2012年1月31日火曜日

クラッシック

音楽の趣味はと聞かれると、私はけっこう“雑食”系かもしれない。
ビートルズから浜崎あゆみまで、バッハから忌野清志郎や石川さゆりまでカバーしている。
どの分野が一番好きかと尋ねられても、難しいところだ。
その時の気分次第という答えになるだろう。
Queenな気分の時もあれば、ドボルザークな気分の時もあるのである。難点を言えば、「最近の曲にはついていけていない」というところか。

クラッシックはわりと好きな分野だ。
と言っても “広く浅く”だから本当に好きな人からみたら、笑われてしまうくらい入門編的な好みだ。好きな曲はといえば、一般的にメジャー な曲ばかりだ。高校生の頃はスメタナの「モルダウ」とかがだったし、「コブラ」に影響された時はひたすらショパンを聞いた。「ノクターン」なんかは簡単でわかりやすくていい。

ドボルザークは「交響曲第9番」がいいし、エルガーの「威風堂々」も好きだ(結婚式の入場の際に流してもらった)。バッハは宗教的な匂いに満ち溢れたオルガン系が好きだ。「トッカータとフーガ ニ短調」のパイプオルガンには特に心震えてしまう。またシンプルな「G線上のアリア」なんかも好きだし、バッハはわりと好きな曲が多いかもしれない。

そんなクラッシックには難点があって、それは「じっくり聞かないと聞いた気がしないし、じっくりと聞いているヒマなどない」という事だ。以前は、サントリーホールなんかへも足を運んでいたが、最近はすっかり足が遠のいてしまっている。心の余裕度のバロメーターだとしたら、今はまるでダメな時期だと言える。

しかし考えてみたら、クラッシックというのは凄い気がする。
300年以上も前に作曲されたのが、今に至ってもまだ世界中で演奏されているのだ。
きちんとホールで演奏されているばかりではない。映画の中に挿入されていたり、CMで使われていたり、着メロになっていたりして、実はけっこう身の回りに溢れている。

パッヘルベルの「カノン」という曲がある。
バッハやベートーベンやショパンやシューベルトや、思いつくままクラッシックの作曲家を挙げよと言われて、パッヘルベルの名前を挙げられるのは、けっこう詳しい人だろう。
一般的には知らない人の方が多い気がする。

しかし、パッヘルベルや「カノン」は知らなくても、曲は誰もが知っている。
わずか5分ほどの曲だが、(少なくとも日本では)知らない人はいないだろう。
音楽だけが、時代を越えてずっと残るというのも凄い事だ。
現代のポップスなど、どのくらい“長生き”するのだろう。

ビートルズの曲などは、今ではみんながカバーしている。
ちょっと気をつけていると、至るところでオリジナル曲はもちろん、カバー曲も流されている。娘の小学校の運動会で、準備体操のBGMが「オブラディオブラダ」だったのには驚いてしまったが、はたしていろいろな人たちにカバーされて受け継がれて、いったいどのくらい生き永らえるのだろう。興味深いが、答えを知る事ができないのが残念だ。

現代音楽ももちろん好きだし(その大半が「懐メロ」になりつつあるのだが)、これからも聞き続けるだろうけど、クラッシックも同じように楽しみたいと思う。
食後の一時にコーヒーを飲みながら静かにクラッシックを聞く。
そんなゆとりあるひとときを持ち続けたいと思うのである・・・


【本日の読書】

スティーブ・ジョブズ I - ウォルター・アイザックソン, 井口耕二  1Q84 BOOK 2 - 村上 春樹





2012年1月28日土曜日

喫茶店

取引先の部長さんと話をしている時に、ふと近所にできたドトールコーヒーの話題になった。
「今の喫茶店はすっかり待ち合わせ場所になっちゃいましたねぇ」と部長さんが呟く・・・
「昔はねぇ、美人喫茶っていうのがあってね、よく銀座なんかの美人喫茶に行ったものですよ」と嬉しそうに語ってくれた。

美人喫茶ってどんなところだったのだろう。
世代の違う私には知りようがないが、その名の通り美人のウェートレスが働いていたのだろう。もう還暦も近い部長さんだが、その昔若かりし頃、ウキウキとそんなところへ出かけて行ったのだろう。

そう言えば、昔、大学のラグビー部の同期が「アンナ・ミラーズ」を絶賛していた事を思い出した。店員さんのミニスカートが、何とも言えないチェーン店だ。
きっとあんな感覚だったのかもしれない。
行ってみたかったな。

「行きつけの店があってね、行くといつも私の大好きなシャンソンをかけてくれましてね・・・」
それとは別に、行きつけの喫茶店があったらしい。
いつものコーヒーを飲みながら、大好きなシャンソンを聞いては至福の一時を過ごしていたという。そんな喫茶店、私にはないな。

喫茶店と言えば、今ではあちこちチェーン店ばかりである。
ドトールなんかは値段は安いが、あまりコーヒーをゆっくり飲んで、なんてくつろげる雰囲気はない。ちょっとした空き時間に、ちょっと寄ってコーヒーを飲むという感じだ。
コーヒーを飲むというよりも、時間つぶしなどのような目的が主だろう。
通いたくなるような喫茶店ではない。

そう言えば歌声喫茶なるものも聞いた事がある。
なんでもみんなで歌を歌っていたらしい。
さらに、今もたまに見かける「純喫茶」というのは、その昔風俗系の営業をしていた喫茶店との間に一線を画す意味で「純」といったらしい。
昔はいろいろあったようである。

高校の時には近所に行きつけの喫茶店があった。
「アイビー」という名前で、年取ったおじちゃんとおばちゃんが夫婦でやっている店だった。
ラグビーの練習帰りに寄って、ナポリタンをよく食べたものだ。
たばこを吸っていても、高校には通報しないでくれる良心的(?)な店だった。
大学の時も渋い喫茶店がいくつかあったが、行きつけというほど通った覚えはない。
今は、ないなぁ。

我が家族は、コメダコーヒーによく行く。
まあコーヒー目当てというよりも、シロノワールというパンケーキ目当てなのだが、食いしん坊の我が家族のような人種にはそんな利用目的もある。
子供が生まれる前は、妻と二人で近所の喫茶店に行った事がある。
ただ妻の目的は、コーヒーというよりもケーキだったりかき氷だった。
喫茶店もコーヒーだけでは厳しいのかもしれない。

でもやっぱり、静かな店内で大好きなコーヒーを飲みながらのんびり本でも読むというのが、私にとっては理想的な喫茶店の利用方法だ。今はまだ子供も小さいからなかなか難しいが、そのうちもう少し自由な時間が増えたら、休みの日には、本を持って喫茶店にコーヒーを飲みに行くという習慣ができているかもしれない。そうして至福の一時を過ごす自分を想像してみると、悪くはない未来だ。

そんな喫茶店を、今から探しておきたいと思うのである・・・


【本日の読書】

スティーブ・ジョブズ I - ウォルター・アイザックソン, 井口耕二  1Q84 BOOK 2 - 村上 春樹







2012年1月24日火曜日

スキーin湯沢2012

近年、すっかり我が家の冬のレジャーとして定着した感のあるスキー。
先週末に今シーズン初滑りに行ってきた。
昨年スタッドレスタイヤも買ったし、せっせと行かないともったいないと貧乏根性が働いてしまう。

念のためと朝5時に出発。
途中雨と雪とで速度制限もあったりして、比較的ゆっくり行ったのだが、それでも湯沢の岩原スキー場には7時半についてしまった。
板を借りたり、着替えたりしてゲレンデがオープンするのを待つ。

久しぶりの割には子供たちもすいすいとボーゲンで滑り始める。
長女は向上心が芽生えたのか、足を揃えて滑る練習を始める。
そういう気持ちを大事にしようと、2日目にNASPAスキー場でスキー学校に入れたのだが、娘曰く「ただ滑っていただけ」という結果で、どうも無駄だったよう。
子供だと思って熱心には指導してくれなかったようだ。

ゲレンデは相変わらず空いていて、昔のようにリフト待ち30分などという事はない。
食堂もすんなり座れて快適。
道路もリフトもゲレンデも混みまくっていたあの時代。
昔はよくあんな状況を我慢していたものだと、改めて思う。
昔だったら少しでもと欲張ってガンガン滑るところだが、今は子供たちのペースに合わせてゆったりと滑る。それでも空いているゲレンデでは、「元が取れない」といった焦りは感じない。

長男は雪遊びをしたがる。
食事もそこそこに外で穴を掘ったり、雪をこねたり。
せっかく来たのだからと、スキーに誘うも、「もうちょっと」と渋る。
考えてみれば東京では雪遊びなどできないし、何より子供を楽しませようと思ってきているわけだから、と考えて遊ばせる事にした。一緒に雪合戦もする。
仕事に行くのは大変になるが、子供のためには、たまには東京に雪が積もってもいいんじゃないかと思ってもみる。

夜はバイキングで腹いっぱい食べて、温泉につかる。親はこれが目的。
湯けむりの中、流れるお湯の音を聞き、時々桶のぶつかる音が響く中で湯船に浸かる。脱日常・・・
気がつけば昼間の疲れも出て、子供たちと一緒に寝てしまう・・・

2日目はNASPAスキー場。
ここも初心者には優しいゲレンデ。
山頂に立つと、遠くの山々に遥か下界には車が走る街並み。絶景かな・・・
大昔にこの景色を見た人たちは、今日のこの有り様は想像できなかっただろうなどと思ってみる。今はつくづく良い時代だ。

子供たちもエンジンがかかり、ガンガン滑り出す。
妻と二人限界を感じ、やがてリフトの終了時間をカウントダウンして待つ始末。
体力的に下り坂にある身と上り坂にある身の違いを感じる。
本当なら、ゆったり余裕の一泊スキー旅行なのだが、これなら日帰りの方が楽かもしれないと感じる。

夕方5時にゲレンデを出発し、途中夕食を食べて9時半帰宅。
渋滞もあったが、まあこういう感じで往復できるのなら、悪くはない。
あと1~2回、今度は日帰りとなるが行きたいと考えている。
しかし、帰ってきたあとは洗車が大変なんだな。
今度の週末はまずそれからとなりそうなのである・・・


【本日の読書】

僕は君たちに武器を配りたい - 瀧本哲史 スティーブ・ジョブズ I - ウォルター・アイザックソン, 井口耕二




2012年1月19日木曜日

中国から見た日本2012

先週末に、母校の財団法人で主催する社会人向け勉強会「寺子屋小山台」があった。
今回の講師は、東洋学園大学の朱健榮先生。
毎年お招きしている方なのだが、テーマとしては中国について語ってもらっている。
文化・習慣の違いといった手軽な話題から、政治経済のお堅い話までいろいろと熱く語っていただいた。

その中で中国人の「お礼」についての話があった。
中国人は、実はお礼を言わないそうである。
と言っても「謝謝」という言葉はあるから、まったく言わないというわけでもないだろう。
あくまでも日本の感覚とは違うお礼感覚という意味である。
それは「大恩、不言謝」という言葉に表れていて、日本式のお礼とは異なるもののようである。

例えば最近、妻が私にお菓子を勧めてくれた。

黒糖入りの珍しいゴーフルだった。
普段そういうものは、私のいないところで子供たちと食べてしまうようなのだが、その時は機嫌が良かったのかもしれない。
あるいは、手紙の効果かもしれない。

どうしたのかと聞いたところ、「ママ友にもらった」とのことだった。
何でも子供の服だか何かを貸してあげたら、お礼にくれたのだと言う。
日本人の感覚では不思議でもなんでもないこういう行為だが、中国人から見れば違和感があるらしい。

