2011年5月30日月曜日

車中にて

時折仕事で外出する。
千葉方面に取引先が多い事から、往復に総武線の快速電車を利用する事がままある。
総武線の快速は千葉から東京へ向かい、そのまま横須賀線に乗り入れ神奈川県の逗子まで走っている。取引先からの帰りに、千葉駅のホームでこの電車を待っていた。

ちょっと疲れていたので座りたかったし、先頭に並んでいたからまあ座れるだろうと踏んでいた。電車が到着し、扉が開いても駆け込んだりはしない。よく降りる人も降り切らぬうちに、空いた座席に突入して行く人がいるが、そういう行動は私の美学に反する。その時も悠然と車内に乗り込み、「空いているから座ろうか」という態度で座席をゲットした。

やれやれと安堵する間に次の駅。
乗り込んできた人たちを迎え、隣の女性が席を立った。
どうやらお年寄りに席を譲っている。
ちらりと見ると、相手は老夫婦。
咄嗟に隣に座っていた女性の向こう隣を見ると、老婆が般若心境のようなものを読んでいる。私が座っていられたのは一駅だけだった。

空いたらまた座ろうと吊革につかまる。
隣に立っていたのは女子高生。
何やら数学のテキストを開いている。
ちょっと興味が湧いて、横目で覗きこむ。
何せ数学は好きだったし、何より文系のくせに数学のテストがある(しかも配点も高い)大学を受験した経験がそうさせたのだ。

ところが、テキストの内容がちんぷんかんぷん。
聞いた事のない定理が書いてあるし、数式も何が何やらわからない。
あとでちらりと見えたタイトルには「数学C」とあった。
なるほど、昔は数学といった記憶があるが、文系の私はやっていない。
わからないはずだ。

すると座っていたお爺さんが立ちあがって話しかけてきた。
早々に降りるのかと思い、しめしめと思っていたら、「東神奈川に止まりますか」と聞いてきた。(そんな、東京駅より先のことなどわからないよ)と思いつつ、確か止まらないので乗り替えないとだめだと答えた。それだけだと不親切というもの。
「品川の次あたりで乗り換えだと思う」と答え、路線図はあったか、誰か周りの人に尋ねようか、携帯で検索したら出てくるかななどと迷っていた。

すると突然隣の女子高生が、「品川に止まりますよ」とスマートフォンを差し出して話しかけてきた。たぶん我々の会話が聞こえたのだろう。
さっと検索して教えてくれたのだ。
(いや品川に止まるかどうかじゃなくて、どこで乗り換えるかなんだけど・・・)と内心思いながらもその親切心に関心した。

情報リテラシーには不足していないつもりだったが、数学Cのテキストとスマホをもった女子高生には遅れを取ってしまった。
女子高生はそのあとの駅で降りていき、私も同時に空いた席に腰を下ろした。
そう言えば、友人もipadを買ったとブログで自慢していたな。
歩き去る女子高生の背中を見送りながら、そろそろ私も買おうかなとちらりと思ったのである…

【本日の読書】
「この国を出よ」柳井正/大前研一
「殺人の門」東野圭吾


2011年5月28日土曜日

日本的なものについて思う

我が町の周辺には畑が多い。
昔からの農家や、市民農園などが散在している。
そうした畑の脇道を歩いていると、時折野菜の無人スタンドを見かける。
代金を箱に入れて置いてある野菜を取っていくシステムのものだ。

こうした野菜スタンドを見ても、別になんとも思わない。
だが、先日読んだ本によれば、アメリカ人でも中国人でもブラジル人でもこうした光景に一様に驚くという。人気のない国道沿いの自動販売機などもそうだが、彼らの国ではこうしたお金や商品の詰まった箱がポツンと置いてあれば、持っていかれるのが当たり前なのだというのである。確かに持っていこうと思えば、それらのものは無防備で何のリスクもない。
それを防いでいるのは、「お天道様が見ている」という我々の倫理観に他ならない。

先日取引先の社長と雑談していて聞いた話だ。
その社長は埼玉県の熊谷駅前に駐車場を持っている。
私も現地を見たのだが、何の変哲もない駐車場で料金は一日500円。
車のナンバーを紙に書いて500円と一緒に備え付けの箱に入れるという実にのどかなシステムだ。タイムズやらパーク24やらの時間貸し駐車場も真っ青なシステムだが、それがそのあたりでは一般的なのだという。

