2017年5月24日水曜日

意思の力

最近、仕事でいろいろと議論をしていて考えた。「意思あるところに道は通じる(“Where there's a will, there's a way.”)」というが、それはとても大事な考え方だということである。きっかけとなったのは、これからやっていくことについての議論だった。正直言ってやるのは難しい。でも何かやらないと会社の業績発展はない。現状は下りのエレベーターに乗っているようなもの。停滞は死を意味する。では何をやって下りのエレベーターを駆け上がるか。

「冷静に分析して、できる可能性が低かったらやってもしょうがない」という意見を言われた。それを聞いて瞬間的に嫌悪感を感じたが、感情的になるよりも実際のところどうだろうかと冷静に考えてみた。確かにそれは一理ある。世の中、無駄な努力など数多くあるだろうし、何でもやってみればうまくいくというものでもない。だからと言って冷静に分析してやっても無駄と言っていて平然としてもいられない。

しかしながら、よく考えれば「冷静な分析」というのも実はアテにならないと思う。それは頭の中で空想しているだけだったり、「運」と言ってもいい想定できない要素を含んでいないからである。経営の神様松下幸之助は、人を採用する際、「運がいいかどうか」を基準にしたという(【運命を開く】)。その運とはとどのつまり考え方らしいが、その通りだと思う。

ある営業マンが取引を取ろうとある企業に日参していたが、担当部長はけんもほろろ。来ても無駄と取りつくシマもない。頑固そうだし、「熱心に来ても無駄」と言い切る姿勢からは突破口を開く道筋が見えない。一日の終わりに疲れて帰る道すがら、それでも今日も行ってみようと足を向けた。ところが部長はその日は風邪で休みで、代わりに出てきた社長が暇をいいことに話を聞いてくれ、面白そうだとその場で契約してくれた。たとえの作り話であるが、似たような話はこれまでも耳にしたことがある。まんざら突飛な作り話でもないはずである。

では、そうした「偶然」を予測できるかと言えば、いくら「冷静に予測」したところで予測できない。そうした「偶然」を呼び寄せたのは、「諦めなかった心」であり、それは「執念」とも「情熱」とも言えるが、結局は「意思の力」に他ならない。そういう意思の力をもって何かをやろうとして奮闘していれば、たまたまそれを見ていた人が協力の手を差し伸べてくれるかもしれない。そういうものだと思う。

「できるかできないか」ではなく、「やるかやらないか」。
目の前の道は舗装された平坦な道ではなく、曲がりくねった砂利道が上り坂になっているようなものだと思う。次々に出てくるハードル。それを乗り越えたりくぐったり蹴とばしたりしながら目的地に向かって進んでいかないといけない。そこで必要になってくるのは、もう「意思の力」しかないと思うのである。

目の前にあるLong and Winding Road。意思の力をもって突き進んでいきたいと思うのである・・・


 
【本日の読書】
 経済がわかる 論点50 2017 - みずほ総合研究所 ノモンハンの夏 (文春文庫) - 半藤 一利





2017年5月21日日曜日

国立にて

JR中央線の国立駅は、私が大学時代毎日通った街である。その後、銀行に入った後も3年間ほど国立にある支店に勤務していたことがあるので、これを含めると都合7年ほど通勤通学で通ったことになる。それはそれぞれ30年、20年ほど前のことである。今も大学のラグビーグラウンドには学生の試合を観に行ったり、シニアチームの練習に参加しに行ったりする時にちょくちょく訪れている。そんな本日も、グラウンドに行く前にちょっと時間があったので、ゆっくりと散歩してきたのである。

人生で初めて国立駅に降り立ったのは、かれこれ34年ほど前の受験の時である。北口の改札を出ると、まっすぐ伸びる大通りがあって、その沿道を歩いて行くと、やがて緑に覆われたキャンパスに到着する。そのアカデミックな雰囲気を一発で気に入ってしまい、この大学に入りたいと心から思ったし、将来はこの地に住みたいとすら思ったのを覚えている。

