2023年6月28日水曜日

後悔先に立たないから

 毎週末、シニアラグビーの練習に汗を流しているが、そうした練習の成果は試合で出すつもりである。ところが、これがなかなか思うようにいかない。もちろん、お互い相手のいる中でのせめぎ合いであり、うまくいかなくてもある程度は仕方がない。うまくいけばすっきりいい気分だし、うまくいかなければ後悔が残る。「なぜあの時こういう動きができなかったのだろう」という思いは試合後、常に残る。基本的に試合中のプレーは「咄嗟の判断」が多い。咄嗟にいかにうまくプレーするか、は私の場合事前の準備しかない。イメージトレーニングとその場面を想定した練習である。だが、それでもなかなか難しい。


 考えてみれば、普段の生活でも「あの時ああすれば」というものは限りなくある。いわゆる「後悔」であるが、大きなものから小さなものまで、人生は後悔とともにあると言っても過言ではない。「後悔」とは読んで字のごとく、「後から悔いる」事であり、「後悔先に立たず」ということわざにもある通り、事前に悔いることはできない。事前にわかっていれば回避できるわけであり、したがって悔いには繋がらない。後悔は常に後から悔いるものでしかない。そこが何とも言えずもどかしいところである。


 今、会社で若手社員を中心に人事面談を行っている。その中で一つこちらから話をしているのは、「自己研鑽をして欲しい」ということ。我が社はシステム開発の会社であり、社員はシステムエンジニアが中心である。技術者であり、技術の向上は欠かせない。それは日々の仕事で培うものである一方、仕事以外の時間でも技術向上のための努力をして欲しいと思うからである。それは我が身を振り返ってみても(私自身はエンジニアではないけれど)、若いうちでしか自己研鑽の時間も取りにくいからである。頭の柔らかさという意味もある。なので、今、その話をするのである。


 しかしながら、そんな話がどこまで通じているかな、と思う。「あの時ああしていれば」という話は、当然後になって実感する。そうした後悔から、まだ間に合う人にアドバイスする。だが、まだ間に合う人は間に合うにも関わらず、そういう後悔を知らないからあまり我が事として考えられない。したがって、せっかくの有意義なアドバイスが届かない。仕事を終えて帰ってきて、飲みにも行きたいし、ゲームもしたい。そんな中で、自己研鑽になんか時間を割きたくないと思うかもしれない。せっかくの後悔も他人のそれは所詮他人事でしかない。


 親が子供の付き合う相手に反対するのもよくあるケース。娘が連れてきた男が売れないミュージシャンだったら、親は頭を抱えるだろう。親は自分の経験から結婚生活の大変さを知っている。だから、「現実」に目を向ける。「夢」に向かっている若者にはあまりにも魅力のない「現実」である。だが、親のそんな心配は、「愛こそすべて」の世界にどっぷり浸かっている若者の心には届かない。そんな親子の行く先は、親子の関係悪化か、悪ければ駆け落ちになる。


 人間には言葉があり、ゆえに他人に自分の意思を伝える事ができる。本当なら、後悔を含めた経験値を伝えれば、子供たちはよりハッピーになれる。実際、それで人類は今日まで発展してきているが、技術的なものはともかく、個人個人の経験値まではなかなか伝えきれなかったりする。自分の経験を良かれと思って伝えても、結局他人の経験はよほどの意識がないと取り入れられない。本人にそれを求める気があれば問題はないが、なければその経験は生かされないことになる。「あの時言う事を聞いておけば良かった」という後悔になったりする。


 後悔はしても何も生まない。ただ、次に似たような機会があれば生かせることはできるかもしれないが、たいがいはどうしようもない。ヘボ将棋なら「待った」をかけてやり直すこともできるが、実生活ではどうにもならない。前職では、「社長に万が一のことがあったら」については頭の中でシミュレーションをしていた。しかし、社長一人が会社を売って、役職員全員を路頭に迷わせるという事は想定外であった。もしわかっていたら、退職金規定を厚めに設けたり、手に入れた関連会社に資産を移したりといろいろと手は打てたと思う。とは言え、万が一の災害に対する備えとは異なり、このあたりは下手をすると背信行為にもなるし、事前に手を打つのも限度があったりする。


 人間は必ずしも先の事を予測して思い通りにやれることはない。さすればどうしても後悔はつきものとなる。つきものであるなら、避けることができないなら、受け入れて次を考えるしかない。試合前の週はいつもそんなシミュレーションを頭の中で繰り返している。前回、「これで上手くいかなかったので次はこうしよう」、「こういう状況になったらこんな風に動いてみよう」等々。必ずしも思っていた通りにはならないが、それでも準備しないよりはマシである。少なくとも、準備していれば、想定していたのと似通ったシチュエーション下で、想定していた通りプレーできたりする。


 「あの時ああすれば」という思いを消すことはできない。しかし、「この次はこうしよう」と考えることはできる。後悔はあるがまま受け入れ、そして「この次はこうしよう」と考える方向にもって行きたい。どうしようもない事はあるけれど、そういう考え方で対応しようと思うのである・・・


Małgorzata TomczakによるPixabayからの画像

【本日の読書】

    




