2025年10月13日月曜日

アンケートに思う

公益財団法人「新聞通信調査会」は11日、メディアに関する全国世論調査の結果を公表した。 日本の防衛費の増額について「賛成」と答えた人は54・5%で、「反対」の42・8%を上回った。米国のトランプ大統領が「世界に悪い影響を与えている」と答えた人は79・4%だった。
2025/10/12

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 二者択一の質問に際し、答えは二つのうちの一つを選ぶだけなのであるから一見簡単そうに見える。しかし、私はこのような二者択一の質問に際し、戸惑ってなかなか答えられないケースが多い。それは質問がシンプルであればあるほどその傾向は高くなる。なぜなら質問について掘り下げて考えていくと、行き着いた先のケースバイケースで答えが異なるからである。つまり、「YES」の場合も「NO」の場合も出てきてしまうのである。質問がシンプルであれば、「◯◯だったらYES」、「□□だったらNO」という具合に答えが前提条件付きになってしまうのである。

 例えば上記の「防衛費の増額」についてであるが、そもそもなぜ増額の必要性があるのかという背景を知りたい。中国の脅威なんかは容易に想像がつくが、脅威があるからといって金だけかければいいというものではないだろう。装備の劣化によって最新兵器に代替していく必要があるのかもしれない。あるいはただ単にアメリカの圧力に抗しきれないだけかもしれない。装備も最新兵器になれば同じ目的でも価格が高くなることは容易に理解できるから、一概にダメとも言い難い。

 アメリカとの付き合いもあるから、単に圧力に負けるということではなく、駆け引きから「あちらを譲ってこちらを譲らせる」的なところがあるかもしれない。とにかく最新兵器を導入したくて必要もない更新をしているためとなるといかがなものかと思えてしまう。また、防衛費を増額する場合、その財源をどうするのかも大事な判断要因である。既存の税収の範囲内でやりくりするというのであれば構わない気もするが、それで削られる公共サービスの内容によっては「ちょっと待った!」というケースもあるかもしれない。

 また、基本的に増税は勘弁してくれよと思うが、その金額によっては目くじらを立てることもあるまいと思うだろう。例えば5円の増税と言われれば「まぁいいか」となるが、1,000円となるといい顔はできない。「防衛費の増額に賛成か反対か」と聞かれた時、私ならこういうふうに考えてしまう。そして一体どういう風に増額するのか、それが明らかにならないと答えようがない。このアンケートに答えた人たちはどういう状況で答えたのかわからないが、何を根拠に答えたのか気になってしまう。

 「トランプ大統領が世界に悪い影響を与えている」と答えた人は79・4%だったということについても、当然歴代の大統領はみな世界にいい影響も悪い影響も与えていると思う。トランプ大統領のイメージだけで判断しているように思えてならない。関税戦争についても世界に緊張感を与えたのは事実であるが、本当に悪いかどうかは私には判断できない。ノーベル平和賞狙いだろうと名誉欲からであろうと、戦争終結への努力は認められて然るべきである。

 また、こういうアンケート結果を見た時、ついつい目が行ってしまうのは、悪い影響を与えていると答えた79・4%の人ではなく、いい影響を与えた(設問に「どちらとも言えない」があったかは知らない)と答えた21・6%の人である。どういう考え方だったのだろうかと興味深い。単純に「いい影響を与えた」と考えているとしたら、その人たちは世間一般の(マスコミによって作られた)イメージに左右されることなく、人が目を向けないところに目を向けているということであり、なんとなくたくましさのようなものを感じる。

 そもそもこれがバイデン前大統領だったり、オバマ元大統領だったらこんな設問を用意しただろうかと考えてみると、その設問の根底にある意図は明らかだろう。アンケートと称して、その裏にはトランプ大統領に対する批判が含まれているのは明らかである。そんな意図に塗れたアンケートに答えるとしたら、天邪鬼な私は間違いなく21・6%に入る答えを書いていただろう。いずれにせよ、二者択一のアンケートに答えるのは、私には難しいことであると思うのである・・・


Fathromi RamdlonによるPixabayからの画像


【今週の読書】
全体主義の起原 新版(1) ハンナ・アーレント  戦争の思想史: 哲学者は戦うことをどう考えてきたのか - 中山元  夜更けより静かな場所 (幻冬舎単行本) - 岩井圭也






2025年10月8日水曜日

老親と暮らす

たはむれに母を背負ひて
  そのあまり軽きに泣きて  
    三歩あゆまず 
石川啄木「一握の砂」
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 妻と別居して実家に戻ってもうじき1か月である。本来、息子が大学を卒業するまであと2年半我慢していようと思っていたが、繰り上げたのは実家の両親がそろそろ2人だけで生活させておくのが危なっかしいと思ったためである。両親とも短期記憶が劇的に劣化しており、一晩寝るとみんな忘れる状態である。家事もままならぬ様子で、食事もあるものを食べている状態。一度平日の夜に行ったらその日の夕食はコンビニのおにぎりという状態であった。実家に戻って取り急ぎ改善をしたのは食事である。

