最近、若者はドラマなどを倍速視聴していると言う。ネットでも録画でも倍速送りは可能であるが、それはあくまでも「見たい部分へ移動する」という意味合いで使っている身としては、「そんなので楽しめるのか」と思うも、インタビューに答えてほとんど倍速視聴していると真面目に答える若者の姿は驚き以外の何ものでもない。ドラマなどは小説とは違い、「間」や「絵(場面)」で見せるというところがあるが、倍速だと意味がなくなる。ただストーリーだけを追う感じなのだろう。小津安二郎監督の映画などは倍速で観たら、間違いなく面白くも何ともないだろうと思う。
倍速視聴の背景には「時間がない」、「見たいドラマが多すぎる」ということがあるようである。確かに、自分自身に置き換えてみても観たい映画のリストは軽く300本を超えているし、読みたい本のリストも200冊を超えている。減らしても減らしてもその分増えるからまったく減らない。倍速視聴でもしない限り今のペースでは仕事を引退するまで減ることはだろう。ただ、だからと言って、倍速視聴で片っ端から観ていこうという発想は自分にはない。人間歳を取ると新しいことを受け入れられなくなるというが、これもその一つなのだろうかと思ってもみる。
読書でも「速読」というのがある。忙しいビジネスマンが効率的に読書で知識を得ていく方法として、意識の高いビジネスマンが習得に走っていたようであるが、私は受け入れられなかった。今でも読書は最初から最後の解説まで読むタイプである。速読とまではいかなくても、有用な部分だけ読むということを勧める人もいたが、私は読むならすべて読む。もちろん、合わないと判断して途中でやめるパターンはあるが、読む場合は最後まで読む。さすがに「出版できたのは○○さんのおかげ」的な謝辞の部分は飛ばすが、それ以外はすべて目を通している。
特にビジネス書の場合、ヒントは随所に隠れている。目次だけ見て面白そうなところだけをピックアップして読むのもいいかもしれないが、それだと「意外な発見」は出てこない可能性がある。もう充分に知っているということでも、「では自分ならそれをどう書くか」という視点で見ると、そこには違うヒントがある。基本的に一冊の本を読んでそこから何を得るかは読み手次第である。サラリと速読して概要を掴んでわかった気になるのもいいが、それだとしばし読むのをやめて考えてみたり、後で読み直して改めて考えるということができない。自分の望む結果を得るのに速読はあわないのである。
本を読んで何を得るかはその人自身の問題であるから、その人がそれで良ければ問題はない。ただ、私の場合、速読はあわないというだけのことである。もちろん、それだと限られた時間で読むことのできる本には限界がある。溜まった「積ん読リスト」の中には、既に陳腐化してしまい、今さら読みたいとは思わないものも出てくるが、それはそれで仕方がない。時間は有限であり、人生は読書だけで終わらせることはできない。「早くたくさん」よりも「少なくともじっくり」を選びたいと思う。
ドラマも同様である。倍速視聴すればドラマ1本分の時間で2本観られるわけであるが、それで2つのドラマを観るよりも、どちらか1つを選んでそちらを観る方を選びたいと思う。ドラマに限らず、ラグビーの試合も場面場面で重要なのは結果よりもプロセス。「トライを取った」ことよりも「どういうプレーで取った」ことが観たいポイントであり、倍速では動きをしっかりとらえられない。むしろここぞというプレーはリプレイで何度も観るから普通に観るよりも時間がかかることが多い。
と言いながらも、すべてじっくり読んだり観たりするわけではない。マニュアルの類は基本的に見るのも嫌なので、ポイントだけ、あるいはサラッと全体を大雑把に把握する程度にしか読まない。ラグビーの試合も、ゴールキックの場面は倍速ではなく早送りしてしまう。音楽もじっくり聴く。若者と言えども、さすがに音楽は「速聴」することはないのだろうと思う。映画もちょっと感じ入った映画であれば、エンドクレジットまでしっかり観る。それはマーベル作品のようにエンドクレジットの途中で次につながるシーンが含まれる場合もあるが、多くは映画の余韻に浸りたいからである。そしてそれもまた映画の楽しみの一つなのである。
倍速視聴する若者の嗜好に異を唱えるつもりはないが、自分の楽しみ方として、じっくりしっかり観ることはやめられない。そして生きることもまた然り。倍速で人の2倍の人生を送るよりも、巡航速度でしっかりと己の人生を生きたいと思うのである・・・
【本日の読書】
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