星稜大学の算出方法の方が一見、就職率が良いように思える。実際、この本の著者(金沢星稜大学就職課課長)の立場からいけば、それを大いにPRしているわけである。

 それを否定するつもりはないのだが、ふと「本当に就職率が高いのはどちらなんだろう」と考えた。普通に考えれば、全卒業生を分母にした方がいいように思える。「就職希望者数」とすると、分母が「就職希望者数」<「卒業者数」であるから、当然「就職希望者数」を分母にした方が「就職率」は高くなる。大学の一つの売りである就職率を高くするには、この方法が選択されるのもよくわかる。だが、「就職を希望しない人」を無理に分母に含める意味はあるのだろうかと思う。

 就職を希望しない人とは、たとえば家業を継ぐことが決まっていたり、大学院へ進学したり、海外留学やアーティスト志望などいろいろいるだろう。それはその人の人生であって、「就職だけがすべてではない」。そう考えると、「就職を希望する学生がどれだけ就職できたか」がむしろ大学としての「就職率」と言えるのではないかと思う。たとえば自分が就職率の良し悪しで大学を選ぶとしたら(あくまで「喩え」であって、自分はこんな基準では大学を選ばないが、その議論は置いておく)、「就職者数」/「就職希望者数」で就職率を算出している方を良しとするだろう。

数字を提示された場合、それを無条件に鵜呑みにするのではなく、その数字が何を意味しているのかを深く考えるようにしたいと思う。たとえば、日本の刑事裁判では「有罪率」が99.9%だと言われる。これをもって日本では刑事裁判で無罪を勝ち取るのはかなり難しいことであるという風に説明されることがある。日本の刑事裁判の有罪率が高いのをまるで大問題であるかのように語る論調があるが、これもよく考えればおかしな意見であると思う。

刑事事件で警察に逮捕されると、そのあと検察に送られて検察が起訴するかどうかを決める。当然、裁判で争って有罪にできるかどうかを判断して起訴するわけである。司法には「疑わしきは罰せず」という大原則があり、「疑わしい」というだけでは刑罰を受けることはない。「確実に(疑う余地なく)有罪である」と立証しなければいけないわけである。そうすると、当然証拠の収集等はきっちりやって、大丈夫と判断して起訴するわけで、それが有罪になるのは当然で、むしろ100%であるべきとも言える。やたらめったらとりあえず起訴されて裁判になれば、それは有罪率は下がるかもしれないが、起訴された方はたまったものではない。むしろ有罪率が100%でないことを問題視すべきだと思う。

また、我が国は欧米などから比べて失業率が低いとされているが、そこで使われる「完全失業率」とは、「労働力人口に占める完全失業者の割合」であるが、ここでもそれを鵜呑みにはできない。というのも、各国で調査の定義がさまざまであるらしく、たとえばアメリカでは、就職が決まって自宅待機中や一時解雇者も失業者に含み、イギリスなどでは、家族従業者、自営業主を労働力人口に含めないという。さらに、国際労働機関ILO基準では、就職内定者を失業者に含むが、日本は含まないらしい。となれば、単純に数字だけ比較をしても意味はない。

私は仕事で不動産の賃貸管理をしているが、空室が少ないという意味で「稼働率」を出してPRしている。しかし、自分で出しながら疑問を抱いている。というのも、稼働率は「月末時点」での「入居室数/全賃貸室数」で算出しているが、中には16日に退去したが、すぐに次の申し込みが入って翌月10日に入居したというケースもよくある。この場合、「月末基準」にすれば「空室1」であるが、「月央(15日)基準」にすれば「空室0」である。切り口によって数字が変わるのである。

また、同じ稼働でも「質」の問題はある。たとえば相場の家賃が9~11万円のところで、9万円で募集すればすぐに申し込みは入るが、11万円で募集すればちょっと時間がかかるのが普通である。9万円ですぐに入ってもらうのと、11万円で入ってもらうのにたとえば3か月かかるのとを比べると長いスパンで考えれば後者の方がいい。単純に稼働率が高いからといって、それだけで管理会社の実力を測るのは難しい。

金沢星稜大学が全卒業生に対する「就職率9割」を誇るといっても、「質」という意味での就職先は曖昧である。上場企業に就職する学生も多いらしいが、たとえば東大あたりでは就職するのはほとんど上場企業かそれに準じるところだろう。就職を希望しないといっても、大学院や留学などかもしれない。その結果、全卒業生に対する就職率が7割だったとしても、「就職率9割を誇る」金沢星稜大学とはその「質」においては比較にすらならないだろう。

刑事裁判においての有罪率99.9%についても、「求刑」と「判決」のギャップも興味深いところである。たとえば「求刑懲役10年」が、「判決」で「懲役7年」とかなる場合のギャップである。求刑する検察官も、たとえば必ず求刑より30%程度減刑されるのを見越して、本来求刑したい刑期の3割増しで求刑したりするような水面下の動きがあったりするのだろうかと想像してみたりする。

いずれにせよ、表面上の「〇〇率〇%」といった数字は、それが意味するところをよく考えないといけないと思う。いろいろなところでそういう数字を見かけるが、見かけの数字を単純に信じてはいけない。その裏にある意味を考えないといけない。そんなことをつらつらと読後に考えたのである・・・




【本日の読書】
 オールブラックス 圧倒的勝利のマインドセット - 今泉清 【ビジネス書大賞特別賞受賞作】哲学と宗教全史 - 出口 治明




2019年11月15日金曜日

スポーツマンの引退

いつだったか、元プロレスラーの馳浩(現衆議院議員)が、「スポーツマンに引退はない」と語っていたのを覚えている。たしか、議員転出にあたって「プロレスは引退するのか」と問われての答えだったように思う。その状況はともかく、「スポーツマンに引退はない」という言葉だけが妙に印象に残ったのである。というのも、その頃ちょうど私も30を越え、ラグビーの引退を考えていたからである。

妙に共感するところもあり、自分の中では「引退」という区切りをつけることなく、なんとなくラグビーからフェイドアウトしていった。それはいまだにたばこは普段吸わないものの、「禁煙」したわけではないのと同じである。35歳くらいまでは勤務先の銀行のチームで試合に出ていたが、その後自然に試合から遠ざかっていった。子どもが生まれ、一応子育てにも参加していたし、時間的にも肉体的にも続けるのが難しくなっていったからである。

ラグビーは肉体と肉体がぶつかり合う激しいスポーツである。試合をするからにはそれに備えてトレーニングをしないといけない。当時も大先輩が年齢に合わせたゆるやかなシニアラグビーをやっていたが、当時の私の感覚ではそんなのは邪道で、激しいぶつかりあいのないラグビーはラグビーではなく、そんな「みっともない」ラグビーなどするべきではないと思っていた。当然、そんなラグビーを自分も続けようとは思わなかったからそれでいいと思っていた。

自然とグラウンドから遠ざかり、何となく振り返ってみれば、「自分の最後の試合」はあの試合だったなぁと思うようになっていた。それは、銀行で年に一回恒例として行われていた東西対抗戦であった。その時は「引退試合」という意識はなく、振り返ってみればそうだったという感じである。だから、その時は特別な感慨も抱かなかった。人生の折り返し地点と一緒で、気がつけば過ぎていたという感じである。

それが、大学のシニアチームに誘われ、練習に参加するようになった。その時は、運動不足の解消というのがテーマで、試合までやりたいとは思わなかったが、やりだせば誘われる。断るわけにもいかずに久し振りに試合に参加したのは4年前。見事に肩を負傷した。しかしながら、やってみれば面白い。体力は衰えていたが、周りはみんな自分より年上だったし、それなりにできたのである。たぶん、傍から見れば自分が「みっともないラグビー」と思っていたような試合だったと思うが、試合に出ている立場からすると以前と変わらぬ感覚であった。「面白い」と素直に思った。