2023年6月25日日曜日

死刑制度について思う

 平野啓一郎の『死刑について』を読んだ。読む前から死刑制度に反対する内容だろうなと思っていたが、予想通りのものであった。死刑制度は、今や先進国では我が国とアメリカを除いて「廃止」というのが潮流で、死刑制度廃止を求める弁護士などの意見も耳にしている。死刑判決が予想される重大事件では、この手の弁護士が手弁当で駆けつけて死刑判決回避に血眼になるのもニュースで見聞きしている。しかし、世界の潮流などなんのその、我が国の国民の8割が死刑制度を支持している。そして本来天邪鬼な私自身もその8割の1人である。そういう立場から、死刑制度廃止を訴えるこの本を興味深く読んだ。

 自分とは異なる意見であったとしても、しっかりその意見を聞くというのはいい思考訓練になる。普段の生活で、こういう真面目な議論をする機会はほとんどない。読書を通じての著者との対話は、なかなか楽しいものである。面白かったのは、「3つの死」という考え方。すなわち、「一人称の死(自分の死)」、「二人称の死(家族の死)」、「三人称の死(他人の死)」である。死刑存置派は「一人称の死」あるいは「二人称の死」で話し、廃止派は「三人称の死」で話をするというもの。なるほどと思う。

 死刑制度を支持する人がよく言いがちなのは、「自分の家族が殺されたらどう思うか」というもの。すなわちこれは「二人称の死」である。それに対し、「それでも死刑にしなくても良い」というのは、「三人称の死」で話しているのだと。つまり「他人事だからそんなことが言えるのだろう」ということだろう。これはつまり感情論的なところがあるが、これに対し死刑存置派の人は、感情論ではなく人権思想から語っているようである。すなわち、「人を殺すという事はどんな事情でも許されない」というものである。実に立派である。

 EUでは死刑廃止が加盟条件になっているという。そしてノルウェーでは、78人を殺したテロリストですら死刑にしていない。我が国の感覚からすると理解が難しい。元々我が国には「死んでお詫びする」という文化があると著者は指摘する。確かに、戦前・戦中の日本では人命軽視が甚だしかった。「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓にもそれは表れている。ただそれだけではなく、もともと我々には「平等の文化」もある。「人を殺したらそれに相応しい罰を受けるべき」というものである。「相応しい罰」となると、端的に「死」となるのだろう。

 死刑制度維持に対して気持ちが揺らぐのは、執行官の精神的苦痛を教えられる時である。仕事とは言え、人を殺すのはいい気持ちがしない。だからボタンが3つあって、3人がそれぞれのボタンを押し、誰が押したボタンが「当たり」だったかわからないようにしているらしい。大人しく従えばまだしも、抵抗でもされたら、無理やり力づくで殺すのは嫌なものだろう。それだけは本当に同情してしまう。だが、だから廃止しましょうとまでは思わない。

 本に書かれていなかった事では、「死刑は仇討ち禁止の意味がある」というところ。個人的にはこれがかなりウエイトが重いと思う。大事な家族が殺されたら、殺した相手を殺したいと思うが、それを認めていたら社会は大変な事になる。だから国家が代わってそれを行うというもの。有名な光市母子殺害事件では、一審の無期懲役判決を受けて被害者の夫が「司法に絶望した、加害者を社会に早く出してもらいたい、そうすれば私が殺す」と発言した。この気持ちはよくわかる。こういう「仇討ち思考」を防ぐためにも死刑制度は必要だと思う。

 もう一つ本には書かれていないこととして、死刑制度廃止の条件として「終身刑」の採用を挙げる意見もある。個人的に百歩譲ってこれは受け入れられる。私は以前勘違いしていたが、現行法では「終身刑」はない。「無期懲役」は実は「終身刑」ではなく、「仮出所」が認められている有期刑である。殺すのが残酷なら、せめて死ぬまで閉じ込めておいてほしいと思うが、実は「人権派」の人たちは、これすら「非人道的」と批判している。「終身刑は残酷刑の一種」なのだというから、何をか言わんである。

 先日、ふと目にした報道番組では、無期懲役の受刑者の収容期間が30年以上にも渡るものが増えているとやっていた。なかなか仮出所が認められないそうである。当たり前じゃないかと思うが、番組の趣旨はそうではなく、受刑者視線で長い収容期間に批判的であった。無期懲役になるような罪を犯して、いくら模範囚だからと言ってそんなに簡単に仮釈放されたらたまらないだろうと思う。最高刑が下がれば、それに連鎖して次々に刑が軽くなっていくように感じるのは、私だけであろうか。

 執行官の精神的苦痛を取り除く方法としては、絞首刑に代わるものを考案するということはあってもいいと思う。具体的にどういう方法がいいかはわからないが、静かに眠らせるというものであれば問題も少ないように思う。著者の意見はいろいろあって、なるほどと思わせてくれたが、では死刑廃止へと心が動いたかというとさにあらず。人権も大事だと思うが、それは真面目に社会の秩序を保っている人に関して重視されるべきであり、ルールを破った者に対しては、制限されるのも止むを得ない。

