2016年10月16日日曜日

善悪はコインの両面

シェークスピアの名作『ヴェニスの商人』は、悪徳ユダヤ人商人を賢い娘がやり込めるストーリーで、誰にも馴染み深い物語である。しかし、その印象も名優アル・パチーノがシャイロックを演じた映画を観るとだいぶ変わる。冒頭から描かれるのは、徹底した「ユダヤ人差別」である。ゲットーと呼ばれるユダヤ人街に押し込められて暮らし、蔑まれ嫌がらせを受けるのは日常茶飯事である。

第二次大戦後、イスラエルが建国されるまでユダヤ人は故国を持たず、世界各地に分散。『逆説の世界史2』でも描かれているが、イエスを死に追いやった民族として歴史的に忌み嫌われ、差別を受けている。ユダヤ人はその商売の才を持って生き抜いてきたが、特に金融面でのそれは金貸しにもなり、借りた金が返せないとなると、取り立てをしようものなら悪人とされてしまうのである。

悪の象徴ダース・ベイダーも、『エピソードIII』でフォースの暗黒面に陥る経緯が描かれるが、その過程は愛する人を救いたいという気持ちからのものであり、その行動にも立派な理由がある。オズの魔法使いで悪役として描かれた西の魔女も、『ウィキッド』を見れば悪のイメージは無くなるだろう。すべてフィクションと言ってしまえばその通りであるが、物事の二面性は実生活でも単純に善悪で色分けできないものがあると感じることしばしばである。

例えば、先日シリアの停戦を巡り、米露の停戦合意が崩壊したと報じられていた。国内では、「アメリカ=善」、「ロシア=悪」という図式で語られることは多いが、冷静に双方の主張を見ると、それぞれに言い分があるものだと思う。ウクライナ問題にしても、同じことをアメリカはコソボでやっているし、互いに国益をぶつけ合う大国同士、どっちが善でどっちが悪と決めることはできない気がする。

そう考えると、日常の議論などはもっと「どっちもどっち」の世界だろう。それぞれに元となる考え方があって、それぞれ「正しい」と思う意見を主張する。「消極的」も裏を返せば「慎重」だし、どちらのサイドから焦点を当てるかによって見方も考え方も変わるだろう。昔は自分が正しいと思ったことは、絶対的に正しいという感覚があったものだが、最近は「相手の正義」も理解するようにしている。相手の意見を認めた上で、その問題においては自分のやり方の方がいい結果になるのではないかと説明・提案するようにしているのである。

議論においては、相手を論破することにあまり益はないと感じている。それよりもどう考えを変えてもらって同意してもらえるか、だ。特にビジネスの現場では己の快感よりも実利を取りたいものである。それには相手の考え方を理解し、その上で「こう考えたらどうか」と提案し、同意してもらうようにできれば話が早い。最近は、そんな工夫を心掛けている。ただ、残念なことに、それは相手に聞く耳があっての前提で、我が家の家庭内のように「絶対君主」が君臨しているところでは、成り立たないのが残念なところである・・・



【本日の読書】 
新しいニッポンの業界地図 みんなが知らない超優良企業 (講談社+α新書) - 田宮寛之 



   

2016年10月12日水曜日

論語雑感(学而第一の4)


曾子曰。吾日三省吾身。爲人謀而不忠乎。與朋友交而不信乎。傳不習乎。
曾(そうし)子曰(いわ)く、吾(われ)日(ひ)に三(み)たび吾(わが)身(み)を省(かえ)りみる。人(ひと)の為(ため)に謀(はか)りて忠(ちゅう)ならざるか。朋友(ほうゆう)と交(まじわ)りて信(しん)ならざるか。習(なら)わざるを伝(つた)うるか。
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 この言葉を見て、まず目を引かれたのは、「三たび省みる」である。「三日坊主」という言葉があるが、人は何かを決意して始めても三日もすれば飽きてやめてしまうことを指しているが、それは「熱意の継続」ができないからであろう。人は常に何かを反省するもの。この次はこうしようとしても、やがてそれを忘れてしまう。忘れないためにどうすれば良いか。それは毎日繰り返して意識するしかない。

