2019年7月21日日曜日

2019年参院選雑感

今回は何となく盛り上がりに欠けるような気がしていた参議院選挙であるが、例によってきっちり投票を済ませてきた。前回はきちんと初投票を済ませた我が娘だが、今回はもう興味をなくして、ママ同様に棄権してしまった。18歳になって手にした選挙権ももう興味の対象から外れてしまったらしい。あるのが当たり前になると、人間はもう大事にしなくなるものであるなと改めて思う。

しかし、娘の立場に立ってみると、「誰に投票したらいいのかわからない」「面倒臭い」という理由があるようである。たとえ行ったとしても、選挙会場に行ってその場で目についた候補者や政党に行き当たりばったりで投票することになるが、それが果たしていいのかどうか。そんなのでも「行った方がいい」と言えるのだろうか。今回の投票率はわからないが、おそらくそんなに高くはないだろう。高ければ高いほどいいのか、やはりみんなもっと選挙に行くべきだとは思うが、行かない人を非難できるのだろうか。なかなか難しい問題だと思う。

私の場合、一応各候補の主張には目を通す。たとえそれが絶対に投票しない共産党であってもである。それぞれの主張は考えるネタになる。共産党は「最低賃金時給を1,500円に」と主張する。だが、中小企業には人件費の上昇はかなりイタイ。そこは支援金を抜本的に増やすというが、すべての中小企業に支給されるのか、そのための財源は、と疑問がわく。「減らない年金」と耳当たりだけは心地よいが、裏付けは大丈夫なのかと思う。

消費税増税反対は各党主張しているが、それでも財源に言及しているのは(選挙公報上では)共産党だけ。増税反対は確かに魅力的だが、財源を確認しないと後で(年金生活に入ってから)ツケを回されても困る。主張にある程度筋が通っているという意味ではいいと思うが、もう少し深い考察が必要な気がする。例えば財源として大企業に対する課税強化について挙げているが、企業の国際競争力、海外企業に対する投資誘致という点ではマイナスになるわけで、その点をどう考えているのかは興味深い。

娘のような「誰に投票していいかわからない」人たちがみんな選挙に行くようになると、選挙結果は毎回コロコロ変わる気がする。各政党ともますますポピュリズムに走り、目先の心地よい主張しか掲げなくなるのではないだろうか。今回で言えば、「年金増額」「消費税増税反対」のような。その結果、「長期的視点に立った政策」が取られなくなる懸念が出てくると思う。あたかも四半期決算の導入によって、アメリカの企業が短期的な株価上昇施策しかやらなくなっているように。

低投票率は何とも嘆かわしいと思うが、本当のところはどうなのだろうか。よく考えた少数の人の意見で国を動かすべきなのか、なぁんにも考えない人たちも含めてとにかく高投票率をよしとするのか、果たしてどちらがいいのだろうかはこの頃よくわからない。安倍政権を倒したい人は、選挙に行かない人たちは安倍政権を利するだけだと嘆いているが、果たしてそうなのだろうか。投票率が低くても、選挙に行く人だけで政治家を選んでいけば、それはそれでいいような気もする(現実それしかないのであるが)。今日のところは、選挙に行かない我が家の妻と娘を「代表して」私が投票してきたのだと思うことにしようと思う。私の票は3票分なのである。

その安倍政権であるが、今回の結果も安泰そうである。いろいろと批判はあるが、安倍総理は外交面ではかなりの成果を挙げていると思う。あまりニュースでその意義が説明されていないが、どうしてあまり評価の声を聞かないのか不思議な気がする。批判すべき点もあると思うが、総じて自民党に変わりうる野党がないというのが現状である。当面はこれでいいと思う。ただし、個人的にはもっと対抗しうる政党が育って欲しいと思うゆえに、今回はあえて自民党には投票しなかった。私の1票など、丸川珠代さんにも自民党にも不要だろうからである。

 自分の1票を何に投じるか。全体的にはちっぽけな1票であり、影響力は極めて極小である。しかしながら、「3票分」であるし、何より自分の大事な1票なので、そこはこだわりたい。というわけで、某政党とその候補者に投じてきた。幸い、新聞の各候補の獲得投票「数」は1票単位まできちんと表示される。そこに自分の1票を見出して満足したいと思うのである・・・






2019年7月20日土曜日

論語雑感 里仁第四(その1)

〔 原文 〕
子曰。里仁爲美。擇不處仁。焉得知。
〔 読み下し 〕
子(し)曰(い)わく、里(り)は仁(じん)なるを美(よ)しと為(な)す。択(えら)んで仁(じん)に処(お)らずんば、焉(いずく)んぞ知(ち)なるを得(え)ん。
【訳】
隣保生活には何よりも親切心が第一である。親切気のないところに居所をえらぶのは、賢明だとはいえない
************************************************************************************

 論語において、「仁」は重要な概念である。その「仁」であるが、住むところ(ご近所)には必要であるということであり、そういう地域、近所を選んで住みなさいということである。「仁」とは、「人を思いやる気持ち」という意味であると説明されることがあるが、まぁそういう人たちが近所に住んでいるところであれば喜んで住みたいと誰もが思うだろう。

 さて、我が身を振り返ってみると、どうであろうか。今は練馬区に住んでいるが、ここに住もうと思ったのは、「仁」なるところであるからというわけではもちろんない。そもそもそういう観点で住むところを選んでいる人がどれだけいるかと言われれば、そんなにいないだろう。近所に住んでいる人たちがどんな人かなんて、住んでみなければわからない話である。せいぜい、家族や友人知人が住んでいて、勧められて引っ越すようなケースが当てはまるかもしれない程度だろう。

