2020年1月13日月曜日

論語雑感 里仁第四(その12)

〔 原文 〕
子曰。放於利而行。多怨。
〔 読み下し 〕
子(し)曰(いわ)く、利(り)に放(よ)りて行(おこな)えば、怨(うら)み多(おお)し。
【訳】
先師がいわれた。
「利益本位で行動する人ほど怨恨の種をまくことが多い」
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 今年も正月は年賀状をそれなりにいただいた。なんとなくこういう習慣は面倒だとは思うものの、年に一回年賀状だけをやり取りしている人も多く、やめれば繋がりが切れてしまう気がしてなんとなく憚られる。すでに年賀状だけのやり取りになってしまっている人の名前を見ていくと、だいたい仕事関係が多い。昔の同僚や取引先といったところである。なんで年賀状をやり取りするようになったのか、よく覚えていない。

 ある取引先の方は、先方からわざわざ「年賀状を送りたい」と言ってこられた。その時は自分でもいい仕事ができたと満足しているが、おそらくその方もそう思っていただいたのであろう。それでも私に言うくらいだから他にもそうだろうと思う。多分、相当数の年賀状を毎年送っているに違いない。それは果たしてどういう意図なのであろうかと考えてみる。

 会社にも多数の年賀状が届いているが、それはだいたいにおいて社交辞令的なものである。親しい者同士の挨拶ではなく、仕事上の付き合いによる、つまりここで孔子の言う「利によりて行う」に当たるものである。会社同士ではなく、個人でも仕事を通じて知り合った場合には、「この人とプライベートでも親しくしたい」と思う場合と、「ビジネス上の人脈拡大」という意味があると思う。誰がどちらとはわからないが、ビジネス上の人脈拡大の場合が、「利による」と言えるのかもしれない。

 知人には親の代から長年家族づきあいをしてきた方がいたそうであるが、その方が実は事件を起こして逮捕されるという事態になったそうである(事件といっても経済上の法律違反である)。以来、連絡を絶ってしまったそうであるが、ということは、家族ぐるみのつきあいも親の代からの慣習みたいなもので、その知人にとっては「利による」ものだったのだろう。よく調子のいい時に集まってきていた人たちが、調子が悪くなった途端に一斉に引いていくというのはよく聞く話。自分は間違いなく堂々と残るタイプであるから、知人のようにあっさり引く気持ちは理解できない。

 知人には知人なりの理由はあると思うが、親の代からの家族ぐるみの付き合いが、結局は利益ベースだったということなのだろうと思う。それを批判するつもりはないが、そういう人物は、信頼はされないだろうと思う。怨恨を招くかどうかはわからないが、少なくとも信頼は得られないと思う。否、むしろ相手から見れば、あっさり距離を置いた知人に対して、恨み節の1つも持ったかもしれない。いざとなった時に自分の利益を優先に考えることが悪いとは言えないが、人と人の深いつながりは得られないと思う。

中学3年生の時、国語の最後の授業で先生に宿題を出された。もうすでに成績は確定していて、その宿題を出しても出さなくても内申書や成績表には何の関係もなかった。厳しい先生だったし、普段だったらみんな提出したであろうが、何の利害もないとなると周りの友人たちはみんな「やらないよ」と語っていた。しかし、私はあえて提出した。「成績に影響するから出す、影響しないなら出さない」という利的行動が嫌だったのである。先生からは力のこもったメッセージとともに宿題が返されたのを覚えている。

 またその昔、銀行員時代に関連会社に出向していた時のこと、大きなミスをして上司に叱られたことがあった。それはそれで仕方がないのであるが、残念だったのは、その時その上司が「俺が社長に何と言われると思っているんだ」と言われたのである(正確な表現は忘れてしまったが、そういう意味のことである)。部下を叱責するのはミスをしたケースなど当然であるが、それはあくまでも部下に同じようなミスを起こさせないための叱責であったりするべきであろう。それが何より真っ先に気にするのが自分の評価というのもがっかりである。その上司に恨みを持つことはなかったが、呆れたことだけは確かである。

 スポーツでも会社組織でも、人間関係の中において、人は皆それぞれの考え方があって行動している。その中で判断基準が常に自分の利益という人は、恨みを買うかどうかはわからないが、周りの信頼を得られないことは間違いない。私もやはりそういう利益中心の人とはあまり深いところで付き合いたいとは思わないし、いざとなったら裏切られることも当然想定しておくだろう。

 自分自身、人とどう付き合っているか。それほど広くない交友関係ではあるが、ある程度友達として親しく付き合う人に対しては、利害関係は無視して付き合いたいと思うのである・・・




【今週の読書】
 1兆ドルコーチ シリコンバレーのレジェンド ビル・キャンベルの成功の教え - エリック・シュミット, ジョナサン・ローゼンバーグ, アラン・イーグル, 櫻井 祐子 邂逅(かいこう)の森 - 熊谷 達也





