2025年2月27日木曜日

紛争は終わるのか

 戦火の飛び交っていたガザ地区で停戦が実現し、ウクライナでも停戦の動きが出てきた。停戦の条件を巡っては当事者間でいろいろと思惑があるのかもしれないが、殺し合いが止まるという事はなによりも好ましいと思う。ガザでは世間的にはパレスチナ寄りの意見が多数であるように思う。ウクライナ戦争ではロシアよりもウクライナに対して同情的である。しかしながら、喧嘩には双方に理由があるものであり、どちらか一方にのみ肩入れするのはどうかと思う。トランプ大統領の誕生はいろいろと物議をかもしているが、停戦の気配が出てきたのはトランプ大統領の功績に間違いはないと思う。

 良し悪し別としていきなりプーチン大統領にコンタクトを取ったのは正解だったのだろう。もともとアメリカがロシアを追い込んだと思っているし、アメリカの支援で戦争が継続しているわけであり、そのアメリカがロシアに歩み寄れば停戦の話が出てくるのも当然だろう。これに対し、ウクライナが頭越しの交渉を批判するのもよくわかるし、ヨーロッパがアメリカが単独で動く事を警戒するのもよくわかる。要は「どこに視点を置くか」であるが、「停戦」というところに視点を置くなら、トランプ大統領の行動は正解だと言える。

 視点を「停戦の条件」に置くなら、ロシアに歩み寄る事はロシアに有利な停戦条件になる可能性があり、当事者のウクライナをはじめとして不満に思うところは多いだろう。あえて侵略に打って出たロシアの行動を正当化するものであり、今後の影響を考えたならまずいのかもしれない。1名でも多く救う事を考えて「停戦第一」に考えるか、今後の影響を考えここまで来たのだからさらなる死傷者が増えようと好ましい「停戦条件第一」に考えるか、どちらもそれなりに筋は通っており、あとは「考え方」次第であると思う。

 ガザの停戦も好ましい事だとは思う。世の中は「イスラエル=悪」に傾いているように思うが、そもそもの発端はハマスの暴挙であり、市民約1,200人を殺害し、240人以上を人質とした行動はどんな理屈をもってしても正当化はできないだろう。これに対するイスラエルの反撃により、パレスチナ市民4万人以上が亡くなっていて、イスラエルに囂々たる非難が寄せられているが、一方でハマスに対し、「直ちに人質を全員解放せよ」という声が聞こえてこないのはどういうわけかと思う。

 少し前に『ハマスの実像』という本を読んだが、これはハマスを取材して行くうちにハマスにシンパシーを感じてしまったジャーナリストの一方的なハマス寄りの偏った立場から書かれているものである。そもそもであるが、自らの要求を通すために武力でもってなそうというところが既に間違っている。それも私の個人的な考え方であるが、やはり武力ではなく平和裏に交渉によって勝ち取るべきものだと思う。「天井のない牢獄」と称されるイスラエルのガザへの圧力は確かにひどいのかもしれないが、それはハマスの武装闘争方針がもたらしているものと言える。

 ハマスもイスラエルが反撃する、そしてそれによって市民に死傷者が多数出るとわかっていてなぜ武力で攻撃を仕掛けるのだろうか。自らの信念を通すためなら自分たちの同胞に被害が出ても構わないと考えるのはなぜなのだろうか。『ハマスの実像』の著者はハマスこそがパレスチナの代表だとするが、本当にパレスチナの市民はハマスを自らの代表だと思っているのだろうか。もしそうだとすれば、自分たちに被害が出てもそれはそれで仕方がない、それにも増してイスラエル憎しの感情が上回っているという事になる。そしてそうだとすれば、「被害覚悟の闘争」と言える。

 被害覚悟の闘争であるなら、イスラエルのみを非難するのはやはり間違っていると思わざるを得ない。個人的にはパレスチナの人には非武装闘争をしてほしいと思う。すべての武器を捨ててガンジーのような非暴力の抵抗に出るなら、国際世論はパレスチナの方に傾くと思う。イスラエルも硬直的な態度を改めないといけなくなるし、その方が遥かにパレスチナ問題の解決に近づくと思う。そうした考えがパレスチナの人々の間に生まれてくるのは、まだまだ時間がかかるのだろうか。

 世の中話し合いだけですべて解決できるほど人間は人間ができているとは言い難い。しかしながら殺し合いよりは時間がかかっても話し合いで解決するスタンスは捨てて欲しくないと思う。我が国の近隣にもきな臭い煙が漂っているが、何とか賢明なる解決策を後世に残してほしいと思うのである・・・

