2015年7月31日金曜日

男はケンカ

 落合信彦の『狼たちへの伝言』を本棚の奥から引っ張り出してきて、埃をはたいて久々に読んでみた。社会人になりたての頃、夢中になって読んだものである。

 事例はいささか古いが、その主張は現在でも激しく同意できるものが多い。その一番が、「ケンカもできないヤツ、弱いヤツは男としてダメだ」というものだ。たぶん、女性陣からしたら嫌悪の目で見られる意見だろう。だが当時、そして今もだが、これは絶対的な真実だと思う。

 と言っても、私もそして落合信彦も暴力を礼賛しているわけではない。「男なら自分を否定する人間には立ち向かわなければならない。言葉で説得するにしたって、腕力の裏づけがなければ、負け犬の遠吠えになってしまう。もし相手がなぐりかかってきたにしても、それをブチのめす自信があれば、堂々と自己を主張できるのだ。」とするが、これはまさにその通りだと思う。電車の中でおかしなことをしている者がいても、ためらいなく注意ができるというものである。

 会社で上司に理不尽なことを言われた時、勇気をもって反論できるのも、落合信彦流で言えば、「腕力の裏づけ」があればできるわけである(もちろん、モノの言い方と目上の者に対する礼儀を失してはいけないのは当然である)。今話題の東芝の不正会計だって、携わった者の何人かは絶対違法意識はあっただろうし、それに対して自分に言い訳しながら(組織の論理とか何とか言って)従っていたのだろう。もし「ケンカのできるヤツ」がいたら、「それはまずいのではないでしょうか」と言えていたような気がする。

 そういう骨のある男には、「汚れ仕事」は回ってこないだろうし(まぁひょっとしたら出世もできないのかもしれない)、上司からも一目置いて見られるだろう。子供の世界では、当然いじめの対象になんかになりはしない。スポーツでは、「なにくそ」とハードトレーニングに耐える力の源泉になるし、男としてのまさにアイデンティティになると思う。

 誰もがそんな男になればいいと思うが、最近危惧するのは若いママたちだ。少子化もあって、とにかく男の子をお人形みたいに可愛がっている感がする。女の子はいいが、男の子は危険だ。女の子みたいに育つのではないかという気がする。そんな男の子が、大人になってどういう男になるのだろうか。

 昔読んだ松本零士のマンガにあったのだが、遠い未来の地球で人類はふやけてしまい、そこでは「男が化粧をしハイヒールを履く」ようになってしまっているのだった。そこでは地球防衛軍も警報とともにみな逃げ出す有様になっていた。それをマンガの世界と笑っていたが、時代はだんだんとそれに近づいている気がする。メンズエステのヒゲや脛毛の脱毛などの広告を見ると、こんなところに行く男なんてと虫唾が走るが、そんなことを言ってること自体、白い目で見られかねないのかもしれない。

 幸い我が家では、息子は私とともに妻から激しく叱咤・指導されているから、まぁ大丈夫な気がする。そのうち「腕力」も鍛えてやらねばならないだろうと思っているし、ケンカの仕方も教えたいとも思う。たぶん、そんなことは女性には理解不能なことだろう。「男ってバカね」と思われるかもしれない。だが、それはそれでいいのである。そのバカなのが、女とは違う男なのである。

 実際、殴り合いのケンカなんかしても、みっともないだけだとは思う。たとえ勝っても「エライ」なんて誰も思わないだろう。50も過ぎたらなおさらである。だから実際の殴り合いのケンカなんてするものではない。だが、「しない」のと「できない」のとでは雲泥の差がある。「できるけどしない」のが、男のあるべき姿だろう。

 本を閉じて改めて思う。いくつになっても『殴り合いのケンカのできる男』でありたいと思うのである・・・


【本日の読書】
ぼくの命は言葉とともにある (9歳で失明、18歳で聴力も失ったぼくが東大教授となり、考えてきたこと) - 福島智 億男 (文春文庫) - 川村 元気 狼たちへの伝言 - 落合信彦






