2017年8月13日日曜日

論語雑感 為政第二(その7)

子游問孝。子曰。今之孝者。是謂能養。至於犬馬。皆能有養。不敬何以別乎。
子游(しゆう)(こう)()う。()(いわ)く、(いま)(こう)は、()()(やしな)うを()う。犬馬(けんば)(いた)るまで、()()(やしな)うこと()り。(けい)せずんば、(なに)(もっ)(わか)たんや。
【訳】
子游が孝の道を先師にたずねた。先師がこたえられた。現今では、親に衣食の不自由をさせなければ、それが孝行だとされているようだが、それだけのことなら、犬や馬を飼う場合にもやることだ。もし敬うということがなかったら、両者になんの区別があろう。
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「孝」とは「養う」ことだと言う。漢字の深い成り立ちや意味などよくわからないが、「親を養う」ことを「孝行」すなわち「孝を行う」ことだとするなら、しっくり理解できるところである。人は結婚して子供を産み育て、その子供が成長する一方で親は老い衰える。それを成長した子が養うというのはごく自然なあり方だと思うが、世の中なかなかそううまく理想的にはいかない。

かつては自分もそんなことを夢見ていたが、結婚生活の現実はそんな理想とは遠く離れたものであった。考えてみれば、かつては「家制度」というのがしっかりと社会に根付き、長男が家督を相続し、「女」は嫁いでその「家」に「嫁」に入って親を養うことが一般的であった。しかし、現代では少子化が進み、住宅事情が親子の同居の1つの壁となり、かつては嫁が我慢するしかなかった「嫁姑問題」は、嫁が我慢しなくてもなんとかなるようになった。

最初は、私も「将来は両親と同居」と漠然と考えていたが、そんな希望はとうに潰え、今は離れて暮らしている。せめて仕送りでもと思うが、諸々の生活費や将来への貯蓄等でそんな余裕もない。また妻にも両親があり、子供は娘2人という事情では、自分の親のことだけを考えるというのもいかがなものかと思う。結果として、「養う」とは程遠く、老いゆく両親は息子夫婦との同居という願いも叶わず、今年傘寿の夫婦2人の生活を送っている。

「孝」とは「養う」ことだと言うのなら、今の自分は「孝」の道に反していると言えるのだろう。その代わり、「敬う」という気持ちだけはしっかり持っていて、月に何回は実家にも顔を出し、母に電話をし、病院への定例通院に付き添っている。今の自分のそんなあり方を見たら、先師は何とお答えになるのだろうか。単に養うだけではダメだというが、養うことすらできていないのだから、聞くまでもないのかもしれない。

さて、そんな不甲斐ない自分であるが、2人の子宝に恵まれ日々子供達の成長を目にしているが、やがて自分も順調に行けば年老いる時がくるだろう。その時果たして子供達に「孝」の実践を求めたいであろうかと考えてみる。その時になってみなければわからないことではあるが、今の時点での気持ちに変わりがなければ、それは不要である。子供達は子供達で自立して暮らしてもらうのが第一の希望で、自分は自分で身を処していきたいと思う。

それはやっぱり自分ができていないからであり、できていないことに対し、一生懸命自己弁護しているからであり、それはそのまま将来の子供達の姿であろうからである。だから、養うということに関しては、心配させたり、養わないことに対して引け目を感じさせたりさせることのない様、自分としてはしていきたいと考えている。養うことは求めないが、ただ親子として敬うことは求めたいとは思う。それが正直なところである。

孔子が、現代社会を見て、それでそんな私の考えを聞いたなら何と仰るであろうか。時代の変化も大いにあり、それに伴って言葉の意味が変わってもおかしくはない。今の世で「孝」を問われたならば、「敬」と答えたいと思うのである・・・





【今週の読書】
  
   


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