 私の場合、結婚を機にそれまで住んでいた千葉から練馬区に引っ越してきたのであるが、ここを選んだのは、「23区内かつなるべく郊外」という視点から探した結果であった。それまで行き来する機会があり、なんとなくこの沿線がいいなと思っていたこともあり、最初は隣の駅で探したのである。ところがこれといったものが見つからず、不動産屋の薦めるまま今の最寄り駅まで足を延ばしていくつか見に行ったところ、いいマンションを見つけたというわけである。

 それから9年間の借家暮らしを経て、そろそろ家を買おうかという時に、近所で7区画の土地の売り出しがあり、残っていた最後の1区画を買って家を建てた次第である。もちろん、その時は7区画の土地はすべて更地であり、当然どんな人が住んでいるかなどわからない。逆に言えば、その時の7軒はすべて「同期」入居という関係であり、今もその7軒で町内会の同じ班を形成している。

 7軒ともみんな家族構成は子供も含めて同じような年代。まぁ家を買おうというタイミングとしてはみんな同じようになるからかもしれない。みんな一斉に住み始めたので、変な習慣等もなく、その点では特段、変な気を使うこともなくまずまず問題のないご近所関係を築いている。既に出来上がっているご近所関係に後から参入するような場合では何かと気を使うかもしれないが、そういうのがないのが良いかもしれない。

 そんな近所関係が「仁」なるかと問われれば、まぁそれに近いものがあると言っていいだろう。男はどうしても仕事で日中いないので、奥様同士に比べたら「あいさつ程度の付き合い」なのかもしれない。ただ、何かあれば気軽に話ができるし、これまで近所付き合いで悩まされた経験はなく、住み心地の良いご近所さんと言える。「親切気のないところに居所をえら」んだのではないが、結果良ければすべて良しなのかもしれない。

 考えてみれば近所で揉めるほど厄介なものはないだろう。なにせ四六時中顔を合わせるわけであり、逃げるわけにはいかない。私の知人も隣人と敷地の境界線を巡り、わずか数センチで争っているが、傍で愚痴を聞いていても「大変だな」と思う。こんなことでストレスを抱えたくはないとつくづく思うし、それに引き換え我が家のご近所関係は良好であり、孔子の言うことも実感できる。

 田舎のように濃密な人間関係も煩わしいし、かと言って都会のマンションのように隣人すらどんな人かわからない(まぁみんながみんなそうではないと思うが)というのも味気ない。適度に付き合いがあって、適度に距離があるのがいいのではないかと思う。我がご近所さんも親父同士はもうちょっと付き合いがあってもいい気がする。男同士であればどこかで飲み会でもと思わなくもないが、わざわざ幹事を買って出るのも面倒で頭の中だけに留めている。

「里は仁なるをよしとする」という言葉は、そう考えてみると、やっぱり実にその通りだと思うのである・・・




【今週の読書】
 日本が売られる (幻冬舎新書) - 堤 未果 罪の声 (講談社文庫) - 塩田武士





2019年7月15日月曜日

オヤカク

ヤフーニュースを見ていたら、たまたま「オヤカク」なる言葉とその説明があった(【我が子の就活、オヤカクしますか 望む仕事と親の思い】7/14(日) 7:47配信)。「オヤカク」とは、記事によれば「内定者の親に企業が入社意向を確認することを指す造語だ」そうである。内定者の方でも、希望の就職先から内々定をもらったが、親に意見を求めたところ反対されて内定をキャンセルしたという例もあるという。個人的には「いい年こいて親はないだろう」と思わずにはいられない。

親に意見を聞くこと自体否定はしないが、問題はそのスタンスだ。自分で判断をするにあたり、どうしても判断材料に乏しいということはある。人生経験も短い中で、(ひょっとしたら)一生に関わる決断を下さないといけないわけであり、人生経験豊富な親に意見を求めるというのは悪くないし、むしろ好ましいかもしれない。ただ、それはあくまでも判断主体が「自分」というのが前提である。親の意見はあくまでも参考意見であり、自分で良しと思えば親が反対しようがやるだけの意思がないといけない。

記事だけでは個々の具体的なケースの実情はわからないからなんとも言えない。ただ、親に反対されて素直に「親がそう言うなら」という理由で従うなら問題である。要は「自分で決断できない子」であることの証であるからである。小学生の頃から親の言われるまま塾に行って勉強し、言われるがままの高校を受験し、大学もその調子で行ったような様子だといつまで経っても大事な決断はできないままになってしまう。そんな有様だと結婚相手も親の意見に左右される情けない人間になるだろう。

それに人生経験豊富といっても、親の経験は過去のものであり、あくまでも過去(にはうまくいった)の成功体験な訳で、たとえれば30年くらい前のOSで動いているパソコンなわけである。人によっては最新アプリを搭載しているかもしれないが、そのあたりは聞く側も意識しないといけない。それに子供の性格は親の性格とはまた異なる。親にはできても子供にはできないかもしれないし、その逆もまた然り。それに加え、将来のことはわからないという決定的な要因もある。JALが(実質的な)倒産するなんて30年前に我々が就職するときには誰も想像もしなかったことである。

そんなわけで、例えば自分が就活を迎えた時に子供から意見を求められたとしても、いいアドバイスができる自信がない。どこの企業にしろ「ここに入れば大丈夫」なんて企業はないし、「これがあれば大丈夫」なんていう資格があるわけでもない。まぁ医師免許くらいなら大丈夫かもしれないが、弁護士だってそれだけで大丈夫とは言い切れない。弁護士資格「も」あれば大丈夫とは言えるかもしれないが、弁護士だって食えない人はいるのである。

あえて言えば、「どんな状況においても生きていけるだけの力をつけよ」ということだろうか。それは何も資格を取るということではない。むしろ資格なんて「あれば何かの足しにはなる(ないよりマシ)」という程度である。一生懸命資格を取る勉強をしている人は多いが、そういう視点を持っていないと、残念な「勘違い君」になってしまう。資格を取ったらそれを「どう生かしていくか」を考えないと、社内での昇進になど欠片の役にも立たないだろう。