 食事といっても、私も「男子厨房に入らず」の世代である。そうもいっていられないので、数年前からスマホアプリ片手に見よう見まねで包丁を握っている。今までは週に1度実家に通って料理を作っていたが、それが今度は1週間に1度ではなく毎日である。これが思ったより大変である。とりあえず週末は良しとして、平日は食事の宅配に頼ることにした。ところがこれも簡単ではない。まず午前中に食材が届くが、お昼にそれを食べてしまう。夕食用だから食べないようにと言いおいても忘れて食べてしまう。それも連日にわたってである。

 怒っても嘆いても、次の日には忘れて食べてしまう。やむなく最初の週は毎晩弁当を買う羽目になってしまった。食事の宅配を頼んだのは週3日。家計費の節約も考えないといけない。しかし、始めてみるとこれがなかなか大変。週末に週4日分の献立を考え、食材を買う。土日は当日作って食べ、月曜日の分は日曜日に作り、金曜日の分は前日に作り置きする。届けてもらった食材を食べられてしまうのは昼食がないから。したがって両親だけの昼食も考えないといけない。そうなると、常時食事のことが頭の中を占拠する。

 考えてみると、共働きの主婦はこれを毎日やっているのである。調理の手間暇はそれほどではないが、それよりも献立や食材の調達やらと食事のことを考えることが何より重荷になる。慣れてくればもう少し負担も減るのかもしれないが、今は頭の中を食事が占める割合が多くなって大変である。昼食を用意し、朝、届いた食材を食べないように母に伝え、昼に電話をして食材が届いたことを確認し、食べないように再度念を押す。そしてようやく夕食を確保できたのである。

 仕事が終わって帰宅前に電話をし、ご飯を炊いておくことを頼む。せめてそのくらいの家事はやらないと何もできなくなる気がする。しかし、帰宅してみればご飯が炊けていないということもあった。それすら忘れてしまうのかと絶望的な気分になったが、さいわい温めれば食べられるご飯パックを買っておいたので、それで代用する。怒っても何にもならない。それよりも頼んだことができていない場合を想定して動くしかない。「自分が源泉」の精神を思い出して対応するしかない。

 もはや母親も昔の母親ではない。昔の写真と比べるとだいぶ痩せて背中も曲がっている。できないことを責めても意味はない。できないことを前提にこちらが動けばいいのである。食べてはいけないと怒るのではなく、どうしたら食べられないで済むのか。食べてしまうのは昼食がないからであり、昼食を用意する。忘れるなら面倒でも注意喚起する。それでも食べられてしまうケースを想定して代替案を考えておく。「自分が源泉」に立てばやれることはある。そうしてついに配達された食材で夕食を囲むことができた。ご飯を炊くのは忘れられたが、プランBで対応した。

 『子ども叱るな来た道だもの 年寄り笑うな行く道だもの』という言葉がある。自分自身、若い頃と比べれば力が衰えている。ラグビーをやっていれば否が応でもそれを実感させられる。両親の今の姿は27年後の自分の姿かもしれない(35年後くらいだと思うが・・・)。そう思えば、できないことを怒るのではなく、できないことを前提に「どうするか」を考えるしかない。それでできなければそれは親が悪いのではなく自分が悪いということになる。そう考えればイライラすることもない。

 考えてみれば、もう両親と一緒に過ごす時間も残り少ない。それであれば、せめてその間楽しく過ごしてもらいたいと思う。それにできないことを前提に考える「自分が源泉」の考え方をトレーニングするいい機会でもあり、自分自身の修養のためにもいい機会であると言える。両親との限られた残り時間を穏やかに、そして有意義に過ごしたいと思うのである・・・




【本日の読書】
 全体主義の起原 新版(1) ハンナ・アーレント  戦争の思想史: 哲学者は戦うことをどう考えてきたのか - 中山元  夜更けより静かな場所 (幻冬舎単行本) - 岩井圭也




2025年10月5日日曜日

論語雑感 子罕第九 (その13)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感
【原文】
子欲居九夷。或曰、陋、如之何。子曰、君子居之、何陋之有。
【読み下し】
きゅうらんとほっす。あるひといわく、ろうなり、これ如何いかんせん。いわく、くんこれらば、なんろうらん。
【訳】
先師が道の行われないのを嘆じて九夷の地(東方の未開の地)に居をうつしたいといわれたことがあった。ある人がそれをきいて先師にいった。「野蛮なところでございます。あんなところに、どうしてお住居ができましょう」すると先師はいわれた。「君子が行って住めば、いつまでも野蛮なこともあるまい」