ところが最近料金箱荒らしが横行しているのだとか。
警察の話では外国人窃盗グループの仕業らしい。
まさに日本的牧歌的なシステムは、彼らの手にかかればひとたまりもない。
そうした損失が続けば、いずれこの周辺はタイムズやらパーク24やらの駐車場に変わっていくのかもしれない(それにしたって監視カメラや警報機がないと同じかもしれないが・・・)。

国際交流は大いに進めていくべきだと思うが、多くの外国人たちが入ってくればその影響は当然にある。「朱に交われば赤くなる」ではないが、日本的牧歌的システムは「国際標準」からすればあまりにも白過ぎる。温室の外では生き延びる事はできない草花の如く、簡単に赤く染められてしまう。いつしか「お天道様」も見えなくなるのかもしれない。

そう考えると、少子化対策として移民を唱える意見には強い反発を覚える。
単純に数字合わせだけをしようという浅はかな発想で、それによって失われるものを考えていない。観光客ならあまり影響はないかもしれないが、生活を共にするとなるとどうだろうと思う。

日本の豊さはGDPだけでは測れない。
総額では中国に追い抜かれても、一人当たりではまだまだ10倍近い開きがあるし、牧歌的システムに代表される安心感もプラスすれば、その居心地の良さは比較にならない。
それだけでも嘆かわしいのだが、残された良きものを末永く温存していきたいと思わずにはいられない。そのために必要な事があれば、これからもやるように心掛けていきたいと思うのである・・・

【昨日の読書】
「怒らないこと」アルボムッレ・スマナサーラ
「殺人の門」東野圭吾



2011年5月25日水曜日

町内会

先週末に町内会の会合があり、初めてそこに参加してきた。
我が家の属する町内会は、24の班に分かれており、それぞれの班が持ち回りで班長を選び、各々の班長と役員が定期的に会合を持っているのである。
我が家は今年その班長の当番が回ってきて、そして班長として初めて出席したというわけである。

集まったのは町会長所有の会議室。
我が町では○○家と△△家という二つの地主がいる。
あちこちでそれぞれの名前を見かけるし、大きな家も多い。
詳しくは知らないが、たぶん昔の地主から分家しているのだと思う。
町会長は○○さんだし、理事の一人も○○さんだった。

会合は「定時総会」と名打たれ、予算や活動報告の承認といったありきたりな内容であった。
町会長や役員はどうやって決めているのだろうとふと疑問に思う。
たぶん、地元名士である○○家の大黒柱が「推薦多数」で決められているのだろう。
まあ町会長や役員などにはなりたいとも思わないからいいのであるが・・・

今の家に越してきて7年。
それなりにご近所とは親しくしているが、町内会の活動は今一盛り上がっていない。
子供の頃は町内会で運動会や遠足、写生大会、お祭りなどいろいろ賑やかだった記憶がある。
実家では今も母親が手伝いに駆り出されている。

しかし、我が家の周辺は比較的新しい住宅街であるせいだろうか(何せ練馬区は東京で最後にできた区である)、そうした町内会の活動が乏しい。
お祭りの神輿だって笑ってしまうような子供神輿しかない。
新しい住人と、賃貸住宅に住む浮動住民が多いゆえだろうか、などと思ってもみる。
個人的には表面的ではなく、もっと濃い関係を築きたいと考えているので、ちょっともどかしい気がする。

その昔、先輩Hが岩手県に単身乗り込んでいって農業を始めた時、私もGWを利用して訪ねていったことがある。借家に住み、晴耕雨読の生活を送っていた先輩Hと夕食を食べていたら、近所の人が窓からいきなり覗きこんで来て、おすそ分けを置いて行ってくれた。
田舎ながらの「濃い人間関係」であるが、そんな近所付き合いを今では羨ましく思う。

都内でやはり地元密着で生活している友人から「地元の消防団に入れば」と勧められたが、いまだに踏み切れていない。
自分の時間がただでさえ少ないし、子供と遊ぶ時間や奥様の機嫌をとる時間も必要だし、ご近所で居場所を作ったら家の中には無くなっていた、なんてシャレにもならないから控えているのだ。でももう少ししたら、やってみたいと本気で考えている。