曰く、「貸し借りをその場で清算してチャラにしている」ような感じに映るのだと言う。
中国人は、その都度の「お返し」という感覚はなく、次の機会にもっと大きくして返すのだと言う。それまでは親密な関係でいられる感覚らしい。

そう言えば、かつて日本は中国にかなりのODAを貸与していた。
それに対して、中国は感謝の意を表明するわけでもなく、それをマスコミは随分と批判して取り上げていた。あれも中国式ではむしろ当然なのだと言う。
なかなか我々日本人には馴染まない感覚だ。

また、家族間では「おはよう」などという挨拶もしないらしい。
親しくなればなるほどそうらしい。
これなんかは、「いくらなんでも挨拶くらいするべきだろう」と思ってしまう。
しかし、考えてみれば日本人だって夫婦間では「愛してる」なんてほとんど言わないだろう。
まあ新婚カップルやよっぽど仲の良い夫婦なら別だろうが、一般的にはそうだろう。

だがアメリカでは、映画を観ていてもわかるが、常に“I love you”と言っている。
聞くところによると、夫婦間・家族間ではいつも互いにそう言いあわないとダメらしい。
そんなアメリカ人から見れば、「愛してる」と言わない日本人は奇異に映るのかもしれない。

どのスタイルが優れているというわけではない。
ただそれぞれ違うという事だ。
要は異文化間では、自分の物差しで相手を見ない事が大切なのだ。
そんな事をいつも感じさせる朱先生の講義である。
マスコミの報道からは伺い知れない中国の話を伺えて、いつもいい機会だとありがたく感じている。

しかし思い起こしてみれば、我が妻も新婚時代は、毎日のように「私の事愛してる?」と聞いてきたものだ。今となってはもう遠い過去の話となってしまったが、当時とは別人のような今の妻を見ていると、やっぱり家族の間では、中国式よりも日本式よりもアメリカ式の方がいいなぁと、つくづく思うのである・・・


【本日の読書】

スティーブ・ジョブズ I - ウォルター・アイザックソン, 井口耕二  どうする? 日本企業 - 三品和広



2012年1月15日日曜日

イラン情勢

アメリカとイランの緊張が高まっている。
何気なく読み過ごすニュースであるが、専門家の分析によると、アメリカの国家戦略の一端としての動きらしい。

アメリカの国力を支えているのがドル基軸通貨体制。
全世界で米ドルが貿易決済の手段として使われている。
これがあるから、世界最大の赤字国アメリカも破綻しないで済んでいる。
これが崩れれば、国家財政破綻という事にもなりかねない。

これに反発するのがロシアや中国などの国々。

かつてイラクが石油の決済通貨をドルからユーロへと変更。
ドル基軸通貨体制への抵抗を見せた。その結果がイラク戦争。
アメリカが主張した大量破壊兵器はとうとう発見されず、戦後石油取引はドルに戻されている。

今イランがこれに続く動きを見せていて、すでに石油取引の決済をドル以外にしているらしい。アメリカは、石油や天然ガスなどの資源も豊富なイランを支配下に置きたいという意向は常々もっており、このまま放置すると他の湾岸諸国も追随しかねない状況を危惧しているという。という事でアメリカはイラン潰しに出ているのだという。

そんな事は新聞のどこを探したって出ていないし、本当なのかと思わずにはいられない。
しかし言われてみれば、核開発疑惑どころか実際に作って地下実験までやっている北朝鮮に対しては、アメリカは何にも言わない。グリーンスパン元FRB議長も確かに自伝の中で、イラク戦争は石油利権のためだったと書いている。とすれば、そういう面もかなりあるのかもしれないと思ってみたりする。

我が国はイランとの関係も深く、原油も輸入している(円建なのかリヤル建なのかは知らないが・・・)。アメリカの手前制裁措置に協力せざるを得ないのだろうが、どうなのだろう。イランは対抗措置としてホルムズ海峡封鎖を示唆しているし、そうくるなら軍事的に排除するとイギリスは息巻いている。

一方でイランはIAEAの査察受け入れを表明し、あくまでも開発は原子力発電所だと自らの正当性を主張している。イランとてイラクの経緯を隣で見ているだけに、アメリカの武力行使を牽制しているのだろう。

日々のほほんと平和に暮らしていられる我が国だが、海の向こうでは熾烈な水面下の戦争が始っているのかもしれない。いざ戦争となっても、イラク戦争の時のように我々には大して影響がないのかもしれない。だからどうだと言う事もないのだろうが、個人的には大いに関心を持っていたいと思うのである・・・


【昨日の読書】

日本の未来について話そう -日本再生への提言- - マッキンゼー・アンド・カンパニー どうする? 日本企業 - 三品和広





2012年1月10日火曜日

記憶力

週末、子供たちと一緒に風呂に入ると、「クイズ出して」とせがまれる。
お風呂ではいろいろ話もするが、クイズは割と子供たちに好評である。
と言っても、何でもいいわけではない。長女はハリー・ポッターシリーズ、長男はウルトラマンシリーズに関したクイズを要求するのである。つまり、今自分が最も関心の深い事柄について、なのである。

長男の方はまだまだ対応できる。
だが、長女の方はお手上げだ。
何せこちらは1巻しか読んでいない。
今最後の7巻の下巻を読んでいる長女とは知識の量が違う。
もうついていけないのであるが、先日は思いあまって「ハリー・ポッターに出てくる登場人物をあげよ」という問題を出した。

15人挙げなさいとしたのだが、こうすると答えはわからずとも、娘にしばし答える時間をかけさせられるので、我ながらナイスな問題だと悦に入っていた。私も取りあえずハリー・ポッターや、ハーマイオニー、ロン、ダンブルドア、スネイプなど頑張れば10人くらいは挙げられる。本は読んでなくても映画は観ているのだ。

さて、嬉々として登場人物を挙げ始めた長女。
あれよあれよという間に課題の15人を楽々突破。
そうすると私もついて行けない。
20人を越え、30人を越える。
詰まったところで私もヒントを出す。
「ほら、トイレに出てくる女の子の幽霊」と言った具合だ。
(と言っても私は名前を忘れてしまっている)

やがて40人を越え、50人を越える。
この辺になると「おいおい本当かよ」と思い始める。
私がわからないと思って適当に言っているのかな、との思いも脳裏をよぎったが、楽しそうに数えあげている娘の純粋な表情には、そんなズルのあとは微塵も感じられない。
結局57人でギブ・アップ。呆気に取られてしまった。

まずそんなに登場人物がいるのかとの疑問が湧いた。ただ全7巻だし、それも上下巻セットという巻もあるから、全体としてはかなりの長編ということもあって、どうやらそれ以上いるようである。次にそんなによく覚えているなという驚きだ。あらかじめ問題を出された上でならともかく、普通に読んでいてそんなに登場人物の名前を覚えるか、と。

私でも小説を読んでいて、ほんの何人かの登場人物であってさえ、「この○○って何の人だっけ」と前のページをめくるなんてしょっちゅうだ。それを普通にストーリーを追い掛けながら読んでいて、脇役の名前までしっかり覚えてしまうなんてと、呆れてしまう。当の本人は、本の裏を見ては、「ああまだ、○○と○○と○○がいた~」と悔しそうにしている。子供の記憶力って凄いなぁとあらためて思ってしまった。

そう言えば昔は向かうところ敵なしだったトランプゲームの「神経衰弱」でも、この頃娘に勝てなくなってきた。映画を観ていて、友人と話をしていて、「あの映画に出ていた俳優なんだっけ、ほら・・・」なんて事はいつもの事だ。声をかけてきた知人の名前を思い出せない事だってザラだ。

年をとれば脳細胞だって劣化するし、仕方ない事だとは思うが、目の前に娘の記憶力を見せつけられるとあらためて愕然としてしまう。たまに日記を読み返してみるが、完全に忘れてしまっている事もけっこうある。その時その時のちょっとした喜びなんかは、忘れてしまっていたりする。嫌な事なら良いのだが、良い事ならみんなずっと覚えていたいと思うが、実際はかなり忘れているようだ。この先、そうした事がもっと増えるのだろう。

記憶とはその人そのものと言える。
57人もの登場人物を覚えていなくてもいいから、せっかくの日々の楽しい記憶はずっと持っていたいものだ。それでもいずれは一つ一つ忘れていくのかもしれない。
まあ仕方のない事なんだろうけど、そんな危うげな記憶の補助として、せめて日記やブログはずっと続けていきたいと思うのである・・・


【本日の読書】

夫婦ゲンカで男はなぜ黙るのか - タラ・パーカー=ポープ, 古草秀子  無花果の森 (新潮文庫) - 小池 真理子







2012年1月7日土曜日

妻への手紙

妻とのギクシャクした関係に頭を悩ませていた昨年暮れ。自分の中では最悪の想定もした。このまま冷たい態度を取り続けられて、ずっとそんな関係を続けていくのは無理な相談。人生を新しく始めるなら早い方が良い。子供たちには母親が必要だから親権は妻に渡し、一人実家へでも戻って親と暮らそうか・・・

されど子供たちと離れるのは何より辛いし、子供の成長過程を見守りたいし、何かあれば相談の一つにも乗ってやりたい。子供の精神的成長にも悪影響を与えたくないし、家庭内離婚状態でも自分が我慢すれば良いのだろうか。「子はかすがい」と昔から言われている言葉がふと思い出される。そんな葛藤が心の中で渦を巻いていた。

そうした中で、やっぱりもう少し自分なりに関係改善に努力してみるべきではないか、と思い至った。せっかく結婚したのだし、失敗した部分があるとはいえ自分が選んだ相手でもあるし。ダメならダメで仕方がないが、やれる限りの努力はするべきではないか、と。とは言え、話し合いの提案は拒絶されておりうまくない。そこであれこれと考え、手紙を書くことにした。

妻への手紙などと言うと、結婚前に新居の鍵を送るついでに書いた程度で、あまり記憶にない。現代人らしくラブレターなども妻には書いていない。そう考えると、何をどう書くべきかと言う迷いもあったが、取りあえず書き始めた。日頃の思い、考え、喧嘩の原因となった事についての自分の考え・・・

まずは自分がどんな事を考えているか、それを説明し、できれば子供たちのためにも自分達のためにも、仲良くやっていきたいと。「家族とは一緒に幸せになるためのチーム」と何かで読んだ言葉も添えて、そんなチームとしてうまくやっていきたいといった内容を書きつづった。
朝、それをテーブルの上に置いて出勤した。

その手紙についての妻からのコメントは何もない。
ひょっとしたら返事でも来るかと淡い期待を抱いてはみたものの、何もない。
ただ、うまく気持ちは伝わったような気がする。
それはその後の妻の言動に表れているように感じるのである。
相変わらず、私のやる事に口うるさい。
表面的な態度は何も変わらない。
ただ、言葉に“とげ”がないのである。
それが妻なりの返事なのかもしれない。

大掃除も年末年始も、妻の言葉や態度にそれまで感じられた“とげ”がなくなった。
単なる気のせいかもしれないが、私にとっては大きな変化だと感じた。
その昔、終末時計なるものがあった。核戦争の脅威が高まる中、その時計の針が世界の終末までの時間を表示しているのをテレビでみた事がある。
我が家の終末時計については、大きく針を戻した気がする。

お正月、長女と風呂に入って、今年の目標や希望などについて話しをした。
ついでに「パパとママに望む事」を聞いてみた。
「夫婦喧嘩をしないでほしい」というのが、娘の回答。
我々が喧嘩するたびに、どうしてよいかわからなくなり泣きそうになると長女は言う。
まあそうかもしれない。

