2022年10月19日水曜日

論語雑感 雍也第六(その26)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。

【原文】

宰我問曰く、

「仁者雖吿之曰、『井有仁焉。』其從之也。」

子曰く、

「何爲其然也。君子可逝也、不可陷也。可欺也、不可罔也。」

【読み下し】

宰我さいが曰いはく、

仁よきひとなる者ものは之これに吿つげて井ゐに仁者ひと有あり焉ぬと曰いはふと唯いへども、其その從したがふ也や之これか。

子し曰いはく、

何なん爲すれぞ其それ然しからむ也や。

君子もののふは選やる可べきも、陷おとしいるる可べから不ざる也や。

欺あざむく可べきも、罔しふ可べから不ざる也や。

【訳】

宰我が先師にたずねた。

「仁者は、もしも井戸の中に人がおちこんだといって、だまされたら、すぐ行ってとびこむものでしょうか。」

先師がこたえられた。

「どうしてそんなことをしよう。君子はだまして井戸まで行かせることは出来る。しかし、おとし入れることは出来ない。人情に訴えて欺くことは出来ても、正しい判断力を失わせることは出来ないのだ。」

『論語』全文・現代語訳

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 「騙す方が悪い」のか、「騙される方が悪い」のかというのは、よく言われることである。それは考えるまでもなく、「騙す方が悪い」のであるが、騙される方にまったく問題がないということでもない。オレオレ詐欺が世間で騒がれ始めたのはもう随分前であるが、その被害はなかなか尽きることがない。何故だろうかと不思議でならない。銀行で振り込みをしようとして銀行員に止められ、それでも振り込みをしようとして駆けつけた警察官に説得されてようやく騙されていることに気づいた、なんてお年寄りの話を聞くと、「騙す方が悪い」とも言いにくくなる。


 騙される人というのは、相手の言うことを疑いなく信じ込んでしまうのだろう。騙す方も言葉巧みに話すから、信じてしまうのも無理はない。オレオレ詐欺に限らず、投資詐欺や結婚詐欺など詐欺の類は昔から尽きない。騙されないためには、「本当かな」と疑う健全なる猜疑心が必要であり、立ち止まって冷静に考えられるなら、調べたり人に聞いたりすることである。そうすれば「おかしい」と思うに至るだろう。さらに騙される一因は、「欲」であると思う。胡散臭い儲け話に乗ってしまうのも、儲けたいという「欲」が猜疑心を失わせてしまうのだと思う。


 年寄りがオレオレ詐欺に簡単に引っかかるのは、その人がもともと人を疑わない善人だということもある。昔読んだ漫画の中で、「疑う」ということは、すなわち「悪の心(または知識)」があるからであるというようなセリフがあったのを覚えている。それを読んで確かにそうだと思った記憶がある。「疑う」ということは、「相手が自分を騙しているかもしれない」と思うことである。「騙す」という行為を知っており、「相手がそれを自分にしているかもしれない」と相手を信用しないという悪の知識である。悪の知識があるからこそ、騙されることを回避できるのであるというのも何だか複雑である。


 自分は騙されないと思っていても、お金を出してしまうケースもある。例えば、家族や友人から金を貸してくれと頼まれた時、当然ながらある程度の事情は聞く。その時、「もしかしたら騙されているのでは」と思ったらどうするか。一応、その懸念は伝えて再考を促すが、それでも貸してくれと頼まれれば、貸すこともある。自分なら絶対に出さないであろうお金をその人物が出すと判断したのなら仕方がない。そこで「そんな金は貸せない」とするのも一つの判断であるが、その人物が信頼できる人物であれば、私はたぶん貸すだろう(もちろん、貸せる範囲で、ではあるが・・・)。


 オレオレ詐欺の被害が毎日のように報じられていた頃、一番心配だったのが実家の両親である。老齢で判断力はおぼつかなくなっているし、「金を借りる時は直接会いに行くから」と念押ししていたが、それでも心配であった。ところが当の本人はケロッとして、「大丈夫」と言う。本人の「大丈夫」ほど怪しいものはないが、実際に何度かオレオレ詐欺の電話がかかってきたそうであるが、私も弟もまず自分の名前を名乗っていたからすぐにおかしいと気づいたそうである。しかし、一方で「そんなお金どうしよう」と瞬時に思ったことの方が大きかったそうである。


 「ない袖は触れぬ」と言うが、それは真実。100万円単位のお金を動かすということが普段ない母親にとってそれは一大事。そんな感覚も幸いしたようであるが、確かに大金を簡単に動かせる感覚の人は危ないかもしれない。ニュースで1,000万円単位の被害にあった人のことが報じられているのを見たことがあるが、「お金があるから騙される」のも真実である。ただ、お金のない庶民でも「寸借詐欺」は避けられないかもしれない。「ちょっと小銭を貸してほしい」という程度の詐欺であるが、これはなかなか断りにくいところがある。