我が身を振り返ってみると、やっぱり「長期的視点」に決定的に欠けていたと思う。「今目の前のこと」をそれなりに一生懸命やってはいたが、「5年後の自分を想定して今何をやるべきか」といった視点はまったく持っていなかった。銀行の中で、さらにはもっと広い世界でうまくできなかったのはそんなところがあったかもしれない。考えてみれば、そんなアドバイスをもらえそうな先輩はたくさんいたわけであり、つくづくぼんやりしていたものだと反省するところ。それは我が子にはアドバイスしてあげたいところである。

それをしっかりと伝えられたなら、どこに就職しようがあまり大差ないとも言える。そのアドバイスが正しいかどうか、可能なら自分で若返って実践してみたいところである。親に意見を求めるなら、そうした「社会での生き方」のところでの参考意見だろうと思う。「どこの企業がいいか」なんて親に聞いてまともな意見が返ってくるわけがない。ましてや、記事中にあるような「近くに住んでほしい」なんて理由は尚更である。その企業が潰れたり、あるいは子どもが鬱になって出社できなくなったりということだってありうるわけである。

少子化で気になるのは、いつまでも子離れできない親、親離れできない子の組み合わせかもしれない。オヤカクで内定辞退するような子は、逆に企業にとっては採用しなくてよかったのかもしれない。何やら情けない風潮に思えてならない。我が子はつくづく、自分の足でしっかり大地を踏みしめられるような人間になるようにしたいと思うのである・・・





【今週の読書】
 ビッグ・クエスチョン 〈人類の難問〉に答えよう - スティーヴン・ホーキング, 青木 薫 下町ロケット ヤタガラス (小学館文庫) - 池井戸潤






2019年7月10日水曜日

視力

先日、毎年恒例の健康診断で視力検査があった。両目とも0.2というのがその結果。いいのか悪いのか、このところ微妙である。思い返せば小学生の頃は1.0あったのを覚えている。それから高校にかけて1.5になってそれを維持していたが、艱難辛苦の宅浪時代に一気に視力は衰え、二十歳の時に車の免許をとった時、初めて手にした免許証には見事に「眼鏡条件」の文字があった。それでも眼鏡をかけるのは運転時と授業を受ける時だけ。それ以外は裸眼でも困ることはなかった。

社会人になってさらに視力は衰え、遠くを見つめたりマッサージをしたりと努力をしたが回復することはなく、やがてコンタクトレンズを使うようになった。どうも長時間眼鏡をかけるということが心地良くなかったのである。誘われて始めたゴルフの時などは、やはり眼鏡よりコンタクトの方が良かった。なにせどこに飛んでいくかわからない小さなボールを追うのに裸眼ではどうにもならなかったのである。

40代になって眼鏡に切替えたが、その理由は「老眼」。手元の文字が見えなくなったのである。「遠近両用」という手もあったが、私の場合、老眼といっても裸眼で十分よく見えていたため老眼鏡は不要であり、手元を見る時にはすぐ外せる眼鏡の方が便利になり、コンタクトを卒業したというわけである。と言っても、週末のラグビーではやっぱりコンタクトが必要で、これは使い捨てのタイプを利用している。コンタクトもかつてから比べると随分使い勝手が良くなっている。

それにしても不思議なのは老眼。その昔、近視が老眼になるとそれぞれのデメリット(「遠くが見えない」と「手元が見えない」)が相殺されてかえって目が良くなるんじゃないかと思っていたものである。ところが、あに図らんや実際になってみれば眼鏡やコンタクトをすると、「遠くは見えるが手元は見えない」、裸眼だと「遠くは見えないが手元は見える」といった症状である。したがって、今は本を読む時やスマホを見る時は裸眼、パソコンやテレビを見る時は眼鏡と使い分けている。

結局のところ、近視と老眼とに同時になった場合、やっぱり手元が見える(=老眼が打ち消される)という効果はあるようである。コンタクトや眼鏡をした場合、手元が見えなくなるのがその証拠だろう。そう考えると、長い事煩わされてきた近視もメリットがあるじゃないかということになる。どちらがいいかと考えると、手元の文字を読むのに老眼鏡をかける苦労を考えれば、まだ今の状態の方がいいと思う。

それにしても、最近困るのは視力がどうやらコロコロ変わる事。ちょっと前までパソコンを使う時は眼鏡を使用していたが、それだと見にくくなってきた。度が合わなくなってきたのかと思うが、どうやら老眼の変化らしい。今は裸眼でパソコンを使う方が楽になってきている。それも加減が1週間おきくらいに微妙に変化する。その微妙な差はパソコンと顔の距離とで調整しているが、なんとも不便である。つくづく、目は大事だと思う。

これから体の老化も進んでいく。それはそれで仕方がないことではあるが、やっぱり視力と脳の働きだけはなんとか最後までもってもらいたいという気持ちは強い。足腰が不自由になって旅行になど行けなくなったとしても、目が見えて頭がはっきりしていれば、本も読めるし映画も観られる。ブログも続けられるし、物理的には狭い世界でも精神的には広い世界で過ごすことができるというもの。これは大事だと思う。

これから体の方もいろいろと衰えてくるのだろう。筋肉や視力、聴力等々。男の場合は自信の源となる大事な機能も衰える。どれも衰えれば不便であり、衰えに伴って気持ちもなえていきそうに思う。避けられないものだとしても、1日でも先送りできるように、大事にそして(効果があるなら)鍛えていきたいと思う。若い頃には感じもしなかったことであるが、諦めることなく意識していきたいと思うのである・・・




【本日の読書】
 世界のセレブが夢中になる 究極の瞑想 - ボブ・ロス, 大嶋 祥誉(監訳), 桜田 直美 苦しかったときの話をしようか - 森岡 毅





2019年7月7日日曜日

年金について思う

参議院選挙が告示され、選挙戦がスタートした。今回は個人的にはあまり興味がわかない(と言っても投票に行くのは当然である)。争点となっていることにあまり興味を持てないというのが正直なところである。唯一、年金問題については、我が事として関心を持っている。と言っても例の「2,000万円けしからん」という話ではなく、「自分は大丈夫か」という観点である。