以来、高校の先輩の伝手を辿り、某他大学のシニアチームに所属し、毎週練習に参加している。試合にも声がかかれば参加している。残念ながら所属チームは60代以上が中心で、50代の私はなかなか出ることができない。しかし、いろいろなところから声がかかり、試合には折に触れて出場している。試合が終わればあちこち痛いし、打撲、擦り傷は絶えない。タックルも現役時代と同じ様に(と言っても実際には衰えているだろうが)できる。ラグビー自体、ルールも変わって進化しているので、アップデートのための研鑽は欠かせない。気がつけば、35歳の時の試合は「引退試合」ではなくなっていた。

では本当の引退試合はいつだろうか。チームの先輩は、70代の方が頑張っている。仲の良いチームには80代の方がいる。シニアの試合はパンツの色が年代で決まっている。40代以下は白、50代は紺、60代は赤、70代は黄色、80代は紫である。やろうと思えば、まだまだ先は長い。たぶん、若い人から見たらスピードも遅いし、「みっともない」と映るに違いない。特に60代以上の「赤黄の試合」になればその傾向は顕著である。だが、「いいじゃないか」と最近は思う。人から見てみっともなくても、自分が楽しいのだから。

ラグビーは肉体と肉体がぶつかり合う激しいスポーツである。しかし、人間の肉体は年齢と共に衰えていく。だから、今の自分が20代の若手と対等に試合をするのは無謀である。だが、同年代ならそうとも言えない。十分、身の丈に合った試合ができる。それに意識も変わってきている。以前は相手チームの選手に対しては、「倒すべき敵」という風に考えていたが、今は「試合をする仲間」とでも言うべき感覚である。何より相手がいないと試合にならない。時に人が足りなくて苦労することもあることを考えると、相手チームの選手であっても「仲間」なのである。

そんなわけで、当分「引退」とは無縁でいられそうである。「ラグビーができなくなったら、テニスかゴルフをゆっくり覚えよう」と思っていたが、どうやらそういう日は来そうもない。だが、それでいいと思う。16歳で出会ったスポーツを生涯のスポーツとして、これからも楽しみたいと思う。「スポーツマンに引退はない」と改めて強く思うのである・・・




【本日の読書】
 1秒でつかむ――「見たことないおもしろさ」で最後まで飽きさせない32の技術 - 高橋 弘樹 【ビジネス書大賞特別賞受賞作】哲学と宗教全史 - 出口 治明




2019年11月11日月曜日

論語雑感 里仁第四(その8)

〔 原文 〕
子曰。朝聞道。夕死可矣。
〔 読み下し 〕
子(し)曰(い)わく、朝(あした)に道(みち)を聞(き)かば、夕(ゆうべ)に死(し)すとも可(か)なり。
【訳】
先師がいわれた。
「朝に真実の道をきき得たら、夕には死んでも思い残すことはない」
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 論語の中でもこれは最も有名な言葉の1つであろう。孔子にとっては、「道(=真理?)」こそが人生をかけて追及していたもので、それがわかるのであれば、死んでも悔いはないという覚悟というか心意気を表した言葉なのであろう。果たして孔子がその目的を達成したのか否かはわからないが、そういうものってあると思う。

 さて、自分にとってそういう人生をかけて追い求めるようなものって何だろうと考えてみる。もちろん、人によってそれは異なると思うが、自分のように「夢を持たないできた人間」にとっては、ハードルの高いものであることは間違いない。ただし、何となく自分で「こんな人生を歩みたい」と思っているものはある。それが生涯をかけて追い求めるようなものかと言われればよくわからないが、あえて問われればそう答えるというレベルである。私にとって歩みたい人生とは、一言で言えば「満足のいく人生」である。

たとえば自分の子供にどんな人生を送らせたいかと問われれば、やはり「(本人の)満足のいく人生」と答えるだろう。では「満足のいく人生」とはどんな人生だろうか。「何でも望むものが手に入り、何でも望むものが自由にできて・・・」と言い始めればキリがないし、現実離れした夢物語を語っても仕方がない。現実的に考えていけば、「今より少し背伸びするレベル」を目指すといったところであろうか。仕事でも家庭でも趣味の世界でも、である。

仕事でいけば、5年前に大企業を辞して中小企業に転職し、安定性という点ではまったく不安定になった。大きな客船からヨットに乗り移ったようなものと言えるだろう。嵐が来ればひとたまりもないが、その代り自分で舵取りができるので、嵐さえ凌げればエキサイティングに自由に航行できる。収入は以前から比べれば減ったが、絶対額としては悪くはない。銀行員時代とは比べ物ならないくらい自由に働けているが、会社の先行きには不安もある。これからどうなるかは、自分の腕次第である。

週末になれば、参加しているシニアチームでラグビーの練習に汗を流し、時々試合にも出る。激しいコンタクトプレーは無理だろうと思っていたが、意外と同年齢のレベルではそこそこできる。まぁ満足と言えば満足であるが、やりはじめれば今さらながらもう少し技術面でのレベルアップを図りたいと思っている。ルールも変わっているし、今のラグビーにアップデートしたいのである。できればそのあたりの指導ができる人にコーチをお願いしたいと思っているが、それがままならない。そこがもどかしいと言えばもどかしい。

贅沢を言えばキリがないが、どれもこれも今一歩の飢餓感はある。だが、それはそれでいいように思う。「これでいいや」と思えばそれ以上の進歩はない。「もうちょっと」と思っていれば、それを追い求めて少しずつ進歩できる。人から見て羨ましい人生でなくても、自分で最後に「良かった」と思える人生にしたい。できれば最後の瞬間までボケることなく意識を保っていてそう思いたい。その最後の瞬間まで「あとちょっと」を追い求め続けたい。それが折り返し地点をどこかで過ぎた自分自身の人生で追い求めたいものである。

孔子が最後に「道」を聞いたかどうかはわからないが、たぶん人生最後の瞬間まで「道」を求め続けたような気がする。「夕に死すとも可なり」という覚悟は、それほど追い求めても簡単には手に入らないものという自覚があってのものではないかと思う。自分もまだ「あとちょっと」があるし、たぶんそれがずっと続く。一歩先に行きたいと願い、一歩すすめばまたもう一歩。それを飽くことなく追及していきたい。そうして満足いくレベルに達した時、「夕に死すとも可なり」と思うのかもしれない。それは多分、人生最後の瞬間ではないかと思う。

孔子が追求した「道」は、自分にとっては「生き方」なのかもしれないと思う。昨日よりも今日、今日より明日がちょっとずつ良くなっているような生き方。しかし、言うは易しのような気もする。しかし、そういうものなのかもしれないとも思う。手に入れられそうでいて、なかなか手に入らない。それを生涯にわたって求め続けて行く。だから手に入れば、「夕に死すとも可なり」なのかもしれない。まぁ、いろいろとあるが、試練すらも楽しみつつ、自分の「道」を追求していければいいなと思うのである・・・




【本日の読書】
 1秒でつかむ――「見たことないおもしろさ」で最後まで飽きさせない32の技術 - 高橋 弘樹 【ビジネス書大賞特別賞受賞作】哲学と宗教全史 - 出口 治明





2019年11月7日木曜日

働く意味

下足番を命じられたら日本一の下足番になってみろ。そしたら誰も君を下足番にしておかぬ
小林一三(阪急・東宝グループ創業者)
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我が家の子供たちもいずれ社会に出ていく。就職するにあたって自分は一体どんなアドバイスをしてあげられるだろうか。たまにふとそんな事を考えてみる。自分は、と言えば、社会人デビューはいきなり試練と失敗の日々であった。今から思えばもっと違う心構えで臨んでいればと後悔の念が強い。子供達には、そんな失敗をしてほしくはないと思う。スムーズに社会人デビューできれば余計な苦労もしなくて済むだろうと思う。

