2025年3月8日土曜日

論語雑感 泰伯第八 (その19)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感
【原文】
子曰、大哉、堯之爲君也。巍巍乎、唯天爲大。唯堯則之。蕩蕩乎、民無能名焉。巍巍乎、其有成功也。煥乎、其有文章。
【読み下し】
子(し)曰(いわ)く、大(だい)なるかな、堯(ぎょう)の君(きみ)たるや。巍巍乎(ぎぎこ)として、唯(た)だ天(てん)を大(だい)なりと為(な)し、唯(た)だ堯(ぎょう)のみ之(これ)に則(のっと)る。蕩蕩(とうとう)乎(こ)として、民(たみ)能(よ)く名(な)づくること無(な)し。巍巍乎(ぎぎこ)として、其(そ)れ成功(せいこう)有(あ)り。煥(かん)乎(こ)として、其(そ)れ文(ぶん)章(しょう)有(あ)り。【訳】
先師がいわれた。「堯帝の君徳はなんと大きく、なんと荘厳なことであろう。世に真に偉大なものは天のみであるが、ひとり堯帝は天とその偉大さをともにしている。その徳の広大無辺さはなんと形容してよいかわからない。人はただその功業の荘厳さと文物制度の燦然さんぜんたるとに眼を見はるのみである」
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 孔子はしばしば過去の君子を褒めたたえる。しかし、それがどんな様子だったのかまでは明らかにされていないので、何がどれほど素晴らしかったのかわからない。「大きく荘厳な君徳」とはいったいどんな君主だったのかと興味深い。そもそも名君の条件とは何であろうか。前回も同様の話であったが、世の君主は誰もいい点と悪い点があり、無条件で名君とは決めかねるように思う。ある人にとっていい施策が別の人には不利益である事も珍しくないだろう。名君の条件とは何であろうか。現代に置き換えれば、さしずめ「良い政治家とは」という事になるのだろうか。

 先日、就活の学生に何気なく「日本の総理大臣は誰だか知っている?」と聞いたところ、驚いたことに答えられなかった。家に帰って恐る恐る息子に同じ質問をしたところ、「石破茂」と、なんでそんな当たり前の事を聞くのかと言いたげな怪訝な顔をして答えてくれた。ちょっと安堵したが、知らない方が悪いのか、知られていない方が悪いのか、微妙なところであるが、どちらにしろ日本の総理大臣は、日頃何をしているかよくわからないし、我々の生活に直接の影響を及ぼしているように思われないせいかもしれない。

 戦後の日本の総理大臣は何人もいるが、メジャーなところでは、吉田茂、岸伸介、佐藤栄作、田中角栄、中曽根康弘、小泉純一郎、安倍晋三といったところが挙げられる。みなそれぞれに功績があり、優れた宰相だとは思うが「名君」かと聞かれると答えに窮してしまう。そもそも「名君」の条件がよくわからないし、表に現れない人となりもわからない。ただ、日本のトップの地位に上り詰めたわけであるから、それなりに優れた人物であることは間違いない。民主主義のリーダーは独裁者ではないから、すべて1人で決めるわけでもない。名君かどうかはよくわからない。

 歴代の総理大臣の中には、女性問題でわずか3か月ほどで辞任せざるをえなかった人もいる。小沢一郎のように力があっても総理大臣になれなかった人と比べてどうなのかと思う。総理大臣がすべてではないが、「名君」を考えるなら総理大臣の立場にあった事が必要になるだろう。それにしても総理大臣になった時には得意絶頂だっただろうに、わずか3か月で辞任せざるをえなかった心境はいかばかりだっただろう。「英雄色を好む」ではないが、みんなそれぞれにそういう相手はいただろうにと思う。

 名君と言っても、人間である以上、完全無欠で非の打ちどころのない人物などいないだろう。であれば、女性問題くらいどうという事もないように思うが、「男には2種類しかいない。浮気をする男とそれがバレる男」(ドラマ『夫婦の世界』)という言葉を鑑みれば、バレる時点でダメとも言える。芸能人なら袋叩きにされる問題であるが、「名君」の条件はやはり政策面であるだろうし、浮気の有無は「する、しない」ではなく、「バレる、バレない」であるのだろう。

 政策面も後から評価されるという事もある。田中角栄など、金権政治で最後はロッキード問題で批判一色になったが、後に復権ともいうべき再評価がされている。安部総理も批判勢力がすごかったが、歴代最長の在任期間に現れているように、特に外交面で優れた実績があったと思う。想像でしかないが、総理大臣にまで登り詰めた人であれば、あと求めるのは名誉だけだろうから、善政を敷いて「名君」の評価を得られるようにするのではないかと思える。結果はともかく、みんなそれなりにいい政治を心掛けるのではないかと思える。