2015年7月26日日曜日

狼たちへの伝言

 毎日の通勤電車は、私にとっての読書タイムである。その読書タイムに読む本の半分は、ビジネス本である。こうしたビジネス本だが、読み始めたのは社会人になってからのこと。もともと本は好きで読んでいたが、読んでいたのはもっぱら小説。それが社会人になってビジネス本を読むようになったのは、ある一冊の本がきっかけである。

 その本は、落合信彦著 『狼たちへの伝言』である。どういう経緯でこの本を買ったのかは、もう忘れてしまった。だが、一読した時の衝撃は凄かった。この本は、落合信彦氏が自身の経験をもとに書いた若者たちへのメッセージだが、そのメッセージが見事に私の心に突き刺さってしまったのである。

 まずご本人の経験が凄い。父親は女を作って家を出てしまったため、母が子供二人を女手一つで育てる家庭。貧乏で大学に行くお金もなく、独学で学んだ英語を頼りに米大使館を訪ね、アメリカの大学の入学資格と奨学金を得る試験を受けて合格する。しかし、アメリカへの渡航費なんかなく、港に泊まり込んで船を捜し、臨時雇いの船員として船に乗せてもらう。そして着いた西海岸から、コーラで腹を満たしながらヒッチハイクで大学のある東海岸へ行く。

 大学でもひるむことなく周りに立ち向かう。舐められたら終わりという中で、空手で培った度胸とケンカの腕で認められていく。大学を卒業後は、世界を股にかけ、オイルビジネスを手掛ける。そんな経歴から、軟弱な男を叱咤し、熱く生きろと語る。まさに、「狼は生きろ、ブタは死ね」のメッセージは、当時の私の心に大きく響いた。もともとそれに共感する気持ちが育っていたから、なおさらであった。

 何より説得力があったのは、意思の強さと行動力だろう。日本を見限り、アメリカへ行こうと決意するが、お金がないから英会話スクールなんかには行けない。映画館へ行って一日こもり、好きな映画を何度も観て、暗闇で聞き取った英語を書いて覚えたという(そのあたりの経緯は別の本で知った)。その上で、ある牧師さんと出会い、そこに出入りして実地で英会話を覚えたらしい。

 「お金がないからできない」ではなく、「ならどうする」か。「天才が1時間かかってやることは、2時間かけて追いつき、3時間で追い越す」(本多静六)の考え方にも相通じると思うが、こういう考え方にはメチャクチャ共感してしまう。餌が目の前に置かれるのを大人しく待っているのではなく、なければ自分で探して取りに行く。言葉で言うのは簡単だが、今でも目の前に餌が置かれるのを大人しく待っている者は多い。

 さらに国際情勢についての解説は、新聞を読んでいてもわからないようなことが語られる。今読むとさすがに事例は古いが、当時政府がアメリカからイージス艦を買ったとニュースでやっていたのが、実はそれはアメリカに買わされたのだとか。この本を契機に、ニュースを表面的に理解しないようにしようと思うようになったのは、間違いない。

 そして最大のメッセージは、「男は生き方だ」ということであろう。「イイ女を抱きたかったら、DCブランド(懐かしい言葉だ)に身を包むよりエキサイティングに生きることだ!」
「ローンで身を飾り、ラーメンをすすって外車を乗りまわしたって、男の価値は上がりゃしない!」もともとおしゃれは苦手だったし、鏡の前では髪型よりも筋肉の張りの方を気にしているくらいだったから、こういう言葉が心に響いたのである。今でもエステで脱毛なんてやる男は、心の底から軽蔑してしまう。

 筋肉ばかりでなく、教養も必要だと説かれていたから、その手の本にも手を出すようになった。当然、他のビジネス本にも手を出すようになっていったのである。そういう意味で、影響力の大きな一冊であったと思う。

 今読み返してみると、あの頃のようなインパクトがないように思える。ただ、それは自分があの頃よりもはるかに成長した証かもしれないし、すっかり自分の考え方として定着したからかもしれない。いずれにせよ、まだ若くて多感なあの頃に出会って良かったと思える本である。今は本棚の奥ですっかり埃をかぶってしまっているが、大事に取っておきたい一冊なのである・・・