 先日、公共の喫煙スペースにいたところ、怪しげなおじさんが「タバコ一本ください」とその場にいた人に声をかけていた。まずは若い女性が「ごめんなさい」と言い、次の若い男性が「一本しかないので」と断り、その次の人も断っていた。私のところには来なかったが、来たらたぶん一本恵んであげただろう。詐欺とは違うが、人はちょっとした簡単な頼み事は断りにくいものである。「みんなしっかり断れるんだなぁ」と1人妙な感想を抱いていたが、頼み事を「断りにくい」という感情も無視できないものがあるかもしれない。


 お金を貸す場合、私はまずは相手を見る。信頼できる相手かそうでないか。私には友人の少ないのが幸いし、「こいつになら騙されても仕方がない」と思える友人は少ない。という事は、大抵の人の話、特にお金が絡む話は身構えて聞く事になる。基本的に「楽してお金は手に入らない」という考えが自分には根付いているから、「美味しい話」にはまず警戒感から入る。確たる断言はできないが、まず騙される事はないんじゃないかと漠然と思う。しっかりした考え方があれば、誰もが騙されることもないのではないかと思う。


 そうは言っても、というところはある。何より怖いのは「欲と慢心」だろうか。「自分は大丈夫」と慢心する事は避け、健全なる猜疑心を大事にしていきたいと思うのである・・・


Mert ÖzbağdatによるPixabayからの画像 

【本日の読書】

   



2022年10月16日日曜日

倍速

 最近、若者はドラマなどを倍速視聴していると言う。ネットでも録画でも倍速送りは可能であるが、それはあくまでも「見たい部分へ移動する」という意味合いで使っている身としては、「そんなので楽しめるのか」と思うも、インタビューに答えてほとんど倍速視聴していると真面目に答える若者の姿は驚き以外の何ものでもない。ドラマなどは小説とは違い、「間」や「絵(場面)」で見せるというところがあるが、倍速だと意味がなくなる。ただストーリーだけを追う感じなのだろう。小津安二郎監督の映画などは倍速で観たら、間違いなく面白くも何ともないだろうと思う。

 倍速視聴の背景には「時間がない」、「見たいドラマが多すぎる」ということがあるようである。確かに、自分自身に置き換えてみても観たい映画のリストは軽く300本を超えているし、読みたい本のリストも200冊を超えている。減らしても減らしてもその分増えるからまったく減らない。倍速視聴でもしない限り今のペースでは仕事を引退するまで減ることはだろう。ただ、だからと言って、倍速視聴で片っ端から観ていこうという発想は自分にはない。人間歳を取ると新しいことを受け入れられなくなるというが、これもその一つなのだろうかと思ってもみる。

 読書でも「速読」というのがある。忙しいビジネスマンが効率的に読書で知識を得ていく方法として、意識の高いビジネスマンが習得に走っていたようであるが、私は受け入れられなかった。今でも読書は最初から最後の解説まで読むタイプである。速読とまではいかなくても、有用な部分だけ読むということを勧める人もいたが、私は読むならすべて読む。もちろん、合わないと判断して途中でやめるパターンはあるが、読む場合は最後まで読む。さすがに「出版できたのは○○さんのおかげ」的な謝辞の部分は飛ばすが、それ以外はすべて目を通している。

 特にビジネス書の場合、ヒントは随所に隠れている。目次だけ見て面白そうなところだけをピックアップして読むのもいいかもしれないが、それだと「意外な発見」は出てこない可能性がある。もう充分に知っているということでも、「では自分ならそれをどう書くか」という視点で見ると、そこには違うヒントがある。基本的に一冊の本を読んでそこから何を得るかは読み手次第である。サラリと速読して概要を掴んでわかった気になるのもいいが、それだとしばし読むのをやめて考えてみたり、後で読み直して改めて考えるということができない。自分の望む結果を得るのに速読はあわないのである。

 本を読んで何を得るかはその人自身の問題であるから、その人がそれで良ければ問題はない。ただ、私の場合、速読はあわないというだけのことである。もちろん、それだと限られた時間で読むことのできる本には限界がある。溜まった「積ん読リスト」の中には、既に陳腐化してしまい、今さら読みたいとは思わないものも出てくるが、それはそれで仕方がない。時間は有限であり、人生は読書だけで終わらせることはできない。「早くたくさん」よりも「少なくともじっくり」を選びたいと思う。

 ドラマも同様である。倍速視聴すればドラマ1本分の時間で2本観られるわけであるが、それで2つのドラマを観るよりも、どちらか1つを選んでそちらを観る方を選びたいと思う。ドラマに限らず、ラグビーの試合も場面場面で重要なのは結果よりもプロセス。「トライを取った」ことよりも「どういうプレーで取った」ことが観たいポイントであり、倍速では動きをしっかりとらえられない。むしろここぞというプレーはリプレイで何度も観るから普通に観るよりも時間がかかることが多い。

