2022年2月23日水曜日

ものの上手

 「好きこそものの上手なれ」とは、昔からよく言われる諺である。実に的を射た諺であるとつくづく思う。好きだからこそ、「もっと」やりたいと思い、一生懸命やる。上手くなりたいと思うから「もっと」工夫する。「もっと」上手くなれる方法はないかと常日頃考えているから、いろいろな情報が入ってくるし、そこから学べる。興味がなければスルーしてしまうような情報でも、感度の良いアンテナには引っかかってくるのである。だから上達する。「もっともっと」と追求する姿勢が上達につながるのである。簡単な理屈である。

 ではその逆に好きでないものとなるとどうなるか。興味がないからまずやらないし、やってもすぐ辞めてしまうだろう。当然、上手くなりたいとも思わないから工夫もしない。仕方なく、言われたことを渋々やる形だろう。良い情報がたとえあったとしても、やる気がなければスルーしてしまうだろう。だから学ぶ範囲も限られているし、ともすれば覚えたとしても忘れてしまうだろう。そこには「もっともっと」の気持ちはかけらもない。だから上達もしない。

 顕著にこの傾向が出るのは趣味の世界だろう。私もシニアラグビーが楽しくて仕方ない。若い頃はFWだったが、今はBKに転向し、慣れないポジションをマスターしようとそれこそ日々研究している。テレビで試合を観ても、同じポジションの人の動きを追ってしまうし、そこで目についたプレーなどは、次の機会に自分でもやってみようと思ったりする。練習でも全体練習だけではなく、自分の弱点を改善するための自主練習をしたりしている。学生時代も他の人より1時間早くグラウンドに行って筋トレをしていたものである。

 しかし、同じ好きでもその程度は人によって違う。私も学生時代1時間早くグラウンドに行っていたが、みんなそうしていたわけではない。早く行っていたのは、筋トレをするためであり、自分がそうする必要があり、そうしたいと思ったから。みんなが同じように考えているわけではない。それこそ、「人は考え方でできている」のである。四六時中夢中になっている人もいれば、そうでない人もいる。その程度は人様々である。

 また、好きでなくても上手な人はいる。どうせやるなら上手くやってやろうと自然と考えるタイプである。私もどちらかといえばこのタイプである。どうせやるならもっと効率的に、あるいは「こうした方がいいのではないか」とついつい工夫してしまう。もともと「言われたことを言われた通りにやる」ことが好きではない。最初は言われた通りにやったとしても、何度もやるようなことは、自然と自分なりにやり方を考えてしまう。もちろん、すべてではない。どうしても興味の持てないことはこの限りではない。さっさと言われた通りにやって終わらせて手放したいと思ってしまう。

 そういうことを考えてみると、仕事においても彼我の違いが見えてしまったりすることがある。私は仕事好きというわけではないが、どうせやるなら人より上手くと考える方である。だから創意工夫は常だし、日頃からいろいろと意識してアンテナを張っている。プライベートの時間でも常に意識はオンに入るようになっている。どうやったら一番いいかということを考えているし、自分の責任の範囲内だけでなく、会社全体の立場で常に考えている。そうしていると、やがて頼られて意見を求められるようになっている。

 そうでない典型的な人が会社にいるが、その人の仕事ぶりを見ていると、「決まった仕事」か「指示された仕事」しかしない。おそらくそれが一番責任がなくていいからだろう。そういう仕事は楽である。また、その人に仕事の指示をする場合はやり方も指導しないといけない。自分では考えてくれないからである。文字通り「手取り足取り」である。私より年上であり、もう定年後の再雇用であるが、そんな状態だから給与も最低限である。ご本人は内心不満を感じているようであるが、そういう働き方では仕方のないことである。

 仕事は好きとは別に「やらなければならないこと」である。給与も「もらうもの」ではなく、「稼ぐもの」という意識でいないとダメだと思う。たとえサラリーマンであっても、である。その時に重要なのは、「もっともっと」の精神だろう。そういう意識を持って自分の仕事を広げていけば、給与も減ることはないだろう。好き嫌いとは別に、「もっともっと」の気持ちが必要であると思う。どうせやらなければならないこと、しかも生きていく上で必要なことであれば、「もっともっと」と追求して「ものの上手」を目指していきたいと思うのである・・・


