2020年9月27日日曜日

竹内結子

 女優の竹内結子が死亡したというニュースは、日曜日の朝のまだ気だるい気分を吹き飛ばす衝撃のニュースであった。個人的には大好きな女優No. 1だっただけに、「うそでしょう」というのが第一の感想で、その次の「なぜ」というショックに包まれている。普段、テレビをあまり観ず、観るのはもっぱら映画という私にとって、どうしても好きなのは歌手やバラエティタレントなどではなく、女優さんになりがち(ちなみに二番目は北川景子と尾野真千子と満島ひかりのダンゴレースである)。そんな中でダントツNo. 1の憧れだっただけに言葉もない。

 いつぐらいからファンだったのかはあまり覚えていないが、たぶんドラマ『プライド』あたりである。昨年、再放送をやっていて思わず観てしまったが、やっぱり良いなぁと改めて思った。同じく昨年は、Netflix『いま、会いにいきます』を見つけて思わず観てしまった。その昔観た映画だが、竹内結子主演ということであれば、それだけで何度でも観て楽しめてしまうところがある。

 何が良いのかと言うと、難しいところがある。もちろん美人であることは最大の要素であるが、それだけではない。演じる役柄から伝わってくる雰囲気というかイメージというものが、私の理想の女性像に近いということがある。もちろん、それは役柄であり、竹内結子という女優さんの「ある作られた一面」でしかないのは重々承知である。実際の人柄など知るよしもないが、人間だから醜い部分だって当然あるだろう。ただ、それでも全然問題はない。

 人はなぜ恋をするのだろうかと考えれば、それは自然の摂理であるとしか言いようがない。男にとっては女は星の数ほどいるが、片っ端から恋するわけでもない(まぁそういう寅さんみたいな人もいるかもしれないが・・・)。何かのフィーリングがビビッときて恋に落ちるわけであり、自分の好きになった女性を思い起こしてみてもそこに何の法則性もないことから明らかなように、好きになるのに理由はない。ただ、そうは言っても私の場合、何となく「物静かなタイプ」が好きということはあるかもしれない。

 竹内結子が大好きと言っても、ご本人とは会ったこともなく、遠くから(映像を通じて)観ているだけであるから、その人となりなどわかるはずもない。したがって好きなのは、「竹内結子」という女優の作り出すイメージだと言える。それはおとぎ話が、ヒロインが必ず「王子様と結婚して幸せに暮らしました」で終わるのと似ているかもしれない。実際には、結婚した時から「現実」がスタートするのである。実際の竹内結子も怒ったりした時は、イメージと違う醜い姿があったかもしれない。

 ただ、それはあまり問題ではない。私が心惹かれたのは、「女優竹内結子」であって「人間竹内結子」ではない(実際に会えるわけでもないから「人間」部分は知りようがない)。学校で好きな子がいて、遠くから眺めているのと同じだろう。そして遠くから眺めているだけでも十分なのである。誰にとっても、そういう「アイドル」とか「マドンナ」とかはあっていいと思う。それゆえに、誰と結婚しようがあまり気にならないところだったと言える。

 そういう意味であまりプライベートは気にならないし、詳しく知りもしなかったが、まだ子供も小さいみたいだし、そういう部分ではどうにかならなかったのかなと人として思う。死因云々等興味がないと言えば嘘になるが、興味本位で覗き見したくはなくて、今日は朝から芸能関係のニュースは見ないようにしている。そんなことどうでもいいではないかと思わずにはいられない。

以前、やっぱり昔憧れていたファラ・フォーセットが亡くなった時も残念だったが、ファラの場合、もう長い期間スクリーンでは観ていなかったので「今は昔」の感があったが、竹内結子はまだ現役である。それはつまりまだまだこれからたくさんの出演作品を観ることができたはずだったのに、もう新しい作品が観られないということを意味する。それが、ただただ残念でならない。

 これから追悼番組などで過去の出演作品を放映したりするのかもしれないが、そういう流れに乗るのは個人的には好まない。それでも映像という形が残るのはありがたいと思う。それを観ればいつでも理想の女性を観られるからである。亡くなったのは残念でならないが、これからもそういう形で、何度でも観たいと思う。不動のNo. 1はこれからも変わらないと思うのである・・・




【今週の読書】

2020年9月24日木曜日

ここは私道

もともと地上に道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ
魯迅『故郷』
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先日のこと、いつものように仕事を終えて家に帰る途中、家のすぐそばまで来てそれを発見した。それはどこにでもあるカラーコーン。工事現場などでよくみかけるやつである。それは家まであとちょっとの所の狭い道路の真ん中に鎮座していた。道路の真ん中に何だろうと思いながら近づくと、コーンの上には表示がされていた。
「私有地につき進入禁止」
どうやらずっと道路だと思ってところは私道、つまり誰かの所有地だったらしい。