【本日の読書】
21世紀の資本 - トマ・ピケティ, 山形浩生, 守岡桜, 森本正史 狼たちへの伝言 - 落合信彦




     

2015年7月22日水曜日

将来の夫婦の形

 最近将来のことをよく考える。『あと31年』なんてこともその一環だ。もう50も過ぎると、「将来の夢」というよりも、「リアルな将来像」とならざるを得ないが、我が夫婦関係がその最たるものだ。

 新婚当時は誰でもラブラブで、時間が経つにつれ熱も冷めていくのはどこも一緒だと思うのだが、我が家はどうも冷め過ぎてしまったようである。私の方はまだ妻に対する愛情も一杯だと思っているが、どうやら片想いになって久しい。「将来子供が独立していなくなったら、夫婦二人で仲良く旅行に行ったり食事に行ったり・・・」なんて夢想していたが、それもどうやら見果てぬ夢になりそうである。

 ここで原因についてあれこれと考えてみても、もうどうしようもない。「自分は変えられるが人は変えられない」もちろん、努力は続けるつもりだが、成果が得られない時のバックアッププランも用意しておかないといけない。既に義母は義父と「家庭内別居」状態で、「単なる同居人」と化している。海外旅行だってお友達とは行くが、義父とは買い物すら一緒に行かない。こういう現実を目の当たりにすると、いつまでも「対岸の火事」とタカをくくっているわけにもいかない。

 そこで考えたのは、「60歳別居」だ。いや別に息子が社会人になるであろう62歳でもいいのだが、そのタイミングで別居するのがいいと考えた。一緒にいるから不満も溜まるのだろう。離れていれば、洗濯も食事の支度も不要になるし、不満も減るだろう。

 こちらも一人になれば気楽だし、テレビも好きな映画も好きな時に好きなだけ観られる。日常生活の細かいミスをくどくどと責め立てられることもない。幸い、両親の家がある。金銭的な負担はそうかかるまい。70歳まで働くつもりだから、なおさらその心配もあるまい。

 既に友人たちの中には、諸般の事情があって独身生活を送っている者も多数いる。お互い親を見送ったあとになれば、今よりもっと自由につるむこともできるだろう。一緒に旅行に行ったり、飲みに行ったりすればそんなに寂しい老後となることもないだろう。女同士で、「私たち将来シェアハウスで暮らすのよ」と語る女友だちもいる。さすがにジジイ同士でシェアハウスというのも、なんかしっくりこないが、そこまでいかなくとも近くに住むくらいならいいかもしれない。

 フランスでは「事実婚」が半数以上だという話だし、最近はLGBTなんてのも市民権を得てきている。いつまでも夫婦仲良くは理想ではあるが、子育てを終えたら夫婦卒業というのもありかもしれない。動物なんかは、子育て期間だけつがいになるというのが一般的だし、人間だってそうしたっておかしくはないだろう。

 離婚となれば、財産分割とか煩わしいし、そこまで憎み合っていなければ妥協点としてはいいような気がする。年に一度のお正月とかに子供たちも含めて「家族集合」とすれば、ある程度の距離も保てるだろうし、旦那に対する日頃のストレスも減じれば、妻も優しくなるかもしれない。そうした「熟年離婚」ならぬ「熟年(夫婦)卒業」という新しい夫婦関係もいいかもしれないと思う。

 そうあれこれと考えていたら、当初の悲壮感は消えて何だか楽しい計画に思えてきた。ひょっとしたら「バックアッププラン」のつもりが、「メインプラン」に昇格するかもしれない。どっちに転んでも、良いように思えてくる。その時までに、「独身の友人」が増えたらより楽しくなりそうだとさえ思えてくる。

 密かに期待してみようかな、と思うのである・・・

【本日の読書】
東大名物教授がゼミで教えている人生で大切なこと - 伊藤 元重 21世紀の資本 - トマ・ピケティ, 山形浩生, 守岡桜, 森本正史





    

