2017年4月9日日曜日

論語雑感(学而第一の16)

子曰。不患人之不己知。患不知人也。
()(いわ)く、(ひと)(おのれ)()らざるを(うれ)えず、(ひと)()らざるを(うれ)うるなり。
【訳】
先師がいわれた。人が自分を知ってくれないということは少しも心配なことではない。自分が人を知らないということが心配なのだ。
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論語の言葉の中でも、なかなか深いと思わされるものとそうでないものとがある。もちろん、その感覚は人それぞれであるが、個人的に今回のこの言葉は「深い」と思わされる部類に入る。人は誰でも自分の人生では自分が主人公であり、自分こそが正義である。したがってそんな自分が批判されるのは快くないし、周りが自分を「正しく」評価してくれているかは大いに気になるところである。

自分のやっていることは常に正しいと信じているし、それはその通り周りにも認めて欲しいと思うのが人情というもの。だから批判されれば「不当」だと思うし、会社などで思った通り自分が評価されないと、「本当の自分を理解してくれていない」とか「たまたま運が悪かった」とかそういうものに求めたりする。だが、野村監督が言うように「評価は人が下したものが正しい」というのが真実であると思う。

自分自身そうした感情を過去には抱いていたし、同じような考えの人は多いと思うが、それこそがここに言う「患人之不己知」なのだろう。「自分がなぜ正当に評価されないのだ」という思いは、まさに「人之不己知」そのものであると思う。そして孔子はそれは憂いるに値しないと言う。確かに、「評価は人が下したものが正しい」と考えられるならば、その(自分にとって認めたくない)事実をどう次の行動に移すかとなるだろうし、その場合、確かに憂えている暇はないわけである。

そして後半の「患不知人也」であるが、人は得てして他人をそれほど知ろう=理解しようとは思わないものではないだろうかと思う。せいぜいが片思いの恋を成就させたいと思う時ぐらいではないかと思う。もちろん、恋についても相手を知ることは大事ではあるが、ビジネスにおいても実はとても重要なことである。その相手とは、取引先かもしれないし、あるいは一般消費者かもしれないが、相手のことがわかればビジネスも大いにやりやすくなることは間違いないであろう。なので、この言葉は消費者マインドをつかもうと日夜苦労しているビジネスマンなら大いに頷くところかもしれない。

一方で、例えば友人や会社の同僚となれば、それほど熱心に知ろうという気持ちにはならないかもしれない。新人として入社したばかりの人なら、周りの人を早く知って早く職場に慣れたいと思うかもしれないし、新米上司なら部下のことを早く掌握したいと思うかもしれない。残念ながら何でもない自分は、正直それほど深く知ろうという気持ちになれない。

そして正直に言えば、その人の粗が目についてしまうとどうしても批判的な視点が濃くなってしまう。どんな人にもいいところはあるわけで、「短所を見るより長所を見よ」と頭では理解できているものの、どうしても批判的視点から逃れられない。孔子の言葉を読んで真っ先に連想したのもこのことである。

孔子の言う「人を知る」は、「欠点を知る」と言う意味ではないと思う。悪い部分、できていない部分は自分でカバーすればいいではないかと頭では思う。あるいは不快な気分にさせることなく、改善するように働きかけるとか。自分の見えていない範囲で、その人も良き夫であったり父であったりするだろうし、そういう部分を考えずして批判だけするのは簡単だが、それでは自分も天から見られたら小さく見えてしまう気がする。

そう考えてみると、「人を知る」と言うことは深い意味があると思えてならない。言葉で言うほど簡単ではない深みを感じるのである。孔子が2,500年前にどこまで考え、意図していたのかはわからないが、自分なりに解釈してうまく役立てたいと思う。
「早速明日から」と思うのである・・・


      
 

【今週の読書】
  セブン-イレブン1号店 繁盛する商い (PHP新書) - 山本 憲司  伝えることから始めよう - 高田 明





2017年4月5日水曜日

親と入学式

桜の花も満開のこの時期、職場の近くの大学では入学式が行われたようである。駅から降りてきた人々が係員の誘導に従ってぞろぞろと歩いていて、係員の持っている案内板でそれとわかったのである。その長い長い行列を見ていて、ふと気がついた。その大半が親子なのである。ざっと3/4の割合といったところであろうか。