 私がこの地に住んで24年。今までここが私道などとは思いもよらなかった。どこから見てもただの道路であり、それ以外の何物でもない。それが何故、今になって突然所有者が「ここは俺の土地だ!」と言い出したのか。個人的にはとても興味深い。ちなみにカラーコーンを立ててあるだけなので、歩行にはなんの障害もない。ただ、車だとカラーコーンをどかさないと通れない。隣はスーパーの敷地なので、スーパーの駐車場に入れるのには支障がないが、車道としては事実上の通行止めである。

 興味深いのは、突然(事実上の車の)通行止めにした理由である。持ち主のことは知らないので想像するしかないが、ただの嫌がらせだろう。例えば「子供が遊ぶのに危ないから」などと言われれば座布団10枚だが、どう見てもそんなことはありえない。狭い道なので車はみんな徐行するし、そもそもメインストリートからは一本奥まっているので車が何台も通るような道路でもない。「車が危ない」という理由でもなさそうである。

 では何故突然通行止めにしたのであろうか。何か私道としての権利を主張しないと公道にされてしまうということもないであろう。地目がどうなっているのか調べないとなんとも言えないが、「道路」になっていれば(認定されていれば)たとえ個人の所有物であっても固定資産税等の課税は免除されるはずなので、余計なお金がかかるということもないはず。費用負担が生じているのであればわからないでもないが、どうもそうした事情は考えにくい。

 やはり何かのきっかけで、「ここは俺の土地だ!」と所有意識に芽生え、「通せんぼ」に至ったと考えるしかないように思う。それであれば、えらく了見の狭い所有者であると言える。長年、不特定多数の人が生活用道路として使用しており、外見上はあくまでも道路である。今更そんな「いじわる」をして何が面白いのだろうと呆れてしまう。自分だったらどうするだろうと考えてみるが、どうにも他の用途として利用できそうもない以上、道路として使ってもらおうと思うだろう(たぶん・・・)

 私の知り合いで、隣家とわずか数センチ(3センチ)の境界を巡って対立しているところがある。たかだか数センチなのにと思うも、奥行き約15メートルくらいなのでその面積は90平方センチメートルであり、そのあたりの単価からすると17万円くらいの価値になるので、当事者にしてみればバカにできないのかもしれない。両者の感情もエスカレートしているようであり、それはたぶん解決困難な問題だろうと思う。わずかであっても自分の持分は少しでも多くと思うのが人の心というものだろう。これはたぶん、それぞれ代替わりでもしないと解決しない問題なのだろうと他人事ながら思う。

 先の私道主張者も自分の土地なのに自分の土地として使えず、みんなが好きに通行しているという事実に耐えきれなくなったのかもしれない。そもそもいつからここを私道として所有しているのだろうかと想像は広がる。現在はすっかり住宅街だが、古い写真等からすると、戦後間もなく人口が増え始め、子供達が通った小学校が約50年前に開校した頃にはもう道路の形になっていたかもしれないが、戦前はあたり一面田畑だっただろうし、その前は人里離れたすすきの生い茂る地だったかもしれない。

 人が増えれば、里も広がる理屈でいつしか人が住み始めたのだろうが、その頃の人たちが今のこの住宅街を見たらその変貌にさぞや驚くだろうと思う。ましてやわずかな道路を通せんぼしているのを見たら何と思うだろう。それにしてもこれはいつまで続けるのだろう。わざわざカラーコーンを買って来て、パソコンで印字して、ご丁寧にパウチまでして手間暇かけて通せんぼして、それを子供たちにも継がせるのだろうか。その子供たちはそれをどう思うのだろうか。

 今はもうしないが、若かりし頃の自分だったらたぶんカラーコーンを蹴飛ばしていただろうと思う。あるいは無視して(カラーコーンなどなきものとして)車で侵入していたかもしれない。そんな不届き者が出たら、今度は常時監視していないといけないし、そんな人だったら防犯カメラを取り付けるくらいのことはするかもしれない。そう考えるとやってみたくなるが、大人なので我慢しようと思う。

  さて、この通せんぼがいつまで続くのか。毎朝夕、楽しみに見守りたいと思うのである・・・




【本日の読書】




2020年9月20日日曜日

論語雑感 公冶長第五(その4)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。
〔 原文 〕
或曰。雍也仁而不佞。子曰。焉用佞。禦人以口給。屢憎於人。不知其仁。焉用佞。
〔 読み下し 〕