何のために働くか、と問われれば、それは第一に生活のためである。給料がもらえなければ仕事はできない。一生食べていくことができるお金があって、暇つぶしの趣味で働くという人でない限りこれは同じだろう。だが、だからと言って「お金のためだけ」に働くのはちょっと寂しい。プライベートライフももちろん大事だが、仕事で得られる達成感や満足感、充実感といったものがあれば、なお人生は楽しいと思う。

私の場合、大学を卒業して銀行に入った時は、仕事の目的とはすなわち「お金100%」という考え方であった。だから昔気質の強い八王子という郊外店に配属され、連日8時までサービス残業を強いられ、毎日不満たらたらであった。疲れて独身寮に帰ってきて遅い夕食を食べていると、5時に仕事を終えた都心店の同期の面々が一杯飲んで帰ってくる。同じ同期なのにこの違いは何なのかと、こぶしを握り締めていた。しかし、今から思うと、そんなつまらない感情は捨て、支店にいる時間をたっぷり使っていろいろと学べただろうにと思う。

少しずつ変わっていったのは、先輩が「俺は常に自分のいた支店に自分がいたという証を残したい」と語っていたのを聞いてからだろうか。その先輩は、たとえ資料庫の整理のようなことだろうと、自分がいたことによって何かが変わったという証を残すようにしているということであった。大学のラグビー部の先輩でもあったし、自分も何かそんな形を残したいと思うようになったのである。それは今に至っても変わらぬ考え方である。

この「考え方」はとても大事だと思う。どんな仕事であれ、人より優れた結果を残してやろうとすれば、「創意工夫」が生まれる。それを「熱意」を持ってやれば、たいがいの事はうまくいくだろう。織田信長の草履持ちは何人もいたと思う。しかし、豊臣秀吉だけが懐に入れて温めるということをした。「日本一の下足番になるには」と常に考え続けていれば、「寒い日に温かい草履を履けたらいいだろう」という思いに至り、「では懐に入れて温めよう」となったに違いない。

会社に入れば、コピー取りなどの雑用ばかりだろう。それを嫌々ながらやるか、それとも「この資料はどういうシチュエーションで使うのか」と考えて工夫して取るのかによって結果は随分違うだろう。自分も今の会社に来て以来、あらゆるものをことごとく変えてきている。それもただ変えればいいというものではなく、効率化や収益化につながるように、働き方が楽になるように、である。それでお客さんや一緒に働く同僚に喜んでもらえれば、「給料+α」のものが得られる。これこそが仕事の醍醐味ではないかと思う。

おそらく学生の感覚では、「仕事は楽で、働く時間が短く、給料は高い」方がいいと考えるのかもしれない(かつての自分のように)。もちろん、給料が高いのならそれに越したことはないが、どんな仕事であれ、自分が関わったことで他の人がやるのとはちょっと違った結果となり、それでお客さんや周りの人がちょっとハッピーになる。そんな働き方をしてみれば、仕事も単なる生活手段にとどまらず、人生をより豊かにするものになるだろう。まさに、今の自分のように・・・

そんなことを我が子に説明できるだろうか。まずは自分が毎日楽しく働く姿を見せるところから始めてみようかと思うのである・・・




【本日の読書】
 ビジネスの限界はアートで超えろ! - 増村 岳史 ソビエト・ミルク: ラトヴィア母娘の記憶 - ノラ・イクステナ, 黒沢 歩




2019年11月4日月曜日

監視社会の是非1

 先日、『正義の教室 善く生きるための哲学入門』と言う本を読んだ。哲学をわかりやすく解説してくれることで気に入っている著者の本である。この本の中で、主人公の通う高校には、「見守り君」と言う監視ロボットがおかれていることが説明されている。かつていじめが発生し、その対策として導入されたもので、これにより生徒は四六時中監視下にあるのである。

 これはもともと、功利主義の提唱者ベンサムの提唱した刑務所のアイデアだそうである(最も当時監視カメラなんてなかったから監視体制である)が、そう言えば最近は町中至る所に監視カメラが設置されている。かつては監視カメラなどと言えば、特別に警備を要する所に設置されるという感じであったが、今や一般のマンションのエントランスや商業施設を始め、至る所にある。さらに車にはドライブレコーダーが搭載され、世の中うっかり何かやってもしっかり記録されるようになりつつある。

 先日閉幕したラグビーのW杯では、微妙な判定になるとTMOというビデオ判定が行われる。あらゆる角度から問題のプレーが再現され、人間のレフリーが捉えきれないところまで細かく判定される。これは公正という意味では間違いがなく、レフリーの微妙な判定によって不満が残るという後味の悪さを解消する役に立っていると思う。今はSF映画の中でしかないが、いずれ世の中はあらゆるところで映像が撮られるようになるかもしれない。こういう「監視社会」は、果たして善か悪かどちらだろうか。

 例えばある場所で犯罪が起こったとする。すると、現場での様子がきっちりと映像に残され、それどころか犯人の逃走する様もすべてトレースされ、その結果、犯人はあっという間に捕まる。こうなると、未解決事件や犯罪そのものも激減する気がする。実際、ボストンマラソンの爆破テロでは、現場の様々な映像解析の結果、犯人が特定されているし、あながち荒唐無稽な話ではない。監視されていると聞くと、なんとなく気持ち悪い気がするし、大々的に導入しようとすると共産党あたりは真っ先に反対するだろう(なんでも反対するからなぁ)。

 しかし、よくよく考えて見ると、犯罪のない社会の実現という意味ではこの方法が一番かもしれない。例えば、憎い相手ができて殺してやりたいと思っても、大抵の理性のある人は思いとどまる。それは、本当にやってしまったらそのあとの刑事的・社会的制裁を考えられるからであるが、それがなければどうだろうか。「やっちまえ」となるかもしれない。また、例えば道端で10万円拾った時、周りに人がいたら交番に届けるだろうが、誰もいない夜道だったらどうするだろうか。自分自身に問いかけてみても、「交番に届ける」と断言する自信はない。

 監視されていなければ正しい行動が取れないというのも問題がありそうであるが、では監視されていなくても人は正しい行動が取れるのだろうか。一見、「取れる」と答えたいが、自分自身に当てはめてみると心もとない。そもそも誰が見ていなくても正しい行動が取れるかどうかは、よほどしっかりとした芯(考え方)がないと難しいと思う。昔の人は、「誰も見ていなくてもお天道様が見ている」と教え諭した。これも考えてみれば「監視」である。「神様が見ている」という「監視システム」によって正しいことをさせようとしたものと言える。

 私の例で言えば、これまで痴漢をしたことがない(当然のことで別に威張れることではない)。今後もすることはまずない(たぶん)。それはなぜかと言うと、痴漢をしている自分の姿というのを想像してみると、これがみっともないからである。その昔、「ジエームズ・ボンドのような男になりたい」とずっと思っていた(今でも思っている)。少しでも理想に近づきたいと思うが、ジェームス・ボンドはまず痴漢をしない。となれば、自分もそんな格好の悪いことはできない。痴漢をするくらいなら堂々と口説けばいいと思っている。そういう「心の中の基準」があると正しい行動は取れるかもしれない。

 道端の10万円の例でいけば、これはまた違う理由がある。まず道端に10万円が落ちているという事態はありえない。そのありえないことがあるのは何か裏があるかもしれないとついつい考えてしまう。例えば陰でドッキリカメラが様子を撮影しているかもしれない。ポケットに入れたところをお茶の間に流されたら格好悪いことこの上ない。美女が笑顔で寄ってきたら心の中で警戒警報を最大限に鳴らすのも同じだが、ありえないことが起こった時は用心すべきなのである。世の中悪趣味な行為が横行しているし、十分気をつけないといけない。

