2025年12月31日水曜日

2025年大晦日雑感

 早いものでもう1年の終わりである。早いと言ってもそれは過去を振り返ってみるからであり、早いと言いつつ365日をしっかり過ごしていることは間違いない。その365日であるが、記憶に残る日と残らない日とがある。大半は記憶に残らないが、きっかけがあれば思い出せたりする記憶もある。そのきっかけに有効なのは日記であり、このブログであったりする。両方とも欠かさないようにしたい(このブログは週2回だが)と思うゆえんである。

 この1年の大きな動きは、やはり別居と病気だろう。別居はもうこれ以上妻と一緒に生活を続けていくのは無理だと感じ、今後のことも考えて早いうちにと踏み切った。それ自体、後悔はしていないし、両親も2人だけの生活はそろそろ無理があると感じていたので、実家に戻るいいきっかけであったと思う。2年後に息子が大学を卒業したら正式に離婚する予定である。原因はおそらく自分にあると思うが、それを露骨な態度に表されていてはストレスが溜まるのみ。お互いのためになるものだと思っている。

 実家では家事を担うことになったが、何せ記憶が3分ほどしか持たない両親との生活もまた別のストレスに晒されている。すべてやってしまうのも逆に良くないかと思い、ご飯を炊くのは頼んでいる。しかし、帰るコールでご飯を炊くように伝えても、3回に1回はできていない。「(私からの帰るコールの)電話を切る」→「お米を研ぐ」→「炊飯器にセットする」という動作の合間に、何か別の用事が入ったりすると忘れてしまうのだろう。炊き忘れるのも想定して帰宅しないといけないということを学んでいる。

 病気については、あれこれ悩んでみても仕方がない。今後、医師と治療について話していく中で考えるべきことも出てくるのだろう。ラグビーも続けられなくなるかもしれないし、お金もかかるかもしれない。最悪、死ぬのだろうけど、それら諸々をいろいろと想定して動いていくほかない。実家に引っ越す時につくづく感じたが、物は少ない方がいい。身辺整理するにしても残された者の負担も考え、なるべく断捨離を実行して身の回りの物を少なくしておく必要もある。すぐに死ぬことはないだろうが、想定は大事だと思う。

 振り返ってみれば、仕事は順調であった。「経営とは問題のモグラ叩き」だと思っているが、日々問題は発生している。会社は創立50周年を迎えたが、まだまだ安泰とは程遠い。3代目の現社長を支え、4代目も内々に決まった。自分は社長を支え、No.2として引き続き手腕を振いたい。病気がどう進展していくかにもよるが、財務を中心に自分の役割を果たしていきたい。大事なのはコミュニケーションであるが、それが十分にできているかは随時意識していきたいと思う。

 来年は、より一層内省を極めたいと思う。物事に動ぜず、常に「自分が源泉」を心がけ、心の鏡を磨いていきたい。他人の行動は自分を表す鏡であるという考え方もあるそうで、なんとなく今の自分の心境に合っていると感じる。自分を持つことは大事だが、他人の考えを尊重することも大事。それをどう一致させていくか。仕事ではより一層大事なことであるが、プライベートでも同様。しなやかな水の如く隅々にまで目が行き渡る用に行動していきたいと思う。

 自分自身の在り方として、常に「良き夫、良き父親、良き息子、良き友人、良き部下、良き上司、良き同僚」であろうと心がけている。残念ながら「良き夫」はできなかったが、そのほかはこれからも努力したいと思うし、来年はさらに力を入れたい。自分の存在は他人の中にあってこそのところがあり、周りの人たちに快を提供できればいいなと思う。「良き◯◯」を極めていきたいが、その最終形は「良き父親」である。子どもたちに自分たちの父親はどんな人間だったのか。それを示したい。

 2026年はどんな年になるのか。少しずつ完成形に向けて努力と手間暇を惜しまないようにしたいと思うのである・・・



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2025年12月28日日曜日

論語雑感 子罕第九 (その19)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感
【原文】
子曰、語之而不惰者、其回也與。
【読み下し】
いわく、これげておこたらざるものは、かいなるか。
【訳】
先師がいわれた。「何か一つ話してやると、つぎからつぎへと精進して行くのは回だけかな」
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 日本の諺では「一を聞いて十を知る」という言葉があるが、それと似たイメージであろうか。一つ指示されるとその先を自分で想像して仕事を進めていける人がいる。一方、その反対は一々手取り足取り指示されないと動けないということであるが、そういう人も実際にいる。その差は何なのかと考えれば、それは「意識の差」に他ならない。実際、私の部下にもそういうタイプがいる(年上のおじさんだ)。なるべく自分のやる事は最小限にとどめんとしてとにかく自分から仕事はしない。言われればやるが言われないとやらない。

 上司からすれば何とももどかしい。しかし、本人にすれば余計な責任を負わなくて済むし、余計なことを考える必要もない。おそらくいろいろと気がつく事はあるだろうが、それを指摘すれば自分がやる羽目になるから黙っている。もちろん、指示されればきちんとやる。私の前任者には随分と怒られていたが、私はそういう人だと認識したので、イライラすることもなく、自分が指示するのを忘れないようにするだけである(忘れたらそれは自分の責任)。