 母と子、あるいは両親と子、稀に父と子。そんな親子連れを見ていて、今は親子で入学式も当たり前なのだろうと思った。我が身を振り返ってみれば、自分は結構自立心旺盛だったから大学は入学式も卒業式も1人で行った。今さら親と一緒に行くものでもあるまいと思っていたのである。もちろん、受験も合格発表も1人で行ったのは言うまでもない。

 そんな考えだったから、受験の時に母親と一緒に来ている奴を見て、「なんて情けない奴だ」と思ったものである。ついてくる方もついてくる方だが、自分の人生をかけた受験にママとくる方もくる方である。その後、会社に病欠を親が伝えるなどという嘆かわしい例も耳にし、女の子ならともかく、男はそんなので大丈夫かと思ったものである。親子の行列もそんな風潮に拍車がかかった象徴なのだろうかと思ってしまった。

 もっとも、私と同年代のある人によれば、大学の卒業式には親が来たという。我が子の最後の卒業式をこの目で見てみたいということだったらしいが、まぁそういう理由ならいいのかもしれないと言われてみて思う。親にしてみれば大学の卒業式は(それで社会へ出るのであれば)、「子育ての卒業式」でもあるわけだし、最後の記念にという思いもあるかもしれない。それはそれで納得できる理由である。

そう言えば、私の父も私の合格発表を私に隠れて見に行ったという(もちろん合格の報告後である)。それは何年も経ってから聞いた話で、私に言えば反対されるから黙って行ったらしい。中卒で社会に出た父からすれば、一生懸命働いて育てた息子が自分の行けなかった(そして行きたかった)大学に合格し、それは感慨深い出来事だったのかもしれない。今から思えば悪いことをしたなと思う。もう少し寛容に構えて、入学式なり卒業式なりに「連れて行って」あげれば良かったと思う。

そう考えると、ぞろぞろと長い行列をなして歩いていた親子連れも、そんな優しい息子・娘の集団だったのかもしれない。「親と一緒」というだけで批判するのは良くないかもしれない。自分の受験時の、あのママと来ていた学ランの受験生のイメージがどうも強すぎるのかもしれない。ただ、社会人にもなって親が病欠連絡をするのもいるから、中には子離れ親離れできなくて、一緒に来ていた親子もきっといただろうと思う。

親と一緒でない子は、友達同士であったり、あるいは一人寂しく歩いていたりしていたが、一人で歩いていたのはたぶん誰も同じ大学に行く知り合いがいなかったのだろう。心なしか俯き加減のそんな彼らをポツリポツリと見かけると、かえってエールを送りたい気持ちになった。親に頼るのは仕方のない学費と生活費だけにして、精神的にはもう独立したい時期である。

我が家の子供たちも、いずれ大学へと進学するであろう。その時はどうするだろうか。東大とか早稲田とか慶応とか、一流大学だったら物見遊山で行くかもしれない。でもそれは娘の場合で、息子の場合は行かないかもしれない。その時になってみなければわからないが、行くとしたら、それは子供の為というより自分の為であろう。まぁその前に、大学に行かない(行けない)ということのない様、しっかり勉強してほしいと思うのである・・・


 

【本日の読書】
 ポスト・アベノミクス時代の新しいお金の増やし方 - 加谷珪一 伝えることから始めよう - 高田 明





2017年4月2日日曜日

音楽を聴く

先日のこと、車で移動中に聞いていたラジオで若者に「どんな機器で音楽を聴いているか」というアンケートをやっていた。その結果は、案の定「携帯機器」という回答が過半数を占めていた。我が家でも娘と妻はiPodを持っていて音楽はそれで聴いているようである。我が家にはステレオコンポがあるが、それでCDを聴くことなどまだあるのだろうかという状態である。考えてみれば、みんなどういう風にして音楽を聴いているのであろうか?

かくいう自分はと考えてみると、今はパソコンで音楽を聴いている。社会人になってすぐ、ラジカセを購入し目覚ましがわりに使っていたが、それはだいぶ使った後買い替え、今はそれももうない。カセットテープを聴いていたウォークマンはもう骨董品だし、動きも怪しいしもう何年も使っていない。もともと携帯機器はそれほど必要とは思わなかったので、妻と娘がiPodを買った時も同調しなかった。

そういうわけで、気がつけば今はパソコンで音楽を聴いている。もともとそれほど音楽に興味があったわけではない。常に聴いていたいというほどでもなく、だから外出時に携帯音楽プレーヤーを持って歩きたいなどということもなく、ウォークマンも「買ってみるか」という程度の気持ちだったと思う。音楽は「じっくりと聴く」タイプだと言えるかもしれない。

