2011年5月28日土曜日

日本的なものについて思う

我が町の周辺には畑が多い。
昔からの農家や、市民農園などが散在している。
そうした畑の脇道を歩いていると、時折野菜の無人スタンドを見かける。
代金を箱に入れて置いてある野菜を取っていくシステムのものだ。

こうした野菜スタンドを見ても、別になんとも思わない。
だが、先日読んだ本によれば、アメリカ人でも中国人でもブラジル人でもこうした光景に一様に驚くという。人気のない国道沿いの自動販売機などもそうだが、彼らの国ではこうしたお金や商品の詰まった箱がポツンと置いてあれば、持っていかれるのが当たり前なのだというのである。確かに持っていこうと思えば、それらのものは無防備で何のリスクもない。
それを防いでいるのは、「お天道様が見ている」という我々の倫理観に他ならない。

先日取引先の社長と雑談していて聞いた話だ。
その社長は埼玉県の熊谷駅前に駐車場を持っている。
私も現地を見たのだが、何の変哲もない駐車場で料金は一日500円。
車のナンバーを紙に書いて500円と一緒に備え付けの箱に入れるという実にのどかなシステムだ。タイムズやらパーク24やらの時間貸し駐車場も真っ青なシステムだが、それがそのあたりでは一般的なのだという。

ところが最近料金箱荒らしが横行しているのだとか。
警察の話では外国人窃盗グループの仕業らしい。
まさに日本的牧歌的なシステムは、彼らの手にかかればひとたまりもない。
そうした損失が続けば、いずれこの周辺はタイムズやらパーク24やらの駐車場に変わっていくのかもしれない(それにしたって監視カメラや警報機がないと同じかもしれないが・・・)。

国際交流は大いに進めていくべきだと思うが、多くの外国人たちが入ってくればその影響は当然にある。「朱に交われば赤くなる」ではないが、日本的牧歌的システムは「国際標準」からすればあまりにも白過ぎる。温室の外では生き延びる事はできない草花の如く、簡単に赤く染められてしまう。いつしか「お天道様」も見えなくなるのかもしれない。

そう考えると、少子化対策として移民を唱える意見には強い反発を覚える。
単純に数字合わせだけをしようという浅はかな発想で、それによって失われるものを考えていない。観光客ならあまり影響はないかもしれないが、生活を共にするとなるとどうだろうと思う。

日本の豊さはGDPだけでは測れない。
総額では中国に追い抜かれても、一人当たりではまだまだ10倍近い開きがあるし、牧歌的システムに代表される安心感もプラスすれば、その居心地の良さは比較にならない。
それだけでも嘆かわしいのだが、残された良きものを末永く温存していきたいと思わずにはいられない。そのために必要な事があれば、これからもやるように心掛けていきたいと思うのである・・・

【昨日の読書】
「怒らないこと」アルボムッレ・スマナサーラ
「殺人の門」東野圭吾



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