2014年4月27日日曜日

少年野球

 小学校3年になった長男。かねてからの予定通り、近所の少年野球チームに入る事になった。今日は入部希望者による体験練習に参加。約3時間ほどの練習をこなしてきた。

 高校からラグビーを始め、以来ずっと「ラグビー第1」でやってきた私だが、子供にスポーツをやらせるにあたり、ラグビーに対する拘りはそれほどなかった。
「野球かラグビーか」
やらせるとしたらそのどちらか、というのが元々の自分の考えである。

 さて、そんなわけで地元の少年野球チームの練習に息子を連れていく。近所の小学校のグラウンドが練習場であるが、今日は練習前によそのチームが試合をしていた。何気なく観戦。少年野球をまともに観るのは、それこそ何十年振りかもしれない。

 いきなり、打球がライトへ飛ぶ。ボールを取った選手が一塁へ送球してアウト。そう言えば少年野球で、「ライトゴロ」は珍しくない。打者は一塁へ出ると必ず盗塁する。キャッチャーがセカンドへ送球できればまだ良い方で、ほとんど余裕で盗塁に成功する。レフト前ヒットがホームランになり、レフトフライはポロリと落とす。

 それでもそれなりに試合が成立する。ゴロをさばいたサードが、ファーストへ送球する。ボールは届かずワンバウンドでファーストのミットに収まる。これがきちんとアウトになる。あとでわかったが、そもそも“届かない”というのを前提に考えている。ワンバウンドで投げるように初めから指導しているそうである。

 最近の少年野球の様子をインプットし、息子の体験練習を見学。息子はAチームとは別の、3年生以下のBチームに入る。同級生は3人。一人運動センスが良くて、声が出ている子がすぐ目につく。ちょっと華奢だなと思っていたら、何と女の子だった。Aチームにも女の子がいて、一応、「共学」になっているようである。

 練習は基礎練習。少し走って、キャッチボール。それぞれいろいろなバリエーションをつける。ベースを使って走塁練習。そして最後はバッティング。キャッチボールやバッティングは、それなりに経験があるが、何よりベースを使った走塁練習が息子には新鮮だったようである。

 全体の練習を観ていて印象的だったのが、一人のコーチ。かなり通る声で、檄を入れている。子供たちからすると、ちょっと怖いかもしれない。最近は、学校の先生もだいぶ優しくなっており、ちょっと気になるところ。こうした“鬼コーチ”の存在は、頼もしく感じる。

 練習が終わって、息子に意思確認したところ、「やりたい!」と力強い答え。いずれラグビーの楽しさも教えたいと思うが、まずは野球。これからしっかりサポートしつつ、チームスポーツを楽しめるように見守りたいと思うところである・・・


【今週の読書】
エンジェルフライト 国際霊柩送還士 (集英社文庫) - 佐々 涼子 64(ロクヨン)(下) D県警シリーズ (文春文庫) - 横山秀夫





    

 

 

2014年4月24日木曜日

外国人観光客の増加に思う

 仕事でスイカを使って電車で移動する。消費税が上がってから、いままでの10円単位が円単位になって、交通費の清算がややこしくなった。来年、10%に引き上げられるまでは、しばし面倒なのだろう。そんな消費税の増税であるが、やむを得ないと思いつつも、その先の増税もあるのだろうなと漠然と思う。

 そんなタイミングで、3月の日本を訪れた外国人観光客が過去最高の105万人に上ったというニュースを目にした。海外からやってくる人たちに、消費税の影響はあるのだろうかとぼんやり考えてみた。おそらく、であるが、まったくないであろう(もちろん、免税品は当然である)。かく言う自分も、海外に行った時に消費税を気にしてどうこうなどと言う事はない。せっかくのチャンスだからだ。

 と考えてみると、消費税だったらこうした海外からの観光客からも税金を取れるだろうという事に思い至った。どうせだったら、たくさんもらった方がいいだろう。一方で、国内の景気対策として法人税の引き下げが主張されている。財務省は、「財源が・・・」と言って反対しているらしい。所得税の減税は、個人・法人ともに消費刺激効果や設備投資誘因効果があると言われている。いっそうの事、消費税を20%くらいにして、個人・法人税をその分下げたらどうだろうと思う。

 外国人観光客が、昨年は1,000万人を越えたとニュースでやっていた。観光庁のホームページに記載されている資料によると、2013年の観光客の平均支出額(除く旅費)は、525,000円だと言う。これに伴う消費税は5%だったから、26,250円。1,000万人で、2,625億円という事になる。

 これが消費税20%になると、4倍だから1兆500億円。消費税が1%上がると、税収は2兆円増えると言われているから15%上がると30兆円増える。個人所得税と法人税の歳入が約25兆円だから、ここを税率0にしても尚5兆円税収が増える。年間の所得税が0になったら、個人的にかなり手取り収入が増える。企業も競争力が増して増益となれば、それを社員へ給与へという形で反映させられる。何だか良い循環が生まれそうな気がする。

 低所得者向けには、巷で言われているように食材を消費税の対象外にすれば、多少なりとも良いだろうし、それなら観光客もあまり買わないだろうから、消費税の税収に大きな影響はないだろう。それに観光客が100万人増えれば、単純計算で消費税は1,050億円増える。500万人くらい頑張って増やせば、5,250億円増える。

 少子高齢化対策として、移民政策を主張する人たちがいるが、これは危険な考え。外国人には定住でなく、観光で来ていただいて、たくさん消費していただくのが理想的だろう。この意味からも、観光客を国を挙げて誘致し、たくさん消費していただく。経済対策と財政再建と反移民対策とを兼ねたこのアイディアはどうだろう。

 機会があれば、専門家の方にこの妄想の感想を聞いてみたいと思うのである・・・


【本日の読書】
エンジェルフライト 国際霊柩送還士 (集英社文庫) - 佐々 涼子  64(ロクヨン)(上) D県警シリーズ (文春文庫) - 横山秀夫





 

 

2014年4月19日土曜日

カラオケ嫌い

 銀行では、異動が日常茶飯事。そして異動ともなると、必ず歓送迎会がある。一次会は大抵普通の飲食店であるが、二次会となると「カラオケ」となる事がほとんど。大の「カラオケ嫌い」の私としては、これがなかなかの苦痛である。

 カラオケが世に認知され始めたのはいつ頃からだろう。それらしき記憶を辿ると、たぶん大学に入った頃ぐらいか。当時はカラオケボックスなどなく、スナックなどで歌うタイプだった。飲んで楽しくやるための「1つの手段」だった。それが今や「目的」になっていて、飲むのはさらに楽しくやるための「手段」だ。
 
 もともと、飲んで歌うのは遥か昔からの習いだ。時代劇でも宴席で歌を歌うシーンはよく出てくる。それは海外でも同じようなものだろうと思う。それ自体悪くないし、「カラオケ嫌い」と自称していても、みんなが歌っているのを聞くだけならいくらでも楽しく参加できる。ただ、自分が「歌わされなる」のが迷惑なのだ。

 この「歌わされる」というのがミソだ。カラオケに行けば、好きな者からリクエストを入れて歌い始める。そうして次々にマイクを回していく。好意的に解釈すれば、「自分だけ歌うのは悪い」「他の人にも平等に機会を」という考え方なのだと思うが、酔いもあってか、歌うのを辞退する人に“察する”人は少ない。

 他人の歌を聞いているだけで、十分満足しているのに、そうした配慮はやがて「歌わない罪悪感」へと変わっていく。この「空気を壊す」感は、耐え難いものがある。行って「空気を壊す」か、行かずに「付き合いの悪いヤツ」となるか、この選択は悩ましい。どちらも選べない時は、「自分を殺して歌う」しかない。

 その昔、取引先との宴席で、やっぱりカラオケとなった事が多々あった。こうした時は、仕事ムードでマイクも握る。さすがにそこまで偏屈ではない。それなりにウケた時代もあって、上司の指名で必ず歌わされていた事もあったが、友達同士や気の置けない職場の同僚との間では、自分も楽しくやりたい。なかなか難しいところである。

 なぜカラオケが嫌いなのかと考えてみても、これは好き嫌いだから理由などあってないに等しい。野球が好きな人がいれば、バスケットボールが好きな人もいる。それぞれ理由を挙げればいろいろとあるだろうが、それに大きな意味はない。理由などいくらでもつけられるし、究極のところ己の感性にあっているかいなかの部分だろう。

 一人の時に音楽を聞いていて合わせて鼻歌を歌ったりはするし、湯船につかってと言う事もある。歌が嫌いというわけではないが、全体的な雰囲気みたいなものなのかもしれない。ただカラオケが好きではない事は確かだし、仕事以外で本来一人一人が楽しむべき時であるなら、他のところへ行きたいと思うのである。「歌わないヤツがいても気にならない」という仲間となら、カラオケに行っても楽しめるだろう。

 ただ世の中、「好き」派が圧倒的多数だろうから、なかなか少数派としては苦しいところだ。いつか廃れるだろうと思っていたカラオケブームだが、もうそれに期待するのは無理そうだ。それなら仕方ない、うまく「空気を壊さない」様、「付き合いが悪くない」様立ち回っていくほかない。そうしたうまい立ち回りを研究しつつ、世の中を渡っていきたいと思うのである・・・

【今週の読書】
「勇気」の科学 〜一歩踏み出すための集中講義〜 - ロバート・ビスワス=ディーナー, 児島 修 64(ロクヨン)(上) D県警シリーズ (文春文庫) - 横山秀夫