HUNG QUACHによるPixabayからの画像


【本日の読書】
「悩まない人」の考え方 ── 1日1つインストールする一生悩まない最強スキル30 - 木下勝寿 刑事捜査の最前線 (講談社+α新書) - 甲斐竜一朗





2025年2月24日月曜日

論語雑感 泰伯第八 (その18)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感

【原文】
子曰、巍巍乎、舜禹之有天下也、而不與焉。
【読み下し】
子(し)曰(いわ)く、巍巍乎(ぎぎこ)たり、舜(しゅん)・禹(う)の天(てん)下(か)を有(たも)つや、而(しこう)して与(あずか)らず。
【訳】
先師がいわれた。「何という荘厳さだろう、舜帝と禹王が天下を治められたすがたは。しかも両者ともに政治にはなんのかかわりもないかのようにしていられたのだ」
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過去の統治者についての評価は難しいと思う。
「昔は良かった」とはしばしば聞かれる言葉であるが、私自身は実はこう思ったことがない。いろいろと問題はあるが、世の中は進歩していて、「今の方がいい」と考えているからである。孔子はしかし、古の政治を褒め称えている。「舜帝と禹王が天下を治められた」時代というのは、伝説の夏王朝の時代のようであるが、本当に孔子の言う通り優れた治世だったのかは極めて疑問であると思う。それは「世の中は常に進歩して良くなっていくもの」というのが、私の基本的な考え方でもあるからである。

たとえば、映画『三丁目の夕日』は非常に感動的ないい映画で、私のお気に入りの映画の一つでもある。この正月に一気に3作観て感動を新たにしたが、ここで描かれている昭和30年代と比べたらどうか。映画では貧しくとも人の人情あふれた時代として登場人物たちの様子が描かれる。テレビ一つでみんなが幸せな気持ちになれたのも事実だろう。しかし、時代としてはスマホ一つとってもいろいろなことが可能だし、海外旅行にも自由に気軽に行けるし、現代の方が比較にならないくらいいい時代である。

ちょっと前の時代を舞台にした映画では、登場人物たちは所構わずタバコに火をつける。非喫煙者にとっては煙たい時代だったと思うが、今は禁煙環境がスタンダードであり、喫煙者である私も今の環境の方がいい。セクハラ、パワハラといった事が問題になり、昔は我慢するしかなかった事が、今は我慢しなくてもいい。サービス残業も私の身の回りでは死後になりつつある。働くなら私が社会人デビューした昭和の終わりよりも、今の方が圧倒的にいい。

もっとも、現代と昔とでは時間の流れ、時代の変化が違うということもある。伝説の夏王朝の時代と孔子の時代とでは、ほとんど差はなかったのではないかと思う。現代では10年でも大きな差が出たりする。夏王朝もほとんど同時代の感覚だったかもしれない。それであれば、ただノスタルジーで古き良き時代の施政者を崇めているのではなく、同時代感覚で善政を評価していたのかもしれない。しかし、それでも両手を挙げて褒め称える前に意識すべき事もあると思う。

それはどんなに優れた統治者(政治家)であっても、いい部分と悪い部分があるという事。トランプ大統領にもプーチン大統領にも善政と悪政とがあるだろう。イメージだけでどちらか一方に決めてしまうのは、正しい評価スタイルとは言えまい。舜帝と禹王もそうであったと思うが、後世にはすべて伝わるものではないし、孔子には悪政の部分はわからなかったのだろうと思う。それゆえに、いい部分だけを見て舜帝と禹王の統治に荘厳さを感じたのかもしれない。

人には誰でもいい部分と悪い部分がある。お茶の間の人気者が実は不倫していましたとバッシングされるのは珍しいことではないし、爽やかなイメージの裏で実はそれに反した事をしていても不思議ではない。何よりも人間なのであるから、そういう部分を含めて人を判断しないといけない。もっとも、そうは言ってもその人のすべてがわかるわけではない。どうしても外からは窺い知れないその人の裏面はあるだろう。そこがわからなければ評価できないのか、とするとそれもまた窮屈であるし、それはそれとして「◯◯の部分だけは素晴らしい」とすればいいと思う。

