2017年8月27日日曜日

墓の行方

最近、両親と墓の話をよくする。先月望月を訪れ、祖父母の墓参りをしたが、そこはかつて祖父が自慢していた墓だという。というのも、そのあたりは皆共同墓地なのだが、村で祖父の一族と神主のもう一族のみが単独の墓所なのだという。それまではなんだか小さな墓所だと思っていたが、言われてみれば確かに2家系分しかそこにはない。なんでも母方の家系は、元々は武田信玄の落ち武者だったらしく、中でもトップの神主とその一番の補佐であった我が祖先のみが単独の墓所を持つようにしたかららしい。

そんな「由緒正しき」墓であるが、現在は亡き伯父が入り、その息子(私の従兄弟だ)が管理する形となっている。しかし、従兄弟は独身で子がなく、いずれは管理する者が絶えてなくなることになる。そうなると祖父自慢の墓もいずれ朽ち果てて行くのかもしれない。父方の墓も同様の問題を抱えていて、本家の長男である伯父がご先祖様の墓を守っているのだが、伯父に孫はない。父は男4人女2人の兄弟であるが、男で孫がいるのは父のみ(私と弟だ)である。

父はとっくに母と2人の墓を故郷に買っている。いずれはそこにと考えているようだが、本家の墓が絶えてしまうという問題に対し、いずれ伯父と話をしようと思っているらしいが、もしかしたら管理が私のところに回ってくるのかもしれない。私もいずれ自分が死んだらどうするのかと考えると、漠然としているがなんとなく祖父母の墓に両親とともに埋葬されるのがいいような気がする。

ただ、その先を考えると微妙だ。両親が買った墓にしろ、祖父母伝来の墓にしろ、あるのは長野県だ。車で2時間ほどの距離とは言え、墓参りに行くのは一仕事になる。我が子供達が墓参りに来るのか、あるいは子供達は同じ墓に入るのを望むのかと考えると、やっぱりいずれは遠からず絶えてしまう気がする。これから日本中何処でも同じ問題が起こるのだろうと思う。残念な気もするが、そもそも死んでしまえば後のことはわからないわけで、案じても仕方ないのかもしれない。

長野県は富士見にある先祖伝来の墓であるが、今は89歳で亡くなった祖父を最後に一族が眠っている。生きて生まれることのなかった私の姉も眠っている。最後に墓参りしたのは、いつだっただろうという有様だが、それでもそこに祖父らが眠っているという事実は、私にとってその墓が「特別な場所」という気持ちにさせてくれる。

そもそもであるが、死んでしまった人には感情はないわけで、どこに埋められようが捨てられようがわからないわけである。丁寧に埋葬し、事あるごとに墓参りに行くのは生きている者である。墓はなんのためにあるのかと問われれば、「生きている者のため」と言っても過言ではない。生きている遺族が故人を偲び、一時故人と近づくところがまさに故人が眠る墓ということになるのだろう。

故人を偲ぶと言っても、直接会うこともなかったご先祖様となると愛着も薄くなる。富士見の墓も祖父母が眠り、姉が眠りという事実があるからこそ私にとって「特別な場所」なのであり、それ以外の会ったこともない一族については、そういう思いはあまり湧いてこない。同じ場所にあるからこそ線香を手向けるが、そうでなければ足も遠のくだろう。となると、自分が死んでも、墓参りをしてくれるのはせいぜい(いずれ生まれて来るであろう)私の孫までということになるのだろう。

寂しいような気もするが、自分は死んでしまってわからないことだし、それはそれで仕方ないと思う。生きている者が思い出してこその墓だと思うからである。今は車も運転できるし、墓参りをしたいと両親に言われれば連れて行くのもやぶさかではない。しかし、いずれ自分も年老いて1人ではいけなくなる時が来るだろう。その時は仏壇がその代わりを果たすのだろうし、それでいいと思う。

先々のことは今から考えても仕方がないが、そう考えてみると、行けるうちに行っておかないととも思う。懐かしい場所だし、今度は親父の墓参りに同行したいと思うのである・・・





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