かつて駅前にあった本屋さんはもうないが、銀行と信用金庫の大きな店舗は健在である。30年前から残っている店も結構多い。フランス料理のレストランもそのまま。学生には敷居が高すぎて、その後も結局チャンスがなくて行ったことはない。その代わりなんども行った喫茶店が健在なのはうれしい限り。

銀行員時代に取引先だった店舗がある。もう社長さんもいい歳だろうなどと思ってみる。何気なく入って行けば、今もあの頃のように店番をしていたりするのだろうか、それとも代替わりしたのだろうかなどと思ってみる。入って行ってみて、仮に社長さんが今も店番をしていたとしても、私のことなどもう覚えていないだろうと思う。

キャンパス内は、さすがに大きな変化はない。講堂関係は昔のままだし、緑の中で悠然と佇む様は壮観である。それだけ見ていると、時間の流れを感じさせない。今でも30年前の感覚が蘇ってくる。私は、当時の大半の学生の風潮と異なり、授業にはかなり真面目に出ていた。授業とラグビーとで、一週間に7日間国立に通っていた。各教室内の雰囲気も味があって良かったと今でも思う。

街を歩いていて、そこかしこに思いが及ぶ。普段はすっかり忘れていても、そこに来ると思い出すことがある。それは学生時代のことであったり、銀行員時代のことであったりするが、そこに来た瞬間、「ああそう言えば」と思い出すのである。そう考えてみると、この街には私の思い出が埋まっていると言うこともできる。だからだろう、散歩していても飽きると言うことがない。それどころか、「あそこはどうなっているだろうか」などと次々に連鎖して行くから、全部行こうとしたらとてもではないが、「ちょっと散歩」と言うわけにはいかないだろう。

今日はほどほどに切り上げ、グラウンドへと向かった。5月とは思えない夏日の1日。人工芝の上でボールを追い、流す汗が心地良い。ここはいつも気軽に来ることができる。30年前は、土と雑草のグラウンドだったが、今では立派な人工芝。あの頃、こんなグラウンドでやりたかったなとつくづく思う。高架式になり近代的になった国立駅から帰りの中央線に乗る。昔の味わいのある駅舎は残念ながらもうない。変わったようでいて変わらず、変わらないようでいて変わりゆく街。

次に行くのは、また来月の練習日。また少し早めに行き、今度は今日歩かなかったところを歩いてみようかと思ったのである・・・



【今週の読書】
 ニュースで学べない日本経済 - 大前 研一 ノモンハンの夏 (文春文庫) - 半藤 一利





2017年5月17日水曜日

論語雑感 為政第二(その2)

子曰。詩三百。一言以蔽之。曰思無邪。
曰(いわ)く、詩(し)三百(さんびゃく)、一言(いちげん)以(もっ)て之(これ)を蔽(おお)えば、曰(いわ)く、思(おも)い邪(よこしま)無(な)し。
【訳】(Web漢文体系)
先師がいわれた。詩経にはおよそ三百篇の詩があるが、その全体を貫く精神は『思い邪なし』の一句につきている。
*******************************************************************************************************
中国古典として有名な詩経について語ったものであるが、詩経については読んだこともなく、名前しか知らない。したがって、全体を貫く精神がどうのこうのと言われてもピンとこない。ただ、「邪なし」という部分については思うところもあり、考えてみた。

「邪がない」ということは、国語的には「正しくない」といった意味になるのであるが、果たして詩経の意味するところはどうであろうか。読んだこともないので細かいニュアンスはわからない。ただ、個人的に「邪なし」と聞くと、「純粋」というイメージがする。何が純粋かというとそれは「私心がない」ということだろう。それは特にリーダーに求められる資質だと思う。

リーダーとは、会社で言えば社長だし、スポーツチームで言えば監督だろうか。もっと下のレベルで部長とか課長とかの場合もあるだろうし、キャプテンのレベルもあるだろうが、いずれにせよリーダーに「私心」があると、それはチームの士気にかかわり、メンバーのロイヤルティーにもかかわると思う。当然、私心溢れるリーダーの下では、士気も上がらないだろうし、ロイヤルティーも下がるだろう。