 平野啓一郎は、我が国の人権教育の遅れを指摘する。それは万人に当てはまるもので、どんなに生育環境が悪かろうが、自分の勝手な思惑で人の命を奪うことは許されないという内容でないといけない。「たとえ人殺しでも殺してはいけない」という人権教育ではなく、その前に「どんな理由があっても人を殺してはいけない」という教育である。「そしてそれを破った場合には、自分の人権も尊重されなくなる」という教育である。もしも自分の身内の命が理不尽な形で奪われたとしたら、きちんと国の方で死をもって償わせてほしいと思う。決して自分の意見に頑固に固執するつもりはないが、著者の意見に心動かされる事はなかった。

 今後もこの問題には関心を持っていたいと改めて思うが、まだまだ我が国は「死刑のある国」でいいと思うのである・・・

kalhhによるPixabayからの画像

【本日の読書】

  




2023年6月21日水曜日

十人十色

 先日、ダイヤモンド・オンラインで、『「子供産まなくてよかったです、マジで」投稿に賛否、子育てパパが抱いた違和感とは』という記事を目にした。記事の内容自体にどうこうというものはない。とある女性が「子供を産まなくてよかった」と語っているものである。それに対し、読んだ人から賛否の意見が殺到しているらしい。また、記事を書いた記者もそれに対する俯瞰的な意見を述べている。こういう「どちらがいい」的な意見を見ると、個人的にはいつも覚めた目で見てしまう。どちらがいいかなど「その人次第」だからである。

 「どちらがいいか」的な議論ほど空しいものはないと個人的には思う。なぜならそれは「蓼食う虫も好き好き」の世界だからである。「かつ丼がいいか、カレーがいいか」は人それぞれ(私はかつ丼派)。それを唾飛ばしあって「どちらがいいか」を議論しても永遠に結論は出ない。どんなにカレーがいいかと強調されても、私は「(カレーも好きだが、どちらかと言われたら)かつ丼が好き」という意見を変えるつもりはない。個人の好みだからである。

 個人的には、「子供を産んでよかった(産んだのは妻だけど)」と思っている。その前の結婚もしてよかったと思っているし、だからと言って「(結婚)しない方がいい」と思っている人が間違っているとも思わない。自分の人生なのだから、自分が望むように生きたらいいのであり、その生き方は人それぞれである。子供を持つ喜びはもちろん大きいが、苦労もある。経済的な負担も大きい。子育て方針を巡る妻との意見相違はストレスだし、子供も親が望むようには育ってくれない。

 ショーペンハウアーの言うように、「生きることとは悩むこと」というほど人生は苦悩に満ちている。子供を持てば持ったなりに、持たなければ持たないなりに苦労は伴う。どちらがいいかなどは比較しようがない。そこにあるのは、「どちらの苦労を選択するか」でしかない。もっとも、苦労ばかりではなく、どちらにも喜びがある。自分のDNAを受け継いだ子供が生まれたという喜び。ハイハイした姿を見る喜び。何気ない仕草の一つ一つ。今はもう過去の思い出であるが、それらは仕事の疲れも一瞬で癒す喜び。自分は子供を持って良かったと思う。ただそれだけ。それが万人に当てはまるというものではない。

 同じように「家を買った方がいいか、賃貸がいいか」もよくある論争だが、これもどちらがいいかはその人次第である。個人的にはどう考えても持ち家の方がいいと思う。何より賃貸は永久に支払いが続く。返せば終わりの住宅ローンとは大きな違いである。月々の家賃が10万円としても年間で120万円。それだけのお金が年金生活に入ってもかかるわけである。持ち家ならそれを旅行に回せる。比べるまでもないと思うが、それはあくまでも私個人の話で、賃貸派の人にはまた独自の心地よい理由があるだろう。それを否定することは誰にもできない。

 では、議論することが無駄かと言われればそうではない。お互いの意見を知れば考え方が変わる可能性もある。自分の意見は自分の意見として、違う意見を聞くのも悪いことではない。個人的には人の意見を聞くのは嫌いではないので、そういう議論もいいと思う。ただ、どこまで行っても平行線的な議論は、適度なところで切り上げたいとすぐに思ってしまうのも事実である。そういう不毛な議論にはすぐに飽きてしまうクチである。

 最近はネットで意見を発信しやすくなっているし、いたるところでそういう議論に出くわす。そういう議論は「どちらがいいか」と悩んでいる人にはいいと思う。「これから結婚すべきか」「子供を持つべきか」「家を買うべきか」等々、そういう悩んでいる人に対しては、大いに参考になると思う。特に自分がいいと思う意見をその理由とともに説明してくれれば、双方のメリット・デメリットを比較し、選択する判断材料になる。

 その際だが、思い通りの意見だけではなく、「思い通りでない」意見もあった方がいいかもしれない。すなわち、「したかったけどできなかった」意見である。「子供が欲しかったけどできなかった」「子供は欲しくなかったけどできてしまった」「家を買いたいけど買えなかった」などの意見である。こうした「後悔」系の意見もこれからの人には参考になるに違いない。人の生き方は、それこそ人の数だけあっておかしくない。これと決めるのもおかしな話。それぞれが自分に合った生き方をして、それで幸せだと思えるのであれば、それを他人がとやかく言うべきものではない。