金融庁の金融審議会が「高齢社会における資産形成・管理」という報告書を公表した問題。そこでは高齢夫婦無職世帯(夫65歳以上、妻60歳以上の夫婦のみの無職世帯)について、公的年金の受給があっても定年後に夫婦で95歳まで生きる場合には約2,000万円の貯蓄が必要となると指摘したのは、国民に意識を持たせるいいヒントになったと思う。野党がなんで噛み付いているのかは理解不能であるが、自分はどうなのだろうとまず思う。

試算では、月額19万円の公的年金を受け取る前提としているようであるが、住宅ローンの返済が終わった家があって、病気等が何もなければまず生活していけるレベルではないだろうかと思う。試算では毎月50,000円の赤字が出る想定であるが、どういう計算根拠なのかちょっと興味深い。自分の場合は、サラリーマンなので厚生年金がもう少し出る計算である。とは言え、この先ずっと夫婦生活を続けるとは限らないし、独り身になった時のことを考えると安心はできない。今後のことだから真剣に考えようと思っても、実は不確定要素が多過ぎてなかなか考えられないというのが正直なところである。

今後の収支については、給料を中心とした日常の収支はともかくとして、それ以外での大きなお金の問題がまず不確定要素としてある。親がいくら残してくれるのか(これはプラスマイナス0ならありがたいが、介護費用等のマイナス資産となるのが心配なところ)があるし、夫婦生活を解消した場合の自分が住む家の確保(買うならその資金、借りるなら家賃)の問題がある。日々の生活費だとか旅行くらいにはいけるのかという細かい問題はともかく、大きなお金の不確定要素が将来予測のネックになる。

大きなお金の不安を除いたところでは、やはり「いつまで稼げるのか」「いつまで生きるのか」という不確定要素が大きい。実際、「いくら必要か」は、「いつまで生きるのか」「それまで健康で生きるのか」によって大きく変わってくる。それは個々人によって異なるので、一律に試算していくらとできるものではない。ならどうするか。答えは1つ。「できるだけ収入を増やす」しかない。

「収入を増やす」には、「稼ぐ」と「増やす」がある。「稼ぐ」については、幸い自分の場合、仕事では定年退職がないので、健康さえ維持できればとりあえず働き続けられる。肉体労働ではないし、(土日のテレワークはあるが)定時勤務が普通なので体が動くうちは働ける。これでいけるところまで行く。「増やす」は、投資に少し力を入れて資産形成をすることである(裏目に出るリスクもあるが、そこは元銀行員の状況判断だ)。そして働けなくなる日までにその両輪で蓄えておくのである。

思えば、大学を出て就職した時、定年の60歳まで36年も「働かないといけない」のかと気が遠くなる感じがした。それでも一浪だったからストレートの学生より1年短く済んだなどとお気楽に考えていたものである。今思えば共産党的な思考である。おそらく、当時今の「2,000万円問題」が発生していたら、「国民に2,000万円貯めろという政府の言いぐさは無責任だ」「年金の破綻をまず謝れ」という野党のピントの外れた言いがかりに大いに賛同していたに違いない。

以前はいち早くリタイアして悠々自適の生活をと考えていたが(それは現実的な自分の稼ぐ力からして無理であることは別として)、今ではより長く働きたいとの考えに変わっている。それはやっぱり会社に行って仲間と交流するのはいい刺激になるし、あれこれと会社の業績向上を考えて動くのは楽しいし、家にいて暇を持て余すよりもはるかにいい。当然、いろいろとトラブルや困難はありうるだろうが、それすらも克服した時の快感を思えば何という事もない。労働があるからこそ週末が楽しいし、楽しい週末があるからこそ日曜日の夜も翌日のことを考えて楽しく寝られる。

結局のところ公的年金制度がどの程度機能しているのかはわからないが、考えるべきはまず自助努力であろう。外資系企業に勤める友人は「自分には年金(厚生年金も企業年金も)がない」と語っていた。たぶんその分もらっているのだろうが、そういう人もいるわけであり、「年金頼み」というのも情けない気がする。外資系の知人のようにもらっていなくとも、気概だけは持っていたいものである。老後のことは確かに心配ではあるものの、それは自助努力で何とかしたい。自分で稼ぎ、貯蓄をするなりして備えたいと思う。イタズラに年金制度に頼ったり、ましてや2,000万円不足だからといって文句を言うのはお門違いだろう。

もともと自立心が強くて高校生になってから親に小遣いをもらわなかったくらいである。その精神で最後まで(金銭面だけでも)人に頼らずに生きていきたいと思うのである・・・




【今週の読書】
 世界のセレブが夢中になる 究極の瞑想 - ボブ・ロス, 大嶋 祥誉(監訳), 桜田 直美 苦しかったときの話をしようか - 森岡 毅






2019年7月3日水曜日

論語雑感 八佾第三(その26)

〔 原文 〕
子曰。居上不寛。爲禮不敬。臨喪不哀。吾何以觀之哉。
〔 読み下し 〕
子(し)曰(い)わく、上(かみ)に居(い)て寛(かん)ならず、礼(れい)を為(な)して敬(けい)せず、喪(も)に臨(のぞ)んで哀(かな)しまずんば、吾(われ)何(なに)を以(もっ)てか之(これ)を観(み)んや。
【訳】
人の上に立って寛容でなく、礼を行なうのに敬意をかき、葬儀に参列しても悲しい気持になれない人間は、始末におえない人間だ
************************************************************************************