2020年1月8日水曜日

原発推進論に対する反論

1月6日の産経新聞に櫻井よしこさんの「八方塞がりのエネ政策」という意見が掲載されていた。主としてCOP25による環境対策で脱炭素が世界の主流となる中、日本が対応できていないというものである。その原因は、原発の利用について原子力規制委員会と電力業界の未来展望の見えない姿勢だとしている。過剰なまでの安全対策に時間とコストをかけ、なおも稼働に及び腰であると批判したものである。

櫻井よしこさんの意見は、きわめて保守的で総じて賛同できるものが多いが、こと原発についてはどうにも賛成できない。安倍総理の自民党についても、原発推進スタンスだけには賛成できないでいる。「日本に原発は必要か否か」という問題については、「必要か否か」なんて議論しても仕方のないことで、「コントロールできないものを扱うべきではない」というのが私の基本的な原発反対理由である。

櫻井よしこさんは、川内原発を取材したということで、「過剰ともいえる世界最高の安全対策を実施している」としている。その詳しい内容はわからないが、航空機テロでも大丈夫であり、それどころか隕石の落下や航空機事故などほとんどあり得ないリスクに過剰に備えることを疑問視している。それは確かにその通りかもしれない。ただ、どの程度のリスクを想定しているのだろうかという疑問はどうしても残る。

日頃の感覚から言うと、我々の場合、過去の事例を想定することは得意であるが、想像力を働かせて「前例のない」想定は苦手であるというイメージがある。特に「前例踏襲」はお役所の専売特許と言ってもいい。「9.11で航空機テロがあったから航空機テロ対策を取る」のではなく、「こんなことが起こるかもしれない」と想像してリスク対策を取るのである。実際にはそうなされているのかもしれないが、記事からそれは伺えない。たとえば、「リスク対策を熟知した職員による意図的な暴走行為」にはどう対処するのだろうか。是非知りたいところである。

それはそうと、櫻井よしこさんも自民党も経済的・環境的な理由から「原発が必要だ」と主張している。そして安全を声高に主張する。だが、その安全対策で語られている対象は「原子炉」で、私が原発で一番問題だと考えている「使用済み燃料棒」の問題にはなぜか触れていない。原発は稼働している時が危ないのではなく、実は停止した後も危ないということは福島で明らかになったのに、である。現在、使用済み燃料棒は、「プールに入れて」保管しているという極めて危なっかしい保管方法である。しかも、冷却後は地下に埋めるとしているが、その場所すら決まっていないらしい。

そんな状況で、環境や経済性を理由に再稼働を主張するなんてどうかと思う。福島の廃炉すらままならないのに、そういった「環境性」やそれに対する費用を含めた「経済性」でどうかという議論をしてもらいたいと思う。危険な放射能を何百年も発し続ける燃料棒を「プールに入れるだけ」で「最終埋め立て地のコンセンサスも取れていない」状態で、「福島の事後処理もできていない」のに、でも「原子炉は安全だから」という理由で再稼働すべきという考え方が理解できない。櫻井さんもそういうところをコメントしてもらいたいと思う。

現在の原発について、「トイレのないマンション」とたとえる例もある。言いえて妙だと思う。繰り返すが、「人類は原発を完全にコントロールできていない」のである。原発が必要云々を主張するなら、まず使用済み燃料棒の処理をきちんとできるようになった上でするべきだろう。ゴミの処理もできないのにゴミを出しても大丈夫というのは如何なものかと思う。ただ、その処理にしても、今の地中深く埋めるというのではなく、放射能除去までできるのが必要だと私は思う。COP25の必要性も理解できるが、それはあくまでも「使える技術」を前提にすべきだと思う。

櫻井よしこ氏は、舌鋒鋭く原子力規制委員長の安全重視スタンスを批判する。規制委員長に対し、「お前は神か」と辛辣である。原発が停止している間、どれだけ国民の税金が無駄に使われているかと批判するが、そんなことは福島を片付けてから言って欲しい。前例踏襲の安全対策で良しとして(福島の原発は事故前、過去最大級の津波でも大丈夫だと胸を張っていた↓)、世界最高の安全対策と言われても片腹痛い。

イスカンダルからの使者を待つのではなく、独自に放射能除去技術を確立してから原発の議論をすべきだと思うのである・・・


【参考】
〜原発事故後、慌てて削除された福島原発の津波対策〜
津波への対策
 原子力発電所では、敷地周辺で過去に発生した津波の記録を十分調査するとともに、過去最大の津波を上回る、地震学的に想定される最大級の津波を数値シミュレーションにより評価し、重要施設の安全性を確認しています。また、発電所敷地の高さに余裕を持たせるなどの様々な安全対策を講じています。