Click on 👍🏼👍🏼, consider ☕ Thank you! 🤗によるPixabayからの画

【今週の読書】
  


2022年2月20日日曜日

国語と数学

 最近、人と話をしていてどうもこちらの意図がうまく伝わっていなかったり、なかなか理解してもらえなかったり、話の内容が要領を得なかったりということが多いなと感じる。よくよく考えた結果、それは国語力と数学力の不足だろうという考えに行き着いたのである。国語力とは、要は読解力であり、相手の話を理解する力である。相手が一体何を言っているのか、言いたいことは何か、相手の気持ち(意図)は何かということである。

 これに対し、数学力とは、一言で言えば論理的思考である。解決策に向けてどのような経路を経てそこに辿り着くのか。与えられた状況の中で、自分の知識を総動員して解法を導く力である。私の卒業した大学の法学部では二次試験で数学の点数が4割を占めていた。文系なのになぜとその時は思ったが、要はこの論理的思考力を測られたのであろう。数学も小学校の「算数(数を算える)」から中学で「数学」に変わるのには意味があるのである。数学と言っても、数学Iには「必要条件・十分条件」「集合」など計算系とは全く異なる「論理」の概念があるのもこのためであろう。

 もちろん、数学も高校3年になると数学III、数学Cと進むが、これは理系科目であり、さすがに文系の大学の入試科目にはならないが、数学I・II、数学A・Bなどは文系でも必要な思考力のトレーニングなのである。だからよく見れば文系の大学入試でも数学が受験科目になっているところが地味にかなりある。「自分は数学が苦手だから文系」と考えるのは大きな間違いで、また「国語が苦手だから理系」と考えるのも間違いである。そもそも読解力がなければ問題で何が問われているのかも正確に理解できない。論理的思考ができなければ、物事の説明もうまくできない。ゆえに文系だろうが理系だろうが、国語力と数学力は必要だと言える。

 この国語力と数学力が弱い人は、まず話の要点をうまく捉えられず、従って問題点もよく理解できない。それをうまく説明できないから、解決のヒントも得られない。問題点がわかれば、解決策もあれこれと考えられるし、説明するに際しても要点を押さえて論理的に説明できる。だから解決策もうまく考えられる。この力が弱い人には、何度も説明しないと理解してもらえない。以前の私の勤務先の社長がまさにこのタイプで、他の役員がすんなり理解してくれることをなかなか理解してもらえなくて難儀したものである。

 考えてみれば、「主要三教科」と言えば、「国語」「数学」「英語」である。英語は語学だから別として、やはり「国語」と「数学」がすべての中心であり基本であるから、主要科目になっているのだろう。私も子供に対して勉強しろとは言わない主義であるが、「国語と数学は重要」とは言っている。他の科目はできなくても別に困らないが、「国語と数学」は将来知らず知らずのうちに自分の可能性を低くすることにつながるかもしれないので、せめてこの2つだけはしっかり学ぶ必要があると考えているのである。

 会社の若手社員の中には、この国語力と数学力が極端に弱い者がいる。話をしていて、質問をしてもその答えがまともに返ってこない。ダラダラと説明するものの、要領を得ないから何が言いたいのかよくわからない。「要はどういう事?」「一言で言い表すと?」「一番重要なポイントは何?」など、意地悪をするつもりはないが、ちょっと突っ込むともう答えられなくなる。実際、業務の打ち合わせでもこの傾向が強いのだという。試しに「国語の問題で作者の気持ちとか聞かれた時どうだった?」と聞いてみたら、「まったくわかりませんでした」と素直な回答が返ってきた。

 仕事においても、「相手にわかりやすい説明をする」ということはとても重要である。会議でも営業でもこれができないと自分の考えをうまく伝えられないから、かなり支障をきたすだろう。営業マンであれば即成績に直結すると思う。役職が上がれば「問題解決力」がより問われることになるが、論理的思考ができないとこの問題解決も難しくなる。考えるべき事項をもれなくダブりなく考慮して、比較検討するのは論理的思考の最たるものである。大人になっていきなりこの力がつくということはなく、やはり学生時代から国語と数学を真面目に勉強しておく必要があると、今改めて思う。