        

 

 

 

2014年4月13日日曜日

練習再開

 昨年思い立って大学のラグビー部のシニアチームに参加。“諸先輩”と混じって、練習する事にした。ところが、急激に運動したためかアキレス腱が炎症を起こし、そしてそれがなかなか治らないまま半年以上。ついにまるまる一年の“休部”となってしまった。

 捲土重来。
今回は前々日に軽く近所を走ってから、練習に臨む。何せまともに走るのは一年振り。ちょっと走っただけなのに、軽い筋肉痛が体に残る。それでも春の穏やかな日差しの下、人工芝のグラウンドに立つ。

 集まったメンバーは12名。最高齢は72歳。参加者の中では、たった二人の40代メンバーの一人だった。かつては、「タックルができなくなったらラグビーはやらない」と考えていた。年寄りがよれよれのまま“ラグビーもどき”をやるなんて“みっともない”と考えていたのだ。

 しかしだからと言って運動そのものを否定したわけではなく、ジョギング代わりだと思えばいいかもしれないと考え直した経緯がある。それに、もともと黙々と走る長距離走が大嫌いときている。ボールを持って、強弱つけて走る運動だと考えれば、むしろ好ましい。

 やってみれば、昔取った何とかで、パスは思った通りのところに行くし、パント(ラグビーのキックだ)もイメージ通りに行く。イメージ通りでないのは走る事だけで、頭の中の自分が遥か先を走っている状況は変わらない。ボールを持って走って、パスして、蹴って。何だか楽しいのは、たぶん子供が遊ぶのと同じ感覚かもしれない。

 途中でコンタクトプレーの真似ごとが入る。ボールを持って軽く相手にあたるのである。ラグビーの神髄は、このコンタクトプレーにある。「相手に(意図的に)あたる」という行為は、数あるスポーツの中でもそんなに多くない。相手を倒すのがルール上認められているのは、アメフト・ラグビー系だけではないかと思う。それだけにやはり重みのある行為である。

 現役の頃は、シーズンオフになると、この「相手にあたる」という感覚がまず鈍ったものである。相手にあたった衝撃で、体にコンマ何秒かの空白ができる。ふだん十分練習していれば空白はできない。この「空白感」で、己の体の鈍り感がわかる。今は相当なものである。

 続いて軽くスクラムの形をとる。本来の押し合うような事はしないが、お互い体重をかけるだけでもだいぶ違う。走るだけに比べると、あちこちの筋肉にかなり負荷がかかると思う。その効果があり過ぎたのか、ここで左足に違和感。現役の頃の感覚では続けてやってしまうのだが、去年の教訓もあってここで練習をストップする。急激にやるのはよくない。

 練習後に部室の風呂に入って帰る。次回は一ヶ月後。まずは最後まで練習できるところからだろうか。少しずつ家でも走ろうと決意して帰宅。

「せっかくおしゃれな国立まで行ったのにケーキの一つも買わずに帰ってきたの?」
帰るなり妻に言われてしまったが、他の人にはおいしくもなんともない収穫があったのは事実。来月からまた汗を流す楽しみを味わいたいと思うのである・・・

【今週の読書】
ハーバード白熱教室講義録+東大特別授業(上) - マイケル サンデル, NHK「ハーバード白熱教室」制作チーム, 小林 正弥, 杉田 晶子  ライス回顧録 ホワイトハウス 激動の2920日 - コンドリーザ・ライス, 福井 昌子, 波多野 理彩子, 宮崎 真紀, 三谷 武司




     

 

 

2014年4月8日火曜日

Point of No Return

 先日、輸入業を営むある会社の社長さんにお話しを伺った。海外に知己の多いその社長さん、何人かの知人に資産を海外に移した方が良いと言われているらしい。近年、シンガポールあたりに移住するお金持ちが増えているらしいが、単に税金が安いというだけでなく、日本の財政破綻に備えるという意味もあるようである。

 日本の財政赤字については、もうかなり国民の間に浸透していると思う。だが、危険性が主張される事はあっても、ではどうしようという事にはならない。平成26年度の予算も50兆円の収入(歳入)に対し、96兆円の支出(歳出)という状況。今月から消費税が上げられたが、今年度はそれによる税収増を見込んでのものだから、せっかくの増税も「焼け石に水」という気がする。よく例えられるように、「年収500万円の人が、960万円の支出の生活をしている」状況である。

 普通に考えれば、このままいけばどこかで必ず破綻する。「日本には家計金融資産が1,600兆円あるから大丈夫だ」というような声もあるが、それは「破綻しても外国に迷惑をかけない」という意味で、「破綻しない」という意味ではない。言ってみれば、銀行から借金しているのと、身内から借金しているのとの違いみたいなものであろうか。「大丈夫」という意味は、「いざとなれば国民に負担を押し付けられるから外国には迷惑をかけない」という事なのかもしれない。

 では、破綻したらどうなるのだろう。社長さんは、「資産を外国に移せ(例えばドル資産など)」と言うが、移すほどもない身としては、そんな事言われてもどうしようもない。沈みゆく船と運命を共にするしかない。一体どうなるのだろう。

 まず国債がデフォルトとなれば、元金の償還と利息の支払いがストップする。国債を持っている銀行などは、預金の払い戻しが困難になるのだろう。仮に潰れないとしても、預金の一部しか下ろせないという事になるのかもしれない。まぁそれで困るのはお金持ちくらいかもしれないが、銀行もお金を貸せなくなるから、借りられなくなった中小企業への波及効果となると、測り知れない。

 何せ税収は50兆円しかない(50兆円を維持できれば、の話だが・・・)。借金ができなければ、この範囲内でやりくりするしかない。社会保障費が今年度は30兆円だから、やっぱりここが一番大きい。地方交付税16兆円は無しにしたらどうなるのだろう。必要な財源は地方税の増税で、となると人口の少ない地方は大変だろうか。6兆円の公共投資は、全体から見ると意外と少ないと感じる。最低限の投資に抑えたらどうなるのだろう。

 国債がデフォルトとなると、その波及効果もあるだろうから、素人にあれこれ想定するのは不可能だが、年金や医療費などは半減くらいは覚悟しないといけなくなるのだろう。生活できない人だって出てくるだろう。終戦直後よりはマシかもしれないが、かなり酷い状況になるに違いない。

 そうなったら、“第二の敗戦”とも言うべきで、そこから底力を発揮してまた復活できるだろうか。今だったら、頑張って家族の為、国家の復活の為、何でもやって働こうという意欲はあるが、問題は「その時がいつになるか」だ。人生50年と言われた時代ならもう終わりの年齢になると、不安なのは「その時体が動くかどうか」だ。場合によっては、自ら「食い扶持を減らす」事を考えないといけないかもしれない。

 もういい加減、どこかで引き返してほしいと思うが、どうなんだろう。ひょっとして、“Point of No Return”はもうとっくに過ぎてしまっているのだろうか。政治家にどうのこうのと言うのではなく、もう自分達で止めないといけない気がする。「アメリカと戦争をしても勝てない」とわかっていたのに、その道を進んでしまったかつての我が国。今度は違う道で同じ事をしてしまうのだろうか。そろそろ何とかしなければ、と強く思うのである・・・


【本日の読書】
「自分年金」はこの3つの銘柄で作りなさい! - 北浜 流一郎 オリバー・ストーンが語る もうひとつのアメリカ史 1 2つの世界大戦と原爆投下 - オリバー ストーン, ピーター カズニック, 大田 直子, 鍛原 多惠子, 梶山 あゆみ, 高橋 璃子, 吉田 三知世 ライス回顧録 ホワイトハウス 激動の2920日 - コンドリーザ・ライス, 福井 昌子, 波多野 理彩子, 宮崎 真紀, 三谷 武司




  

 

 

2014年4月1日火曜日

新年度雑感

 何だかあっという間に春になった気がする。そろそろと思っていた桜がもう満開。この時期の朝は、いつも若干遠回りして、あえて桜の木のあるところを通って通勤しているが、その桜もすでに咲き乱れていると表現して間違いない状態である。

 そしていつもの時間に銀行の本部ビルに着くと、新入行員が大挙して入口から入ってくるところだった(こちらは職員用の通用口から入ったが、彼ら彼女らも明日から通用口だ)。また1年、社会人としてのキャリアを積み上げた事になる。

 昼食時、行員食堂に行ってメニューを見ると、全品値段が10円上がっている。消費税アップを実感した最初の体験だ。当然、中味はいつもと変わりない。何だか損した気分がしたからというわけではないが、思わずご飯大盛りにしてしまった(ご飯の量によって値段は変わらない)。

 妻はスーパーで混乱したらしい。何せ値段表示がスーパーによってバラバラ。新税価格での表示に税抜き価格表示に両方併記とあり、いつもなら瞬時に「どこが安い」と判断するコンピューターが、働かなかったようである(妻のコンピューターは価格比較は早いが暗算機能はついていないのである)。

 さて、せっかく(?)上がった消費税であるが、どうも気分はよろしくない。政府は、「増税分はすべて社会保障に充てる」と宣伝しているが、そんなのはまやかしだ。全体の収入があって支出があるわけであり、消費税を社会保障にまわしたところで他の税収を無駄に使っていたら意味はない。それに増税しても(全体で)赤字には変わりないんだし・・・

