2016年3月16日水曜日

映画鑑賞の形

映画を観ることが好きな私は、もっぱら週末に自宅でDVDでこれを楽しんでいる。バーボンをちびりちびりとやりながらのこの至福のひと時が、何よりもたまらない。映画館で観るのももちろんいいのだが、その場合、最近の好みは深夜のレイトショーだ。その時間帯だと人もまばらで、ゆったりと映画を楽しむことができるからである。

昔は気にならなかったが、両サイド前後左右を人に囲まれて映画を観るのも少し疲れてきた感がある。よって、そんな圧迫感から解放される深夜の映画館は実に心地よいのであるが、それだとバーボン片手にというわけにはいかない。そんなだから、週末に自宅でのDVD鑑賞が今のところお気に入りなのである。

さて、そんなDVD鑑賞だが、いまはツタヤの「ツタヤディスカス」というサービスを利用している。これだと1回に2枚のDVDが送られてくる。これが金曜の夜と土曜の夜の映画タイムにちょうどいい。8枚まで定額(2,014円/月)で利用できるので、リーズナブルでもある。

一方、最近ネット配信というのも登場してきた。いずれ映画は、「自宅でオンデマンド鑑賞」が普通になると思っている私は、さっそくU-NEXThuluのサービスを利用してみたが、どちらも期待レベルには今一である。まず月間利用料はどちらも定額だが、新作はすべて個別に別料金がかかる。定額で楽しめるのは旧作のみで、しかも観たい映画がすべて観られるわけではない。U-NEXTなど、「配信本数100,000本以上!」と謳っているものの、試しに検索してみた「ターミネーター」はヒットしなかった。料金的にはツタヤとほぼ同じ。となると、U-NEXTを選ぶ理由がない。

huluは定額料金は、月1,007円と前二社の半額であるが、ラインナップはU-NEXTと変わらない。安さだけではないので、やはりツタヤに軍配が上がる。他にもいろいろとサービスがあるが、それほど熱心に探しているわけではないのですべてを把握しているわけではないが、今のところこれといったものはない。ツタヤの難点は、1回につき2枚なので、3連休など「もう1本観たい」という時に対応できない点であろうか。こちらは郵送期間がどうしてもネックになるのである。

「観たい時に観たい映画をリーズナブルに観る」という形は、いずれ実現するのだと思う。そういう時代はもうすぐそばまで来ている気がする。その昔、『ターミネーター2』を観て感動し、ずっと手元に置いておきたいと思い、15,000円くらい出してビデオを購入したことがある。それが今ではビデオはDVDに置き換わり、いずれ観たくてもビデオデッキがなくなって観られなくなるだろう。「大枚叩いたのに」と恨めしく思うが、映像配信では「保管しておく」という概念がなくなるからこういうこともなくなるのだろう

既にスマホでも映画が観られるようになっている。わざわざスマホで観たいとは思わないが、人生の最後になって病院のベッドに横たわっている時に、iPadで映画を観られるのはありがたいかもしれない。その時に映画を観られる状態かどうかはわからないが、もし観られるとしたら、人生の最後に観たい映画は何だろうか。

今から考えておくのも良いかもしれないと思うのである・・・


【本日の読書】
シャーロック・ホームズの思考術 (ハヤカワ文庫NF) - マリア コニコヴァ, 日暮 雅通 臆病な僕でも勇者になれた七つの教え - 旺季志ずか  









2016年3月13日日曜日

広告の世

近頃、ネットのアンケートやゲームコンテンツを提供しているサイトを見ていて気がついた。そのサイトでは、ゲームやアンケートに回答するとポイントがたまる仕組みを提供している。ゲームは簡単なパズルゲームの一種であるが、途中やたらと商品のCMがポップアップで出てくる。

アンケートも同様に質問の上下にCMが表示され、そもそも質問も「こんなの聞いてどうするのだ」という内容だったりする。なんでか、と考えていて気がついた。これはゲームやアンケートという体裁をとってはいるものの、実は広告そのものなのだと。アンケート結果など、多分どうでもいいのだろう。

Googleなどの検索サイトやFacebookなどのSNSは、基本的に無料で利用できる。だが、サイトの運営には当然お金がかかる。それを支えているのは、「広告」による収入だ。これは民放のテレビと同じである。