考えてみれば当然で、社長が社員に出す指示が、私腹を肥やすことにつながったりしていれば、社員は黙って従うだろうが内心良くは思わない。例えば中小企業などでは、よく社長が私用で使った領収書を経理に回すようなことがある。社長にしてみたら自分の会社だし、少しでも税金を軽減したいしという思いから、何も考えずにそうしているのかもしれない。ただ、それを指示されてやる立場からすると、(自分だったら)快くは思わないだろう。逆にそれが営業に関するものだったりすると、「社長も頑張っているのだな」と思うだろう。

監督に対する信頼感も、もちろんその指示がチームの勝利に結びつくものであることによって強化されるだろう。それがメンバー選びなどで、自分より劣っていると思う者が選ばれて、それが監督の身内やお気に入りだったりすると、チームに献身する気も失せてしまうだろう。言い換えれば「納得性」という言葉になると思うが、そうしたものがチームスポーツなどではチームの原動力の一因になると思う。

こうした「邪なし」はリーダーだけに問われるものかと言えば、それだけでもないだろう。例えばチームの一メンバーであったとしても、チーム方針に対する意見を述べる時などは、大局的な観点に立った意見というものが要求されるだろう。「チーム全体にとって良い事」であれば、その意見にも説得力が加わる。単に自分に都合がいいだけのものだったりすれば、反発を招くだけでとてもみんなの合意など得られない。

そうしたことをあれこれと考えると、結局のところグループで動く場合は、この「思い邪なし」という原則が基本原則になってくるように思う。果たして詩経に収められているのはどんな内容なのかはわからないが、この言葉を目にしてそんなことを思う。
今、小さいと言えども会社の中でそれなりの立場にいることを考えると、我が身にも当てはめてみたいと思うのである・・・

 

【本日の読書】
 レシピ公開「伊右衛門」と絶対秘密「コカ・コーラ」、どっちが賢い?―特許・知財の最新常識― - 新井信昭 怪談 (集英社文庫) - 小池真理子




2017年5月14日日曜日

朝令暮改がなぜ悪い

先日のこと、社長がずっと当面の会社の目標としてきたことを変えるような発言をした。ここにきて突然変えるのかと思ったが、それは果たしていいことなのか悪いことなのか正直に言えばわからない。目標がコロコロ変わったらやりにくいし、かと言って絶対不変のものでなければいけないというものでもないだろう。何が正しいのか、自分の思考も整理したいと思う。

これに関連して、朝令暮改という言葉がある。朝に出した指示を夕方変えてしまうことで、一般的にはマイナスイメージの言葉として捉えられている。しかし、ビジネス的には、めまぐるしく変わる経営環境には迅速な対応が求められるのも事実だし、朝令暮改のスピード感が必要な時もある。一概に悪いこととは言えない。

では、何が良くて何が悪いのか。なんとなくそれは、「変えるべきもの」と「変えてはいけないもの」の違いである気がする。企業のあるべき姿とか大目標とか、そうした根幹に関わるべきものは、そうそう易々と変えるべきものではないだろう。一方で、それらを達成する方法は柔軟に変えていくのが良いと思う。戦術は柔軟にである。

例えば、「北海道に旅行に行こう」という目標があったとして、みんなで準備をしていたとする。そこで「飛行機で行こう」と言っていたものを直前になって「やっぱり新幹線で行こう」、「フェリーで行こう」と変えるのは戦術レベルの変更だ。目標を達成する手段は、「その達成の仕方」を含めて変えてもいいと思う。しかし、「やっぱり沖縄に行こう」とやられると、準備は最初からすべてやり直しとなる。これを朝令暮改でやられるのは、実行部隊としては厳しいものがある。