【本日の読書】
 1兆ドルコーチ シリコンバレーのレジェンド ビル・キャンベルの成功の教え - エリック・シュミット, ジョナサン・ローゼンバーグ, アラン・イーグル, 櫻井 祐子 邂逅(かいこう)の森 - 熊谷 達也





2020年1月4日土曜日

2020年新春雑感

また新しい年を迎えた。元旦は、例年通り近所の北野神社へ。午前中の早い時間なら空いている。いつものように首を垂れるが、願うのは両親と家族の健康。自分のことは見守ってくれているだけでいいと思う。基本は「神仏は尊ぶが神仏に頼まず」の精神である。境内から出る時、どこかの若い夫婦が深々とお辞儀していた。実は私はこれができない。なんとなく気恥ずかしく思うのである。

そう言えば、ラグビーでもグラウンドの出入りの際、やはり一礼しているのを目にする。自分たちはこういう習慣がなかったから、今だになんとなく違和感を覚える。こういうことは日本的なんだろうと思う。神聖なる場所に出入りする際、一礼するのは考えてみれば謙虚に振る舞う印。人目を気にしてしまうところはまだまだなのかもしれない。朝の冷たい空気に触れながら、そんなことを考える。

元旦は両親の家に息子を連れて行く。大学受験の娘は居残りである。子ども的には「お年玉」という要素がなければ行っても面白くないと思う。まぁ、素直に付き合ってくれるところはありがたい。お年玉は「使っていいよ」と息子には伝えるが、「特に欲しいものがない」という理由で「貯めておいて欲しい」との答え。そう言えば自分もそんな風だった気がする。唯一、小学校6年の時にモデルガンを5,000円で買ったことくらいだろうか。小学生にしてみれば大金だったから、ドキドキしながら買ったのを覚えている。

娘はもうじきセンター試験。赤本を買い込んだりして、受験も追い込みである。どこへ行こうが好きにしたらいいと思っているが、ストイックに生活のすべてを受験に振り向けていた自分の浪人時代とはだいぶ違うなと感じている。ついついドラマを見てしまったりしているし、母親はヤキモキしているが、自分の経験をもとに「かくあるべし」と語るのも違うと思う。全部落ちたらどうしようかという心配はあるが、「どこかに受かればいい」と考えているので気楽に見守れるのかもしれない。あとちょっとだし、「頑張れよ」とエールを送っている。

かくいう自分は、今年は仕事でいろいろと試練がありそうである。しかし家族のことであれこれ悩むより自分のことの方がはるかにいい。避けられないものなら前を向いて立ち向かうしかないわけであり、嫌でもそうせざるを得ない。その昔、武士は背中を斬られることを恥としたそうである。つまり「逃げようとした」と取られるからである。武士の子孫ではないが、武士道精神の国の末裔としては、そんな意識を持っていたいと思う。ラグビーでも「前へ」という精神は重要であり、倒されても前へ倒れるのがラグビースピリットである。これを心に刻む一年にしたいと思う。

 一年後にどんな振り返りができるのかはわからないが、重荷はすべて引き受ける覚悟を持って臨みたいと思う。人をあてにするのではなく、自らの力で。ここでも「尊ぶが頼まず」の精神は持っていたいと思う。それでみんながハッピーになれば幸いである。自分にはできると信じて、今年は「一歩前へ」の気持ちで過ごす一年としたい。そんなことを思う新春の朝なのである・・・


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2019年12月31日火曜日

2019年大晦日雑感

早いもので今年ももう大晦日である。毎年、大晦日に1年を振り返っているが、毎年のように時の過ぎゆく早さを実感させられる。しかし、それも過ぎてしまったからこそであり、当たり前であるが1年間の間、平凡に過ぎ去った1日1日があったことは事実である。そうして気がつけば55年。最近では「残り時間」を少しずつ意識するようになったと思う。「あとどれくらいできるだろうか」「今やらなくていつやるのか」先延ばししても年齢的にできなくなるリスクを感じるようになってきたのである。

1年を振り返ってみれば、それなりに出来事はあった。春には4年連続で会社が増益となってみんなで喜んだし、高校の70周年記念試合にも出場した。「温泉に入ると腰の痛みが和らぐ」という母を連れて、夏には万座温泉、冬には熱海に行った。秋にはラグビーのワールドカップが日本に来たし、映画は144本観て、本は125冊読んだ。クラッシック・コンサートにも行ったし、家族旅行にも行った。それなりに充実していたと言える。

「禍福は糾える縄の如し」という諺は常に意識しているが、自分の人生もまさにその通りである。1つの問題が解決すればまた別の問題が起き上がる。それが自分自身の問題であればいいが、そうでないと辛い。ここ最近、心を悩ませていた長女の問題はどうやら峠を越した感じがする。元気に大学受験に向けて勉強しているし、結果はともかくとして、このまま頑張って欲しいと思う。