先のアンケートも、アンケートと称して利用者にページを次々と表示させ、そこにある広告を見させるのが目的なのである。それが証拠にアンケートの質問は、どうでもいいような内容だし、真面目にアンケートのみを目的としている「マクロミル」などのサイトでは、商品広告は一切ない。無理やり広告を表示させても、ゲームやアンケートに答える人が見るかどうかわからないし、そんなんで広告価値はあるのだろうかと疑問に思うが、それでも「表示させた」というだけでお金は取れるだろうから、構わないのかもしれない。

そういえば、広告の世界は広く、中には自家用車をペイントして広告にしてしまったり、自分の顔を広告スペースとして売っている例があるのを以前何かの本で読んだことがある。不特定多数の人にとにかく商品を告知させるという目的に合いさえすれば、媒体はどんな形でも構わないのかもしれない。

となると、その応用で何かいろいろとできそうな気がしなくもない。例えば、今会社の主業務は不動産賃貸業であるが、何らかの手段で広告収入を得られれば、「タダで住める部屋」というのを提供できるかもしれない。もっとも、広告の目的は「不特定多数の人に商品(サービス)を知らしめること」とするならば、部屋に住んでいる特定個人が対象では難しいかもしれない。もう少し何か大々的なスケールで考えることが必要かもしれない。

それにしても広告というのは、テレビのコマーシャルもネットの広告も煩わしいからない方がいい。しかし、なければタダでサービスが手に入るという今の便利さが失われてしまう。そういう事業では、広告がその根幹を成しているわけで、そうなると無碍に否定もできない。誠に不思議な存在と言えるかもしれない。

そもそも世の中は物を売り買いすることで成り立っているわけだし、それには広告も一定の役割を果たしている。回避しようとするよりも、うまく付き合うようにした方がいいのかもしれない。さしあたっては、何か自分たちの事業と絡められないか、を考えてみようかと思うのである・・・



【今週の読書】
あの人はなぜ、東大卒に勝てるのか - 津田 久資 シャーロック・ホームズの思考術 (ハヤカワ文庫NF) - マリア コニコヴァ, 日暮 雅通





 

2016年3月9日水曜日

世の中は感情で動くと思うのだが・・・

日本人は議論下手だと言われる。
国際会議などになると、それが顕著に表れるそうである。
なるほど、それはよくわかることだと思う。

私自身はというと、平均よりは議論上手だとなんとなく思う。物事は筋道立てて考えるのが好きだし、筋の通らないことを言うのは嫌いだし、自分の語る内容は、筋道立てて論理的だと思う。だが、それがかえって災いすると感じることが多々あるのも事実である。

「議論下手」の背景は、「以心伝心」、「目は口ほどにものを言い」の文化だろう。「世の中理屈じゃない」、「正論がすべてではない」とは私もよく言われるし、耳にもする。そしてそのたびに理不尽な思いをさせられる。「理屈じゃなきゃ何なんだ」、「正論が通らない世の中ってなんだ」と思わざるを得ない。

「お前にとっては正論でも他人には違う」
それもその通りである。だから互いに正論をぶつけ合い、議論すればいいのである。そうして論理的に考えていけば、どちらの意見がより正論かということがわかる。つまり、「正論が通る=(正論がすべて)」なのである。要は単に自分の意見が筋が通っておらず、途中でおかしなことに気付いたが、そのまま引っ込みもつかず、最後は「世の中正論じゃない」と逃げているだけのように思う。

しかし、人は感情の生き物である。好き嫌いは理屈ではない。いくら正論を主張されても、受け入れられないものは受け入れられない。そういう場合、いくら正論を吐いても通用しない。私が親に疎まれるのも、常に徹底して正論を強く主張するからである。

論理的に反論してくれれば、筋道立てて考えて納得できなければさらに意見を返せるし、それは多分健全な議論になる。ところが、返ってくる反論が「非論理的」なものだとそうはいかない。当然、論理的に考えていくと納得できるものではない。

そこで大事なのは感情的なもので、論理は関係ない。それにそもそも論理的に考えることに対する拒絶感もあると思う。「考えるのがめんどくさい」という知的に怠惰な態度である。学校の教育の影響もあるのかもしれないが、こういう人はかなりいる。また、話は好きなのだが、何を言わんとしているのかよくわからないというパターンもある。質問と言いながら、長々と自説を語り、結局話の要点がわからないというパターンである。

目上の人に意見を言う場合や、仕事などでは筋の通った話をするのは当然だと思う。だが、それで親をいつも追い込み嫌な顔をされているのも事実であるし、仲間内で話をする時も、「また始まった」という反応をされるのもよくあること。わかってはいるが、それを避けようとするともう黙るしかない。議論の文化が育たないわけである。