 現代の名君とはどんな政治家になるのであろうか。名君であるかどうかはともかく、みんなそういう名君を目指してほしいと思うのである・・・

malstによるPixabayからの画像

【本日の読書】

世界は経営でできている  傲慢と善良 (朝日文庫) - 辻村 深月






2025年3月2日日曜日

結局は「意識」の違いなのだろう

 人はみなそれぞれの考え方をもっていて、それに従って行動する。必ずしも同じように行動するのではなく、同じ現象を前にしても人によって違う。当たり前ではあるが、自分では当然のようにやる行動を同じ立場の人ができない、やらないと違和感を禁じ得ない。どうしてそうなのか。人によって考え方や行動が違うのは当たり前ではあるが、なぜそうなのかとよくよく考えてみれば不思議である。部下に仕事をやらせるにしても、同僚のTとはそのやり方が私とは違う。

 業務でとある社員の残業時間が月の上限の45時間を超過した。会社は従業員といわゆる「三六協定」を結んでいて、月間の上限を45時間としている。もちろん、一か月だけ超えたからといって直ちに問題となるわけではない。ただ、それが続くと問題になりうるものであり、管理者としては現状を把握し、場合によっては対策を指示しなければならない。Tがその対応について社長に問われていた。Tの答えは「部下(の管理職)に任せてある(のですぐには答えられない)」というものであった。

 当然、社長としてはその答えに納得はできない。当然ながらすぐに確認しろという事になった。私であればそもそも社長に言われる前に確認していただろう。一応、総務担当役員として全社員の残業については確認しているが、総務でなくても自分の部署の社員については確認するのが当然であり、言われなくてもやるのが当然な事である。認識が甘いと言えばその通り。おそらく、「サービス残業が当たり前」の「社会人昭和デビュー世代」の感覚が邪魔をしているのかもしれない。

 考え方の基には興味・関心の違いもあるのかもしれない。本業の責任者であるがゆえに業績推進の方に関心が行っていて、残業管理に対する関心が薄いのかもしれない(それではいけないのだけれど)。役員ともなれば幅広く目を向けなければならないわけであり、それは言われてやるものではなく、自ら関心を持ってやるものである。ただ、Tにはそこまで考えが及ばないのであろう。そういう関心の有る無しはどこからくるのだろうかと思うも、それはなかなかわかりにくいものである。

 週末、私はシニアのラグビーチームで汗を流している。練習時間は基本的に2時間であるが、私はたいてい、その前後30分くらいを自主練に当てている。本当はもっとやりたいのであるが、借りているグラウンドの時間の都合上の制約があってそれくらいしかできない。ただ、そういう自主練をやっているのはほぼ私1人で、みんなは全体練習だけである。自主練は個人的に強化したいところをやるのであるが、私の感覚では「もっと上手くなりたい」と思えば自然とそういう行動に出ると思うのだが、みんなにはそこまでの気持ちはないのだろう。

 趣味でさえそうなのだから、仕事となればもっと関心が低くなるのもやむを得ないのかもしれない。結局のところ、「どこまで気がつくか」の問題であり、それは興味関心の領域に入るものであり、それはとどのつまり、その事に関して「どれだけ気持ちが入っているか」になるのではないかと思う。学校の勉強ができなくても、ゲームなら得意という子供は五万といるだろう。それは学校の勉強よりもゲームの方が面白いからであり、「気持ちが入る」からのめり込む(だから得意になる)。

 この週末、『BLUE GIANT』という映画を観た。主人公は世界一のサックス奏者になる事を夢見る高校生。ジャズに魅せられ、自らサックスをやりたいと思い、毎日毎日地元仙台の河原で練習する。「一念岩をも通す」という諺があるが、人間そこまで入れ込んで夢中になると、自然と実力もついてくる。それは一般的に「才能」と呼ばれるものの正体であるが、そこまでやると、他の人には見えないものも見えてくるのかもしれない。「好きこそ物の上手なれ」という諺も同様である。

 人の事はとやかくいうものではないが、同僚のTを見ていると、一方で自分のやる事も見えてくる。Tは私にとって「他山の石」的な存在とも言える。住宅ローンを払い終え、年金をもらい始める70歳までは今の地位と給料を維持したい(と言うよりもっと上げたい)と思うが、それには実績も示さないといけない。人はともかく、自分は頑張らないといけない。仕事も趣味もやるならきっちりとやりたい。そういう心意気を維持したいと思うのである・・・

Stefan KellerによるPixabayからの画像

【本日の読書】
「悩まない人」の考え方 ── 1日1つインストールする一生悩まない最強スキル30 - 木下勝寿 傲慢と善良 (朝日文庫) - 辻村 深月