 今さら学校に戻って勉強をやり直せとは言えるものでもないが、そう言いたくなる時がしばしばある。本人たちにとっても気の毒なことであるが、まだ若いうちなら取り返しがつくのも確かである。そんな若手社員を鍛えながら、我が家の「数学が苦手な」息子にもしっかり教え諭したいと思うのである・・・

Gerd AltmannによるPixabayからの画像 

【今週の読書】
  



2022年2月17日木曜日

論語雑感 雍也第六(その12)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。
【原文】
冉求曰、「非不說子之道、力不足也。」子曰、「力不足者、中道而廢。今女畫。」
【読み下し】
冉求(ぜんきう)曰(いは)く、子(し)之(の)道(みち)を說(よろこ)ば不(ざ)るに非(あら)ず、力(ちから)足(た)ら不(ざ)る也(なり)と。子(し)曰(いは)く、力(ちから)足(た)ら不(ざ)る者(もの)は、中(なか)ばの道(みち)にし而(て)廢(す)つ、今(いま)女(なんぢ)は畫(かぎ)れりと。
【訳】
冉求がいった。
「先生のお説きになる道に心をひかれないのではありません。ただ、何分にも私の力が足りませんので……」
すると、先師はいわれた。
「力が足りないかどうかは、根かぎり努力して見たうえでなければ、わかるものではない。ほんとうに力が足りなければ中途でたおれるまでのことだ。お前はたおれもしないうちから、自分の力に見きりをつけているようだが、それがいけない。」
************************************************************************************
 これを読んで真っ先に頭に浮かんだのは、「為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり」という米沢藩藩主だった上杉鷹山の言葉である。両者とも実は同じことを言っている。何事であれ、ダメだと思ったらたぶんできない。できるわけがないと思いながらやったら出来てしまったということは、たとえばサイコロを振るようなことであれば可能かもしれないが、なんらかの努力を要するようなことであればまず出来ないであろう。

 おおよそ困難に思えることを成すにあたって重要なのは「意思の力」であると思う。それが困難に行き当たった時に大きく効果を発揮する。ダメだと思っていれば、そこで諦めてしまう。しかし、できると思って努力し続けると、もしかしたらできるかもしれない。当然、出来ないケースも多いだろうが、可能性はゼロではない。しかし、諦めてしまったらゼロである。この差は大きい。諦めさえしなければ、目の前にある壁が実は重いドアだったということになるかもしれない。

 人は何よりも考え方でできている。何をどこでどう考えるかで、行動も変わってくるし、運命も変わってくる。諦めの種からは諦めの人生しか得られない。小野道風の蛙の逸話ではないが、諦めないからこそ、運が加わって結果となって現れることがある。凡人にはとても勇気が出る考え方であると思う。自分もそんな風に考えてきた。努力してもダメな時も当然多いが、できた時の喜びは大きい。そして途中で諦めてしまい、そして後で諦めなければ良かったという結果ほど後悔が大きいものはない。我が結婚などその最たるものである。

 今、会社で若手を指導している。苦手を克服するための練習を教え、家に帰って毎日30分やるように指導した。毎朝、結果を聞いているが、「昨日は30分やりました」という時もあれば、「10分しかできませんでした」という時もある。共通しているのは、いつも30分以内ということである。私が30分と言ったからだろうが、もしも私だったら1時間はやるだろう。1時間やれと言われたら2時間やるだろう。私はそういう人間だし、そういう私から見ると、「30分やりました」と得意気に報告してくる姿はちょっと物足りないものがある。

 また、誰もが認める美人が大してイケメンでもない男と付き合ったりするケースがある。よくよく聞くと、まわりの男たちはあまりにも高嶺の花すぎて指を咥えて見ているだけだったところ、なんの遠慮もなくアタックした男が攫って行ってしまったということだったりする。「こんなことならアタックしておけば良かった」と悔やんでも後の祭りなのである。その点、私はこれぞと思う女性には臆せずアタックしてきたので胸を張れるところである(結果が全滅であったところを除けば、であるが・・・)。