 「子供産まなくてよかった」という人の気持ちは私にはわからない。「家は賃貸がいい」という人の気持ちもわからない。いくら言葉を尽くしてその良さを説明されても納得はできない。だが、それでいいと思う。私も自分の意見を押し付けようとは思わない。夫婦も死が2人を分かつまでともに暮らすべきだとも思わない。私もこのまま子供たちが巣立ったあと、妻と2人で暮らしていく自信はない。互いの価値観はここにきて大きく異なっており、離婚するかどうかは別として、一緒に暮らすメリットは少ないと感じている。別居夫婦も選択肢の一つである。

 人の生き方はそれぞれと言ったが、自分の生き方もまた世間の常識にとらわれたくない。自分にとって心地よいものにしたいと思う。たとえそれが人からどう思われようと、生きるのは自分であって他人ではないのだから。これからもいろいろな議論を参考にしつつ、心地よい生き方を目指していきたいと思うのである・・・

Марина ВельможкоによるPixabayからの画像

【本日の読書】

 




2023年6月18日日曜日

マクナマラの誤謬

 NHKの『映像の世紀』は私が唯一しっかり観ているNHK番組であるが、先日放映された「ベトナム戦争 マクナマラの誤謬」はなかなか深く考えさせるものであった。アメリカの元国務長官ロバート・マクナマラは有名であるが、天才と称された人物だったらしい。第二次世界大戦では、B29の高高度からの戦略爆撃を立案し、戦後はフォードで大衆車の販売を提案して大成功させ社長に就任する。そしてケネディ大統領の目に留まり国務長官に抜擢される。

 そんなプロフィールとともに、テレビインタビューでベトナム戦争の苦戦を問われ、「間違いを認めないのか」と突っ込む記者に、平然と「間違いではない」と強弁する様は厚顔不敵という感じがする。「マクナマラの誤謬」とは、数字にばかりこだわり本来の目的を見失うことを言うそうである。ある病院では術後の死亡率を下げることを重視したら、医者が重篤な手術を避けるようになったとか、検挙率を重視するようにしたら、警官が軽犯罪ばかり数を競って検挙し、重犯罪の検挙が疎かになったりしたらしい。なかなかありがちな事である。

 国務長官としてベトナム戦争を主導したマクナマラは、「キルレシオ」という数字を重視する。これは米兵の死者に対するベトナム兵の死者の割合で、この比率を1:10で維持すれば勝てるとしたものである。ところが現実はこの割合をはるかに上回っても戦況は改善せず、結果的にアメリカはこの戦争に敗退する。そこには、まさに数字ばかりにこだわり本来の目的を見失ってしまったかのように思える(最終的なキルレシオは1:50だったようである)。しかし、番組が進んでいくと違う姿が見えてくる。

 そもそもマクナマラは、トンキン湾事件の後、米兵を増派したものの大きな改善が見られないことを現地視察の結果気づき、ケネディ大統領に撤退を進言していたと言う。ケネディ大統領もこれを受けて撤退を勧めるが、ダラスの悲劇が起こる。跡を継いだジョンソン大統領はベトナム戦争へのさらなる介入を指示する。マクナマラは国務長官としてこれに従い、先のキルレシオを掲げてベトナム戦争を主導する。自分の「撤退すべし」という考えを封印して上司の指示に従ったのである(そしてそれをうまくやろうとした)。しかし、事態は思うように進まない。

 次の転機はテト攻勢後の1966年。やはり現地視察したマクナマラは、その結果に愕然とする。兵力を増派してもまったく戦況が好転していなかったのである。帰りの機内で側近の者(後にペンタゴンペーパーズを暴露した人物)に「やはり撤退すべき」という意見を述べる。しかし、タラップを降りると記者団に「戦況は有利に進んでいる」と反対の事を語る。そこには自らの信念を押し殺して大統領に仕える国務長官としての立場を維持する姿がある。この流れで冒頭のテレビインタビューを見ると180度異なる姿に見えてくる。

 サラリーマン社会で生きる者はこういう事はよくあると思う。私も銀行員時代はこういう事ばかりだったように思う。自らの考えとは異なる上司の指示に従わなければならないというのは、サラリーマンのストレスの上位を占めることだと思う。番組を見る限り、マクナマラという人物は、数字ばかりを見て目的を見失った愚か者などではなく、冷静に現場の実態もきちんと把握できる優れた人物だったようである。「マクナマラの誤謬」などに名前が残るのは、まったく間違っているのである。

 本人の本当の姿をきちんと伝えられなかったのは、マスコミのせいとばかりはできない。マスコミも万能ではない。歴史に「if」はないが、もしもケネディ大統領が暗殺されなければ、アメリカはベトナムから早期に撤退し、不名誉な敗戦の汚名を着ることもなかっただろう。そして「マクナマラの誤謬」などという言葉も生まれていなかっただろう。会社経営においても、事業計画を推進していく上で、どうしても「指標」を掲げることがある。その時その指標が本当に目標(ベトナム戦争で言えば勝利)に結びつくのかを意識し、そして随時現場の状況確認も怠らないようにしないといけないと改めて思う。