きっと孔子もそんな事を踏まえた上で、舜帝と禹王の統治に荘厳さを感じたのかもしれない。「わからない部分があるから評価しない」とするのも味気ないし、「見えないところに尊敬できない部分があるとしても、それはそれとして」「◯◯は素晴らしい」と評価する方がいいと思う。そういう考え方で、人を評価したいと思うのである・・・


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【今週の読書】

ユニクロ - 杉本 貴司  イスラエル戦争の嘘 第三次世界大戦を回避せよ (中公新書ラクレ) - 手嶋龍一, 佐藤優  トヨトミの世襲~小説・巨大自動車企業~ - 梶山三郎





2025年2月21日金曜日

どうしたらできるだろうか

「どうしたらできるだろうか」という発想は、何かを成し遂げようとする場合にとても大事だと思う。私は仕事でもスポーツでも事を成すには「意識」「熱意」「創意工夫」の3つが必要だという信念を持っている。このうちの「創意工夫」にあたるのが、「どうしたらできるだろうか」という発想である。実に簡単であると思うが、できない人にはとことん難しい事のようである。そもそも「無理」と考える「意識」の問題もあるかもしれない。だから何よりもまず「意識」がないとダメなのであるが、意識だけでもダメである。「創意工夫」とそれを支える「熱意」がないと難しい。

初めてこの言葉を使うようになったのは、銀行員時代に初めて部下を持った時である。銀行員とは結構忙しい種族で、当時当たり前のように山のような仕事を抱えていた。私の部下はそれを目の前にし、「こんなにできるわけありません」と言い、毎日のように「人を増やさないとできるわけありません」と訴えてきた。それに対し、私は毎回「どうしたらできるかを考えろ」と答えていたのである。結局、新米上司の私に部下の行動を変えられるわけがなく、しびれを切らした支店長が優秀な男(しかもその部下の同期)を連れてきて交代させてしまった(そして仕事はスムーズに回るようになった)。

考えてみれば、私も「どうしたら部下の考え方を変えられるか」を考えれば良かったのであるが、そこまではできなかったのである。それ以来、「どうしたらできるだろうか」と考えるのは私にとって当たり前の思考になっていったのであるが、誰もがそう考えられるわけではないのだという事をその後も幾度も経験している。「どうしたらできるだろうか」と考える以前に「無理だ」「できない」という意識が働くのであろうか、考える以前で止まってしまうようなのである(だから「意識」がまたしても大事なのである)。

先日の事、とある案件の入札があった。私としては是非取りたいと思い、現場の担当者に相談を持ちかけた。もちろん、現場担当取締役にもである。ところが、しばらく検討してもらって出てきた回答が「リスクが高い」「採算が合わない」という否定的な意見であった。採算なら合うようにすればいいと私は考えるが、説明を聞いて感じたのは、「否定から入っている」という感覚であった。たぶん、「無理してまでやりたくない」という意識があったのだろう。私と現場との間では温度差があったのは間違いない。

否定から入っているから「できない理由」を探す。あるいはちょっとでも不安な要素を探す、目につく。今の仕事で充分だから何も無理して手間暇のかかる入札などに手を出す必要などないではないかという意識がおそらく働いている。しかし、経営の観点からすれば、今の仕事だけで満足していては、いずれ環境変化の中で淘汰されるかもしれず、事業の幅を広げておきたいという考えがある。そういう中での一つのチャンスであり、積極的にチャレンジしたいところである。リスクを無視しろというつもりはないが、「リスクがあるからやめる」ではなく、「取れるリスクは取る」というスタンスで臨みたいところである。

そこで必要なのが、「どうしたらできるか」という考えである。人の手配であれば、自社だけでなく外部の協力企業に頼む手もあるし、それは直接だけではなく他のプロジェクトから抜くのであればそこへの補充という間接的な方法もある。難しい仕事でなければ他の業務から抜いても影響の少ない新人を抜いて充てるという方法もある。コストは抑える考えも大事だが、相手からの要望にプラスアルファの提案を加えて価格に転嫁するという発想もある。それでも最終的にできないとなるなら、その理由は何なのか、どうしたらその理由を(次回は)克服できるのかを考えたい。

結局のところ、「創意工夫」は「意識」と「熱意」があってはじめて出てくるものなのかもしれない。一方、「どうしたらできるだろうか」という「創意工夫」の発想があって、そこから「意識」と「熱意」につながるものなのかもしれない。どうしても結論としてその「三位一体」があるかないかになってしまうのであるが、その「三位一体」も私の場合は「創意工夫」の考え方から辿り着いたように思う。まずは何事も「できない」と結論づけるまえに「どうしたらできるだろうか」と考えてみたいものである。