 と言いながらも、すべてじっくり読んだり観たりするわけではない。マニュアルの類は基本的に見るのも嫌なので、ポイントだけ、あるいはサラッと全体を大雑把に把握する程度にしか読まない。ラグビーの試合も、ゴールキックの場面は倍速ではなく早送りしてしまう。音楽もじっくり聴く。若者と言えども、さすがに音楽は「速聴」することはないのだろうと思う。映画もちょっと感じ入った映画であれば、エンドクレジットまでしっかり観る。それはマーベル作品のようにエンドクレジットの途中で次につながるシーンが含まれる場合もあるが、多くは映画の余韻に浸りたいからである。そしてそれもまた映画の楽しみの一つなのである。

 倍速視聴する若者の嗜好に異を唱えるつもりはないが、自分の楽しみ方として、じっくりしっかり観ることはやめられない。そして生きることもまた然り。倍速で人の2倍の人生を送るよりも、巡航速度でしっかりと己の人生を生きたいと思うのである・・・


【本日の読書】

 



2022年10月13日木曜日

最近の若者

 我が社の若手社員の話である。彼はもともとコミュニケーションが苦手。当然、口数も少ない。さらにもともと持病があったとかで、仕事も休みがち。それはそれで仕方ないのであるが、個人面談で彼に対して感じた違和感の一つに、「仕事の時間以外に自己研鑽などしたくない」と堂々と語ったこと。将来特に決まった目標があるわけでもない。彼女がいるわけでもない。側から見ると、「ただ何となく」毎日を暮らしているようである。

 私も社会人になりたての頃は似たようなものだったと思う。休みの日に会社の行事に引っ張り出されるのなんて真っ平御免だったし、将来出世したいなどとも思わなかった。仕事はあくまでも生活の手段であり、それ以上でもそれ以下でもない。必要なだけ仕事をして給料をもらう。職場の人と仕事が終わってまで付き合うなんて気がしれず、余計な人間関係など不要と考えていた。銀行で出世できなかったのも無理はないと思う。

 基本的に今でもその感覚は残っている。ただ、当時と違うのは、うまくやる事を覚えた事だろう。将来どうしたいかと問われれば(そもそも「将来」と言えるほど残り時間はないのだが)、相変わらず確たる目的があるわけではなく、ただ平凡で普通の毎日が送れればそれでいいという程度である。「普通の生活」こそが実は大変だということに気づいたということもあるが、若者に胸を張って語れる目標とは言い難い。

 仕事は相変わらず生活の手段にしか過ぎないが、どうせやるなら楽しくやりたいし、上手にやりたい。コミュニケーションは仕事の一つであるし、仕事は大変なのが当たり前。それをいかにこなすかが腕の見せ所。仕事をして給料をもらう。職場の人と仕事が終わってまで付き合うなんて気が知れないが、仕事を円滑にこなすためであれば頑なに拒むのも馬鹿らしい。余計な人間関係など不要であるが、チームスポーツと考えれば、チームメイトと息を合わせることは大事であり、それに必要であれば飲みニケーションも躊躇わない。そんな風に変わっただけである。

 それもこれも痛い経験をいろいろと積んできたからであり、最初はかの若手社員と同じである。だから彼もやがて考えが変わるかも知れないと思ってみたりする。ただ、そこに至る過程で痛い思いをするかも知れないとは思う。今年入った新人も彼より若い若手社員の中にも前向きに頑張っている者はいる。家に帰ってから資格を取らんと勉強している者もいるし、そういう者にやがてまもなく追い抜かれることになるだろう。1年2年の差など、我が社の業界では大きな差ではない。

 後輩に追い抜かれた時、それでも彼は今と同じように考えられるだろうかと思う。見たところ、学校を卒業するにあたり、就職しなくてはと普通に思い、たまたま興味を持って採用してくれた我が社に就職したが、とりあえず給料分だけ働ければそれでいいという感じがしている。出世など到底(今は)興味もないだろう。後輩が先にリーダーになり、自分が指示される立場になった時、初めて「ヤバい」と思うのかも知れない。あるいはそれでも「別にいいや」と思うのかも知れない。

 私も出世欲はなかったが、それでも「仕事ができない奴とは思われたくない」という矜持があった。だから、最低限、自己研鑽に励んだし、それなりに責任感を持って仕事もこなした。持病のある彼は最近何日間か病欠したが、どうやら苦手な仕事を振られ、それが高じてストレスになり発症したようである。苦手な仕事から逃げたのかも知れない。ベテラン社員が彼の様子を見て、「俺たちの若い頃は毎日怒鳴られて仕事を覚えたものだ」と呟く。まだ「パワハラ」という言葉が辞書になかった時代の話である。

 若手の彼を見ていて、つくづく両親に大切に育てられたのだろうなと思う。「温室育ち」という言葉があるが、彼はおそらく人とそれほど争うこともなく、厳しい環境の中で歯を食いしばることもなく育ってきたのだろうと思う。それは世の中が豊かになった証であるが、若手の彼はそんな時代の産物のように思えてしまう。出世がすべてではないし、後輩に追い抜かれても本人がそれでよければ他人がとやかく言うことではない。ただ、給料は仕事に応じてもらえるものなので、それ相応になるだけである。