パソコンで音楽を聴くと言っても、多いのはYoutubeだ。ここはいろいろなアーティストの曲が聴ける。1つ選ぶとその横にまた同じようなものが並ぶ。それを見ていて、「ああこれ懐かしいな」とクリックするパターンが多い。いつの頃からか、最新のアーティストについては疎遠になってしまっているから、それで十分なのである。Youtubeのいいところは、そうして「忘れていた」曲なりアーティストなりを思い出させてくれるところだろう。

もちろん、iTunesも利用していて、時折これという曲をダウンロードして楽しんでいる。パソコンで聴く時に「音質」はどうなんだろうと思うことはあるが、もともとそれほど凝っているわけではないので、ほとんど気にならないというのが実情である。デジタル音源の良さなのかどうかはわからないが、個人で楽しむ分には全く気にならないのでまぁ良しとしている。

今の時代、携帯音楽プレーヤーに曲をダウンロードしておけば、ブルートゥースによって車のスピーカーに飛ばして聴いたり、家でBOSEのスピーカーから流したりと必ずしもイヤフォンでなくても聴けるようで、実に便利な世の中になったと思う。ステイーブ・ジョブズが「ポケットに1000曲を」と言って作り上げた現代の音楽世界は、かつてレコードを借りてはせっせとカセットテープにコピーしていた世代からすると隔世の感がある。今は積み上がったカセットテープの整理に頭を悩ます必要もない。

職場の近くには、「レコードショップ」がある。まだ愛好家がいるのだと思うし、それはそれで悪くはないと思う。考えてみれば、レコードの歴史は長く、従って愛好家もそれなりに歴史があるのだろう。それに比べ、そこからカセットテープ、MDCD、そしてダウンロードという流れは目まぐるしいものがあった。さすがにこれ以上の進化はなさそうな気はするが、それは何とも言えない。しかし、ツールが変われども私にとって「音楽を聴く」という行為自体はこれからもなくなることはないだろう。

10年後、自分がどんな音楽を聴いているのかと想像すると、多分今とそれほど変わらない気もする。人生のその時その時を彩った音楽に飽きるということはないだろうし、逆に1000曲以上入ったデジタルの世界では、かつて聴いたあの曲この曲すべて聴けるようになっているかもしれない。検索するだけで、わざわざ移動して借りてくることもなく音楽を楽しめる世界はやっぱりいい世の中だと言える。

せっかくだから、これからは懐かしの思い出の曲ばかりでなく、新しい音楽にもちょっと興味の矛先を向けてみようかと思ってみたりするのである・・・




【今週の読書】
 デービッド・アトキンソン 新・所得倍増論 - デービッド・アトキンソン 日輪の遺産 新装版 (講談社文庫 あ 70-30) - 浅田 次郎






2017年3月29日水曜日

本質を見失うと・・・

物事はその本質をきちんととらえて考えないと、時としてとんちんかんな事をやる羽目になる。先日、そんなことを改めて思わされることがあった。それは高校の同窓会の幹事会での席上の事、その日の議題として卒業時に卒業生の中で同窓会に加入を拒否する人たちがいて、どうしたら100%加入してもらえるか、その対策が上程された時のことである。

 昔は、卒業したら100%加入するのが当たり前だったが、たぶんいろいろトラブルもあったのだろう、最近は加入については意思確認が必要とされるようになっている。そこで卒業時に意思確認するわけであるが、その時「No」という人たちが出てきているのである。それはそれで仕方ないと思うのであるが、それでも何か対策をというなら2つしかない。

 1つは同窓会に加入する魅力・メリットを誰にでもわかりやすく伝えることである。そしてもう1つは、そもそもであるが、同窓会自体を魅力ある組織にすることである。当たり前だがそれしかない。しかし上程された提案内容は、「入学時に他の書類ともども判をもらってしまう」というものであった。提案者は、他の高校での成功事例として聞きつけ、「それはいい」と飛びついたらしい。

 確かに、そうすれば100%加入となるのは間違いないであろう。ただ、そうして名前だけの会員を集めても当然意味はない。しかも、例年総会へ参加する会員の数は、総数の0.5%以下という誠にお寒い状況で、もはや同窓会の存在意義すら問われかねない状態である。それに対する抜本的な改善を試みるでもなく、さらに「名前だけの」会員を集めて良しとするスタンスでは先々知れているだろう。