「断ったらプロではない」という言葉が好きであるが、「どうしたらできるだろうか」と常に考え続けたいと思うのである・・・


MarijanaによるPixabayからの画像

【本日の読書】
イスラエル戦争の嘘 第三次世界大戦を回避せよ (中公新書ラクレ) - 手嶋龍一, 佐藤優  トヨトミの世襲~小説・巨大自動車企業~ - 梶山三郎




2025年2月17日月曜日

『人間の証明』を読んで

人間の証明 勾留226日と私の生存権について - 角川歴彦

角川歴彦氏の『人間の証明 勾留226日と私の生存権について』を読んだ。あまり関心がなく、ほとんど知らなかったのだが、著者は元KADOKAWAの会長であり、会長時代に五輪汚職をめぐる贈収賄容疑で逮捕され226日間を拘置所で過ごしたという。それは誤認逮捕であり、氏は無実を訴えるが、その拘置所での扱いが人権を無視した「人質司法」であり、その理不尽を訴えたのが本書である。

そう言えば、不動産会社プレサンスコーポレーションの創業社長も無実の罪で逮捕され勾留された経験を綴った『負けへんで! 東証一部上場企業社長vs地検特捜部』(読書日記№1453) を出していて読んだが、どちらも勾留中の理不尽な扱いに怒りを込めて体験記を綴ったものになっている。一般の感覚では罪を犯していなければ逮捕されることもないのであるが、著者のように思いもかけないところから逮捕されるという事もあり得なくはない。そういう私も検察に任意で呼ばれて事情聴取を受けた経験がある。

それは前職時代の事、取引先である上場企業が金融商品取引法違反で罪に問われ、そのとばっちりを受けたのである。簡単に言えば粉飾決算だったのであるが、我が社もグルだと疑われたのである。取り調べで社長は20回以上も任意調査に呼ばれ、時に罵声まで浴びたらしい。取り調べは役職員にも及び、私も計2回呼び出された。我々には身に覚えのないことであり、特に不安には思わなかったが、身元調査では自分の預貯金の額まで書かされた。不安には思わなくとも、同じ事実でも見方によっては違う印象を与えるものであり、検事の尋問にはそういう危険性は感じたのである。

そういう経験があるので、なんとなく著者の取り調べの様子も実感を持って想像できるところがあった(もっとも「被疑者」と「参考人」ではだいぶ圧力も違うだろうが・・・)。世の中では時折冤罪事件が話題になるが、それもまんざらわからなくもない。当時、社長は完全にグルだという前提で、時に検事から怒鳴られたりしたそうである。最終的には起訴に至らずに終わったが、気の弱い社長は体調も崩し、だいぶ参ったようである。検察としては罪に問うためには自供を得て裁判に必要な証拠を揃えなければならないため、必死だったのだろう。

実際に罪を犯していても、裁判で有罪にするにはきちんとした証拠を揃えて罪を立証しないといけない。裁判には「疑わしきは罰せず」の原則があるから、そこは厳密に要求される。その苦労はわからなくもないが、問題は疑われる方が無実だった場合である。「無実であれば心配することはない」という事でもなく、事実、著者は持病を抱え、体調悪化を恐れて早期の保釈を認めてもらうために、意に反していくつかの主張を諦めたそうである。それが裁判にどの程度の影響があるのかはわからないが、せめて有罪が確定するまでは「犯人扱い」のような事は避けるべきであろう。

何事も一方的に判断するのは良くない。拘置所側には拘置所側の事情というものがあるだろう。著者が「人質司法」と呼ぶ実体にもそれなりに意味のある事情はあると思う。しかし、持病があって3度倒れ、体重も15キロ落ちるというのはやっぱり問題があるだろう。少なくとも未決勾留の間は「配慮ある対応」が必要だろうと思う。世の一般人にはなかなか知り得ない世界の話は興味深い。興味とともに問題点についても考えさせられた一冊である。当たり前であるが、自分では決して体験したくはないと思うのである・・・

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【本日の読書】
ユニクロ - 杉本 貴司  トヨトミの世襲~小説・巨大自動車企業~ - 梶山三郎