 結局のところ、自分は心の中から正しい人間とは程遠く、人から見た自分の姿を想像して正しい行動をとろうとしていると思う。そういう意味では、「監視されないと正しい行動が取れない」と言えるのかもしれない。そうならないようにするためにはもっと修行が必要だし、今から修行していたら完成する頃には人生が終わってしまうだろう。いずれ監視カメラのネットワークが張り巡らされた世界が到来するのかもしれない。それで秩序が保たれるのであれば、あえて受け入れたいと思う。「誰かが見ている」という力を借りてでも正しい行動が取れるのであれば、それもいいかもしれない。

 人は他人の目がなければ正しい行動が取れないのか。そうではないと思いたいが、もしも他人の目がなくても大丈夫であるならば、他人の目があっても尚大丈夫だとも言える。結局、他人の目が必要な人は必要ということなのかもしれない。SF映画のような監視カメラのネットワークが張り巡らされた社会になったとしても、身を正して行動できればいいだけであると言える。まぁ、せめて格好つけて常に正しい行動を取るようにするだけはしていきたいと思うのである・・・




【今週の読書】
 異端者たちが時代をつくる(諦めばかりの現代社会を変えた6つの勇気の物語) - 松井 清人 ソビエト・ミルク: ラトヴィア母娘の記憶 - ノラ・イクステナ, 黒沢 歩




2019年10月31日木曜日

お金とオリンピック

マラソン札幌開催なら「都は負担なし」 IOCなど調整
2020年東京五輪のマラソン・競歩の開催地をめぐり、国際オリンピック委員会(IOC)が発表した「札幌案」が実現した場合、東京都には費用を負担させない方向で、IOCや大会組織委員会などが調整していることが大会関係者への取材でわかった。大会の準備状況を確認するIOCの調整委員会が30日、東京都内で始まり、会場問題や費用負担などが話し合われる。
朝日新聞デジタル2019年10月31日06時00分
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いよいよ来年に迫って来た東京オリンピックであるが、ここにきてゴタゴタが起こっている。何とオリンピックの掉尾を飾るとも言うべきマラソンが競歩とともに札幌で開催とIOCが突然発表したのである。これを受けて小池都知事も「いっそのこと、北方領土でやったら?」と嫌味を言っているとか伝わっている。外に出ることすら憚られる真夏の東京でマラソンを行うということ自体、狂気の沙汰と素人でも思うだけに、なんとも言えないところがある。こういうニュースに接すると、ついついニュースでは語られない水面下の動きに興味をそそられる。

そもそもであるが、なぜ真夏にオリンピックなのだろうかと思う。55年前の東京オリンピックは「体育の日」が制定されていることからも明らかなように「秋」であった。秋であれば問題はないだろうし、おまけにオリンピックついでに各地で紅葉狩りなんかも楽しめるし、何より味覚の秋を堪能できる。アスリートにとっても海外からの観光客にとっても、炎天下に観戦に出掛けなくてすむ都民にとっても、みんなハッピーなはずである。

それなのに真夏に開催するのは、実は米テレビ局の意向だという。ちょうどこの時期はアメフト、バスケットなど人気米プロスポーツのオフ期に当たり、この期間だとIOCが米テレビ局からオリンピック中継に伴う巨額な放映権料を得やすいのだそうである。オリンピックはこの放映権料に支えられているため、米テレビ局が夏のオリンピック開催を求めれば、IOCはそれに従わざるを得ないのだという。なるほど、である。本当なのかどうかは部外者にはわからないが、理由としては最も説得力のあるものだと思う。

札幌開催案は、「アスリートファースト」だと説明されれば説得力はある。いくら常人離れしたアスリートだって東京より札幌の方がいいだろう。ただ、そもそも論を考えると白々しく響いてくる。東京都の関係者も実は「ふざけるな!」と思っているかもしれないが、「アスリートファースト」を出されると弱いかもしれない。「だったらそもそも秋にやれよ」と私だったら腹を立てるだろう。だが、これだけのイベントであれば当然お金はかかるわけで、そのお金をどうするのかと考えれば事は簡単ではない。

 この放送権料はIOCの繁栄を支える最大の収入源であるという。その金額は、2010年のバンクーバー冬季オリンピックと2012年のロンドンオリンピックで計約39億ドル(約4,690億円)だというから相当なものである。そしてその収入の9割は各国オリンピック委員会や各競技の国際連盟などに還元されているそうであり、そうした巨額の補助金もそれなりに各スポーツを下支えしているとすれば、異を唱えにくいのかもしれない。

バブル崩壊、金融危機などの時期、苦境に陥った各企業はそれまで自社で抱えていたスポーツ活動から手を引いていった。野球、陸上、バレー、サッカー等々の名門チームがなくなっていったのは記憶に新しい。会社が危機にある中、「それどころではない」というのは当然の話であるが、プロスポーツならいざ知らず、アマチュアスポーツである以上、会社の判断を非難することはできない。活動資金源として「スポンサー」が必要なのはやむを得ないことであり、オリンピックが米テレビ局の意向に左右されるのもやむを得ないのかもしれない。

一方、お金を出す方の立場としてみれば、お抱えのプロスポーツのハイシーズンに競合するものにお金を出せないのは当然の判断だろう。プロスポーツの放映権だって高額なのだろうし、それは高視聴率が期待できるからこそ高いお金を払うわけであり、わざわざそれと競合するものにお金は出せない。では、と周りを見回してみても、ヨーロッパはこの時期サッカーがあるし、他に巨額の資金を出せるところがないのかもしれない。

まさに、あちらを立てればこちらが立たず。どういう解決策が一番いいのかはわからないが、今の流れでいくと札幌案もやむを得ないのかもしれない。ラグビーのワールドカップでは、アジア初の日本大会開催を受けて、国内のトップリーグ及び大学のトップグループの公式戦は大会期間中は休止となった。その下の第2グループは開催されたが、キックオフの時間が通常よりも早い時間に設定されたりと国内挙げての体制が組まれた。ラグビーという狭い世界だからこその挙国一致体制だが、さすがにオリンピックは難しいだろう。

理想と現実と言ってしまえばそれまでなのかもしれないが、外野の立場としては、マラソンを観るのはどちらにしろテレビの予定であるし、東京だろうと札幌だろうと国内には変わりないし、どこであろうとテレビの前でスポーツの祭典を純粋に楽しみたいと思うのである・・・




【本日の読書】
 異端者たちが時代をつくる(諦めばかりの現代社会を変えた6つの勇気の物語) - 松井 清人 孤絶 -家族内事件 (単行本) - 読売新聞社会部





2019年10月28日月曜日

夢とはなんだろうか

 若者には夢が必要だということに異論はない。若者に限らず、夢のある人とない人とでは、圧倒的に夢のある人の方が魅力的である。ただ、そうは言っても、今一つ力強くそう人に語ることができないと感じているのは、自分自身、昔から夢というようなものを持っていなかったからである。「将来プロ野球選手になりたい」と無邪気に語っていた幼少期は別として、それ以降、恥ずかしながら「夢」というものを持ったことがないのである。なんて夢のない人間なのかと思うも仕方がない。みんなどんな夢を持って生きているのだろうかといつも思う。

将来について漠然とではあるが、ある程度真剣に考え始めたのは高校生の時である。大学受験というのが間近に迫る中、志望大学を決めるのにはどうしてもある程度将来の進路というものを決めなくてはいけない。初めて「大人になりたくない」と思ったのもこの頃かもしれない。あれこれ迷うなか、何となく理系よりは文系と考えていたところ、アル・パチーノ主演の映画『ジャスティス』を観て、弁護士になろうと思ったのが最終的に進路を決めた経緯である。結局、大学に入ってから自分には法律は合わないと感じて進路を変更したが、果たしてあれが「夢」だったかというと、「そこまではいかない」というレベルだったと自分では思う。