ある
ひといわく、ようや、じんにしてねいならず。いわく、いずくんぞねいもちいん。ひとふせぐに口給こうきゅうもってすれば、しばしばひとにくまる。じんなるをらず、いずくんぞねいもちいん。
【訳】
ある人がいった。――
「雍は仁者ではありますが、惜しいことに口下手で、人を説きふせる力がありません」
すると先師がいわれた。
「口下手など、どうでもいいことではないかね。人に接して口先だけうまいことをいう人は、たいていおしまいには、あいそをつかされるものだよ。私は雍が仁者であるかどうかは知らないが、とにかく、口下手は問題ではないね」
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 自分は饒舌なタイプか口下手なタイプかと考えてみると、実はよくわからない。否、よく考えてみれば、そのどちらでもないと思う。饒舌というと、とにかくよく喋るという感じであろうが、自分はあまりおしゃべりは好きではない。人の話は黙って聞いている方がむしろ好きである。かといって口下手かというとそうでもなく、自分の考えを人に話す時などはかなりしっかり話しているし、会議などでは黙っている方ではない。

 会社でも口下手な人はいる。口下手な人たちを観察していると、だいたい二つのパターンに分かれる気がする。一つは、自分の考えがうまく表現できないタイプで、もう一つは自信がないタイプである。前者は会議等で議論になってもあまり意見は出てこないが、では賛成かと言うと最後に反対し、しかも反対の明確な理由は語らない。誠にイラつくタイプである。後者は、ずっと黙っているが、意見を問えばきちんと答えてくれる。自ら積極的に発言するのは気後れするようである。

 前者のタイプは、口下手というよりもロジカルシンキングができないと言える。自分の考えを筋道立てて説明するというのは、私にしてみれば簡単であるが、苦手な人もいるだろう。一つのコツは「なぜ」と自らに問うことではないかと思う。「自分はなぜそう思うのか、それはなぜか、それはなぜか」。トヨタの改善方式ではないが、「なぜ」を5回繰り返すといつの間にか筋道立てて説明できるようになっていると思う。会社の同僚は2回くらいで結論に着いたと思い込んでしまっている(だから切り返しに弱い)

 後者の人は、多分自分の意見を否定されると心が傷ついてしまうのかもしれない。意見を問えば答えてくれるが、その答えに異論を挟めばもう意見は出てこなくなってしまう。もともと人前で話すことに対して気後れするタイプだったりすると尚更である。プライベートではその人の個性としていいと思うが、どちらのタイプもビジネスの世界では大きなハンディになる。

 ビジネスの世界では、会社を良い方向に動かしていかなければならない。それには社員の叡智を結集する必要があり、あるいはリーダーたる社長が社員を鼓舞する必要があり、それには「言葉」が必要である。以心伝心は通用しない。人が集まって協力しあう場では言葉は必須である。その言葉を発することこそが会社にとって必要なことであり、口下手で会社にとって有益な意見が埋もれたまま会社に不利益が生じた場合、その人は会社にと「いい人」ではなかったことになる。

 また、「うまく言えない」のも、結局きちんと筋道立てて考えられていないということで、そういう考えが本当にいいかどうかは疑問である。「うまく言えない」のではなく、「きちんと考えられていない」意見が、果たして有益であろうか。なんとなく「思う」のと、きちんと「考える」のとは大きく違う。「口下手でうまく表現ができない」という前に筋道立ててきちんと考えているかどうかを疑った方がいいと思う。

 もちろん、逆もまた真なりで、饒舌であればいいというわけではない。やたらめったら意見を言えばいいというものではないことは当然である。そこにはやはり「きちんと考えられた意見」がないといけないのは言うまでもない。底の浅い意見を言ってばかりだと、やがて発言を重視してもらえなくなる。わかりきった意見をわざわざ聞くのも苦痛の一つである。

 いずれもビジネスの現場でも話であり、プライベートの場ではこの限りではない。口下手でも滲み出る人柄の良さで人に好かれると言うことはよくあることで、むしろそういう人物の方が好感を持たれるかもしれない。「沈黙は金」と言うことわざもあるくらいである。実際、人の集まりの中でも喋らないでいられるならそれに越したことはないと私自身考えている。沈黙の心地良さは格別である。