一方で新たな試練も湧き上がって来ている。もうそろそろ忍耐も限界にきているし、このまま続けていくよりも、終わりにした方が自分自身のためにもいいように思う。ただ、それが悪影響を与えることには慎重にならないといけないし、となれば忍耐の残存期間はあと4年ということになる。4年後に長男が受験を終えた時点が1つの決断のタイミングであろう。

仕事でも大きな変化がありそうである。何事も順風満帆というわけにはいかない。必ずどこかで試練はやってくる。それを変に回避するのではなく、正面から向かって突破する道を選びたいと思う。ボクシングで言えば、パンチをもらうことを恐れてガードばかり固くして判定勝ちを狙うのではなく、しっかりと相手を見据えて打ち合ってノックアウトを狙うやり方と言える。「倒れるなら一歩前に」この精神は維持したいと思う。そういう意味で、来年の目指すキーワードは「一歩前へ」としたい。

「残り時間」ということであれば、仕事もラグビーも両親と過ごす時間も思春期の子供たちと過ごす時間も、考えればきりがない。幸いここ3年間チャレンジしてきたマンション管理士の資格は、自己採点では合格圏内だし、そうすると1週間で10時間、勉強に充ててきた時間が浮くことになる。この時間を有効に使いたいと思うが、NetflixもAmazonprimeVideoもなかなかの誘惑をかけてきてくれている。株取引も再チャレンジしてみたいと思うし、あれもこれもと目移りするのも事実である。

禍福は糾える縄の如しで、思うようにうまくいかない事も多々ある。それをクヨクヨしていても仕方がない。それを取り除いてもまた別の問題が起こるはずだし、それを嘆くよりも上手く付き合う方法を身につけていくべきだろう。諦めて我慢するのではなく、モグラ叩きをめげずにやるイメージである。きっといい結果になるだろうと信じて来年も「一歩前へ」出るようにしていきたい。そんな覚悟を持って2019年を締めくくりたいと思うのである・・・


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【今週の読書】
 感動する! 数学 (PHP文庫) - 桜井 進




2019年12月29日日曜日

論語雑感 里仁第四(その11)

〔 原文 〕
子曰。君子懷徳。小人懷土。君子懷刑。小人懷惠。
〔 読み下し 〕
子(し)曰(いわ)く、君(くん)子(し)、徳(とく)を懐(おも)えば、小(しょう)人(じん)は土(ど)を懐(おも)い、君(くん)子(し)、刑(けい)を懐(おも)えば、小(しょう)人(じん)は恵(けい)を懐(おも)う。
【訳】
先師がいわれた。
「上に立つ者がつねに徳に心がけると、人民は安んじて土に親しみ、耕作にいそしむ。上に立つ者がつねに刑罰を思うと、人民はただ上からの恩恵だけに焦慮する」
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 上に立つ者の考え方が、下の者に多大な影響を与えるというのは、当たり前のことである。特に会社組織のように指揮命令系統のある組織ならなおさらである。「利益、利益」と口走ってばかりいて、儲けにつながらないようなサービスをしようものなら、ネチネチと嫌味を言われる。こんな環境下にあれば、まず社員は余計なサービスをしようなどとは思わなくなるだろう。

 銀行員時代、融資課に所属していた私は、融資の実行は当然ながら「お客様の希望する日」という感覚であった。ところが、まだ4年目くらいの若手時代、そんな感覚でお客様の口座に融資金を入金したら支店長にドヤされてしまった。曰く、お金が必要な日から少しでも前倒しで融資の実行をするものだと。つまり、1日でも早く実行すればその分、融資利息がもらえるし、口座に資金が眠ることになる。「流動性」と言って、この寝ている資金も支店の収益につながるからである。

 「もっと収益マインドを持て」というのが支店長のお叱りであった。以後、支店長の指示通り、審査が通ればなるべく早く融資契約を済ませ、お客様の口座に入金するように心掛けていた。しかし、一方で「お客様第一主義」という標語も掲げられていて、違和感を覚えたものである。当時は、よくある「ホンネと建前」として特に疑問にも思わなかったが、本部から降りてくる「お客様第一主義」のような「きれいごと」は聞き流すものという雰囲気であった。

 今思えば、その支店長だって、もともと金の亡者であったわけではないと思う。支店長に出世するまでの間、いろいろと頑張られたのだと思う。その中で、「収益をあげる」ことでより多くの評価を得てきたのだろう。そうなると、「収益をあげる」ことこそが評価される最大のポイントという理解になり、その結果育まれた「収益マインド」が銀行員としての行動基準になっていったのだと思う。