弁護士というのは、あくまでも「職業」としてのもので、それほど強烈な思いを持っていたわけではなく、何となく浮かんだ選択肢の一つという感じである。結局、銀行員になったが、それもいろいろな選択肢の中から決めたにすぎず、「夢」というのとも違う。「金融を通じて中小企業の成長を助ける」というような崇高な志があったかと言えばそんなことはなく、ただ何となく経済のことがわかるようになれば、その先いかようにでも対応できそうだという漠然とした思いがあっただけである。それ以降、今日に至るまで、やはり「夢」と言って人様に語れるようなものはない。

そんなことをつらつら考えたのは、やはり高校を卒業して将来に悩んでいる娘に何と言ってアドバイスしてあげたらいいだろうと考えたからである。娘は不器用なタイプで、「とりあえず大学に行く」という気軽さは持てないようで、「やりたいことが見つからない」という思いを抱いているようである。ある意味、真面目なのかもしれない。そんな娘に対してどんなアドバイスができるのだろうかと考えてみたが、自分自身、夢などというものを持つことなく今日まで来てしまっているし、結局、できるとしたら「なるようにしかならない」というくらいかもしれない。

しかし、考えてみれば夢がなくてはいけないのだろうかと問われれば、それは「あるに越したことはない」という程度なのかもしれないと思う。現に自分は今日に至るまできちんと生きてきているわけだし、仕事もそれなりに充実していて、私生活でも週末にはラグビーをやったり、映画を好きなだけ観て、本も読んで、時折クラッシックのコンサートにいったり劇団四季のミュージカルを観に行ったりとそれなりに人生を充実させている。欲を言えばキリがないが、不満がないと言えばうそになるもののそれなりに楽しい人生を歩んでいる。それでいいようにも思う。

この先の人生の後半戦はどうだろうと思うが、体の動くうちはやっぱり今のような生活を送ってそれで充分だと思う。もうちょっと金銭的に余裕があれば尚良いが、この先もやっぱりラグビーをやりたいし、映画も観たいし本も読みたい。コンサートや観劇にも行きたいし、国内外の旅行にも行きたい。これまでとはちょっとワンランク上のそんな生活を送りたいと思う。それが今の夢と言えば夢。夢というにはあまりにも小さいと思うが、夢とは言わずに「望む生活」というならそれで充分。考え方によっては、「好きなことをする生活」とも言えるわけで、それが当面の目的であろうか。

娘もそんなに肩ひじ張らず、どこの大学に行こうとその先どんな風に生きようと、なるよになるだろう。立ち止まってフリーズしてしまうのではなく、動いてみることだろうと思う。夢なんて高く掲げなくとも、少なくとも親はそうやって生きてきているわけだし、大丈夫なのである。そのうちやりたいことも見つかるかもしれないし、「とりあえず」やりかけている大学受験に対して、迷うことなく向かうことでいいと思う。一つ扉を開ければ、また違う風景が見えるかもしれない。今度そんな話をしてみたいと思うのである・・・




【本日の読書】
 偏差値37なのに就職率9割の大学 (メディアファクトリー新書) - 堀口 英則 夏の吐息 (講談社文庫) - 小池真理子



2019年10月21日月曜日

論語雑感 里仁第四(その7)

〔 原文 〕
子曰。人之過也。各於其黨。觀過斯知仁矣。
〔 読み下し 〕
曰(い)わく、人(ひと)の過(あやま)ちや、各〻(おのおの)其(そ)の党(とう)に於(おい)てす。過(あやま)ちを観(み)て斯(ここ)に仁(じん)を知(し)る。
【訳】
先師がいわれた。
「人がらしだいで過失にも種類がある。だから、過失を見ただけでも、その人の仁、不仁がわかるものだ」
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過失にも種類がある。そして人によってその過失にも特徴がある、という孔子の言葉。言われてみれば確かにそうかもしれないと思う。孔子はさすがに観察眼が鋭い。人にはそれぞれ癖があり、だからうっかりするところもだいたい決まってくるというのは、我が身を以って実感している。実は銀行員時代、細かい数字のミスをちょくちょくやっていたのである。自分でも気をつけているつもりであったのだが、どうしても防げなくて情けない思いをしていたものである(今はもう感じないが、それは単に扱いが減ったからで治ったわけではないはず…)。

 たぶん、人によって「うっかり余計な一言を言ってしまう」とか、「またやっちゃった」というのがあるのだと思う。孔子もそんなことを日頃の観察眼から得ていたのかもしれない。もっとも、「その人の仁、不仁がわかる」という部分は相変わらずよくわからないが、「犯すべくして犯した過ち」ということは何となくわかる。そして、ここで言っているのは表面的な「ついやっちゃったうっかりミス」という程度ではなく、もっと人の根本の部分に関わるものだろうと思う。

 そもそもであるが、孔子は「人柄次第」というものの、よく言われる「その人らしさ」とはどういうものかと、ふと思う。「自分らしさ」と考えてみると、それは何であろうか。「自分はこうだ」と思うことなのかもしれないが、自分で思う「主観的な」自分らしさが「自分らしさ」なのか、それとも人が見た「客観的な」自分という人間らしさが「自分らしさ」なのだろうか。

 先日、大学時代からの友人に会った時のこと、大学時代の私のエピソードをからかわれた。もう30年以上も前の事であり、私もすっかり忘れていたことである。「そんなこともあったなぁ」と思いつつも、同時に「今だったら絶対やらないだろう」とも思う。それは誰にでもある「若気の至り」でもあり、年齢的にも性格が穏やかになったということでもあり、自分の中では変化していることなのであるが、友人の中では私はいつまでたっても「そういう人間」であるようである。つまり、友人の考える「私らしさ」と自分で思う「私らしさ」とは異なるのである。この場合、どちらの「私らしさ」が正しいのであろうか。

 およそ主観と客観では客観の方が正しいと思うが、こと「自分らしさ」で言えば、「自分の事を一番よく知っている人=自分」の方が正しいようにも思う。それにモノの見方はコインの裏表と同様、表裏一体のところがある。「臆病」も実は心の中では「慎重」なのかもしれないし、友人に対しては「ケチ」でも、身内に対しては「気前が良い」かもしれない。つまり、明らかに「良い悪い」を判断できるものであればともかく、「見方による」場合は「過失」の判断すら難しいかもしれない。

 大げさに「過失」と捉えなくても、その行為に人柄が現れると考えればそれはまさにその通り。それを「過失」に注目したところが孔子の面白い着眼点なのかもしれない。「仁=人を思いやる気持ち」と考えるのであれば、それが欠けていることから起こす過ちというものも想像に難くない。されどついつい、人は己の事のみを顧みて短絡的な方法を選んで失敗する。そんなことを孔子は戒めたのであろう。

 2,500年前も現代も同じことが言えるということは、そうそう人の本質は変わらないということ。いつの時代にも同じように考え、失敗する人がいるということである。友人の中ではいつまでも変わらないのかもしれないが、今では若気の至りと省みることができるようになった(と自分では思えるようになった)わけである。そろそろ友人のイメージを更新できるように、円熟味を出していきたいものだと思うのである・・・




【本日の読書】
 アフターデジタル オフラインのない時代に生き残る - 藤井 保文, 尾原 和啓 正義の教室 善く生きるための哲学入門 - 飲茶





2019年10月17日木曜日

ラグビーワールドカップ雑感

ラグビーのワールドカップが盛り上がっている。開幕前は、「良くて2勝」だろうと予想していたが、まさかのアイルランドに勝利し、ついに宿敵スコットランドまで破って予選プール全勝での決勝進出は予想していなかった驚きと喜びである。その結果には、ただただ凄いなぁと思うだけである。何でも選手が吐くくらい猛練習したとアイルランド戦前に聞き、そんなに練習して勝てなかったらもう未来はないんじゃないかと思っていたが、やっぱり流した汗、練習は嘘をつかなかったわけである。