その昔、自分も両親が喧嘩をした事を覚えている。
かなり大きな喧嘩だったが、子供だった私は、その時それを布団の中でなす術もなく聞いていた。大きな喧嘩はそれ一度だったと思うが、そのすぐあと母に「お父さんとお母さんとどっちが好き」と聞かれた。当時はちょうど男の子として、いつまでも「ママ、ママ」というのは恥ずかしいと思い始めていた頃だったから、私は思わず「お父さん」と答えてしまった。その時母は寂しそうに、「じゃあお前はお父さんのところに行きなさいね」と言った。

子供心にも「しまった」と思ったものである。
あの時、母は離婚を考えていたのだと思うが、今考えても子供には酷な質問だ。
さて、そんな質問を我が子にする心配も遠のき、年始から何とか水平飛行に移れそうな我が家。まだまだ油断大敵だと思うから、パイロットとしてしっかり安定飛行を心掛けていきたいと思うのである
・・・
                

2012年1月4日水曜日

新春雑感2012

また新しい年が始った。
昨年は母親の体調が悪かったため、一人実家で3日間を過ごしたが、今年は母親も少し体調が回復したので、またいつも通りの正月を過ごした。今年は私と娘とがそれぞれ年男と年女。
娘も初めての年女という事で、いつもとは違った気分で年を迎えたようである。

初詣は毎年恒例の近所の神社。この街に住み始めてもう16年。今年で15回目の初詣という事になる。年に一回しかお参りしないものの、地域の氏神様としてこれからも欠かさずに参拝したいものである。

元旦に私の実家に行き、弟家族とともに新年を祝う。
高校2年の甥(兄)はすっかり雰囲気が大人びている。
中学3年の甥(弟)も社交性を身につけてきた。
「たかいたかい」をしてやると、よだれを垂らして喜んでいたのがつい最近のような気がする。我が家の子供たちにとっては、たった二人しかいない従兄であるが、従兄弟たちと遊んだ自分の経験から比べると、やっぱり少子化というのは子供たちにとってもかわいそうな気もする。

2日から大阪の妻の実家へ移動。
昨年行っていないので、2年振りという事になる。
人の家ながら、着く早々気になっていたラグビーの大学選手権準決勝にチャンネルを合わせる。昔はだいぶ待遇が良かったものだが、最近は普通に扱われるようになってきた。
それに合わせて、私も我が家並みに遠慮がなくなっている。

3日には義妹夫婦も交えて道明寺に初詣。おみくじは小吉。
辰年ゆえに大きな飛躍とでも書かれていれば、幸先よいスタートだったのだが、「思ったよりも伸びない」と書かれていた。まあ今年は、大きな飛躍よりもきちんと守るものは守り、守りながら前進するというイメージでいきたいと思っていたから、ちょうどそれに合っているのかもしれない。ラグビーでも良いディフェンスというものは、タックルで相手を止めるばかりでなく、少しずつ相手を後退させていくものである。今年はそういうイメージで行きたいと考えている。

夜はみんなでトランプゲーム。
ウノをやったのだが、みんなでわいわいできるのが、こういう昔ながらのゲームの良いところ。Wiiも良いとは思うが、老若男女7人が一緒に楽しめるこういうゲームはこれからも続けたいものである。みんなの笑顔の対価だと思えば、なぜか一人連敗して罰ゲームとしてアイスを買いに行かされたのも愛嬌というものだ。

毎年恒例の通り、今日は一日休みをもらって一人帰宅。
妻と子供たちは学校と幼稚園が始る前日まで大阪に滞在。
さすがに大阪へ一泊二日というのは忙しない。
こうして休みを取って二泊できる環境にはひたすら感謝だ。
例年通りの正月を過ごして思う事は、やっぱり毎年同じような正月を過ごせるというのはありがたい事だということ。そういう正月を、これからも過ごしたいと思う。

一日遅れて明日から仕事始め。
良い一年が送れるように、しっかりと頑張りたいと思うのである・・・

【本日の読書】
夫婦ゲンカで男はなぜ黙るのか - タラ・パーカー=ポープ, 古草秀子 無花果の森 (新潮文庫) - 小池 真理子





2011年12月31日土曜日

大みそか雑感

慌ただしい年末。
今週は町内会の夜回りがあった。
今年は当番で町内会の活動に参加しているが、その一環だ。
柏木持って、「火の用心!」と言いながら30分ほど近所を回る。
火事が大きな脅威であった江戸の時代ならともかく、この現代で今さらこんな事して何になるという気がする。たぶん、何にもならない。ただ、ご近所の人たちとの親睦という意味では、かなり意味のある事だと思う。
そういう意義を感じて、積極的に参加。
 
大みそかは例年通り、最後の大掃除。
我が家は分割して大掃除を行っている。
今月4回目の今日は玄関周りと洗車だ。
今年から高圧洗浄機を導入。
これがなかなかの優れモノ。
例年はデッキブラシでゴシゴシやっていたのだが、今年はこのマシンでラクラク。
次々と汚れが落ちていく様は爽快であった。

妻の話によれば、ご近所はみんな昨日一昨日で大掃除を済ませたらしい。
おそらく28日が仕事納めでお休みだったのだろう。
30日まで仕事の我が身からすれば、仕方ない。
それでも何軒かのお父さんは外へ出て最後の掃除に精を出していた。

プラプラとスーパーへ行けば、けっこうな人出。
たまには日本酒でもと思って買いに行ったのだが、棚はガラガラ。
けっこうみんな今日はお酒という気分なのだろうか。
やっぱりそこは日本人なのかもしれない。

昼に年越しそばを食べ、夕食はすき焼きというのが大みそかの我が家のメニュー。
BGMは紅白歌合戦だ。大阪の妻の実家から美味しい肉を送ってもらい、それをみんなで食べる。
今年は震災や母の入院などいろいろあったが、こうしていつものように締めくくる事が出来た事に感謝しないといけない。

Facebookで長年連絡の途絶えていた人と繋がったのも大きな収穫だった。
いい年だったと思いたい。
そして来年は、少しでいいから今年よりもいい年にしたいと思うのである・・・


2011年12月27日火曜日

クリスマスに悩む

25日の朝、世間と同様我が家の子供たちもサンタさんからのプレゼントを受け取った。
長男は、ここのところウルトラマンシリーズにハマっていると言う事もあって、「変身セット」をもらった。長女はWiiのソフトである「リズム天国」。さすがに長男のような幼さはない。

起きて真っ先にツリーに駆け寄り、プレゼントを確認する長男はわかりやすくていい。
一方の長女はというと、昔から喜びを表に現さない。
布団の中から薄目を開けてプレゼントを確認するとまた寝てしまうというのが、例年のパターン。今年も弟からプレゼントが届いていると聞くと、まだ途中だった夢の方が大事とばかりに布団をかぶってしまった。面白いものだと思うが、それはまあいい。

一つ気になるのは、「まだサンタを信じている」というところだ。
年長さんの長男は良いのだが、5年生の長女はどうなのだと思う。
娘の同級生の母親に聞くと、信じているという子でも「信じていないとプレゼントをもらえないから」信じていると言うらしいし、私の職場の同僚家のように中学・高校の子供が「暗黙の了解で」信じているようなケースもあるが、それに対して我が娘の場合は、「本気で」信じているのである。

2年前に「サンタさんてほんとにいるの?」と聞かれたが、どうも その時の説明がまだ有効らしい。可愛いものだと思えばいいのかもしれないが、もうそろそろいかがなものかと心配になってくる。人はたいがい何かを信じている場合、それに反する話を聞いた時には考え方を改めるか、拒絶するかだ。

「そう言われてみれば変だな」と思えば、考えを改める方にいくだろう。
「そんな事ない」と自分の考えに固執するのは、考える事を拒絶しているのか、論理的・合理的に考えられないかだ。5年生くらいになったら、そろそろ「そう言えば変だ」と思うだけの思考回路が出来あがってもいい頃だと思うのだ。夢を持つのも大切だが、現実に気がつく事も大切だ。

自分はどうだっただろうと思い出そうとしたが、思い出せない。
たぶん学校で友達に言われたのだと思うが、あまり覚えていない。
何度ももらった記憶がないところをみると、たぶん比較的早い段階でわかったのだと思う。
娘ももういい加減と思うが、かと言って純粋に信じている娘を傍らに呼んで、「実はな」とやるのもいかがなものかと言う気がする。悩ましいところだ。

いつまでも信じる純粋性も素敵だが、世の中はそればかりでは渡っていけない。
おれおれ詐欺の被害が今だに続いているのも、言ってみれば純粋性の一種と言えなくもないが、相手の話を聞いて冷静に判断できるところも大切だ。
いまだパパとお風呂に入るのにも抵抗のかけらさえ見せない我が娘。
幼いと言えば幼いのだが、この頃少し胸も膨らんできたし、こちらの方がいつまで一緒に入ってもいいのだろうかと戸惑う有り様。

ある日突然娘に「もうパパとお風呂に入らない」と言われてショックを受ける、という父親の図式が待てど暮らせど訪れる気配がない。まあ健康で元気が一番だと思っているから、そんな事は気にするほどでもないのだが、ふと考えてしまうクリスマスなのであった・・・


【本日の読書】
心を整える。 勝利をたぐり寄せるための56の習慣 - 長谷部誠  赤い指 (講談社文庫) - 東野 圭吾



     


     

2011年12月22日木曜日

何でだろう・・・

最近回りで夫婦仲が悪いという話を頻繁に耳にする。
同僚にも「家庭内別居状態」と自嘲気味に語る人もいるし、口を開けば女房の悪口という人もいる。男ばかりでなく、友人たちとご飯を食べに行ったら、旦那の悪口大会だったと語ってくれた女性もいる。冗談半分、テレ隠しなどというレベルではなく、みんなマジなのだという。そう語ってくれた独身の彼女は目を白黒させていた。

なんでなんだろうか。
現代社会はほとんどが恋愛結婚なハズで、みんな愛し合って結婚したはずだ。
それが10年、20年と経つと相手が疎ましくなるのだろうか。
一時期「円熟離婚」だとか「定年離婚」だとか言われたが、つい先日も取引先の方の両親(もういい年なのである)が離婚騒動だと聞いたところだ。

そういう我が家も例外ではない。
近年妻が私に対して、めっきり冷たくなっている。
最初は子育ての疲れかとか思ってはみたものの、もう子育てで疲れるというほど子供も小さくない。いかに鈍感な私でも、妻が私に対してかなりの不満・ストレスを抱いているのがわかって来た。

そういう気持ちが言葉の端々に出る。
モノには言い方というものがあり、同じ言うにしても言い方一つで感謝もされれば、憎悪を抱かせる事も可能だ。どうしてそんなモノの言い方をするのだ、と私もついつい腹を立ててしまう。それがまた妻の怒りにも繋がるので、怒りの連鎖と応酬はどこかで止めなければとめどなく続く。それゆえ、大概私が黙って怒りの連鎖を呑み込んで断ち切る事になる。

思えば結婚当初は、互いに相手に対して何かをしてあげようとして、それを自分の喜びとしていたような気がする。それがいつしかやってもらうのが当然となり、次第にやらない事が不満へと繋がるようになる。「仕方ないわねぇ」と笑って許していたものが、「いい加減にしてよ」となってくる。
たぶん、私の気がつかないところで、そんな変化が起こっているのだろう。

そんな関係は子供たちにも微妙に伝わる。
娘なんかは、「パパはママの事好きみたいだけど、ママはねぇ・・・」などと平気で言う。
たぶんこのまま症状が進むと、「家庭内別居」中の同僚のようになる気がする。

今年の年初に一つの目標を立てた。
「妻に対しては決して腹を立てない」と。
あと少しで目標達成というところだったが、先日とうとう喧嘩してしまった。
理由は妻の「モノの言い方」だ。