 論語の言葉も当たり前すぎる言葉が出てくることが多いが、この言葉もその一つ。当たり前すぎて何のコメントも出てこない。人の上に立つには寛容であるべきだし、「礼」とはわかりにくいが人に対する態度のようなものとすれば、敬意を欠いた態度はもってのほかだし、葬儀に参加するに際しては故人に対する悼みの気持ちがあるのは当然だろう。そうでない人間は始末に負えないというのも当然。そんな当たり前のことに何の意味があるのだろうかと思う。

 しかし、よくよく考えてみれば本当にそうだろうかと思う。会社の上司はみんな寛容だろうか。人には敬意を持って対しているだろうか。葬儀に参列するにあたり、悼みの気持ちを持っているだろうか。答えは考えるまでもなくNOである。会社員をしていれば、寛容でない上司などうようよいるし、と言うかむしろ寛容な上司は珍しいくらいかもしれないと思うほどである。

 銀行員時代は、やはりそんな上司に悩まされることは多かった。忙しい最中に大して急ぎでも重要でもなさそうな仕事を命じられたり、事前にリスクを説明したのにそれを無視して強行し、結果懸念する事態になり、にもかかわらず人にその責任を押し付けたり。起こりうべくして起こったミスをクドクドと咎めたてたり。とかくサラリーマンは理不尽との戦いであったりするが、その中で上司の果たす役割は大きい。

 当然、そんな上司に対しては敬意などは抱けない。「礼」とは他人に対する思いやりなどが態度や行動として現れたものだとするが、当然言葉ではおだてても腹の中では舌を出すことになる。飲みに行こうと誘われれば(私は結構平気で断っていたがそれでも)、いやいやながらも「これも付き合いだから仕方がない」と応じたりしたものである。なのに当の上司本人は、自分は寛容な上司であり、たまには部下も慰労しないといけないなどと考えて誘ってきたりするから最悪だったりする。

 葬儀に関しては身内のものならともかく、義理で参列する場合などは、悼む気持ちなど持ちようがない。それに葬儀はタイミングを選ばないから、予定をやりくりして渋々参列したりする時などは余計である。悲しい気持ちと言っても、せいぜいが身内や親しい友人知人までだろう。友人の身内などまでならまだしもその友人の気持ちを慮ることはあれども、仕事関係などになるとよほど親しい関係でなければ100%義務になる。「参列した」という実績作りのための参列になってしまう。

 およそ人間社会で人間関係を円滑に生きていくためには、こうしたことはグッと腹に飲み込んでいかなければならない。それを「始末に負えない」と言われてしまうとなかなか辛いものがある。悼む気持ちがなくとも、義理だけで葬儀に参列するのはしょっちゅうだし、腹の中では反発しても、表面上は波風を立てないようにするのも然り。人の上に立つのに寛容でなくても良いとは思わないが、少なくとも二つは、我々の社会で人間関係をスムーズにするのには欠かせないと気遣いだと言える。

 孔子の言いたかったことは、そんなことではなく、もっとシンプルなのだろう。人に対しては敬意を持って接したいし、葬儀には悲しい気持ちで参加したい。されどそうは言っても我が国の文化として、「お付き合い」は人間関係の円滑化には欠かせないことである。せめて、「人の上に立つに寛容であるか」くらいはしっかり意識したいところである。「実るほど頭が下がる稲穂かな」を実践していきたいと思うのである・・・




【本日の読書】
 PIXAR <ピクサー> 世界一のアニメーション企業の今まで語られなかったお金の話 - ローレンス・レビー, 井口耕二 天皇の日本史 (角川文庫) - 井沢 元彦






2019年6月26日水曜日

自分の仕事という意識

日頃、会社で仕事をしていると、「他人の働き方」が否が応でも目に入ってくる。他人を批判するつもりはないが、同じ仕事をするにしても、その働き方(取り組み姿勢とも言えようか)次第で結果は随分違ってくるだろうなと感じざるを得ない。当然と言えば当然であるが、あらためて実感することも多い。

その一つが、「仕事を取りに行く」かどうかだ。例えば目の前に何かやらなければならない(あるいは「やった方がいい」)ことがあった場合、それを「自分の仕事」としてやれるかどうかである。やらなくても自分の責任ではないとなると、「自分の仕事ではない」、「余計なことはしたくない」という気持ちが働き「見て見ぬふり」をする。そうするとその仕事はそのまま放置される。それをどうするのか。

「経営マインド」、あるいは「責任感」と言えるかもしれないものがあるなら、たぶん自主的にその仕事をやるだろうし、「余計な仕事」と考えるなら見て見ぬふりをするだろう。見て見ぬふりをするのは簡単だが、そうして「自分の仕事でない」と考える人間と、「自分の仕事」として考える人間とでは、やがて仕事の幅に大きな違いが出てくる。実際、私は今の会社に転職して以来、仕事の指示をされたことがない。すべて自分で「自分の仕事」として「取りに行って」きたのである。

「自分の仕事でないと言うなかれ」(後藤田五訓)というのは真実だと思う。「自分の仕事ではない」というのは簡単であるが、では「誰の仕事か」という問題が生じる。それを本来やるべき者に働きかけてやってもらうなら問題はないが、「見て見ぬふり」なら問題が解決されないまま残ることになる。それを解決するのが、「人の上に立つ人」である。見て見ぬふりをするということは、そんな「人の上に立つ人」になることを自ら放棄することになる。

私もそうして「自分の仕事」として何事も捉えてきた。自分の手でやったものもあれば、やってもらったものもある(すべてやっていたらとうてい手が回らない)。大事なのは放置しないことである。そうして問題を解決していけば、自ずと「人の上に立ち」、仕事を指示する立場になる。そうなれば、問題を見つけたらそれを誰かに指示してやらせて解決するようになる。その時、指示されるのは「見て見ぬふり」をしてきた者である。