 口下手がいいのか悪いのか。それは、そのシチュエーションによると言えると思うのである・・・


【今週の読書】
 




2020年9月16日水曜日

車に乗りながら考えたこと

仕事でもプライベートでもカーシェアリングを利用している。自宅に車はあるのだが、実家の母親の病院への送迎などで便利に利用している。また、職場でもちょっとした利用の機会に近くのステーションで借りている。よく考えられたシステムで、料金も15分単位だし、スマホやパソコンで簡単に予約して乗れるので実に便利である。それにともなっていろいろな車に乗れるというメリットもある。と言っても、「コンパクトカー」や軽自動車といった最低料金の車のみで、ちょっと普通のサイズになると料金が上がってしまうところが、不満と言えば不満である。

いろいろな車に乗ってはいるが、当然内装もそれぞれ異なる。初めての車となるとスイッチの位置や、車両感覚などは慣れるまでちょっと戸惑う。私の父などはこれが嫌で初めての車には乗りたがらない。私はと言えば、それほど苦にはしていない。異なると言っても、どこのメーカーもある程度共通している。ハザードは赤三角マークだし、ウィンカーはハンドルの右、ワイパーは左、ドアミラーの操作も右のドアのところといった具合である。ある程度各メーカーで統一基準があるのかもしれない。

これは外車にも共通しているようで(と言っても私もレンタカーでアウディに乗ったことがあるくらいだが・・・)、ウィンカーは左、ワイパーは右というところは異なるが(初めて乗った時は、左折しようとしてウィンカーを上げたらワイパーが動いて焦ったというベタなギャグをやったものである)、その他はほぼ同じである。利用者としては当たり前のように思っているが、これは実にありがたいことだと思う。もしも、メーカーごとに様々であれば、まず操作から学ばないといけなくなる。

先日、ダイハツのウエイクに乗ったが、給油をしようとしたところ(カーシェアリングでは給油をすると割引が得られるのである)、給油口を開けるスイッチがわからなくて右往左往してしまった。我が家の車ではボンネットを開けるのと同じようにして給油口を開けるようになっていたのである。慌ててボンネットを開けるのも恥ずかしいので、触らぬようにしていたが、後で調べて「なあんだ」と思った次第である。それはともかくとして、こういう事例は至る所に見られるなと改めて思う。

パソコンはWindowsMacの違いはあれど、Windowsパソコンはメーカーによる違いはほとんどないに等しい。(ほとんどリモコンの差と言える)テレビも誰でもすぐに使えるほど機能・表示はほとんど同じ。スマホも固定電話もコピー機も冷蔵庫も洗濯機もエアコンもおおよそ家電製品はほとんど(特別な機能がない限り)取扱説明書を見なくても操作できる。各メーカーの間で合意ができているのか、あるいはスタンダードから外れると利用者から敬遠されることを恐れているのか、どちらにせよ好ましいことだと思う。

業界の裏事情などわからないが、そうした統一規格がメーカー間でできているのか、それとも何となく意識して同じようなものを作っているのかは興味深いところである。もしも各社バラバラだったら、最初にまずスイッチ関係の操作を覚えるところから始めないといけないだろう。ハザードランプが黄色い〇マークだったり、ウインカーが運転席のドアにボタン式になっていたりしたら、最初は混乱するだろう。教習所ではどうするんだろうなどと想像してしまう。

もっとも、ボタンには「絵」が表示されているので、それでわかるということもある。考えてみればシフトレバーも昔はハンドルについていたりしたものだし、スターターも今はボタン式が増えている。ブレーキを踏まないとスタートボタンを押してもエンジンがかからなかったりするし、いろいろと進歩しているなと感心することしきりである。やがて自動運転になれば、ほとんどボタンも消えてなくなるのかもしれない。

 今日も仕事でカーシェアリングを利用しながら、そんなつまらないことをあれこれと考えてみたのである・・・




【本日の読書】
 



2020年9月13日日曜日

リスク思考

先日のこと、会社に誤振り込みがあった。賃借人のA氏から家賃の振り込みをしていただいたのであるが、実は管理会社が我が社から別の会社(B)に変わっており、それは既に通知していたのであるが、A氏が間違えて我が社に振り込んできたのである。家賃の振り込みがないB社がA氏に督促したところ、我が社に振り込んだことが判明し、B社から我が社に連絡があったと言う次第である。

B社の担当者曰く、うちからB社に振り込んで欲しいとのこと。電話を受けた担当者から私に対し、「B社に振り込んでいいか」と許可を求めてきた。さて、どう答えるべきか。普通はまず会社に入社し、一からOJTで仕事を覚えていくものであろう。そうしていろいろと経験を積んでいく中で、役職者になり、部下に問われれば過去の経験から適切な答えを教えるものであろう。しかし、私は銀行から不動産業に転職してもうじき6年。未経験のことはまだまだ多い。未経験の事態に対峙し、考えた。