毎朝、娘の通う小学校の校長先生とは、通勤途上ですれ違いざまに挨拶を交わしている。
駅前の交番のお周りさんや行きつけの病院の先生やら、昔は八百屋や魚屋のおじさん、今ではコンビニの店長さんなんだろうか、そんな「向こう三軒両隣」の世界が築けたらいいなとしばし思う。そんな契機になるかどうかはわからないが、これから月一回の会合には7軒を代表する班長として真面目に出席したいと思うのである・・・


【本日の読書】
「怒らないこと」アルボムッレ・スマナサーラ
「殺人の門」東野圭吾
     


2011年5月21日土曜日

金曜日雑感

完全週休二日制のサラリーマンにとって、金曜日とは誠に心地良い。
次の日は確実に休みという身分は本当にありがたい。
そんな心地良さに流されていてはいけないのであるが、我が職場は毎週金曜日はカジュアルデー。そんな制度も金曜日の心地良さに拍車をかけている。

例年だと6月1日からクールビズが始るのであるが、今年は予定が繰り上げられ来週から。
通常のカジュアルデーと組み合わせて、実質的には昨日からスタートとなった。
まだそんなに暑くはないが、やはりネクタイがないのはありがたい。
本番になればネクタイがなくても大変だが、今年はさらに節電で大変かもしれない。

今一番悩ましいのは職場の冷蔵庫の使用停止だ。
例年だとペットボトルのアイスコーヒーを持ち込み、製氷機から取り出した氷を入れて食後のコーヒーを楽しんでいた。缶コーヒーの味が好きになれない私としては、今年はそれが出来ないのが今から悩ましい。何かうまい方法はないものか、模索している。

夜は久々に友人と飲みに行く。
店を予約しようと夕方電話をしたが、どこもかしこも予約が一杯。
飲食店は景気が悪いというのは、銀座だと当てはまらないのかもしれない。
ぐるなびのサイトを片っ端から当たり、ようやく銀座から外れた新橋で場所を確保した。

しかし今は便利になった。ぐるなびのサイトの事だ。
無数の飲食店が掲載されていて、選ぶのに事欠かない。
昔はどうしていたのだろうと考えてみるも、いつも「行き当たりばったり」の私としてはどうしたもこうしたもなく、行き当たりばったりだったのだから関係ない。
手痛い大失敗もしたくせに、今も懲りていない。
しかし、昨日のような場合は、やっぱり検索サイトはありがたい。

こうした検索サイトにしてみれば、登録店舗が多ければ多いほど、訪れる人も多くなるから、タダでも掲載したいだろう。一方検索の結果、選ばれるのは上位に掲載された店舗だ。
そうすると店舗側としては、どうせなら上位表示を希望する。
その方が利用者が増えるのは想像に難くない。
そうなると高い掲載料を払っても上位に載せてくれとなる。
検索する人、される店、検索の場を提供するサイト、それぞれのニーズがうまくブレンドされた良いビジネスモデルだと思う。

ほろ酔い気分で0時過ぎの西武線に乗る。
これがラッシュ並みの満員電車。
みんなそれぞれ一週間の仕事の疲れを癒してきたのだろう。
避難生活を送る人たちが大勢いる中で、こうした生活をしているのは申し訳ない気がするが、こうした消費活動が日本経済の活力を維持しているのだからまあ良いのかもしれない。

生きるか死ぬかと考えず、毎日帰る家がきちんとあるのはありがたい。
人生は平凡な毎日の積み重ね。
できるだけ平凡で平和な毎日をたくさん過ごしたいものである・・・

【昨日の読書】
「もっといい会社 もっといい人生」チャールズ・ハンディ
「野球の神様がくれたもの」桑田真澄


2011年5月17日火曜日

ハリー・ポッター

長男が今ハマっているのは「ウルトラセブン」だとご紹介したが、長女の場合は「ハリー・ポッター」である。学校でも流行っているらしく、ある日突然「読みたい」と言ってきた。
我が家にもその昔買った第1巻「ハリー・ポッターと賢者の石」があったので、さっそく読ませた次第である。