 財政改善にはやはり「支出削減」が“いの一番”に行われるべきだ。近所では娘の通う中学校のど真ん中を通る道路計画がスタートした。話題となっている「マッカーサー道路」くらいの規模ならわからなくもないが、何で我が街の住宅地に道路を通す必要があるのか?この分、少しでも予算を削減できると思う。

 そもそも税金の使い道に、「必要か」という観点から考えるのは正しくない。答えはみんな「必要」となるのに決まっている。我が街の道路計画だって、必要な理由ならいくらでも説明してくれるだろう。そうではなくて、「無くても済ませられないか?」と考える事が必要だろう。そうすれば、「何とでもなる」となるだろう。道路計画については、住民からの希望を募ってもいいだろうと思う。

 たかだか小さな街の道路だが、武蔵小山の我が実家も道路拡張で立ち退きの話が出ている。ちょっと足を伸ばした隣の保谷でもいつのまにか新しい道路ができている。「ちりも積もれば山となる」ではないが、こういう道路一つ一つについて、「無くても済ませられないか」と問うていけば、随分削減できそうな気がする。

 消費税以外にも社会保険料やガソリン税、配当課税なども「こっそり」増税になっており、サラリーマンの懐にはじわりじわりと影響がきそうである。これで最後にどかんと「国庫破綻」となったら、どうするのだろう。まあ大海原で、船が沈没する時に自分だけ助かろうと思っても無理だろう。「みんなで沈めば怖くない」のだろうか。

 新年度入りして気分新たに行きたいところだが、何となく悶々としたスタートとなった感じがする。せめて気持ちだけでも明るく行きたいものである。当分は、夏休みのハワイ旅行に向けて、明るく頑張ろうと無理やり思う事にしたのである・・・
 

 【本日の読書】
オリバー・ストーンが語る もうひとつのアメリカ史 1 2つの世界大戦と原爆投下 - オリバー ストーン, ピーター カズニック, 大田 直子, 鍛原 多惠子, 梶山 あゆみ, 高橋 璃子, 吉田 三知世 ライス回顧録 ホワイトハウス 激動の2920日 - コンドリーザ・ライス, 福井 昌子, 波多野 理彩子, 宮崎 真紀, 三谷 武司





   

 

 

 

2014年3月28日金曜日

まだ塾へ行くの?

 妻と娘の教育を巡って議論となった。
この春中学2年になる娘。中学受験を期に、近所の学習塾に通い始めた娘であるが、受験が終わって中学生になっても続けて通っている。
「塾へ行くの?」
熱心なのはいいのだが、週末も塾の宿題やらで忙しそうにしている姿を見て、何となく疑問に思っていたのである。

タイミングとしては今だろうと思って、思い切って妻に切り出した。
「1年間、塾を休ませたら?」
勉強ももちろん大事であるが、娘は学校のテストでは常にトップ10に入っている。もちろん、通っているのは近所の普通の公立中学だし、だから安心というわけではないのはわかっている。だが、そんなにあくせくする必要もないだろうと思うのである。

ところがこの提案に妻は猛反対。
レベルの高い都立高校に行くためには、十分ではないそうである。ここからお互いの意見は真っ二つ。私は学歴を絶対視していない。いわゆる「良い高校へ入って、良い大学へ入って、一流の企業に就職する」という事にどれほどの価値があるのかと考えている。

もちろん、本人が希望するならそれはそれで良い。
だが、今の段階で親がその路線を引くのはいかがなものかと思う。それよりもその都度そばに寄り添い、迷ったら相談に乗るとか、その時点で考えられる選択肢をいろいろ提示して上げるとか、あるいは考え方を教えるとかすればいいと思う。結果的に、一流と言われる高校・大学・企業となったのなら、それはそれだ。

だが、妻の意見は違う。
将来何になるかわからないからこそ、「(一流校に行けば)選択肢が広がる」と妻は主張する。それはそうだが、今からダッシュする必要はない。すでに進研ゼミの通信教育もやっているのだし、それだけでも十分。塾へ費やしている時間を他に向けさせたいと反論する。

映画を観たり、小説を読んだり、漫画を読んだり、友達と遊びに行ったり、そんな事だって大事だと思うのである。一流の大学へ行ったってノイローゼになるかもしれないし、一流企業に就職したって鬱で会社に行けなくなるかもしれない。勉強も大事だが、バランス良くいろいろ吸収しないといけない。それに何より自分だって今の娘の年頃でそんなに勉強していなかっただろうに、それを娘にやらせるなんて酷い事だと思う。

私も一応、受験の荒波を乗り越え、都立高校から国立大学へと進学しているから、その点では妻よりも言葉に説得力があるはずと思っていたが、「時代が違う」の一言で撥ねつけられてしまった。自分も、もともと学力レベルとしては、「中の上」くらいだったと思うが、宅浪時代は毎日10時間以上机に向かい必死になって勉強した。それは今の時代だって通じるだろう。今からやらなくても、本人がその気になればその時で十分間に合うと思うのである。

ああ言えばこう言うで議論は平行線。子供の幸せを願う気持ちはお互い同じだと思うが、この方法論の違いは歴然としていた。最後は、「娘の意見を聞こう」と妻に提案。
娘に最終決定を委ねた。
議論の決着は、「塾は続けたい」との一言であっさりとついてしまった。

妻を説得する前に、もっと娘と語り合って、「パパの考え」を伝えておけば良かったかもしれない。まあ仕方ない。これからまだまだ長い娘の人生。せめて、「お勉強バカ」にならないように常に関心は持つようにしてあげたいと強く思うのである・・・


【今週の読書】
悪韓論(新潮新書) - 室谷 克実 戦士の休息 - 落合 博満 ライス回顧録 ホワイトハウス 激動の2920日 - コンドリーザ・ライス, 福井 昌子, 波多野 理彩子, 宮崎 真紀, 三谷 武司






 

 

2014年3月21日金曜日

クリミア紛争を考える

 ここ1週間ほどクリミア紛争のニュースが気になっている。
親露派の大統領が地位を追われたと思ったら、一気にクリミア共和国の独立、ロシア編入へと動いている。大きな注目を集めているのは、そこがロシアの黒海艦隊の基点である事が原因であると思う。

 昔から不凍港を求めていたロシアにとって、クリミアのセバストポリは重要な軍港。ソ連時代は揺るぎもしなかったが、ロシアとウクライナに分離してからは、租借という地位になってしまう。一応2042年まで借りる契約はできているが、今回の政変でそれが危うくなった。アメリカもそれをわかっているから、「チャンス」とばかりに動いている。

 詳しい裏事情などわかるはずもないが、ニュースだけ見ていても、その内容には疑問だ。日本のメディアは、ロシア批判が大勢だ。だが、本当にロシアが悪いのかと思うと、そうとも思えない。その一番の原因は、クリミアの住民投票だ。83.1%の投票率で、96.77%という圧倒的多数で住民が「ロシア編入を望んでいる」のである。

 オバマ大統領は「銃で脅された」結果だとしているが、今の時代銃で脅されたからと言って、こんな圧倒的な結果が出るだろうか。それにNHKのニュース映像を見たら、住民は大喜びでコンサートまで開催されていた。ニュースによるとロシア系住民は6割だそうだから、ロシア系以外も賛成している事になる。ここはロシア編入を認めるのが筋というものだろう。

 ロシアは、「国際法違反」と批判されている。だが、アメリカだって「国際法違反」という批判を無視して、イラクに軍事侵攻して政権を打倒した“前科”がある。フセイン政権が「大量破壊兵器を隠している」という理由だったが、それは嘘だったと証明されているし、そのあたりの陰謀は映画にもなっている。
(⇒【フェア・ゲーム】

 アメリカは、冷戦時代、西ヨーロッパにソ連に向けた核ミサイルを配備しながら、逆にソ連がキューバに核ミサイルを配備しようとしたら、実力でそれを阻止した(キューバ危機)。公海を海軍艦艇で封鎖し、ミサイルを運搬するソ連の船を阻んだのであるが、そんな事ができる権利はアメリカには当然なかった。

 「自分がやる事は正当化し、同じ事を相手がやれば批判する」
アメリカもロシアもお互い様なのである。そんなキツネとタヌキの化かし合いのような国際情勢で、アメリカの肩を持ってロシア批判などして、日本のメディアはバカバカしくならないのだろうか。

 もしも立場が逆なら、アメリカは民主主義の旗をここぞとばかりに振り回して、「地元の民意」を尊重するだろうし、ロシアは口角唾を飛ばして批判するだろう。確かコソボでは、アメリカは独立を支持したはずだ。だからだろうか、毎朝見ているCNNのサイトは、トップニュースはずっと「マレーシア航空370便」だ。茶番には付き合えないと考えているなら、CNNはさすがだと思う。

 微妙なのは日本の立場。
北方領土の事もあるし、ロシアの天然ガスを安く仕入れられれば、貿易収支の悪化に歯止めもかかる。だが、対中国の手前、今の時期はアメリカも支持しなければならない。両方の機嫌を損ねることなく、うまく立ち回らないといけない。政府関係者は大変だろうなと同情する。

 先行きどうなるのだろう。
もうしばらくは、クリミアのニュースからは目が離せそうもないのである・・・

【今週の読書】
元融資担当が教える 小さな会社がお金を借りるなら 銀行はおやめなさい - 加藤 康弘 悪韓論(新潮新書) - 室谷 克実 誰も戦争を教えてくれなかった - 古市 憲寿