仕事をする上で大事なことは3つあって、それは「考え方」「情熱」「創意工夫」である。「自分の仕事でないと言うなかれ」は、「考え方」に入る。働き方にはいろいろあって、「そこまでしたくない」「そこそこでいい」という考え方もあるから一概にどちらが良いと言うことはできない。ただ、ずっと「指示される立場」で終わりたくないと思うのなら、あるいは水戸黄門の歌の歌詞ではないが、後から来た者に追い越されたくないと思うのであれば、必要な考え方であろう。

あらためて「自分の仕事」であると考える人間でいたいと思うのである・・・




【本日の読書】
 情報なき国家の悲劇 大本営参謀の情報戦記 (文春文庫) - 堀 栄三 大戦略論 戦争と外交のコモンセンス (ハヤカワ文庫NF) - ジョン ルイス ギャディス, 村井 章子





2019年6月22日土曜日

モノの見方

先日の事、取引先からリゾートマンションを持て余していて買い取ってくれないかという依頼があった。バブルの頃には持てはやされたリゾートマンションも今や利用する機会が少ない割には維持費がかなりかかり、手放したいという人はかなりいると思う。しかもお話があったのは「会員権」タイプのもので、肝心のシーズンには予約が取りにくいというデメリットもあるようである。

買取価格として提示があったのは10万円。買った場合は別に会費が月1万円ほどかかる。これに対し、社内では反対意見が多数派を占める。「買っても売ることができなくなる」「月々支出が出ていくだけでもったいない」というのがその主な理由。それは主として当該会員権を「資産」として見た考え方である。確かに、そういう視点で見ればその通り。私個人で買うかと言われたらまず同じ理由で買わないだろう。

ただし、私が面白いと思ったのはその「利用方法」だ。会社で買ってあとは社員の福利厚生としたら面白いと思ったのである。リロクラブなどの福利厚生を利用してもだいたい入会金に月額会費がかかる。金額も似たり寄ったりである。であれば、「福利厚生」として持っても面白いと思ったのである。もしも内容を伏せて、「『入会金10万円、月額会費1万円の福利厚生施設利用券』の購入を考えたい」と主張していたら、おそらく最初から反対は出なかっただろう(内容次第となったはずである)。

こうしたモノの見方の違いによる違いはいたるところである。その昔、ワニのうようよいるフロリダの沼地に広大なテーマパークを見出したウォルト・ディズニーとまでいかなくとも、ちょっと人と違った見方ができれば事業でも役に立つし、プライベートでも得すると思う。不動産業を営む弊社の場合であれば、不動産の売買案件が持ち込まれるのは日常茶飯事であるが、よそが見向きもしない一面を見出すことができたら大きな収益につなげられる。

こうした「他の人が見えないものを見ることができる力」はどうしたら身につくのだろうかと思う。そうした天賦の才に恵まれた身ではない自分としては、興味のあるところ。考えてみるに、それは隠れた潜在価値を見出すトレーニングをするしかないと思う。そしてその具体的方法としては、一見無価値と思われるものを見た時に、「自分だったらそれをどう生かすか?」と考える事ではないかと思う。先の会員権もそうした視点で見た時に、「入会金10万円、月額会費1万円の福利厚生サービス」という見方ができたのである。

私の尊敬するある方は、常々「複眼思考」というお話をされている。文字通り「1つの見方」だけで判断するのではなく、様々な角度から見方を変えて捉えるのである。それはまた「固定観念」との戦いのような気もする。「バスケットボールは背が高くないとダメ」と思い込んでいたら、意外な才能を発掘することはできないだろう。入団当初のイチローの素質を当時の土井監督が見抜けなかったというのは有名な話だが、そういうのも「固定観念」だったのかもしれない。先の会員権は、改めて諸々検討してみたが、トータルでやっぱり見送りとなった。それでもそこまで検討した結果なので満足している。

これからは、あらためて自分自身の固定観念にも疑問を持つようにしたいと思う。「パスタを食べる時はフォーク」ということですら、疑問を持ってみたいと思うのである・・・




【今週の読書】
 情報なき国家の悲劇 大本営参謀の情報戦記 (文春文庫) - 堀 栄三 大戦略論 戦争と外交のコモンセンス (ハヤカワ文庫NF) - ジョン ルイス ギャディス, 村井 章子




2019年6月15日土曜日

若い頃に何をすべきか

たまたまであるが、取引先の営業マンと信金の担当者から「今の時期にどんなことをしたらいいですか?」という質問を受けた。ともに20代前半のビジネスマンであり、「どんな勉強をしたらいいのだろうか」とアンテナを張り巡らせているようである。私に聞いてくるくらいだから、もうあちこちでいろいろな人に同じ質問をしているのかもしれない。非常に意欲的でいいなぁと好感を抱いたのである。自分は彼らの年齢の頃、こんな事を考えていただろうかとふと思う。

 とっさのことであり、私としては、「本を読むこと」と「今の仕事を一生懸命やること」と答えた。基本的にはビジネスマンとしては、「考え方」・「熱意」・「創意工夫」の3つが大事だと思っているが、その話をすると長くなるし、そういう場でもなかったので、もっと簡単なことに留めたのである。基本的にまずはそこからだと思う。本と言っても小説よりもビジネス系がいいだろう(ビジネス小説はもちろんOKである)。

私自身、どちらかというと乱読で、とりあえず片っ端から読んでみるというスタイルできた。ビジネス系もいろいろあるが、どちらかというと「経営者の本」系が好みである。世の中のいろいろな経営者が自分自身の経験を踏まえ、企業経営を語っているものなど、今の仕事のヒントになったりしていいなと思う所以である。逆に昔読んだ「経営コンサルタント」系の本は読まなくなってしまった。机上の理論的なものはあまり読んでも役に立たない。基礎知識として読むのはいいかもしれないから、そういう意味では若いうちに読んでおくべきなのかもしれない。