以来、読み続けて今は第5巻「ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団」を読んでいる。
第1巻を買ったのは、当時ベストセラーになっていたからで、ならばと買って夫婦で読んだのである。しかし、やっぱりなんとなく「お子様向け」の内容に、その時は1巻だけで終わってしまった。映画の方は、さすがに映画好きとして観ているが、本は読んでいない。

長女に言わせるとやはり面白いそうである。
子供にはたくさん本を読ませたいと思っているし、今はそれが「ハリー・ポッター」であろうと構わないと思っているから、夢中になって読んでいるのは好ましい事だと思っている。

こうした物語からはいろいろな影響を受けると思う。

本を読んで場面場面を想像する。
学園モノとしてはセオリー通り仲の良い友達がいて、意地悪な同級生(ボスとその取り巻き)がいる。優しい先生と厳しい先生が出てくる。
ハリーの行動を追う事で、自分だったらどうする、とか喜怒哀楽の感情を共にする。
そうしたものが、長女の人格形成の一部になるかもしれない。

そう言えば、私も長女くらいの年に「アルセーヌ・ルパン」シリーズを夢中になって読んだ記憶がある。図書館で片っ端から借りて読んだものである。
アルセーヌ・ルパンは泥棒ではあるものの、貧しき者からは盗まぬ義賊であり、頭が良くてフランス人なのになぜか柔道が得意で、約束は守り信義に厚い。
ルパンの活躍にワクワクしながらも、自分もそんな男になりたいというイメージが、いつしか自分の中に組み込まれていった。

長女は読み終わるごとに、映画で「復習」している。
活字では想像するしかなかった世界が、今ではCGでリアルに目の前に描き出される。
そんな世界が本とは別の楽しみになっているようである。
もっとも映画は時間の制約もあって、本の世界を完全には描けない。
どうしても「ダイジェスト版」にならざるをえないが、そこがちょっと残念なようである。

いずれ読む本の種類も重なってくるだろう。
映画も大人の映画を観るようになるだろう。
同じ趣味を持ってくれれば、将来ずっと一緒に読んだり観たりとできるかもしれない。
自分の世界も広がっていくと思うし、この習慣が根付いてくれればいいなと思う親心なのである・・・

【本日の読書】
「もっといい会社 もっといい人生」チャールズ・ハンディ
「逆説の日本史17」井沢元彦

2011年5月14日土曜日

人生の幕引き

芸能人の自殺のニュースを目にした。
ほとんど知らないタレントだったが、まだ24歳と若く、いくら辛い事があってもこれからいくらでも変わっていくだろうにと、何とも言えない気がする。
我が国では、毎年3万人以上の人が自ら命を断つ。
中には小学生もいるから驚きだ。

私自身これまで自殺しようなどとは考えた事もなく、たぶん間違ってもしないとずっと思っていた。人生の目的は生きる事で、それも「より良く生きる」事であって、途中で諦めるべき事ではないと。しかし、最近ちょっと考え方が変わってきている。
場合によっては、それも「より良く生きる」ための選択肢ではないかと・・・

私の最も敬愛していた父方の祖父は1994年に亡くなった。
癌の告知を受け、もう治らないと医師から言われ、農薬を飲んだのだ。
10日ほど地元の病院に入院したあと、そこで息を引き取った。
死ぬ1週間ほど前に病院に見舞いに行った時、何も語らず私に形見となる品をくれたのだった。

親戚内では告知をした医師に対する批判が出ていた。
その時は、なぜ祖父が農薬を飲むなどという事をしたのかわからなかった。
いつも陽気だった祖父だが、いよいよ治らないとなって、そこで人生を投げ出したくなったのだろうか、と。

だが、最近思うのだ。
祖父は投げ出したのではなく、自分の手で静かにピリオドを打っただけなのだ、と。
子供たちはみんな立派に成長して家族を持ち、孫たちも次々に社会人になっている。
孫の私とも酒を飲めるようになっていたし、痴呆だった祖母も見送り、やる事もやって満足してもう潮時だと思ったのだろう。祖父の死に暗いものが感じられなかったのも、たぶんそんな満足感に薄々気がついていたからではないかと思う。