では、「そこは絶対変えてはいけないのか」と言うと、そう言い切ってしまうのも問題があるような気がする。ただ一つ言えるのは、「朝令暮改で変えるべきではない」と言うことだろう。企業の根幹に関わることをコロコロ変えるのは、社員のモチベーションや外部に対する信頼感という意味でまずいであろう。誰もが仕方ないと納得するような理由が必要になってくる。

そういうと、仕方ない理由を簡単に探してきて見せたりする人もいるかもしれない。だがそれは、「よっぽどの理由」である。例えば、「大地震で現地は大混乱」などとなれば誰もがやむを得まいと思うが、「天候が悪化して飛行機が運休」などという程度では「よっぽど」とは言えまい。代替手段が思いつく限りは、目標達成に向けて少々の障害はクリアしないといけない。

では、「よっぽどの理由」がなければダメなのか。これも最後は「納得性」の問題だと思う。指示される社員が、「納得」すれば問題ない。結局のところ、あれこれ考えても最後はこの「納得性」なのではないかという気がする。「変えるべきではない」ようなことを変えるにあたり、十分な時間をとって説明し、議論し、そして納得を得る。その上での変更なら、社員も「仕方ない」と思うのではないだろうか。

結局のところ、1人でやっているなら何も問題はないわけであるが、社員を使い組織で動く場合には、目標変更は社員のモチベーションを意識してやらないといけないという結論に行き当たる。そしてそれは、戦術レベルならともかく、企業の根幹に関わるものになればなるほどである。必然的に朝令暮改的にはできなくなるであろう。

さて、そう結論づけたところで我が社の目標はどうなるのであろうか。社長の気持ちもあるし、じっくりと議論して双方の納得性を高めていきたいと思うのである・・・




【今週の読書】
 東大が考える100歳までの人生設計 ヘルシーエイジング (幻冬舎単行本) - 東京大学高齢社会総合研究機構 海と毒薬 (角川文庫) - 遠藤 周作, 駒井 哲郎





2017年5月11日木曜日

宗教の意義

前回、宗教のあるべき姿について考えた際、同時に何となく感じたこと。それはなぜキリスト教が度重なる迫害にも負けずに拡大し、世界宗教へと発展したのかという理由である。それは、遠藤周作の『侍』をよんでいて何となくわかったような気がする。

 『侍』では、主人公の侍は藩命を受けて宣教師ベラスコに率いられてノベスパニアからスペイン、バチカンへと旅するのであるが、藩命を成就すべく道中でキリスト教に改宗する。心からの改宗でなく形だけのものである。ところが国内ではキリスト教に対する弾圧が開始され、侍の藩命は叶うことなく終わり、失意のうちに帰国する。そして、そこに待っていたのはキリスト教に帰依したことに対するお咎め。

 お役目を果たせなければ切腹もあり得る時代、お役目の為に苦難の旅を果たしたが目的叶わず、待っていたのは理不尽な仕打ち。侍はやり切れぬ思いに苦悩するのであるが、やがて十字架に磔となったキリスト像に救いを見出していく。ここに宗教の本質があるように思う。三浦綾子の小説『氷点』を読んでキリスト教の「原罪」の意味が良くわかったが、この本では宗教に帰依する気持ちがわかったような気がする。

 その本質は、「救い」である。侍はお役目大事と自らの意思を曲げてキリスト教に改宗する。しかし、国内情勢の変動という自らはどうしようもない外部事情でお役目を果たせず、さらに帰国後は「キリスト教に帰依した」という事実をもって責められ、詰め腹を切らされることになる。これほどの理不尽に対し、侍は誰にもその無念をぶつけようもない。そんなやり切れぬ思いを癒してくれたのが、信じてもいないキリストの像だったわけである。

 「苦しい時の神頼み」という言葉がある。人間は、どうしようもないピンチに陥り、あるいは不安を抱えた時に普段信心もしていない神様にすがるのである。「神仏は尊ぶが神仏に頼まず」が信条の私でさえ、数年前神頼みをした。毎朝早くに近所の氏神様を詣で、手を合わせたのである。その時はもう自分ではできることはない状態で、できることと言えば神頼みくらいであったから、神様に手を合わせたのである。実際は、神頼みと言いつつ半分は手を合わせることによって心の平安を得ていたところもあったと思う。それも宗教の役割だと思う。