そのあと冷静になって反省し、和解の申し出と話し合いを希望したが、あっさり却下されてしまった。以来、表面上は一見穏やかな生活が続いているが、妻の内面は知る由もない。
夫婦も元はと言えば他人だし、考え方も違うし、妻ばかりが悪いわけではない。
ただ、自分の悪いところがわからないだけに厄介だ。

腹を割った話し合いも拒絶されてしまうと、どうしようもない。
難しいなぁとつくづく思う。

最近仕事ではあまりプレッシャーを感じなくなってきた。
その分、家庭内にきたと言えなくもない。
人にはいろいろな試練が訪れる。
私の場合は、これがその一つだ。

まあ修業だと思って、前向きに関係改善に努めたいと思うのである・・・


【本日の読書】


「マルちゃん」はなぜメキシコの国民食になったのか? - 安西洋之, 中林鉄太郎 白銀ジャック (実業之日本社文庫) - 東野 圭吾











2011年12月18日日曜日

長女の誕生日2011

12月は長女の誕生月。
毎年誕生日に一番近い日曜日に誕生日会をやっている。
今年はそれが今日であった。

ケーキを食べ、プレゼントをあげ、夕食は長女が好きなものをリクエストというのが例年のパターン。今年は去年に続いて「焼肉」であった。長女は曽祖母から伝わる食いしん坊の女系の血筋で、物心ついた頃からずっと食べる事に対する関心は強い。

さてその焼肉であるが、去年に続いて行ったのは西武池袋線富士見台にある「牛蔵」。
美味しい肉がリーズナブルに食べられるという事で、知る人ぞ知る店である。
土日は当日昼に行って予約しないと入れない。
12時の受け付け開始にあわせて10時半に行くと、すでに30人くらい待っている。
去年より激しい。

焼肉屋はどこにでもある。
「美味しい」と形容詞をつけると、数は減るがそれでもたくさんある。
そこにさらに「安くて」とつけると、我が家の界隈ではここぐらいで、その結果の大人気なのである。これだけのにぎわいだからたぶん儲かっているのだろうし、なぜ他所ができないのか、ここだけがどうしてこういう経営戦略が取れるのか、とっても興味深い。

並んで約2時間後に予約を終える。
早く行ったつもりだったが、希望の時間からは外れて夜の8時台の時間になってしまった。
明日も小学校と幼稚園がある子供にはちと辛い。

その足で池袋に向かい、予約していた誕生日のケーキを受け取る。
「ボン+ボンヌアニバーサリー」というところ。
月に1度はこの池袋西武の地下で、会社帰りにスイーツをお土産に買って帰るのだが、ちょっとここは見落としていた。「今年は見てくれ重視」という妻の発案だ。

実家の母親を招いてお誕生日会。
今年一年実家との関係改善を模索し続けて来たが、まだまだうまくいっていない。
両親の思いと妻の思い。
双方それぞれの考え方は理解できるのだが、なかなかうまく橋渡しができない。
双方に欠けているのは「寛容」。
積み上げては崩れるの繰り返し。
気分はすっかりシーシュポスである。

そんな事を露知らぬ長女。
双方の祖父母、叔母、そして我々親からプレゼントをもらいご満悦。
クリスマスもあって、この時期プレゼントが積み上がる。
1年中で一番幸せな月だと思う。

長女が生まれて11年。
長女の誕生日は我々夫婦が親になった記念日でもある。
あの頃と比べると、妻とのコミュニケーションも薄れてきている。
まあそれは追々解消していくとして、これからも子供たちは日々成長していく。
一緒にお風呂に入れるのも、あとどのくらいだろう。

これから大人になっていき、いずれは親元を離れていくのだろうが、大人になって過去を振り返った時に、そこに家族との楽しい思い出がたくさんあれば何よりだ。誕生日のようなイベントは尚更だし、今日という一日がその1ページとなればと思う。年に一度の誕生日。
楽しい一日を過ごしてもらいたいと思うのである・・・


【本日の読書】

真相 (双葉文庫) - 横山秀夫





2011年12月14日水曜日

フェイスブック

フェイス・ブックを本格的に使い始めたのは、映画「ソーシャル・ネットワーク」を観てからである。それまでは「ただでさえ少ない時間をつぶされたくない」と、ミクシィなどには敢えて手を出さずにいたのであるが、やっぱり映画を観てしまうと興味が先に立つ。

やり始めてみると、意外な発見が結構ある。開くとニュースフィールドに友だちが何をしているかが出てくる。今までなら友だちといっても、いくら親しくても毎日彼が何をしているかなど知りようもない。しかし、フェイスブックでは、少なくとも投稿された行動だけは何をしていたかわかる。なんとなく「ご無沙汰感」が薄れるというものだ。

本名で登録するという部分に最初は抵抗があったが、慣れてみるとどうという事はない。それに10年以上も会っていなかった人から友だちリクエストが来た時には、驚くとともに嬉しく思った。たぶんフェイスブックがなければ、ほとんど連絡など取れずに終わっていた可能性もあったりしたからなおさらである。

久しぶりに消息を知って、基本データを見て、実は転職していたりという事を知ったり、いつのまにか結婚していたりとか、最近の趣味・趣向なんかを窺い知る事ができるのも大きなメリットだ。いつのまにか随分おっさんになっていたりする人もいて、微笑ましく思ったりもする。会ってはいなくとも、その存在を身近に感じられるところがいい。

コメントを入れたりすると簡単なやり取りもできたりするし、ただでさえ縁遠くなりがちな友人たちと繋がりを持てるのはありがたい。今年の漢字には「絆」が選ばれたようだが、まさにフェイスブックこそそれに相応しい感じがする。

懐かしい友人の「友達」を見ると100人を越えていたりする人もいる。たぶん積極的に集めたのだろうが、私の場合はまだそこまで積極的になっていない。リクエストが来た相手か、たまたま見つけた知人が中心だ。まあしゃかりきになって集めても、もともと友達の少ない私としては100人も集まらないと思うし(ただの友達ならまだしも、「フェイスブックに登録している」となるとまず無理だろう)、今のところは自然増に任せるつもりである。

「フェイス」ブックというくらいだから、顔写真が不可欠だと思うのだが、さて登録しようとして一つの事実に気がついた。登録できるような写真がないのだ(単独の写真という意味でだ)。デジカメの画像を見ていくと、必ず家族と一緒だ。よく考えてみれば当然なのだが、なんだかちょっと寂しい気もする。

しかし、誰かが名前で探り当てて来たとしても、顔写真があった方がいいだろうから、何かアップしておこうと思っている。気のせいか、たまに知り合いを検索してみても、私の同期世代は登録者が少ない。登録さえしていれば、今はまったくどこで何をしているかわからない人を探し出せる可能性があるわけだから、ちょっと残念に思う。

そう言えば高校の同期会をやる時に、昔のクラスメートの何人かは消息不明で探せなかった。
もしも登録さえしていれば、彼らを探し出せるわけである(さっそくやってみようか)。そう考えてみればこの「つながり」は凄い。

私の子供たちがもう少し大きくなったら、友達はみんな登録ユーザーという事になっているかもしれない。そうすると、一生涯で知り合う人すべてとずっと繋がっていけるわけで、そんな事を想像してみると、その未来もまた凄い。

いよいよ年賀状のシーズン。これも伝統的な「つながり」であるが、年に一度というのが玉に瑕。毎年ご無沙汰をお詫びしている人も多いが、フェイスブックでは常時情報を届けられるというメリットがある。自然増もいいけれど、伝統的手法に代わる手段として、いずれは活用できるかもしれない。いろいろな可能性もあるし、当面はせっせとアクセスしてみようと思っているのである・・・


【本日の読書】

錯覚の科学 (文春文庫 S 14-1) - クリストファー・チャブリス, ダニエル・シモンズ, 成毛 眞, 木村 博江  フェイスブック 若き天才の野望 (5億人をつなぐソーシャルネットワークはこう生まれた) - デビッド・カークパトリック, 小林弘人 解説, 滑川海彦, 高橋信夫




2011年12月8日木曜日

夢から醒めた夢

学芸会で「夢から醒めた夢」の演劇をやった長女と、その晩お風呂で話をした。
その中で、ストーリーそのものについて感想を聞いた。
ストーリー自体はとても面白かったと言う。
だからやっていても楽しかったのだと。

ストーリーは実は赤川次郎の原作らしい。
小学生の女の子ピコが、ある時幽霊の女の子マコと出会う。
交通事故で突然死んでしまったマコは、嘆き悲しむ母親にきちんとお別れを言いたいと言い、一日だけピコと代わってくれと頼む。快く応じたピコは、霊界空港で一日を過ごす事になる。

その空港は、白いパスポートを持った人(天国=光の国へ行く人)と黒いパスポートを持った人(地獄へ行く人)が集まって来ている。ピコの話を聞き、「マコが戻って来なかったらどうするのだ」とみんな心配する。いろいろやり取りがあり、最後は子供に戻るなとすがりつく母親と、約束は守らないとと思いつつ迷うマコと、それを見守るピコの場面となる。
(劇団四季バーションはちょっとウルっとする場面である)

最後の場面について、長女に尋ねてみた。
「お前がピコだったらマコと代わってあげる?」
長女の答えは「代わってあげる」だった。
「でも、戻ってこなかったら、お前は元に戻れなくなってパパやママに会えなくなるんだよ」と意地悪く問う。

続けて、「もしもマコだったら、約束通り戻る?」と聞く。
「戻る」と答える長女。
「でもそうしたらもうパパやママに会えなくなるんだよ」とまた聞く。
長女は答えを探しあぐね、黙ってしまった。
ちょっと意地悪く聞き過ぎてしまった。

だが私だったらどうするか、と逆に考えてみても答えは難しい。
ピコの立場だったとしたら、初対面やあまり親しくない人であれば断るだろう。
仕事柄か、リスクについては真っ先に考える。
この場合は相手が戻って来なくて、自分が元の世界に戻れなくなるリスクだ。
そのリスクと天秤にかけたら、ほとんど比較にならない。
ピコのように初対面のマコに譲るなんて、大人過ぎてしまう私には不可能な決断だ。

問題は親しい友人に頼まれた時だろう。お金だったら簡単だ。
貸して忘れられる相手に、返してもらわなくても困らない限度で貸して、あとは忘れれば良い。だが、生死がかかるとそういうわけにはいかない。
養うべき家族がいる身とすれば尚更である。

さらには、もしも相手が戻って来なかったとしても、その気持ちは痛いほどわかるし、それゆえに裏切られても相手を恨めない。自分が逆の立場だったら、ひょっとしたら相手を裏切るかもしれない。だからこそ、おいそれとは代われないのだ。

長女もそろそろいろいろな事がわかるようになってきている。
世の中には、学校の勉強のように、答えがすぐわからない問題もある。
誰かが正解を知っているとは限らない問題もある。
そういう問題は、自分自身で納得のいく答えを出すしかのである。
そんな問題に、少しずつ出会っていくのもいいかもしれない。

ストーリーでは、最後にマコが約束通り戻って来て、無事白いパスポートを手にして光の国へと旅立って行く。友情と友達を信じる事の大切さとを描いてハッピーエンドである。
今はまだ「最後はハッピーエンド」で良いだろう。
いずれ出会う答えのない問題に、逃げずに立ち向かえるように、少しずつ慣らしていってあげられたらと、親としては思うのである・・・


【本日の読書】

錯覚の科学 (文春文庫 S 14-1) - クリストファー・チャブリス, ダニエル・シモンズ, 成毛 眞, 木村 博江  フェイスブック 若き天才の野望 (5億人をつなぐソーシャルネットワークはこう生まれた) - デビッド・カークパトリック, 小林弘人 解説, 滑川海彦, 高橋信夫






