毎朝、決まった時間に家を出て、池袋駅で西武線からJRに乗り換える。西武線を改札を出ると、否、西武線の改札に向かうところから既にダッシュしている人たちがいる。その人たちはコンコースを走りぬけ、何処へと向かって行く。その行く先は、のんびり歩いている私には知りようもない。いったいどこへ、そしてなぜ走っているのだろうかとずっと疑問に思っている。そして、そんなコンコースには、「危ないですから走らないようにしてください」といつもアナウンスが流れている。
そんな毎朝の光景の中、私はいつも考えている。走る人とアナウンスとについてである。走る人は、最初は遅刻しそうなのかと思ってみた。誰でも駅で走る人はそうだろう。だが、どうやら違うだろうと想像するのは、以下の理由である。
1.朝の6時半という時間は、企業の始業時間には十分早く、会社に遅刻するという理由は考えにくい考えるに、走る理由は遅刻というより、「ポジション取り」だろうと思う。これから乗る電車の席取りである。実は私も山手線には30分近く乗るのでいつも座っている。だが、朝の早い時間であっても、座るには「工夫」がいる。座るためには一番最初に車内に入る方が有利であり、最前列に並ぶことである。そのために私がとっている方法は、「一本見送る」ということである。もし、一本見送らないのだとしたら、西武線から一目散に走らないと最前列は確保できない。おそらく、走っている人の理由はそんなところだろうと思う。
私も席には座りたいが、かといって走るのはどうもカッコよくない。運動は必要だが、スーツで走る意味はない。そこで頭を働かせて走らずに座っているのである。経験値から座れる車両と座りやすいドアはわかる。あとは余裕を持って一本見送れば走らなくても座れる。それで座れるのであれば、朝からセコセコした気分に浸る必要がない。おそらく、走っている人のほとんどは、何らかの工夫をすればみんな楽に座れると思う。走るか、頭を使うか、どちらにするかと言うなら、私は頭を使う方を選ぶ。
次に「コンコースを走らないでください」と言うアナウンス。もっともらしく聞こえるが、なぜそういうアナウンスをするのだろうか。走ったら危ないのは誰でも分かっている。本人が転べば自分が怪我をするだけの自己責任であるし、誰かとぶつかって相手を怪我させたとしても、当事者同士の民事事件である。西武鉄道がなんでわざわざそんな警告を発するのだろうか。はっきり言って、「余計なお世話」以外の何物でもない。よくよく考えてみると不思議である。
我々は学校でも「廊下を走らない」と指導されてきた。これは学校という限られた空間で、管理者である学校が生徒の怪我を防ぐという保護者的観点を考えれば十分理解できる。また、これが駅のホームなどであれば、事故を未然に防ぐことで、たとえば人身事故等運行に支障が出るような事態を防ぐという自己防衛的観点を考えれば理解できる。だが、改札を出た後のコンコースにはそんな観点は見当たらない。否、もしも保護者的観点からであれば、それこそいい大人相手にバカにしていることになる。むしろそうであれば問題だと言えなくもない。
いい大人をバカにしていると考えれば問題であるが、善意のボランティアと考えるとそうでもない。そういう善意の注意はいたるところにある。たとえば、銀行に行けば、ATMには「機械で還付はできません」と表示してある。いまだに多くの人が騙される「オレオレ詐欺」に対する注意であるが、これなどは典型的な善意のボランティアによる注意である。一方、「健康のため吸いすぎには注意しましょう」は、善意というより妥協の産物である。今はタバコが体に悪いのは小学生だって知っている。これはタバコをめぐる訴訟の中で生み出されてきたもので、意味のない「形式」である。
善意のボランティアを悪いとは言わないが、雨が降りそうだったら自分で判断して傘を持って行けばいいし、走るなら自分で足元と周囲に気を配ればいい。余計なお世話が必要なのだろうかと思ってしまう。実際、アナウンスが流れようが流れまいが、走る人は走るし、走らない人は走らない。意味のあるものではないことは確かである。まぁ、いけないとは思わないがいいとも思わない。考えれば考えるほど不思議である。
週末日曜日の夜。またもくだらないことを考えてしまった。明日の朝になれば、またそんなモヤモヤ感を覚えながら、走る人を眺め、注意のアナウンスを聞くのだろうと思うのである・・・
Gerd AltmannによるPixabayからの画像 |
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