 「木を見て森を見ず」という言葉があるが、物事は本質となるべき全体像をきちんと捉えておかないととんちんかんな対応を取ることになる。今回の件も、「どうしたら全員同窓会に加入してくれるか」という問いを出発点としているが、その中にのめり込んでいき、いつの間にか本質からずれてしまったものである。中心になっている人たちは真面目に考えているのだろうが、それがおかしい事に気が付かない。

 私が昨年まで別途お手伝いさせていただいていたボランティア団体でも、ホームページを作るにあたり、「詳しい」と称する人に制作を任せたが、出来上がったものはマニアック過ぎてまったく使えないものであった。ホームページを「どういう目的で使うのか」「どういう風に利用するのか」「そもそも何の目的でつくるのか」という本質を無視してテクニックのみに走った結果である(それは結局廃止にして、私が別の人に助けてもらって作り変えた)。IT関係はわからないからと言って、詳しい人に丸投げしたらそうなるというまさに悪しき見本であった。

 ボランティアであるからまだいいかもしれないが、仕事となるとモノによっては影響は甚大だからいい加減にはできない。本質を見失わないためには、常に「大事なことは何なのか」「あるべき姿はどういうものか」「要は何なのか」ということを問い続けないといけないだろう。本質を見失ってしまうと、「おかしなことを大真面目にやっていてしかも気が付かない」というまさに冒頭の例のようになってしまうだろう。

 人のふり見て、ではないが、改めて自分も気を付けたいと思うところである・・・

 

【本日の読書】
 デービッド・アトキンソン 新・所得倍増論 - デービッド・アトキンソン  日輪の遺産 新装版 (講談社文庫 あ 70-30) - 浅田 次郎





2017年3月27日月曜日

私が影響を受けた人

 人はいろいろな人に影響を受けて育つものである。かくいう自分もいろいろな人から影響を受けている。先日、高校のラグビー部OBの試合に参加した。そして久しぶりにお会いしたH先輩(大学のH先輩とは別人である)も高校生だった私が影響を受けた人の一人である。

高校に入学し、ふとしたきっかけでラグビー部の門を叩いた私の前に現れたH先輩は当時3年生でキャプテン。新入生には眩しい存在だ。練習はキャプテンの指示のもと行われていたから、当然その一挙手一投足に目がいく。ラグビーは当然うまいし、キャプテンシーもあって、自分もかくありたいと思ったものである。

その想いから、必然的にポジションもH先輩と同じナンバー8を選んだ。コーチには、体格的にはフランカーとか、運動神経も良かったからバックスも勧められたが、あくまでもナンバー8を希望した。幸いそれほどライバルもなく希望は叶ったが、それは卵から孵った雛が最初に目にしたものを親だと思うのと同じようなものかもしれない(その後大学に入るとさすがにフランカーに移ったが、それはそれで良かったと思う)

H先輩の影響は、ラグビーだけではない。そのユニークなキャラクターだ。もちろん、現役中はどちらかと言うと怖いイメージだったのだが、引退して受験モードに入ったあとは気軽に接してもらえるようになった。その時、初めて「素」に戻った先輩と接したのである。練習後にみんなで行きつけの喫茶店に行くと、H先輩らもなぜか受験の息抜きと称して来ていて、そこでH先輩の「本当の姿」を見たのである。

H先輩は、常に話の中心にいて、その話が面白いのなんのと。初めこそ練習中のイメージと違って戸惑ったのだが、慣れたあとはその「トーク」を楽しんだ。何と言っても一年坊主だし、隅で聞いているのが精一杯だったのである。H先輩はそんな隅っこの私を目ざとく捕まえては、よくダシにしてくれた。「お前暗いから一日一つ何か面白いことを言え!」。

そんなことを言われても、力なく笑うしかなかったが、先輩のトークは聞き流すだけでも効果があった。もともと父に似て無口だった私だが、大学に入り合コンに参加した際は、軽快なトーク(と自分では思っていた)を披露して女子大生の笑いを取れたのは、間違いなくH先輩のおかげである。「スピードラーニング」が、「聞き流すだけで英語が話せる」という謳い文句の宣伝をしているが、「聞き流す」だけでしゃべれるようになったのは事実だから、効果があるのは間違いないと断言できる。