 我が社も現在、中期経営計画を掲げて全社を挙げて頑張っている。重要指標ももちろんある。今のところは間違ってはいないと思うが、数字ばかりを見て本来の目的を見失う事がないようにしないといけないのは当然である。マクナマラのように現場確認を怠らず、本来の目的へ向かっていかないといけない。そういう意味で「マクナマラの誤謬」という言葉を頭の片隅に置いて経営をリードしていきたいと思うのである・・・

Sergei Tokmakov, Esq. https://Terms.LawによるPixabayからの画像


【本日の読書】

  




2023年6月14日水曜日

論語雑感 述而篇第七(その12)

 論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感

【原文】

子之所愼、齊、戰、疾。

【読み下し】

つつしところは、ものいみいくさやまひなり。

【訳】

先師が慎んだ上にも慎まれたのは、斎戒と、戦争と、病気の場合であった。

『論語』全文・現代語訳

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 論語の限界としては、2,500年前の中国のものだという事。中国の古典を重視する人は多く、それを否定するつもりはないが、時代の壁、民族・文化・風習の壁、言語の壁という多重の壁を通ることによって、本来の意味が正確に伝わっていないものも多いと思う。今回のこの言葉はその最たるもの。斎戒とは「浄化の儀式」のようなものらしいが、戦争も病気もともに「慎む」という言葉とはマッチしない。

 

 斎戒にあたるかどうかはわからないが、「浄化の儀式」ということで思い浮かぶのは、神社の手水である。神様の前で手を合わせるにあたり、手を清めるというものである。神様ではないが、我々の社会では何か大事に臨んでは身なりを整える。面接や何かの式といった類では正装する。そこまではいかなくとも、男ならネクタイを締める。それは相手への配慮であり、自分自身の気持ちを引き締めるものである。広い意味で「勝負パンツ」もそれにあたると思う。


 企業で採用担当をしていると、面接に臨んでくる学生と数多く相対する。まだ着慣れていないスーツを着て、男はみんなネクタイをしている。その結び目がぎこちなかったりすると、鏡を見ながら一生懸命ネクタイを結んでいる姿が脳裏に浮かび、微笑ましい気分になる。そしてそこには緊張感が伴い、着慣れないスーツには「正装」の感がある。しかし、これが中途採用になると、同じスーツでももはや「普段着」になるから面白い。現代の日本語の感覚では、やはり「慎む」というものではない。


 戦争と病気も、慎むというよりは「回避する努力をすべきもの」と言える。個人でも意見が衝突し、互いに譲り合わないとしまいには喧嘩という事になりかねない。その最悪のパターンが殴り合いである。国家同士も然り。譲り合えば衝突を回避できるが、最悪の場合は戦争になる。健康も普段から留意していれば病気にならないで暮らせるが、暴飲暴食・不摂生は成人病をはじめとした病気へとつながる。どちらも回避するためには努力をしないといけない。


 朝の通勤電車ではたまにサラリーマン同士の喧嘩に出会う場面がある。その理由は押したの押されたのといった些細なものなのだろう。混んでいる電車であれば、多少ぶつかり合うのはやむを得まい。他人もそうだと考えれば自分の不快も我慢できる。寛大な気持ちでいれば争いにはならない。どうしてつまらないことで朝っぱらからいがみ合うのか、理解に苦しむところがある。私もよほど露骨にやられない限りは極めて寛大に対応する。そうは言っても、さすがに目の前で空いた席に座ろうとしたら、その席を狙っていたサラリーマンに突き飛ばされた時はスイッチが入ってしまったが・・・


 いっこうに停戦の気配が見えないウクライナだが、あれもアメリカがロシアの立場を認めて「ウクライナをNATOに加入させない」と保証すれば戦争にはならなかった話で、ウクライナもその立地からロシアとEUをつなぐ役割を果たす方向で考えれば良かった話で、そういう意味では「避けられた戦争」だと言える。NATOなどワルシャワ条約機構が解散した段階で解散すれば良かったのである。バイデン大統領もゼレンスキー大統領もプーチン大統領も、譲り合えばもめることはないのである。人類はいつまで経っても譲り合えず、いがみ合うことから抜け出せない。


 病気についても、「腹八分目に病なし」と言われる通り、適度な食事と運動とを心掛ければかなり病気も減るように思う。酒もたばこも「過ぎたるは及ばざるが如し」で、適度に抑えていれば問題もないと思う。それでも遺伝的な資質から避けられない病気はあるだろうが、少なくとも生活習慣病はかなり減らせるのではないかと思う。それが、「わかっちゃいるけどやめられない」のだろう。当たり前だが、できる人とできない人がいるのも仕方ないことである。私も酒もたばこもやめるつもりはないが、「ほどほど」にすることはできる。できる事はやろうと思う。


 「努力すれば避けられる」ものは努力したらいいというのは簡単。できないから問題なのである。そしてそれはたぶん、永遠の課題なのだろう。私もなるべく寛容に、朝からもめて不快な気分になることなく、「及ばざるは過ぎたるより優れり」(徳川家康)を心掛けたいと思うのである・・・




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【本日の読書】

  