2014年3月16日日曜日

死の淵を見た男たち

川内、再稼働一番乗りへ 規制委、優先原発きょう決定
原子力規制委員会は12日、事実上の合格証となる「審査書案」を作成する優先原発を九州電力川(せん)内(だい)原発1、2号機(鹿児島県)とする方針を固めた。13日の規制委定例会で正式に決定する。川内は審査の重要課題となっていた基準地震動(想定される最大の揺れ)について、12日の会合で大筋で妥当と認められた。津波対策でも異論は出なかった。再稼働一番乗りが事実上決定した。
2014.3.13 産経ニュース
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 原発再稼働を目指す安倍政権。その動きが、静かに表面に出てきたようだ。いずれもっと脚光を浴びてくるようになると思うが、徐々に再稼働する原発が増えてくるのだろうと思う。

 個人的には原発反対であるが、先週はとくに震災からちょうど3年という事もあっていろいろとニュースに触れる中、また【死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の500日】という本を読んだ事もあり、その信念は一層強くなった。【死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の500日】は、当時の現場の様子が生々しく伝わってきて、迫力ある本である。

 原発再稼働を主張する側にも、いろいろと意見はあるようだ。やはり資源に乏しい我が国にとって、膨大な電力需要に応じるためには、ベース電源として必要であるという意見は理解できる。原発停止に伴って、代替資源の輸入増加により我が国の貿易収支も悪化(円安もそれに輪をかけている)している。長引けば我が国の“拠り所”でもある「経済力」にもダメージがあるのだろう。

 それに技術者問題というのもあるらしい。昨年世話役として関わっている「寺子屋小山台」で、講師としてお招きした東芝の方が、「“脱原発”となれば、若い人たちが原子力技術を学ばなくなる。そうすれば技術の継承ができなくなってしまうし、もしも中国・韓国で事故が起こっても我が国では対応できなくなる」とのご意見を伺った。
脱原発のその前に

 「技術が消失すれば、アメリカの技術協力も得られなくなるし、そうすると国内にある50tのプルトニウム(核兵器数千発分)の管理も難しくなる。技術は放棄できない。」との意見は、その通りなのだろうと思う。世の中で「脱原発」の声が大きくなると、こうした問題点を声に出して主張しにくくなるのは問題だ。しかし、無視できない指摘だと思うが、大事なのは「だからダメなんだ」というのではなく、「ではどうするか」と考える事だ。

 「技術消失」は確かに問題なのだろう。でもそれは「衰退産業」として若者に敬遠されないような仕組みを考えれば良いだけの事だろう。例えば、原子力技術を学んで技術者として就職した人には、国として給料とは別に「技術手当」のようなものを支給したらどうだろうかと思う。それで国と勤務先から同じ金額の給料と手当をもらえば、かなりの収入となる。そうした「職業」に若者はそっぽを向くだろうか。

 そもそも今でも原子力関連には膨大な税金が使われていると言う。地元自治体への補助金などを合わせると、「トータルコスト」では原子力発電も決して割安ではないと思うし、そうした補助の一部を「技術の継承」に向けるのは可能だろう。理論だけではダメだというのなら、どこか一カ所だけ原発を維持するというのもアリだと思う。一カ所で何機なのかわからないが、54機もある現状からすると、ずっと良いと思う。

 そもそも再稼働を主張する人たちは、福島第一原発の事故当時の緊迫した国内の雰囲気を忘れてしまっているのではないかと思う。あの状況下でも、「原発は必要だ」と思えただろうか。日本の国の1/3に人が住めなくなっていたら、それでも「原発は必要だ」と思うのだろうか。喉元過ぎて熱さを忘れてしまったのだろうか。

 福島の事故で、個人的に一番ショックだったのは、「使用済燃料棒」の問題だ。原発は稼働中の事故が怖いと思っていたのに、実はそうではないと思わされたのが、停止していた4号機の事故である。あれで心が決まったと言える。
 
 そもそも大きな問題というものは、右と左とどちらに行っても問題があるから、大きな問題となっているのである。であれば、どちらが理想的かと決めてその道を進むしかない。出てきた問題については、「だからダメだ」とせずに、「だったらどうしよう」と考えて解決を図る他ない。技術の継承も貿易赤字も温暖化もすべて「だったらどうしよう」と解決策が探れる問題だ。

 今後もその信念は貫いていきたいと思うのである・・・

     
【今週の読書】
死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日 - 門田 隆将  誰も戦争を教えてくれなかった - 古市 憲寿






 

 

 

2014年3月9日日曜日

ファッション

久しぶりに表参道を歩いた。
数年ぶりだったが、また少し雰囲気が変わっていた。
目についたのは、有名ファッションブランドの店舗。
この手の店舗には、何となく気後れする。 

昔から、ファッションという分野は苦手な分野である。
何事につけ「花より団子」ではないが、「見た目より機能」を重視する自分としては、衣服という面においてもそう考えてしまう。だから「気に入った服」であれば、それをずっと着続けたいと思うし、そういう服は大概「機能(=着心地)」面で気に入る事が多かったりする。 
それはそれで良いと思うのだが、問題は「世間がそれを良し」としない事だ。

それを初めて感じさせられたのは、1年間引きこもりそのものだった宅浪生活を経て大学に入った時の事だ。ラグビー部の門を叩いて一員となったある日、K先輩に「お前凄いズボン履いてるね」と言われた。その時履いていたのは、中村雅俊のドラマ「俺たちの時代」に象徴されるベルボトムのジーンズ。自分では気付いていなかったが、もはやそれは流行遅れのシロモノだったのである。 

人は大概他人のファッションについては、面と向かって批判はしないものだろう。だからわからなかったが、その後社会人になって、婉曲的に女性に指摘された事もある。もっとはっきり指摘されたのは、結婚してからだ。「お気に入り」だった服は、妻からみんな「室内着」の指定を受けた。何でも結婚前、妻は私と結婚を考えるのにあたり、マイナスポイントとして私のファッション・センスが気になっていたらしいのだが、仲の良い友人に「服は変えられるわよ」とアドバイスされ、目をつぶる事にしたのだと言う。 

こう告白すると、何だか情けない男のように思えてくる。だが、おかしいのはどっちなのかという気がしてならない。私の着ている服はすべて「購入したもの」だ。つまりどこかの誰かが、「これがいい」と決めたデザインで作られ、店頭に並べられていたものだ。その時点では、買って着てもまったくおかしなものではなかったものである。 ただ、それが「流行」というモノによって、「日陰モノ」にされてしまったのである。

「流行」って何だと言えば、それはどこかの誰かが、「今年はこれで行こう」と勝手に作りだしたものだ。そしてそれを、「今年はこれが流行るらしい」とみんなが採り入れる事によって決まっていくのだ。誰かが「右へ行け」と言うと、ぞろぞろと疑問も持たずについていく。「人が右へ行くなら我は左」という性格の私ゆえ、それは最も嫌悪するパターンだ。 

しかし、それが世の中の流れとなると、異端児としては居心地が悪くなる。「おかしい」と指摘されたものを、「おかしくない」と主張して我を通すほど私も強くない。勢い「室内着」が増えていく、あるいは廃棄宣告を受けるのを眺めているしかない。私としては、ただ買った時に自分で良いと思い、そしてそれを気に入ったなら、自分が飽きるまでずっと着たいと思っている。なのに勝手に流行遅れの烙印を押して、「ファッション・センス・ゼロ」と言われる。何とも納得のいかない話だ。 

まぁ嘆いていてもはじまらない。華やかな表参道のブティックの店舗を眺めつつ、せめて中味だけでも何とか維持していこうと感じた次第である・・・


 【今週の読書】
年収1000万円の貧乏人 年収300万円のお金持ち (中経の文庫) - 伊藤邦生  死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日 - 門田 隆将






2014年3月2日日曜日

陽の当らない場所

痩せ蛙 負けるな一茶 これにあり
小林 一茶
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 金曜日に妻が観ていたテレビは、フィギア・スケートの浅田真央の特集番組。イチローもそうだが、真央ちゃんも才能だけの選手ではないようである。ソチオリンピックが終わって1週間。良いタイミングでの特番だし、観た人も多かったのではないかと思う。 

 番組を横目で観ながら、何となく感じた。世の中には、陽のあたる場所とあたらない場所がある。世の中は、けっして公平ではない。それはそれで、仕方ない事である。 

 浅田真央は、残念ながらメダルを逃してしまったが、最後の演技は素晴らしいものであったらしい。我が家の妻も夜遅くまで起きて観ていて、涙腺が崩壊したらしい。翌日のニュースは、浅田真央一色。職場でも、その話題が聞こえてきた。  

 その同じ日に、女子パラレル大回転の竹内智香選手(銀メダル)とフリースタイルスキーの小野塚彩那選手(銅メダル)が、メダルを取った。しかし、ニュースは浅田真央。「取れたメダルより取れなかったメダル」が、明るく輝く日差しを浴びていた。

 世間の関心度からいって、それは当然の事。太陽が輝いてそれを浴びるものがあれば、当然その陰もできる。 そんな事が、最近私の身の周りでもある。母校である都立小山台高校が、この春の選抜甲子園大会に出場を決めた。実力的には、まだまだ甲子園は遠いようであるが、「21世紀枠」という制度で、全国3校の一つに選ばれたのである。それはそれで簡単な事ではないし、大変喜ばしい事でもあり、私も後輩たちを応援したいと思う。 