2025年2月13日木曜日

札幌出張

札幌へ出張に行った。私の主担当は財務であるが、人事も担当している。採用も大きなミッションの1つなのである。我が社のような中小企業は、新卒採用ではかなり不利である。知名度は圧倒的に劣り、首都圏の大学では(ゼロというわけではないが)コンスタントな採用はなかなか難しい。勢い、採用は地方中心になる。今回は札幌にある学校を定例訪問し、ついでに内定者との内定式(という名の懇親会)に札幌を訪れたというわけである。時に札幌は雪まつりの真っ最中。インバウンドもあって飛行機とホテルの予約を心配していたが(値段はちょっと高かったが)、何とか確保して札幌入りした次第である。

出張はどうしても効率が悪い。目的(面談)に比して移動時間が多すぎる。今回も先方との面談は約1時間。そのために丸2日間(まぁ、1日は祭日だったので実質1日とも言える)潰れた。仕方がないが、効率云々よりも成果に目を向けるようにするしかない。この時期の面談はさり気なく重要で、2026年の採用戦線への参戦根回しというところがある。それで密かに便宜を図ってくれたりする(例えば会社説明会の日程について優先的に第一希望を通してくれる)のでなおさらである。中小企業はそういう「寝技」も駆使して大手や同業他社に対抗していかないといけないのである。

出張は仕事であって遊びではない。当たり前であるが、以前銀行員時代、「ついでに仕事をする」ために出張する人たちを目の当たりにしていたのでよけいに意識している。その人たちは関連会社に片道切符で出向し、半分銀行員人生を終えたという意識だったからよけいにだったのかもしれないが、「どこに行く?」「何を食べる?」という話ばかりしていた。上に立つ立場の人間がそうだと、下の者はモチベーションが下がる。「ああいう上司になりたくない」というお手本としては良かったかもしれないが、大企業ゆえに遊びの出張費用も問題にはならなかったのだろう。

もちろん、ガチガチのお堅い頭で考えているわけでもない。やる事をきちんとやって、その上で余裕のできた時間で楽しむのは悪くないと思う。今回は、先方の都合でアポは午後も遅い時間になった。午前中に千歳空港に着き、市内に入ったのは昼前。少しゆとりもあったので、ラーメンを食べて雪まつりも見て行こうと考えた。ところが、雪まつりという北海道の観光の目玉ともいう時期。インバウンドと相まって、狙っていた札幌駅近くのラーメン屋は見た事のない長蛇の列。おいしいものは並んで食べるという関西文化に慣らされた私でもさすがに断念した。ラーメンはまたの機会にする事にした。

腹ごしらえだけして向かったのは大通り公園。雪まつり会場となっている場所である。休日の谷間の平日だったためか、覚悟していたほど混んではいない。ニュースで見た事のある雪像がさっそく出迎えてくれる。屋台も出ていて賑やかである。しかし、何か不思議な違和感がある。それは「こんなものなのか」という感覚であった。有名な観光スポットである札幌の時計台は「日本三大がっかり観光地」としても有名であるが、雪まつりにも同じものを感じた。札幌の雪まつりは、青森のねぶた祭り、仙台の七夕祭りと並んで個人的に行ってみたい日本の祭りの1つだったが、「こんなものなのか」であった。

確かに並んでいる雪像の様子はニュースで見た通りなのであったが、イメージはもっと圧倒的に大きなものであったが、実際はそれほど大きくない。もちろん、「北海道庁旧庁舎」などの迫力あるものもあったし、自衛隊の力作もあったが、それはほんの一部。大多数が背丈より少し大きい程度の雪像群で、それはそれでよくできているなと感心したが、そこまでである。何となくそれは近所の神社の夏祭りのような感覚であった。事前の期待が大きすぎたのかもしれない。仕事スタイルで行ったためか、革靴は足元も心もとない。それでもせっかくだからと雪像を1つ1つ見ていたら、見事に滑って転んでしまった。

出張時にはいつも会社と家族に土産を買う。会社はみんなで食べられるお菓子。家族はリクエストに応じるパターンが多い。以前は、「赤いサイロ」やかま栄のかまぼこだったが、今回は「生ノースマン」と「ほたてのスープ」であった。ともに空港で簡単に買えるのがありがたい。「赤いサイロ」は人気が凄くて買うのに苦労したので、簡単に買えるというのは重要なありがたい要素である。それにしてもよく次から次へと見つけてくるなと感心する。アンテナの張り方が違うのだろうが、自分ももう少し各地の名産品に興味を持ってもいいかもしれないと思ってみたりした。

