2011年12月14日水曜日

フェイスブック

フェイス・ブックを本格的に使い始めたのは、映画「ソーシャル・ネットワーク」を観てからである。それまでは「ただでさえ少ない時間をつぶされたくない」と、ミクシィなどには敢えて手を出さずにいたのであるが、やっぱり映画を観てしまうと興味が先に立つ。

やり始めてみると、意外な発見が結構ある。開くとニュースフィールドに友だちが何をしているかが出てくる。今までなら友だちといっても、いくら親しくても毎日彼が何をしているかなど知りようもない。しかし、フェイスブックでは、少なくとも投稿された行動だけは何をしていたかわかる。なんとなく「ご無沙汰感」が薄れるというものだ。

本名で登録するという部分に最初は抵抗があったが、慣れてみるとどうという事はない。それに10年以上も会っていなかった人から友だちリクエストが来た時には、驚くとともに嬉しく思った。たぶんフェイスブックがなければ、ほとんど連絡など取れずに終わっていた可能性もあったりしたからなおさらである。

久しぶりに消息を知って、基本データを見て、実は転職していたりという事を知ったり、いつのまにか結婚していたりとか、最近の趣味・趣向なんかを窺い知る事ができるのも大きなメリットだ。いつのまにか随分おっさんになっていたりする人もいて、微笑ましく思ったりもする。会ってはいなくとも、その存在を身近に感じられるところがいい。

コメントを入れたりすると簡単なやり取りもできたりするし、ただでさえ縁遠くなりがちな友人たちと繋がりを持てるのはありがたい。今年の漢字には「絆」が選ばれたようだが、まさにフェイスブックこそそれに相応しい感じがする。

懐かしい友人の「友達」を見ると100人を越えていたりする人もいる。たぶん積極的に集めたのだろうが、私の場合はまだそこまで積極的になっていない。リクエストが来た相手か、たまたま見つけた知人が中心だ。まあしゃかりきになって集めても、もともと友達の少ない私としては100人も集まらないと思うし(ただの友達ならまだしも、「フェイスブックに登録している」となるとまず無理だろう)、今のところは自然増に任せるつもりである。

「フェイス」ブックというくらいだから、顔写真が不可欠だと思うのだが、さて登録しようとして一つの事実に気がついた。登録できるような写真がないのだ(単独の写真という意味でだ)。デジカメの画像を見ていくと、必ず家族と一緒だ。よく考えてみれば当然なのだが、なんだかちょっと寂しい気もする。

しかし、誰かが名前で探り当てて来たとしても、顔写真があった方がいいだろうから、何かアップしておこうと思っている。気のせいか、たまに知り合いを検索してみても、私の同期世代は登録者が少ない。登録さえしていれば、今はまったくどこで何をしているかわからない人を探し出せる可能性があるわけだから、ちょっと残念に思う。

そう言えば高校の同期会をやる時に、昔のクラスメートの何人かは消息不明で探せなかった。
もしも登録さえしていれば、彼らを探し出せるわけである(さっそくやってみようか)。そう考えてみればこの「つながり」は凄い。

私の子供たちがもう少し大きくなったら、友達はみんな登録ユーザーという事になっているかもしれない。そうすると、一生涯で知り合う人すべてとずっと繋がっていけるわけで、そんな事を想像してみると、その未来もまた凄い。

いよいよ年賀状のシーズン。これも伝統的な「つながり」であるが、年に一度というのが玉に瑕。毎年ご無沙汰をお詫びしている人も多いが、フェイスブックでは常時情報を届けられるというメリットがある。自然増もいいけれど、伝統的手法に代わる手段として、いずれは活用できるかもしれない。いろいろな可能性もあるし、当面はせっせとアクセスしてみようと思っているのである・・・


【本日の読書】

錯覚の科学 (文春文庫 S 14-1) - クリストファー・チャブリス, ダニエル・シモンズ, 成毛 眞, 木村 博江  フェイスブック 若き天才の野望 (5億人をつなぐソーシャルネットワークはこう生まれた) - デビッド・カークパトリック, 小林弘人 解説, 滑川海彦, 高橋信夫




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