 当然の事ながら、これに卒業生も大フィーバー。寄付の募集や応援ツアーの話で、連日あちこちで盛り上がっている。されど、同時期に全国大会出場を決めた将棋班(我が母校では伝統的にクラブ活動を『班活動』と呼んでいる)の事は、ほとんど話題にも上らない。会報の扱いにしても、比較にならない。唯一、学校に掲げられている横断幕だけが、同じ大きさで公平な扱いであった。さすが、校長先生。 

 それは関心度から言っても仕方ない。同じ全国大会と言っても、やはり甲子園は別格だし、「野球だけが班活動ではない」と正論をぶったところで仕方ない。私自身は、ラグビー班0Bなので、野球も将棋も「他班の事」という意識がある。どちらも同じ後輩ではあるが、関心度に差はない。だから、よけい「陽の当らない場所」に敏感なのだと思う。 

 思えば高校生の時から、その差を感じていた。かたや甲子園の東京都予選の一回戦から結果が新聞に載る。かたや花園の全国大会ですら、試合結果は一回戦くらいだと新聞を隅まで探さないといけない。 大学に進んで、自分たちの(ラグビー部の)公式戦の結果がスポーツ新聞に掲載された時は、嬉しくて何度も見たし、もちろんそれを取っておいたのは言うまでもない。 

 そうしたマイナーの世界の経験と、もともとアマノジャッキーな性格が災いして、母校の甲子園出場に対する感応度は非常に低い。もちろん、将棋班の全国大会出場についても同様であるが、「陽の当らない場所」に対する共感度がある分、こちらの方がむしろ応援する気持ちは強いかもしれない。 まあ一人くらいひねくれ者がそっぽを向いていたところで、母校の甲子園には何の影響もないだろうし、そこが気楽なところ。

 当初はテレビで応援しようと思っていたが、それも段々と気持ちが萎えてきている。もちろん、寄付など初めから毛頭考えていない。もともと甲子園など、観なくなって久しいし・・・ 

 それより、小学校3年になる息子がいよいよ近所の少年野球チームに入る事になった。気になるのは視力の衰え。たぶん遺伝なのだが、これは由々しき事態。この春は、この問題に対する関心がかなりのウエイトを占める事になりそうである。 

 ところで、天の邪鬼な性格は遺伝するのだろうか。ちょっと気になるところである・・・

 【今週の読書】
鎮魂 〜さらば、愛しの山口組 - 盛力 健児 戦略参謀 - 稲田 将人







2014年2月23日日曜日

嗚呼、近眼

小学校2年の息子がメガネをかける事になった。
中学1年の娘は既にメガネをかけて久しい。両親ともメガネとコンタクトは手放せない状態だから、子供たちには、と考えていただけに、ちょっとショックを受けている。 

思えば自分の目が悪くなったのは、大学受験の時からだ。
その前に小学校の頃、一度視力が落ちた事がある。
その時は、何となく自然に回復。
6年生の頃は、1.2とか1.5くらいあったと思う。 

その後、気にする事もなく過ごしていたが、やはり受験勉強で一気に視力が落ちてしまった。特に浪人中は、自宅に籠って一日10時間のノルマを自分に課して机に向かっていた。その成果もあって、2回目のチャレンジで志望大学に合格できたが、視力はメガネがないと黒板の文字がもはや見えないレベルだった。 

大学合格後、初めてメガネを買う事になった。
程なくして自動車の運転免許を取りに行ったが、当然「眼鏡」条件がついた。ただ当時はまだ日常生活にはそれほど支障はなく、メガネをかけるのは授業中と運転時のみであった。ラグビーをやるにしても、裸眼で特に困る事はなかった。 

就職してからさらに視力が低下。
少しでも視力を回復させたいと思いつつも、仕事の忙しさもあって半分諦め、特にコンタクトレンズを使うようになると、メガネの煩わしさから解放された事もあってか、視力の回復については完全に諦めた。  数年前から手元が見えにくくなり、これが世に聞く老眼というものかと実感。「ついに来たか」という感じだ。

こうなるとコンタクトレンズは不便となり、メガネに切り替えた。
「遠近両用」のコンタクトレンズもあるようであるが、それには違和感を覚え切り替えるつもりにはなれなかった。今はスキーなどスポーツの時にのみ使い捨てコンタクトを利用している。 

メガネになった息子だが、やはりこれからスポーツをやらせようとしていただけに、メガネは具合が悪い。そんなところへ、知人からある視力回復サロンを紹介された。知人自身利用していて効果が上がっているという。値段は少々張るものの、やらせてみようと言う事になった。結果はどうなるかはわからないが、できる事はやってあげたいと思う。 これを機に、己自身も少し目の事を考えた生活をしようかと思うのである・・・

【今週の読書】
じゃ、やってみれば “感動という商品”を創り続ける男の言葉36 - 阿部 秀司  弥勒の月: 長編時代小説 (光文社文庫 あ 46-1 光文社時代小説文庫) - あさの あつこ







2014年2月16日日曜日

ブラック企業とは

 舛添さんの勝利に終わった先週末の都知事選。
主要候補の政策を見ていたら、宇都宮けんじさんだけが、「ブラック企業規制条例」の制定を主張していた。以前駅前で共産党が配っていたチラシにも出ていた「ブラック企業規制」。よくよく考えてみると、よくわからない。

 まずはどんな企業がブラック企業なのだろうかと思う。
以前観た映画「ブラック会社に勤めているんだが、もう俺は限界かもしれない」に出てくる中小企業などは典型的な例かもしれない。この映画では下請IT企業が出て来て、殺人的な残業(もちろん残業代はほとんど出ない)の日々に疲弊していく主人公が描かれていた。 
しかし、中には「ユニクロ」や「和民」などという声も聞こえてくる。
そうなると、頭の中は“?”マークだ。
「本当なのだろうか」と。

 ユニクロの柳井社長も、和民の渡邉社長も、本を読んでしかその人となりを知らないが、それでも若者を使い捨てるような経営者には見えない。むしろ自らの経験を振り返って、「若い時の苦労は買ってでもせよ」というタイプに思える。 すると、そのあたりの考え方が、誤解を招いている気もする。勉強でもスポーツでも、ある一定の時期、猛烈な負荷に耐えなければ何かを成し遂げられないという事はある。ユニクロの柳井社長も、和民の渡邉社長もきっとそんな時期を過ごした経験があって、それを求めているのかもしれない。 

 高校時代、ラグビーをやっていた私は、大学に進学してもラグビーを続けたいと思った。それも同好会などではなく、体育会の方でだ。そこで悩ましかったのが、第一志望の国立大学ならいいが、私立の大学に行った場合はどうするかという事だ。たとえば、慶応や早稲田などの名門校になった場合だ。 幸い第一志望に入れたから良かったが、もしも早慶明だったらまず体育会には入らなかっただろう。

 ハードな練習環境がわかっていたし、全国の一流高校から来た選手に交じってやっていく自信などなかったからだ。もしもやるとなれば、大学生活をラグビー一つに絞る覚悟がないとできない。そこまでの覚悟はできなかったし、したくなかったというのが正直なところだ。 覚悟が出来ていれば、ハードな練習にも耐えられただろう。現にそういう選手たちが、試合に出ているのである。

 思うにユニクロや和民で働いていて、「ブラック」と感じるか否かは、この覚悟の違いなのではないだろうか。「ほどほどに働きたい」と思っている人にとっては、たとえ自身の成長に繋がったとしても、ハードな労働環境は耐えがたいと感じるかもしれない。 

 そうすると、何がブラックで何がそうでないのか、を決めるのはますます難しいという事になる。創業直後の若い企業などで、未来を信じて会社に泊まり込んで仕事をしている創業メンバーたちもいるかもしれない。先日読んだ、『GILT』という本では、主人公は見事に過労でダウンしていた。では、そういう企業はブラック企業だと条例で決めて罰するのが正しいのだろうか。 「働かされる」のと「働く」のとでは、同じ働くのでも大きく異なる。それが同じ会社内だったら、どう判別するのだろう。

 単なる人気取りの共産党幹部には、そんな事はわからないだろうし、そもそも共産党に「喜んで働く」などという意味は、わからないのではないかとさえ思える。労働者は常に搾取される立場と考える政党だから、それは仕方ないのかもしれないが・・・  

果たして自分はどうだろうかと考えてみる。
仕事は確かに面白いし、大変ではあるが、苦痛ではない。さりとて、「24時間働こう」とまでの情熱はない。家族との時間や趣味の時間や友人たちと過ごしたり、ボランティアの活動をしたり、スポーツに汗を流したり、と考えていたらとてもそんな覚悟などできない。
それが良いのか悪いのか・・・ 

 ただし、現実的にブラック企業はあるのだろう。
収益力が弱く、従業員を酷使する事でしか存在しえない企業は確かにあると思う。そうした所からは、「辞める」という選択肢をもって対抗するしかないかもしれないし、そうして従業員が離れていけば、そういう会社も自然淘汰されるのかもしれない。そしてそれには、セーフティネットや再雇用など人材の流動性を高める仕組みを整えるのが良いのだろう。

 「ブラック企業規制条例」がどんなものをイメージしているのかわからないが、そんなものではないと思う。いずれ我が子たちも社会へと出ていく。どんなところに勤めるのか、あるいは自分で事業を起こすのかはわからないが、その時何らかのアドバイスができるようではありたいと思う。自らの働き方も含めて、そのあたりは常に関心を持っていたいものである・・・