 仕事については、昨今「働き方改革」なるものが盛んに言われていて、それはそれで悪くはないと思うが、それですべて語られてもと思うところもある。日本人には「滅私奉公」、「働かざるもの食うべからず」の伝統があり、どうしても「私」よりも「公」を優先するのが当然という空気がある。私も社会人になった頃は何よりもこれが嫌で、休みの日まで会社行事に引っ張り出されるのが苦痛であった。「仕事もできない新米」は、仕事を覚えるために残業するのなんて当たり前だったし、当然、残業代の申請などとんでもないことであった。つくづく、今は良い時代である。

 しかしながら、人生のある時期、がむしゃらに働くのは良いことである。車の運転も免許取りたての頃に、たくさん乗って慣れてしまうと後は自然と体が運転を覚えてしまう。しかし、あまり乗らないと常時初心者の緊張が解けず、したがっていつまで経っても運転がうまくならない。挙句に「ペーパードライバーで運転できない」という状況になってしまう。それと同じで、若いうちに泣きそうになるくらい仕事を抱えてみるのも後の成長につながると思う。

 信金の若手担当者は、私が元銀行員と知っていていろいろと聞いてくる。ささやかながら経験談などを話して聞かせると、身を乗り出して聞いてくる。自分もいつの間にかこんな話をするようになったのかという思いが脳裏を過る。ビジネスマンとして見ているという『ワールドビジネスサテライト』の他に、個人的に好きな『ガイアの夜明け』と『カンブリア宮殿』もお勧めしておいた。取引先のところに行った時、何も知識がないと事務手続きの話で終わってしまう。少しでも相手の事業に関する突っ込んだ話ができると相手からの信頼感も増す。

 その昔、私の銀行員時代、経営難に陥っている会社を担当していたが、その時相手の社長さんからはもっと来て欲しいと言われたことがあった。月に一度のペースで伺っていたのだが、他の銀行の担当者は「どうやって借入金を返すのか」という話しかしなかったらしいが、私はひたすら「どうやって業績を上げるか」という話を社長としていたのである。そんなところが随分と役に立ったようである。「来て欲しい」と言われるようになれば、自ずから商売もやりやすくなるだろう。

 若い2人は未熟なのは確かであるが、それでも可能性を秘めていて羨ましい限りである。考えてみれば自分自身も完成形とは言えない。若い人から「もっと話を聞きたい」と思われるようになりたいと思う。そのためにも日々研鑚。まだまだビジネス体力と知力を鍛えていきたいと思うのである・・・




【今週の読書】
 アルケミスト 夢を旅した少年 (角川文庫) - パウロ・コエーリョ, 山川 紘矢, 山川 亜希子 未来の年表2 人口減少日本であなたに起きること (講談社現代新書) - 河合雅司 やる気と能力を120%引き出す奇跡の指導法 - 藤重 佳久 考えるとはどういうことか 0歳から100歳までの哲学入門 (幻冬舎新書) - 梶谷真司






2019年6月9日日曜日

論語雑感 八佾第三(その25)

〔 原文 〕
子謂韶。盡美矣。又盡善也。謂武。盡美矣。未盡善也。
〔 読み下し 〕
子(し)、韶(しょう)を謂(い)う。美(び)を尽(つ)くせり、又(また)善(ぜん)を尽(つ)くせり。武(ぶ)を謂(い)う。美(び)を尽(つ)くせり、未(いま)だ善(ぜん)を尽(つ)くさざるなり。
【訳】
先師が楽曲韶(しょう)を評していわれた。
「美の極致であり、また善の極致である」
さらに楽曲武(ぶ)を評していわれた。
「美の極致ではあるが、まだ善の極致だとはいえない」(下村湖人『現代訳論語』)
************************************************************************************

孔子が音楽について評した言葉である。と言っても、「韶」や「武」がどんな曲かもわからないし、「美の極致」や「善の極致」が一体何を意味するのかはわからない。まぁ当時奏でられていた曲には違いないし、それに対して良い悪いを判断しているのは間違いない。そもそもであるが、さすがに音楽ともなれば、「良い悪い」は完全に趣味の世界だと思う。たとえ孔子であろうと、「孔子が評価したから名曲」とは言えないであろう。

では、普通みんなどんな音楽を良いと評価するのだろうか。クラッシックのようなメロディーだけのものであればその良し悪しだし(まぁ指揮者や演奏楽団までも評価の対象とする通もいるだろう)、ポップスのようなものであれば「歌詞」か「メロディー」のどちらか、あるいは両方になるかもしれない。個人の感覚として心地良く感じれば「良い」と評価するだろう。

自分の場合、ではどんな曲が好きだろうか。クラッシックで言えば、『パッフェルベルのカノン』などの超メジャーなものやバッハの宗教音楽などが好みだし、エルガーの『威風堂々』は自分の結婚式の入場で使ったし、まあ一通りのメジャーな音楽は聴いていて心地良いと思う。今も時折その時の気分で聴いたりするが、時間のゆとりがある時でないと、なかなか大御所の交響曲などは難しい。その点、カノンは短いという点でも気軽にYouTubeで楽しめる良さがある。パッフェルベルは、5分にも満たないこの一曲だけで「バッハを超えた」と言われているが、シンプル・イズ・ビューティフルの典型的な例かもしれないし、これが「美の極致」と言えるのかもしれない。

一方、一般のポップスのようなものだと、「歌詞」の要素が入ってくる。例えば浜崎あゆみを好きになったのは「SEASONS」のようなヒット曲ではなくて、実は「SCAR」という曲であった。メロディーも良いのだが、特に歌詞の部分で「いいなぁ」と思える部分があって、特に音楽より言葉を紡ぎ出す方に価値を置く自分としては(はっきり言って音楽は自分では生み出せない)、大いに心打たれたのである。