 ラグビーでも試合が始まった途端、「勝てないな」と思わされる試合がある。しかし、そこで臆したらワンサイドゲームになってしまう。面白いもので、相手が弱いとわかるとかさにかかって攻めてくるものである。余計な力を発揮するから余計勝てなくなる。だから私はいつも「チームは負けても自分だけは負けない」と自らを鼓舞して相手に向かっていく。タックルに行った時、体格差とか勢いで弾き飛ばされたとしても、その時気持ちで負けていなければすぐに立ち直れる。それはそれで仕方がない。ただ、臆して躊躇したタックルで弾き飛ばされたら悔いしか残らない。自分に負けた悔いである。

 なんでもそうであるが、物事は「やってみなければわからない」。ならば臆せずやった者勝ちである。やらずに負けるより、やって負ける方を選びたい。惚れた女性に想いが通じず何度も枕を濡らしたが、アタックせずに後悔するということがなかった点は良かったと思う。本当に恐るべきなのは、「負けることを恐れる己の心」であるのだろう。これからも「やらない後悔」を避けたいと思うのである・・・

Judi BellによるPixabayからの画像

【本日の読書】

   



2022年2月13日日曜日

映画『望み』を観て考える(ネタバレ注意)

 年明けに『望み』という映画を観た。高校生の息子が事件に巻き込まれて行方がわからなくなった家族の姿を追うドラマである。どうやら友人同士の間でトラブルがあったらしく、息子の友人が死体で発見され、息子を含めて3人が行方不明になっている。そして警察やマスコミ報道で、どうやらトラブルは2対2の状況で起きたらしく、3人のうち2人は加害者、残る1人は被害者であるらしいとわかってくる。息子は果たしてどちらなのか。もう1人の被害者も生存は絶望的という状況の中で家族の苦悩が描かれる。

 最愛の息子の行方がわからず、加害者であれば殺人を犯した可能性が高く、被害者であれば殺害されている可能性が高い。どちらにしても家族には辛い結果しかない。母親は絶対的に息子に生きていてほしいと願い、それは「たとえ犯罪者でも」という但し書きがつく。一方、建築士の父親は、息子に殺人の疑惑が生じる中で、息子を殺された長年の取引先からもう一緒に仕事はできないと断られ、なじられる。激減する仕事の中でハッキリとは言わないが、息子に犯罪者であってほしくはないと願っている(ように見える)。家族に犯罪者がいると自身の高校進学に影響すると言われている妹は、犯罪者であってほしくはないとはっきり口にする。

 もしも被害者である場合、世間の同情を集め、何よりも他人を傷つけることはなかったという安堵感を得られる。世間体から言えば、圧倒的にこちらの方が良い。一方、加害者であれば、本人の長期の懲役刑は当然としても、家族も損害賠償で家も財産も失うだろうし、父親もドラマのように仕事はなくなるだろうし、妹の進学なども含めた総合的な悪影響は計り知れない。それに対し、それらすべてを鑑みることもなく無条件に息子の生存を願う母の愛情は絶対である。

 同じ高校生の息子を持つ父親として、自分だったらどう思うだろうかと思わず考え込んでしまった。母親の立場は明確である。我が子かわいさがすべてであり、それ以外の選択肢はない。しかし、父親としてはやはりいろいろなことを考える。まず被害者側に対して申し訳ないという気持ち。それから損害賠償で家や財産を失う恐怖。仕事も場合によっては続けられなくなるかもしれない。将来、出所してきた息子はまともに職に着くのも難しいかもしれないし、そうするとそのサポートも必要である。

 逆に被害者であれば、仕事は安泰だし、世間からは同情を得られる。引っ越す必要もないし、外に出ても堂々としていられる。妹も犯罪者が身内にいると私立高校への進学は難しいなどと心配する必要もなく、自分の人生を生きていける。ただ、息子を失うという悲しみだけが残るだけである。映画は、息子が殺された友人のために力になっていたということがわかり、母親にとっては最悪の結果だが、父親としては我が息子を誇りに思える結果となる。涙ながらも大きな安堵感が伝わってくる。果たして自分も同様に思うだろうか・・・