ビールを飲みながら久しぶりにH先輩のトークを聞いていたが、相変わらずの面白さだった。大学を卒業したあと、大手製薬会社に入社し営業マンとなったH先輩だが、営業成績も良かったという。それはとりもなおさず、先輩のキャラクターとトークの結果だろうと思う。自分はといえば、影響を受けたとは言え、もともとは物静かで無口であるから先輩ほどの営業力は身につかなかったと思う。せいぜいが、社内でそれなりの人間関係(特に女性)を作るのに役立った程度である。だが、それでも大いに役立ったのは事実である。

先輩のトークは、やっぱり何年経っても自分が到達できる領域のものではない。だが、間違いなく自分の欠点を補ってくれるものであった。考えてみれば、キャプテンとして眩しい存在で、カッコよくて、だから同じポジションを志望してという流れがあったのが良かったかもしれない。最初からおチャラケた素顔を見てしまっていたら、距離を置いていたかもしれない。

先輩のトークの洗礼を浴びていなかったら、自分はどんなキャラクターになっていただろうとふと思う。多分、無口で根暗で、高校時代に付き合っていた彼女から「何考えているんだかわからない」と言われたことがあるが、どちらかというとカタブツのそういう人間になっていたのではないかと思う。そうしたら、自分の人生ももっとつまらないものになっていたかもしれない。

考えてみれば、それもありがたいことだと思う。今年は同じラグビーチームに入れてもらうことになっているが、そうすると接する機会も増え、相変わらずのトークを聞く機会も増えるだろう。それがさらなる影響としてわが身に現れるかどうかはわからない。ただ、もうすでに十分な恩恵を被ったことだし、今度その感謝の気持ちを伝えてみたいと思う。その場で先輩を笑わせられたら、高校時代果たせなかった課題をようやく果たせるのかもしれない。

先輩とは、末長くお付き合いさせていただきたいと、つくづく思うのである・・・


【今週の読書】
 雪煙チェイス (実業之日本社文庫 ひ 1-3) - 東野圭吾 投資家の父より 息子への13の遺言 - 高橋 三千綱 危険なビーナス (講談社文庫) - 東野 圭吾





2017年3月23日木曜日

論語雑感(学而第一の15)

子貢曰。貧而無諂。富而無驕。何如。子曰。可也。未若貧而樂。富而好禮者也。子貢曰。詩云。如切如磋。如琢如磨。其斯之謂與。子曰。賜也。始可與言詩已矣。告諸往而知來者也。
(いわ)く、(まず)しくして(へつら)うこと()く、()みて(おご)ること()きは、何如(いかん)()(いわ)く、()なり。(いま)(まず)しくして(たの)しみ、()みて(れい)(この)(もの)()かざるなり。子貢(しこう)(いわ)く、()()う、「(せっ)するが(ごと)く、()するが(ごと)く、(たく)するが(ごと)く、()するが(ごと)し」と。()(これ)()()うか。()(いわ)く、()や、(はじ)めて(とも)()()()きのみ。(これ)(おう)()げて、(らい)()(もの)なり。
【訳】
子貢が先師にたずねた。貧乏でも人にへつらわない、富んでも人に驕らない、というほどでしたら、立派な人物だと思いますが、いかがでしょう。先師がこたえられた。まずひととおりの人物だといえるだろう。だが、貧富を超越し、へつらうまいとか驕るまいとかいうかまえ心からすっかり脱却して、貧乏してもその貧乏のなかで心ゆたかに道を楽しみ、富んでもごく自然に礼を愛するというような人には及ばないね。すると子貢がいった。なるほど人間の修養には、上には上があるものですね。詩経に、切るごとく、磋るごとく、琢つごとく、磨くがごとく、たゆみなく、道にはげまん、とありますが、そういうことをいったものでございましょうか。先師は、よろこんでいわれた。賜よ、おまえはいいところに気がついた。それでこそともに詩を談ずる資格があるのだ。君は一つのことがわかると、すぐつぎのことがわかる人物だね。
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貧乏でも人にへつらわず、富んでいても人に驕らないという態度は、確かに立派だと言える。これは何も「富」を基準にしなくても「上下関係」という意味では広く当てはまるような気がする。例えば、「上司にへつらわず、部下に驕らず」といった具合だ。そもそも人は誰でも上にへつらい、下に驕るという傾向はあると思う。そういう傾向の中で、上下どちらに対しても同じ態度で接することができるというのは、芯の通った人物を感じさせる。