夜は内定者との懇親会。他の企業は内定式なるものをやっているところがあるらしいが、我が社は実施せず。その代わりの懇親会である。4月から東京での新生活を控え、期待に溢れている感じがした。初々しくて好ましい感じを受けたのである。下手に格式ばった内定式よりもいいのではないかとこのスタイルを続けている。春から一緒に働ける事を頼もしく感じた次第である。学生時代、北海道へラグビー部の仲間と旅をした。その時は、最後の夜はすすきので大人の遊びをしたが、さすがに今はもう面倒でまっすぐホテルに帰って映画を観る方を選んだが、この過ごし方も出張時の楽しみの一つになっている。

これから、沖縄、新潟、鹿児島、そして再び札幌と採用活動の出張が続く。ビジネスは結果が大事なので、何より結果を求めたいと思う。「ついでに仕事をする」出張なら行きたくないというのが正直なところ。「成果を挙げたついでに」その土地の食べ物やお土産を買うことを楽しみたいと思う。採用活動に終わりはなく、成果とともにその旅を楽しみたいと思うのである・・・


【本日の読書】
ユニクロ - 杉本 貴司  トヨトミの世襲~小説・巨大自動車企業~ - 梶山三郎



2025年2月9日日曜日

会社目線で判断してほしい

 最近、会社では経営メンバーの育成を図っている。経営も社長1人でやるよりも複数の幹部でやる方がいい。取締役だけでなく、部長レベルまで含めたいと考えてのことである。そしてこの4月から、かねてから部長に昇格予定だった者の昇格について議論した。結論としては「見送り」であった。残念ながら期待値に達していないと。4人の取締役全員一致の結論であった。それぞれ見方は違ったかもしれないが、結論として異論が出なかったので、みんなそれぞれ物足りなさは感じていたのだろう。

私が感じたのは、「会社目線で行動できない」というところであった。以前、「経営者目線で働くということ」というところでも考えた事に似ているかもしれないが、要は「自分の都合でなく、会社の視点から考えられるか」という事である。例えばある仕事を頼まれたとする。個人的にはあまりやりたくない。難しいというところもあるし、できればプレッシャーのある仕事は避けたい。これが普通の「自分目線」である。それが会社目線だとどうなるか。

そこで会社の立場に身を置いて考えられるか。すなわち、その仕事をやる会社としての意義である。十分意義があり、社内を見回しても自分しかいない(あるいは自分に話があるのも無理はない)となれば、嫌だという感情を抑えてやるしかない。そういう判断ができるかというと、彼はまだできない。実際、最近そういう重要な仕事を固辞し、説得に時間がかかってしまった事があったのである。それ以外にも「自分はまだまだ」と後ろに下がるケースが散見されるのである。

よく言えば謙虚であるが、部長職を任せるには謙虚もほどほどでないといけない。会社としてはもう1人部長職を作りたかったのであるが、無理に昇格させても後が大変だと考え、泣く泣くの決断である。その彼もまったく会社目線で行動できないというわけではない。事実、別の機会に課長への昇格者を決めたところでは、きちんと会社目線で判断できているのである。自分より下位については鳥瞰できるが、問題が自分のレベルになると途端に自分目線になってしまうのである。

課長人事については、抜擢も含む人事であった。中小企業の悲しさゆえ、管理職となる課長候補がたくさんいるわけではない。どうしても限られた中から抜擢せざるを得なかったが、少し背伸びしてもらう必要があったという次第である。面白い事に、その1人は「自分はまだまだ、自信がない」と固辞したため、当の彼が「きちんとサポートするから」と説得に回っていたのである。もう少し視野を広くして自分にも当てはめてほしかったところである。

会社目線で考えられれば、社長すら一つの役割である。必要とあれば社長にも動いてほしいと要求できるようになる。現に営業担当の取締役は年初の挨拶に社長を連れ回していた。「今後のために一緒に挨拶に行ってくれ」と。そういう会社目線で見て判断できるメンバーが増えてきたら、経営の意思疎通、意思決定が早くなると思う。今後は管理職すべてが会社目線での判断力をつけてもらえるようにしていかないといけない。“For the team”の意識とでもいうのであろうか。そこに向けて尽力したいと思うのである・・・