私は、毎日日記をつけている。ワードを利用しているのだが、冒頭に並べてあるのは、「今年の決意」である。ワードは立ち上げれば嫌でも1ページが目に飛び込んでくる。だから冒頭に記しておけば、毎日読むことになるからだ。さすがに「日に三たび」とはいかないが、一度でも違うだろうと思うのである。特に私はついつい人を論破しがちであるから、その戒めの言葉は赤字表示である。

そうして日々省みる曾子の言葉であるが、3つとも他人に対する態度である。曾子という人物のことは知らないが、およそこの世は人間関係、他人との関係を重視すべしという考え方は現代でも十分に通じる真実である。そしていずれも自分から相手への一方通行の思いである。相手の反応次第ではなく、まず自分から心掛けるというのは大事なことだと思う。

私も人と議論している時に、最近は特に意識するようにしていることがある。それは、「決して論破しない」ことである。自分の意見に自信があるのは良いと思う。問題は相手も自分の意見を持っていて、かつそれが正しいと考えていることである。それを変えてもらうには、話の筋が通っていることは当然として、モノの言い方もそれに加わる。それに、相手も心の中では自分の不利を感じつつも、表面上引けないということもある。そういう時は、適度なところでストップする必要がある。

また、議論の途中で話の論調がずれてくる場合がある。自分の意見の齟齬がわかり、微妙にこちらの意見に寄ってくるのである。こうした時も追い詰めない方がいいというのが経験値である。昔は白黒決着をつけないと気が済まないタチであったが、今はあえて余韻を残すことを覚えた。時間が経つとこちらの意見に寄ってくることもある。適度なところでストップし、「自分ももう一度考えてみる」ということで締めくくれば、次の機会にはこちらの意見に同意してくれていることも珍しい事ではない。

私もいろいろと経験してきた結果、そうした経験則を得たわけである。だが、ともすれば議論の最中、それを忘れそうになる。自説の説明に熱心になるあまり、相手の反応が目に入らなくなるのである。日に一度でも振り返ることで、議論が始まった時に、それを思い出すことができる。仕事では特に冷静な議論が必要であり、なおかつ、相手を上手にこちらの意見に引き込まないといけない。そうした実践を支えるためには、日に一度の振り返りという形の意識付けが間違いなく役立っている。

そんな効果のある振り返りであるし、せめて日に一度、これからも続けていきたいと思うのである・・・



【本日の読書】 
影響力の心理~The Power Games~ - ヘンリック・フェキセウス, 樋口 武志 本音で生きる 一秒も後悔しない強い生き方 (SB新書) - 堀江 貴文





 

2016年10月10日月曜日

南スーダン派遣に思う

現在自衛隊は、国連南スーダン共和国ミッション(UNMISS)というのに参加し、南スーダンに海外派遣されている。南スーダンは内戦を経て2011年に独立を果たしたものの、依然として国境紛争や内戦の危機にさらされていて、国際社会が支援の手を差し伸べているわけである。かつては、自衛隊が海外に行くことについて、「侵略戦争につながる」として昔の社会党などがヒステリックに反対していたが、今はこうした国際協力ができるようになっている。実にいいことだと思う。

一方で、内戦状態にある地域に行くことは、武力衝突により双方に死傷者が出る可能性も含んでいるわけである。自衛隊員が殺す可能性も殺される可能性もあるわけで、よって「とんでもない」と反対する人たちもいる。特に11月からは自衛隊による「駆け付け警護」が行われる予定で、これはいよいよ現地情勢の悪化を示唆しているわけで、自衛隊による「交戦」の可能性も強くなっていると言えるわけである。この問題、どう考えればいいのであろうか。