電話を受けた部下は話の流れを理解し、我が社からB社に振り込めば早いと咄嗟に考え、そうしていいかと許可を求めて来たのである。こういうケースは我が社では稀であり、電話を受けた担当者も過去には経験がなかったのである。それに対し、私はダメだと答えた。そして間違えて振り込みをして来たA氏に連絡を取り、お金は我が社からA氏に直接返金すること、その際、振り込み手数料はA氏に負担いただくことを説明するようにと指示した。

なぜ、シンプルにB社に振り込みをしなかったのか。A氏はB社にお金を振り込まなければならないが、お金は我が社にある。我が社からB社に払えば簡単であるが、A氏に返金すればA氏はB社に再度振り込みをしなければならず、余計な手間暇がかかる。しかし、我が社から見ると、B社に振り込んだ場合に発生する事態をいろいろと想定しなければならない。そのとき考えたのは、以下の通り。

1.   我が社からB社に振り込む場合、振り込み手数料は誰が負担するのか
2.   もしも、後になってA氏から「我が社に間違えて振り込んだので返してくれ」と言われたらどうするのか
1については、我が社に振り込まれたお金は家賃だけで、そのお金を振り込むのには振込手数料がかかる。筋からして我が社で負担するものではないので、本来負担すべきA氏に負担してもらうにはもう一度振込手数料相当額を振り込んでもらわないといけない。それは面倒である。

 2については、届け出のあった携帯電話の番号で話しているのでA氏本人と間違いないとは思うが、実は他人だったりした(肉親が電話を取って勝手に答えたというような)場合、A氏本人から返金を求められたら我が社は応じないといけない。実はA氏に悪意があったりして、「B社に振り込んでくれなどと言った覚えはない」とあとで言われても同様である。どうしても我が社からB社に振り込むのであれば、後日の紛争に備えてその旨の依頼書をA氏からもらっておく必要がある。

 そうしたことを頭の中で考え、担当者に指示を返したのである。担当者は、当初「なんで(そんなかたっ苦しい対応を)?」という反応だったが、電話を切ったあと私の説明を聞いて納得してくれた。なぜ、初めてのケースにも関わらず、上記の対応が自然に思いついたのであろうと自分自身考えてみた。それは、言われるがまま振り込みをした場合どうなるかを頭の中でシミュレーションしてみたから(手数料をどうするのかと思いついた)であり、何か後々問題になることはないかと考えてみた(返金してくれと言われたら?)からである。

 なぜ、そうしたシミュレーションをしたのかというと、それは銀行員時代から「後々どんなリスクがあるだろうか」と考える癖がついていたからに他ならない。まあ、銀行員であれば誰でもそういう癖はついているだろう。加えて、銀行の事務手続きについて、「どうしてこうするのだろう」と疑問を持ってきたことにもよると思う。銀行の手続きについては、みな理由がきちんとある。教えられるままただ手続きを覚えるだけでなく、その意味もいつも考えるようにしていたのである。それが手続きの裏側を考える癖になったと言える。

例えば、金額の大きな振り込みについては、女子行員が送金手続きをしたあと、必ず上司が承認をしないとお金が出ていかないようになっていた。それは単なるミスのチェックかと思ったが、実は過去に女子行員による有名な横領事件があって(男に大金を送金して貢いでいたのであるが、その当時は単独で送れたのである)、それ以来大口の送金には上司の承認が必要になったということであった。このようにそれぞれの事務手続きには意味があり、それを確認する癖をつけていったら、いつの間にか「考えなければならないリスク」を考えられるようになったのである。

 刑事が人を見れば疑う(あくまでもイメージ)のと同様、銀行員は常にリスクを考えるのが習性なのかもしれない。それが良いのか悪いのかと考えてみると、少なくとも仕事においては役立つことが多いかもしれない。電話を受けた担当者は、単に表面的に話を捉えただけで終わっており、それは優秀であるとかないとかの話ではなく、リスクを考える習性の違いであると思う。銀行員をやっていた経験がこういうところで生きているのだなと改めて思ったのである・・・