私もラグビーをやっていたとあって、友人知人から随分声を掛けられる。「おめでとう」と言われても、別に自分の事ではないしと戸惑うが、まぁ関心が高まるのは良いことだと思っている。テレビの視聴率も先週のスコットランド戦は瞬間最高視聴率53.7%で、今年の全番組の中でトップなのだとか。サッカーのワールドカップの盛り上がりをいつも寂しく見ていたから、そういう意味ではいい気分である。

周りには「にわかファン」がおずおずと名乗り出てくる。自分としては、「にわか」だろうが何だろうがまったく気にしないのであるが、ご本人的には気になるのだろうか。それでも「面白いねぇ」と言っているのを聞くと嬉しくなる。ただ、相変わらず「ルールが難しい」という声を聞く。個人的には「そんなに難しいかなぁ」と思う。確かにいろいろと複雑なところはあるが、試合の流れを観ていれば細かいルールなどわからなくても平気ではないかと常々思っている。ルールを知っていたって、実際なにがあったのかはレフリーのジェスチャーを見ないと我々だってわからないのである。

しかしながら、先日ある知人から「キックの違いがわからない(何でキックを蹴るのかわからない)」と言われてふと気がついた。ラグビーでは、キックでボールをフィールド外へ蹴りだした時、蹴りだしたチームのボールになる場合と相手チームのボールになる場合とがある。ペナルティキックとそうでない場合の違いであるが、「プレーの意図」がわからないと、なんでああいうプレーをするのだろうという疑問に囚われてよくわからなくなるのだそうである。わからないのは、ルールというよりそうした「プレーの意図」なのかもしれないと思った次第である。

そう言えば思い出すことがある。ラグビーを始めたばかりの高校一年の頃だったと思うが、「勉強だ」と言われて大学生の試合を観に行ったことがある。秩父宮で、法政大学とどこかの試合であったが、観戦中眠くてたまらなかったのである。当時、ルールは既に覚えていたと思うが、どうにも観ていてつまらなかったのである。今はどんな試合でも面白いと思うが、当時はまだそうではなかったということ。たぶん、やっぱりルールよりも「プレーの意図」がわからないからつまらなかったのかもしれない。

さらには一つ一つのプレーの精度もあるかもしれない。やっているからこそわかるプレーの難しさである。何気なく蹴ったキックが絶妙の位置に落ちる。ポジショニングにしても、なんでこのプレーヤーがこの位置にいるのだろうとか。タックルにしてもパスにしても、密集での働き掛けにしても、自分には難しいことをさらりとやっている。ノールックパス(味方を見ないでパスする)なんて自分たちの時代にはなかったし(むしろそんなことをやったら怒られていたと思う)、そんな痺れるプレーを観るのも面白いものである。

世間の関心が高まるのは良いと思うが、気になるのはトライを取った選手への賞賛である。それはそれでいいのであるが、ラグビーはチームプレーである。トライは結果であって、そこに至るプロセスがある。トライを取った選手は確かに賞賛に値するが、実はそこに至るまでに優れたプレーがあったりすることしばしである。巧みに相手ボールを奪取したフォワードの選手の働きがあったかもしれないし、相手のディフェンスラインを巧みに抜いて(トライを取った選手のディフェンスを自分に引きつけた)味方のバックスのランプレーがあったかもしれない。それを飛ばしてトライを取った選手だけを絶賛するのは、ラグビーを知る者にはとても違和感があるのである。

以前職場で、歩合制の導入について意見を求められたことがある。不動産業界ではけっこう当たり前の制度である。ただ、私はその時即座にそれを否定した。なぜなら、たとえば不動産を1件売ったとしても、その陰では社員の大小さまざまな「協力」があってこその考え方があったからである。たとえ問い合せであっても、全員一丸となって売ろうとしていたら、親切丁寧に応対し担当する者に繋ぐという意識でやってくれるかもしれない。「どうせいい目を見るのは担当だけ」という気持ちだったらそうはならないかもしれない。最後にトライした人だけではなく、「繋いだ人」に対する意識があったからこそ歩合制を否定したのであって、その精神はラグビーで培ったものとも言える。

さて、予選プール全37試合(残念ながら台風の影響で3試合が中止になってしまった)が終わった。これまで「全試合観戦しよう!」と決意して32試合を観終った。あとは録画で撮ってある5試合と決勝トーナメントの8試合である。決勝トーナメントはどの組み合わせでも強豪同士の好カードになる。我らが日本代表にはもちろん頑張ってもらいたいが、その他の試合もとても楽しみである。

あと2週間、最後までじっくりと楽しみたいと思うのである・・・


日本vsアイルランド戦


【本日の読書】
 実行力 結果を出す「仕組み」の作りかた (PHP新書) - 橋下 徹 アフターデジタル オフラインのない時代に生き残る - 藤井 保文, 尾原 和啓




2019年10月14日月曜日

世界にバカは4人だけか?

「世界的なビジネス・コミュニケーション本がついに邦訳」という謳い文句で、『世界にバカは4人いる』という本が出ていたので思わず手にした。コミュニケーションについては、どちらかと言えば苦手意識を持っていることもあり、この手の謳い文句には弱いのである。しかしながら、どうにも違和感を感じて途中で読むのをやめてしまった。なんとなく「あわない」と感じる本を読了するのも苦痛なのである。その違和感の正体はなんなのか。

この本は、著者のトーマス・エリクソンが、これまでに何千人もの人たちを指導してきた経験からこれまで出会った性格丸出しの“バカな連中"と、どううまく付き合っていくかを「DiSCモデル」というものをもとに解説していくものである。その最大の特徴は、著者のいう“バカな連中"を4つに分類しているものである。それぞれの特徴は以下の通りである。

1.   赤タイプ(主導型):何でも1番でないと気が済まない。仕事は速いがそもそも目的を間違えたまま突っ走る。他人に興味がなく自分が中心。
2.   黄タイプ(感化型):他人にはまったく興味なく、思いついたアイデアや自分のことを延々としゃべり続ける。仕事を最後まで完遂しないまま次の興味へと進む。
3.   緑タイプ(安定型): 口論を最も嫌い、他人に手を差し伸べることで安心する。仕事はするものの指示されたこと以外は自分の時間を大切にする。
4.   青タイプ(慎重型): 資料やマニュアルを重視し、プロセスに納得しないと仕事をしない。データや数字を重視するあまり、仕事が遅い。

 そもそもの違和感は、「自分に当てはまるものがない」という単純な事実。そうして読み進めてみると、当てはまるものがなければ、その主張するところにも納得感を感じられず、それゆえにギブアップしてしまったのである。しかし、よくよく考えてみると、人間を四つのパターンに当てはめようとするのがそもそも間違いである気がする。人間はそんなに単純ではないと思うのである。自分の根本にそういう考え方があるゆえに、この本に対する違和感につながっていったのだと思う。

 同じような例として、「血液型性格診断」もある。これも巷に随分浸透しているが、私はこれも受け入れてはいない。人が勝手にいろいろ言うのは自由だからとやかくは言わないが、人間の性格は四つに分類できるものではないと考える。しかも血液型が思考に影響を与えるということに対しても、直感的に受け入れ難いものを感じるのである(もちろん、専門家が相関関係を発見でもしているなら受け入れる余地はある)。人の考え方は、主として環境の影響を受けるものであり、同じ血液型でも性格の異なる弟を有している身としては、到底受け入れられるものではない。

 もっとも、先の本も血液型もきっかり四つの分類していると言うものではないのは当然である。強いて言えば、「そういう傾向がある」とでも言うべきものだろう。そこは目くじらをたてるものではないと思う。例えば仕事で部下が「A型で青タイプ」だとわかったら、「プロセスを丁寧に説明して、納得させた上で仕事を進めさせるようにしたらいいかもしれない」というような利用方法をすればいいというのだろう。もちろん、そういうノウハウがあるのだったら、喜んで授業料を払ってでも勉強するだろう。