 いろいろな価値観がある中で、本人の考えはもちろん尊重したいと思うが、後で「もっと早く気づいていれば」と後悔する事態になっては気の毒だと思う。自分もそうだったから、そのあたりはアドバイスしてあげたいと思う。彼を案じる両親はいるわけだし、せっかく同じ会社で働く縁もあるわけだし、いずれ自分の子供たちも社会へ出て行く事を考えると、自分の家族に接するが如くに接してあげたいと思うのである・・・


【本日の読書】

   



2022年10月9日日曜日

生きることは悩むことなのか

 「人間は生きている限り悩むものです」とは、瀬戸内寂聴さんの言葉であるが、本当に次から次へと困難が生じてくる。心休まる時がない。今も元勤務先の社長との裁判を抱え、弟の金銭トラブルに巻き込まれ、それには両親も巻き込まれて母親が心を痛めており、その母親も最近記憶力が急速に劣化して時々支離滅裂なことを言うし、腰の痛みなどから家事もおぼつかなくなり心配が絶えない。我が身も妻との関係が改善せず、仕事も「問題のモグラ叩き状態」である。

 心穏やかに暮らしたいなぁとつくづく思うも、なかなかそうは行かない。振り返れば50代に入って苦悩の量が劇的に増えているような気がする。どうして毎日満足感に満たされて過ごせないのだろうかと思わずにはいられない。人を羨みたいとは思わないが、順風満帆な人生を送っているように見える友人知人を見るにつけ、ついつい羨ましくて仕方がなくなる。自分と何が違うのだろうか。どうすれば良かったのだろうか。どうすれば良いのだろうか。

 「幸せは気づくもの」という言葉がある。この言葉を知って随分と救われたように思う。苦悩に満ちた生活でも、そこには誰でも気づかない幸福があるのだと言う。たとえば、仕事では問題のモグラ叩き状態ではあるものの、「それは仕事があるから」である。もしも失業状態であれば、確かに日々生じる問題に煩わされることはないが、その代わり収入が絶えて家族を養えないという状態になる。それは想像するだに絶えられない恐怖。それに比べれば、いくらでもモグラ叩きをしようという気になる。

 裁判もまだどうなるかはわからないが、例え負けても全財産を奪われることはない。手にした退職金を失うだけである。それも恐怖であるが、幸い元職場の同僚が一蓮托生の仲間としているので、精神的には軽くなっている。1人で苦悩しているわけではない。それにこの役割をこなせるのは自分だけだったのであるから、他人に運命を委ねるよりも自分で矢面に立つ方がまだ良い。それに負けない可能性もまだまだある。

 弟の金銭トラブルも解決する可能性はある。例え解決しなくても、それは弟の問題。自分については、弟に貸した金が返ってこないだけ。ただ、裁判の敗訴とダブルパンチとなった時はかなり厄介かもしれない。母親も会話ができないというわけでもないし、同世代の友人知人の中にはもう親のない者も珍しくないわけであり、まだ両親が揃っていて話ができるというのはそれだけでも幸せかもしれない。

 友人知人先輩後輩の中には、金銭的に恵まれている者も多い。どういう伝手なのか会社社長に収まって年収数千万円とか、勤務先が上場して持株の価値が億を超えたとか聞くと心穏やかではいられない。しかし、子供がいなかったりすると、そこにはまた自分のわからない苦悩があるのかもしれないと思ってみたりする。夫婦2人で悠々自適の人生を送れても、子供を持つことの幸福は得られないわけであり、どちらがいいかと問われれば、金よりも子供のいる今の自分の生活を選ぶだろう。

 この身に降りかかる様々な困難はなんとか自分で引き受けられている。これを家族の誰かに肩代わりさせることはできないし、したくない。そう考えれば、この苦悩を背負って行くのも仕方ないかもしれない。と考えてきたところで、新たな恐怖に駆られる。それは「もしも自分が明日死んだらどうなるのだろう」ということである。少なくとも裁判の方は家族では対処できない。事情もわからないからなす術もなく負けてしまうかもしれない。

 そこで取り急ぎ財産目録を作成した。銀行口座と証券会社、生命保険会社、裁判では連絡を取るべき人、パソコンとiPhoneのパスワード。住宅ローンは銀行に連絡すれば団信でチャラになるし、生命保険金を滞りなく手にすることができれば、とりあえずなんとかなるだろう。考えれば、子供もまだ学生だし、自分の役割はまだまだ果たし終えていない。大事なのは生き続けることであると今は言えるだろう。

 なぜ苦悩ばかりが頭を占めるのかと考えてみると、それは心穏やかなことは目立たないからだと思う。生きていることがまず第一であるが、生きているからこそ生きていることは意識に上らない。自分も家族も健康であるから、自分の健康も家族の健康も気にならない。仕事があるから失業の恐怖も感じない。この週末、洗濯機が故障して大騒動になったが、それ以外の家電製品はきちんと機能しているから気にもならない。