2011年12月5日月曜日

学芸会

世界中に定められた どんな記念日なんかより
 あなたが生きている今日は どんなに素晴らしいだろう
  世界中に建てられてる どんな記念碑なんかより
   あなたが生きている今日は どんなに意味があるだろう
TRAIN-TRAIN (THE BLUE HEARTS)

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土日は二日間とも娘の学校の学芸会であった。
3年ごとのサイクルで、音楽会・展覧会・学芸会と繰り返されている。
今年はその学芸会の年であった。
娘たち5年生の出しモノは「夢から醒めた夢」。
以前劇団四季のミュージカルを観た事があるが、どんな「小学生バージョン」になるのか楽しみにしていた。

学芸会と言うと、ついつい我が身の事を思い出す。
確か小学校3年の時だったと思うが、「僕はラッパ手」という戦争中の子供たち物語の劇で、そこでどういう経緯だったか忘れてしまったが、なんと私は主役を演じたのである。
今の自分からは想像もつかないが、その頃はまだそんな事をやれていたのだ。
頭も戦時中の物語らしく坊主頭にしての熱演であった。

当時も土日二日間の「興業」であったが、土曜日は生徒向け、日曜日は父兄向けであり、私はその土曜チームであった。何となく日曜チームが「格上」という雰囲気があった。
(娘たちの場合は両日とも生徒と父兄が観に来るから関係ないようだった)
言ってみれば土曜チームは二軍で、一軍の同じ役の友人Tにはなんとなく引け目を感じたものである(その後Tとは中学・高校と一緒に進み、最後は同じクラスであったし、結婚式にも呼ばれた仲である)。

捲土重来とばかりに、6年の学芸会で主役に立候補した。
しかしながら、オーディションであえなく落選。
私の声が(体育館では)通らないと言うのが理由だった。
自分の事は自分ではわからぬもの。
その時、自分の向き不向きというものの一つがわかり、私の将来から「俳優」という選択肢が消えたのである。

娘の役は途中で登場するデビルの一人であり、名前もないいわゆる「チョイ役」。
セリフも出番も少々であった。まあ私の娘だから、その点は仕方ない。
何でも本人は主役からはじまって、片っ端から立候補したらしいが、残念ながら落ち続けたらしい。そんな話を聞いていたせいもあり、朝はしっかりと励まして送り出した。

本番ではビデオ片手に観劇。
娘はしっかり声を出していた。
感心した事は、自分のセリフがない時でも、舞台の端でストーリーに合わせてしっかり演技していた事だ。うなずいたり、手を叩いたり、何事か仲間と話したり・・・
当然と言えば当然であるが、自分にスポットライトが当たっていないところでもきちんと演技していた事は、あとでお風呂で褒めておいた。

自分自身を振り返ってみても、常にスポットライトが当たっているという人生ではない。
むしろ当たっていない事の方が、大人になってからは当たり前だ。
それでもきちんとやる事はやらないといけないし、社会の中での自分の役割というものはスポットライト如何に関わらず、きっちり果たさないといけない。
娘がそんな端役の意義を理解できたとしたならば、それはそれで良かったのかもしれない。

まあこれで娘の将来から「女優」という選択肢はなくなったかもしれないが、それがどうだと言うのだ。最後の学芸会となったわけであるが、しっかりと娘の演技も観たし、ビデオにも納めたしで、満足して帰ってきた次第である・・・

【本日の読書】
錯覚の科学 (文春文庫 S 14-1) - クリストファー・チャブリス, ダニエル・シモンズ, 成毛 眞, 木村 博江  フェイスブック 若き天才の野望 (5億人をつなぐソーシャルネットワークはこう生まれた) - デビッド・カークパトリック, 小林弘人 解説, 滑川海彦, 高橋信夫





2011年12月2日金曜日

A day in the life

  たったひとりしかない自分を
   たった一度しかない一生を
    ほんとうに生かさなかったら
     人間生まれてきたかいがないじゃないか 
                    山本有三著「路傍の石」より
*************************************************************************

 いつの間にか月別カレンダーも最後になった。
朝いつものように駅に向かう途中、そろそろコートが必要だなと感じる。
週末にはクローゼットの奥から引っ張り出さないといけない。

 行きの通勤電車の中では、今『錯覚の科学』と言う本を読んでいる。
人間の注意力や記憶の限界による様々な錯覚を取り上げている本であるが、これがなかなか面白い。あっという間に東京駅についてしまうが、そのまま乗り過ごして続きを読みたい気分である。

 師走と言っても、今の職場はそんなに忙しくない。ありがたい事に仕事はかなりコントロールできるので、うまく繁閑を分散できるのだ。今日はある中小企業の社長と面談。商売も厳しく、財務内容もよくないのであるが、年齢も60を越えてそろそろ後継者の事を考え始めている。いろいろと相談に乗ったのであるが、今までは考えもしなかった事を考えるようになったと言う。

 考えてみれば、自分も今は家族の生活に責任が持てている。自分が働けなくなった時の事など、あてにはならぬとは言え、何となく年金をもらってなんて考えているが、中小企業の社長ともなると代わりに経営を任せないといけないわけで、不安も大きいのだろう。最近そういう相談を受ける機会が多くなっているが、私自身も年齢を経て相手も話しやすくなっているのかもしれないと感じる。

 コントロール可能とは言え、定時に帰れるほど暇ではないのが実情。それでもうまく日々の仕事の中に面白味を見いだせているから、格別の不満はない。
(まあ細かい些細なモノはやっぱり人間だから感じざるを得ないが・・・)
かつては猛烈なストレスを抱えていた時もあったが、今は比較的職場の人間関係に恵まれているところも大きいだろう。ありがたい事だ。

 今のストレスと言えばむしろ自分の時間がとり難い点だろう。やりたい事はいろいろとあるが、それをやる時間が十分ではない。楽しくない事はやめたりして、いわゆる断捨離を心掛けているが、それも十分とは言えない。自分でやりたい事をやる時間をどう捻出していくか、が今のテーマだ。

 帰りの電車の中では、『フェイスブック 若き天才の野望』を読んでいる。こちらは、映画「ソーシャル・ネットワーク」を観て興味を持ったのだが、映画では描き切れなかった部分が細かく描かれており、より一層面白く感じる。もうちょっと読みたいと思ったところで駅に着いてしまう。ドアtoドアで約1時間の通勤時間は苦にならないが、もうちょっと読みたいという気持ちが、強いて言えばストレスなのかもしれない。

 帰宅すると子供たちは寝るところ。二言三言、今日の様子を聞く。平日は一人の夕食も仕方ないところだ。食後のコーヒーを楽しむ至福の一時。週末の深夜には、溜めこんだ映画を観るという楽しみもある。今夜は何を観ようか・・・

 明日は子供の学芸会に年末の買い出しのドライバー。12月の週末は大掃除や買い出しなどの「公用」ですでに予定は一杯。されど細かい予定はまだ知らされていない。「マネージャー」に聞いてみないとわからない。自分のスケジュールを「マネージャー」が決めるという部分では、タレント気分を味わえると自嘲している。

 まぁまだ2011年も一ヶ月も残っているし、日々楽しみを見出して今年を締めくくりたいものである・・・


【本日の読書】

錯覚の科学 (文春文庫 S 14-1) - クリストファー・チャブリス, ダニエル・シモンズ, 成毛 眞, 木村 博江   フェイスブック 若き天才の野望 (5億人をつなぐソーシャルネットワークはこう生まれた) - デビッド・カークパトリック, 小林弘人 解説, 滑川海彦, 高橋信夫







2011年11月29日火曜日

週末のバスタイム

週末のお風呂は子供たちと一緒に入る事にしている。
それは子供たちが生まれた時からの習慣だ。
初めのうちは「子供をお風呂に入れる」という仕事だったが、子供たちも大きくなって「入れる」必要もなくなってからは、文字通り「一緒に入る」ようになっている。
昼間も家にいる時は、子供たちと一緒に過ごすのであるが、お風呂という閉ざされた空間で一時を過ごす事にはまた別の意味があると思う。

小学校5年の長女はいまだに一緒に入ってくれる。
それが良いのか悪いのかは別として、一緒に湯船に浸かっている一時はお話をするいい機会だ。テレビを観ながらとか、歩きながらとか、何かをしながら話をするのではなく、狭い湯船の中で顔を突き合わせて話をするのは、伝わり方が違う気がする。

どんな話をするかと言っても、大概は他愛ない話だ。
宇宙はどこまで広いのだろうかとか、地球の歴史はどれだけ古いのだろうかといったスケールの大きな話や、おじいちゃんおばあちゃんの子供時代はどんなだったかとか、逆にお前たちの孫たちの時代はどんなだろうなどといった話だったりもするし、単純なクイズの時もある。

それに加えて、時折意識的に自分の考えなども話している。長女にはとにかく人に対して優しくあってほしいと考えている。例えば、人はその内面が表情に表れるものだと日頃思っているが、いくら顔かたちがきれいでも、意地悪な性格はそのまま表情に表れるものだ。そんな「冷たい美人」よりも、穏やかさが表情に表れる女性になってほしいと思うから、常日頃から心の中でもいつも優しくないといけないと、そんな考えを話したりしているのである。

難しいのは、小学校5年の長女と年長さんの長男とでは同じ話ができない事だ。
長女にはあまり子供だと意識せずに話をしているが、長男はまだまだ子供向けの話でないといけない。最近は初歩の算数のクイズを長男に出し、彼が一生懸命指を折って悪戦苦闘している間に、長女と話をするというテクニックを駆使したりしている。風呂場には世界地図と日本地図が張ってあるので、それを小道具として利用したりもして工夫している。

長女には、好きな男の子の話を聞いた事もあった。
長女も最近の子らしく、好きな男の子に自分からコクったりしているらしい。
女の子なら、自分からコクらずに相手からコクらせるように仕向けるのだと、その方法を伝授した事もあった。「効果があるのか」と聞かれれば、「理論的には大丈夫」といったところだろう。

「どうしてパパはそんなに詳しいのか」と聞かれ、「いろいろ経験したからさ」と答えたが、心に何針も縫った跡がある経験が今になって生きていると言える。それが果たして実践で効果があるかどうかはわからないが、もしも効果があれば親としては嬉しい限りだ。スティーブ・ジョブズも言っているが、役に立たないと思えた経験が、後になって生きて繋がるという事もあるという例になるだろう。

子供に伝えたい事はいろいろある。
勉強もしてほしいが、勉強しろと言うのではなく、勉強する楽しさを教えたいと思う。
本を読む習慣は身に付きつつあるのは、嬉しい事だ。
今は「ハリー・ポッター」シリーズに夢中だが、それでいいと思う。
もう少ししたら、映画の感想なども話し合えるかもしれない。

この先もずっと続けていきたいと思うのだが、いつまでもそういうわけにはいかないだろう。
特に長女と一緒にお風呂に入ってお話をする時間は、もうそんなに長くはないだろう。
やがて長男と二人っきりになるのだろうが、その時はボーイズトークで男同士の話をする事にしよう。いつか一緒に入る事もなくなるのだろうが、その日がくるまでは週末のバスタイムは大事に楽しみたいと思うのである・・・


【本日の読書】

40代を後悔しない50のリスト 1万人の失敗談からわかった人生の法則 - 大塚 寿  フェイスブック 若き天才の野望 (5億人をつなぐソーシャルネットワークはこう生まれた) - デビッド・カークパトリック, 小林弘人 解説, 滑川海彦, 高橋信夫





                             