 藩の為にと私心を捨ててやった行為が仇となり、今やそれで腹を切らされる。侍にとってはそれは耐え難き心痛であろう。客観的に見ても運が悪かったとしか言いようがない。そして武士としてはお家存続もあり、抵抗は許されない。理不尽な運命を受け入れるしかない時、そっとそばで慰めを与えてくれれば、人は誰でもその者に心を許すであろう。侍が真のキリスト者になっていく過程がよく理解できる小説であり、三浦綾子と同様、クリスチャンであった遠藤周作らしい信仰の描き方で、両著ともキリスト教というものをよく説明してくれている。

 私の場合は、結果的に神頼みの効果はなかった。そういう意味では、「髪も仏もあるものか」という気分だったが、毎朝神社にお参りをすることによって、一時の心の平安を得られたのは事実である。そしてそれでいいのだと思う。やはり神仏は尊ぶものであって、頼むものではないのである。神社に行って神聖な空気に触れ、心静かに謙虚な気持ちで二礼二拍手一礼する。それで心の平安を得られれば良いとするべきなのであろう。

 毎朝神社に通っていると、神社の前を通る時に一礼して行く人たちが少なからずいた。ちょっとした驚きであったが、そういう人たちがいることを嬉しくも思う。自分自身、キリスト教徒になることは、これからも多分ないと思うが、近所の氏神様に対する信心は持っていたいと思う。そしてそこを謙虚になれる自分なりの場所と時間とにし、折に触れ足を向けたいと思う。
そういう信仰もありなのではないかと思うのである・・・



【本日の読書】
 東大が考える100歳までの人生設計 ヘルシーエイジング (幻冬舎単行本) - 東京大学高齢社会総合研究機構





2017年5月7日日曜日

宗教のあるべき姿

最近、『侍』を読み、『ノートルダムの鐘』を鑑賞し、その流れでキリスト教に関しいろいろと思いを巡らせた。自分自身、平均的日本人らしく宗教観は曖昧で、「なんとなくぼんやりとそれらしく振舞う」といった程度である。心から信じている神の像があるわけでもなく、せいぜい初詣とかに神社で手を合わせるくらいである。

ドライに考えていくなら、神様というのは人間の想像力の賜物だと思う。地球ができたのも生命の誕生も自然現象のなせる技で、あえて言うならその自然現象を引き起こす力を神と名付ければ辻褄が合うだろうが、イエス・キリストの奇跡は今となっては検証のしようもないし、言い伝えの類だと思う。ただ、宗教は人間を謙虚にさせる効果もあるし、様々な効用があるから、信じること自体悪いことではなく、むしろ良いことだと思う。ただ、信者としての姿は如何なものかと苦言を呈したくなること、しばしばである。

その最たるものは、「なぜ自ら崇めるキリストのように行動しないのか」というところだろう。十戒では、「汝殺すなかれ」と説かれているにも関わらず、殺人はなくならない。ある程度の犯罪者は別としても、十字軍の歴史を紐解くまでもなく、「神の御名において」正当化された軍事行動は数え切れない。キリストの奇跡を信じるのであれば、キリストの教えたように行動すべきなのではないのだろうかと思ってみる。

例えば、イエス・キリストが現代に復活し、アメリカ合衆国に住んで大統領に立候補したら、間違いなく当選するに違いない。その時、イエスは必要な事態となった場合、果たして核のボタンを押すであろうか。それほど極端でなくとも、そもそも軍にシリアへの空爆のような作戦行動を命じるであろうか。「左の頬を打たれたら」と教えるキリストがそんな行動を命じるはずがない。だが、普通の大統領に選ばれるような人は、たとえクリスチャンでもそうは考えないであろう。銃規制ができないのも、規制されては困る銃器メーカーが裏で手を回しているのだろうが、神の教えに従うのであればそういうことはできないしさせないであろう。