 靴の中に小石が入ると、それだけで人生の大問題であるかのようにそれが気になって仕方がなくなるとは、ショーペンハウアーの弁。例えそのほかのことすべてに恵まれていても、人間は靴の中の小石を気にするという。実にその通りであると思う。まぁ、そう考えると、苦悩も仕方ないのかと思えてくる。逃げたくなるのは山々であるが、逃げるよりも受け流す方法を考えるほかないのかもしれない。そう考えてくると少しは苦悩も和らぐ。そう自分を慰めて、明日もまた頑張ろうと思うのである・・・


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【本日の読書】

 



2022年10月6日木曜日

武器輸出について

韓国の武器輸出3倍、8位に

相手国を徹底調査し営業、米頼みの危機感が背中押す

韓国製の兵器を買う国が増えている。韓国輸出入銀行によると韓国の防衛産業の輸出額は2021年に70億ドル(1兆円)と前年から倍増し、22年には20年比で3倍近い100億ドルを超す見通しだ。きめ細かな市場調査に基づく「オーダーメード型」の輸出で商機をつかんでいる。

日本経済新聞2022年9月29日

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 韓国が武器の輸出を伸ばし、なんと世界で14位から8位になったと言う。買っている国も何となく裕福でないため仕方なく安い武器を買わざるを得ない開発途上国なのかと思ったら、オーストラリアを筆頭にエジプトやフィンランド、エストニアなどが名を連ねていると言う。1年間に1兆円もの売上高を上げていると言うから、もう立派な武器輸出大国と言える。ちなみに、上位国はアメリカ、ロシア、フランス、中国、ドイツ、スペイン、イギリスであるらしい。スペインも意外性がある。


 翻って我が国は過去8年間の実績は完成品の輸出がたった1件という状況らしい。これをどう考えるか。ビジネスとして見るならば、日本の技術力を持ってすれば韓国に負けないくらいの輸出力を備えるのは簡単なように思える。しかし、そうならないのは、やはりそれが「武器」であるからだろう。武器とはすなわち人殺しの道具。それを売って金儲けするのかという倫理的な問題がつきまとう。我が国の場合、この点をついて激しく反対する人たちがいるのも当然である。


 かつて『ロード・オブ・ウォー』という映画を観た。ニコラス・ケイジが扮する武器商人を主人公とした映画である。武器商人と言うと、何やらダークな印象が伴う。その通りなのであるが、映画の中で主人公は自分を追うインターポールの刑事に向かって、「最大の商人はあんたのボス、アメリカ合衆国大統領だ。俺たちの商売の1年分を1日で売り上げる。」と言い放つ。そこに強烈な矛盾を含む。とは言え、「1人を殺せば殺人だが、大勢を殺せば英雄」という言葉もある通り、国家の行為となると悪事も正当化されてしまうところがあるから何とも言えない。


 我が国も長期間経済が停滞している。一人当たりの生産性を上げなければならないとかいろいろと言われているが、輸出で1兆円も稼げば大きいと思う。国内の防衛産業もお客さんが自衛隊だけでは技術も伸びないらしい。単純にビジネスとして考えるのか、倫理的に考えるのかは難しい。ただ、それはあくまでも売る立場の話であり、買う立場で考えるとまた違う面がある。買うからには必要があるからであり、それは仮想敵国に対する対抗上のものになるだろう。誰でも自国の安全は確保したいだろうし、それを悪と決めつけるのもおかしい。買い手があっての売り手である。


 ウクライナの問題にしても、ロシアの侵略を受けて領土を奪われているが、最近反撃して随分と領土を奪還しているという。それに大いに貢献しているのはアメリカから供与されている最新兵器である。ウクライナ支援となれば正当化するのだろうが、それによって戦闘が長期化し、両軍の戦死者は増え続けている。それが果たして良いのか悪いのか。そしてその陰で、アメリカの軍需産業は大いに潤っているし、今回有名になった武器「ハイマース」は、今後世界中で売れるようになるのではないかと思う。


 「売るから買う」のか「買うから売る」のか。その立場によって見方は変わる。武器輸出に反対する「平和派」の人たちに欠けているのは、「抑止力」という考え方。武器は人を殺すものであるが、それがゆえに武力に訴えることを躊躇させる働きがある。本当は理性がその役割を果たすべきであるが、残念ながら人間の理性にはそこまでの働きはない。武器による抑止力に頼らなければならないというのも情けない気もするが、相互不信という(特に白人間の)感情がある限り、理想は遠いように思う。


 翻って我が国については、経済も大事であるが、武器を売らないという選択肢も悪くはないと思う。「世界がそういう場所だから売ってもいい」と言うのではなく、「よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ」(明治天皇)。あえて「よも(四方)の海みなはらから(同胞)」という精神がある我が国であるのだから、武器を売るのことができない、あるいは売るのが下手な国であっても良いように思うのである・・・



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【本日の読書】

   




2022年10月2日日曜日

論語雑感 雍也第六(その25)