2011年11月25日金曜日

円高について

ここのところ円ドル相場は1ドル77円くらいで推移している。
随分と円高になったものである。一時はマスコミも政府に対し、円高無策と随分批判していたが、高止まりが続く今ではもうそんな声も聞こえてこない。円高が悪者扱いされていたが、果たして円高は日本にとって良いのか悪いのか、と考えてみた。

先日、メーカー勤務の人がとにかく円高対策が必要だと語っていた。
もちろん、彼にとっては会社の業績=自分の給与となるわけで、そうした立場から円高悪者論に与する気持ちはよくわかる。マミコミは大企業から広告料をもらっているから、大企業寄り(つまり円高悪者論)となるのは当然の事。そんなマスコミの言動を無批判に受け入れてはいけない。しっかりと考えてみないといけないところだ。

そもそも円高とは、日本の円が他国の通貨に対して強くなる(=価値が高くなる)事だ。
それがどうして悪いのかというと、輸出した時に円の手取りが減ってしまうからだ。
今まで1ドルで売って100円手に入れていたのが、76円に下がってしまうわけだから、輸出企業はたまったものではない。

しかし逆に見ると、1ドルのものを輸入して(買って)いた人は、100円ではなく76円で良くなるわけだから、お得なわけである。海外旅行も然り。
昨年我が家はグアムに行ったが、その時使ったドルを合計して、5年前に行った時の相場に換算してみたところ、トータルで2万円安かった事がわかった。
家族でちょっと豪華な夕食が食べられる。
何もせずに2万円も違うのはけっこう大きい。

2年前に原油価格が高騰し、1バーレル100ドルを越えて大騒ぎになった事があった。
我が家もガソリンを入れに行って、いつも1回あたり5~6,000円だったも
のが、8,000円近くなって驚いたものだ。実は今また原油が1バーレル100ドル前後になっているが、大騒ぎにならないのは円高だからである。当たり前だが、円高にはメリットとデメリットがあり、冷静に比較してみないとどちらが良いのかはわからない。

もちろん、立場によっても異なるだろう。
輸出メーカーに勤めている人からすれば、円高はとんでもないことであるし、私のような消費者からすると、むしろメリットの方が大きい。
メリットを受ける人とデメリットを受ける人はどっちが多いのか、という問題になると、日本のGDPに占める輸出の割合は、実は2割に満たないらしい。
そうすると、自ずから答えは見えてくるような気がする。

要は立場によって違うのだから、自分の立場から発言すれば良いのではないかと思う。
輸出企業に勤めているわけでもない内需系の飲食店経営者が、「円高に対する政府の無策はけしからん」などと新聞の受け売りを声高に発言しているのを聞くと、「ホントにわかって言ってるのだろうか」と思ってしまう。
あなたが売っているイタリアワインは、円高で安く仕入れられるんですよと問いたくなるのである。いや、ひょっとしたらわかっていて、なおかつ言っているのかもしれないが・・・

そんな声に後押しされてか、政府も思い出したようにドル買い円売り介入するが、この介入が一時の効果しかない。
買ったドルはみんな米国国債に化けて含み損が積み上がっていく。
みんな税金なのに・・・

「みんなの意見とは不平不満を抱えているやつの意見だ。満足している人は意見を言わない」とは、いつも私がチェックしているブログに載っていた言葉だ。円高にも大いに当てはまる気がする。幸いこのブログは自分の自由な意見を書き込めるわけだし、個人的な立場からいくと、円高けっこうではないかと思う。また風向きが変われば、意見も変わるかもしれない。

だが当分の間は、円が強いと言う事を素直に歓迎したいと思うのである・・・


【本日の読書】

40代を後悔しない50のリスト 1万人の失敗談からわかった人生の法則 - 大塚 寿  フェイスブック 若き天才の野望 (5億人をつなぐソーシャルネットワークはこう生まれた) - デビッド・カークパトリック, 小林弘人 解説, 滑川海彦, 高橋信夫




2011年11月21日月曜日

塾に行かせる事にした

小学生も高学年になった頃、母親に「塾に行きなさい」と何度か言われた。
「中学になったら行く」と言ってごまかし、いざ中学になっても「来年から」とかその都度何だかんだと言い逃れ、結局行かなかった。塾にまで行って勉強などしたくはなかったのだ。それでも決して勉強嫌いというわけではなく、都度都度それなりにしていたし、大学受験で失敗して宅浪していた時はそれこそ死ぬほど勉強した。ただ塾というスタイルに抵抗感を覚えていたのだ。結果的にはそれで問題なかったし、それで良かったと思っている。

さて、問題は我が子だ。
そういう自分の考えがあるから、子供を塾に通わせようという気など毛頭なかった。
お受験など論外で、幼稚園も小学校も中学校も歩いて通える公立で十分だと考えていた。
私も大学まで国公立一筋だったから、小学生から塾通いなどさせてまでして、私立などに積極的に行かせようとは思わなかったのだ。

それは今でも変わらぬ考えなのであるが、そんな思惑が大きく狂ってきた。
その理由は、「中高一貫教育」というやつだ。子供を通わせたいと考えていた近所の都立高校が、なんとその中高一貫教育になってしまったのだ。受験は中学から。そしてそれが約10倍近い競争率なのである。
当然入試(適性検査と言うのだ)もかなり難しい。私も問題を見たが、とても学校でやっている勉強だけでできるものではない。高校生くらいになれば、自分で傾向と対策を立てられるかもしれないが、小学生では無理だし、親ができるものでもない。そうすると必然的に「塾へ行く」という結論に至らざるを得ない。

しかし問題は娘がどう考えるか、だ。
「塾へ行け」と言うのは簡単だし、「行かせる」事も簡単だ。
だが、「行って勉強するか」は別問題だ。こればっかりは本人次第だ。
「水際に連れて行っても水を飲ませる事はできない」のだ。
多くの親たちが子供を塾に通わせて安心している。
しかしながら実際には、塾へ行っていても勉強しているかどうかはわからない。

私も過去に、塾や予備校に行っていても、真剣に勉強していない先輩や友人の姿を見ていたからよけいにそう思う。大学受験に失敗して浪人していてさえも、勉強していない人はしていなかった。要は本人のやる気が大事なのだ。

そんな懸念があって、娘と話をした。
そうしたら、意外な事に本人は塾へ行きたいと言う。
週3回、5時から7時半という時間も説明したが、いいと言う。
そうして近所の都立に行きたいと言う。
まあそこまで言うのなら、と6年生から行かせる事にした。

学校の方も、本当は小学校の勉強の延長的な問題を出題してもらいたいところだ。
いろいろと考え方はあるのだろうが、塾に行かないとわからないような問題を都立が出すというのはいかがなものかと思う。国公立の学校が、小学生から受験を強いるというのも、(強制ではないにしろ)どうかと思う。まあ親としても行かせて終わりではなく、娘が頑張って塾に通う1年間は、しっかりと感心を持って接したいと思うのである・・・



【本日の読書】

モチベーション3.0 持続する「やる気!」をいかに引き出すか - ダニエル・ピンク, 大前 研一     勝海舟と福沢諭吉: 維新を生きた二人の幕臣 - 安藤 優一郎







2011年11月17日木曜日

親父のパソコン

先週末、親父と共にヨドバシカメラに行った。
親父がパソコンを買い替えると言う事で、付き添いで行ったのである。
親父もパソコンを始めてもうかれこれ10年近くなる。
最初の頃は、「パソコンを買っても何をするんだ」と言っていたものであるが、仕事の請求書を作ったり、当時決算申告を代行していた私に資料を送付したり、と無理にいろいろとやらせたものである。

そのうち、趣味の写真がデジタル化。
写真愛好家のクラブに入り、仲間とメールのやり取りをし、写真の修正加工をしたりなどと範囲が広がり、今では写真の分野では私も太刀打ちできないくらいになっている。
そんな親父の愛用のVAIOもそろそろ7年選手。
仲間達からも古いと言われ、多少の使い勝手の悪さも出て来た事から、買い換える決意を固めたのである。

一人で偵察に行って、店員さんにあれこれと聞いたらしいのだが、どうも不安と言う事で、私が付き添う事になったというわけである。
3月にパソコンを買いに行ったが、あの時はノートパソコンだったので、デスクトップは見ていない。 改めてデスクトップパソコンのコーナーをうろうろするのは、久しぶりかもしれない。そんな我々の目に飛び込んで来たのは、いわゆる「一体型」というタイプ。
つまり、ディスプレイと本体が一体になっているものである。

私が4年前にパソコンを買い換えた時は、本体のみを購入し、ディスプレイやマウス、キーボードなどはそれまで使っていたものをそのまま使用した。
おかげで10万円程度で買えたのである。
親父にもそう勧めるつもりだったのだが、「タワー型」とでもいうのか、そのタイプはほとんど陳列されていない。店員さんに話を聞いてみると、これが最近の傾向らしい。
まあ「一体型」でも良いかとなって、物色を始める。

ハードディスクの容量は「1TB」の表示が目立つ。
TB=テラバイトであるが、いつのまにやらギガの時代も終わりらしい。
私が初めて買ったデスクトップは、確か512メガバイトだったような記憶があるが、隔世の感がある。今のパソコンだって250ギガあるが、まだまだ半分も使っていない。
どこまで巨大化するのだろう。

聞いてみるとカスタマイズもしてくれるとの事。
テレビなんていらないし、マイクロソフト・オフィスも別にソフトがあるからいらないし、と選んでいったら、最終的に価格は10万円だと言う。
7年前にVAIOを25万円くらいで買った親父も驚いていた。
インターネットも合わせて契約すると、さらに3万円引くと言われたが、これはやめておいた。

カスタマイズもあって、お届けは10日ほどかかると言われたが、本人も来るのが楽しみのようである。そして、親父のVAIOをもらい受けようとしている弟も楽しみにしているようである。届いたらセットアップに行く事にしている。

ウキウキしている様子を見ていたら、私もパソコンを買い換えたくなってしまった。
買っちゃおうかな、マック・・・

【本日の読書】
モチベーション3.0 持続する「やる気!」をいかに引き出すか - ダニエル・ピンク, 大前 研一  勝海舟と福沢諭吉: 維新を生きた二人の幕臣 - 安藤 優一郎






2011年11月13日日曜日

保険

私の勤務先には、お取引先でもある大手生命保険会社の取引先担当者(職域担当者)が、営業に来ている。社員食堂の出口に立っては、目ぼしい人に声をかけている。
そしてその後は、あちこちのフロアーで「商談」をしている姿をしばしば目にする。

先日の事、その職域担当者に声を掛けられた。まだ20代の女性である。その昔、銀行に入ってすぐの頃の事、やはりいわゆる生保レディーの猛烈営業を受け、そこの保険に加入した事があった。当時たぶん30前後だと思われたが、若くて美形の生保レディーで、何度か提案を受け、最後は二人で飲みに行って契約した。

当時はまだ保険も横並びの時代。どこであろうと内容は大した違いはない。どうせどこか入らないととは思っていたし、まあ多少のスケベ心も働いて契約したわけである。相手もわざわざ飲みに誘ったり、帰り道には腕を組んできたり(残念ながらそこから先の発展はなかった)と、今思えば大変だったのではないかと思う。

その後、結婚を機に保険の見直しを行い、それまでの保険は一掃しソニー生命に加入して今に至っている。内容はもう見直す余地はない。なので職域担当の20代女性営業に声を掛けられたところでこちらに用はない。その旨をやんわり伝えたが、相手はひるむことなく名刺を差し出してきて、一緒にエレベーターホールまでついて来た。その熱心さと、一応お取引先だから無碍にはできないしと、やむなく日を改めて話を聞く事にした。