Danny ChangによるPixabayからの画像

【本日の読書】

刑事捜査の最前線 (講談社+α新書) - 甲斐竜一朗  人間の証明 勾留226日と私の生存権について - 角川歴彦







2025年2月5日水曜日

論語雑感 泰伯第八 (その17)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感
【原文】
子曰、學如不及、猶恐失之。
【読み下し】
子(し)曰(いわ)く、学(がく)は及(およ)ばざるが如(ごと)くするも、猶(な)お之(これ)を失(うしな)わんことを恐(おそ)る。
【訳】
先師がいわれた。「学問は追いかけて逃がすまいとするような気持でやっても、なお取りにがすおそれがあるものだ」
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この言葉の趣旨としては、「学問は幅広いのですべてを網羅しようと思っても網羅しきれるものではない」ということだろうか。それはそれで極めて当然の事のように思う。実はその昔、教師になる可能性について考えた事がある。「先生はどこまでわかっている必要があるのだろうか」と。歴史を教えるにはどこまで歴史を知っている必要があるのだろうか?生物は?国語は?数学は?英語は流ちょうに話せなければならないのだろうか?と。もちろん、すべてを理解するのは不可能だろうが、ならばどこまで理解できていればいいのだろうかと。

中学生の時、初めて教わった英語のY先生は発音も含めて流ちょうに英語が話せる先生だった。自分もあんな風に英語ができたらいいなと憧れたが、残念ながら3年の時に異動となってしまった。代わりに来たのはザ・ジャパニーズ・イングリッシュのお手本のような先生だった。あんなんでよく先生になれたなと中学生ながら思ったが、実際にどこまで英語ができたかわからない。それでも教師になれたからには一定の範囲で極められたからなのだろう。それがどの範囲かはわからないが、教師になるとしても英語の教師だけはやめようと思った。

数学の場合はどうだろうか。すべてを極めるわけにはいかないが、高校教師であれば、大学の入試問題くらいは解けるだろう(否、解けなければならない)とは思う。私も宅浪時代、どうしても解けない問題があって、聞く相手がいなかったので高校に行って数学の先生に教えてもらったことがあったが、その先生は見事に解いてくれた。人にもよるだろうが、入試問題ならどの大学のものだろうと100点取れるという先生はいるだろうと思う。そのくらいになれば堂々と教師になれると思う。それに対し、国語は基準があいまいである。何となく今教師をやれと言われたら国語はできそうな気がするくらいである。

完璧を求めればきりがないとは思うが、人に教える以上はある程度のレベルが必要だろう。そのレベルは最低限としては資格を取れるレベルであるが、私が教師になるのであればそれにとどまらずできる限りは極めるだろうとは思う。英語であれば日常会話ができるのは最低限で、できれば映画の中での会話や英語原本の本の表現などを採り上げてさり気なく話題を提供したりするくらいはしたいと思う。「英語が話せるようになりたい」という生徒のモチベーションを上げられるようでありたいと思う。

国語であれば、教科書に沿って教えて終わりではなく、文学作品を採り上げて議論したり、美しい表現(小池真理子の作品なんかは筆頭に挙げたい)などを探してみたりという事もできるかもしれない(もっとも時間がそれだけあるかどうかはわからないが・・・)。いずれにせよ、自分が職業として取り組むとなれば、最低限のレベルで満足はせず、いろいろと考えて手を広げていくだろう。孔子の言う「なお取りにがすおそれがある」というのではなく、「もっともっと」という飽くなき追及が尽きないように思う。

もっとも、学校の先生を見ているとサラリーマン教師も多いようで、必要な授業ができればそれでいいという感じに受け取れるケースも少なくはない。孔子の言う「追いかけて逃がすまい」どころか「この程度でいい」という感じである。自分は教師ではないので理想論に過ぎないのかもしれないが、少なくとも自分が携わった分野であれば、「もっともっと」という飽くなき追及はあってしかるべきかもしれない。そしてそれは何も学問に限らないように思う。例えばスポーツでもあてはまるように思う。

私は高校時代からはじめたラグビーを60を過ぎた今もやっている。日本のラグビー界を底辺で支えてきたという自負があるが、とてもではないがトッププレーヤーからすればかなりの実力差がある。だからこそまだまだうまくなりたいと思っているし、テレビでトッププレーヤーたちのプレーを見ては自分にもできないかと研究している。今時だからYouTubeでもいろいろとノウハウが公開されているので、それらも参考にしているが、まだまだ極めたとは言えない。「もっともっと」うまくなりたいと思うし、これからも研究していきたいと思っている。

学問でもスポーツでも極めつくすという事はありえない事なのかもしれない。学ぼうとする意欲があるうちは、可能性はいくらでもあるのかもしれない。それは終わりなき旅路であり、「取りにがすおそれがあるもの」というよりも永遠に取りつくせないもののように思う。否、「学ぼう」とする気持ちこそが学問なのかもしれない。そこに学ぼうという意欲がある限り、学問(スポーツも含めて)は無限に広がっていくものなのかもしれない。いつまで続けられるかわからないが、そんな学問をずっと続けていきたいと思うのである・・・

Erich RöthlisbergerによるPixabayからの画像

【本日の読書】

「戦後」を読み直す 同時代史の試み (中公選書) - 有馬学   戦略文化 脅威と社会の鏡像としての軍 (日本経済新聞出版) - 坂口大作





2025年2月2日日曜日

あなたの短所はなんですか?