私も年をとって同じような状況になったら、お迎えが来るのを待つよりも、自分から行くのも悪くはないと思う。子供たちに必要以上に手間をかけさせるのもどうかと思うし、毎日同じ天井をいつとも知れずに眺めていたいとも思わない。
ただひたすら「死ぬまで生きる」事が良い生き方だとも思えない。
自分で満足できたなら、祖父のように自分で幕を下ろすのも悪くはないと思える。
何より身の回りの整理もできるし、葬式に誰を呼べとか、葬儀屋の手配もしておける。
日取りも、年末年始や誰かの何かの記念日は避けようとかもできる。
そんなに暗いアイディアでもなさそうである。

しかし、ふと考えると「どうやって」というところが問題だ。
飛び降りたり、飛び込んだりは後片付けが大変だし、首を吊るのも発見者にいい印象を与えない。しずかに布団の中にいる方が面倒をかけなくて済むが、それだと薬物しかないが手に入るだろうかという懸念が残る。せいぜい睡眠薬くらいだろうか。
確実に楽に行ける薬がうまく手に入ればいいのだが・・・

だがそれも意識がはっきりしていないとダメだ。
痴呆になったらそれどころではないし、脳死なんてケースはどうにもならない。

海外では自ら安楽死を選べる国があるらしいが、日本もそうなるにはまだまだ時間がかかりそうである。そういう時に、自ら楽に人生の幕を下ろせる方法があればいいのだがと案じてみたりする。

まあそんな心配はまだまだ先の事だ。
悩み多い毎日だとは言っても、ゴールまではまだまだ遠いし、いくらでも逆転の可能性はある。楽しい事だってあるだろうし、映画だって本だってこれからも面白いものがどんどん生み出されてくるだろう。

しばらくの間は、「最後のこと」などに思い煩うことなく、人生を堪能していきたいと思うのである・・・

【昨日の読書】
「もっといい会社 もっといい人生」チャールズ・ハンディ
「逆説の日本史17」井沢元彦

    

2011年5月10日火曜日

新聞というもの

 物心ついてから、新聞というものを読み始める時、普通まず読むのはその家で取っている新聞だ。私の場合、それは読売新聞で、実家に行くと今でも読売新聞を購読している。就職して以降は日経新聞になったが、結婚してからはそれに産経新聞が加わった。妻がやはり実家で取っていた産経新聞をそのまま購読する事にしたのだ。このままいくと、我が家の子供たちも最初に目にするのは産経新聞と言う事になる。

 新聞は、公平・中立にニュースを報じるものとしばらくの間何となく思っていたが、そうではないと気付いたのはだいぶたってからだ。だが普通は、新聞ごとに主張が違うなんて意識しないから、ついつい新聞の記事が世の中の真実だと思ってしまう。怖い事にそれで意図的に世論形成に使われてしまう危険性があるのだ。

 週末に政府が浜岡原発に停止要請を出した。それを報じる産経新聞には下記のような見出しが躍った。
「浜岡原発 全面停止へ」
「見えぬ根拠 熟慮の判断か」
「菅降ろしの機先制す 首相唐突また保身?」
「首都圏・関西でドミノ式需給逼迫 全国的な電力不安も」
「百出する難問 拙速要請鮮明」
「30年超の老朽原発も『浜岡だけ』に疑問」
「『逆風に先手』見え隠れ」
ざっとこんなところだが、これを読めば産経新聞は、浜岡原発に対する停止要請に反対である事がわかる。

 それどころか中立を装いつつ、巧妙に反対意見に導いている。反対なら反対で構わないのだが、はっきりそう言わず、そう思ってしまうように疑問形を取りつつ導いているところがいかがなものかと思う。菅総理の肩を持つわけではないが、今回の決定は極めてまともだ。福島の災害がいまだ収まらず、損害賠償も国が東電の尻拭いをしなければならない見通しだ。そんな状況下、30年以内にM8規模の地震が起きる確率が87%あり、なおかつこれまでの「想定」を見直す必要がある。そういう状況下で、「安全対策が取られるまで」停止するのは極めて当たり前の措置だ。