昔だったらいざ知らず、今は若い女性というだけで鼻の下を伸ばす事もないのだが、よく見ると美形だ。職域という事で、若い者でも安心して行かせられるという会社の考えかもしれないし、ひょっとしたら、若い女性を送りこんで鼻の下を伸ばさせて契約を取ろうという魂胆なのだろうか、などと思いながら話を聞く。少し小首を傾げて、髪を耳のところにかきあげたりする仕草は、意識してのものだろうかなどと観察する。「その手には乗らないよ」と思いながら・・・

家族構成を聞かれたが、性別と年齢だけ答える。それ以外の情報の開示はやんわりとお断り。
そんなにほいほい聞き出せるほど甘くはないよ、と思いながら・・・
加入している保険の種類と金額とは教えてあげる。ソニー生命の担当者は友達なんだと語り、だから切り替えは難しいよと暗示する。

「月々の保険料は○万円くらいですね、そうするとあんまり余裕はないですね」と担当者。
「ほぉ」と感心する。最低限の情報だったのに毎月の保険料を当ててくるとはやるねぇと思う一方、まあそのくらいは当然かもしれないとガードは下げない。

一通りの質問のあと、「奥様の保険がないですね」とにっこりと満面の笑みを浮かべて担当者がいう。とっておきの営業スマイルかどうかはわからないが、良いところをついてきた。
実は妻が長年かけていた保険が満期になり、医療保険か何か考えようと相談し、ライフネット生命保険などチェックしていたのだ。敢えて黙っていたのだが、よく気がついたと感心。

「年金型ですとまだ所得控除も使えますし、是非提案させて下さい」と言ってきた。こちらも気がつかなかった視点だった。どうやら1回限りのつもりだったが、もう1回会う事になりそうだ。まあ決して笑顔に屈したわけではないから、良いだろう。この機会にせっかくだから妻の保険の提案も受けてみたいと思う。さて、どんな提案になるのか。

笑顔ではなく内容を、楽しみにして待ちたいと思うのである・・・


【作日の読書】
悪の教典(下) (文春文庫) - 貴志 祐介
悪の教典(下) (文春文庫) - 貴志 祐介

2011年11月9日水曜日

日本の農業

前回TPPについて考えたが、そうすると当然ながら農業からの反対論に出会う事になる。
日本の農家が大打撃を受けるというものだ。
しかし、本当にそうなのだろうか。
日本は世界第5位の農業大国であるというし、もともと農耕民族としての長い歴史もあるし、技術力も高いというのに、なぜなのだろうと疑問に思う。
何せマスコミは信用ならないから、迂闊に信じてはいけない。

そこで宮城県で農業を営む先輩Hに質問をしてみた。
先輩曰く、原発事故前はTPPに反対だったが、今は良いのではないかと思っているという。
その理由はと言えば、どうやら農協の存在のようである。
例えば放射能検査について、先輩Hは徹底的に測って安全性をアピールすべきだという意見なのだそうだが、農協は「測る事自体が不安を生み、風評被害を生む」という考え方だと言う。
そして、オイシックスが徹底した検査で売上を伸ばしているというニュースと比較して、そのあり方を嘆いている。どうも都会の消費者との感覚にだいぶズレがあるようだ。

農業にも常々矛盾を感じている。
食料自給率が低いと言って煽っておきながら、一方で休耕地を増やしているし、それに対しては手当も支給している。
法人の参入は認められていない。
農家の保護と言われても、ピンとこない。
もっと違う方法があるような気がしてならない。

例えば、農業にも法人の参入が認められれば、会社から給料をもらって農業をする事ができるようになる人がでてくる。そうすれば、天候に左右される不安定な「職場」に、若者たちも参入しやすくなる。わざわざ都会に出ていかなくても、企業に就職して地元の田畑に「配属」してもらう事ができるようになる。本社で研究開発したものを、各地の田畑という「工場」で効率的に生産すれば、日本の農業技術力は高いというし、安くて安全なおいしい農作物がスーパーに並ぶ事になるだろう。

年老いた農家は、田畑を企業に貸せば地代で老後を過ごせる。
休耕地なんて必要ないし、手当も廃止できる。
子供たちも地元で「就職」できるし、過疎という事も防げる。
素人考えでもなんとなくいけそうな気がする。
TPPによって、外国産の安いだけの農作物が入ってきたところで怖くはないだろう。
困るのは、それまですべてを牛耳ってきた農協ぐらいだ。

そう考えると、何で農協がTPPを始めとして農業改革に徹底して反対し、農家のためと称して農家を手当て漬けにして洗脳しているのかが見えてくる。農協の立場に立てば、当然の動きだと思う。
理屈は理屈として、現実的には農協はとにかくお金を持っているし、政治家だって何人も抱えているし、そう簡単には理屈通りにはいかないのだろう。
東北の1農家である先輩Hの意見を聞いたら、日頃の疑問がすっきりとした。
現場の人たちも、いろいろな思いがあるのだ。

本来マスコミには日本の抱えるそんな問題点を指摘し、解決策を提案するような役割を期待したいところだが、権力にはペンで立ち向かっても、金持ちの鞄はしっかり持つところがあるから難しいのだろう。自分の事は誰でも大事だし、世の中金を持っている者はやっぱり強いし、理屈通り理想通りというわけには、なかなかいかないのだろうなと思うのである・・・


【本日の読書】
『スティーブ・ジョブズ 驚異のイノベーション―人生・仕事・世界を変える7つの法則』カーマイン・ガロ
『悪の教典 下』貴志祐介

              

2011年11月6日日曜日

TPP

最近TPPに関する議論が新聞などのメディアを賑わしている。
非常に興味深いのであるが、ニュースを見ても「誰が賛成で反対が誰で」というようなモノばかりである気がする。まあ概ねメディアはTPP推進賛成といったところなのだろう。

だが、そもそもTPPに参加する事が、我が国にとって良い事なのか悪い事なのか、その判断をさせてあげようという考えはメディアには無い気がする。
一体、どちらを選ぶべきなのか、私にはいまだにわからない。

なんとなく、参加した方が国民生活にとっては良さそうな気がする。
だがアメリカが熱心に参加を促してくるというところが曲者だ。
アメリカは親しげな顔をして近寄ってきても、平気な顔でデメリットを押し付けてくる国だ。
アメリカ人は信用しても、アメリカ政府は信用すべきではない。
裏には瀕死の自国経済の尻拭いを「金を持った愚かな」ヤツにさせようという魂胆があるかもしれない。

一方農業関係者が反対する理由はわかりやすい。
自分達が楽して得ている権益を失いたくないからだ。
その他にも医療業界に混乱を招く、海外から一般労働者が流入する、食料安全基準が緩和されて食料の安全性が脅かされる、日本郵政への庇護が撤廃させられて外資に買収される、公共事業への外資参入によって地方の建設業者が倒産する、などという反対理由もあるようだ。
どうやらTPPの影響はかなり広そうである。

賛成論は概ね貿易推進派のようであるが、我が国が貿易立国である事を考えると一見正しそうである。しかし、例えば自動車について言うと、日本からアメリカに輸出する場合は、2.5%の関税をかけられているが、アメリカからの輸入車に対して日本の関税は0である。
実は偉そうに自由貿易を標榜するアメリカだが、こと自動車に関しては日本の方が公平なのだ。

TPPによって公平になる、と言いたいところだが、2.5%の関税ってそんなに影響力があるだろうか。現代自動車と競争して負けるような税率ではないと思う。むしろ為替レートの方が深刻だろう。2.5%の税率など、5円くらい円安になれば雲散霧消してしまう。

反対論はどうも自分達の権益を守ろうとしているものばかりのようだ。
「こうなるから大変だ」と言って、「だから反対」というものだ。
だが、本来は「だからどうすべきか」と考えるべきではないかと思う。
準備期間が必要なら、それは当然考慮されるべきだろうが、頑なに扉を閉ざす理由にはならない気がする。

賛成論はとにかく押し切ろうとしている感じがする。
アメリカに圧力をかけられているのかもしれないが、それが国益になるのかどうかが重要だ。
アメリカのではなく、日本の国益だ。
輸出が倍増すると言うが、そんなに甘くはないと思う。
さらに10円、20円と円高になっても、そう主張できるのだろうか。

マスコミはもっと国民の関心を煽るべきだろう。
みんな他人事だと思っているから、ロクに説明もしないで推し進めようとする政府に無関心でいる。だから政治家も「国民にはパンだけ与えておけばよい」と思ってしまうのだろう。
太った豚にされぬよう、こういう問題にも関心を持ち続けていたいと思うのである・・・


    
    

2011年11月2日水曜日

何が情けないって

先日の事だ。
いつものように仕事から帰ってくると、珍しく娘が部屋に入って来た。
多くを語らず黙ってノートを差し出す。
それは家庭と先生との間でやり取りされる連絡帳。
中を見ると先生からのメッセージが・・・

「今日ある男の子がお母さんに付き添われてきました。学校へ行きたくないという事だったのですが、理由を聞くと○○(娘)ちゃんともう一人の女の子に、「○○」と言われ傷ついたという事でした。~~ご家庭でもよく指導して下さい。」
ありゃりゃと、娘の顔を見ると下を向いてしょげている。

事情を聞くと、多くは語らないものの、そんな大事とは思わず面白半分だったようである。
娘の性格からして意外な気もしたが、どうやらもう一人の子に便乗した形らしい。
娘には相手の気持ちになって考える事の大事さを語って聞かせ、明日学校で謝るとともに、手紙も書きなさいと言ったところ「もう書いた」との返事。

まあそれはそれで良しとして添削だけした。
悪気はなくとも相手は深刻に受け止める事もある。
言われた言葉の重みは、言われた者にしかわからない。

実は私にも同じような経験がある。
小学校4年の時に、前の席に座っていた女の子にチョッカイを出して、出し過ぎて翌朝その子のお母さんから電話がかかって来てしまったのだ。
母に怒られたが、それよりなによりバツの悪さの方が強かった。
ちなみに2年後、その子に告白して見事ふられた。
中学に進んだあと、3年間同じクラスという憂き目にもあった。
今あの子はどうしているのだろう・・・

娘に対してはそんな事もあって、叱りはしなかった。
十分身に沁みているだろう事は、自分の経験と様子とでわかったからだ。
ただ一応、観たいと言っていた映画禁止の罰は与えた。
それ以上は咎めないつもりだ。

それはそれなのであるが、どうも後味がしっくりこない。
そもそもであるが(子供には絶対に言えない事であるが)、「女の子にからかわれた」と言って「学校に行きたくない」とほざく男というのは一体どういう事だ、という思いがある。
よそ様の息子だから大きな声では言えないが、我が息子がそんな事を言ったらケリ飛ばしてやるだろう。まさか女の子をひっぱたいて来いとは言えないが、まあ悪口を言い返して泣かせて来いくらいは言うだろう。いくら小学生とは言え、今から情けなくて先が思いやられる。

最近は女の子の勢いを感じる事が多い。
お手伝いしている教育財団の留学生面接でも、合格者の上位は女の子ばかりだし、今や女高男低の感はあちこちで強い。しかし、だからと言ってこれは話が違う。もっとしっかりしないと、日本男児は本当にどうなってしまうのだろうと心配になる。せめて我が息子だけは、しっかり教育しようと心に誓ったのは言うまでもないのである・・・



【本日の読書】
スティーブ・ジョブズ 驚異のイノベーション - カーマイン・ガロ, 外村 仁 解説, 井口 耕二  悪の教典(上) (文春文庫) - 貴志 祐介














2011年10月30日日曜日

これもボランティア

昨日は私がお手伝いさせていただいている教育財団の、社会人向け講座の開催日であった。
もうかれこれ参加して6年目となる。母校である高校をバックボーンとした教育財団であるが、ひょんなことから声をかけられて参加する事になったのである。
この他に高校の卒業生全体の同窓会にも幹事という形で参加している。