 論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。

【原文】

子曰いは、「觚つののさかづき不ず觚つののさかづき、觚つののさかづき哉や。觚つののさかづき哉や。」

【読み下し】

子し曰いはく、觚つののさかづき、觚つののさかづきなら不ず、觚つののさかづきならむ哉や、觚つののさかづきならむ哉や。

【訳】

先師がいわれた。

「觚には角があるものだが、この觚には角がない。角のない觚が觚だろうか。角のない觚が觚だろうか。」

『論語』全文・現代語訳

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 ここに出てくる「觚」とは、何やら儀式に用いる杯らしい。角のあるものだったのであろうが、あるべき角がないので、「そんなものは觚ではない」と語られたのであろう。なにせ論語は2,500年も前のことだから、それがどんなものであったのか、この言葉にはどんな真意があったのかは(素人には)わかるはずもない。それはともかく、「○○とはこういうもの」という考えがあったのは間違いない。そこから感じるのは、「あるべきものに対する思い」であろうか。


 「あるべきものに対する思い」にはその良し悪しがある。「あるべきものに対する思い」は「こだわり」の場合もあるし、「常識」の場合もある。どちらがどうというのはケース・バイ・ケースだろう。例えば、かつては「ビールならキリン」という人が多かったが、私であれば「プレミアム・モルツ」である。ただ、それは絶対というものではなく、「あえて自分で買うなら」という意味で、それ以外は口にしないというものではない。私にも「こだわり」はあるが、あまり強くない。牛丼なら吉野家だが、すき家でも食べる。強い「こだわり」があるとしたら松屋では食べないということだろうか。


 モノに対する「こだわり」もそれほどのものはない。パソコンはMacだし、スマホはiPhoneだが、熱烈なアップル信者というほどでもない。ラグビー用品はスズキスポーツで買うが、それはこれまでの経験でハズレがないからであり、何がなんでもというほどの愛好家でもない。身につけるものも仕事の鞄も「こだわり」のあるものはない。ただ、先駆者に対する敬意のようなものはあり、だからアップル製品を買うし、コーラならペプシではなく本家を選ぶ。そこは「好み」があるかもしれない。


 行為あるいは行動に関しては極めて柔軟になる。仕事では誰かが新しいアイディアを出せば、あれこれ議論するよりも「やってみたらいいんじゃない」と思う方である。私も仕事ではいろいろとアイディアを出すが、それに対して必ず否定的な意見を言う人がいる。それはその人の考え方で悪いとは思わないが、私は否定からは入らない。サントリーの「やってみなはれ」の精神が好きであり、「やってみてダメならやめればいい」と考える方である。もちろん、会社が傾くようなことなら慎重を期する必要はあるが、そうでないならトライ&エラーだろうと考える。


 テレビ番組では「カンブリア宮殿」を見ているが、新しい商品やサービスなどが紹介されるとすぐ買ってみたくなり、利用してみたくなる。新し物好きというのではなく、まず自分で体験してみたいという思いが強くある。私のようにすぐ「試してみよう」と考えるタイプは、こだわりタイプとは対照的だろう。もちろん、試してみてよければそれが新しい「好み」になると思うが、「こだわり」までにはならないと思う。それが私の性格なのかもしれない。


 先日、母校のラグビー部の100周年記念行事に参加したが、そこで部のエールが変わっている事に気がついた。ラグビーでは試合終了時に互いの健闘を讃えて独自のエール交換を行う。だいたいどこも同じなのだが、我が部は最後に一言付け加えるという点で、他校との違いがあった。それは我が部で重視している精神を表した言葉なのであるが、私も現役時代には他校との違いに違和感を覚えつつも行っていた。たぶん、今の現役もそれを感じて他校と同じものに改めたのだろうと思う。


 一部OBからはその変更に対し不満も出ていたが(私も変えるべきではないと考えている)、そういう伝統的なものを変える事にも基本的に異論はない。ただ、「現役がそういう伝統精神を理解した上で変えたのなら」という但し書きがつく。なんとなく他校と違っておかしいという程度の感覚なら考え直してほしいと思う。それをただ直せと押しつけるのではなく、伝統精神をきちんと説明する義務はOB側にある。それを聞いた上で変えるのであれば、それでいいと思う。そこから新しい伝統が始まるのである。


 きっと「角のない觚」もそんな伝統破壊だったのかもしれない。常識を覆すというのは、守る方からすればとんでもないということになるが、古き良き伝統を守るべきか否かは一概には言えない事である。伝統は守らせるものではなく、守ってもらうものである。でなければ続かない。どうしてその伝統が生まれ、どうして代々守られてきたのか。それをきちんと伝えた上で、伝えられた者に守りたいと思ってもらうことが伝統の継続になる。なぜ「觚」に角があるのか。その理由をきちんと説明して理解してもらえれば、「觚」から角はなくならないはずである。


 我が母校のエールは変えてほしくない。私が出しゃばって行くのが筋とは思えないが、まずは伝統をきちんと伝えてもらうように、監督に話してみたいとは思うのである・・・



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【本日の読書】

  