2015年7月17日金曜日

病院にて(2015)

 毎年誕生月の6月に受けている健康診断。ここのところ、何かと“引っ掛かる”ようになってきているが、今年は何と「肝機能障害の疑いあり」となってしまった。普段、酒はあまり飲まないだけに、「何かの間違い」だとは思ったものの、放置する度胸もない。そこで再検査に行ってきた。

 最初に再検査の説明と血液検査。そして日を改めてエコー検査と、血液検査の結果を見ながらの医師の診察と決まる。その診察に病院に行く。覚悟して行ったが、やっぱり何とも言えないのが、「待ち時間」。事前に予約をしていったのに、やっぱり長い待ち時間。

 最初のエコー検査は予約通りの時間に終わる。そして医師の診察を待つが、エコー検査から診察の予約時間まで30分の間隔。さてそろそろ呼ばれるかと思いながら、待つことさらに40分。何とトータルで1時間10分も待たされることになってしまった。まぁ最初の30分は予定通りだから仕方ないとしても、予約したのに40分待ちはないんじゃないかと言いたくなる。

 そんなイライラを感じていたのは、どうやら私だけではなかった。途中で看護師に喰ってかかるご高齢の方が約1名。やっぱり、予約しているのに何でこんなに待たされるんだと不満の声が聞こえてくる。それはそうだと頷きながら、やり取りに耳をすます。だが、文句を言って早まるものでもない。文句を言っても仕方ないと諦めたのか、やがて抗議も終わる。覚悟して本を持って行ったわけだし、まぁ良い読書タイムだと思うしかない。

 それにしてもなぜ病院というところはこんなに待ち時間が長いのだと、疑問に思う。本も読み疲れたこともあって、暇に任せてあれこれと考えてみる。いろいろと原因はあると思うが、今回のケースに限れば、最初のエコー検査までは予定通りなわけだし、となると原因は「医師の診察の遅れ」だ。見たところ、何人かの医師が予約患者と新規の患者とを順番に受け付けているようである。診察時間もせいぜい平均で5分程度ではないかと思うが、もちろん人にもよるだろう。当日の新規患者がどのくらいいたのかはわからないが、ある程度予約患者優先にしてもいいような気もするが、実務的にはやはり実際の現場を見せてもらわないとわからない。待合室はぎっしりだったから、やっぱり時間がかかるのはやむを得なかったのかもしれない。

 それにしても、待合室は高齢化社会の縮図。もう50を過ぎた我が身ながら、待合室の中では“若手”だ。国の医療費負担が大変だというのも納得だ。診察室もフル回転といったところだし、働いている人たちもなかなかストレスフルなのではないかと思われる。待ち時間ぐらいで、不満を持つのも悪い気がする。

 さて、検査の結果はシロ。どうやら検査の前夜酒を飲んだのがいけなかったようである。お付き合いでやむを得なかったとはいえ、時間と費用とで高くついたお酒だったことになる。来年は、万全の態勢で臨もうと思うのである・・・


【本日の読書】
ゼロ・トゥ・ワン 君はゼロから何を生み出せるか - ピーター・ティール, ブレイク・マスターズ, 関 美和, 瀧本 哲史 21世紀の資本 - トマ・ピケティ, 山形浩生, 守岡桜, 森本正史





2015年7月12日日曜日

夏の日雑感2015

 この週末は真夏の日差しで、「いよいよ来たか」と暑い夏の到来を実感させてくれた。しかしながら、梅雨明け宣言はまだだし、今週はまた天気も崩れるようだし、本番はあと1週間ぐらい先であろうか。

 昨年から少年野球チームに参加している息子は、今日も朝から終日の練習。この炎天下だと立っているだけでも大変だから、小学生の練習と言っても、本人たちにとってはそれなりにきついと思う。スポーツできつい練習をこなすことは、精神的にも肉体的にも良い効果をもたらしてくれる。そういう意味で(自分はもう嫌だけど)、息子にはまたとない経験だし、ずっと続けるよう見守りたいと思っている。