「これからはグローバル社会だから」と子供に英語を習わせる親は多いだろう。だが、たとえ英語が話せても論理的思考ができなければ、当然外国人と議論などできないだろう。そうした論理的思考を養うためには、国内で親がしっかりと子供と筋道立てて話をする習慣をつける必要があるのではないだろうか。少なくとも「世の中正論がすべてではない」などと言って感情論で押さえつけるような真似をしていてはいけない。

人と人とのつながりは、心と心とのつながりであり、理屈の世界ではなく感情の世界である。それは十分に理解できるが、議論すべき時はしっかり議論できるようでないといけない。たとえ疎まれても、自分の考えはこれからもしっかり論理的に主張していくことはやめないだろう。たとえそれで嫌われても、だ。そこは「感情論」として譲れないところだ。そんな風に思うのである・・・




【本日の読書】
ブロックバスター戦略―ハーバードで教えているメガヒットの法則 - アニータ・エルバース, 鳩山 玲人, 庭田 よう子 ホームページで売上があがる会社、あがらない会社、何が違うか - 石嶋洋平

 




2016年3月6日日曜日

働き方の今昔



転職をし、大企業を離れ中小企業に移って一年強。今、仕事が楽しい。
中小企業だし、大企業と比べると将来的な安定度は「吹けば飛ぶよう」であるが、そうした不安と背中合わせであろうと、奮闘するプロセス自体を楽しんでいる。

大学を卒業し、銀行に就職した昭和63年。八王子にあった初めて配属された支店の直属の上司は、「仕事が趣味」と公言していた。私には理解不能なことだった。当時は今と違い、日本人の働き過ぎが海外から批判されていた時代で、支店の人たちもよく働いていた。と言うより、「働かされていた」というのが正しいと今では思う。

とにかく、仕事に行くのが苦痛だった。支店の雰囲気も悪かった(若手同士は非常に仲が良くて楽しかったのだが・・・)初めてボーナスをもらった時、支店の外回りの人に、「ボーナスもらったの?」と聞かれた。「はい!」と元気よく答えたところ、「いいねぇ、仕事もしないのにボーナスもらえて」と嫌味を言われた。4月に銀行に入って6月では、確かに戦力にはなっていない。だが、それはみんな同条件であり、その人だってそうだったはず。なんでそんな嫌味を言う必要があるのかと疑問に思うところだ。

そんな中で楽しみにしていた夏休み。2年目から銀行も土曜日が休業になり、5日間の夏休みを月曜日から取れば、「9連休」が取得できることになった。ところが「仕事が趣味」の上司は、自身2日程度しか休みを取らないのはいいとして、部下の休暇もすべて「水曜日スタート」で決めてしまった。水曜日スタートだと7連休にしかならない。それでもありがたいのだが、どうせ同じ5日間だ。「月曜スタート」にしてくれれば、少しでも長く休める。そこにあったのは、「働くのが美徳」という意識ではなく、「休むことは罪悪」という意識であった。ちなみに今では基本的にみんな「月曜スタート」が当たり前になっている。今も昔もそれでまったく仕事に支障はない。

さらにその休み期間中も、毎日支店に連絡を入れさせられた。自分の留守中に何か起きていないか、起きていればそれに対する対応を伝えるためだった。せっかくの休みなのに休んだ気がしない。それでも国内にいる時はまだいい。問題は海外に行った時だ。

私も20代後半には夏休みに海外旅行に行っていた。ある時、海外に行ってまで電話なんかしたくないと、あえて連絡を入れなかった。そしたらなんと滞在先のホテルに上司から国際電話が架かってきた(当然、旅行スケジュールと滞在先の連絡先は伝えてあった)。よほどの緊急事態かと、慌てて折り返しの電話をしたところ、「電話がないから」というのが、その驚きの理由だった。

その場で業務に関する質問を受けたが、それは事務的な話で、わからなければ本部の事務セクションに問い合わせれば済むことであった。「こちらから(事務セクションに)電話して聞きますか」と聞いたところ、さすがにそれはいいということだった。ちなみに、今では「休み中に電話をする」こと自体タブーとされていて、「お互い様だから残ったメンバーでなんとかする」というのが当たり前のいい時代になっている。