2022年9月28日水曜日

意識

 心不在焉、視而不見、聽而不聞、食而不知其味。此謂脩身在正其心。…

心(こころ)焉(ここ)に在(あ)らざれば、視(み)れども見えず、聴(き)けども聞(き)こえず、食(く)らえども其(そ)の味を知らず。此(こ)れを、身を修むるは其の心を正(ただ)すに在(あ)り、と謂(い)う。

『大学』傳之七章

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 せっかくの週末なのに雨とあって、先週末の3連休のうち2日は家に閉じこもっていた。それも嫌いではないのでいいのであるが、シニアラグビーの練習も中止とあって時間も余ったので、録画してあった日本代表の試合を観ることにした。なかなか観る機会がなくてそのままにしてあったものである。試合を観ながらいつの間にか感じていた。それは試合の勝ち負けよりもそこで展開されるプレーの数々が気になってしまう自分である。特にバックスのプレーとなると、場合によっては何度も繰り返しリプレイで観てしまう。録画のいい点である。今のプレーはどういう動きで、なぜ有効だったのかを繰り返し観るのである。


 私の場合、シニアラグビーになってバックスに転向したから余計そういう視線で試合を観てしまう。アタックだけではなく、ディフェンスの動きも気になる。何せ代表プレーヤーのプレーなのでお手本としてはこれ以上のものはない。子供が生まれてから、自らがプレーすることもなくなって、ラグビーの試合の見方はずっと「全体的」な視点であった。フォワードでもバックスでもいいプレーは堪能していた。それはそれでいいのだが、今は完全に「バックス目線」である。そこには自分のプレーに生かしたいという思いがある。


 昔、何かの本で読んだのであるが、たとえば朝、「今日は赤に注目」と決めて家を出る。そしたらとにかく赤い色のものに注意を払う。郵便ポストであったり、赤信号であったり、セブンイレブンの看板の一部であったり。すると、毎日見ていた景色のはずなのに、意外に赤いものが多いと気づくという実験である。それは裏を返せば、視界に入っているのに見ていないということの証でもある。別の実験で、バスケットの試合にゴリラが横切るというビデオの例もあった。治験者は、あらかじめパスの回数を数えろと指示されており、そこに気を取られているとゴリラが堂々と横切っているのに気がつかないというものである。


 最近、髭を伸ばすようになったが、以来、視線が変わっている。先日、久しぶりに大学のラグビー部の先輩に会ったが、その先輩は学生時代から筋金入りの髭男爵。私の視線はいつの間にか先輩の髭に注がれていた。よく見てみると、生え方など意外なところもあることに気がついた。多分、自分が髭を生やさなければ気がつかなかったであろう。ちょうど手入れの仕方とか気になっていたので、よくよく見てみたのである。ずっと見ていたはずなのに、今まで気が付かなかった気づきがそこにはあったのである。


 まさに「心(意識)ここにあらざれば、見えども見ず」ということなのではないかと思う。会社では総務部に所属しているが、経理も統括する総務なので日々伝票や請求書が回ってくる。さっと見て処理を承認するが、時折間違いや要確認や修正などの指示を出す。テキパキとこなせるのは、チェックすべき点を把握しているからで、それでなければ色々な点に気づかない。仕事はともするとルーティーン化して流れ作業になってしまう。たとえ間違っていなくても、「これはコスト削減の観点からやめてもいいサービスなのではないか」と手が止まるのは、意識ゆえである。


 フィギュアスケートを見ていて、解説者がいろいろと説明してくれても私はよくわからない。誰の演技が優れていたかなど、審査結果が出るまでわからないし、出てもわからない。それは演技の見るべきポイントがわからないからに他ならず、ただ演技の全体像を眺めているだけで、専門家が見ているポイントを知らないがゆえである。おそらく大半の人がそうだと思うが、それも見るべきポイントという意識を素人は持っていないためである。


 同じ風景を見ても、絵描きや写真家は普通の人と少し違った視点を持つのだろう。気になる娘については、髪型の変化やちょっとした仕草や表情などに敏感になるのも同じ原理だろう。シャーロック・ホームズが初対面でワトソンをアフガニスタン帰りだと見抜いたのも、名探偵ならではの視点(=意識)があったからである。ことほど左様に意識の有無というのは大きいと思う。あらゆる事にそうした視点を持てばさぞかし愉快だろうと思うが、世の中のことすべてにそんな意識を持つのは凡人には不可能である。されば、少なくともこれと言ったものに限り、そういう意識を持つようにしたいものである。


 「好きこそ物の上手なれ」もこれに近いと思うが、せめて仕事とラグビーくらいはこうした意識を持ちたいと思う。そうした視点を持てているからこそ、今の会社で存在感を認められ、重宝されているのだろうと思う。あらためて、「意識」というのは重要だと思うのである・・・


Stefan KellerによるPixabayからの画像 

【本日の読書】

  