 これは子育てにも共通している原理だと思う。小さい子供は親に褒められたいし、叱られたくはない。当然、褒められればもっとそれをやろうとする。テストでいい点を取れば褒められるのに、かけっこで一番になってもそれほど褒められない。得意になって報告した時に、「それより宿題はやったの?」などと言われればモチベーションも下がってしまうだろう。我が息子は、今中学で学年トップの俊足だそうであるが、それも「かけっこで一番」を私が重点的に褒めてきた成果だろうと内心自負している。

 今の会社では、部長・役員間では収益の意識は高いが、それ以外の社員に対してはあまり収益に関してはうるさく言わない。決して儲かって余裕があるというわけではないが、もともと社長がそれほどガツガツするのが好きではないというところが大きく、ノンビリ構えてくれているためでもある。不動産賃貸という業務がら、長く住んでいただけるように快適なサービスを提供しようと普段から言っているが、みんなそれに応えてくれている。これが社長が「ガリガリ亡者」だったらそうも言ってられないと思う。

 「トップの顔色を伺う」というと、イメージは良くないが、結局のところ組織というものはそうなってしまうものだと思う。「会社は社長の器以上に大きくならない」と言われているのは、実に真実である。そう考えれば、上に立つ者の責任は重い。社長でなくても、部下を持つ立場の者であれば、そういう意識を持たないといけないと思うのである・・・


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【今週の読書】
 OUTOFAFRICA アフリカの奇跡 世界に誇れる日本人ビジネスマンの物語 - 佐藤芳之 良き社会のための経済学 (日本経済新聞出版) - ジャン・ティロール, 村井章子





2019年12月26日木曜日

学生スポーツのあり方

 ワールドカップが終了し、その余韻もまだ残る中、国内では大学と高校の全国大会の時期となっている。社会人のトップリーグはワールドカップの影響もあって、来年初の開幕である。大学ラグビーに関しては、一昨年まで大学選手権9連覇を達成した帝京大学が早くも姿を消している。高校や大学は、3年、4年で選手がすべて入れ替わる。どうしても勝ち続けるのは難しい。したがって、「選手の獲得」というのは大きなテーマであると思う。

 詳しいことは知らないが、強豪チームであれば、学生の方から「あそこでプレーしたい」という動機から志望してくることもあると思うが、もちろん有望選手をスカウトするというところもあると思う。我が母校が所属する対抗戦Bグループでもまた然り、である。ただ、我が母校は国立大学ゆえにスカウトはできない。受験を潜り抜けてきた中から一生懸命勧誘するくらいである。一方、私立の大学ではスカウトに力を入れている大学もあって、忸怩たる思いを抱くこともなきにしもあらずである。

 そう言えば、今年のワールドカップで残念ながらベスト8で敗退してしまったオーストラリア(前回大会では準優勝)は、捲土重来で、次期大会を見据えてチームの強化に取り掛かっているという。ラグビーの場合、3年居住すればその国の代表になれる(ただし、複数国の代表にはなれない)というルールがある。スカウトはオーストラリア国内にとどまらず、市民権と5,000万円以上の給料を餌に、南アフリカ、ニュージーランド、ポリネシア各国から有望選手に声を掛けているらしい。

ラグビーにとどまらず、高校野球でも中学の有望選手を集めている強豪校の話は耳にしているし、プロでなくてもアマチュアの世界においてもスカウトは、「勝つための第一歩」なのかもしれない。しかし、やはりそんなスカウトとは無縁の国立大学出身の私としては、やっぱりスカウトというのは、邪道という気がする。というより、そう思いたいと言った方が正確かもしれない。「そんなことを言っていては勝てない」と言われればその通りであるが、その中でなんとか勝つために努力する方を選びたいと思う。

先日、大学のOBの集まりで聞いた話は、そんな思いを強く裏付けるものであった。それはOB会費の件である。学生の活動には当然費用がかかるが、全額学生の個人負担というのは無理な話。OBがOB会費を納め、それを学生の活動の支援に当てているのである。我々も現役時代、それで助けられたので、今は半年ごとに1万円の会費を納めている。その納入率に話が及び、我がラグビー部OBの会費納入率は70%だとのことであった。実はこれが多いらしい。

ちなみに、同じ対抗戦Bグループの某私立大学では30%を下回っていて、金額的に比較すると我が部の1/4以下である。それではとてもスカウト費用を含めてチームの強化費が賄えないので、差額は大学側が支援しているという。我が母校はと言えば、大学側の金銭的支援は、大学施設に関するものを除けば、当然ない。その差は一体何だろうかと考えれば、それは自分たちの所属していたチームに対する愛情だろうと思う。腕を買われて勝つためだけの目的で集められたのではなく、厳しい状況下、自分たちで工夫をし、OBもそれを温かく支援し、勝ち負けだけにとらわれずに学生・OBが一体化している。そんな結果なのではないかと思う。