 その逆に別の部下は(こちらは20代の女性だ)、一度言えば後は自分から動いてくれる。年末近く、挨拶用の会社のカレンダーを発注しているのだが、昨年それを指示して業者との交渉から全部やってもらった。すると今年は自分から「カレンダーはいつ発注しますか?」と聞いてきた。「昨年は今頃だったので」と。どうやら自分で来年も同じことを言われるだろうとメモでもしていたのだろう。今回はデザインと費用の承認だけで、私はほとんど任せっきりで何もせずに済んだ。両者の違いは天と地である。

 当然、私の2人に対する評価も大きく違う。別に仕事人間になれというつもりはないが(女性部下の方もそんな様子は微塵もない)、ただよく気がつくということだけだろうと思う。自分が部下の立場なら言われたことだけをやる仕事は、責任もなくていいかもしれないが、圧倒的に面白くない。どうせやるなら面白い仕事の仕方をしたいし、その方がいい。仕事を面白くするなら、ゲーム感覚で自分なりの目標を決めてその達成を目指してもいいし、「できないやつ」より「できるやつ」と思われたい。

 スポーツでも同様。上手くなりたいと思ったら教えてもらうだけではダメで、自分なりに考えて必要だと思う練習をしないと人より上手くはなれない。チームの全体練習で不足する分は、自分で時間を作って練習しないといけない。それは「やれ」と言われてやるものではなく、自分で考えてやることである。私も学生時代は練習開始の1時間前にグラウンドに行って筋トレをしていたし、練習後はチームメイトに手伝ってもらってスローイングの練習をしたりしていたものである。

 「好きこそ物の上手なれ」という言葉があるが、同じ理屈かもしれない。その根底にあるのはやはり「意識」である。「能力の差は5倍、意識の差は100倍」(永守重信)という言葉は真実であると思う。孔子の弟子である回もそういう意識が高い人物だったのだろう。だから孔子も回を高く評価していたのだろう。私が女性の部下を評価するように。回も自分の名前がこんなにも長く残るとは想像していなかったに違いない。他にも弟子はいただろうが、名前の残る弟子になるかどうかの違いはこの意識の差に他ならない。

 こうした事は、これから社会に出る息子に伝えたいと思う。もう自分の意識を高める段階は終わったと思う。これからは息子や会社の若手の意識を高めることを考えていきたいと思うのである・・・




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【今週の読書】
 全体主義の起原2 新版――帝国主義 全体主義の起原 新版 - ハンナ・アーレント, 大島通義, 大島かおり  センスの哲学 (文春e-book) - 千葉 雅也  失われた時を求めて(4)――花咲く乙女たちのかげにII (岩波文庫) - プルースト, 吉川 一義




2025年12月25日木曜日

格言雑感

 先日、出張先のホテルでメモに印刷された格言を見つけた。私は結構、格言の類が好きであり、割とこまめにメモしているが、そんなこともあって目に留まったのである。そこに印刷されていたのは、「人間、所詮入れたものしか出せない」という言葉である。この言葉に特に感銘を受けたという事はなく、「そういう部分もあればそうでない部分もあるのではないか」と単純に考えただけである。確かに、「物理的」に言えばその通りである。人間は食べたものを消化し、エネルギーとしてその活動に必要な部分を取り出し、残りかすは捨てる。トータルでは同じであり、物理学でいう一種のエネルギー保存の法則が当てはまると思う。

 しかし、入れたものが食物ではなくて、知識だったらどうだろうかと思う。もちろん、知識そのものは変化しない。しかし、人間は取り入れた知識を生かして問題を解決する。知識が醸成され、考え方となればその考え方によって問題を解決できる。その広がりは入れたもの以上になるような気がする。一見、それもエネルギー保存の法則に類似して、入れた知識が出ていく点では同じように思う。ただし、知識は忘れない限り何度でも繰り返し利用できる。その点は食物によって得られたエネルギーとは異なる。何度でも繰り返し利用できるという点で、「入れたもの」以上に出せていると言えると思う。

 しかし、量より質に目を向けると、利用する回数という量よりも、解決できる問題のレベルという質の点で入れたもの以上のものが出せているかとなると、また考えさせられるものがある。ビジネス書などを読めば、著者の考えに接してそれまでにない考え方ができるようになるかもしれない。本当はそこに自分なりの考えを付与して発展させれば「入れたもの以上」だと言える。ただ、それは知識の内容によるかもしれない。「全部運が良かったと思いなさい」(松下幸之助)などは考え方のあり方で、慢心を諫めるものであるが、それ以上ではない。

 これに対し、「天才が1時間かかってやる仕事は2時間かけて追いつき、3時間かけて追い越す」(本多静六)なども考え方であるが、天才の仕事ぶりを見て追いつけないと諦めていたとしたら、「時間をかければ追い越せるじゃないか」と考えて継続すれば、それは大きな成果につながるかもしれない。今まで出せなかった成果が出せるようになるという点で、入れた考え方は入れた以上の成果を生み出したと言えるかもしれない。これこそが人間が他の動物と違うところだと言えるのだろう。