 究極の選択に思えるが、自分であれば状況によって変わってくるだろう。もしも一人息子であれば、やはり「生きていてほしい」と思うだろう。それがたとえすべてを失うことになったとしても、である。しかし、この映画のように兄弟がいてそちらに影響が出るということになると、残念ながらこの映画のように「名誉ある死」を望んでしまうと思う。自分だけなら諦めもつくが、そうでなければ残る兄弟姉妹のことを考えてあげたいと思う。どちらも自分の子供だからである。

 息子の部屋であるものを発見した父親は、息子に対するあいじょぅと信頼感が増し、疑惑を向ける世間に対して毅然とした態度を取る。親子ならではの信頼感。自分の息子ともそういう信頼感を築けたらいいなと思う。息子がどちらかわからない間、家族は外部からの様々な軋轢に翻弄される。されど父は息子に対する絶対の信頼感から毅然と行動する。その姿が眩しくもあり、自分もかくありたいと思う。ドラマで心惹かれたのは、気難しくなった息子が父親の言葉をきちんと受け止めていたこと。無愛想でも言葉はしっかりと届いている。そこに自分もヒントを感じる。言葉は届くのだと。

 そのように子供に対して何か思いがあるならば、遠慮なくその思いを届ければいいと思う。最悪の結果となった映画の結末だが、息子との絆が残った父親には救いがあった。そういう事態にならないのが一番ではあるが、いろいろと抱いている子供たちに対する思いはきちんと伝えたいと改めて思う。映画は時に現実の自分に対して様々な気づきを与えてくれる。これからも好きな映画をたくさん観ながら、いろいろと人生のヒントを得たいと改めて思うのである・・・



【今週の読書】



2022年2月10日木曜日

目標は必要か

 自分にとっては当たり前のことでも、人にとってはそうではないということは多々ある。8月に今の会社に転職して気づいたのは、「目標の曖昧さ」である。会社だから売上目標はあるのであるが、それが一体どういう意味なのかが曖昧なのである。目標は目標として掲げてあるものの、実績はというとその目標に遠く及ばない。その目標を実現するのに何が必要かという事は一応分析はできているが、それに対する有効な解決策は打てていない。そういう状況を目にし、改めて目標とは何であるかと考えてみた。

 目標には短期の目標と長期の目標とがある。短期の目標とは、目先どうする、つまり今期の決算を意識した目標であり、長期の目標とはゆくゆくの将来的にどうするという目標である。○年後にどうなっていたいか、である。それが10年後くらいの長いスパンであれば、経営者の夢のようなものだろうが、そこに向かっていくにあたり、とりあえず3年後はどこまで行くのか(行きたいのか)というのが中期の目標である。そしてそこに至るまで、1年ごとの短期の目標があるのである。

 長期の目標があって、その途中経過としての中期の目標がある。そしてそこに至る現実的な目標として1年ごとの短期目標があるというのが大まかな捉え方。我が社で言えば、この長期目標も中期目標もなく、あるのは単年度の目標のみ。それも売上高であり、利益は「締めてみないとわからない」という状態であった。これではいけないと、とりあえず1年の売上、利益計画を立てて実施している。落ち着いたら、中長期の目標設定に取り掛かる予定である。

 短期の目標は、さらに月次に落とし込んで考えていく。先月の実績は月次の目標に対してどうだったのか。よければ良しとし、目標を下回ったのならそれはなぜかという原因分析が大事。原因がわかれば、その対策が打てる。それが翌月の「行動目標」になる。次の1ヶ月間で、「誰が」「何を」「いつまでに」やるのか。そしてその結果を翌月の会議で共有する。いわゆるPDCAというやつである。具体的な行動計画に落とし込めば、責任の所在も明らかになる。これをまず軌道に乗せようと今は考えている。