 しかし、例えば血液型で言うとA型は、『A型の人はとても優しく、自分の意見を無視してでも相手をたてるような相手への気配りに長けた人です。誰に対しても優しく接するので、初めてあった人からは「優しい人」といった印象が強くつきそうです。真面目で曲がったことがきらいです』(4つの血液型別!性格の特徴と相性を全パターン解説【血液型占い】)だと言う。我が妻を見ればまったく当てはまらない。これ一つ取っても当てにならないものだということがわかる。もちろん、当てはまる人も中にはいるだろう。だからこそ世の中に広く浸透しているのだと言えるのだし、それを否定するつもりはない。

では、なぜ当てはまる人がいるのかと言えば、それは簡単で、日本人が1億2000万人だとすれば、4つの血液型診断に対し「当てはまる人がいるのと同じくらい当てはまらない人がいる」というシンプルな理由だろう。先の本にしても同じ理屈が言えるわけで、「当てはまる人に対してはこうすればいい」と考えればいいのだろうと思う。そう大らかに捉えればいいと思うし、「著者の母国スウェーデンで85万部を突破し、現在、世界40カ国で翻訳が決定している異例のベストセラー」を否定するつもりはない。ただ、自分としては読む気になれないと言うだけである。

考えてみれば、人は他人が何を考えているのかなんてわからないわけだし、だからこそコミュニケーションギャップが生まれ、人は人間関係に悩むのである。それを解消しようと、「人付き合い系」の本が受けるのも無理はない。繰り返すが、自分も人間関係が完璧にうまくいく方法があるならそれを習得するのに躊躇はしない。ただ、スウェーデン発のこの本も血液型もその役には立たないと思うだけである。

ちなみに別のサイト(【当たる血液型診断】)で、両親の血液型も含めた分析をしてみたら、自分は下記のように表示された。
《行動的で、頼れるリーダータイプ。パワフルで何かと目立つうえに、自己顕示欲も高め。自己中心的な側面もあり、それが恋愛に表れると、障害のある恋ほど燃えることに。逆境にも強くタフな生命力を持つので、仕事で成功する人も少なくない。》
これは思わず「その通り!」と言いたくなる。案外、こうした「賞賛」こそが多くの人に支持される所以ではないかと、アマノジャッキーとしては思うのである・・・




【今週の読書】
 実行力 結果を出す「仕組み」の作りかた (PHP新書) - 橋下 徹 兵士は戦場で何を見たのか (亜紀書房翻訳ノンフィクション・シリーズ II-7) - デイヴィッド・フィンケル, 古屋 美登里




2019年10月10日木曜日

電子決済

新しい製品やサービスが導入された時、真っ先に飛びつく「アーリー・アダプター」タイプの人がいる一方で、私はどちらかというと真には「レイト・マジョリティ」という遅れて普及した頃に始めるタイプだと思う。しかし、近年何とか意識して両者の中間たる「アーリー・マジョリティ」くらいにはなろうと意識している。それは、「世の中に遅れまい」という意識よりも、「それがどんなものなのか知っておきたい」という意識からである。

最近、そういう意味で始めたのが「paypay」である。既にちょっとした金額のものはクレジットカードを利用していたが、あまり小口の金額だとクレジットカードは憚られるものがある。そこでスイカが登場し、だいぶ普及してきたこの頃は、スーパー等ではスイカ決済を利用していた。これだと小口でも憚られることはないし、何より1円玉の小銭が増えることもない。溜まった1円、5円を減らそうと財布を漁る必要もない。そうしてみると、気がつけば最近は1週間でほとんど財布の中の現金が減らないという状態になっている(悲しいかな増えもしないが・・・)。

それで充分だったのだが、〇〇ペイがたくさん出てきて、行きつけの美容院も「paypay決済始めました!」なんてやっていることから、いよいよ電子決済に乗り出したのである。最初はよく利用するセブンイレブンでセブンペイをスマホにダウンロードしたのだが、すぐに違法利用の問題で利用停止になってしまい、ソフトバンクのキャンペーンのついでもあって、paypayに切替えたのである。最初こそちょっと戸惑うも、すぐに慣れるというもの。使ってみれば意外と「便利でお得」だとわかる。

たとえばよく利用するスーパー「ライフ」の場合。まずレジで商品をスキャンして支払金額が出る。ここでポンタカード(ライフのカードは持っていない)を出せば、ポンタポイントが溜まる。次にpaypayで決済すると、その一部はあとでキャッシュバックがある。さらにpaypayをクレジットカード決済にしておけば、後日クレジットポイントも溜まる。そして財布が膨れる小銭は溜まらない・・・難を言えば、paypay決済ができるレジが限定されていることぐらいだろうか。

新しい技術が登場すると、年寄りはついていけないということはよくある。我が両親を見ていてもその通りであるが、自分はやっぱり世の中についていきたいと思う。かつてATMが普及し始めた頃、「機械はダメ」と言って頑なに窓口を利用し続けるお年寄りがいた(今もいるのだろうか)。それを否定するつもりはないが、やはりATMを普通に使えた方が便利だし、さらにはインターネットバンキングが使えればもっと便利である。否定するより受け入れた方がはるかに良い。

新しい技術(サービス)についていけるかどうかは、思うに「能力」より「意欲」だという気がする。興味を持って、「これどうやるのかな」と使い始めれば大抵のサービスは使いこなせるだろう。人前でちょっとくらい戸惑ったって恥ではないし、年を取っていれば周りも大目に見てくれるだろう。だが、新しい技術に手を出すのを躊躇する人は、「面倒臭い」という思いと共に、「人前で(まごつくのが)恥ずかしい/申し訳ない」と思うようである。

新しいモノが何でも良いというわけではなく、要はそうしたモノに対する「スタンス」である。頭から否定して避けるのは楽だろうが、結局、それは「精神の老化現象」に他ならないと思う。すべての技術(サービス)を利用すべしとまでは言わないが、せめて広く世の中に広まっているものくらいはしっかり使いこなせてもいいように思う。ガラケーにしがみつくのもいいが、敢えてスマホに挑戦することが「精神の老化現象」を防ぐことになるし、それを利用したサービスをいろいろと使ってみることもそうだと思う。せめて「試してみる」くらいの意識は持っていたいと自分としては思う。

そうは言っても、これから次々と登場する新しい技術(サービス)についていけるだろうか。自分も日々老化していく中で、「ついていく意識」だけは持っていたいと思うのである・・・




【本日の読書】
 実行力 結果を出す「仕組み」の作りかた (PHP新書) - 橋下 徹 兵士は戦場で何を見たのか (亜紀書房翻訳ノンフィクション・シリーズ II-7) - デイヴィッド・フィンケル, 古屋 美登里





2019年10月7日月曜日

論語雑感 里仁第四(その6)

〔 原文 〕
子曰。我未見好仁者惡不仁者。好仁者無以尚之。惡不仁者其爲仁矣。不使不仁者加乎其身。有能一日用其力於仁矣乎。我未見力不足者。蓋有之矣。我未之見也。
〔 読み下し 〕
子し曰いわく、我われ未いまだ仁じんを好このむ者もの、不ふ仁じんを悪にくむ者を見みず。仁じんを好このむ者ものは、以もって之これに尚くわうる無なし。不ふ仁じんを悪にくむ者ものは、其それ仁じんを為なさん。不ふ仁者じんしゃをして其その身みに加くわえしめず。能よく一日いちじつも其その力ちからを仁じんに用もちうること有あらんか、我われ未いまだ力ちからの足たらざる者ものを見みず。蓋けだし之これ有あらん。我われ未いまだ之これを見みざるなり。
【訳】
先師がいわれた。
「私はまだ、真に仁を好む者にも、真に不仁を悪(にく)む者にも会ったことがない。真に仁を好む人は自然に仁を行なう人で、まったく申し分がない。しかし不仁を悪む人も、つとめて仁を行なうし、また決して不仁者の悪影響をうけることがない。せめてその程度には誰でもなりたいものだ。それは何もむずかしいことではない。今日一日、今日一日と、その日その日を仁にはげめばいいのだ。たった一日の辛抱さえできない人はまさかないだろう。あるかも知れないが、私はまだ、それもできないような人を見たことがない」
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 「仁」は、「人を思いやる気持ち」というように説明されている。どんな時でも自然にそういう気持ちを持ち、行動できるのであれば申し分ないのであろうが、なかなか聖人君子でもない限り難しい。「不仁」はその反対であるから、「人を思いやる気持ちがまったくないこと」であろうか。それを心から憎むということだろうが、反語の反語でよく意味が理解できない。ただ、要は両極端の人はなかなかいなくて、大抵の人は中間だということなのだろうと思う。