【今週の読書】
 




2020年9月9日水曜日

威風堂々

船長釈放「菅直人氏が指示」 前原元外相が証言 尖閣中国漁船衝突事件10年 主席来日中止を危惧
前原誠司元外相が産経新聞の取材に対し、10年前の平成22年9月7日に尖閣諸島沖の領海内で発生した海上保安庁巡視船と中国漁船の衝突事件で、当時の菅直人首相が、逮捕した中国人船長の釈放を求めたと明らかにした。旧民主党政権は処分保留による船長釈放を「検察独自の判断」と強調し、政府の関与を否定してきたが、菅氏の強い意向が釈放に反映されたとみられる。
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10年前のこの事件はよく覚えている。尖閣諸島を巡る中国との軋轢がきな臭い匂いをさせ始めてきた事件であったからである。衝突の映像もYouTubeで見たし、それが国内では「漁船が海上保安庁の巡視船に体当たりしてきた」と報道されていたが、実際はどうやら「速度の速い巡視船が漁船の進路を塞いだため避けきれなくて衝突した」らしいという話も聞いた。船長の釈放も異例だったという報道も記憶にある。もちろん、「検察独自の判断」というのも覚えている。

個人的には今さら管総理の判断だったのか、「検察独自の判断」だったのかはどうでもいいと思う。当時も同様だったが、ただ何となく検察は事務的に事を進めようとするだろうから、こんなに早く釈放するのは「独自の判断」ではないんじゃないかと思ったのは確かである。やっぱりそうだったかと言いたいのではない。そんなことはどうでもいいが、問題に思うのは、「管直人(当時)総理の態度」である。自分の指示なら自分の指示だとなぜ言わなかったのだろうと、思えてしかたがない。

もちろん、「批判されたくない」という気持ちもあったと思う。講演会に参加した時も、「メールが100万通来ればそのうちの999,999通は批判だ」と自虐的に語られていたが、人間批判に曝されると気持ちが落ち込むものだろう。安倍総理も批判の数は大変なものだと思うが、ただ総理大臣ともなればそうした批判を気にしていたら何もできないだろう。そこは腹をくくって批判を堂々と受け止める(そして跳ね返す)しかないと思う。そういう考え方からすると、菅元総理の(当時の)発言は残念である。

いやしくも総理大臣である。国のトップである。であれば自分の出した指示の責任は自分で取るべきだと思う。記事によれば、中国の主席の来日中止を危惧したのだと言うが、それならそうと堂々と言えばいいと思う。もちろん批判はあるだろうが、政治とはバランスであり、外交は相手国との駆け引きでもある。一国の総理大臣が判断したのであれば、それも一つの考え方。堂々と「何が悪い」と胸を張ればいいと思う。自分で指示を出しておいて、「検察独自の判断」などと言えば、当の検察は「何言ってんだよ!」となる。

世間的には逃げられても、当事者は知っている。個人的には世間の批判よりもそちらを恐れるべきではないかと思う。少なくとも自分ならそうだ。トラブルやクレームが発生すれば、部下に任せて引っ込んでいるより、積極的に対処しに行くだろう。「逃げない」というのは、上司に取って必要な事だと思う。かつて私も銀行員時代に、部下が支店長や他部の部長に怒られている時、積極的に話を聞きに行ったし、部下がトラブルの報告に来た時もきちんと受け止めた。「(私の)前の上司は『知らん』と逃げてばかりでした」とその部下から変に褒められたのを覚えている。

それはともかくとして、いやしくも(たとえ部下が一人であっても)人の上に立つ者であれば、自分が責任を取るというスタンスを取ることが大事である。ましてや国のトップであればなおさらである。そういう意味で、検察に批判の矛先が向かうようにしたのは、いかがなものかと思わざるを得ない。さらに嫌味な産経新聞は改めて当時のことを菅元総理に聞いたようで、それに対し、菅元総理は「記憶にない」と答えたと記事は伝えている。これもまた残念な答えである。これほどの重大事であれば、記憶にないはずはないだろうと思う。

この期に及んでもまだ批判を恐れているのか、あるいは当時の判断は間違っていたと思っているのかもしれない。前者であれば意味はないし、後者であれば、逆に「間違いだった」と素直に認めた方がまだ印象はいいと思う。自分の間違いを認めないトップの姿というものは、部下からすればみっともないことこの上ない。部下はトップがミスをしたことをどうとも思わないが、それを無理に取り繕おうとする姿にこそ幻滅を感じるものである。菅元総理の「記憶にない」発言は、「やっぱりな」と残念感を一層募らせる。

 菅元総理は高校の先輩でもあり、講演会に行って直接お話しをし、写真も撮らせていただいた。それゆえに先輩として大事に思うが、一方で総理大臣としては誠に残念に思う。「信無不立(信なくば立たず)」という言葉があるが、まさにその通り。安倍総理の次の総理大臣が誰になるにせよ、堂々と胸を張って矢面に立つような、トップとしての気概を持った方になってほしいと思うのである・・・