 似たものとしては「経験」がある。これは自らの経験を知識に変換したものと言える。「羹(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹く」という諺があるが、これは一度熱い吸い物(羹)でやけどした経験から、冷たい和え物(膾)までフーフーと冷ましてしまうという状況を表したものであるが、過去の経験が知識となり、行動として表れているものである。過度な警戒心や臆病さを示す諺であるが、これも入れた知識が繰り返し利用される類のものであり(膾を吹く愚かさに気づくという新たな経験=知識を入れるまで続く)、入れたもの以上に出せる例とも言える。

 この言葉を思いついた人の本来の趣旨は違うのだろう。人間は所詮入れたものしか出せないので、入れたもの以上を出そうとしてはいけない、あるいは出せるものには限度があるといったものだろうと思う。天邪鬼な私としては、ついついそういう言葉に反発したくなる。そうではなくて、入れたもの以上に出せる場合があるのではないか、あるいは入れたもの以上に出せないと自分自身の価値はないのではないかと思ってしまうのである。入れたものが「指示」であれば、「言われたことしかできない」という事になる。それでいいのか、と思ってしまう。

 もしも本当に入れたもの以上は出せないのであれば、ならばより多く入れたらいいんじゃないのと思う。学生時代はラグビーに力を入れていたので、そのために常に体重を「あと5㎏」増やしたいと思っていた。太りにくい体質なのか、食べる量が少なかったのか、運動量が多すぎたのか、筋肉はそれなりについた感はあったが、体重はなかなか増えなかった。その体質は今も続いており、今は重宝しているが、もっと食えば良かったのかもしれない。知識に関しては、通勤時間を利用してたくさんの本を読んできたが、その成果は今しっかり出ていると実感している。それもまた良しであると思う。無理に入れたもの以上を出そうとせず、入れるものを増やし続けるのも大事である。

 出張の夜、1人ビジネスホテルの部屋にこもってつらつらとそんなことを考えてしまった。まだまだこれで打ち止めではなく、飽くことなく知識を入れ続けたいと思うのである・・・



【本日の読書】

 全体主義の起原2 新版――帝国主義 全体主義の起原 新版 - ハンナ・アーレント, 大島通義, 大島かおり  センスの哲学 (文春e-book) - 千葉 雅也  失われた時を求めて(4)――花咲く乙女たちのかげにII (岩波文庫) - プルースト, 吉川 一義





2025年12月22日月曜日

大人の事情なのか

スルガ銀行の不正融資問題 121億円の解決金支払いへ 4年の調停で迎えた「大きな節目」の裏で被害者が語る本音とは

スルガ銀行は福岡市に住む男性など全国各地のマンションのオーナー、およそ400人が所有する604物件のうち194物件に対し、解決金として合わせて121億円を支払うと発表しました。調停による一定の解決でスルガ銀行の不正融資問題は新たな局面を迎えていますが、窮地に追い込まれてきたオーナーたちは、「すぐには信用できない」などと本音を打ち明けていました。

Yahoo!ニュース 12/16(火) 20:04配信

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 この問題は、発生当初から興味を持っていた。元銀行員であり、前職は不動産業者であり、両方の立場を経験してきた身としては当然だと思うが、なんだか世の中おかしな事が当然のことのように報じられていて、違和感だらけである。そもそもスルガ銀行がなぜ世間の悪者になるのか、これは筋の通らない話である。一種の詐欺であるが、騙したのは不動産販売会社であり、スルガ銀行ではない。なのにすっかりスルガ銀行だけが悪者という扱いである。販売会社は倒産して、甘い汁を吸った人たちはトンズラしてしまったのだろうから、逃げられないスルガ銀行が割を食っているのだろう。

 もちろん、「不正融資」をしたスルガ銀行に全く責任がないわけではない。不正融資によって回収不能となった貸付金は損金となるが、その損失や一連の報道による株価の下落は株主に直結しており、株主に対する責任は重い。また、業績悪化などによる給与カットなどがあれば、社員に対する責任もあるだろう。しかし、今回の被害者に対する責任などないはずである。なぜなら、「貸してくれ」という申し出に対し、貸したことにどうして責任があるのか。証拠を改ざんして不正に銀行内の審査を通したとしても、それは銀行内の問題であり、貸付先に対するものではない。

 最近ではお年寄りが窓口で大金を下ろそうとすると銀行員がストップするようにしている。「騙されていませんか?」と確認しているのである。それを鬱陶しいと「自分の金を下ろすのは自由だろう」と逆ギレするお年寄りもいるらしいが、黙って払い出しに応じた場合、「なぜ止めなかった」と銀行を責めるのはお門違いだが、それと同じようなものである。騙したのは不動産会社で、騙されたのは投資家を気取った被害者である。もしも、しっかりと審査機能が働いていたら、騙された人たちは他の銀行に当たっていただろう。ひょっとしたらなんで「融資できないんだ」と文句を言っていたかもしれない。

