【原文】
子之所愼、齊、戰、疾。
【読み下し】
子の愼む所は、齊・戰・疾なり。
【訳】
先師が慎んだ上にも慎まれたのは、斎戒と、戦争と、病気の場合であった。
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論語の限界としては、2,500年前の中国のものだという事。中国の古典を重視する人は多く、それを否定するつもりはないが、時代の壁、民族・文化・風習の壁、言語の壁という多重の壁を通ることによって、本来の意味が正確に伝わっていないものも多いと思う。今回のこの言葉はその最たるもの。斎戒とは「浄化の儀式」のようなものらしいが、戦争も病気もともに「慎む」という言葉とはマッチしない。
斎戒にあたるかどうかはわからないが、「浄化の儀式」ということで思い浮かぶのは、神社の手水である。神様の前で手を合わせるにあたり、手を清めるというものである。神様ではないが、我々の社会では何か大事に臨んでは身なりを整える。面接や何かの式といった類では正装する。そこまではいかなくとも、男ならネクタイを締める。それは相手への配慮であり、自分自身の気持ちを引き締めるものである。広い意味で「勝負パンツ」もそれにあたると思う。
企業で採用担当をしていると、面接に臨んでくる学生と数多く相対する。まだ着慣れていないスーツを着て、男はみんなネクタイをしている。その結び目がぎこちなかったりすると、鏡を見ながら一生懸命ネクタイを結んでいる姿が脳裏に浮かび、微笑ましい気分になる。そしてそこには緊張感が伴い、着慣れないスーツには「正装」の感がある。しかし、これが中途採用になると、同じスーツでももはや「普段着」になるから面白い。現代の日本語の感覚では、やはり「慎む」というものではない。
戦争と病気も、慎むというよりは「回避する努力をすべきもの」と言える。個人でも意見が衝突し、互いに譲り合わないとしまいには喧嘩という事になりかねない。その最悪のパターンが殴り合いである。国家同士も然り。譲り合えば衝突を回避できるが、最悪の場合は戦争になる。健康も普段から留意していれば病気にならないで暮らせるが、暴飲暴食・不摂生は成人病をはじめとした病気へとつながる。どちらも回避するためには努力をしないといけない。
朝の通勤電車ではたまにサラリーマン同士の喧嘩に出会う場面がある。その理由は押したの押されたのといった些細なものなのだろう。混んでいる電車であれば、多少ぶつかり合うのはやむを得まい。他人もそうだと考えれば自分の不快も我慢できる。寛大な気持ちでいれば争いにはならない。どうしてつまらないことで朝っぱらからいがみ合うのか、理解に苦しむところがある。私もよほど露骨にやられない限りは極めて寛大に対応する。そうは言っても、さすがに目の前で空いた席に座ろうとしたら、その席を狙っていたサラリーマンに突き飛ばされた時はスイッチが入ってしまったが・・・
いっこうに停戦の気配が見えないウクライナだが、あれもアメリカがロシアの立場を認めて「ウクライナをNATOに加入させない」と保証すれば戦争にはならなかった話で、ウクライナもその立地からロシアとEUをつなぐ役割を果たす方向で考えれば良かった話で、そういう意味では「避けられた戦争」だと言える。NATOなどワルシャワ条約機構が解散した段階で解散すれば良かったのである。バイデン大統領もゼレンスキー大統領もプーチン大統領も、譲り合えばもめることはないのである。人類はいつまで経っても譲り合えず、いがみ合うことから抜け出せない。
病気についても、「腹八分目に病なし」と言われる通り、適度な食事と運動とを心掛ければかなり病気も減るように思う。酒もたばこも「過ぎたるは及ばざるが如し」で、適度に抑えていれば問題もないと思う。それでも遺伝的な資質から避けられない病気はあるだろうが、少なくとも生活習慣病はかなり減らせるのではないかと思う。それが、「わかっちゃいるけどやめられない」のだろう。当たり前だが、できる人とできない人がいるのも仕方ないことである。私も酒もたばこもやめるつもりはないが、「ほどほど」にすることはできる。できる事はやろうと思う。
「努力すれば避けられる」ものは努力したらいいというのは簡単。できないから問題なのである。そしてそれはたぶん、永遠の課題なのだろう。私もなるべく寛容に、朝からもめて不快な気分になることなく、「及ばざるは過ぎたるより優れり」(徳川家康)を心掛けたいと思うのである・・・
Kathleen BergmannによるPixabayからの画像 |
【本日の読書】
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