浪人をしていた娘の大学受験が無事終わった。親としてはホッと一息であるが、現在中二の息子が今度は受験生。勉強については親が何をするわけでもないが、何かと教育費の負担はバカにできないものがあり、これから厳しさが増す我が家の家計である。それはそれとして、息子と勉強について話をした。今は塾の春期講習に通っている。成績も上位であるし、それ自体問題はないが、息子ともいろいろと話をしたいと思っていたのである。
私は塾が嫌いで、学生時代はとうとう塾や予備校の類には行かずに終わった。浪人して臨んだ大学受験ですら宅浪であった。それが自分のスタイルだったのである。もともと人前ではあまり勉強できないタイプで、例えば図書館に行って勉強するということが苦手であった。いつも自宅で1人こもって黙々とやるタイプである。例えれば水面を優雅に漂う白鳥が水面下では一生懸命足をかいているように、人に見えないところで努力するのが好きなのであった。
ところが息子は逆で、1人だとついついずっこけてしまうので、人がいた方がいいのだとか。それも塾のように人はいるが、学校の友達がいないという環境の方がよりベターなのだとか。それに友達に「お金をかけて(=塾へ行って)」勉強しているのをあまり知られたくないという心理もあるようである。どうやらタイプは違えど同じ水鳥気質なようである。そんな息子は今のところ勉強は面白いらしい。
自分はどうだっただろうかと考えてみると、あまり「面白い」という感想は持たなかったように思う。ただ、もともとなんでもそつなくこなすタイプだったから、勉強もその一環でそつなくこなしていたように思う。受験は志望通りに受かったからまず成功だったと言える。その後も社会人になっても社内の試験とかでよく勉強したし、最近でも仕事で必要な宅建やマンション管理士の資格を取る勉強をした。勉強はつくづく一生縁は切れないものだと思う。
最近、大学受験を終えた娘が身辺整理を始め、高校で使った教科書をすべて処分しようとしていた。私は前から娘に頼んでいたのだが、そのうちの何冊かを譲り受けた。選んだのは、国語(国語総合・現代文)、古典(古文・漢文)、数学( I・II・A・B)、物理である。なんだか改めて勉強してみたくなったのである。以来、仕事から帰ってきて夕食後のひと時に少しずつページをめくっている。気分は高校一年の春で、そういえばあの頃も真新しい教科書をめくるのに喜びを覚えたように思う(それになぜか娘の教科書は新品みたいに綺麗だし・・・)。
そして、「面白いか」と問われると、これが面白い。数学では因数分解が出てきたが、X2+2XY-3Y2-5X+Y+4なんて式になるとすんなりとは解けない。悪戦苦闘してできた時の喜びはなんとも言えない。物理については、「物理学は、さまざまな自然現象に向き合い、それらがどのようにして引き起こされるのかを問い、探求していく学問」と定義されているが、だから音や光や熱や、果ては宇宙まで幅広いのだと改めて思い至る。高校時代、苦手なゆえに文系になった身としては、改めて理系に再チャレンジしてみる気分である。
国語と古典は、難しいというよりも文章を深く読むということを改めて意識させられる。「〜とはどういう意味か」、とか「説明しなさい」とか求められる。読み流すのは簡単だが、そういう問いに答えようとすると、前後も含めて改めてなんども読まないといけない。読解力を求められるとともに、小説だけでなく、哲学や批評や詩、エッセイ等幅広い文章に触れることになる。改めてさすが教科書だけあってよく作られているなぁと感心させられる。
今さらながら高校生の教科書を手にとってみると、そこには学ぶことの楽しさが詰まっている。高校生の時にこういう気持ちで勉強していたら、勉強ももっと違っていたかも知れない。単なる受験ツールとしてしまうのは誠にもったいない。今まで長く勉強してきたが、それは受験のためだったり、(社内外含めて)資格を取るためだったりが多かった。いわばやむなく勉強したわけであるが、今回はまったくの趣味である。期限もないし、合否もない。なんの制約もない中で純粋に楽しめる。
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