【本日の読書】
 




2020年9月6日日曜日

論語雑感 公冶長第五(その3)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。
〔 原文 〕
子貢問曰。賜也何如。子曰。女器也。曰。何器也。曰。瑚璉也。
〔 読み下し 〕
こういていわく、何如いかんいわく、なんじなり。いわく、なんぞや。いわく、れんなり。
【訳】
先師が人物評をやっておられると、子貢がたずねた。
「私はいかがでございましょう」
先師がこたえられた。――
「おまえは見事な器だね」
子貢がかさねてたずねた。――
「どんな器でございましょう」
先師がこたえられた。――
「瑚連(これん)だ」
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 ここで言う瑚連とは、最高級の器であるらしい。つまりは褒め言葉である。現代でも「器が大きい」とか「器が小さい」とかはよく言われる言葉である。ただ、よくよく考えてみると、これは男に向けて言う言葉であるように思う。女性に対して器が大きいとか小さいとかは言わないように思う。どちらかと言えば、器にたとえるならば女性の方が適しているようにも思えるのだが・・・

 それはともかくとして、「器が大きい」人物と言えば、身近なところではいつも尊敬している方が頭に思い浮かぶ。「実るほど頭を垂れる稲穂かな」を地でいくような方で、国家公務員のトップを務めた後、一流企業の役員を務め、80歳を越えた今も某企業の役員を努めている方である。穏やかで威張るところがなく、人の意見もきちんと聞かれる。勉強熱心で、話をお聞きするたびにいつも得るところが多い。

 一方、やはり民間企業の重役を務め、天下りで今も某企業の役員を務めている方は、対照的である。どこかいつも上から目線で話をされ、人の意見も一応は聞くが、スムーズに聞き流される。移動は運転手付きの社有車で、私がお会いしたのはプライベートの会合の場であったが、そういう時でも社有車でやってこられた。もちろん、仕事が終わったあとの時間帯であり、遅くなっても社有車で帰られていた。社会的に地位のある方を「器が小さい」という言葉を当てはめるのは適切ではないが、とても対照的なお二人である。

 普段何気なく使っている言葉でも、よくよく考えれば無意識に意識して使っているということはよくある。この「器」も考えてみれば、「年上の人」「女ではなく男」に対して使っている。それが日本語的に正しいのかどうかはわからないが、無意識に自分で使い分けていることに気づく。後輩に対してはあまり使わない。それはその言葉に適した人物がいないからかもしれないが、どちらかと言うと目上の人物に使うようなイメージである。

 これまでも多くの上司に仕えてきたが、「器の大小」という観点からみると、やっぱり「大きい」「小さい」はある。最初の上司はとても仕事ができる人であったが、自分にも部下にも厳しく、よくみんな怒られていた。ある時は主任さんが怒られて半日立たされていたことがあったが、それは上司の席の隣でかつ新人の私の席との間であり、私もその間気が気でなかった。ネチネチと怒る怒り方からは、とても「器が大きい」という言葉は出てこない。

 また、別の上司は、常に判断根拠に「部長がどう考えるか」がある方で、自分の意見もそれによって決まっていた。「自分ならどう考える」というよりも、「部長がどう考えるか」を重要視するそのスタイルは、今で言えば「忖度マン」だったわけであり、部長から見れば「愛いやつ」だったのかもしれないが、部下からすれば誠に頼りにならない方であった。今から考えると、あまり自分の意見に自信がなかったのかもしれない。上司だから正解を出さなければいけないが、自分では分からない。だから一生懸命忖度していたのかもしれない。

 一方で、いつもしっかり話を聞いてくれた上司とは、今でも年賀状のやり取りをしているし、たまにみんなで集まったりする。話を聞いてくれるから意見も言いやすい。そして思うとおりに意見を言えば、それに対して回答してくれる。「そうか、そういう風に考えるのか」という気づきも得られたし、意に反する指示であっても、その上司が良かれと思うならと素直に従えた。「懐が深い」とも言えたが、いい上司だったと思う。

 そういう経験をしてきたからだろうか、今となっては自分なりの「上司スタイル」というのを確立しているように思う。部下の意見はきちんと聞くし、何か言いたそうであれば、納得いくまで話してもらう。異なる意見を返す時は、「なぜそう考えて指示を出すか」をきちんと説明する。できない時は、できない理由とともに説明するし、こちらが説明不足だったり、ミスした時は素直に謝る。考えて見れば、自分が反発してきた上司を参考にすればいいのだから簡単である。

 自分を客観的に見るのは難しく、自分が果たして器の大きな人間なのか小さな人間なのかはわかりにくい。ただ、反面教師がいた分は、小さくはないのではないかと思える。そう考えれば、器の小さく思えた上司もありがい存在だったと言える。最高級の器でなくてもいいから、ある程度の器でありたいとは思う。これからもそんな意識を持っていたいと思うのである・・・