 ニュースを読む限り、スルガ銀行が非難される筋合いはないと思うが、ニュースに出てこない事情があるのだろうか(あるとしたらそれを報じないのはマスコミの怠慢である)。ただ、騙した不動産会社は倒産してトンズラだろうから、被害者の救済を図るとしたらスルガ銀行しかないというところなのかもしれない。そうした「大人の事情」があるからこそ、「調停」なのだろう。もしも、スルガ銀行に責任があるのであれば、刑事事件になるだろうし、あるいは民事事件にもなるのだろう。被害者も騙されていたとは言え、自分の意思で借り入れの申し込みをしているわけであるし、自分の意思で契約書に実印を押しているわけである。被害者の顔をスルガ銀行に向けるのは本来憚られるべきである。

 スルガ銀行としても、行員が不正融資に関わっていたり(キックバックを受け取っていたという話もある)していたため、「俺たちは関係ない」と言い切れないのだろう。銀行内でどういう処分が下されているかは知る由もないが、行員が不正融資に関わって結果的に被害者が出ているとなれば、他人の顔はできないだろう。不正と言っても、キックバックの受領は明らかに犯罪行為であるが、自分の成績のためだとしたら、成績至上主義に追い込んだ組織体質などという問題に行き着く話である。知らん顔をするのは世間的にお客様商売をしている銀行としてはまずいと判断して調停に応じているのだろう。

 被害者も本来、それを理解した上で少しでも救済を受けられるようにすべきであるが、「すぐには信用できない」などと上から目線でモノを言うのは筋違いに思えてならない。騙されたのは仕方ないと言えなくもないが、大金を投資するにあたってどれだけ調べたのか、胸を張れるオーナーはどのくらいいるのだろうか。提示された資料と話を丸ごとホイホイ信じたのではないかと思えてならない。本来、「投資は自己責任」である。それをどこまで理解して実践していたのか疑問に思う。しっかり調べていれば、おかしいという点はニュースで漏れ伝わってくるだけでも十分にある。

 もしかしたらそんなことは十分にわかっていて、それでも対外的なポーズとしてあえて上から目線で語っているのかもしれない。そこまでは深読みしすぎかもしれないが、表面的な出来事だけではなく、表に出てこない話をもっと知りたいと思わざるを得ない。不動産価格は高騰し続けており、商売のためにおいしい話を持ち掛ける業者は後を絶たないだろう。騙されないために必要なのは「健全な猜疑心」である。それがあれば今回の被害もなかったのではないかと思う。もちろん、騙す方と騙される方では、悪いのは騙す方である。でも、それが世の中からなくならない以上、騙されないことが大事である

 おいしい話には、「すぐには信用できない」と初めから思うようにしなければならないのである。まぁ、スルガ銀行には気の毒な気がするが、それでも今回の被害者が少しでも救済されればいいなと思うのである・・・


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【本日の読書】

 センスの哲学 (文春e-book) - 千葉 雅也  失われた時を求めて(4)――花咲く乙女たちのかげにII (岩波文庫) - プルースト, 吉川 一義





2025年12月18日木曜日

私の死生観(残り時間が見え始めたこと)

 健康診断で便潜血、肺に影、血液検査異常値と3つも指摘を受け、年齢的にも仕方ないと気楽に再検査に臨んだ。便潜血は年中行事で何度も内視鏡検査を受けているので、今のところ大丈夫。肺の影も一時的なものだったようで、慌てて禁煙していたが、どうやら大したことはなさそう。しかし、予想外に血液検査は深刻で、骨髄検査をしましょうと言われ、人生初の骨髄検査に臨む。「痛い」と聞いていたが、麻酔の効果もあってか痛みはそれほどでもなく、どちらかと言えば「気持ち悪い」という感じ。2度とやりたくないという意味では大して違いはないかもしれない。

 さて、その結果がさらに深刻。今すぐに何かをしなければならないという事ではないが、放っておけばやがては命に関わる深刻な病状。治療方法は骨髄移植しかないという事であった。今後の治療については、次回時間を取ってゆっくり話しましょうということになった。何の根拠もなくだが、自分は90歳までは生きるだろうと思っていたから、青天の霹靂的な思いである。人生90年として、登りの30年、頂点での30年、そして下りの30年。最後の下りなのでこういうことがあっても、本来おかしくはないのである。

 実は、血液検査で異常を指摘されたのは今回が2回目。最初は昨年の健康絵診断。前の自宅の近くの大学病院に紹介状を持って行った。担当していただいたのは若い先生で、2回ほど通ったが、「様子を見ましょう」と言われて半年経ち、いくのをやめてしまった。今回は、職場の近くの大学病院。ベテランの先生で、最初から「これって白血病になるパターンなんだよね」と言い、2回目の受診で骨髄検査しましょうということになった。別居しなければ同じ病院に通っていたと思うし、考えようによってはラッキーだったかもしれない。

 また、移植となると近親者が第一候補になる。私の場合、弟か子供かになるのだろう。ただ、もしも臓器であれば子供からもらうわけにはいかない。まだ長い人生が残っているのに、臓器は健康なままにしておかないと子供たちも将来何があるかわからない。そんなリスクは子供に負わせられない。その場合は、運命だと思って受け入れていただろう。ただ、これも運よく骨髄なのでどうだろうかと思うところである。臓器ほどの影響はないと思うが、ドナーのダメージをよく聞いて判断したいと思う。