 受験生の娘は、塾のテストだとか言って、出掛けて行った。受験生だから、ではなく、娘はよく勉強をしている。その成果もあって、学校での成績は良いが、だから安心かというとこれがそうでもない。もともと私が学校の勉強にそれほど重きを置いていないこともある。良い会社に入るために良い大学を目指し、そのために良い高校に入るべく勉強ばかりするという昔からの風潮に反発を覚えているからだ。なので、勉強一色に見える娘の生活を危惧しているのである。しかし、ではどうすべきかという点で、妙案がないから困っているのである。難しいところだ。

 そろそろガソリンを入れないといけないとあって、行きつけのガソリンスタンドへ向かう。メール会員になっているのだが、83日まで「ガソリン3円引き」のキャンペーンの案内も来ていたし、でちょうど良かったのである。店頭の表示価格は140円。それが何だかんだの会員割引で132円であった。8円の値引きというと、何だかものすごく得した気分であるのだが、47リッターで376円と考えると、それほどでもない気もする。

 それより、店員さんが目ざとくワイパーのゴムの劣化を見抜き、交換を提案してきた。ここのスタンドは、洗車だとかワイパーだとかオイル交換だとか、いろいろと勧めてくる。ガソリンスタンドも薄利多売の商売。ガソリンだけでは到底経営も厳しいのだろう、こうした“サイドメニュー”で少しでも売り上げアップを図ろうとしているのだろう。ハンバーガーを頼んだお客さんに「ポテトはいかがですか?」と勧めるようなものである(まぁマクドナルドあたりはとっくに「セットメニュー販売」に移行しているから、そのうちガソリンスタンドにもこうした「セットメニュー」が登場するかもしれない・・・)。

 そろそろ換え時だという自覚はあり、イエローハットに買いに行かないといけないと思っていたこともあり、タイミングとしては絶妙であった。こういうところで買うより、イエローハットとかの方が安いだろうと思っているが、わざわざ行くのも面倒だ。「フロント用2本で2,600円です!」というお姉さん。こちらの逡巡を見てか、「明日から台風でまた天気崩れるみたいですよ!」というさらなる一押し。その熱意に、「じゃお願い」と答えていた。そのくらいの値段なら、対して違わないだろうし、わざわざ買いに行く手間を考えれば行きつけのガソリンスタンドに利益を落とすのも悪くないからだ。

 それにしても、おそらくバイトであろうお姉さんが声かけをしなければ確実に買わなかったわけで、その意味でこの声かけは大きいと思う。普段から経営者(あるいは店長さんか)が、意識して教育している成果だろうし、もしかしたらこうした“サイドメニュー”の売り上げがインセンティブとしてバイト代に反映されているのかもしれない。大銀行から中小企業に身を移して感じるのは、「収益を上げることがいかに大変か」ということである。こういう取り組みは、我が社でも何か参考にできないかと、ついつい考えてみたりする・・・

 さて、ガソリンスタンドのお姉さんに言われるまでもなく、今週は天気も崩れるようである。真夏の前の梅雨の最後の一足掻きなのだろう。雨もそのあとに続くであろう真夏の太陽も、サラリーマンにはきついことには変わりない。嘆いても始まらないし、今期は何としても黒字決算にしないといけない。暑さに流れる汗も、冷や汗よりははるかにマシというもの。楽しみながら頑張って働こうと、改めて思う次第である・・・

【今週の読書】
2018年までのマンション戦略バイブル - 沖 有人 マスカレード・イブ (集英社文庫) - 東野 圭吾







2015年7月9日木曜日

20○○年未来への旅

 アメリカに「アルコー・ライフ・エクステンション・ファウンデーション」という団体があるそうである。「Life Extension」(延命)とあるが、これが何と死体の冷凍保存だという。死んだ直後の遺体を防腐などの処置をして、マイナス196度で冷凍保存するらしい。その目的は、未来での「復活」である。