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 この短い言葉にはいろいろと考えるべき点が含まれている。孔子が1人道を説いても周りに受け入れられず、未開の僻地に行こうという心境になっている事がひとつ。未開の地など行っても野蛮で何があるかわからないと案じる弟子に、孔子は自分が行けば状況は改善できると語るのがもうひとつ。でもそれならなぜ居を移したいと思ったのか。未開の地を切り開くと思えば、根気強く道を説けばいいではないかという気がしないでもない。また、自分が行けば野蛮な人たちも啓蒙できるという自信。まぁ孔子だからそう言えるのだろう。

 日本はもう先進国であり、国内に未開な地はないと言っていい。田舎で何もないところは至る所にあるだろうが、野蛮な人たちが住む場所などないだろう。今はそんなこともないが、その昔、1つ年上の従兄弟が住む長野県にある御代田というところに毎年遊びに行っていたが、特に教育環境という点では東京とずいぶん差があった。大学進学率は東京より低く、従兄弟も高卒で就職した。それは父方の同じ長野県の富士見に住む同い年の従兄弟も同様で、当然のように大学を受験して進学した私に対し、2人とも高卒で就職した。

 1つ年上の従兄弟とは友達も私と遊んでくれていたが、みんな高卒で就職した。そもそも進学などしないから高校時代もそれほど勉強しない。だからバカだという事ではなく、やはり受験を意識してそれなりに鍛えられている東京の同級生たちと比べるとそもそもの話題も興味の対象も違っていた。私が東京の同級生たちからではなく、従兄弟とその友達との付き合いで酒とタバコと女(の子とのませた話題)を学んだことからもそれはわかる(実にありがたい教えであった)。それはおそらく「教育レベルの差」なのだと思う。

 当時の私にとって、御代田で休みの間過ごした経験は、言ってみれば「二つの世界の体験」であり、実にいい経験だったと思っている。孔子の時代の中国は、今の日本とは比べ物にならないくらい都市と地方との差はあっただろう。それこそ都会の人間から見れば地方の未開の地に住んでいる人は野蛮人のように思えたのかもしれない。そんな中で、孔子は自分が行けば大丈夫だと語ったのは、自分がその地の人を啓蒙できるという自信があったからなのだろう。その根拠はよくわからないが、人は自分の知らないことを知っている人には一目置く傾向があるから、それで啓蒙できるという自信と経験があったのかもしれない。

 私も今の会社に転職してきた時、取締役会がどうもおかしいと気がついた。それは当時2人いた取締役の考え方が、取締役の本来のそれとはズレていたのである。そこであれこれと工夫を凝らし、本来取締役としての考え方などに気づいてもらえるように仕向けてきたが叶わず、私も入社して同じ取締役になり、慣れてきたこともあって最後は直接ストレートに伝えてきたが、それで限界を感じたのか、最後は自ら退任した。とうとう最後まで考え方を変えさせることはできなかった。人は考え方をなかなか変えられるものではないのである。

 孔子が未開の地の人たちをなぜ啓蒙できると自信を持っていたのかはわからないが、人の心を動かす何かがあったのかもしれない。人の心を動かすものがあれば、自らの考え方を広めていくことができる。それが世界的な宗教が広まっていった理由でもあるし、そういうものは(私にないだけで)確かにあるのだろう。そういう影響力を自分も持ちたいと思う。それには他人の心を理解し、相手の立場や考え方を尊重しながらも自分の意見をわかりやすく伝えられるようでないとダメなのであろう。

 どんな人の間に入っていっても、自分の考えをしっかりと相手に伝わるようにして一定の影響力を持つことができるように私もなりたいと思う。まだまだ発展途上であると謙虚に認識し、そんな自分になれるように努力していきたいと思うのである・・・


Baptiste LheuretteによるPixabayからの画像



【今週の読書】
 全体主義の起原 新版(1) ハンナ・アーレント  戦争の思想史: 哲学者は戦うことをどう考えてきたのか - 中山元  星を編む - 凪良ゆう  夜更けより静かな場所 (幻冬舎単行本) - 岩井圭也




2025年10月2日木曜日

たばこの効能

 健康診断を受けたが、なんと3項目で「要再検査」とされてしまった。ご丁寧に紹介状も3通送られてきた。実に手厚く手回しがいい。便潜血はもう毎年要再検査であり、昨年と今年内視鏡検査を受けて異常なしだったので、もう慣れっこである。腸は何かあっても時間がかかるので、2年に1度内視鏡検査を受けていれば大丈夫とは再検査を受けた専門医のお話。したがって無視する事にした。そのうち初めて指摘されたのが「肺の影」。肺の影と聞くと、すぐに肺がんをイメージする。さすがにこれは急いで再検査を受けに行った。