「自分の長所と短所は?」と聞かれたら、みんなはどう答えるのだろうか、とふと考えた。我が社の社長は、新卒採用の学生との面談で「あなたの短所は?」と良く質問する。学生は思いもかけない質問に面食らいながら、あれこれと答えてくれる。社長はそれを聞いた後、「短所は裏返せば長所でもある」とよく学生に語る。そんなやり取りをよく横目で聞いているが、さて自分だったらどう答えるだろうと思う。自分の短所とはなんだろうか。

しかし、あれこれと頭を回らせてみたが、どうにもこれといったものが思い浮かばない。それは何も自分には欠点もない人間だというものではない。むしろ欠点だらけだろうと思うのだが、「何が短所か」と問われるとどうにもこれというものが思い浮かばないのである。短所の反対は長所であるが、では「長所は?」と問われると、なんとなく答えられる。「目標に向けてコツコツ頑張れる」とか、「(ビジネス上の)コミュニケーション力が高い」とか出てくるが、短所となると出てこない。

なんでだろうかとさらに熟考してみる。その理由は2つあるように思う。1つは、人間は自分の顔を見ることはできないのと同じで、自分の欠点を見ることはできないのかもしれない。鏡を使えば実際とは左右反対の顔を見ることはできるが、鏡なしで自分自身で見ることはできない。もう1つは、人間も馬鹿ではないので、自分自身で欠点だと認めたところは改善しようとする。だから短所と言うべきところが改善されてなくなってしまうということである。

私も多分、周りの人から見たらいろいろと欠点はあるのだろうと思う。妻に聞けば滔々と語ってくれるかもしれない。しかし、他人はそれを一々指摘してくれない。だから自分でも気づかないままになってしまう(もちろん、親切に指摘してくれれば直そうとするから直ってしまう)。指摘してくれればいいが、指摘してくれなければ他人から見ればはっきり見える短所が自分では見えない。他人との関わりの中で、自分で良くないなと思うところは直すことはできる。それは鏡で自分の顔を見るようなものであろう。

自分で意識していれば、他人の反応などから改めなければならないところに気付くかもしれない。私も以前は仕事であれば当然だと思うことをストレートに相手に伝えていた。しかし、それだとたとえ内容が正しくても相手から反発を受ける事がしばしばで、それは相手が悪いと開き直っていたが、当然それでは良くなるものもならない。そこで言い方にも気をつけるようにしたら、グッと自分の意見を聞いてもらえるようになった。自分の短所がそれで一つ減った。

まだまだ自分で気が付かない短所はあるだろうと思う。他人からは見えていて自分からは見えない短所。それを見つけるのはなかなか大変である。それと社長の言うように、裏を返せば短所も長所という事もある。「優柔不断」はよく言えば「慎重」だし、「せっかち」も「行動が早い」と言える。なので他人から見える短所を自分では長所と考えているところもあるのかもしれない。「コツコツと取り組む」と考えている事が「遅い」と思われているかもしれない。

そんな事を考えていくと、「短所が見当たらない」のも無理もないのかもしれない。繰り返すが、だから「短所がない」というわけではなく、「自分からは見えない」という事である。見えないから仕方がないと放置するのではなく、他人から指摘してもらえたら感謝を持ってきちんと耳を傾け、指摘してくれなくても他人の反応から気付く意識も必要だろう。そういう感性は常に持っていたいと思う。「あなたの短所はなんですか?」と尋ねられたら、「短所に気づかないところです」という事だろうか。いずれにせよ、自分の短所は敏感であり、常に意識して改善するようにしたいと思うのである・・・

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【今週の読書】
「戦後」を読み直す 同時代史の試み (中公選書) - 有馬学   戦略文化 脅威と社会の鏡像としての軍 (日本経済新聞出版) - 坂口大作  水中の哲学者たち - 永井玲衣