2023年6月11日日曜日

お誘い

 私は基本的に人見知りである。初対面の人と話すのは苦手であるし、できれば回避したい。初対面どころか、それほど親しくない人であっても同様である。だから会社の帰りは基本的に1人で帰るし、帰りたいクチである。たとえば会社の帰りがけに一緒にエレベーターに乗ってしまうと、どうしようかと悩んでしまう。帰る方向が逆ならいいが、同じなら何らかの理由をつけて違う電車に乗るようにするほどである。「1年生になったら友達100人できるかな🎵」などとんでもない話で、友達は10人もいれば充分である。

 それでも偏屈ではないので、お付き合いは大事にしている。先日は、会社を出たところで同じ会社の人たちと一緒になってしまい、躊躇したところで飲みに行きませんかと誘われた。立場が下の人から誘われて断るのも悪いし、ということで飲みに行った。普通に飲んでおしゃべりし、立場上もあって会計はかなり負担したが、それなりに有意義な飲み会であったと思う。それでも帰りは「ちょっと一服していく」という口実を設けて乗る電車をずらした。その方がリラックスできるのである。

 Facebookではいつの間にか友達が200人を超えている。自分でも驚くが、知らないうちにそれだけの人から「友達」申請を受けるようになっているわけである。実はこの友達も自分から申請した人はほとんどいない。それなのに200人もの人から申請をいただくのはありがたいことだと思う(ただ、中には片っ端から友達申請している感じの人もいるが・・・)。それはそれで大事にしたいと思うが、ここでもやっぱり自分から申請する事はない。

 最近、困るのは誘われることだ。たとえば、とある先輩から熱心にラグビーの試合に誘っていただく。自分は既にチームに加入しているので、所属チームの活動を優先するとお誘いを受けることは難しい。それに予定が重ならなかったとしても、二つのチームを掛け持ちできるほど暇を持て余しているわけではない。それでも熱心にお誘いいただくと無碍にもできない。かつてお世話になった先輩だけに、何とか受けられる範囲でお誘いに応じている。嫌な奴だと思われているのなら誘われないわけであるし、そういう意味ではありがたいのだが、困惑しているのも事実である。

 先日、助っ人を頼むと請われて試合に参加してきた。その時は、前日から雨が降らないかなぁ(雨だと使えなくなるグラウンドであったのである)などと思ってしまうし、当日も朝から自分の心に鞭打たないと足が動かない。ようやくグラウンドに行っても、やはり初対面の人たちだとどうしても心の壁を打ち砕けない。プレーに必要な会話は自分からするが、そうでなければ自分からはしない。もちろん、挨拶はしっかりとする。表面上はうまくやっていると思う。おそらく心の中でそんな風に距離を置きたがっているなどとは思われないだろう。試合が終わって帰り道に1人になってようやく安堵する始末である。

 世の中にはそんなに苦労しなくても人と交わる事ができる人がいる。それはそれで別に羨ましいとは思わないが、凄いなと素直に思う。自分にはとても真似できないし、したくもない。友達と一言で言っても濃淡がある。大きく分ければ、自分から誘いたい友達と、誘われれば付き合うけど自分からは誘わない友達。数から言えば圧倒的に後者が多い。それでも自分としては、それで塞ぐことはない。誘われても嫌だというわけではないから応じたりはするが、大勢が参加するような飲み会だと(クラス会のようなものは別だが)躊躇するかもしれない(先日も銀行時代のラグビー部の集まりはお断りしてしまった)。

 お誘いいただくのは非常にありがたいと思う。だから基本的には断らないようにしようと思う。ただ、体は一つなので、無理してまで誘いに応じるのは辛いところ。その心理的負担も実はかなりある。飲みニケーションという言葉があるが、特に職場では飲みに行って話をすることで、その人との絆がより一層深まり、互いの理解が進むということはある。だから大事にしているが、では自分から部下を誘うとなると、別の躊躇を生む。「誘われて迷惑でないだろうか」と思ってしまう。それでも半年に一度くらいは声を掛けて部内飲み会を開催するくらいはしないといけないかなと考えている。

 そんな自分にとって、人付き合いは誠に難しい。大事だとは思うが、苦手意識は抜けない。苦もなくやれる人は羨ましい気もするが、自分も身につけたいとは思わない。いずれ引退したら人付き合いもグッと減るだろう。その昔は、モーレツサラリーマンが定年退職して年賀状もガクンと減って腑抜けのようになるという話を聞いた事があるが、自分は人付き合いのストレスが減って却っていいようにも思う。寂しい思いをする事がないのは確かだろう。本当に誘いたい友達だけが残ればそれで充分満足である。

 そんな引退後の生活を夢見つつ、今はお誘いいただけるありがたさに充分感謝しながらやっていきたいと思うのである・・・

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【本日の読書】

 



2023年6月7日水曜日

内なる自分と分人

 還暦まであと1年となり、自分自身について改めて振り返ってみた。先日読んだ吉田松陰の書物には、「人の評価は棺の蓋を閉じた時に決まる」というようなことが書かれていた。その通りだと思う。だとすると、自分がどんな評価を受けるのだろうかはまだまだわからないことになる。「あなたが生れた時、周りの人は笑ってあなたは泣いていたでしょう。だからあなたが死ぬ時は周りの人が泣くような人生を送りなさい」(村枝賢一)という言葉があるが、意識したいと思う。今の自分はどんな風に周りから思われているのだろうか。ただ、その印象はだいぶ分かれていると思う。