 プロジェクトでは、当然、「工程管理」というものをやっていると思う。当然期限が決まっているだろうから、いつまでに何をやるかという管理はプロジェクトリーダーがやる。その進捗によっては、ピッチを早めるように叱咤激励したり、遅れているメンバーがいればサポートしたりしないといけないだろう。会社の目標から比べれば、全体に対する部分に当たるのがプロジェクト管理であるが、これも目標管理である。現場の事は外から眺めているしかないが、できているのか少し不安になる事象が見られたりする。

 私はよく仕事をスポーツに例えて考えるが、愛するラグビーでも同様である。どんなチームを目指すかという目標があり、そのために必要な練習をする。チームと同様、個人でも目標があり、それを意識して練習しているし、試合中は場面場面で次に起こるべきプレーをいくつかシミュレーションしながらプレーしている。そうでないと、その場に応じて咄嗟の判断で最適なプレーをするというのは、私の技術レベルでは難しい。それでもなかなか思うようにはプレーできず、それが悔しくてまた練習するし、だからこそ面白かったりする。

 本当は人生にもそういう目標があってもいいと思うが、「仕事もラグビーも含めて人生を楽しむ」という目標になると、なかなかPDCAに乗せるというのも難しい。ただ、「良き人になる」という目標は、日々振り返って反省すると少しずつできたりできなかったりの進捗管理はできたりする。今日は多忙ながらも若手のコミュニケーション改善を手伝い、周りの人のことも考えてよく振る舞えたのではないかと思う。明日は明日でまた新たなチャレンジである。

 あまり目標、目標とこだわるのは、人生においては時に疲れてしまったりもするから気をつけないといけないが、仕事やスポーツは目標あってこそであると思う。目標があるからこそ、それに向けた努力をすることで進歩もある。目標がないのは、従って成長もないように思う。そんな当たり前を意識して、今の会社では「目標」を意識した活動を啓蒙していくことを「目標」にしたいと思うのである・・・


ijmakiによるPixabayからの画像 

【本日の読書】
 




2022年2月6日日曜日

人間関係において大事なこと

 仕事において人間関係は重要である。仕事でなくてもであるが、特に仕事においては、であろう。社会人になって最初に直面した壁はこの人間関係の壁である。当時の私にとっては、それはとにかく「理不尽」の一言に尽きるものであった。「仕事は盗め」という方針で、何も教えてくれない。人事部からリクルート活動に協力せよ(当然勤務時間中にである)と指示が来るが、では仕事を抜けて行ってもいいかと問えば「ダメだ」と言われる。人事部から研修期間中は定時で帰れと指示されたのに、支店ではみんなが帰るまで何かやることを見つけてやれ(ただし残業申請はするな)と言われる。「なんなんだこれは」という連続であった。

 最初に支えた上司は、仕事はできるがとにかく厳しい人で、若手はみんな震え上がっていた。右も左もわからない新人の私は、わからないことがあれば周りの先輩に聞く。しかし、「上司に聞いてくれ」と誰も教えてくれない。こちらは始終難しい顔をしているその上司には聞きずらいから聞いているのに、なんて意地悪なんだろうと思ったのであるが、後で聞いたら先輩たちは皆「わからない者が教えてもわかるわけがないからお前たちは教えるな」とその上司に釘を刺されていたという。仕事を覚えるよりもその上司に対する反発心ばかりが膨らむ毎日であった。

 しかし、今振り返ってみれば、当時のその上司の考え方も理解できる。私を含めて当時の若手に決定的に欠けていたのは、「仕事について真剣に考えて取り組む」という姿勢であったと思う。仕事の一つ一つについて、とりあえず「こなす」というスタンスで、「なぜそれをやるのか、他にいい方法はないのか、そもそもそれをやるべきなのか」といった根本的な部分から考えていなかったと思う。それは今の会社の若手を見ていてもなんとなく感じることである。それはそうであろう、若手の頃は仕事も大事だが、プライベートライフも大事な時期だろう。同じ熱量を求めても酷である。