 診断は間違いなさそうであるから、それを前提としてこれから考えないといけない。ジタバタするつもりはないが、もうろくしつつある親より先に死ぬわけにはいかないとは思う。親の死を願うようなことはしたくないが、自分より早く死んで欲しいと思うのは正直なところである。昔の武士は元服するとまず切腹の作法を教えられたと何かで聞いた気がする。私は武士の血を引いてはいないと思うが、いざとなったら冷静に受け入れられるようにはしておきたいと思う。

 次回の医師との話では、生存率のような話も出るのだろう。そうすると自分の「残り時間」を否応なく突きつけられることになる。こういう時代だからネットで検索したり、AIに質問したりすればそれなりの回答を得られるのだろうが、正直今はそういう心境にはない。なるべくそんな話などなかったかの如くに先送りしようと思う。普通の人は、自分の「残り時間」など意識しないだろう。私も何となく90歳と根拠なく考えていたが、実はもっと手前かもしれない。場合によっては70歳にすら達しないかもしれないわけで、少々ビビっているのは事実である。

 病院からの帰り道、杖をつきながらヨボヨボと歩くお年寄りを見かけた。今までであれば、自分もいずれあのような姿になるのかとか、自分はもう少しシャンとしているだろうとか思っていたが、実はヨボヨボになるまで生きられるという事は羨ましい事なのだと改めて思う。されど嘆いても始まらない。これからは一層、「残り時間」をどう引き延ばし、そしてそれをどう生きるべきかを意識したいと思う。セカンドステージを無事通過できたことに感謝しつつ、最後のステージこそ子供たちに背中を見せるためにも、より良く生きたいと思うのである・・・


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【今週の読書】
 一度読んだら絶対に忘れない物理の教科書 - 池末 翔太  失われた時を求めて(4)――花咲く乙女たちのかげにII (岩波文庫) - プルースト, 吉川 一義





2025年12月14日日曜日

論語雑感 子罕第九 (その18)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感
【原文】
子曰、譬如爲山。未成一簣、止吾止也。譬如平地。雖覆一簣、進吾往也。
【読み下し】
いわく、たとえばやまつくるがごとし。いまいっさざるも、むはむなり。たとえばたいらかにするがごとし。いっくつがえすといえども、すすむはくなり。
【訳】
先師がいわれた。「修行というものは、たとえば山を築くようなものだ。あと一簣というところで挫折しても、目的の山にはならない。そしてその罪は自分にある。また、たとえば地ならしをするようなものだ。一簣でもそこにあけたら、それだけ仕事がはかどったことになる。そしてそれは自分が進んだのだ」
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 一簣(いっき)とは、土を運ぶ道具の一杯分ということのようである。少しでも足りなければ目的のものにならないというのは、我々もよく経験している。たとえば合格点が80点のテストであれば、1点足りなくても10点足りなくても不合格は不合格である。また、一問一問の正解を積み重ねなければ合格には届かない。一問正解して1点取れれば、残りは79点である。そこで確実に一歩前進したわけである。当たり前と言えば当たり前であるが、改めて言われれば実に深い言葉であるなと思う。

 1日1日過ごしていると、いつしか季節は移り変わり、365日経てば一年が経過する。先日、昔の同僚と飲みに行ったが、考えてみると前回は昨年の11月の終わりであり、もう1年経ったのかとその早さに驚く。しかし、それは過ぎてから振り返るからであり、つい昨日のことのように思えても、その間考えてみれば色々な出来事があり、間違いなく1年経っているのである。それも1日、1日の一簣のなせる技と言えるのだろうと思う。

 合格ラインに1点足りなくて涙を飲んだことは過去にはあるが、それはそれは悔しいものである。1点差にどれほどの差があるのかと言えば、ほとんどないだろう。もしかしたらたまたま知っていた問題が出たという程度のものかもしれない。答えはわかっていたのに、うっかり違う答えを書いてしまったということもある。それでも合格は合格、不合格は不合格、実力的にはほとんど同じであっても、合否の壁は厚い。一簣の差はとてつもなく大きいのである。

 ゴルフでは、ホールの手前まで行けば「OK」となるが、テストとなればそうは行かない。そこは非情な世界である。そう考えてみると、孔子が強調する「一簣」の重さというのがわかる。特に私は、1週間で10時間勉強しなければならないとすると、前夜に10時間徹夜するのではなく、1週間かけて計画的に10時間こなす「コツコツ型」であり、「一簣」の積み重ねの重要性というのは理解している。あのイチローも「小さなことを積み重ねることがとんでもないところへ行くただ一つの道」と語っている。

 ラグビーの試合で疲れ切って、あるいは痛めた足を引きずって家に帰る時、またはこの時期寒さを堪えて通勤の駅に向かう時、行く道が遥か遠くに感じる時がある。その時いつも考えるのは、「一歩、一歩」である。あとどのくらいと考えれば嫌になる。そんな時はいつも目の前の一歩に集中する。そうすると、気がつくと家や会社の前に来ている。個人的には何となく人生の縮図のような気がしていたが、改めて今回の言葉に触れてみると相通じるものを感じる。