なぜ、人は上下関係に対してこのような傾向があるかというと、結局それは「自信のなさ」の故だと思う。貧乏でも自分に自信があれば、富める者とも対等に話ができるだろう。富んでいるなら(富以外に自信を持てるものがあるなら)、富だけで人を判断せずに対等に接することができるだろう。引け目を感じるからこそ上に対してへつらうのだし、下に対して優位な部分を強調しようとするのだろうと思う。

自分自身に自信があれば、たとえ貧乏でも他の点では劣っていないと思えるからへつらうこともない。他に自信があれば、貧乏なのは仕方がないと受け止められる。近所にお金持ちがいたとしても、胸を張ってご近所付き合いすればいいし、それがすなわち、孔子の答える「貧しくて楽しみ」という態度なのだろうと思う。釣りバカ日誌のハマちゃんが、社長のスーさんと友達付き合いできる所以なのだろうと思うし、自分もかくありたいと思う。

そうした孔子の答えに、子貢は「切磋琢磨」の言葉を持ち出す。この部分が「切磋琢磨」の出典かと思ったら、実は『詩経』というさらなる古典が元ネタらしい。「始可與言詩已矣」の「詩」はこの『詩経』の意味なのかもしれない。そうした弟子の教養を孔子は褒めているわけであるが、この「切磋琢磨」は実は私も好きな言葉で、自分の行動の根本においているし、だからこそ息子の名前にも取り入れたくらいである。

切磋琢磨とは改めて説明するまでもないが、一言で言えば「磨くこと」だ。何をと言えば、それは自分自身だろう。しかもただ「磨いて終わり」ではなく、「磨き続ける」ことだ。そこに完成形はない。学生時代は学校の勉強、そして社会に出てからも仕事にまつわる勉強や人間関係や人生といったテーマまで学ぶべきことは多い。常に学び、考え、実践し、そしてまた学ぶというサイクルを繰り返し、琢磨しないといけない。

要は、自分は自分と考え、しっかりとした信念と自分自身を保ち、常に自分自身を磨く。昨日より今日、今日より明日と一歩でも前進できるように切磋琢磨する。そういう人間に私はなりたいと思うし、息子にもそうなって欲しいと思う。

 この学而第一の15は、実に私の個人的心情にマッチするところである・・・


 

【本日の読書】
 投資家の父より 息子への13の遺言 - 高橋 三千綱  危険なビーナス (講談社文庫) - 東野 圭吾




2017年3月20日月曜日

論語雑感(学而第一の14)

子曰。君子食無求飽。居無求安。敏於事而愼於言。就有道而正焉。可謂好學也已。
()(いわ)く、君子(くんし)(しょく)()くことを(もと)むる()く、(きょ)(やす)きを(もと)むる()し。(こと)(びん)にして(げん)(つつし)み、有道(ゆうどう)()いて(ただ)す。(がく)(この)むと()()きのみ。
先師がいわれた。君子は飽食を求めない。安居を求めない。仕事は敏活にやるが、言葉はひかえ目にする。そして有徳の人について自分の言行の是非をたずね、過ちを改めることにいつも努力している。こうしたことに精進する人をこそ、真に学問を好む人というべきだ
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 孔子の説くいわゆる「君子」は極めて理想的な姿だ。ここでは飽食を諌め、家も贅沢なものは戒め、仕事は当然のこととして、言葉遣いや我が身の振り返りなど、修行僧そのものである。確かにそれだけしっかりやっていれば、「君子」と呼ばれるのもよくわかる。だからこそ、2,600年を経てもなお名を残しているのだろう。

それはそれで確かに立派ではあるが、では自分もそうしてみようかと思うと難しい。その最たるものは前半部分だ。衣食住とは人の生活の基本として挙げられるが、そのうちの食住に関する部分である。なぜなら、今の世の中には美味しいものが溢れており、そうしたものに目をつぶるのは非常に困難である。それに果たしてそれが現代の君子への唯一の道かという疑問もある。安居とは居心地のいい家といった感じであろうか、これも求めるのは人間の本能とも言える。

