2010年11月9日火曜日

はだかの王様

ふとした事から、小学校4年の長女が「はだかの王様」を読んだことがないという事がわかった。
有名なアンデルセン童話だし、当然知っているものとばかり思っていたが、それは大変とばかりにさっそく図書館で借りてきた。もっともさすがに小学生向けはなく、幼児向けの絵本だ。

長女が小さい頃から、週末は寝る前に絵本や紙芝居を読んで聞かせていた。
そのためにいつもそれらの絵本や紙芝居を近所の図書館で借りてくるのだ。
それが今は長男が対象となり、長女はさすがに自分で読んでいる。
今回は読み聞かせにあたって、長男の隣に長女も座らせた。

内容はいまさら説明するまでもない。
ファッションにうるさい王様のところに詐欺師が取り入り、うそつきやばかものには見えない服を作ると申し入れる。

出来上がった服は、誰一人として見える者がいない。にもかかわらず、みんなが「見えない」と言い出せなくて、王様は裸のまま街中へパレードに出る。
街の人たちも本当は誰一人服など見えないのだが、言いだせなくて口々に王様の服を讃える。そしてとうとうある子供が「王様ははだかだ!」と叫び、みんなも王様は裸だという真実に気がつくというものだ。

読み終えて、いつものように長男に感想を尋ねたところ、自分だったら「はだかだって言うよ」と答える。まあ、大概の子供たちはそう答えるし、大人だってそうだろう。
「裸だ」と素直に言えなかった人々を笑うのだ。
だが、いざとなったら本当に言えるだろうか。

読んでいてあらためて思ったのだが、これは実に深いストーリーだ。
誰もが服など見えないのに、見えないと素直に言えば自分がうそつきかばかものだと思われる。
それを避けるために、見えるとうそをつく。正直者とされていたはずの大臣を始め、側近のものも街の人も、そして王様自身もそう振る舞うのである。

しかし、実はそれこそがうそである。
見えないのに見えるとうそをつく。
つまりうそつきである。
だから見えない。
なんだか混乱するが、詐欺師の言う事は、実は詐欺とも言い切れない。

王様も大臣も家臣も街の人たちも、みんながみんな「見えない」と言い出せない。
周りの雰囲気に、素直な自分の意見を言い出せない。
それを破れたのは、まだ見栄や外聞などを気にしない素直な子供だった。
それを言ったらどうなるか、など考えないからこそ素直に言えた。
我々は果たして大人たちを笑えるだろうか。

考えてみれば、日々の生活でこうした事は多い気がする。
私も会社では敢えて意見を言わない事もある。
下手に波風立てるとややこしいと思う時がしばしばある。
自分の関与度が少なければ尚更だ。
物語の中の群衆の一人だったら、敢えて「王様は裸だ」とは言わないだろう。

でも、テレビの取材で綺麗な女子アナがマイクを差し出してきて、「王様の服は見えますか?」と訊ねてきたとしたらどうだろう。
その時は、「いいえ、僕はうそつきなので見えません」と言うかもしれない。
半分正直、半分へそ曲がり根性だ。
家臣の立場だったらどうだろう。
まずはコメントしなくて済むように、王様のそばに寄らないように努力すると思う。

さて、「裸だ!」と指摘を受けた王様は、逃げるわけにもいかずそのままパレードを続けたという。
物語はそこで終わるのだが、続きを想像してみた。
王様たち一行はお城に着くと、何事もなかったかのように振る舞う。
王様はいつものようにお召し代えをし、側近たちは恭しく見えない服を衣装ケースにしまう。
ここは最後まで見えている振りをしないといけない。
群衆は勝手な事を言っていたが、王様はいまさら見える振りをしていたとは言えないし、家臣たちも同様だ。正直者の大臣はあくまでも正直者でなければならない。

かくして、誰も服についてふれることなく、何事もなかったかの如く日常生活が再開される。
詐欺師たちはお咎めを受ける事もなく堂々と国境を越え、二度と開けられる事のない衣装ケースは、倉庫の奥深くにしまわれたのである・・・


【本日の読書】
「ハッピーリタイアメント」浅田次郎
「スギハラ・ダラー」手嶋龍一
 
     

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