2026年5月17日日曜日

論語雑感 子罕第九 (その29)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感
【原文】
子曰、可與共學、未可與適道。可與適道、未可與立。可與立、未可與權。
【読み下し】

いわく、ともともまなきも、いまともみちからず。ともみちきも、いまともからず。ともきも、いまともはかからず。
【訳】
先師がいわれた。「ともに学ぶことのできる人はあろう。しかし、その人たちがともに道に精進することのできる人であるとは限らない。ともに道に精進することのできる人はあろう。しかし、その人たちが、いざという時に確乎たる信念に立って行動をともにしうる人であるとは限らない。確乎たる信念に立って行動をともにしうる人はあろう。しかし、その人たちが、複雑な現実の諸問題に当面して、なお事を誤らないでともに進みうる人であるとは限らない」
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 現在、我が社では地方支社の開設を計画している。それはどちらかと言うと「採用」を主眼とするもの。ここのところ地方では地元志向が強まっており、東京の会社を志望する学生さんが減っているのである。さもなくともIT業界は人材争奪戦の様相を呈しており、少しでも人材を確保すべく地方拠点の設立を検討しているのである。その方針について社長以下役員の考え方は一致しているのであるが、私はそこで1人懸念を唱えている。それは地方支社を維持するだけの収益力に懸念があるためである。

 ともに進むべき道について異論はないが、その時期については考えにズレがある。「もう少し収益力の目処が立ってから」という考えと、「走りながら、すなわち進出しながら確保する」という考えとのズレである。これは決して珍しいことではないと思う。さらに先に進めば設立する支社の建物をどこにするかでも意見が割れるかもしれない。さらに常駐させるメンバーについても意見が割れるかもしれない。同じ立場でスタートしながらも進むにつれて微妙に考えが異なるという例はあちこちにあるだろう。

 会社のような組織であれば、個人個人の微妙な意見相違は問題にならない。会社の方針は一つに決めなければならないので、誰かの意見、あるいは議論の中から生まれてきた一つの方針に決まっていく。会社としては一つに決めなければならないわけであり、その良し悪しは別として一つだけに決まる。しかし、個人個人はそうはいかず、お互いの考え方の違いは意見の相違として現れてくる。それは当たり前と言えば当たり前。孔子もそんな当たり前を言ったのか、あるいは微妙なニュアンスの違いはあるのかもしれない。

 それゆえに細部に至るまで人の意見が一致するというのは貴重だろうと思う。それが良いのか悪いのかはまた考え方が分かれるかもしれない。なぜなら、より進むべき道については常に(別のもっと良い方法はないのか)見直し続けないといけない。その時に意見が完全に一致していたら他の考えに及ばないかもしれない。意見が違うということは、「選択肢の幅」を意味するということもある。会社のような組織、あるいはチームスポーツなどでは意見の多様性が組織の力となるケースもあると思う。

 孔子がこの言葉に込めた思いは、同じ立場にあっても人は必ずしも同じ考え、同じ行動に至るとは限らないというもので、それが良いか悪いかはコメントしていない。しかしながら組織の場合、意見の多様性ということは大いにプラスになると思う。問題は意見の相違が対立となって収拾がつかなくなる場合だろう。異なる意見をいかにうまく集約していくか、はリーダーシップが要求されるところかもしれない。うまく集約していければ、それは組織の力になる。

 人はみな意見が違うものであるが、その意見をどう集約していくべきか。その時組織よりもむしろ個々に求められるのは、後藤田五訓にある「勇気を以って意見具申せよ」、「決定が下ったら従い、命令は実行せよ」ではないかと思う。この精神があれば不毛に自分の意見に固執して対立を招くことも無かろうと思う。人はみな意見がそれぞれ違うもの。そう考えて行動していれば間違いはないと思う。今回の孔子の言葉もそんな風に解釈してみたいと思うのである・・・




【今週の読書】

全体主義の起原2 新版――帝国主義 全体主義の起原 新版 - ハンナ・アーレント, 大島通義, 大島かおり 人を動かす 改訂文庫版 - D・カーネギー, 山口 博 逆説の日本史: 大正暗雲編 対華二十一箇条と尼港事件の謎 (29) - 井沢 元彦 万物の黎明~人類史を根本からくつがえす~ - デヴィッド・グレーバー, デヴィッド・ウェングロウ, 酒井 隆史

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