結局、キリスト教徒と言っても、それは「都合の良い部分だけを都合良く」解釈して神を信じているというだけの話であると断言しても差し支えはないであろう。一人一人が、「もしもイエス・キリストであったらどう行動するだろうか」と考えて行動するのであれば、アメリカをはじめとした欧米諸国の行動も違ったものになるだろうし、世界は今よりもはるかに平和になっているに違いない。

もちろん、日曜日には必ず教会に行き、自らの行いを常に悔い改め、人には愛をと真面目に教えを守っている人もいるだろう。だが、大概は自分の都合の良いように教えを解釈し、神の御名の下、自分の好きなように行動しているように思えてならない。『ノートルダムの鐘』のフロロー大助祭の姿がそれをよく物語っている。私はクリスチャンではないから、神を信じながらもその教えに従おうとしない考え方はよくわからない。その点、我が国の宗教は寛容だと思う。

我が国の宗教は、主として神道になると思うのだが、神道では何かをしろと命ずることもなく、八百万の神々に対してはただ敬う気持ちだけを持てば良いというもの。他の宗教の神についても寛容であるから、仏教を始めキリスト教もイスラム教も禁止しない。歴史的に神道に宗教戦争がない所以である。日曜日の礼拝も、1日5回の礼拝も義務付けられておらず、思わず存在を忘れてしまいそうなほどである。そう考えると、我が国の神道は大事にするべきものに思えてくる。初詣以外にも折に触れ、ご近所の氏神様にお参りでもしないといけない気もしてくる。

人間は、ともすると尊大になりがちである。自分よりはるかに偉大な存在があるということは、人間を謙虚にさせる効果がある。人に頭を下げるのに抵抗がある人も、神様なら抵抗は少ないだろう。そういう意味で、宗教はあっても良いと思うし、自分も否定せずに受け入れたいと思う。そしてできるならその教えは、我が国オリジナルの平和的なものにしたいと思う。もしもこの先クリスチャンやムスリムの人と宗教について語る機会があれば、自信を持って我が国の伝統的宗教の信者を名乗りたいと思うのである・・・



2017年5月5日金曜日

ノートルダムの鐘

先日、久しぶりに劇団四季のミュージカルを観に行った。観たのは、『ノートルダムの鐘』。何となく『ノートルダムのせむし男』というタイトルで覚えていたのだが、実は「せむし」が問題ある言葉だとされて変えられたのだと知る。原題は「パリのノートルダム」。何となく味気ない。相応しいタイトルというのは難しいものだと思うが、劇団四季のミュージカルを観たあとでは、『ノートルダムの鐘』というタイトルが一番いいように思う。

この『ノートルダムの鐘』であるが、ディズニー映画のキャラクターは脳裏に浮かぶが、実は原作を読んだことも映画やその他を観たこともなく、ストーリーは知らなかった。ヴィクトル・ユゴーの原作ということも知らず、有名な作品なのにあまりにも無知だったと思い知った次第である。「ヴィクトル・ユゴー原作」となると、何と言っても『レ・ミゼラブル』であるが、映画化されたものには、『ヴィクトル・ユゴー笑う男』などもあり、共に独特の雰囲気があった。そうした流れからすると、この作品にも同じ雰囲気があると観終えて強く感じたところである。

物語はタイトルにある通り、パリのノートルダム大聖堂が舞台となる。そこで大助祭を務めるフロローは、弟の遺児であるカシモドを育てている。カシモドは奇形児でせむしであり、その醜い姿を世間に晒すまいと、フロローは大聖堂の一室にカシモドを押し込めている。そして年に一度のある祭りの日に外に出たカシモドは、世間の嘲笑とジプシー娘のエスメラルダとに会う。そのエスメラルダには、何と大助祭のフロローも惚れてしまい、さらに大聖堂警備隊長のフィーバスもエスメラルダに惚れ、密かにエスメラルダに恋心を抱くカシモドも入れ、四角関係が出来上がる。