 例えて言うなら、航空機が事故を起こし、同型機で同じ事故が起こる可能性が87%あった場合、ただちに同型機の運行を停止し、安全対策を取るだろう。「すでに予約客がたくさんいるから運行停止すると多大な迷惑をかける」などと言って使用を継続するだろうか。唐突と言ったって、では「唐突でない」発表ってどんなものだと疑問に思う。「拙速」とは言っても場合によっては、「構え、撃て、狙え」という事が必要な事もある。


 新聞が大企業寄りになるのは、スポンサーに気を使っているからだろう。そうしたバイアスは理解していないといけない。中部電力が渋るのも、代替電力を火力で補おうとすると、コストが上昇して今期の利益が吹っ飛ぶからだ(ちゃんと新聞に書いてある)。公平・中立なニュースを掲載してほしいと思うが、はっきり言って期待はできない。

 今は「あさひ小学生新聞」を熱心に読む小学校5年の我が娘。間違っても朝日新聞を読ませるつもりはないが、いずれ普通の新聞を読むようになったら、盲信しないように教えないといけないと考えている。本当は全紙購読して比べれば面白いと思うのだが、さすがにそんなゆとりはない。
せいぜい新聞の読み方をどう教えるか考え、「その時」に話を聞いてくれるように、娘とはコミュニケーションをしっかりとっておきたいと思うのである・・・


【本日の読書】
「利益第二主義」牧尾英二
「逆説の日本史17」井沢元彦



2011年5月7日土曜日

ひどいニュース

 何ともひどいニュースを目にしてしまった。
焼肉屋でユッケを食べた6歳の男の子2人+大人2名が食中毒で亡くなったというニュースだ。同じ6歳の男の子の父親としては、見逃せないニュースだ。店で出されたユッケを食べたのが原因だと言うが、何を信じたらいいのかわからなくなる。特に一人の男の子は、お父さんの頼んだものを一口食べたのが良くなかったという。オーダーさせたのなら、多少なりとも親の監督責任もあろうかと思うが、「一口」くらいなら親として平気だと思うのは普通の感覚だ。親もたまったものではない。

 マスコミも相変わらずお得意の池に落ちた犬を叩くような報道ばかりだが、見れば見るほど肝心な事は伝わってこない。報道振りからすると、何やら焼肉用の肉をユッケとして生で出したと言う事らしいが、報道を見ていくと、どうやら生食用などというものはそもそも国内では流通していないらしい。そうすると巷に出回っているユッケは、どうなっているのだと新たな疑問も湧いてくる。

 牛角とか安楽亭は一斉にユッケの販売停止に踏み切った。まあ企業スタンスとしては当然だと思うが、それは全体の35%で、残りは引き続き提供しているようである。ならばそこのユッケはみんな焼肉用を転用しているという事になる。それなら問題は「焼肉えびす」だけの問題ではない。

 えびすの社長の記者会見やインタヴューを見たが、きちんと逃げずに応じているし、自らの非も認めている。その点では私も潔いなと感心した。東電の社長だったら入院しているところだ。被害者にも誠意をもって賠償したいと語っているし(まあ現実的にはこの会社は潰れるだろうから、限度はあるだろう)、悲痛な表情や詫びる姿勢は東電の社長には見られないし、両者を比較すればはるかに立派だ(まあ同じ経営者といっても東電のような大企業のスーパートップエリートと一緒にするなと言われるかもしれない・・・)。

 その「えびす」社長は、焼肉用を悪意的に生食提供したかのような質問には色をなして反論している。事実、その点に関しては他の焼肉店も同じなのだからその言い分は最もだ。マスコミはそれを「逆ギレ会見」と悪意的に報道しているが、向きになって否定する「態度」を問題視するのではなく、「内容」で判断すべきだ。その内容は極めてまともな反論だ。「逆ギレ」と偏向報道する前に、責めるべきところは責める、世の中の問題点は問題点として報じるべきだろう。「悪人の言う事はすべて悪である」という前提での報道には呆れるばかりだ。

 それに食中毒を起こす3日前の4月18日には日本テレビの「人生が変わる1分間の深イイ話」で取り上げられ全員一致の深イイ話として紹介されていた。これを見たら「行ってみよう」と思うだろう。おいしい食べ物にはすぐに食いつく我が家だったら、まず行くはずだ。このテレビを見て行った人がいるかもしれないし、それに責任があるとは思わないが、間接的に仕向けたと言われても仕方がない。