Terri CnuddeによるPixabayからの画像 

【今週の読書】
 




2020年9月2日水曜日

寄って立つところ

その昔、銀行員時代のことであるが、事務手続きの件で上司に聞かれて答えたところ、「それは確かなのか、確認したのか?」と問い詰められたことがあった。私としては、事務手続きについては(少なくともその上司よりは)精通しており、「間違いありません」と答えたが、それは上司の納得する答えではなかった。確認しろと言われて、事務本部に電話をして(知っているのに)確認する羽目になったが、問い合せたら問い合せたで、「そんなことも知らないのか」という雰囲気を言外ににじませて(知っている答えを)教えてもらった。

答えは当然同じ。そもそもその程度の事務は知っていて欲しいと思うし、もう少し部下を信頼してもいいだろうとその時は不満に思った。事務本部で答えてくれた担当者は私と似たり寄ったりの若手であり、違うのは専門部署に所属しているかどうかという点だけである。上司としては、「確実を期す」という意味で専門部署の回答を得たかったのだろうと思うし、その判断は正しいと思う。だが、釈然としないものが残ったのだけは確かである。もしもその上司の上司が私と同じことを回答したら、さすがに専門部署に聞けとは言わなかっただろう。

要は、その時に大事だったのは、「何を言ったか」という中身の話ではなく、「誰が言ったか」という信頼度の問題だったと言える。もちろん、私が信用されていなかったというだけの話で、上司を責める話ではない。しかしながら、そういう経験をしてきたせいか、人の言うことに対しては、「誰が言ったか」ではなくて「何を言ったか」で判断するように心掛けている。子供でも物事の本質をついたことを言ってくることがある。そういう時は、きちんと筋道立てて答えるようにしている。間違っても、「子供は黙ってなさい」というような態度は取らないようにしている。

私は仕事では、№2の立場が非常に気に入っている。それは「責任が軽い」ということもあるが、「発言の自由度」というメリットもある。それはつまり、「いざとなったら取り消せる」という気軽さである。個人の立場である場合は除き、仕事の場合はあくまでも私の発言は会社の一社員の発言である。最終的な決定権が社長にあるのは周知の事実であり、いくら私が約束してもいざとなったら最終的には社長がそれを覆せる。もちろん、私の立場はなくなるが、会社としては筋を通せる。

もちろん、だからと言って適当なことをしゃべるわけにはいかないが、「持ち帰って検討します」とは言える。社長であればその場で決断を求められるかもしれないが、№2は「持ち帰る」と言って、判断を持ち越せるのである。これは誠に都合のいいことである。逆に前向きに進めるべき案件であれば、その場で返事をしてしまえば自分自身の信頼度を高めることになる。「この人に話をすればいい」と相手に思わせることができるのは大きい。自らの立場をうまく利用して都合よく発言を生かせるという意味で、№2は居心地がいいのである。

発言の中身について見ると、表面だけしか見ていないという場合はよくある。現在も難しいプロジェクトを前にしているが、「何も無理してやらなくてもいいのではないか」という意見を言う人がいる。それが会社の業績を踏まえての意見であればよいが、単にそのプロジェクトだけを見て判断しているのである。会社から見れば、苦しい状況の中、難しくとも案件を獲得して実績につなげていかないといけないという状況にある。「無理してやらなくてもいい」のはその通りなのであるが、「どうしたら業績を上げられるか(そして社員に給料を払っていけるか)」と苦悩していないからこそ吐けるセリフである。

また、問題が発生した時に、「どこを見ているか」によっても答えは違ってくる。目先しか見ていない者は、やはり目先の判断である。それに対し、先々を見ている者は、「次の展開」を読んだ判断となる。右へ行けばなだらかな道、左は上り坂。目先しか見ていなければ「右へ行こう」となるだろうが、その先に危険な崖があることがわかっていれば、上り坂でも危険の少ない「左へ行こう」という判断ができる。会社でも「次の事業展開」を踏まえての判断であるかないかは、目先の問題に対する意見ではっきりとわかる。

 人の発言からはいろいろなことが感じられる。十人十色で人の意見はさまざまである。そしてそれはその人の性格にもよるが、またそれはその発言の寄って立つところにもよる。どこを見ての発言なのか(目先なのか未来なのか、誰が話しているのか等々)、表面的な意見の内容だけでなく、そういう部分にも目を向けることによって、発言の意図が見えてきたりする。そんな背景事情もよく考えながら、相手の発言を聞いていきたいと思うのである・・・


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