【原文】
問人於他邦、再拜而送之。康子饋藥。拜而受之。曰、丘未達。不敢嘗。
【読み下し】
人を他邦に問わしむるときは、再拝して之を送る。康子薬を饋る。拝して之を受く。曰く、丘未だ達せず。敢えて嘗めず。
【訳】
他国にいる知人に使者をやって訪問させる時には、再拝してその使者をおくられる。あるとき魯の大夫季康子が先生に薬をおくられたことがあったが、先生は病中拝礼してこれをうけられた。そしていわれた。「いただいたお薬が私の病気に適するかどうか、まだわかりませんので、今すぐには服用いたしません」
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この章は孔子の言動を記しているようである。さすがに後世に名の残る偉人であり、その言動は皆の手本としてふさわしいものである。通信手段もろくにない時代、他国にいる知人に用事がある際、自ら赴く以外にも使者を立てるという事が行われていたのであろう。その使者を見送るにあたり、丁寧な見送りをしたという事は、使者を軽んじる事なく、感謝の念を持って送り出したという事なのであろう。人に何かを頼む時には、大抵感謝の言葉をかけるだろうが、決しておざなりではない気持ちを込めたものになっているだろうかと思わなくもない。
後半は、いただいた薬に関しての言動である。何の病気なのかわからないが、相手も孔子のことを思って送ってくれたのであろう。それもこの時代のことだから、薬というだけで貴重品だったかもしれない。それをわざわざ送ってくれたのに「すぐに服用しない」というのも何か人の好意を無碍にしているようにも思う。しかし、ものが薬とあれば、効くか効かないかがすべてと言える。効く薬ならすぐに服用するのであろうが、効かないならその必要はないわけであり、感謝の中にも冷静な対応をしているようにも思う。当たり前と言えば、当たり前かもしれない。
興味深いのは、孔子のこの言動に対して、どうして弟子がこれを記録に残そうと思ったのかである。単にある日の言動を記録しただけなのかもしれないが、何か感じるところがあったから記録に残したようにも思う。何でもかんでも疑いなく取り入れるのではなく、慎重に行動する姿に感銘を受けたのであろうか。一言、感想を添えて欲しかったと思わなくもない。貴重品だったとすると、それでも価値ではなく効能に目を向けたところが、さすが師匠と思ったのかもしれない。
一方、その背景を想像してみるのも面白い。薬を送った人は、闇雲に送ったわけではないと思う。孔子の様子を聞き、それならこれだと思う薬を送ったと推察される。孔子はそれを知っていたのだろうかと思うも、知っていれば服用しただろう。知らないから慎重になったのだろうと思う。しかし、貴重な薬を「効くか効かないかわからない」からと言って放置もできまい。その薬はどうしたのだろう。効くか効かないか、確認はしたのだろうか。
効能を確認する方法としては、よく考えれば飲んでみるしかない。そう考えると、「効くか効かないかわからないから飲まない」という言葉と矛盾する。もっとも和訳には「今すぐには」という原文にはない言葉が挿入されている。和訳者もそこに気づいたのだろうかと深読みしてしまう。「今すぐには」と入れることによって、矛盾が解消される。「体の状況に合わせて試して飲んでみることにした」とすれば筋が通る。和訳も適当に訳しているのではないだろうと思う。あれこれと状況を考え、抜け落ちていると思われる言葉を補ったのかもしれない。
もしもそうであるなら、和訳の世界も深いなと思わざるを得ない。しかし、言葉は変化するものだから、どういうプロセスを経てこの訳にたどり着いたのかも興味深い。単に原本だけを参照したのか、それとも古い和訳を参照したのか、中国の学者の解釈を参照したのか。例えば「ヤバイ」にしても、私の若い頃と今とでは使われ方が微妙に異なる。最近、息子が「ワンチャン」なる言葉を使っていて、何だそれはと思ったが、気をつけてみれば若者はけっこう使っている。言葉は変化するのである。
専門家ではないので、この訳は本当かなどと疑い出したら収拾がつかなくなる。よって訳はすべて正しいという前提で読んでいるが、ゆえに孔子は季康子の気持ちに感謝し、「あとでいただきます」という意味で言ったのだろう。ただ、それなら「効くか効かないかわからないから」などと微妙な言い回しをせず、「大事にいただきます」とでも言っておけば良かったのではないかと思う。やはり、何か事情があったのかもしれない。
論語もいろいろと読んで想像してみると面白いなと思うのである・・・
【今週の読書】


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