 1点でも足りなければ目的を達することはできないという厳しさ、一方、一歩一歩積み上げて行けば、その一足は確実に後に蓄積として残る。どちらも深い言葉であると思う。振り返れば1日、1日の繰り返しで61年の人生を過ごしてきている。「人生」においてはテストと違って1点に泣くということはない。ただ、「一簣」の積み重ねが後に残るだけである。少しでも多く良いものを積み重ねたいと思う。

 差し詰め、今の生活においては老親との生活であろうか。少しずつ、今までできたものができなくなっていく我が親。それでも今は毎日一緒に過ごせている。「残り時間」は確実に減っている。1日、1日を大切に積み重ねたい。それは合否を競うようなものではなく、自分自身で最後まで十分にやれたかという納得感を得るためのものである。テストとは異なるが、1点に泣くこともあるかもしれない。そんなつもりで「残り時間」を大切に過ごしていきたいと思うのである・・・


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【本日の読書】
 一度読んだら絶対に忘れない物理の教科書 - 池末 翔太  失われた時を求めて(4)――花咲く乙女たちのかげにII (岩波文庫) - プルースト, 吉川 一義






2025年12月11日木曜日

人はなぜ自分を殺すのか

3人はCO中毒死 北海道・網走の遺体、集団自殺か 車内から練炭
2025/9/11 16:57
北海道警は11日、網走市美岬の林道に駐車された軽乗用車の中で死亡しているのが8日見つかった男女3人について、死因はいずれも急性一酸化炭素(CO)中毒だったと発表した。車内から練炭が見つかっており、道警は集団自殺の可能性があるとみている。3人の身元も判明し、北九州市の10代後半の女性、北海道の10代後半の女性、福岡市の30代男性だった。

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 スウェーデンの精神科医による『人はなぜ自分を殺すのか』を読んだ。タイトルの通り自殺に関する内容である。この本は自殺について様々な角度から考察を重ねたものであり、個人的にも自殺については必ずしも否定的には考えていないこともあって、なかなか考えさせられるものであった。目についた1つにスイスでは自殺ほう助団体があり、デンマークやベルギーでは安楽死が合法化されているというところ。日本人の感覚ではついていくのが難しいところかもしれないが、我が国でもそうなるといいと思っている。

 著者によれば、自殺を防ぐ方法として自殺の名所などで自殺しにくくする(橋では柵を設けたりする)「設計による予防」が効果的だと紹介している。専門家の言うことに異論を唱えるのもおこがましいが、自殺しようとする人は「あれがだめならこれ」と考えるだろうから本当の意味で(その他の手段を含めて)自殺を防ぐ事にはならないのではないかと思えてならない。ただ、自殺の名所で自殺しようと思ってその場に行ったが柵があってできず、どうしようかと迷っているうちに諦めるということはあるかもしれない。

 それにしても自殺をしようという人はなぜそういう考えに至ったのであろうか。生きていくのに耐えられないほど嫌なことがあったのだろうか。それとも生きていても将来に何も希望が持てないという絶望なのであろうか。私はこれまで自ら命を絶つなど考えたこともないが、自分が生きているより家族が幸せになれるとしたら、それも1つの選択肢かもしれないと考えたことはある。いずれにしても自殺をしようという人はその人なりに考えて導き出した答えなのだろう。それならそれで他人がとやかく言えるものではないと基本的には思う。

 その時にどういう手段を選ぶのか。自分だったらどうするかと考えると考えてしまう。電車に飛び込むのも飛び降りるのも躊躇してしまう。即死ならいいが、苦しむのは嫌だし。致死量の薬物と言っても簡単には手に入らないし、市販の劇物を飲んで苦しむのも嫌だし。何かいい方法がないかと考えてネットの情報を探しているうちに、同じことを考えている仲間を見つけ、一緒に死にましょうとなったのが、上記のニュースなのかもしれない。そうした人たちに「手段」を提供できたらいいなと個人的には思う。→『自殺の法制化はできないものだろうか』

 その時、無条件に与えるのではなく、カウンセリングを義務付ければ、もしかしたら思い直すことにつながるかもしれない。特にニュースで取り上げられていた「10代後半の女性」などは特にそうである。まだ知識も経験も少ない10代で狭い視野の中で自殺を選択するのはあまりに視野狭窄過ぎると思う。もしも、本人をまったく知らない第三者の専門家がカウンセリングしていたら、他の選択肢も提供できたかもしれない。場合によっては知らない土地で生活を再スタートするような支援を提供できれば自殺を防げたかもしれない。

 『人はなぜ自分を殺すのか』は自殺を否定するのではなく、肯定した上で防げるものはどう防げるかを考えたものである。実に建設的だと思う。すべての自殺志願を防ぐことはできないとした上で、防げないものには適切な手段を提供し、防げるものは防ぐというのは、この問題を考える上でのかなり有効な手段であると思う。それを「自殺に手を貸すなんて」と考えて否定してしまうと、もしかしたら防げるものまで見過ごすことになる。それは決してヒューマニズムなどではないと思う。