 肉を卸した業者もひどい。「生食用の肉は卸していない」とコメントしているらしいが、責任回避も甚だしい。せめて「当社の卸した肉でこのような事になり、誠に残念です」と言った上で、「当社は生で食べても安全な肉を卸している、他では何の問題も起きていない、当社としてもどうしてこのような事になったのか真相解明願いたい」くらい言えば、責任はないと間接的にもわかるというもの。「売った相手がどう使うか興味はないし、知ったこっちゃないから責任もない」と言っているように聞こえるし、それはつまりは「あなたの売る肉はきちんと焼かないと危なくて食べられないわけですね」と言うことなのかと思ってしまう。

 しかしながら、同じようにやっていても、他の業者は問題を起こしていないし、富山・福井・神奈川と離れた地域で、「えびす」のチェーン店が問題を起こしているわけだから、原因は絶対この会社の管理方法にあったわけである(社長も認めている)。それは責めるべきで、もうこのチェーンの存続は許されるべきではないだろう。
それにしてもここのユッケは、単価が280円だったらしい。量はわからないから同列に比較する事はできないが、一人前として「牛角」は590円、我が家ご用達の「牛蔵」は580円、「叙々苑」に至っては1,500円だ。際立つ安さの裏にはやっぱり、コスト削減の中での「管理コスト」削減があったのだろう。

 これからもユッケは食べても安全なのか、それとも「君子危うきに近寄らず」なのか。わからない消費者は取りあえず回避するしかない。それは一種の風評被害と言われるものの正体だが、それもしかたないだろう。マスコミもその視点からまともな報道をしてほしいものである・・・
    


      

2011年5月6日金曜日

我が家のGW

 GWまっただ中、高速道路の渋滞もGWらしくなってきた事もあり、我が家はいろいろと立てていた計画を変更。近場で過ごす事にして、家族会議の結果(私は議長ではあるものの議決権はない)、一昨日は昭和記念公園に行って来た。ここはプールもあるし、なかなか我が家では重宝しているのであるが、今回は「パターゴルフができる」という点が、娘の評価を勝ち取ったのである。

 連休中なのにというのか、連休中だからなのか園内は混み合っている。予定していたサイクリングは、早々に「品切れ」状態でできず。まずは芝生で野球をして、そのあと子供たちは遊具へと向かう。野球と言っても下からトスしたボールをプラスチックのバットで打つという単純なものであるが、昨年までは息子のバットに“ボールを当てる”のに苦労したものだが、今年はそんな苦労をする事無く、息子は何度も打ち返してきた。そんな成長の跡を、こうした機会に確認するのもいいものである。

 イベントとして、ミニコンサートをやっていた。けたたましいロックなどではなく、耳触りのよいクラッシックやポップスなどで、BGMとして心地良い。吹き寄せる風はどこまでもさわやかで、木々の緑もバックの青空に映えて、眺めていると衰えた視力が回復しそうな気がする。知らず知らずのうちにうたた寝をする幸せ感・・・

 パターゴルフは本当に簡単なもの。子供でも無理なくできるところがいい。パターゴルフと言えば、大学時代に菅平の合宿に行った時、帰りにみんなでやった事を思い出す。9ホールだけ楽しんだが、スコアもきちんとつけてそれなりに雰囲気も味わえた。

 閉園時間が来て帰路につく。帰り道にある「ステーキガスト」で夕食。スカイラーク系のファミレスであるが、「ステーキ」という看板名に以前から一度行ってみようと話していたところである。こういう情報を引き出しから取り出してくるのも、家族の中での存在感を維持するには欠かせない私の役割である。何せ食べ物の事はしっかりと押さえておかないと、我が家ではご機嫌取りはできないのである。

 ステーキ自体は見た目もボリュームあって、それらしい。味はやっぱり“ガスト”なのであるが、値段とのバランスが取れているので不満はない。それよりもサラダバーにカレーがついているのが、なかなかのヒットだ。デザートもしっかり食べて満腹。どうもこの連休中にせっかく減ったウエイトが戻りそうな勢いである。