どちらも声をかけられてお手伝いさせていただいているうちに、“仕事振り”が評価されたのか、いつのまにか中心部に近い立場になっている。何にせよそうして評価していただき、任せていただけるのはありがたい事だと考えているので、できる限りの事はしている、という感じである。

始めてみると、こうした活動というのは、自分の“居場所”を一つ作る事になるのだと思える。仕事と家庭とに続く“居場所”である。
仕事と家庭だけではなく、それ以外の場所があるというのは心地良いものである。
だから今のところは義務感などではなく、楽しみながらやっている。

居場所を作ると、それなりに大変でもある。
事実、仕事を早く切り上げて会合に参加したり、家に帰ってからメールでのやり取りがあったり、時には仕事の合間を縫ってランチミーティングに行ったりと、なかなか手間と時間とを取られるのである。そうした手間と時間はかなり大変であるが、今のところそれでも得るものの方が大きいから続けているとも言える。

こうした活動をいつまで続けるかと問われれば、それはわからない。
必要とされなくなったり、楽しく続ける事ができなくなるまで、という事は言えるだろう。
内心煙たがられながら残るのも嫌だし、楽しくなくなってストレスだけ抱えてやるべきものでもない。そういう状況になったら、もともと地位には執着しない性格なのでさっさとやめるだろう。迷惑はかけたくないので引き継ぎだけはきちんとするだろうが、その決断と実行は早いと思う。

やめたら居場所を失う事になるが、それならそれでまた作ればいい。
今でも大学のラグビー部のシニアチームの活動には魅力を感じているし、地元の消防団などの地域活動にも興味はある。参加したいという気持ちはあるのだが、あまり手を広げると“家族”という居場所がなくなってしまうので、手を出していない。
うまくバランスを取りながらやっていかないといけないところである。

好きな読書は、読みたい本を常に積み上げている。
映画も録画したものを積み上げている。
そうして「まだまだこんなにある」という感覚が好きな性分であるらしい。
3の活動場所も、「まだまだやりたい事がこんなにある」と積み上げているのが良いのかもしれない。

いずれにせよ、まだまだ当分は続ける事になるだろう。
やる以上はなるべく貢献したいと思うし、楽して手を抜くのも嫌だし、楽しみながら一所懸命やっていくつもりだ。それ以外については、子供が大きくなって“家族”という居場所で必要とされる割合が減ったら、という事になりそうである・・・
 

【本日の読書】
     

2011年10月27日木曜日

押すべきか押さざるべきか

先日、キャメロン・ディアス主演の「運命のボタン」という映画を観た。
ある日突然、家の前に置かれた箱。
翌日訊ねてきたなぞの男が語るには、箱の中の装置のボタンを押せば、どこかで知らない誰かが死ぬが、その代わり無税の現金100万ドルをあげようというもの。
キャメロン奥様は夫とどうするか相談する・・・
さて、こういう時、自分ならどうするだろうといつも考える。

知らない誰かという事だから、家族でも親兄弟でも友人知人でもない。
だったら・・・と考えるか。
映画の時代設定は1976年だから、まだ1ドル300円くらいの時代。
100万ドルといっても今やだいぶ輝きを薄めたが、まだまだ夢のような大金の時代だ。
さて、どうする。

私だったら、迷わず「押さない」を選択する。
別にどこの誰かは知らなくとも人命を尊重して、というわけではない。
100万ドルを手にしてもそのあとどうなるかわからない。
不透明な「相手の土俵」で踊らされたくないからだ。

考えてみても、100万ドルを手にしたあと、その男がその装置を持ってどこか他の知らない誰かのところへ行って、同じ提案をしたらどうなる。
今度は死ぬのは自分の番かもしれない。
「どうせ知らない他人なら死んでも構わないと思ったヤツだから」と遠慮なくターゲットにされてはかなわない。

それにもしかしたら、「ドッキリカメラ」かなんかで、「この人はお金のために知らない人の命を犠牲にしました」と日本中に晒されるかもしれない。
「相手の土俵で勝負する」怖さはこういうところにある。
ある日突然、尻尾を生やした悪魔が目の前に表れて、「お前の望みを何でも3つ叶えてやろう」と言われても、「じゃあ何にしよう」とは絶対に考えない。
望みを叶えてもらったあとに、どんな「仕打ち」が待っているかわかったものではない。

「おいしい話には絶対裏がある」と信じてやまない私としては、素直においしい話に飛びつく事はない。もしも仮にそれが本当に美味しい話だったら、バカみたいに損をする事になるが、仕方ないだろう。チャンスを逃した悔しさと、わかっていてバカをみた悔しさとどちらを選ぶかの話だ。

映画はそんな私の考えた通りに展開する。
「ほらみろ」と一人つぶやく私。
映画に出てくる家族は3家族がボタンを押してしまう。
それもいずれも押したのは奥様だ。
なんとなく頷けるじゃないか。

我が家も自分は押さないが、奥様が押す心配は大いにある。
目の前では押さなくとも、影で押してしまうかもしれない。
果たして押さないように説得できるだろうか?

誘惑を振り切るよりも、そっちの方が難しいに違いないと真剣に思うのである・・・

【本日の読書】
                    
 

2011年10月25日火曜日

我が家のテレビ事情

我が家では、食事の時間はテレビを消す事にしている。
子供が生まれた時にそう決めて、これまで実践してきている。
生まれた時からそうしているせいか、子供たちも食事時にテレビを消すのは当然と思っていて、文句を言った事はない。食事の時は、家族4人が最も接近して過ごす一時ゆえ、これはこれでずっと我が家のルールにしたいと思っている。

ところが、最近ちょっと例外が出てきた。
いつの頃からか、日曜日の夜7時からやっている「シルシルミシルさんデー」を見るようになったのである。この番組は、食品メーカーなどの工場を取材し、日常目にする商品の製造工程を紹介したりしてくれる番組である。

何せ「生きる事は食べる事だ」と信じて疑わない妻とその血を色濃く引く娘がいる我が家だ。
食べ物に関する興味は普通のレベルではない。
製造工程を見て何が面白いという気もするのだが、面白いらしい。
「今日だけ特別」と見始めたのだが、やがて私も長男も引き込まれた。
考えてみれば、これも社会勉強。
まあそう考えて、日曜日は特別にルール緩和日となった。

ところが、このところそれが土曜日にも波及してきた。
なんとフジテレビで、「潜入リアルスコープ」という番組をやっているのを見始めたのだ。
こちらも「大人の社会科見学」をコンセプトにしているらしく、やっぱり同じような事をやっている。ちなみに先週末は、前者が明治のお菓子工場、後者がセブンイレブンのおでん工場だった。

同じような番組を敢えてやる、という事は、両方とも視聴率が良いのであろう。
最近は工場見学も大人気だと言うし、そういうバックボーンがあるのだろう。
子供たちと番組を見ながらあれこれと話をするのも、良い事かなと考えている。
時々、箸が止まっていたりするから、注意しないといけないが、まあ良しとしている。

しかし、それにしても同じような内容はいかがなものかという気も一方ではする。
「リアルスコープ」の方は完全な後追いであり、真似っこだ。
学ぶことは真似る事と言うが、それにしてもプロとしての誇りはないのだろうかという気がする。社内でも大勢の人が企画段階から関与するだろう。
「二番煎じは恥だ」という人はいなかったのだろうかと思う。

関係者が目の前にいたら、そう言ってやりたいと思う。
しかし、「そんなこと言ったって見る人がいるんだから」と言われればその通り。
二日続けて同じような番組を喜んで見ている我が家としては、返す言葉がない。
まあ社会科の勉強だと考えて、当分週末の夕食時はテレビを許容しようと思う一家の主なのである・・・
 

【本日の読書】

2011年10月23日日曜日

息子と・・・

【スポーツ和名一覧】
闘球(ラグビー)/蹴球(サッカー)/鎧球(アメリカンフットボール)/杖球(ホッケー)/門球(ゲートボール)/避球(ドッジボール)/庭球(テニス)/籠球(バスケットボール)/羽球(バドミントン)/排球(バレーボール)

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久しぶりに何の予定もない一日。
本来であれば、今週移動教室に出掛ける娘のために必要な買い物をする予定であったのだが、昨日ですべて終わってしまったのだ。
一応今日は予備日としていたのだが、その必要はなかったというわけである。
みんな昼近くまでゴロゴロしていた。

ブランチのあと、天気も良いしで長男を外へ連れ出す。
ともすると家の中でウルトラマンと怪獣たちとで一日遊んでしまう。
まあそれもイマジネーションが豊かになっていいと思うのだが、天気の良い日は外に出たって罰は当たらない。

長女はママと服選び。
2日目に着る服をどれにしようかと、ああでもない、こうでもないとやっている。
どれだって大して変わらないと思うのだが、どうやら娘にとっては大問題らしい。
そんなわけで長男と二人、秋の日差しの中へ飛び出していく。

長男のリクエストはサイクリング。
という事で、気の向くままのサイクリングに出掛ける。
長男の乗っている自転車は、お姉ちゃんのお下がりの赤い自転車。
来年小学校に入学したら、スポーツタイプの20インチの自転車を買う事になっているが、それまでは今ので我慢である。

思えば補助輪をつけた頃は、こちらは歩いて伴走していた。
補助輪を外す特訓をしたのもこの自転車。
初めはよろよろしていたし、ブレーキは何度教えても“足ブレーキ”だったが、この頃はママチャリに乗る私にもしっかりついて来られるようになった。

近所の川沿いに走る。
その川には鯉もいるし、鴨もいる。
今日は川のほとりで、源流祭りというイベントもやっていた。
我が街界隈には東京都下ながらまだ畑も多いから、そんな畑を眺めながら自動車の少ない道を行く。畑には野菜の他にも、ブルーベリーやいちごのビニールハウスだってあるのだ。
東京23区にしてこの環境は、なかなかのお気に入りである。

ちょっと遠出して、大きな公園に辿りつく。
ここでおもむろにキャッチボール。
まだ軟式のボールは早いから、ビニールのボールだ。
初めは取れそうな球をそっとトスするのが大変だったが、この頃はようやくキャッチボールらしくなってきた。しっかりとしたボールを投げてくるし、普通にオーバースローで投げた球を両手でキャッチできるようになってきた。

もう少ししたら、野球好きの義弟の薦めるミズノのグローブでも買ってやろうかとも思う。
しかし、考えてみると軟式のボールではキャッチボールをやれる場所があまりない。
家の前ではうっかりご近所の家の壁にでもぶつけたらと考えてしまうし、公園では禁止の看板がやたらに目立つ。世の中の親子はどうしているのだろう。
道を“踏み外して”サッカーなどに行かないように、しっかりとコントロールしていくためにも、これは大きな問題だ。

時計を眺めながら、束の間のサイクリングを切り上げる。
5時からはワールドカップの決勝戦だ。
息子も「黒いチーム(オールブラックス)が強そうだね、応援しようかな」と独り言。
わかっているじゃないか、と感心する。

夕食時、8年後に娘が18になったら、妻は女二人で韓国ツアーに行こうと娘に語る。
なんだそんなもの。
お金をもらったって行きたくないこちらとしては、「じゃあ男チームはワールドカップを観に行こう!」と提案した。単純に喜ぶ長男。
だが、その8年後のワールドカップは日本だって知るのはもう少し先だろう。
別に子供を騙すわけではない。

まあその時は、ジャパンチームももう少し低いタックルをして、せめて2勝くらいはできるようになってもらいたいものである。さて、その時はどんな14歳の男になっているのだろう・・・
慌てずゆっくり成長してもらいたいものである・・・
  

【本日の読書】