 私の祖父は89歳で癌になり、余命宣告を受けて農薬を飲んだ。もう十分生きたからいいと考えたのか、入院などで迷惑をかけたくないと思ったのかはわからないが、1週間入院して息を引き取った。もし、安楽死が認められていたら、もっと楽に死ねただろう。カウンセラーから家族と最後に話をしろと言われれば、親戚一同集まって盛大に祖父の好きな酒盛りをして見送ったかもしれない。どちらの死に方がいいかと問われれば答えるまでもない。どちらが人間味があり、人間の命を尊重しているかという事も明らかである。

 ヨーロッパの「先進国」はそういう議論が国民の間でできて結論が出ているという事で、うらやましい限りである。どんなタブーであっても議論に載せることを厭わずというスタンスは必要であると思う。まずは拒絶ではなく、相手の話を聞いて判断する。そういうスタンスは維持したいと思うのである・・・


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【本日の読書】
 全体主義の起原1 新版――反ユダヤ主義 全体主義の起原 新版 - ハンナ・アーレント, 大久保和郎 一度読んだら絶対に忘れない物理の教科書 - 池末 翔太  失われた時を求めて(4)――花咲く乙女たちのかげにII (岩波文庫) - プルースト, 吉川 一義






2025年12月7日日曜日

ワークライフバランスについて思う

 先日、若手社員と話していて、ふと違和感を感じた。それはワークライフバランスについての捉え方である。そもそもであるが、「ワークライフバランス」とはとAIに聞いてみると、「仕事と、育児・介護・自己啓発・趣味・地域活動などの仕事以外の生活との間で、調和(バランス)が取れており、どちらも充実している状態を指す」のだという。それについてはその通りだと思うし異論はない。話をした若手社員もそういう認識である。しかし、なんとなくモヤモヤした気持ちがあとに残ってしまう。

 よくよく考えてみてその答えがわかった。それは「ワーク」に対する考え方である。「ライフ」が重要なのは言うまでもない。人は生きるために働くのであって、働くために生きるのではない。しかし、働かなければ生きていけない。それゆえに生きるために一生懸命働くのである。そして一生懸命働いたがゆえに生きられるのであり、人生の楽しみを謳歌できるのである。まずは働く、そしてより良い人生を生きるのである。そこには明確な優先順位がある。

 私が社会人デビューした1988年は、ちょうどバブル経済に入っていたが、それ以前の高度成長期の名残りが働き方に残っていた。女を養っていくため男にとって何より大事なのは仕事。1に仕事、2に仕事、3も4も5も仕事。男は結婚して一人前。早く結婚して家庭のことは全て女房に任せ、男は家庭を振り返らずに仕事、仕事、仕事という風潮の名残りである。私が配属された八王子の支店は都心店とは違い、高卒の叩き上げの銀行員がそんな高度成長期の滅私奉公の精神で幅を利かせていた。

 私もその洗礼を受け、定時の5時になっても帰ることは許されず(都心店に配属になった同期はみんな定時に退行していた)、8時に先輩が帰るまで付き合い残業をさせられた。もちろん、仕事もできない新人に残業手当などつくわけがない。土日はしばしば支店行事に駆り出され、レク委員に任命されて店内旅行の幹事をやらされた。準備はもちろん週末の休みの日である。それも「仕事」だと言われた。反抗的だった私は、最後はキレて「仕事だと言うなら休日出勤手当は出るんでしょうね」と食ってかかった。出世できなかったのも頷ける。

 そんな時代を経験した私としては、もちろん、仕事のために生きているわけではない。しかし、まず仕事だろうという思いはある。仕事でしっかりと求められている成果を(できれば求められている以上に)上げないといけない。給料は「貰うもの」ではなく「稼ぐもの」である。そこに全力投球しているかは重要である。もちろん、高市総理のように午前3時に働けとか、土日も働けという意味ではない。9時から5時までで十分だが、休みの間も仕事のアイディアが閃くような意識を持っているかということである。

 ワークライフバランスとは、「1にワーク」「2にライフ」そして「3にバランス」ということである。お金を稼ぐということは、本来大変なことである。お客さんからそれだけのお金をいただく以上、それに見合った(あるいはそれ以上の)成果を返さないといけない。サラリーマンは黙っていても給料日には給料がもらえる。だからどうしても意識は薄く、気持ちは次の週末に向かっているのだろう。しかし、きちんとした成果がないと、百姓なら作物は取れず、漁師なら獲物を取れずに飢えるわけである。そういう認識がサラリーマンにも必要である。

 国民のために働くという意識の高市総理が夜中も働くのはそういう意識の表れであろう。真似しようとは思わないが、給料以上の成果を上げる意識は常に持っているし、成果も上げている。そのために必要なら徹夜もするだろう(しない努力はそれ以上にするが・・・)。成果も上げずにワークライフバランスなどという寝言を言うつもりはない。自分の稼ぐ給料にはそういう意識でいる。若手と話していて気づいた違和感の正体はそれであった。ワークライフバランスは大事だと思うが、その真の意味をしっかりと認識しておきたいと思うのである・・・


su mxによるPixabayからの画像


【今週の読書】
 全体主義の起原1 新版――反ユダヤ主義 全体主義の起原 新版 - ハンナ・アーレント, 大久保和郎  書いてはいけない - 森永 卓郎  一度読んだら絶対に忘れない物理の教科書 - 池末 翔太  失われた時を求めて(4)――花咲く乙女たちのかげにII (岩波文庫) - プルースト, 吉川 一義