国連のPKO活動とは、平たく言えば「喧嘩の仲裁」だ。喧嘩をするわけではないが、喧嘩の仲裁は時として巻き込まれるリスクがある。その点は覚悟しないといけないものであるが、ではだからと言って離れて見ているのがいいのか、が問われているわけである。反対派の人たちはこの点、どう思っているのだろうか。「反対」の声は聞こえど、「あっしには関わり合いのねぇことでござんす」と知らん顔すべきという意見は聞こえないのでわからない。ここのところは実に興味深く、意見を聞いてみたいと思う。

富めるものは、貧しきものを助けるべきかと問われれば、誰もが助けるべきだと答えるであろう。この場合、「富」とは金銭的なものだけであろうか。「平和」は含まれないのであろうか。自分たちが平和に暮らしていければそれだけでいいのであろうか。内戦で苦しんでいる人たちを救うことはしなくていいのであろうかと、思わずにはいられない。「平和憲法」と自慢する人たちには、それは「日本人の、日本人による、日本人のための平和憲法」なのかと問わずにはいられない。

軍隊には、「抑止力」というものがある。一時期ペルシャ湾で盛んにタンカーが海賊に襲われて話題となったが、各国が海軍を派遣して警戒にあたり、被害は激減した。海賊と言っても、貧しい武装しかなく、軍艦を襲えるものではない。丸腰のタンカーなら襲うが、軍艦がそばにいれば手を出さない。軍艦はその「存在だけで」、海賊に襲撃を思いとどまらせたわけである。これが「抑止力」だ。お巡りさんの姿が見えれば、泥棒も強盗も犯行をやめるというものである。

治安が不安定な南スーダンでは、誰もいなければ銃撃戦が始まり、弱い人たちは犠牲になり逃げ惑うことになる。しかし、そこに軍隊が駐留していれば、一定の抑止力が働き、銃弾が飛び交う事態もひとまず収まるかもしれない。こうした役割を先進国が担うのは、ある意味「ノブレス・オブリージュ」とでもいうべき責務ではないだろうか。そして我が国も先進国の一員であれば、「知らん顔」をしていいのかと思う。

「安保関連法案に反対するママの会」という組織が、自衛隊の南スーダン派遣反対に署名を求めている。合言葉は「だれの子どもも殺させない」としているが、現地で銃弾の下で震えている子どもたちは対象にはならないのであろうか。このサイトでは、南スーダンへの支援は「人道支援に限る」としているようであるが、内戦状態のところに「抑止力」なくしてノコノコ出かけていくことは、普通に考えても危険ではないかと思えてならない。

結局のところ、その主張するところは上辺だけのきれいごとでしかない。派遣される自衛隊の人たちには、誠に大変な任務だと思うが、是非現地の人たちに平和のおすそ分けができるように頑張っていただきたいと思う。安倍総理が所信表明演説で、「自衛隊員に敬意を」と呼びかけ、スタンディングオベーションとなったというが、その場にいたら一緒に拍手していただろう。
一国民として、エールを送りたいと思うのである・・・

 

 【今週の読書】

「考える」は技術――世界最高の思考ツールであらゆる問題を解決する - グル・マドハヴァン, 須川 綾子 逆説の日本史22 明治維新編/西南戦争と大久保暗殺の謎 (小学館文庫) - 井沢元彦 





    

2016年10月6日木曜日

アリはキリギリスを助けるべきか

アリとキリギリスという有名な寓話がある。夏の間、せっせと働くアリを横目に、キリギリスは歌い我が世の春を謳歌する。しかし、冬が来て食べ物がなくなると、困窮したキリギリスはアリを訪ねて行く。そして夏の間蓄えた食べ物で快適に暮らしているアリに助けを求めるというものである。