 不老不死は人類の太古からの願いであるが、人類史上最高度に科学が発達した現代でもそれはまだ夢のまた夢。だが、いずれ未来の世界では医療技術が進化し、人類はあらゆる病を克服しているかもしれない。その可能性に賭けて、死体を冷凍保存するのだろう。

 だが、果してうまくいくのだろうか。今の段階では何とも言えない。ただ1900年に報知新聞が報道した「100年後の世界の予言」では、「電話で海外の人と話す」なんて今では当たり前のことが、「夢の技術」として挙げられているから、100年とは言わず200年後くらいには、治療法と蘇生法が確立して復活できるようになるかもしれない。今の感覚で笑い飛ばすのはやめておいた方がいいだろう。

 しかし、その時、復活したご本人はどんな感想を持つのだろう。若返りが可能ならば、未来世界で再び人生を謳歌できるのかもしれないが、年を取ったままなら、そんなに楽しくもなさそうな気がする。ましてやボケていたりしたら目も当てられない。

 気になる費用は米ドルで20万ドルだそうである。そして運営会社は非上場で、かつお金はファンドの形になっているから、途中で株主の利益追求主義から、あるいは予期せぬ会社の倒産リスクから、途中で保存中止となることのないようにしてあるらしい。20万ドル(1ドル120円で2,400万円くらいか)が高いか安いかと問われれば、まぁ持ってる人からみたら大した金額ではないのだろう。

 遺体の保存形式の中には、「頭部だけ」というのもあるらしい。これは費用が8万ドルと安くなっているが、「そこでケチってどうする」という突っ込みは置いておいて、何とか「気持ちだけでも」復活に賭けるのだろう。とりあえず意識だけ復活して、体はどうするのだろうと思ってみたりする。もっともその頃なら、人口胴体が開発されてサイボーグみたいになれるのかもしれない。

 しかしながら、この遺体保存、よくよく考えてみれば古代エジプトのミイラと発想は同じだ。今はダメでも、来るべき未来の復活を信じて遺体を保存しようという発想は、したがって遺体保存がなされたと言われる5,000年前から、人類は「考えることは同じ」ということができる。世界各地で様々な形で発見されているミイラは、博物館に保存・展示されていたりする。もしかしたら、ライフ・エクステンション・ファウンデーションで“保存”されている方も、遠い未来でも復活は叶わず、博物館に“展示”されるということになるやもしれない。

 果して“保存”されている人たちはいくつなのか知らないが、「そこまでして長生き(長生きと言えるかどうかはわからないが)したいだろうか」という気が、個人的にはする。自分だったら、祖父より1年長生きの90歳までは人生を謳歌しようと思っているが(できるかどうかは別だ)、それでお迎えが来たら喜んで迎えられるだろう。そこまでして醜く生に執着したいとは思わない(そんなお金があるかという問題は当然置いておく)。ご本人たちはどんな思いで、"凍って"いるのだろう。

 ただ、1点、自分もその気持ちがわからなくもないというケースがある。それは生への執着というより、「未来への興味」だ。果してその時の未来はどんな世の中になっているのだろうか。100年後、200年後の世界を見ることは、今の人類には誰一人無理なこと。そんな世界を一目見てみたいという好奇心なら理解できる。それなら自分もやってみたいと共感する。

 だからもしも、何らかの成り行きで、私がライフ・エクステンションで“保存”されたとしたら、「そこまでして生きたいのか」とは思わないでほしいと思う。生への執着ではなく、未来への興味。理由はそれである。だからその時は、保存カプセルの名札の下に、「好奇心旺盛な老人、未来への旅の途中」と書いて“Do not Disturb”と下げておいてもらおうと思うのである・・・


【本日の読書】
2018年までのマンション戦略バイブル - 沖 有人 マスカレード・イブ (集英社文庫) - 東野 圭吾





  

2015年7月5日日曜日

ビジネスマンの生活時間

 先日のこと、シチズンが行った「時間に関する意識調査」なるものを目にした。時の記念日(610日)にちなみ、毎年行っているらしい。今年の調査では、「『ビジネスマンの生活時間』35年の推移」と題したものが紹介されていた。
 