それを聞いて、その場にいた一同は改めて誇らしい気分になった。そもそも学生スポーツは、本来学業の傍らに行うものであって、学業優先の文武両道を目指すべきものである。学生生活のすべてを注ぎ込むものではない(それはあくまで理想であって、実際には我が母校とは言えどもそういう学生はかなりいるが・・・)。結果的にそうなったとしても、スカウトまでして選手を集めるものではない。学生スポーツとして、本来あるべき姿を我が母校は維持していると言える。

今後、仮にスカウトが可能になつたとしても、それをやるのはどうかと思う。今のままでいいだろう。私立とは言え、スカウトを採用していないライバル校もあることだし、今の制約条件の中でいかに勝つか、を工夫していくべきだろう。そしてそれをOBとしても支援し続けたいと思う。今シーズンは、ライバル校も強く、残念ながら下位に甘んじてしまったが、これから来春新たな新戦力となるべき受験生がセンター試験を迎える。そんな新入生を加え、来年度も新しいチームで頑張って欲しいと思うのである・・・


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【本日の読書】
 OUTOFAFRICA アフリカの奇跡 世界に誇れる日本人ビジネスマンの物語 - 佐藤芳之 良き社会のための経済学 (日本経済新聞出版) - ジャン・ティロール, 村井章子






2019年12月22日日曜日

遊びと勉強の境目

我が家では、中学2年の息子にはまだスマホを持たせていない。長女は高校生になってからスマホデビューしたが、それもあって息子も高校生になるまではキッズケータイである。本人も別に欲しそうではないし、それはそれでいいと思っている。ただ、思うところがあって、タブレットは持たせている。息子はさすが現代っ子、特に教えたわけでもないのにいつの間にかタブレットをしっかり使いこなしている。しかし、妻はこれをあまり快く思っていない。今からタブレットで「遊んでいる」と、勉強がおろそかになるという考えからである。

実は、妻と私とでは子供の教育方針がまるで違う。私は、こういう情報機器はどんどん与えて使わせたいと思うのだが、妻はそうは思わない。「勉強に関係ないもの」は基本的に与えたくないようである。だが、私はスマホやタブレットは、早いうちからドンドン使わせて、自然に使えるようにしておいてあげたいと思うのである。遊びで結構、遊びながらだからこそ、なんの苦もなく覚えるのである。かく言う私もパソコンではそんな考え方で苦労知らずに来たと言う経験があるのである。

私が初めてパソコンを買ったのは、1990年頃である。まだDOS/Vの時代である。なんとなく「これからはパソコンの時代だ」と思い、東芝製のパソコンを買ったのである。買ったはいいが、何ができるのかよくわからず、表計算ソフトでこずかい帳を作っていた程度であった。やがてインターネットの時代になり、IBMのアプティバを購入、初めて使ったのはウィンドウズ3.1である。当時、すでにパソコンに詳しい後輩の家にお邪魔してインターネットに関する基本を教えてもらい、あとは「遊びながら」覚えたのである(もっとも後輩が使っていたのはMacだったが・・・)。

やがてウィンドウズ95が登場して、インターネット時代の幕が開き、銀行の支店にもパソコンが配備されるようになった。最初は支店にまだ一台だけであり、その最初の一台は誰も使える者がなく、唯一私だけが使えたので、会議の資料をそれまでの手書きからパソコンで作成したりしていた。さらには若手を集めて、使い方の講習会をやったりした。頭の古い次長からは、「パソコンをいじっていれば仕事していると思ったら大間違いだぞ」と怒られたものである。今はパソコンがなければ仕事にならない。

そういう経験があるせいか、これまでパソコンで苦労などしたことがない。一方、数年前から銀行事務のパートに出ている妻は、ExcelやWordを使えず苦労しているようである。使えれば仕事の幅も広がるだろうし、それは周りの人からしても頼りにされるであろうし、それは巡り巡って時給に跳ね返るものだろう。それもこれもこれまでパソコンで「遊んでこなかった」からだと言える。誰であろうと、いきなり使おうと思っても無理なわけで、身につけようとするならば、そこから苦労して覚えなければならないわけである。

自分がそういう立場にあるのだから、なおさら子供達に同じ苦労はさせまいとするのが親たるものではないかと思うのだが、人間、身に染み付いた考え方からは抜けられないのか、いまだにスマホやタブレットは妻にとって「遊び道具」でしかない。だから機能も必要最小限で十分だし、お金もなるべくかけないようにしようとする。「塾になんか行かなくてもいいから、その分のお金をスマホやタブレットにかければいい」と考える私とはまるで正反対である。