その結末は、キリギリスの境遇を当然のものとしてアリがキリギリスを冷たく突き放すパターンと、食べ物を分けてあげるパターンとがあるようである。どうも突き放す方がオリジナルで、仲良くハッピーエンドなのが「教育的配慮」を加味した修正版のようである。どちらが良いかと言われれば、それは理想的には修正版なのだろうが、心情的には必ずしもそうとは言えないものがあって、一長一短かもしれない。

アリの立場に立てば、確かに人が遊んでいる間働くことはいいことであるし、自分だったら間違いなくそうしたいところである。ただ、その間遊んでいた人が、困窮して助けを求めてきた時にどうするかは難しい。心情的には、「自業自得」と突き放したいところではあるが、目の前で困窮している人を横目に、快適に暮らせるほど面の皮が厚くない。だが、手を差し伸べるということは、結局のところ、「遊んでいた者を助けるために」夏の間汗をかいて働いていたことになる。よほど人間ができていないと、理想的な行動はとれない。

それは単なる寓話ではなく、現実世界でも、例えば「生活保護」のケースに当てはまる気がする。生活保護と言っても、事情はそれぞれだから一概には言えないのであるが、本当に援助がやむを得ないとしても、窮地に陥るまでの経緯に「自業自得」的な要素が強かったり、あるいはもらうのは仕方ないとしても、金額に疑問があったりするものなんかがある。金額については、年金より多くもらえたりするという話も聞くし、普通に働くより多いのは明らかにおかしいと思う。

例えば子どもの頃、友達が遊びまくる中、真面目に塾に通い、友達には「ガリ勉」と馬鹿にされていた子が、やがて東大や一橋や早慶などの一流大学に進学し、そして一流企業に入社して無事定年退職して、それなりに順風満帆な人生を歩み老後をむかえたとする。一方、遊んでいた友達は、高卒や三流大学出で社会に出て、職を転々とし、しまいに派遣切りにあって無職になり、年金ももらえず生活保護を受ける羽目になったとする。近頃は「下流老人」などと言われる存在も出てきたりするが、そういう人をやはり助けるべきなのであろうかと考えてみる。

子供の頃、「ガリ勉野郎」などとバカにされていたとしたら、そうした結末に「ざまぁ見ろ」とでも言いたくなるのが人情だろう。もちろん、両者の差はたとえ生活保護を受けたとしても歴然としているから、どちらがいいかと比べるべくもない。しかし、「遊んでいたって最後はそこそこに暮らしていける」となれば、「コツコツ働くなんて馬鹿らしい」となってモラルハザードを招くかもしれない。ただでさえ、配偶者控除の廃止とか消費税の増税とか、増える負担はすべて「アリさん」が負うことになっている(もちろん生活保護以外にもっと大きな要因がある)。当然、アリさんの蓄えも決して十分とは言えないレベルになってくるわけである。どこまで「ノーブレス・オブリージュ」として甘受しなければならないのかは考えたいところである。

困窮した人が生活保護を受けずに餓死したりとか、悲惨な心中を図ったりとかのニュースに接すると、やはり一定レベルはセーフティネットで救わなければならない人は確実にいるだろう。しかし、不正受給の話も身近なところで聞くのも事実であるし、世の中モラル何て屁とも思わない人がいるのも事実である。そしてこういう輩は、いくら制度を改新しても、確実に駆除できない。となると、アリさんの気持ちとセーフティーネットとをどこで調整するかは、なかなか難しい問題である。

いずれにせよ、生活保護を受けて生きていかねばならないなどというのは、個人的には恥と思う。年金に頼るのは、最後の最後とし、あくまでも働いて己の食い扶持くらいは稼ぎ続けたい。幸い、今の仕事は楽しいし、定年も自分で決められるし、できるだけ息長く働き続けたいと思うのである・・・


【本日の読書】 
実践版 三国志 ― 曹操・劉備・孫権、諸葛孔明……最強の人生戦略書に学ぶ - 鈴木博毅 逆説の日本史22 明治維新編/西南戦争と大久保暗殺の謎 (小学館文庫) - 井沢元彦