およそ勉強も仕事もスポーツも、目標を達成するためには困難は付き物である。辛いこともあるかもしれない。しかし、辛いことばかりがすべてでは、当然ない。そのプロセスにあっては、少しでも喜びと楽しみを求めることも悪くない。むしろ楽しんでできるのであれば、それが一番である。

その考えは、新人時代のあの頃から少しも変わっていない。変わったのは、時代と環境だろう。今の自分があの頃に戻っても、あの環境の中ではだいぶストレスを溜め込むことだろう。今も必要があれば、夜遅くとも休みの日であろうとも働く意欲はある。楽しければ、そういう気持ちにもなる。精神的な健康は、何よりも業績への効果も高いのではないかと思っている。

これから後何年働けるかはわからないが、「仕事が趣味」と言えるくらいの気持ちで働きたいと思う。それはあの頃の上司と同じ言葉であるが、その姿はまったく違う。自分だけでなく、周りの人も楽しんで参加出来るという点で、あの頃のあの支店とはまったく異なる雰囲気の職場にしていきたいと思う。

今は誰もが楽しく働けるいい時代なのか。今でも「休むことが罪悪」という職場があるのかはわからないが、自分にはもう無縁の世界にしたいと思うのである・・・

【今週の読書】
ブロックバスター戦略―ハーバードで教えているメガヒットの法則 - アニータ・エルバース, 鳩山 玲人, 庭田 よう子 最高の答えがひらめく、12の思考ツール ―問題解決のためのクリエイティブ思考 - イアン・アトキンソン, 笹山 裕子 





   

2016年3月2日水曜日

なぜ日本で再チャレンジが困難なのか

今、『ビジネススクールでは学べない 世界最先端の経営学』という本を読んでいる。その中で、「倒産法制が起業に影響する」という指摘があった。曰く、「手続きスピードが早いほど、手続きコストが低いほど、経営者の金銭的負担が低いほど、起業がしやすい」というもので、「この点で我が国は起業しにくい」と。よく言われる指摘である。

確かにそれは事実である。かつて銀行にいて、不良債権部門にいたからこの点ではその通りであるが、物事には必ず裏表があり、一つの見方についてはまた別の見方があるというのも確かである。倒産法制についてもまたしかり、である。日本の場合、資金調達の主力は銀行である。そして銀行は、企業に融資する際、必ず代表者の連帯保証を取る。

例えば経営していた会社が破産となったとして、会社は清算手続きに入るが、同時に連帯保証人である経営者もともに破産というパターンが多い。連帯保証であるがゆえ、会社と同じ返済義務が課されるのであるが、当然個人で賄いきれるものではなく、したがって破産せざるを得ず、そうすると基本的にすべての財産を失うことになる。

一旦リセットされて、リベンジで起業しようとしても、無資力で海のものとも山のものともわからない新規事業に銀行はなかなか融資ができない。さらに倒産を経験した経営者は、2回目の倒産の心理的ハードルは低く、「ダメだったらまた破産すればいい」と考えたり、あるいは密かに親族に資産を避難させていたりという不法行為をしたりする者もいて、銀行も警戒して簡単に融資には応じられない。

「そんなの銀行の勝手な都合だろう」という声も聞こえてきそうだが、銀行も背負っているものがあるからそうせざるをえない。ただし、銀行も簡単にリスクが取れる方法がある。それは、「貸した金が戻ってこなければ集めた預金もそれに応じて返さなくてもいい」とすることである。

銀行は確実に預金を払い戻さないといけない。日本では今や雀の涙ほどの預金金利にも関わらず、「安全」を求めて預金が集まってくる。それがゆえ、「安全第一」の貸し出しになるのは当然で、貸した金はもう返ってこないということが確定するまで返済を求めることになる。

それがおかしいというのであれば、自分の預金が銀行の貸出運営の成績によって減ってもよいかと自問してみる必要がある。ほとんどすべての人にとって、そんな質問は愚問だろう。例えば「100件投資してその中で99件が失敗しても残り1件がすべての損失を上回る大成功を収めればいい」というような投資家であれば、気前よく資金を出せるだろう。倒産しても、「もう一回!」と簡単に応じられるだろう。その差は、要は「資金の出処」の違いなのである。

しかし、銀行だって融資のプロだろうという声も聞こえてきそうだが、はっきり言って事業の成否なんて神様でしかわからない。ソフトバンクだってユニクロだって危機はあったわけだし、ソニーやシャープでさえ苦境に陥っているし、安全神話の象徴だったJALだって倒産している。銀行員に100%確実な目利きなんてできるわけがない。できるのは、実績に基づいたある程度の将来の見込み等により銀行内で「それなりに説明のつけられる」融資のみである。