 平野敬一郎の小説『ドーン』に出てきた概念で、『私とは何か-個人から分人へ-』でも紹介されていた「分人」という概念は面白いと思う。簡単に言えば、人はそれぞれ状況によって異なる顔を持っているというもの。私も親に対する顔や友人に対する顔(友人といっても高校時代の友人と大学時代の友人とはまた違う)はそれぞれ違う。ある友人に見せている顔は別の友人には見せていないということもよくある。それほど大きな違いがあるわけではないが、確実に家族に見せている顔とは違うと思う。それはまた職場の同僚やシニアラグビーチームのメンバーに対するものもまた然りである。

 多重人格というわけではないだろうが、それぞれの環境によって自然とそうなっていくのだろうと思う。誰でも年を取れば考え方も変わる。学生時代のノリでいつまでもいるわけではない。ところが学生時代の友人は、学生時代に形成された自分のイメージでずっと接してくる。すると、こちらも自然とその対応になる。高校生の時と大学の時も違うし、社会人になってからもまた微妙に異なっていたりする。それが証拠に友達がごちゃ混ぜになっているFacebookだと自由に投稿できなくなっている。それはある友人には知られてもいいが、別の知人にはちょっとというところがあるからである。当然、子供たちに対する顔も違う。

 今の生活を考えてみると、自分には大きく分けて4つのグループがある。家庭と職場とラグビーチームとである。それ以外の友人知人関係はもちろんあるが、頻度から考えれば4つ目のその他グループになる。家庭内での自分と職場での自分とラグビーチームの自分もまた違う。家庭では妻の横暴にじっと耐え、かろうじて相手をしてくれる娘と良好な関係を築こうと気を使い、なんとか普通に会話できる息子に父親としての威厳を支えてもらって自分の世界を維持している。唯一、両親に対しては自然な自分で接している。

 職場では部下に対しては威張らないように穏やかな感情を維持し、同僚と議論して自分の考えと違うことがあっても、一旦は受け入れるように心掛けている。おそらくその顔は、社会人デビューしたての頃とはまるで違うと思う。あの頃ぶつかった人たちには申し訳なく思う。たぶん、今の私の姿を見たら印象もだいぶ違うかもしれない。そう考えると、「あいつは〇〇な奴だ」という事は、あまり当てはまらないかもしれない。嫌いな相手に見せる顔と好きな相手に見せる顔は当然違う。ならば第三者から聞くその人の評判は割り引いて考える必要がある。

 最近では年齢の影響もあるかもしれないが、なるべく善人でありたいと考えている。人に媚びを売るのとは違うが、あえて嫌われる必要もない。自分と接した相手にはなるべくいい気分でいてもらいたいと思う。しかしながら、根っからの善人というわけでもないから、万人に対してというわけではない。特に今裁判をやっている相手には憎まれているだろうが、それを改善しようとは思わない。むしろ徹底して勝利してやろうと考えており、そのための手加減をするつもりもない。裁判所に提出する答弁書や準備書面では相手に痛みを与えるように書いている。さぞかし私を憎んでいるだろうと思う。それもまた私という人間である。

 ラグビーの試合では、チームメイトからタックルを賞賛される。私自身、タックルは得意なプレーの一つと認識していて、恐れずに行くことができるプレーである。ただ、常に満足いくものであるわけではない。試合後に褒められても、自分としては満足いくものでなかったりすると、お世辞と捉える。しかし、私のタックルを見ていると「倒してくれるので(そこまで)急いで戻らないといけないと思う」とか「自分も負けずに全力でいかなければと思う」とか言われると嬉しくなるし、お世辞とも思えなくなる。内から見た自分と外から見た自分とにギャップがあるのかもしれない。

 録音された自分の声を聞いた時、誰でも自分の声とは違うイメージを持つ。それは試合の動画を観ても同じ。自分はこんな走り方をしているのか、などは改めて気づくギャップである。それと同様、私と接した人から見た私は、内なるイメージとは異なるものだと思うのが自然なのかもしれない。付き合ってみたらどんな人間なのか、知りたいと思う。それは男と女ではまた違うだろう。果たして女性から見た私はどうなのだろう。内なる紳士のイメージと大きなギャップがあるのだろうか。一度誰かに忌憚のない意見を聞いてみたいと思う。

 私にもいろいろな顔があるが、その一つ一つの評価を聞いてみたいと思う。果たして自分はいい夫(これはかなり難しい)、いい父親(でありたい)、いい友人(人によるだろう)、いい同僚(であるのではないか)だろうか。評判を気にして生きるつもりはないが、好きなように生きて、いろいろとバラエティに富んだ評価になると面白いと思う。しかしながら、何よりもやはり分人を統一する内なる自分のイメージを大切にしていきたいと思うのである・・・

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【本日の読書】

 