 時間の余裕があれば、さらに“お風呂の王様”で一風呂浴びるという選択肢もあったのだが、それはまた次回だ。せっかくの連休なのにという気もするが、高速道路の渋滞を考えればそれで疲労とストレスを溜めるのもよくない。

 これはこれで有意義な休日であったと満足しているのである・・・

【本日の読書】
「カッコウの卵は誰のもの」東野圭吾
  

2011年5月2日月曜日

風評被害について思う

出身高校の財団法人では短期交換留学制度を設けている。
今年の夏休みには、ドイツから交換留学生を受け入れる予定である。
ところが、今回は予定が流動的だ。というのもドイツの留学生たちの一部の親が、日本行きを不安視して子供たちの出発を迷っているらしいのである。

原発問題ゆえであるが、福島に来るわけではないし、と東京に住む身では思うが、遠いドイツの国からすると(東京福島間の)200キロの差なんてないに等しいのかもしれない。
逆の立場に立って考えると、彼らの不安も良くわかる。もしも原発事故がドイツであって、自分の子供がドイツに行くとなったら、やっぱり不安に思うだろう。何かあっても遠く離れていて自分は何もできないとなれば、やっぱりGOサインを出すのは迷うだろう。
震災後の1カ月間で、53万人の外国人が出国したらしいが、それも無理もない話だ。

今回の原発事故で風評被害が広がってるという。
せっかく苦労して作った農作物が出荷できないとか根拠もなく売れないとかなると、農家の人たちも誠にお気の毒としか言いようがない。
被害は国内のみに限らず、海外にまで及んでいるようである。
しかしながら、「必要以上に警戒しすぎる」とその矛先を消費者に向ける論調には、いかがなものかと思わざるをえない。消費者側からすれば当然の自衛行動だからだ。

そもそも供給側にはこれまで様々な問題があった。
産地偽装や消費期限の改ざんなどの問題はまだまだ記憶に新しい。
そんな悪質な例外でなくても、農薬問題だって農家は自分たちの食べる分と出荷する分と(農薬量を)分けて作っているという話だって聞いた事がある。
今回の原発事故で、出荷停止を無視して農作物を出荷していた農家の事がニュースで報じられていた。そんなのはたぶんほんの一部の話だ。
だが、問題はそのほんの一部がどれなのか、消費者にはわからないという事だ。

わかったとしてもそれで安心できるか、という問題もある。
つい昨日は、焼き肉チェーン店で出されたユッケを食べた子供が、食中毒で死亡したとニュースでやっていた。こんなのは防ぎようがない。
せいぜい安売りの焼き肉チェーンには近寄らないという事しかない。
我が家では子供たちには念のためペットボトルの水を飲ませているが、宇都宮餃子ツアーでは、各店舗で出された水は、そのまま飲ませるしかなかった。

そういう消費者の立場からすると、「君子危うきに近寄らず」は賢明な措置だ。
あれは良い、これはダメというのも限界がある。
ちょっとでも不安に思うものは全部避けるというのが賢明な策だ。
スーパーで同じ野菜が並んでいたら、福島から遠いところのものを選ぶのは当然だ。
それを非難されても、改めないといけないとは思わない。

そもそもこうした自衛手段は、極めてまっとうな方法だ。
例えば私も初めて知ったが、献血では渡英歴があると献血ができないのである。
過去に起こったBSE問題に対する措置らしいが、目立たないところでこんな事をやっているのである(英国人が知ったら風評被害だと言うだろうか)。
もちろん、個々に良い悪いはあるだろうが、そんな事をチェックするのは大変なのだろう。
だから「まとめて全部ダメ」としているのだ。日本赤十字社でも堂々とやっている方法だ。
個人がやって悪い事ではない。

風評被害とは消費者の無知に起因するものではなく、あくまでも供給側の問題だ。
本当に被害を受けている人たちにとっては誠に気の毒であるが、その責任は消費者にはない。
「信用とは、信じても用心する事」とは私の好きな言葉だ。
今の世の中、残念ながら手放しで信じられるほどの安心社会ではない。
自衛策として絶対必要だと思うのである・・・


【本日の読書】
「ルポ貧困大国アメリカⅡ」堤未果
「カッコウの卵は誰のもの」東野圭吾