問題は銀行だけでもない。債権者の中には一般企業もある。銀行だけではなく、そうした一般企業も売掛金などの債権を簡単に放棄すれば、それは手続きのスピードも早くコストも安くなるだろう。自分が債権者だったとして、その金額が小さくなかったとしたら、「まぁいいか」と簡単に全額諦められるだろうか。立場を変えてみれば、違う世界が見えてくる。

「倒産法制が起業に影響する」というのは事実であろう。そしてその倒産法制は、起業家ではなく、債権者にどれだけ配慮しているかということに他ならない。物事は裏表よく見て判断しなければならないのである・・・


【本日の読書】
ビジネススクールでは学べない 世界最先端の経営学 - 入山 章栄 ブロックバスター戦略―ハーバードで教えているメガヒットの法則 - アニータ・エルバース, 鳩山 玲人, 庭田 よう子





2016年2月28日日曜日

哲学の世界

浅田彰の『構造と力―記号論を超えて』を読んだ。
いや、正確に言えば、「読み始めてやめた」である
。哲学書である事はわかっていたし、それでもベストセラーになった有名書でもあり、大いに知的興味をそそられて手に取ったのであるが、読む事は出来ても理解することはあまりにも難しく、途中で断念したのである。

「難しくてわからない」と言うのは、正直言って苦痛である。わからないならわかるように努力すべし、とこれまでやってきたし、そうした努力をせずに放り投げるのは如何なものかと思うが、「そういう努力をする価値があるのか」と考えると、その時間を他の本(まだまだ「積ん読リスト」は果てしなく溜まっている)を読む時間に充てた方がいいと判断したのである。

難しいのはなぜなのか、を考えてみた。
例えば第1章の冒頭に次のような文章がある。
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エントロピーの増大による一様化・無秩序化に杭しつつ、「ネゲエントロピーを食べる」こと、即ち「エントロピーを捨てる」ことによって秩序を維持している局所系。「エントロピーの大海の只中のネゲエントロピーの小島」、これが生命である。このことが意味するのは、生命が動的解放系であり、自らの構造と内外の諸過程を情報によって制御しているということに他ならない。
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読んでみても何を言っているのかよくわからない。

ここで「エントロピー」という単語の意味を調べると、「無秩序の状態」であるらしく、「エントロピーが増大する」とは「秩序ある状態から無秩序の状態への変化」ということだと分かる。そうすると、それを突破口に何となく全体の意味もわかってくる。それで読みこなせたという満足感は得られるかもしれないが、そこで冷静に考えるもう一人の自分が出てくる。「たかだか生命を言い表すのに、そんなに複雑に説明する必要があるのだろうか」と。

よく、「頭の良い人というのは、難しいことを簡単に説明できる人」だと言われる。だとすれば、哲学者は「簡単なことを難しく説明する人」であり、したがって馬鹿者だということになる。さすがにこれだけの本を書く人を、あるいは歴史に名だたる哲学者を馬鹿者というのは気がひける。ただ、素人に理解できないものを書いているのは事実である。

もっとも哲学とは、ただ簡単なものを難解に説明しているものでは、当然ない。先の文章も、単に「生命とは」と説明しているのではなく、それを「秩序」という概念と絡めて考えているのであり、そうした思索そのものが哲学なのだと思う。そしてこれは素人のために書いていると言うよりは、「わかる人」に向けて書かれているということができる。

それは、「エピステーメー」「ハイアラーキー」「ファナティック」「方向=意味(サンス)」「メタフォリック」「コスモス、ノモス」「ポトラッチ」などの単語が、ごく当たり前に理解されているものとして使われることからもわかる。そこには、当然それらの言葉の意味を学んで理解しているという前提がある。そうしたレベルに達していなければ、たとえ私のように一応名の通った国立大学を卒業している人間であっても、読みこなせないということになる。

似た例としては絵画がある。例えばミレーの絵などは個人的に見ても分かるし好きであるが、ピカソの絵はどこがいいのかわからない。わかる人は、多分絵画に造詣が深い人なのだろうが、芸術的センスや造詣の浅い一般人には理解できないだろう。この本もそういう類のものだと言える気がする。