フロローは聖職者であり、しかもジプシーに対する嫌悪感を隠さない。カシモドは醜いせむし男となると、女としてのエスメラルダは自然と美形のフィーバスに心がいく。しかし、権力者でもあるフロローは、エスメラルダを何としてもモノにしたくて、それで自らの唯一の拠り所とする権力を持って事にあたろうとする。そしてそれがこの物語の悲劇へと繋がっていく。ストーリーはともかくとして、個人的に登場人物の中で一番興味を持ったのは、実はこのフロローであった。

フロローは、真面目に勉学に励み助祭へと進む。フロローの弟は兄とは反対に遊び暮し、ジプシーの女と恋仲となり、挙句に奇形児を残し病死してしまう。フロローは、賤むべきジプシーの血が入った奇形児に嫌悪感を抱くも、弟の遺児でもあり一応育てる事にする。聖職者であれば当然であるが、醜い奇形児ゆえに世間から隠して育てる。このあたり世間体を気にする性格でもあったのかもしれない。そして何と言ってもエスメラルダに対する歪んだ愛情。

普通女性に恋をして何とかしたいと思ったら、素直に気持ちをぶつけてアタックするだろう。しかし、フロローは権力でこれをモノにしようとする。「何と卑劣な」という感があるが、よくよく考えてみると、真面目に勉学一筋に励んだフロローには恋愛経験などなく、そうした愛の表現の仕方がわからなかったのだと思う。高いプライドもあって女性の、しかも差別視しているジプシーの女の前にひざまづくなんてできなかったのだろうし、自分が振られるのも許せなかったのだろう。だから高圧的に「俺の女になれ」と命ずるしか方法がなかったのだろう。考えてみれば気の毒である。

そうした女性に想いを告げる「テクニック」は、どうやったら手に入るかというと、やはり友人関係だろう。思い出すのは、大学に入学した直後のこと、アルバイトでたまたま一緒になった同じ大学の学生がタバコの吸い方を知らないのを目にした事がある。多分そいつは、小さい頃から親の言う通りに真面目に勉強に明け暮れ、女の子の話題で盛り上がったり、不真面目な友人との交流もなかったのだと思う。酒もタバコも従兄に教えてもらえた自分は、つくづくラッキーだったと改めて思う。

そう考えると、真面目に勉強だけしているのが必ずしも良いとは限らない。否、学ぶべきは学校の勉強だけではなく、酒やタバコや女の子との付き合いも立派な勉強だと言える。それらは学校で教わるものではなく、悪友だったり先輩だったりするのだろう。人間が成長するには、清流という環境ではなく、多少の濁り水も必要だということだろうと思う。もしもフロローもそうした濁り水を経験していたら、この物語は生まれなかったかもしれない。

何だかミュージカルとは離れたところに想いを馳せながら家路に着いたのであるが、それにしてもヴィクトル・ユゴーの世界は暗いものだと感じる。そういう時代背景だったのか、それともそういうものをあえて描きたかったのか。原作は劇団四季のミュージカルと微妙に違うところもあるようだし、今度原作も是非読んでみたいと改めて思った観劇の一夜だったのである・・・



【今週の読書】
 西武信用金庫はお客さまを絶対的に支援する - 碓氷悟史 住友銀行秘史 - 國重惇史






2017年4月30日日曜日

論語雑感(為政第二その1)