先日、息子がタブレットを落として画面にヒビが入り動かなくなったとこっそり私に言ってきた。もともとたまたまもらった安いタブレットだったが、液晶画面を修理するとなると意外に高く、比較検討して買い換えることにした。妻に相談すれば反対されるに決まっている。壊れたことは妻に話してしまったようだったので、息子と相談して買い換えたことは内密にして修理したことにした。家計費からは出ないので、お父さんのおこずかいである(T_T)。まぁ、将来息子のために何かの役に立つ(であろう)投資であると考えればやむを得まいところである。

妻と考えが合わないところは残念であるが、漫画もパソコンもスマホもタブレットも、「遊び」としか見られないようだと、そこから得られるものは何もない。自分自身、遊びから得たものが多々あることから、そういう思いは強くある。これからも子供達には「遊びから入る」大事なことを教えていきたいと思うのである・・・


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【今週の読書】
 文芸オタクの私が教える バズる文章教室 (サンクチュアリ出版) - 三宅香帆 良き社会のための経済学 (日本経済新聞出版) - ジャン・ティロール, 村井章子




2019年12月18日水曜日

同姓の他人

私の名字はわりと珍しい方である。なにせ今日まで55年生きてきて「同姓の他人」には2人しか会ったことがないくらいである。と言っても、全国で希少というほどではなく、たとえば以前の職場(銀行)では名簿を見ると5人くらいは名前があったし(でも会ったことはない)、高校の同窓会の名簿を見てもそのくらいの人数の「他人」はいる。また、たまたま通りかかった家の表札を見かけたこともあるから、全国的にはそれなりにいるとは思う。ただ、会うのは珍しいほど少ないということであろう。

過去に直接お会いした2人の「同姓の他人」うち、1人はトヨタの修理スタッフをしていた人で、当時乗っていたカルディナを購入した店舗に持って行った時に偶然お会いした。もう1人(というか家族)は、なんとグアムのプールでであった。当時小学生の我が息子が、名前入りの帽子をかぶって走り回っていたところ、それを見た相手家族の奥さんが「珍しい!」と声を掛けてきたのである。わざわざ異国で見ず知らずの他人に話し掛けたくなるくらい珍しいという証明である。「佐藤」さんや「鈴木」さんがこんなことをやっていたら大変なことになる。

また、初対面で名前を名乗った時に、「どちらのご出身ですか?」と聞かれることがある。こういう時は相手もそれなりの心当たりがある場合が多く、「(私は東京ですが父は)長野県の富士見です」と答えると、「あぁ、やっぱり」となる。事実、長野県の富士見にはこの名前の人が多い。なんでなのかと考えてもその理由はよくわからない。同じ名前の遺跡が長野県にあるので、そこと何かつながりがあるかもしれない。

そんな私の名字なのであるが、先日、とうとう人生3人目の「同姓の他人」にお会いした。その方は高校の先輩。たまたま私の名前を同窓会の会報で見かけたということで連絡をいただいたのであるが、せっかくだからお会いしましょうとなった経緯である。初めは遠縁ではないかと思われたらしいが、お話を伺うと長野県の富士見ではなく、岐阜の方であった。その方はいろいろと我々の名前の由来を調べたらしく、遡れば遠く平家に由来するらしい。真偽のほどは定かではない。ただし、「名前」が平家に由来するとしても、DNAはわからない。なにせご先祖様は(少なくとも江戸時代は)、農民だったはずだからである。

士農工商の歴史は小学校で習うところであるが、「名字帯刀」が許されていたのは基本的に武士のみに限定されていたと習っている。明治初期に名字が解禁されるまでは、権兵衛や吾作の類だっただろうから、名前の由来を考えるのなら、明治の時代にご先祖様が何らかの考えでもって我が名字を選択したのだろうと思う。ちなみに、曾祖父の時代(明治後期)は、我がご先祖は桶を作っていたということで、「桶屋」と呼ばれていたらしい(とは父の談である)。名字ではなく、職業や屋号で呼び合う習わしだったのだろうと思う。

今から考えると惜しいことをしたもので、もしかしたら亡くなった祖父であれば、我が家系の名字(を名乗るに至る経緯)について何か知っていたかもしれないと思う。祖父は明治39年、曽祖父は明治13年の生まれであり、明治8年の「平民苗字必称義務令」のあとのことについて、おそらく何か記憶していたのではないかと思うのである。もしも、何かそのあたりの経緯を聞いたなら、面白いエピソードが聞けたかもしれないと思う。

そんな我が名字であるが、本家は既に私の従兄で途絶えてしまう。次男である父の家系は私と弟が受け継ぎ、順当にいけば息子と甥が引き継いでいく。いつか息子か孫が名前の由来について興味を持った時のために、少し調べておくのもいいかもしれないと思ってみたりする。これから少子化の世界。我が名字はどうなっていくのだろうか。まぁ自分の死んだ後の世界のことを案じても仕方がないし、せいぜい孫子の代まではしっかり見守りたいと思うのである・・・