【今週の読書】
俺のイタリアン、俺のフレンチ―ぶっちぎりで勝つ競争優位性のつくり方 - 坂本 孝







2014年2月9日日曜日

除雪大日記

 「明日は雪かきお願いね」
妻の“お願いと言う名の指令”を受け取ったのは、まだ雪降りやまぬ前日の事。幸い我が家には、以前雪かきをしようとしたがチリ取りしかなく、難儀した経験から買い置いていたスコップがある。

 そして翌日となる今日、昨日とは一転した快晴の中、雪かきを始める。既にお隣とお向かいのご主人が雪かきを始めている。軽やかな挨拶とともに雪かき開始。今日が休日で良かった。仕事の日ならこうはいかない。震災の日は金曜日だったから、歩いて帰る事を選択できた。こういう偶然も目に見えない運命の作用だとこの頃感じる。

 まずは範囲の確認。何事もやみくもにやれば良いというわけではなく、事前の計画が重要だ。自宅玄関の周辺と、駐車スペース、それに家の前の道路の半分、そんなところだろう。雪は家の横の日向に積むことにした。何せ我が家の周辺は、日陰だと雪がずっと残ってしまう。

 さて初めて3分で容易ならざる事態に気がつく。思いもかけぬ重労働だとわかったのである。いまだラグビーで鍛えし時代の意識がある自分。「雪かき如き」という印象は、どうしても拭えない。されどすぐに腕が重くなり、5分で背中が痛くなり、挙句にプラスチック製のスコップにヒビが入った。

 頭の中で、計画の大幅修正プランが練り直される。道路は半分の半分。駐車スペースは雪が残ったって構わないだろう。今日はやっぱり仕事の方が良かったかもしれない・・・

 息子はお隣のクラスメイトの友達と雪遊び。双子のその友達に近所の子供たちも集まってきて、すぐに歓声とともに雪合戦が始る。雪まみれになる事など何のそのだ。微笑ましく眺めながらこちらは雪かきを続ける。上着を脱ぎ去り、トレーナー一枚になる。お向かいのご主人はTシャツ姿だ。

 かがんだ瞬間、すぐ横の車に当たった雪弾が炸裂する。さらには目の前を雪弾がかすめる。気がつけば“戦場”の真っただ中だった。息子と同級生の女の子もお兄ちゃんと参戦している。さらにふと見れば、さっき除雪したばかりの玄関の脇がいつの間にか“補給基地”と化している!萎えそうになる気持ちを奮い立たせ、飛び交う雪弾の下、ひたすら己のミッションに励む。

 やがて戦火は止み、ご近所のご主人もいなくなっていた。だいぶ計画を縮小したとはいえ、それでも取りあえず雪かきの格好はつけた。己の仕事に満足したところに妻が、昼食に呼びに来る。青空を見上げつつも、午後は映画でも観て過ごそうかと思案し始めると、成果を確認した妻が一言。

「御苦労さま、残りは午後ね♪」

 妻曰く、「家の前の道路は手前から道路の半分まで、そして範囲は少し隣の家にはみ出すくらい」が好ましい雪かきの範囲らしい。当初立てた計画は、間違っていなかったと言うわけだ。となるとまだまだ先は長い。結局、裏の老夫婦の事を考え、“好ましい”範囲を越えての大サービス。ようやく終わって、左腕がパンパンになった。明日、起きられるだろうか。

 嗚呼、真夏の太陽が恋しい・・・




 

 

2014年2月2日日曜日

日本的意思決定~映画編~

 週末となれば深夜に一人溜め込んでいる映画を観るのが、我が人生で至福の一時を味わえる一つと言える。観る映画は、「片っ端から」とでも言うのにふさわしいほど多岐にわたっている。それでも自然とハリウッド映画が多いのは、やはり分母が違うから仕方ないと思うが、邦画も観るし、中国や台湾などアジアの国の映画も観るし、国としては大嫌いな韓国のも映画は分け隔てなく観ている。

 そんな中でもやっぱり邦画には期待している所がある。
ハリウッドレベルとはいかないまでも、それに次ぐくらいの存在感は示してほしいと思う。
しかしそうは言っても、現実的には物足りない。残念ながら韓国映画の方が(特にアクション系では)、上ではないかと思える事、しばしばである。何でだろうと考えてみると、その陰には『日本的意思決定』がやっぱりあるような気がする。

 日本の映画の一つの特徴として、「劇場版」というものがある。ヒットしたドラマを映画化したものだ。これまでも【踊る大捜査線】【HERO】などを観てきたし、基本的に「劇場版」はあまり観ないのだが、最近でも【相棒】、【ストロベリーナイト】など数えきれないくらい封切りされている。

 こうした劇場版がなぜ作られるかと言うと、それは日本的意思決定=ボトムアップ型の意思決定の産物に思えてならない。つまり、何か映画化の企画をする時、独自に「これは面白そうだ」という思いでつき進むのではなく、周りの(特に上司の)コンセンサスを得やすいものになっていくように思うのである。「これは売れるのかね」と聞かれた時に、「大ヒットしたドラマですから」と言えば、説得力は高そうだと容易に思える。

 かつてシルベスター・スタローンが無名の頃、自ら書き上げたボクシングドラマの脚本をあちこちに持ち込んだと言う。どこも無名の男の話などに耳を傾けるところはなく、「ポール・ニューマン主演なら」と条件を出されたのがせいぜい。大金を積まれ迷ったものの、「自分主演」にこだわり、ついにスポンサーを見つけ、【ロッキー】の映画化につながったという。売れるかどうかわからない無名の新人の持ち込む脚本の映画化など、サラリーマンがボトムアップで企画を上げる日本では絶対あり得ないエピソードだと思う。

 おおよそビジネスというものは、売れるかどうかなど所詮「やってみなければわからない」ものである。リスクを腹に飲みこんで、果敢に攻めていく事が売れる結果になったりする。ジョージ・ルーカスだって、【スター・ウォーズ】を撮った後、コケるのが心配でハワイに逃げていたというエピソードがあるくらいだ。初めからヒットするかどうかなど、誰にもわからないだろう。

 だが、それだと上司を説得できない。「お前の『売れる』などあてになるか」と言われればそれまで。だから安易な「劇場版」やアイドル主演などに“逃げる”のだろうと思う。面白い映画を作るとなったら、「売れるか売れないか」など机上であれこれ議論する事なく、「これを作りたい」という熱い想いが必要だろうと思う。

 ヤマト運輸の故小倉昌男氏が、全役員の反対を押し切って宅配便事業を始めたように、トップダウンで誰かの熱い想いで映画化を進めるようなものでないと、本当に面白い映画などできそうにない気がする。ボトムアップ型の意思決定が悪いとは思わないし、それがうまく機能するケースはいくらでもあるだろう。しかし、新商品の企画だとか、事業だとか、今までにないものをやろうとする時には、この限りではない。

 実際の映画の企画現場がどうなっているのか、私には知りようがないからわからない。ハリウッド映画だって、【セックス・アンド・ザ・シティ】のようにドラマの映画化もあるから一概に日本ばかりというわけでもない。ただ、アニメも含めて「劇場版」がこれだけ多いとそんな事を思ってみたりするのである。

 もしも、「日本映画の水準を上げるにはどうしたらいいと思うか」という質問を受けたなら、私だったらまず「劇場版の製作禁止」を上げるだろう。安易な人気ドラマの映画化をやめるだけでも大きな変化が生まれるのではないかと思えてしまう。まぁそうしたら今度は東野圭吾原作とか、漫画の映画化が増えるのかもしれないとも思うが・・・

 日本映画の進化を期待して、ちょっと考えてみた事である・・・

日本的意思決定

【今週の読書】

模倣の殺意 (創元推理文庫) - 中町 信







2014年1月29日水曜日

スキーin湯沢2014

先週末は、今シーズンの初滑り。
毎年恒例の湯沢へ行ってきた。
朝5時に出発。
まだ暗い関越道をひたすら走る事2時間ちょっと。
目的地の岩原ゲレンデに到着。

初日は快晴。
それはそれで結構なのだが、ここしばらく雪が降っていないと言う感じで、雪の質は今一つ。
人間は自分に都合の良い事を要求するものなのである。
毎年通っていて、そこはもう慣れたゲレンデ。
子供たちもスイスイと滑る。


ふと、思い立ってボーゲンで滑る小学校2年の息子にターンを教える。
なんて名前だったか忘れたが、その昔、スキー教室で習ったやつだ。
するとそれが気に入ったのか、息子は熱心に練習する。
きっちり「ハ」の字に開いていたスキーが次第に平行になっていく。
褒めたら喜んで滑っていた。


考えてみれば、自分もスキーはそこそこ滑れると思う。
ただ、基本を習ったのは、初めの頃の数回のスキー教室で、あとは見よう見真似の我流。
それゆえ、子供たちに教えるのも憚られていた。
しかし、我流であったとしても、良いじゃないかと突然開き直る気持ちになったのである。
これからは遠慮なく教えようと思う。

2日目は湯沢高原へロープウェイで登っていく。
天気は一転して雪。
しかし体は暖かい。
最近のスキーウェアは良くできていると思う。
露出している肌の部分は痛いくらい寒いのだが、ウェアに隠れた部分は快適だった。

その雪が次第に強くなる。
息子が気に入った林間コースを滑る。
ゲレンデに流れていたポップスも林間コースには届かず、実に静か。
雪の降る音が、まさに「しんしん」と聞こえてきそうな静けさ。
自分のスキーが雪の上を滑る音が静かに響く・・・