また、ビートルズは古くから従兄弟の影響で聞いていたが、好みといえば“Let it be”のような大ヒット曲中心であるが、唯一歌詞で惹かれたのは、ジョン・レノンが歌った“In my life”である。英語の曲などボォーッと聞いていたら歌詞などわからないが、これは歌詞を見ていて思わず唸ってしまったものである。はっきり言ってメロディーだけだったらあまりインパクトはなかったと思うが、歌詞を知って以来、好きな曲になってしまったのである。

そう考えると、音楽だけでリラックスするのもいいが、歌詞とともにメロディーを味わうのもいいものである。それをうまく物語と結びつけたのがミュージカルであるが、歌詞と音楽と物語とをうまくブレンドした『マンマミーア!』なんかは非常に楽しいものになっている。孔子が現代に蘇って観たらどんな感想を漏らすだろうかと思ってみたりする。

人によっては、音楽を事細かに表現・評価している。百田尚樹の『クラシック天才たちの到達点』などはその最たる例であるが、自分にはそんな風に表現、評価する術はない。食べ物もそうであるが、食べて美味しければそれで良し、聴いて良ければそれで良し、理屈はいらないというタイプである。それしかないし、それでいいと思う。

孔子のような評価はできないけど、音楽は感性で楽しみたいと思うのである・・・




♪IN MY LIFE♪
There are places I remember
All my life though some have changed
Some forever not for better
Some have gone and some remain
All these places have their moments
With lovers and friends I still can recall
Some are dead and some are living
In my life I've loved them all


【今週の読書】
 一人の力で日経平均を動かせる男の投資哲学 (角川書店単行本) - cis アルケミスト 夢を旅した少年 (角川文庫) - パウロ・コエーリョ, 山川 紘矢, 山川 亜希子




2019年6月2日日曜日

誕生日に思う

また今年も誕生日がやってきた。誕生日だから特に何かあるというわけではないが、1つの節目として己自身を振り返ってみるいい機会である。その誕生日当日は、朝早起きして多摩川のグラウンドへ向かった。この日はグラウンドの都合でチームの練習がなく、変わりに親密先のチームの練習に合流したのである。今月中旬にはこのチームと年に1度の定期戦があるのであるが、シニアチームにはあまり「壁」がなく、こういう交流は面白いと思う。

たっぷりと走り、汗をかく。帰り道には足が重い。そういえば、昔は1週間おきに練習していても筋肉痛にはならなかったが、最近は毎週筋肉痛になる。1週間もあくと鍛えた筋肉の状態がリセットされてしまうのだろうか。かつてはなかったことだけに、これが「老化」の兆候かと思ってみる。頭の中は衰えないが、細胞は確実に衰えているのであろう。これ以上、トレーニングを怠ると、本当に動かなくなりそうな気がする。

今年82歳になる母にスマホを持たせたが、これがなかなか操作を覚えられない。メールと電話の機能ぐらいしか使っていないのだが、これが毎回同じことを聞いてくる。やるそばから忘れているイメージで、これも老化なのだろうと思ってみる。しかし、同じ年の親父はなんとか使いこなしているから、人によるのかもしれない。画面は大きいしガラケーよりも確実に使いやすいはずだが、理屈通りにはいかない。教える方には犬に芸を教えるのと同じ根気がいると思う。

練習が終わって帰宅すると、家族みんなが「誕生日おめでとう」と言ってくれる。夜は何も言わなくともケーキを買ってきてくれていたし、まだ家族内ではとりあえず認知はされているようである(まぁケーキを食べる口実だったかもしれない)。毎年、親父の誕生日には好きなワインを届けているが、親父は簡単な礼を言うくらいである。さして嬉しくもないのかなと思っていたが、よく考えれば自分も家族に同じような態度を取っている。もう少し、大げさに喜びを表現した方がいいかもしれないと思ってみたりする。

GWに家族で一泊旅行に行ったが、泊まったホテルは家族で様々なスポーツを楽しめる施設のあるところであった。フォレストアドベンチャーの他、パターゴルフやテニス、アーチェリー、アイアンゴルフ、卓球等々である。このうち、テニスと卓球では中学2年の息子に負けてしまった。これまでにはなかったことであり、息子の成長を頼もしく思うとともに、まだまだ負けられないという気持ちも強い。一番負けたくないのは、「50m走」だろうか。まだ負けないと思うが、妻は息子の勝利に1万円を賭けた。いずれ近いうちにやってみたいと思う(負けたら結構ショックかもしれない)。

90歳まで生きるとしても、残り35年。まだまだ人生は長い。住宅ローンを完済する70歳まで働こうと思っていたが、たとえそれができたとしても、残りはまだ20年もある。となると、暇つぶしと適度な刺激という意味ではもう少し仕事をしてもいいかもしれない。今の仕事だったら体力的にも大丈夫だと思う。適度な試練と負荷があった方が、生活には締りがあると思う。そのためには、今はもう少し頑張って会社の体力を充実させていかなければならないだろう。

今年はいよいよ日本でラグビーのワールドカップが開催される。試合を観に行きたいが、子育て世代にはそのための出費はちとイタイ。最悪全試合テレビ観戦だが、直前まで狙っていたいと思う。自分のラグビーに母校の応援とワールドカップと、今年の秋は熱くなりそうである。映画もアマゾンプライムとNetflixとツタヤディスカスで忙しい。資格試験も三度目の正直を果たしたい。読みたい本のリストも縮まらない。気がつけばそれなりに充実した毎日だと思う。

これから50代後半戦。もっともっとと思う気持ちが強い。仕事にラグビーに、映画に読書。親孝行もまだまだしたいし、友人たちとの交流も然り。いつも心掛けているように、これからも良き夫、良き父親、良き友人、良き同僚であり続けられるように、精進していきたいと思うのである・・・




【今週の読書】
 the four GAFA 四騎士が創り変えた世界 - スコット・ギャロウェイ, 渡会 圭子 14歳からの哲学 考えるための教科書 - 池田 晶子