【本日の読書】
 文芸オタクの私が教える バズる文章教室 (サンクチュアリ出版) - 三宅香帆 そして、バトンは渡された (文春文庫) - 瀬尾 まいこ




2019年12月14日土曜日

論語雑感 里仁第四(その10)

〔 原文 〕
子曰。君子之於天下也。無適也。無莫也。義之與比。
〔 読み下し 〕
曰(いわ)く、君(くん)子(し)の天(てん)下(か)に於(お)けるや、適(てき)無(な)きなり。莫(ばく)無(な)きなり。義(ぎ)に之(これ)与(とも)に比(ひ)す。
【訳】
先師がいわれた。
「君子が政治の局にあたる場合には、自分の考えを固執し、無理じいに事を行なったり禁止したりすることは決してない。虚心に道理のあるところに従うだけである」
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優れた人物が政治を行う場合、私心を離れ本当に民衆のためになる事を行うというのは、ある意味理想であり本来あるべき姿であろう。実際の政治家がみなそうしているのかどうかはわからないが(そうであると信じたいところではある)、およそ人の上に立つ人が自分の都合優先で行動していたらついてくる人はいなくなるだろうし、みんなの尊敬を集めるということもないであろう。真のリーダーたるもの、「虚心に道理のあるところに従う」べきだという意見はもっともだと思う。

これは何も政治家に限ったことではなく、およそ組織のリーダーにはみな当てはまるだろうことである。なぜかと言えば、自分の考えに固執し(内容によっては良い場合もあるだろうが)、無理強いに事を行い、禁止したりすれば下の者の支持を失うことになるからである。絶対権力を手中にしていて、反乱の心配がない場合であれば話は別であるが、そういう「独裁体制」以外であれば下の者の支持は必要であり、となればある程度納得性の高いようにしなければならないのは当然の理である。

身近なところにある会社組織で考えてみる。元銀行員として多くの中小企業を見てきたが、その多くは社長の「ワンマン」体制である。言ってみれば「独裁制」ということになる。会社組織の場合、社員にしてみれば「雇われている」ということがある。業務上の命令系統もあり、「独裁制」が成立しやすい。したがって、それが社長のワンマン体制となり、公私混同につながったりする。社長が家族で食事をした時のプライベートな領収書を会社に回したりしても誰も何も言わないのである。

当然、社員もそれを見ても見て見ぬふりをするしかない。不満を持つ人もいるかもしれないが、独裁社長に文句を言えるはずもなく、黙っているだけである。一方、独裁社長にも言い分はある。事業リスクをすべて一身に背負っているのは社長である。銀行から融資を受けるのに個人保証を差し入れるから、何かあれば全財産を失うリスクがある。当然、自分の考えですべてやりたいと思うだろう。また、大概の社員は「指示待ち族」が多い。「言われればやるが、言われなければやらない」。そんな社員は頼りがいもなく、社長はすべて自分で決めなければならないと思い込むようになる。

社長に積極的に意見具申し、社長もそんな意見具申を聞きたいと思うような社員がいるならば、必然的に「独裁」も緩むことになる。そういう社員を意識するようになると、たぶん社長も唯我独尊というわけにもいかなくなり、必然的に「道理のあるところにしたがう」ようになるのかもしれない。そう考えると、独裁者ばかりを批判するのは正しくないのかもしれない。まぁ、そうは言っても端からそんな意見具申は求めてもいないという「真の独裁者」は当然いると思う。

広げて考えれば、リーダーが「真の独裁者」でない限りは、それに従う者にも責任はあると思う。政治に無関心な国民は「やむなき独裁」を生み出す原因になるのかもしれない。とは言え、やたらに揚げ足取りのような批判ばかり繰り返す我が国の野党のようだと呆れるばかりだし、反抗の声を上げる香港の学生を弾圧・逮捕しまくる中国共産党の姿は、残念ながら孔子の説く君子には程遠い。なかなか理想通りにはいかないものである。

会社でも独裁を通すのではなく、意見を求め、その意見を言いやすくする環境づくりはできる。「モノ申す社員」を育てる工夫である。それで育つかどうかはわからないが、ワンマン体制に不安がある社長(業績の悪い会社だとその傾向が強い)だったら、試してみる価値はあるかもしれない。と言っても、そんな心得のある経営者であるならば、そもそも「虚心に道理のあるところに従」って経営しているかもしれないとも思う。そもそもの心得次第という感じもする。

君子であろうとなかろうと、人間年齢を経ていくと次第に金銭欲よりも名誉・人望欲が強くなると思う。そうした時に、「虚心に道理のあるところに従う」ことは重要なキーワードになる。孔子の説くところももっとも。自分もかくありたいと思うのである・・・




【本日の読書】
 時短の科学 - 内藤 耕 良き社会のための経済学 (日本経済新聞出版) - ジャン・ティロール, 村井章子