2025年12月4日木曜日

AIに思う

 ChatGPTが登場して以来、世の中は「AI」の大合唱になっている。今ではChatGPT以外にもCopilotやGeminiなどいろいろなAIが出回っている。個人的にはこうした世の中の流れにはしっかりついていきたいと思っており、積極的に利用するようにしている。基本的に「習うより慣れろ」なので使ってみるのが一番だと考えている。さて、そうは言っても何をするのかというのが真っ先に思い浮かぶ。そう言えばその昔、パソコンを初めて買った時の事を思い出す。まだ銀行の独身寮にいる頃だったので、20代半ばだったと思うが、東芝のDynabookを15万円で購入した。まだDOS/Vの時代である。

 当時も「パソコンで何をやるのか」という感じであった。いつも嫌味ばかり言う叔父にもそう言われたのを覚えている。しかし、そんなことは買ってから考えればいいと考えていた。時代の流れからしてパソコンを使えるようになっていて損はないと考えたのである。その効果は大きく、やがて普及し始めたパソコンの波にうまく乗れたと思う。少なくとも銀行の中ではパソコンを使いこなせる部類に入っていた。中高年の人たちが右往左往している中、ExcelとWordはいち早く使いこなせていたし、わけのわからぬまま買ったのは正解であった。AIもそうだろうと思う。

 AIも単語を入れるだけではGoogleと何ら変わらない。何をしてほしいかという希望をしっかり伝えないといけない。今は仕事で資料作りに利用している。事業戦略などはこんな会社にしたいなどと打ち込めば、それにふさわしい感じのものを提示してくれる。なかなかいいなと思う出来栄えである。もっともそれをそのままコピペするようなことはしない。それはなんとなくカンニングしているようなうしろめたさがあるからではなく、なんとなく違うという部分も含まれているからである。微修正はやはり必要である。ただ、1から考えるよりははるかに楽である。

 また、文章だけでなくイラストも作成してくれるのはありがたい。こんな感じでと細かく指定すればイメージに近いものを提案してくれる。それでもなかなか一発で気に入るものはなく、その都度、「ここはそのまま、ここはこういう感じで」と修正依頼をすることになる。そうして何回か修正してもらうとなんとなくイメージに近いものが出来上がる。自分で作成することを考えたらはるかに便利である。何より出来上がったイラスト入りの資料の見栄えがいい。我ながらいい仕事をした気分にさせてくれる。

 先日、母親に頼まれて「竿上げ棒」をAmazonで発注した。その際、「竿上げ棒」という言葉が出てこず、「物干し竿を上げる時に使う棒の事を何と言うのか」とGeminとに尋ねたところ、「竿上げ棒」という回答が返ってきた。こういう使い方もできるのかと発見だった。それまでのGoogle検索ではイメージがつかなかったが、人との会話のような感じで使えるのがいいところである(もっとも同じ言葉をGoogle検索に打ち込んでも最近では「AIによる概要」という形で回答が出てくるが・・・)。

 人との会話という点については、最近よく利用しているのが、夜中に目が覚めた時の時間の確認である。siriに「今何時?」と聞くと、「〇時〇分です」と答えてくれる。いちいちスマホを開いて確認しなくても、眠い目をこすって時計に目を凝らさなくてもいいので重宝している。siriには寝る前に「お休み」と言えば「おやすみなさい」という返事が返ってくる。何の気兼ねもない、好きな時に会話ができるという意味ではなかなかいいと思う。映画『her/世界でひとつの彼女』は、AIが人間のパートナーになる未来社会を描いていたが、それも遠からぬ未来社会という感じがする。

 AIもそのうちチャットではなく、会話になるのだろうと思う。みんなパソコンに向かい、耳にはイヤフォンを装着し、AIと会話しながら仕事を進めていくイメージであろうか。今はまだAIには適切なプロンプトを打ち込む必要がある。適切なプロンプトなしではAIから得られる回答も適切なものとはならないし、適切なプロンプトを打ち込めれば期待以上の回答を得られる可能性も高い。実際、これまでのところ資料作成には非常に心強いパートナーになりつつある。

 いずれAIを使いながら仕事をするのが当たり前になるのだろう。映画『her/世界でひとつの彼女』のように常時身につけて何をするにも指示を飛ばして回答を得ながら行動するのが普通になるのかもしれない。その時もやっぱり適切なプロンプトというのは重要になるように思う。最後は人間自身がしっかりしていないとダメという事は変わらないのかもしれない。AIを頼もしいパートナーにするには自分自身が適切な指示を出せないといけない。いつの世も誰かに何かに頼ってばかりではダメだと言うことなのだと思うのである・・・




【本日の読書】
 全体主義の起原1 新版――反ユダヤ主義 全体主義の起原 新版 - ハンナ・アーレント, 大久保和郎  書いてはいけない - 森永 卓郎  失われた時を求めて(4)――花咲く乙女たちのかげにII (岩波文庫) - プルースト, 吉川 一義