何とも言えない雰囲気を楽しめたのはわずかの間。雪と風が強くなり、あたりはブリザードの雰囲気。2時過ぎにはついに、「これがホワイトアウトか」と思えるぐらい、視界が真っ白になり、家族みんなで顔を見合わせて「ギブアップ」。ロープウェイで早目の下山。

そしてふもとのホテル前で「雪合戦」。
どうも息子は相変わらずスキーよりも雪合戦が好きな様子。時間も早かったので、家族で付き合う事にした。

これが結構な体力の消耗となる。
最後に温泉に入り、帰路につくと、子供たちは爆睡。
次の日の仕事が脳裏を過ぎりつつ、ハンドルを握る。
昔ほどではないが、渋滞もあり、食事も上里のフードコートで急いで済ます。

昔は泊まりの方が楽だと思っていたが、どうも最近は考え方が変わってきている。
2日間滑るのは、なかなかきつく感じるのである。
日帰り強行軍でも、次の日寝ていた方が楽かもしれないと夫婦で意見が一致。
もしくは、来年は「2日目は温泉に入って滑らずに帰る」という形態になるかもしれない。

どちらにしろ、今シーズンはあと1回か2回、日帰りスキーを入れる予定。
それはそれで、楽しみたいと思うのである・・・



 

  

2014年1月22日水曜日

アルジャーノンに花束を

 家庭での子供のしつけや教育に関しては、妻任せになってしまっている我が家ではあるが、1点だけ私もこだわって来たところがある。それは読書の習慣付けだ。本を読むという習慣は、大人になってからも学び続けるためにはどうしても必要なもの。その時になって困らぬよう、子供の頃から習慣にしたいと思っていた。

 そんなわけで、子供が物心つくかつかないかのうちに、読み聞かせを始め、物心ついた後は、図書館で紙芝居や絵本を毎週のように借りて来ては寝る前に読んでやっていた。紙芝居などは、二人とも目をキラキラさせて聞いていたものである。そんな効果があってか、二人とも自然と読書に抵抗を持たなくなった。

 小学生の息子については、練馬区の推薦図書などからピックアップして読ませるようにしたり、伝記ものや世界の謎なんて興味を持ちそうなモノを図書館で探したり、その他子育て関連のサイトなどで目についたものを選んだりしている。難しいのは中学生の娘だ。

 もうすっかり自分で興味を持ったものを中心に読んでいるが、黙っていれば東野圭吾ばかりという傾向になったりしている。やっぱり、まだまだこちらから選んで読ませるようにする部分も必要だと思う。何が良いだろうかと自分の本棚を見まわしてみたが、読ませたいモノはいくつもあるが、なんとなくまだ早いような気がするものばかり。

 娘は私に似て感情があまり表に出てこないタイプ。だから無感動などという事ではない事は、私自身良くわかっている。ただ、やっぱり傍から見て心配なところもあるから、せめて本くらいは感動して心を動かされるようなものを読ませたいと思う。そう思ってあれこれ探していたら、本棚の奥で眠っていた【アルジャーノンに花束を】を見つけた。これを読んだのは、まだ20代の頃だったが、いたく感動していろいろな人に勧めたものである。

 主人公は、知恵遅れのチャーリー。いい大人なのだが、障害があって、中味は6歳ぐらいの幼児のまま。そんなわけで、周囲にバカにされるのだが、本人はそれとわからないからいつも笑顔を振りまいている。そんな彼が、ニーマン教授から開発されたばかりの脳手術を受け、驚異的なIQを獲得するに至る。

 物語は冒頭、「けいかほうこく」として、ひらがなで書きつづられる。それが段々と普通の漢字交じりの文章になっていく。それはチャーリーの知能の変化を表しているのだが、これがまた最後に味わい深いモノを見せる。ちなみにアルジャーノンとは、チャーリーの前に手術を受ける実験用のネズミの事である。

 驚異的なIQを獲得した彼であるが、やがて彼のレベルについて来られない周囲がみんなバカに見えてしまう。よくありがちな、頭でっかちの傲慢な男になっていく。ついにはニーマン教授でさえ凌駕する知能に達したチャーリーであるが、そんな時、先に手術を受けていたアルジャーノンに異変が生じる・・・

 娘は中学で成績が良い。それはそれで喜ばしい事であるが、勉強ができるというのは人の数ある能力のうちの一つでしかない。当然、それですべてが判断されるわけではない。勉強ができるという事は、100メートルを10秒台で走れるという能力と優劣をつけられる程のものではない。

 傲慢になったチャーリーと、みんなにバカにされながらも純真だったチャーリーとを比べ、どちらが良いとかではなく、何かを感じてくれればと思う。人にとって大切なものとは何だろうかと、感じてくれれば狙い通りだ。物語は再びひらがなばかりとなり、そしてタイトルの「アルジャーノンに花束を」で結ばれる。読み終える時、深い感動に包まれる。

 これなら今でも十分かもしれないと思う。読み終えてどんな感想を持つのか、楽しみでもある。娘にはこずかいと引き換えに、時折課題図書を課している。次の課題図書はこれにしようと一人ほくそ笑む。その前に、自分でももう一度読み返してみるのも悪くないかもしれないと思うのである・・・


アルジャーノンに花束を〔新版〕 - ダニエル キイス, 小尾 芙佐 

【本日の読書】
GILT(ギルト) - アレクシス メイバンク, アレクサンドラ ウィルキス ウィルソン








2014年1月19日日曜日

日中関係を考える

 昨日は毎年恒例の「中国から見た日本」の講座に参加。世話役としてお手伝いしている小山台教育財団の講座である。昨年までの講師の方が、中国で拘束されており、連絡も取れない事から今回は精華大学と中央大学で教授をされている方にピンチヒッターを依頼。例年とは違うアプローチながら、中国との関係を考えるいい機会となった。

 そもそもであるが、私は我が国は「米中等距離外交」路線を進むべきだと考えている。戦後ずっとアメリカの傘の下で発展してきた我が国であるが、そろそろ“自立”し独自の路線を歩むのが理想だと思う。アメリカも悪くはないが、アメリカは国益を前面に出して動く国。それも仕方ないとは思うが、「アメリカの国益≠日本の国益」である。我が国もそろそろ国益を意識してもいいと思う。

 アメリカは、自国の石油利権を守るために、「大量破壊兵器」というありもしない口実をでっちあげてイラクと開戦し、自国に都合の悪いフセイン政権を打倒した。我が国も国是を曲げさせられ、自衛隊をイラクに派遣した。そして次のターゲットとなっていたイランについては、我が国は長年友好関係を築いてきたにも関わらず、アメリカの経済制裁措置に無理やり歩調を合わさせられた。今後もこういう事は続くだろう。そろそろ我が国の国益に合わないアメリカの政策に対しては、“No”と言えるようにならないといけない。

 それには中国との関係改善が不可欠だ。尖閣諸島に毎日のように圧力をかけられている現状では、アメリカの庇護下からは抜けられない。高いアメリカの戦闘機だって不利な条件で買わないといけないし、沖縄の基地縮小も夢のまた夢。これは中国政府にも言える事。

 日本に対する“北風”政策は、日本に対しアメリカというコートを脱ぐどころか、ますますしっかり羽織るように仕向ける事になる。“太陽”政策で緊張緩和すれば、日本も「防衛費の削減」「米軍基地の縮小」といった事が可能になるし、それは中国にとっても好ましいはず。経済大国2位の国が、1位の国に対抗していこうとすれば、3位の国と組むのはもっとも望ましい事である。

 民主党政権は酷い政権だったと思うが、たった一点だけ良かったのは、小沢さんが「米中等距離外交」に足を向けた事だった。安倍総理の靖国神社参拝は個人的には大賛成だが、対中関係という点ではデメリットになる。“対中関係改善”という大きな目標を実現するためには、しばらく封印するのも日本の国益に適うと思う。

 中国人観光客がたくさん我が国を訪れ、日本製品を「オトナ買い」してくれれば、日本の消費も増加して経済にはプラスになる。中国市場の購買力は、我が国が重すぎる借金を返していくための有力な返済原資になると思う。大した国益にならない韓国は相手にする必要はないが、中国との関係改善だけは真剣に考えるべきだと思う。

 年に一度はそんな事を考えてみるのも良い事だ。来年は今までの講師の方の復帰は成るだろうか。中国政府も、日本における“中国の宣伝部長”とも言えるこの講師の方の拘束がいかに自国に不利益になるかを認識し、早く釈放してほしいものだと思う。

今後も折に触れ、ニュースには着目していきたいと思うのである・・・


≪過去の中国問題≫
日本核武装論
中国から見た日本2012
ああ中国人


2014年1月15日水曜日

バスタイム

 平日は、一人でゆっくり湯船につかるが、週末は息子と一緒に風呂に入るようにしている。風呂というところは、誰かと入るには良い空間だと思っている。と言っても、妻はもう頼んでも一緒に入ってくれないし、中学生となった娘と入るわけにもいかない。すると、もう我が家には一緒に入る相手は息子しかいないので、必然的に「誰かと」とは「息子と」と言う事になるのである。

 一緒に風呂に入ると親子の会話が始る。会話というより、「問答」であろうか。息子なりに興味を持ち、その時その時で疑問に思う事を聞いてくる。ニュースを見聞きして、聞きかじった事を聞いてくる事もある。「テロって何?何で起こるの?」そうした問いに答えるのもまた喜ばしい。