例えば大学時代に読まされた法律の専門書などは、一読してすんなり理解できるというシロモノではない。学びながらやがて読みこなせるようになっていくもので、それは技術系の専門書にしてもそうであろう。研究者間での「専門用語」が羅列されている専門書は、とても素人には読めない。そう考えれば、この本が難しくて理解できないとしても、別に恥ずべきことではないと言える。

もっとも、一つ一つの単語の意味を調べ、難解なところは繰り返し読めば、多分理解できそうな気はする。その点では、どう考えても理解できそうもないピカソの絵とは次元が異なるといえ、親和性と言う点においては、はるかに近いと言える。ただそれは通勤電車の往復の中でできるものではないというだけのことである。

いずれそうした時間をとって、じっくり研究してみるのもいいかもしれないと思う。基本的にその手の哲学は好きであり、苦にはならないと思う。そういう意味では、かつて読みこなそうとして途中で断念してしまったキルケゴールの『死に至る病 』なんかも読んでみたいと思う。

途中で断念したとはいえ、知的好奇心を大いに刺激された一冊であることは間違い無いのである・・・

【今週の読書】
イノベーションと企業家精神【エッセンシャル版】 - P.F.ドラッカー, 上田 惇生 ビジネススクールでは学べない 世界最先端の経営学 - 入山 章栄





2016年2月24日水曜日

高校受験

本日は都立高校の受験日であった。詳しくはわからないが、「第一次募集」というものらしい。我が家の娘がちょうど高校受験であり、第一志望が都立高校ということもあって、本日朝、やや緊張した面持ちで出掛けて行った。

自分が高校を受験したのは、考えてみるともう37年前ということになる。やはり都立高校を第一志望とし、同レベルの私立高校といわゆる「滑り止め」私立高校と合わせて3校を受験した。幸い3校ともすべて合格し、家から歩いていける距離にあった都立高校へ進学した。

当時都立高校は、「学校群制度」という制度下にあり、日比谷、九段、三田高校が構成する「11群」以下、各高校が23校で「群」を構成し、受験生はこの「群」ごとに受験し、合格者は任意に「群」を構成する高校に割り振られた。つまり、「日比谷高校に行きたい」と思って「11群」を受験し合格しても、実際に日比谷高校に行けるかどうかは運次第で、九段高校や三田高校に振り分けられる可能性があったのである。

私の志望校は近所にあった「14群」の高校で、幸いなことに試験に合格し入学も希望通りであったが、合格発表のその時まで、「合格するかどうか」以上に「希望校に入れるか」でハラハラドキドキしたものである。思えば、これが人生で最初に体験した「試練」であった。

それまでは、義務教育下、何の試練もなく当然のことのように進学し、たまにテストの成績が悪かろうと答案用紙を隠滅すれば済む話であった。ところが受験となるとそうはいかない。下手をすると、「行く高校がない」という事態になる。今から思うと大したことはないのであるが、やはり15歳の少年にとっては大いなるプレッシャーであったのである。

当時は、自分で志望校を決め、私立の受験校も決めて願書も自分で(あるいは友達と)もらいに行き、合格発表まで含めてすべて一人でやった。そんな慣れない行為の中で、不安も高まって行ったのだと思う。合格発表の前日、近所の都立高校の校門前までいき、古ぼけた校舎を見ながら「ここに行きたい」と強く思ったのを覚えている(そしてなんとなく自分はここに行けるという思いも湧いていた)。

そんな試練は、15歳にとってはいい経験であったと思う。人生最初の試練としては、程よい大きさであったと今でも思う。そのあとの大学受験はもっと大きな試練だったし、社会人になっても大波小波いろいろとある。だが、こうした大波小波は人生にはつきものだと思うし、それを乗り越えるたびに、「自立力」がついていくものだと思う。

翻って娘は、「母親と」高校見学に行き、「母親と」塾選びをし、「母親と」受験校を決め、そして受験すら一緒に出掛けて行った。ちょっと過保護な気もする一方、「女の子だから」という気持ちもある。今の時代背景もあるから、自分の時代と単純比較はできないが、果たして「人生最初の試練」として受け止められているだろうかという気持ちはある。

いずれにせよ、「不安との闘い」という意味では「試練」に違いない。今後の成長への第一ステップとなればと思う。何よりも第一志望の都立高校へ合格してもらいたい、と懐に手をやりつつ思うのである・・・

【本日の読書】
イノベーションと企業家精神【エッセンシャル版】 - P.F.ドラッカー, 上田 惇生 アンナ・カレーニナ(下) (新潮文庫) - トルストイ, 浩, 木村