2022年9月25日日曜日

役員合宿

 転職して1年で役員になった。ありがたいことに私の働きを認めてくれたのである。自分でも少し誇らしいところがある。小さい企業だから役員と言っても大したことはないが、それでも同じ会社の中でも役員になれる人なれない人がいるわけであるから、少しは違うというところであろうと思う。そして最近、「役員合宿」をやろうかという話が社長から出てきている。休みの日にどこかの宿に泊まり込んで1日議論しようというのである。私は迷うことなく賛成している。

 休みの日に仕事仲間で集まるという事は、実は銀行員時代に何度か経験がある。あれはたぶん、5、6年目くらいの若手時代のことである。支店内の男(総合職)全員が支店の近くの会議室を借り切って朝から議論をした。内容はもう忘れてしまったが、翌期の業績目標達成のための施策についてあれこれ議論したように思う。と言っても、下っ端だったから議論を仕切るでもなく、むしろ聞き役中心で、たまに問われるがままに意見を言うくらいだったと思う。積極的姿勢など皆無で、はっきり言って嫌々ながらの参加であった。

 当時の私は、休みの日はプライベート100%という考え方で、従って休みの日に昔はよくあった運動会だとか、新人歓迎のバーベキュー大会だとかが嫌で仕方がなかった。仕事なんて平日の勤務時間中にやるものだろうと。何が悲しくて休みの日にまで会社の人間と顔を合わせないといけないのだと考えていた。仕事に対する考え方も今とは随分違っていて、金曜日の夜はハッピー、日曜日の夜は憂鬱という日々であった(今は金曜日の夜も日曜日の夜もハッピーだ)。

 そんな私がいつの間にか休みの日に積極的に合宿をやろうと言っているのだから、あの頃の私が今の私を見たら腰を抜かすかもしれない。まぁ、遊びたい盛りの若者と落ち着いてしまった中年男との違いは大いにあるだろうが、仕事に対する考え方も随分変わっている。何より、「やらされている」感が100%なくなっていることが大きい。すべて自分から動いているので、自分が必要性を感じる以上、休みの日であろうと関係はないのである。ただ、気になるのはシニア・ラグビーの試合日程との関係だけである。試合は仲間にも迷惑をかけるし、休みたくない・・・

 なぜ、平日にやらないかと言うと、それは「そんな時間がないから」である。そもそも合宿の必要性を感じたのは、役員間での考え方の違いによるもの。考え方の違いそのものはあっても構わないが、正確に言えばよって立つところである。そもそも「取締役とは」という考え方が互いに違っていたら、議論が噛み合わない。それはボクサーとレスラーとが試合をやるようなもので、互いのルールが違うまま同じリングに立っても試合が成り立たない。試合として成立させるためには、まずルール会議を開かなければならない。今回の役員合宿も、言ってみればそのルール会議なのである。

 取締役とは、会社の経営者であり、1人ひとりが社長という意識を持っていないといけない。社長であれば、誰かに指示されて仕事をするのではなく、自ら方向性を決めて指示を出さなければならない。それに社長に仕事の範囲などない。俺は製造出身だから営業なんて知らないなんて言っていたら経営なんてできない。自分でやる必要はないが、責任をもってやらさないといけない。もちろん、取締役として担当分野というのはあって然るべきだが、会社に起こる事象にはすべて関心を持たなければならないのは間違いない。

 ところが、叩き上げの取締役となると、指示されることに慣れてしまって、「決めるのは社長」という意識から抜けられない人がいる。特に部長兼務の取締役となると、思考が部長のままで、自分の部署だけが責任の範囲内という意識から抜けられない人もいる。そうなると、隣の部署が目標達成できなくてもそれは自分の責任ではないという意識になってしまう。それが原因で会社としての目標を達成できなければどうするのか。「経営者としての意識」があれば必然的に「自分の問題」として考えることになる。

 そうしたことは、そもそも目標自体をどう考えるのかとか、3年後に自分達はどうなっていたいのかだとか、そうした「ルール=土台」が共通でないと議論が噛み合わない。同床異夢ならいいが、異床異夢ではダメなのである。そしてそうした土台作りは、とても会議室で1、2時間の会議で決められるものでもない。トコトンじっくり時間無制限の一本勝負でないとダメであると思う。そういう場は職場の会議室では難しく、やはり合宿のような仕事を気にしない環境が必要である。

 思えば、学生時代に経験したラグビーの合宿は楽しいものであった(大学の場合だが・・・)。合宿と言えば、1日練習漬けで嫌がる者もいたが、私は気に入っていた。死ぬほど練習がキツいといわけでもなかったということもあるが、仲間と同じ空間・時間を共有する一体感が良かったのである。今の会社の役員でどこまで親密にやるかという問題はあるが、まぁ一度はいいかもしれないと思う。少なくとも、銀行員時代の何の主導権もないものと違い、何より主体的に参加できる。他の役員には嫌がられるかもしれないが、結果としてきちんとした土台が作れればそれでいい。

 ちょっと楽しみにしたいと思うのである・・・


Stefano FerrarioによるPixabayからの画像 

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