 この話を聞くと、よく「性善説」「性悪説」と言われていることが思い浮かぶ。人間の本性は基本的に「善」なのか「悪」なのかを唱える概念である。どちらなのかと考えると、「どちらでもない」と個人的には考える。人間が行動をするにあたって良い行いを取れるかそれとも悪事をなすかは、あくまでも「環境」の要因次第だと思う。もちろん、同じ環境であれば、同じ行動を取るというものでもない。だが、人の心の中には常に善と悪が混在していて、時に応じて出現するものだと思うからである。

 クリストファー・ノーラン監督の『ダークナイト』は、人間の持つ善悪を見事に表した名作だと思う。ここではジョーカーに操られて悪事に加担する人が多数出てくるが、すべてが悪人というわけではない。病気の家族を抱えた警官が医療費欲しさにジョーカーに協力してしまうケースもある。協力と言っても情報を提供するものだが(もしかしたら本人は結果までは予測できなかったのかもしれない)、その根底にあるのは欲望に基づく悪意ではなく家族への愛である。これを悪人と呼べるかは難しい。

 また、避難民を満載した2隻のフェリーが爆弾を仕掛けられる。双方に起爆装置があり、助かりたければ先にもう片方のフェリーを爆破しなければならない。ジョーカーの仕掛ける悪業は真に人間を追い込む。しかし、囚人が満載されたフェリーで、1人の大柄のいかにも悪人風情の黒人が、躊躇する警官から起爆装置を取り上げると迷うことなくそれを海に捨てる。自分が死ぬかもしれない状況下で正しい行動が取れる立派な黒人の行動が感動的なのであるが、しかしそもそもは何か罪を犯しているから囚人なのである。善人の悪行、悪人の善行というわけである。

 『ダークナイト』を観ていると、善悪の単純な常識をひっくり返される。人間は常に善であり、悪である。どちらかに決められるものではないのが普通である。なのにジョーカーは常に悪であり、バットマンは常に善の立場に立つ。だから映画も面白い。それは今回の「仁」にも当てはまる。孔子も同意見で、だから常に仁であろうと無理するのではなく、「今日一日」だけ仁に励めばいいとしているのだろう。これもその通りである。イチローの言う「小さいことを積み重ねるのが、とんでもないところへ行くただひとつの道」という理屈と同じである。

 大きな夢を目指すのもむちろん素晴らしいことだと思うが、50の半ばを過ぎると日々毎日心穏やかに平穏に過ごしたいと思う気持ちが強くなる。その日その日を人生最高とまでいかなくても、良き日として過ごしていくことが、「とんでもないところ」へ行く道なのかもしれないし、その「とんでもないところ」というのが、実は「途中で不運な形で人生を暗転させることがない」ということなのかもしれない。「一日一善」という言葉もみなこれに通じているようにも思う。

 今日1日が幸福にあふれた幸せな1日である必要はなく、何も悪いことがないのを良しとし、1日に一つだけでも何か人に優しくできればそれで良しとし、「その日その日」を大事に過ごしすことを心掛ける。そんな姿勢が大事なのかもしれないと思うのである・・・




【本日の読書】
 10秒で伝わる話し方 - 荒木 真理子 充たされざる者 (ハヤカワepi文庫 イ 1-5) - カズオ イシグロ, 幸, 古賀林





2019年10月3日木曜日

愚か者

この頃、煽り運転が社会問題化している。私も若い頃は高速道路で追い越し車線をトロトロ走っている車にバッシングしたことがある。「どけ!」という意味であったが、あれも今から思うと煽り運転だったのだろうかと思ってみる。しかし、車を止めたりはしなかったので、まだかわいいものだったのかもしれない。それにしてもいろいろなパターンで次から次へとよく出てくるものである。

最近はスマホやドライブレコーダーの普及により、煽りの実態がテレビでよく放映される。「酷いな」とあきれる反面、我が家も妻がドライブレコーダーを買おうかしらと言い出すに至り、煽られる方も防衛策を講じるきっかけと考えれば、ニュースになるのも良いことである(とドライブレコーダーメーカーも思っているに違いない)と思う。私も止められたら進んでおりて行くタチであるから大いに気をつけようと思う次第である。

最近よく目にするニュースと言えば、「虐待」である。幼い子供に対して死ぬまで虐待するなんてよくできるなと思うが、今読んでいる『事実 vs 本能 目を背けたいファクトにも理由がある』によると、継父による虐待死には自分の遺伝子を残したいという人間本来の本能が作用しているのだとか。その真偽はともかくとして、亡くなった子供は本当にかわいそうだし、次々にあちこちで起こるのが信じ難いところである。

大相撲では、『貴ノ富士、協会からの引退勧告でスポーツ庁に上申書』というニュースを目にした。何でも付け人を暴行したことに対し、相撲協会から引退勧告を受け、「厳しすぎる」と泣きついたというもののようである。何だか聞いたような話だが、横綱の日馬富士がやっぱり暴行で引退しており、「またか」と思う。日馬富士に暴行されたのは元同じ貴乃花部屋だった貴ノ岩であり、なのになんでやるかなと思わざるを得ない。詳しい状況はわからないが、理由は何であれ体罰にあたっては十分注意してしかるべきだろうと思う。

いずれのニュースを見ていて思うのは、「学習効果がない」ということ。平たく言えば、「人の振り見て我が振り直せ」がなんでできないの、である。貴ノ富士にしても、横綱が同じ部屋の力士を殴って引退しているのを見て知っているであろう。なのになぜ自分がそれを付け人にやるのであろうか。「横綱はダメだけど自分は大丈夫」とでも思ったのであろうか。煽り運転が社会問題と化している時に煽り運転はマズいと思わなかったのだろうか。虐待死で親が逮捕されたニュースを見て、自分も気をつけようとは思わなかったのであろうか。

もっとも煽り運転の映像を見ていると、どうにも煽っている男は見るからに「学習能力」など端から持ち合わせていそうもない人物であったから、そんなこと期待できないのかもしれない。そもそも人の振り見て我が振りを直せるような人物なら煽り運転も虐待もするわけがないと言えるのかもしれない。また、中学を出てすぐ入門する力士は世間知らずで、そんな学習能力など身につけようもなかったのかもしれない。そう言ってしまえばそれまでであるが、なんとも理解不能である。

さらに考えるなら、「自分は大丈夫」という意識もあるのかもしれない。高齢ドライバーの事故が立て続けに起こってもなお免許更新をする高齢者はたくさんいるわけだし、飲酒運転だってなくなったわけではない。いちいち事件として報道されないと自粛しないというのも問題だが、「自分は大丈夫」と思っている人を翻意させるのも難しいだろう。そういう自分も「自分は大丈夫」と思っていることはないか、自問自答したいと思う。

何にせよ、人の振りを見て謙虚に我が身の振る舞いを振り返る姿勢は持っていたいと思うのである・・・




【本日の読書】
 文庫改訂版 事実vs本能 目を背けたいファクトにも理由がある (集英社文庫) - 橘玲 充たされざる者 (ハヤカワepi文庫 イ 1-5) - カズオ イシグロ, 幸, 古賀林