 職場近くの総合病院に予約を取り、さっそく向かう。最近では総合病院に紹介状なしで行くとそれだけでお金を取られる(この病院は7,000円)。混雑緩和と町医者の支援等の意味合いがあるのだろう。初診受付で診察カードを作成する。今はどこの病院もこのカードを使って受付や支払いを行うようになっている。人手不足の解消にも役立っているのだろう。そして再検査のCT検査の結果、肺の影は薄れていて癌ではないだろうという事になった。一応、念のために2か月後に追加検査して様子を見ましょうとなった。

 実は検診で指摘されて以来、一応タバコは「休煙」している。私も「自分は大丈夫」という根拠のない自惚れをするほど愚かではない。年齢的には気がつかないところで細胞レベルの劣化が進んでいる事だろうし、そういう考えもあって万が一に備えて休煙する事にしたのである。そうして診察に臨んだが、担当医からは案の定、禁煙を勧められた。最初の問診でタバコの履歴を詳しく聞かれた。それこそ17歳の時に遡ってである(回答はうやむやにしたが・・・)。長い休煙期間を経て再開したのが4年前である。

 再開したと言っても、健康意識はあるし、何より世の中は30年前よりタバコを吸い難くなっている。社内も禁煙であり、道路も歩きタバコは良識的に控えたい。結果、会社から歩いて3分の喫煙所に通っている。その結果、吸いたくても「わざわざ」吸いに行くのが大変で、喫煙本数も1日数本になっている。言ってみればライトスモーカーであり、健康的にも問題ないと考えていた。診察していただいた担当医の「今も吸っていますか?」という質問に、「今回の結果が出るまで休煙中です」と回答したところ、案の定、禁煙を勧めてくる。

 まぁ、医者というものはとにかく禁煙しろと言うものだろう。「タバコは百害あって一利なし」と言ってくる。しかしながら、私からすれば「一利なし」とは言えない。現に私が再開したのは、それまで傾いた会社を立て直し、これからさらに業務を拡大しようとしていたところでいきなり社長に会社を売ると言われ、退職を要求された時期である。自分では何もせずに見ていただけなのに(まぁ私に全権を預けるという決断はしてくれた)、会社が立ち直って価値を生み出したところで「引退するから会社を売る」と言われて頭にきていた時である。

 怒りとその後どうするかという不安。住宅ローンは残っているし、息子はこれからまだまだ教育資金がかかる。そんなストレスの中でタバコが吸いたくなったのである。バカバカ吸っている人にとってはどうかはかわらないが、私の場合は吸うときは歩きタバコなどせずきちんと味わって吸う。紫煙を燻らせる瞬間、神経が弛緩してリラックスできる。要はストレス緩和である。少なくともそれは間違いのない効果であり、「一利」である。リラックス効果は人によって違う。そのリラックス効果は間違いだとは他人に言うことはできない。

 人によってはそれが酒だったりするのかもしれない。ドラマかもしれないし、ケーキかもしれない。何でもそうだが、過剰摂取はなんであれよくないが、適度であれば問題はないだろう。しかし、担当医は「1本でもダメ」と言う。それが医学的に正しい答えである事は素人でもわかる。ただし、ヘビースモーカーがすべて癌になるわけではないし、タバコを吸わなければ癌にならないわけではない。人それぞれの体質次第だろう。私がどうかはわからないが、実際に悪くならない限りは「1本でもダメ」とは言い切れないというのが私の考えである。

 医者としては「1本でもダメ」と言っておけば間違いはないのだろうが、そういう「全部ダメ」スタイルだともう意見を聞こうとは思わなくなる。担当医と話ながら、議論しても無駄と感じた。私にとってはリラックス効果もバカにできないところがある。健康第一であるが、だからと言って禁欲生活をしてまでとは思わない。そのあたりのバランスを考えたいと思うが、医師が相談相手にならない以上、自己判断でやるしかない。どうしてもこの手の「〇か×」思考に嫌気がさす。

 もしも担当医が「1日数本に抑え、3カ月に1度検査を受けながら吸ってみたら」と言うのであれば、私はその医者を心から信頼するだろう。まぁ、CT検査は時間も取られるし、費用も取られるからそう言われても実際は面倒である。ただ、「〇か×」思考の医師よりも信頼できるという話である。医学的に正しい事を言うだけでなく、患者の言い分を聞いて、そこに一定の気持ちを認め、ではどうしましょうと一緒に考えてくれる医師であれば大いに信頼したい。再検査で医師と話しながらそんな事を考えた。

 医者としては一々そんな手間暇などかけていられないのだろうとは思うが、今回の対応を通じて理想の医者ってどんな人なのだろうと考えたのである・・・


AlexaによるPixabayからの画像

【本日の読書】
全体主義の起原 新版(1) ハンナ・アーレント  戦争の思想史: 哲学者は戦うことをどう考えてきたのか - 中山元  星を編む - 凪良ゆう