大前研一氏などの著書を読むと、「仕事も遊びもしっかりやる」というスタンスを貫いている。当然、美味しいものだって食べているだろうし、稼いだお金で世界各地へ遊びに行っているようだし、別荘だってあるくらいだから当然家もそれなりのものだと思う。大前研一氏のように、仕事も遊びも一流を実践している人は多いだろう。それが働くモチベーションになっているのかもしれないが、それが悪いとは思わない。そういう人たちが君子かどうかはわからないが、お手本を選べと言われたら、現代の方々を選びたいと思う。

これに対し、後半部分は大いに耳を傾けたいと思う。私自身、誰に対しても自分の考えをロジカルに説明、主張できる自信はある(妻を除いて、だが)。しかし、そういう自分では、それに対する危険性も感じている。自分の意見を主張するに熱心になるあまり、相手や周りが見えなくなることがあるからである。特に相手が言いたいことはあるがうまく説明できないと思われる時がしばしばあり、自分の意見に強い自信があると、反論が出てこないのも当然だと思いがちになることがあるのである。

過ちを改むることはもちろん大事だと思うが、それよりもまず自分の意見がどう相手に届いているかを知りたいと思う。それによって自分の意見を客観的に捉えることができる。自分の顔は自分では見ることができず、鏡があって初めてそれが可能となる。毎朝鏡を見るが如く、常に自分の意見についての「鏡」を持つように心掛けた方がいいということだろう。

そう考えると、後半部分は自分への戒めになる言葉である。孔子のいう「真に学問を好む人」というのは、謙虚に向上心を持つ人という意味と考えるべきかもしれない。孔子のいう真に学問を好む人には、食住の面でなれそうもないが、「鏡を見る努力」は怠らないようにしたいと思うのである・・・

 
【今週の読書】
 「言葉にできる」は武器になる。 (日本経済新聞出版) - 梅田悟司 雪煙チェイス (実業之日本社文庫 ひ 1-3) - 東野圭吾







2017年3月16日木曜日

タイミング

タイミングの良し悪しというのはあると思う。我が社は不動産賃貸業であるが、今はハイシーズンなので、募集している部屋も次々に埋まっていく。されど、ちょっと時期を外すと空室期間が長くなってしまう。もちろん、時期だけではなく家賃とかの条件もあるが、時期を外れて需要が減ると、当然ながら(こちらにとって)良い条件での募集は厳しくなる。

 退去の連絡をいただくと、当然ながらすぐ次の募集に思いが及ぶ。しかし、退去の時期が3月末とか言われると、何とも言えない気分になる。1月末なら需要のピークに募集できるので空室期間を短くできる。しかし、3月末だと需要のピークは過ぎてしまうので、しばらく借り手がつかないかもしれない。家賃戦略にも影響するし、「もう少し早く退去してくれれば」と思うも、こればっかりは相手のある話でどうにもならない。

 販売の場合は最たるもので、募集している時には買い手が現れず、ディスカウントして売却したあとに、定価でも買いたかったというお客さんが現れたりもする。「欲しい」タイミングと「売りたい」タイミングがばっちり合えば双方がハッピーだが、なかなかそうもいかない。私が自宅を買った時も、土地の値段を聞いた銀行の先輩に羨ましがられたものである。その先輩もかつて同じ地域で探していたが、その時は到底手が届く価格ではなかったという。「その値段だったら買いたかった・・・」と目の前でタメ息をつかれたが、どうしようもない。

 結婚したあとのこと、かつて大好きで猛烈にアタックした女性から「もうちょっと続けて欲しかった」と言われたことがある。「なんでその時に言ってくれなかったのか・・・」と随分恨めしく思ったものである。私がアタックしていた時は戸惑うばかりで、私が諦めたあと、じわじわと思いが寄せてきたというが、時すでに遅しであった。

転職もタイミングものである。企業の募集とこちらの応募がうまくマッチすればいいが、必ずしもそうはいかない。転職した先輩の話を聞き、そんな好条件なら自分もと思ったが、その時はもう募集がなかったということがあった。今は我が社で求人の計画があるが、こちらの望む人が望むタイミングで現れるかはわからない。

みんなちょっとしたタイミングなのであるが、それがずれるととてつもない違いとなって表れる。それが人の世の常だとはわかっているが、ちょっと辛い人の世だと思う事しばしばである。もしも何らかの方法で常にベストタイミングとなるようにできたら、自分の人生も仕事も随分違うのにと思う。けれどそれは叶わぬこと。過去を変えられないのと同様、ベストタイミングを選択することも不可能。できるのは、ただそれがベストタイミングであったと受け入れるだけであろう。就職も、賃貸募集も、転職も結婚も、ベストであったと思うのが良いのであろう。