たとえばこんな具合である。
 (1日あたり)       2015年   1990年      1980
  睡眠時間       6時間9分  6時間26分   7時間1
  勤務時間       8時間26分  9時間13     8時間36
 (1週間の合計)
  家族との会話    3時間58分   6時間1分  7時間44分 
  外での飲食     2時間6分   7時間52分      7時間42
    子供と過ごす     5時間22分   5時間22      4時間43
TVを見る      6時間38分  11時間50分   13時間2分  
読書をする      1時間55分    7時間42分   8時間42

 こういう統計結果を見ていて、いろいろと原因・現象を想像してみるのは楽しいことである。なるほどと改めて思うことも多いし、よくわからないこともある。たとえば「睡眠時間」は漸減しているが、「勤務時間」は90年に長くなったものの、80年の水準に戻っている。両者に因果関係があるかどうかは、この調査だけではわからない。

 ちなみに、自分は「勤務時間」だと10時間となり、何だか働き者のような気がするが、実はこれは「会社にいる時間」だから、「実働時間」となるともっと短い。ここにある「勤務時間」とは、「実働時間」なのだろうか、中味に違いはあるのだろうかと思ってみたりする。

 「家族との会話」が減ったのは、「勤務時間」や「外での飲食」が減っていることからすると、よくわからない。「ゲームをする」「インターネットをする」という項目が増えていることと関係があるかもしれない。また、もしかしたら独身割合が増えたのかもしれないし、このあたりは他の統計と比較してみないとわからない。

 「外での飲食」が減ったのは、絶対的に経済的な事情だろう。個人的にもそれは顕著で、給料が減り続ける中で、自然と飲みに行く回数も減ってきた経緯がある。そう言えば若い頃は、上司に誘われて説教混じりの酒をよく飲みに行ったものである。それを評価する考え方もあるだろうが、あくまでもケースバイケースだろうし、個人的には得るものは少なかったと思う。そう考えれば、これはいい傾向だと思うが、「家族との会話」につながっていればもっと良かっただろう。

 「TVを見る」時間が半分になっているが、「インターネット・メール」が約6時間新登場しているから、シフトしているのだろう。「読書をする」は、「電子書籍を読む1時間26分」、「朝活(読書)37分」とを合わせてもひどい状況である。個人的には、読書時間は約10時間だから、ちょっと誇れるかもしれない。

 総じて項目別に減っているものが多い。では何が増えているかと言うと、「ゲームをする3時間11分」、「介護3時間42分」、「音楽を聴く2時間6分」などぐらいしかなく、トータル時間も違うから厳密な比較は困難である。もしかしたら、「ぼおっとしている」時間が増えているのかもしれない。

 個人的には、この10年で考えると、やはり「家族との会話」が一番減っている。ただ、それは子供が大きくなって一緒に風呂に入ったり、休みの日にまとわりついてきたりすることがなくなってきたことが大きい(子供だけでなく「妻も」であるところが悲しい・・・)。子供も(妻も)それぞれ好きなことをして過ごしていて、パパとは遊んでくれなくなってしまったのである。「同じ屋根の下にいる」時間は変わっていないだけに、これをどう考えたらいいのかは、難しいところだ。

 あと10年したら、同じ調査でどういう結果が出るのだろうか。個人的にはどうかと考えてみる。「睡眠時間」は現状5時間でもう削る余地はない。「通勤時間」(≒「読書時間」)も「勤務時間」も変わらないだろう。TVはもともと見ていないし、あれこれ考えると、増えたり減ったりする時間はあまりないような気がする。となると、10年後も同じような時間の過ごし方をしているのだろうか。

 それはそれで何だかいいような悪いようなである。「運動をする時間」「通勤途中ではなく、喫茶店で本を読む時間」「映画館で映画を観る時間」「妻と二人で食事に行く時間」が増えていたら問題なしと思うが、最後のものはかなりハードルの高い願望であるような気がする。普段あまり考えてもみなかったが、「自分の時間を何に使うか、使いたいか」をもう少し意識していってもいいかもしれない。