 当時のその上司が意地悪な人物であったのかというと、そうではないと思う。その人なりに仕事に対する信念があり、ただそれがこちらにはわからなかったのである。故に表面的な厳しさばかりを捉えて嫌悪していたというわけである。その人は私の仕事上のある工夫を知って褒めてくれていたと言うし、煙たがらずに懐に入っていろいろと話をしていたら、もっと違う関係を築けたかもしれないと思う。当時の私にはそんな考えまで及ぶことなく終わってしまったのは今となっては残念である。

 今のシステム開発会社では、間接部門の私には本業のところはわからない。本業は1部と2部とに分かれ、それぞれ部長さんが仕切っている。それに営業が加わるが、とにかく3人の部長の関係がスムーズではない。それは詰まるところ互いに遠慮して言いたいことを言えていないからであると思う。皆私には自分の考えを開示する。私からすればそれを互いに意見交換すればいいと思うが、そうしない。たぶんそこには互いに対する遠慮と議論による対立を避けたいと言う気持ちがあるのだと思う。

 そうした「配慮」は、(表面上の)穏やかな関係の維持という点では効果があると思うが、では会社の業績が向上しているかというとそうではない。会社の業績を伸ばしていくには、良いところと悪いところをそれぞれあぶり出し、良いところは全社的に展開し、悪いところは改善していくという必要がある。互いにそれを指摘し合えれば全社的に良くなるはずである。それが理想ではあるものの、やはり「衝突」を避けたがるのが日本的なものなのか、なかなか理想通りには進まない。

 1人で仕事をするのであれば関係ないが、会社という組織で協力しあって仕事をするのであれば、感情的な対立やもつれは避けたいところ。業績を取るのか人間関係を取るのかは難しいところであるが、実はそんなに難しいことではないと思う。要は相手に対する「リスペクト」である。人は誰でも自分なりの価値観があって動いている。自分なりに正しいと思う行動を取っているのである。ならばまずはそれを尊重しないといけない。その上で、それとは違う自分の意見を「聞いてもらう」という姿勢が大事なように思う。

 相手の意見を真っ向から否定するのではなく、また、本人のいないところで批判をするのではなく、自分の考えと対等に比較してどうかと公平に考えるようにしないといけない。自分の意見はもちろん遠慮なく開陳すべきだとは思うが、それが相手の意見より優れているというものではない。そういう意識があると、相手との議論も穏やかに進むように思う。自分の意見を聞いてもらうには相手の意見をきちんと聞かなければいけない。口の重い人ほど余計に話してもらうようにしなければならないと思う。

 社会人になりたての頃、今のような考え方ができていたら、社会人生活ももっと楽に過ごせたかもしれないと思う。自分の親相手となると、まだまだ相手のことを考えるよりもついつい反論してしまうところがあるが、仕事関係では今のところよくできているように思う。こんな感じで、若い人相手であってもかつての自分のような思いをさせないように、うまく振る舞っていきたいと思うのである・・・


Gerd AltmannによるPixabayからの画像 

【今週の読書】
  



2022年2月3日木曜日

論語雑感 雍也第六(その11)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。
【原文】
子曰、「賢哉回也。一簞食、一瓢飮、在陋巷、人不堪其憂、回也不改其樂。賢哉回也。」
【読み下し】
曰(いは)く、賢(けん)なる哉(かな)回(くわい)也(や)。一單(たん)の食(し)、一瓢(ぺう)の飮(いん)、陋巷(ろうかう)に在(あ)り。人(ひと)は其(そ)の憂(うれひ)に堪(た)へず、回(くわい)也(や)其(そ)の樂(たのしみ)を改(あらた)めず。賢(けん)なる哉(かな)回(くわい)也(や)。
【訳】
先師がいわれた。「囘は何という賢者だろう。一膳飯に一杯酒で、裏店住居といったような生活をしておれば、たいていの人は取りみだしてしまうところだが、囘は一向平気で、ただ道を楽み、道にひたりきっている。囘は何という賢者だろう。」