2023年6月4日日曜日

誕生月に思う

 6月は誕生月であり、私も59歳となった。体は老いても頭の中は老いない。来年還暦と言われてもピンとこない。銀行に入った頃、当時の支店長は随分年上に思っていた(実際20も離れていればその通りである)。しかし今考えてみると、当時の支店長は皆40代。今からすると「若いな」と思ってしまう。逆に当時定年間際の用務員さんなどは「おじいさん」だと思っていたが、今自分がその年になってみるとそんな気はまるでない。頭の中の自分は、若い頃とは(考え方などは大きく変わったが)そんなに違わないのである。

 しかしながら、そんな頭の中と現実とのギャップは常に意識している。以前は、職場の同僚女性とは同じ目線で気楽に楽しく接していた。今も同じ感覚は残っているが、一番若い女性部下はお父さんが私と同じ年齢だと言う。こちらが同じ目線であっても、向こうの目線は「お父さん」である。その意識のギャップは常に頭の中に入れておかないと勘違いおじさんになってしまう。女性に限らず男であっても同様。昔は支店長と話す時は常に緊張があった。その感覚を忘れずに、緊張緩和をこちらから意識しないといけない。

 私が社会人デビューした36年前は、仕事が第一の時代。休みの日ですら支店行事に「仕事だ」と言われて駆り出された。嫌で嫌でたまらなく、自分がいつか上に立ったら、こんなくだらない習慣は終わらせてやると心に誓ったものである。銀行は離れてしまったが、今の職場では「お互い様とお陰様」を合言葉に、「仕事は大事だが、第一ではない。家庭で何かあれば遠慮なく職場を離れましょう、それをみんなでカバーしよう」と部下には伝えている。休みの日の「仕事」などもちろんない。歌の文句ではないが、「あの頃の未来に僕は立っている」とあの頃の自分に伝えたいと思う。

 自分はまだまだ若いつもりであっても世間的にはそうではない。肉体もそれなりに衰えている。幸い、風邪などというものにはとんと縁がない。最後に熱を出して寝込んだのは、記憶の限りでは30年くらい前のように思う。たとえ引いても気合いで治す自信はある。しかし、いつまでもそんな調子でいると手痛いしっぺ返しを食うかも知れない。そこは「肉体は衰えている」ということをしっかり念頭に置いて過信しないようにしたいと思う。今年も誕生日に健康診断を受けてきた。

 昨年は友人が2人亡くなった。1人は一緒にラグビーの試合をして、試合後に「今日は良かったね」と褒めてくれたのに、家に帰る途中で倒れて帰らぬ人となった。人間何があるかつくづくわからない。つい先日は高校時代のラグビーの後輩が癌でこの世を去った。最後にラグビーのジャージを棺に入れて欲しいと同期の友人に頼んでいた。高校を卒業してからラグビーをやっていたのかどうかわからないが、自分のアイデンティティとしてラガーマンを選んだのだろう。果たして、自分はどうするだろうかなどと考えてしまった。彼の美しいラグビーの思い出の中に、私はいい先輩として映っていただろうか。

 そんな事を考えると、やはり怖いのは突然その時が来る事。自分の事は仕方がないとしても、残された家族が困る事態だけは避けたいと思う。そこで自分も万が一に備えて生命保険は一冊のファイルにまとめ、テプラで表示しておいた。そこを見れば銀行口座も証券会社の口座もわかるようになっている。残された家族が最低限困らないようには考えている。困るのは現在も係争中の裁判だ。弁護士に依頼せずにやっているから自分に万が一の事があれば困ったことになる。一応、「バックアップ」はとっているつもりであるが、1日も早くカタをつけたいと思う。

 万が一の準備も大事だか、いかに生きるかもまた大事。最近は、出勤前に好きな哲学の勉強をしている。一日数ページしか進まないが、なかなか楽しい。また、帰宅後は娘にもらった高校の教科書で数学と物理と国語と古典を勉強している。これもまた楽しい。国語の教科書の設問(「棒線部分の○○とはどういう事か説明しなさい」的なもの)など、今ではスラスラと答えられる。日頃の読書で読解力が磨かれているのかも知れない。高校生の息子と一緒に期末テストを受けたら結構いい点数をまだまだ取れそうな気がする。こういう「趣味」は今後も楽しんでいきたいものである。

 いつがそうだったのかはわからないが、確実に人生の折り返し地点は過ぎている。天寿をまっとうしたとしても、それまでの時間はこれまでの時間よりも短い。今までやりたかった事は、出来る限りやっていこうと思う。昨年、髭をはやし始めたのもその一つ。つまらない事かも知れないが、女にはできない事であるし、長年あたためてきた事を実現できたのは純粋に嬉しい。ラグビーの試合ではまだまだタックルができる。自分では今一の出来だと思っているが、意外とチームメイトの評価が高い。ラグビーは体を張ったプレーが評価される。いつまでできるかわからないが、これもやり(続け)たい事の一つである。

 これから還暦に向かってまた一年。どんな一年になるのかはわからないが、「良き夫、良き父親、良き息子、良き友人、良き同僚」と思われるように、日々精進を続けて人間力を高めていきたいと思うのである・・・

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【本日の読書】