と怒られた記憶は誰にでもあるのではないだろうか。
私は昔から漫画少年であったから、漫画は大好きであった。今でも好きで、毎週金曜日には1週間の労働のご褒美と称して、漫画喫茶に寄って漫画を1~2時間読んで帰るのを楽しみの一つとしているくらいだ。だから冒頭のセリフを聞くといまだに反発を感じてしまう。
漫画の何が悪いと言うのだ。
その意見の背景には、漫画=低俗なものというイメージがあるのだろう。それも否定はしない。かく言う自分も通勤電車で漫画を読んでいる若いサラリーマンを見ると、「他に読むものあるだろう」と思ってしまうし、いくら好きでも自分では絶対にしない。
でも漫画=悪という意見には徹底的に反論する。
漫画といっても、最近では「漫画でわかる日本国憲法」などのように、難しいものをわかりやすく理解させる手段として漫画を利用している例もある。(個人的にはこっちの方が問題だと思う、漫画でしか理解できなくなるのではないかと思うからだ)それに「はだしのゲン」などは文部省のお墨付きだ。要は漫画そのものというよりも中味の問題だろう。
だが、その中味でさえけちをつけるのいかがなものか。
およそ「物語り」としては漫画だろうが、小説だろうが映画だろうが同じである。
ただその表現方法が違うだけだ。
小説だってそもそも低俗な読み物とされていたから「小」説なのだ。
すぐれたストーリーであれば、漫画でも感動や興奮を映画や小説と同じように味わえるし、たくさんの影響を受ける事だってある。
例をあげよう。
「コブラ」という漫画がある。
私の中では数ある漫画の中で最高傑作と思っている漫画である。
中学の時から読み始め、今でも手放せずに新刊がでるたびに買い揃えている。
宇宙海賊コブラのアクションアドベンチャーなのだが、少年誌には似合わない大人のストーリーなのだ。
ある時、場末の惑星のさらに場末の酒場にコブラがやってくる。
砂埃とたばこの煙が充満し、荒くれ異星人たちの喧騒に満ちた昔の西部劇にでてくるような店内で、一人の美女がピアノを弾いている。
その美女に向かってコブラが話しかける。
「こんなところでショパンが聞けるとは思わなかったな」
それに対する美女の答えがイケている。「それをわかる人がいるとも思わなかったわ」
なんて大人な会話なのだろうと、その時思春期の多感な私は思ったのである。
以来、そんな「大人な会話」ができるようになりたいと、ショパンを聞くようになった。
いざそんな機会があった時に、ショパンがわからなかったらシャレにならないからだ。さらにもしもその時弾いている曲がドビッシーだったらと考え、ドビッシーも聞くようになった。
まさか「ショパンにしてくれ」とリクエストもできまい。
そうして、親に言われても絶対聞かないショパンやドビッシーを聞きまくったのである。
(残念ながらその成果を試せる機会にはいまのところ『まだ』巡り合っていない)
これぞ漫画の効能である。
子供の頃、数多く買いためていた漫画本も、大半を処分してしまった。
だが、この『コブラ』はいまでも大事に手元に置いてある。たかが漫画であるが、ピンチにあっても余裕の笑みを浮かべていられるコブラの姿は、今でも私の理想像の一つなのである・・・
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