************************************************************************************

 子供の頃、「金持ちの家に生まれたかったな」とよく思ったものである。親の苦労など何も知らない子供の無知な発想である。ただ、人は誰でもお金を求めるものだろうし、そういう意味ではあまり責められるべきものでもないかもしれない。人は欲望の生き物であり、その満足はとどまるところを知らない。「給料が10,000円でも上がれば嬉しい」と思っていて、実際に10,000円上がれば喜ぶものの、しばらくすればまた「あと10,000円上がればいいのに」と思っている。

 お金を無制限に使える身分だったらどんな生活を送るだろうかと夢想してみる。会社なんて辞めて毎日遊んで暮らすだろうか。「仕事が辛い」と思っている人だったら迷わずそうするのだろうと思う。しかし、自分は「仕事が楽しい」と考えている。故にそういう身分になれたとしても今の仕事は辞めないだろう。「給料をもらうため」に働くことから、「楽しむため」に目的が変わるだけのことであり、仕事は続けるだろう。もしかしたら、有り余る資金力を活かし、後継者のいない会社を買い取って経営者に転じることはあるかもしれない。ただ、遊んで暮らそうとは思わない。

 高級車でも買うだろうかと言えば、そういう趣味もない。以前、フェラーリ好きのご近所さんがいた。若くして起業し、成功した方で、我が家の目の前に豪邸を建てて真っ赤なフェラーリに乗っていた。しかし、あまり車に興味を持たない私としては、フェラーリを乗り回したいとは思わない(けっして負け惜しみではない)。車は買い換えるかもしれないが、選定は家族に任せるだろうし、自分で選ぶとしても故障の少ない国産車を選ぶだろう。贅沢をするとなれば洗車を含めたメンテナンスをどこかにお金を払って頼むくらいだろう。

 飲む・打つ・買うで考えると、酒はもともとあまり飲む方ではないので使うと言っても高が知れている。ワインもそれほど好きではないので高級ワインを飲みたいとも思わないし、せいぜい愛飲しているジャック・ダニエルくらいだろうが、それだと大して金のかかるものでもない。ギャンブルはやらないし、やりたいとも思わない。株式投資くらいはそこそこやるからそこでは使えるだろう。

 女につぎ込むのは魅力的だと思うが、金だけの関係というのも好みではない。やはり女性は自分の魅力で口説くのがいいのであって、「その結果として」つぎ込むならありだろううが、最初からつぎ込むのはオレ流には合わない。これまでにも女性を囲う金持ちを見聞きしたこともあるが、あまりかっこいいものでもない。好きなラグビーはお金をかけたくてもかけるところがない。やるとしたら、国立競技場を1日借り切って試合をしてみるくらいだろうか。そのくらいなら使い甲斐はあるだろう。

 もしも100億円くらいあったら、NPO法人でも設立して、奨学金制度を設けてお金に困っている学生の支援をしてみるのもいいかもしれない。それは世の中のためというより、そうすることが心地良いことに思えるからである。そんな風に考えてみると、お金を使うとしたら自分自身のことより、そういう心地良いことに向かいそうに思う。考えてみると、もともと貧乏性のところがあり、贅沢などしたことがないからそういう感覚が染み付いているのだろう。綺麗事を言う訳ではなく、使い方を知らない無知故なのだろうと思う。

 囘と言う人物ももしかしたらそうなのかもしれないと思う。今の自分の身の丈で楽しむ術を心得ており、それ以上にあえて求めないのかもしれない。以前、「清貧」という言葉がもてはやされたが、貧しいことを好む人間などそうはいないと思う。ただ、楽しみを求めない人間もいないと思う。何が楽しみなのかはその人次第。囘も己の置かれた環境の中で、ただただ、日々を楽しんでいたのかもしれない。それで賢者と言われるのであれば、なんと素晴らしいことであろう。

 私も囘と同じと言うつもりはない。お金があればあったで、それに応じた使い道を考えるだろう。ただ、それはそれとして、日々の仕事を楽しみ、週末のラグビーを楽しみ、ジャック・ダニエルをチビチビやりながら観る映画を楽しみ、国産車を心地よく乗り回し、たまに友人と居酒屋に行くことは変わらず続けるだろう。それがたまらなく心地良いし、それでもしも後世の人に賢人などと言われたら、実にラッキーだと思うのである・・・



【本日の読書】