2026年9月27日日曜日

論語雑感 郷党第十 (その8)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感
【原文】
食不厭精。膾不厭細。食饐而餲、魚餒而肉敗不食。色惡不食。臭惡不食。失飪不食。不時不食。割不正不食。不得其醬不食。肉雖多、不使勝食氣。唯酒無量、不及亂。沽酒市脯不食。不撤薑食、不多食。祭於公不宿肉。祭肉不出三日。出三日、不食之矣。食不語。寢不言。雖蔬食菜羮瓜、祭必齊如也。
【読み下し】
食しは精せいなるを厭いとわず。膾なますは細ほそきを厭いとわず。食しの饐いして餲あいし、魚うおの餒たいして肉にくの敗やぶれたるは食くらわず。色いろの悪あしきは食くらわず。臭においの悪あしきは食くらわず。飪じんを失うしなえるは食くらわず。時ときならざるは食くらわず。割きること正ただしからざれば食くらわず。其その醤しょうを得えざれば食くらわず。肉にくは多おおしと雖いえども、食気しきに勝かたしめず。唯ただ酒さけは量りょう無なし、乱らんに及およばず。沽こ酒しゅ市脯しほは食くらわず。薑はじかみを撤てっせずして食くらうも、多おおくは食くらわず。公こうに祭まつれば肉にくを宿しゅくせず。祭肉さいにくは三日さんじつを出いでず。三日さんじつを出いづれば、之これを食くらわず。食くらうに語かたらず。寝いぬるに言いわず。蔬食そし・菜羮さいこう・瓜うりと雖いえども、祭まつれば必かならず斉如さいじょたり。
【訳】
米は精白されたのを好まれ、膾(なます)は細切りを好まれる。飯のすえて味の変ったのや、魚のくずれたのや、肉の腐ったのは、決して口にされない。色のわるいもの、匂いのわるいものも口にされない。煮加減のよくないものも口にされない。季節はずれのものは口にされない。庖丁のつかい方が正しくないものは口にされない。ひたし汁がまちがっていれば口にされない。肉の料理がいろいろあっても、主食がたべられないほどには口にされない。ただ酒だけは分量をきめられない。しかし、取乱すほどには飲まれない。店で買った酒や乾肉は口にされない。生姜は残さないで食べられる。大食はされない。君公のお祭りに奉仕していただいた供物の肉は宵越しにならないうちに人にわけられる。家の祭の肉は三日以内に処分し、三日を過ぎると口にされない。口中に食物を入れたままでは話をされない。寝てからは口をきかれない。粗飯や、野菜汁のようなものでも、食事には必ずまずお初穂を捧げられるが、その敬虔そのものである。
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 この「郷党第十」の章は名言、格言の類は少なく、もっぱら孔子のありふれた日常の行為について触れたものが多い。今回は食生活に関するものである。「口にしない」ということが多く説明されているが、何となく「好み」というより、「安全」の面からのような気がする。およそ2,500年前の中国では、現在と違って冷蔵庫などなく、食料の保存という点では厳しい条件下にあったと思う。そんな環境下、味の変わったものや腐ったもの、色や匂いの悪いものを食べないのは(現代でも)当然であると思う。

 安全以外の理由では、大食をしないとか、乱れるほど酒を飲まない、口にものを入れたまま喋らないなどは当たり前の嗜みである。私でもできていると言いたいが、もう昔ほど食べないのは年齢のせいかもしれないし、飲みすぎないのも単に酒が強くないのかもしれない。そのあたりは、孔子その人の他の見本となる行為であろうが、割と誰でも自然にできることなので何ということはない。

 昨年、妻と別居することにして実家に帰ることを決めたのは、単に金銭的な事情だけではなく、両親の面倒を見なければという思いもあったからである。母は長年専業主婦をやってきたベテランだが、腰の悪いのもあってか、しばらく前からほとんど料理をしなくなっていた。父はそれを非難することはなかったが、私が毎週末通ってちょっとしたものを作っただけで、「ご馳走だ」と喜んでいた。私は、と言えば「専業サラリーマン」で、家では食事など作ったことはなかったにも関わらずである。

 そんな私でも料理ができるのは現代社会の恩恵で、クラシルやデリッシュキッチンなどのアプリのおかげである。毎週末、実家に行っては冷蔵庫を覗き、そこにある食材をアプリに入れて出てきた献立から作れそうなものを選んで作るようにしたのである。今は多少慣れてきて、週末にスーパーで食材を適当に買い、それをベースに作っている。また、週央はコープやミールズといったおかずの宅配を利用している。現代社会は誠に暮らしやすい社会である。

 しかし、今度は賞味期限などの期限を意識しないといけないという難しさがある。冷凍食品はいいが、そうでないと食材はいつの間にか食べられなくなるという問題が出てくる。実は賞味期限はモノによっては結構過ぎても平気なので(特に冷凍食品)、実はかなり過ぎても食べたりする。他人様に出すわけではないので、そのあたりは大らかである。ただ、さすがに腐ってしまったものは食べないが、それ以外は孔子様も驚くかもしれない。両親の食事の支度を担うようになると、飲みに行く回数も減ってきている。まぁ、それほど苦痛ではないので構わないが・・・

 孔子も店で買った酒や乾肉は口にしないと書かれているが、もしかしたらそれは安全への危惧だったのかもしれない。当時は食品衛生法などなかっただろうから、何を売っているのかはわからない。酒だって水と混ぜてあったかもしれないし、腐りかけたものを平気で売っていたかもしれない。食中毒になっても自己責任だろうし、考えてみれば当時はすべて食べるものはよく厳選し、自分で自分の身を守らなければならなかっただろう。現代はスーパーでそんな心配をすることなく購入できるのは、考えてみればありがたい世の中である。

 考えてみれば、現代社会は食べ物に恵まれている社会である。それゆえにフードロスなんて問題も起こり、食べ物に対するありがみも薄れてしまっているのかもしれない。当時の食糧事情を想像してみると、「粗飯や、野菜汁のようなものでも、食事には必ずまずお初穂を捧げられる」という行為は、食べ物に対する自然な感謝の念なのかもしれない。食べるだけだった今までの生活は楽だった。自ら作るようになって、多少の苦労を味わっているが、むしろ食べ物に対する思いは高まったかもしれない。

 ありがたい現代社会の有り様に感謝しつつ、毎日の食事は心を込めて作りたいと思うのである・・・



【今週の読書】
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