子曰。爲政以徳。譬如北辰居其所。而衆星共之。
子(し)曰(いわ)く、政(まつりごと)を為(な)すに徳(とく)を以(もっ)てす。譬(たと)えば北辰(ほくしん)の其(そ)の所(ところ)に居(い)て、衆星(しゅうせい)の之(これ)に共(むか)うが如(ごと)し。
【訳】(Web漢文大系)
先師がいわれた。徳によって政治を行なえば、民は自然に帰服する。それはあたかも北極星がその不動の座にいて、もろもろの星がそれを中心に一糸みだれず運行するようなものである
*********************************************************************************************************
 「徳によって政治を行う」というのは、よく考えてみるとなかなか理解が難しい。ここでいう「徳」とは何なのか。何となく「人として備えている優れたもの」というイメージはあるが、はっきりとした説明は難しい。逆に政治家にはどんな人物像が理想的かと考えてみる。政治家が己のことだけを考えて政治を行ったとしたら、民衆からそっぽを向かれるだろう。そうではなくて、「自分たちのための政治をしてくれている」と感じたら、大いなる支持を得られるに違いない。

そんなイメージからすると、政治家が備えるべきものとは「利他の心」とでもいうべきものかと思う。「人のために何かをする姿」というものは、やはり共通して人の心を動かすものである。政治家という職業(「職業」という言葉が適切かはわからないが)は、「人(国民)のために何ができるのか」が問われるものである。まさに「利他の心」がなくてはならない職業であろう。そういうスタンスが前面に出ている政治家であれば、まさに北極星のごとく人がその周りを回る様になると思う。

個人的には、それにプラスして「信念」を推したいところである。「人のため」と言っても、「良薬口に苦し」のたとえもある。目先不利益があったとしても、やり抜いた後にもっと大きな幸福があることもある。多少の批判に動ぜずに信念を持って、国民のためになると信じることをやり抜く必要性だってあると思う。現在は特に浅薄なマスコミがちょっとしたことですぐ批判をし、それを恐れた政治家が目先の人気取りに走っている様も目に付く。誠に嘆かわしい限りである。

それに「筋を通す」ということも大切だと思う。「言っていることとやっていることが違う」ということは、政治家でなくても人の上に立つ者ならやってはいけないだろう。最近、女性問題で自民党を離党した中川俊直衆議院議員は、過去に世襲を否定していたが、その3年後に父の選挙区から堂々と立候補して当選している。さらに離党後休業宣言を出したが、休業するなら一旦議員をやめるべきだろう。国民の代表として活動できる人にその地位を譲れば、その間代わりの人が国民のために働けるというものである。

また、これも最近民主党を離党した長島昭久衆議院議員は、小選挙区で落選し比例代表で復活当選した議員であり、離党するなら議員も辞職しないと筋が通らない。国民は「民主党」に投票したのであって、「長島昭久」には投票していない。個人名では落選しているのだから、党を辞めるのであれば議員も辞職するのが「筋」だろう。離党の理由は大変立派だと思うが、だから「筋」を曲げてもいいというものではない。もっとも政治家のこんなことを一々挙げていればキリがないのは、実に嘆かわしいことである。

考えてみれば、「徳」が必要なのは、政治家だけにとどまらないと思う。かの経営の神様、松下幸之助も「人間として一番尊いものは徳である」との言葉を残している。先日、その神様についての本を読んだが、そこで紹介されているエピソードを数々読むと、なるほどと思わされる。松下電器に距離を置いていた取引先の社長さんが、幸之助の人柄に触れ、次の日から店頭の商品をすべて松下電器のものにしたなどという話はその最たるものであろう。こういう人こそ、政治家たるべきものだったのではないかと思うのである。

孔子もそんなことをよく理解していて、だから「徳が大事」と語ったのだと思うが、その言葉は2,500年経った現代でも極めて真実であり続けていて、それどころか、政治にとどまらずあらゆるリーダーが備えるべき資質として当てはまるものかもしれない。企業でも自社の利益ばかり追求しているところは人の支持など得られないだろう。社長はもちろんだが、企業としての「徳」も必要なのではないかと思う。

そうした「徳」を備えた企業であれば、働いていても楽しいであろう。それは決して、夢物語などではなく、実現できるものだと思う。我が社も小なりと言えど、そういう企業を目指して、明日からまた頑張ろうではないかと思ってみた次第なのである・・・




【今週の読書】
 住友銀行秘史 - 國重惇史 ヤバい心理学 - 神岡真司