そう思う一方で、それを何とかしたいと思う気持ちがふつふつと湧いている。もう恋愛は手遅れだし、転職は基本的にもう必要がない。しかし、仕事はまだまだ現在進行形。タイミングを合わせるのは最終的には難しいかもしれないが、奮闘努力のし甲斐はあるだろう。何事も前向きに、倒れるなら前への精神でやっていきたいと思うのである・・・

 
【本日の読書】
 経営者になるためのノート ([テキスト]) - 柳井 正  コシノ洋装店ものがたり (講談社+α文庫) - 小篠綾子



2017年3月12日日曜日

娘の進路

この頃、娘の進路について食卓で話題になる。と言っても高校一年の今の段階では、「理系か文系か」のレベルである。以前から娘は「理系」の科目が好きなようで、なんとなく「理系」だろうかと思っているが、だから大学は理系になるのかとか、女の子はやはり文系の方がいいんじゃないかとか考えているわけではない。もう間もなく進路について決める時期だろうし、何より本人の事だから本人が選ぶ問題である。

では、例えば娘にどっちがいいのかと聞かれたらなんと答えようか。結論としては、「好きな方を選べ」となるが、その参考情報くらいは提供したいものである。と言っても根っからの文系人間を自負していた自分としては、「選択」した経験がないという弱点がある。高校生活で唯一真面目に取り組んで赤字を取ったのが化学。数学は「好きの領域」を出られず、生物地学は高得点をマークできたが、理系では傍流だ。選ぶ余地がなかったということでは、楽であった。

迷ったのは文系の中でどうするかだ。いちばんの希望はやはり文学部だった。本を読むのが好きだったし、できれば小説などを書いてみたいという思いがあったのである。しかし、それで食っていくまでの覚悟はなく、「授業料の安い国公立の大学」という条件下では、東大は無理だがそれ以下はレベルが低すぎるという問題もあって断念。結局、法学部に進んだのである。

しかし、法律の世界は当初思い描いたようなものではなく、学び進めた挙句の結論は、自分が進んでいきたいという道ではないというものだった。その選択は間違っていなかったと思うが、就職では銀行を選択した。それなら経済学部か商学部の方がよかったのかもしれないが、日本の場合それほど進路と専攻が密接に関連していない。銀行に入っても違和感を感じたことはなかったし、むしろ不良債権部門に移った後は、顧問弁護士と話す上で法律的な下地は大いに役に立ったものである。

理系の大学では実験が多く、授業に多くの時間を取られるという話はよく聞く。だから嫌だというのも、なんだかなぁという気がする。先日飲んだ友人は、理系の大学から総合商社に進み、今は家業の飲食店の跡を継いでいる。理系とは程遠いキャリアだが、それもまた良しだと思う。考えてみれば文系から例えば企業の研究職には行けないだろうが、理系からは幅広く進めるようにも思う。そういう意味では理系の方が進路は広そうである。

スティーブ・ジョブズは「点が線になる」ということを語っていたが、よほど強い希望を持っているのでない限り、大学へ進む進路のうち「理系か文系か」という問題はそれほど重要な問題ではないのかもしれない。将来の就職がどうのこうのもあるかもしれないが、現時点で自分の希望に沿って選べば良いとやっぱり思う。それがよくわからないというのなら、とにかく動いて探してみるべきだろう。本を読んでもよし、先輩を訪ねるのもよし。私の場合は、ヒントをくれたのは映画であった

 若いうちはいろいろと悩むものである。だが、経験上立ち止まっていても悩みは解決しない。進路でも恋愛でもなんでも、まずは動いてもがいてみるのがいいんじゃないかと思う。無限の可能性と漠然とした不安とを目の前にした、考えてみれば自分も確かに立っていたあの頃が今にして思えば懐かしく、そしてそこに立つ娘が羨ましい。

 できることなら、そんな悩める子供にアドバイスの一つもできたら、自分の経験もよりいきたものになるのではないかと思うのである・・・



【今週の読書】
 確率思考の戦略論 USJでも実証された数学マーケティングの力 - 森岡 毅, 今西 聖貴  キリンビール高知支店の奇跡 勝利の法則は現場で拾え! (講談社+α新書) - 田村潤 コシノ洋装店ものがたり (講談社+α文庫) - 小篠綾子