 10年後にどうなっているか、その時これを読み返してがっかりしないようにしたいと思うのである・・・


【今週の読書】
未来予測の超プロが教える本質を見極める勉強法 - 中原 圭介 その女アレックス (文春文庫) - ピエール・ルメートル, 橘明美 ドキュメント パナソニック人事抗争史 (講談社+α文庫) - 岩瀬達哉




2015年7月1日水曜日

あと31年

 厚生労働省から簡易生命表というのが公表されている。これによると、現在51歳の自分の平均余命は31年となっている。つまり、平均すれば82歳まで生きるだろうということである。もちろん、平均だからそれより長くなるかもしれないし、短くなるかもしれないわけである。それはそれとして、あくまでも平均と考えたとしても、31年は短いような長いような感じだ。

 さて、その31年をどう生きるか。昨年、銀行を退職し、中小企業に転職した。一応役員だから定年はない。これが転職のメリットの一つであったが、「会社が潰れなければ」70歳まで働こうと思えば働ける。以前は「早期リタイア」というのがいいように考えていたが、仕事も楽しいし、リタイアもいいけど、楽しく仕事ができるなら、働く方がいいという考えに変わってきている。ならば、80歳まででも働けばいいじゃないかと思わなくもないが、そこは体力がどうなっているかわからない。通勤電車もしんどいかもしれないし、ひとまず70歳としておこうというところだ(住宅ローンも完済予定は70歳の時だし・・・)。

 そうすると、これから何をするべきだろうかと考える。まずはやっぱり健康と体力だろう。以前はあまり気にもしなかったが、この頃ラグビーのシニアチームの練習に行っても、はっきりと体力の衰えを感じるし、これから益々その傾向は強くなるだろう。「健全な精神は健全な肉体に宿る」ではないが、気力を支えるのは体力だ。体力が維持できれば、気力も維持できるし、元気に仕事も遊びもできるだろう。

 先日知り合った人は、銀行から50代後半で転籍し、60歳まで勤務(大体銀行はこういうパターンが多い)。そして定年となり、別の会社に移って5年間財務の仕事をし、65歳で再び定年となったあと、自ら起業したという方であった。「まだ67歳です」と自己紹介していたが、見習いたいものだとつくづく思う。

 こういうキャリアを積むには、普通のサラリーマン的に「やるべき仕事をやっているだけ」という仕事のスタイルでは当然ダメだ。+αのものが必要だろう。楽する事ばかり考えていては、定年が来て「はいご苦労さん」で終わりだろう。先々を見据えて、多少しんどくても手間でも、常に+αの仕事をこなす気概がないといけないと思っている。当面は、会社がつぶれないように土台を作り、欲を言えばもっと大きな会社にすべく尽力したいと考えている。

 ボランティアでやっている財団(小山台教育財団)の方はどうなるだろうか。仕事と家庭以外の『居場所』という意味では大事にしたいところだ。だが、こちらもいつまでもというわけにもいかない。「道を譲る」必要性もそのうち出てくるだろう。もともと地位に固執する性分ではないから、その時がくれば速やかに退くつもりである。そのあとどうするか、は頭の片隅にでも入れておこう。そのうちまた何か見つかるかもしれない。

 もともとそんなに社交的な性格でもないし、これから新たなつき合いを見つけたいとは思わない。今までの友人知人関係を末永く大事にしていくというところだろうか。これまでも人生設計などあまり考えてもこなかったから、「あと31年」と言われても、何か妙案が浮かぶというわけでもない。平凡な一日をより長く、できれば死ぬ直前までボケずにいたいというところだろうか。

 当面は、常に「残り時間」を意識しながらやりたいことをやるようにしていこうと、平凡に思うのである・・・


【本日の読書】
未来予測の超プロが教える本質を見極める勉強法 - 中原 圭介 その女アレックス (文春文庫) - ピエール・ルメートル, 橘明美