 先週末は日露戦争の話題となった。歴史漫画に出てきたらしい。我が家の風呂には世界地図と日本地図が貼ってある。長女が物心ついた時に買ってきて貼ってあるお風呂用の地図である。広大な土地があるものの、寒い土地が大半で、不凍港が欲しかったロシア。地図の西側での南下は、クリミア戦争となってイギリスに阻まれ、地図の東側で朝鮮半島目がけて南下してきて、日本と対立。
一緒に地図を見ながらの解説。

 「そーなんだ」という歴史漫画を購読し、すっかり歴史好きになった我が息子、こういう話には食い付きがいい。旅順攻略や日本海海戦などで勝利したものの、結局国力の限界で「判定勝ち」とならざるを得なかったが、「アジアの国々に与えた影響は大きかったんだよ」などと語って聞かせる。

 その昔、小学校低学年の頃、担任の先生がよくクラスのみんなに野口英世の話をしてくれた。一度で飽き足らず、みんなで機会あるごとに野口英世の話をしてくれとせがんだものである。ストーリーがわかっていようと関係なく、こうして何かを語ってもらうのを聞くというのは、子供には楽しいものだと思う。日露戦争の話に、息子が目をキラキラさせて聞き入っていたのも頷ける。

 その昔、「坂の上の雲」を読んでおいて良かったと思う。息子とそういう話をするのに、何も風呂でなくても良いとは思う。ただ、どういうわけか、風呂には何か特別な雰囲気がある。たぶん、閉ざされた空間だし、湯船に二人で浸かっていれば当然密着しているし、気を紛らわせるテレビも何もない。必然的に相手の話がすべてとなる。そんなところが良いのかもしれない。

 週末ともなれば、「パパ一緒にお風呂入ろう」と言ってくる。いつまで続くかわからないが、親子の貴重なお話しタイムの場として、これからもバスタイムは大切にしておきたいところである。今度はどんな話をしようか。

 「永遠の0」の映画も公開されているし、次回はこれだろうかと思ってみたりするのである・・・


  

2014年1月10日金曜日

最後の日は

ベルギー最高齢アスリートが安楽死、シャンパンで乾杯して旅立つ
【AFP=時事】ベルギーで「最高齢アスリート」として親しまれてきたエミール・パウウェルス(Emiel Pauwels)さん(95)が安楽死を選択し、家族や友人約100人とシャンパンで乾杯をした後に旅立った。
     
-2014.1.9-
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 日本では認められていない安楽死のニュースである。
日頃考えていた事でもあって、興味を惹かれた。安楽死については、賛否はあるだろうが、個人的には賛成である。というか、もしも自分が将来この人のような立場になったら、やはり同じように選択したいとさえ考えている。生まれる時は、わけもわからず生まれてきたわけであるが、死ぬ時は自分で決めようと思えば決められる。それも幸せな事だと思う。

 そもそもであるが、自殺は良くないとされている。キリスト教も自殺を禁じている。それにはまったくの同感だし、自分だったらやらないし、見知らぬ他人がしようとしていたら止めないだろうが、身内や知人だったら止めるだろうし、自分の場合はとくに、せっかく与えられた命だから最後まで全うしたいと思う。

 親になってから、よく子供たちの行く末を考える。
やがて学校を卒業し、社会人となって誰かと結婚し、子供を生み育て、いずれ老いて死んでいく。もちろん、自分は途中でこの世からいなくなるが、自分の子供が世をはかなんで自殺するなんて、そんなことは想像にすら耐えられない。それは同時に自分の親の気持ちでもあるだろうし、だからこそ元気に天寿を全うしたいと思う。

 ただ、冒頭のニュースの最高齢アスリートのような立場になったら、ちょっと違う。
病気で余命わずかとなったり、ボケて自分が誰かもわからなくなったりした時は、この限りではない。その時は、きちんと身辺整理をした上で、自分で自分の命日を決めるのも悪くはないと思う(もっともボケてたらできないが・・・)。

 日本で安楽死が認められないのは、「命は大事だ」という当たり前の理屈を盾にとって、そこに安住しているだけだと思う。助からないとわかっているのに、最後まで苦しむだけ苦しませるというのはもの凄く残酷だ。それは「命を大事に」している事にはならないと思う。もちろん、苦しまずに最後まで穏やかでいられるならそれに越した事はないと思う。要は、その「選択権」を持っていたいという事だ。

 私が敬愛して止まなかった祖父は、末期がんを宣告されたあと農薬を飲んだ。1週間くらい入院して亡くなったが、「バカな事をした」とは思わない。叔父たちは、告知した医者を批難していたが、逆に私はよくぞ告知してくれたと思う。そして、それを受けて自らの人生に自分でピリオドを打とうとした祖父の気持ちを理解できるような気がする。恐らく祖父は、“絶望”ではなく“満足”から農薬を飲んだのだと思う。

 その時、既に祖母は亡くなっており、子供たちも独立して孫も社会人になったりして、後顧の憂いはなかったはず。ボケて徘徊して亡くなった祖母の世話をしていたから、自分は子供たちにそんな世話をかけたくないと思ったのかもしれない。最後に見舞った病院のベッドで、私に軍隊で使っていた愛用の箸をくれると言い残してくれたが、そんな祖父を批難するとすれば、最後にゆっくり話をする時間をくれれば良かったのにという事だけだ。いつか自分も余命いくばくと宣告されたなら、祖父を見習いたいと思う。

 ただ、その時心配なのは、“手段”が確保できるかという事だ。
ベルギーのように医者が注射してくれれば楽でいいが、今のような安易な「命は大事論」がまかり通っていたら、そうもいかない。私の気持ちを組んで“協力”してくれた人が、「自殺ほう助」で罪に問われても困る。人生の最後に飲むのが農薬というのも哀しい。

 今からそんな事を心配しても仕方がない。もう人生は半分を過ぎただろうし、祖父の年齢まで生きるとして、あと40年。「その時」が来た時に、何の憂いも残さないように、毎日を大切に過ごしたいと思うのである・・・

自分の残り時間がわかるサイト
This Much Longer  
これによると、祖父の年齢まであと14,386日・・・






    

2014年1月5日日曜日

2014年新春雑感

 2014年が始った。
個人的に正月の過ごし方は大きく変えたくないと思っている。元旦に家族そろって初詣に行き、互いの実家へ新年の挨拶に行く。今年も当然そのつもりだった。しかし、いろいろと事情もあって、2日から家族と別行動。私は、妻と子供たちを大阪の妻の実家へと送りだした後、一人自分の実家へと向かった。ちょうど
2011年のお正月と同じパターンである。

 3日には、両親と近所を散歩した。これも
2011年のお正月と同じパターンであるが、ただし、今回は前回とは逆方向へと足を向けた。前回は、生まれてから4歳まで済んでいた林試の森公園の周辺。今回は4歳以降、現在の実家へ引っ越すまで約12年間住んだ武蔵小山と西小山界隈である。

 最初に行ったのが、小山小学校。
すでに校舎は建て替えられ、私が通っていた頃の面影は、プールと狭くなった校庭くらい。ここだと運動会をやるには狭過ぎると感じる。同じ事は、次に行った荏原六中学校にも言える。

 もともと校庭は狭かったが、校舎を建て替えてさらに狭くなった感がある。我が子供たちが通う小学校・中学校の校庭の半分以下だと思う。昔住んでいた家はそのまま。家の前には井戸があって、既に使えなくなっていたが、それもそのまま。今は他人が住んでいるから不可能だが、できれば中に入ってみたかった。

 幼稚園はさらに先。
昔の事とは言え、当時は一人でてくてく歩いて通っていたわけである。仕方ないとは言え、子供たちにも幼稚園には一人で通わせたかったと今でも思う。さすがにこのあたりは友達の家も多い。本人が住んでいるかどうかはともかく、表札は変わっていない。酒屋さんをやっていた家が「カクヤス」に変わっていたのには、時代の流れを感じた。

 昔、会社をやっていた跡地に、小学校の同級生の立派な家が建っていた。こちらは二世帯住宅で、本人の名前の表札も堂々と出ていた。そうして何人かの同級生の家の前を通った。あの頃毎日のように一緒に遊んでいたのに、もうかれこれ40~45年くらい会っていない事になる。だいぶお互いの境遇も変わっているのだろう。そのうち会って、お互いの境遇をおっかなびっくり確認してみたい気もする。

 実家がずっと変わらなければ、こういう散歩にもならなかっただろう。思いがけずに思い出散歩のようになってしまった。今の実家も道路計画で2年後には立ち退きを迫られている。数年後には今の実家の周辺の景色も変わっているだろう。そう思うと、残念な気がする。そのうち、自分達がこの地に住んでいた痕跡などまったくなくなるのだろう。ちょうど、今の実家や自分の自宅の周辺が100年前にどうだったかなんてわからないように。

 実家から自宅への帰り道。親父が車で送ってくれた。車中で約1時間、親父は昔話を饒舌に語ってくれた。若かりし頃、母と出会い、結婚に至る経緯。「今あの頃に戻れたら、お母さんとは結婚しない」と親父は言い切る。思わず苦笑してしまったが、みんな同じような思いを抱えているのかもしれないと思う。

 過ぎ去った過去は変えられない。未来はどうなるかわからない。誰にもどうしようもないが、せめて日々より良く過ごすようにしたいものである。一年後、ブログを読み返した時に進歩がなかったと思いたくはない。今年一年、「もう一歩頑張る」事をキーワードに毎日を過ごしたいと思うのである・・・