2025年1月13日月曜日

言葉のキャッチボール

先日、テレビで津軽弁がまったくわからないという事をやっていた。現地で高齢の方にインタビューするのだが、その答えを聞いても確かに何を喋っているのかわからない。同じ地元の若い人にそれを聞いてもらい、解説してもらってようやく理解できた。聞いただけでは日本語なのかすらわからなかったが、解説を聞けば確かに日本語だった。世界には7,000もの言語があるという(『昨日までの世界』読書日記№377)。俄には信じ難いが、日本語でも方言によってこれほど違う事を考えると、確かにあまり交流のない地域ではその地域独自に言語が発展し、違う言語のようになるのだろう。

しかし、同じ標準語でも言葉が通じないかのように言いたい事が伝わらないという事がある。あるいは何を言っているかわからないという事がある。哲学などは普通の人が読んでも理解が難しいことからよくわかる。同じ言葉のキャッチボールなのに相手の投げたボールが取れない。キャッチボールの基本は相手の胸を目がけて投げるのが基本である。相手が取れる様に投げるものである。暴投なら当然取れない。中には運動神経が良くて取れる人もいる。哲学で言えばそれなりの勉強をした人だろう。

いつも思うのであるが、カントやヘーゲルなど難解な哲学でも、研究者による解説書でわかる場合がある。カントが投げた難解なボールを研究者がジャンピングキャッチし、それを取りやすく投げてくれるので一般の人にも理解できる様になる。研究者にできる事がなぜ、大哲学者にはできないのであろうかといつも不思議に思う。考える事とそれを表現する事はまた別の事と言えるのであろうか。あるいは哲学者にとっては取りにくいボールを投げているという自覚がないのかもしれない。

ボールはきちんと投げたが、相手が落球するという事もある。きちんと伝わらないという事である。それは投げた方が拙いという事もあるし、受け取る方が理解できないという事もあるし、その両方である事もある。コミュニケーション不足は日常でよくある。「そんなつもりはなかった」という類である。また、日本人は割と直接モノを言い難い、言わないという傾向がある。間接的な表現で気づいてもらおうというのは、相手に対する心遣いであるが、一方で伝わらなければ言葉のキャッチボールができていないという事になる。

『エレガントな毒の吐き方 脳科学と京都人に学ぶ「言いにくいことを賢く伝える」技術』(読書日記№1516) によれば、京都人は相手に直接批判的な事は言わないらしい。ピアノがうるさい場合は、「ピアノが上手にならはって」などと遠回しに言うそうである。鈍感な私には絶対その意図に気づかない自信がある。それが故に、私は相手にとって耳が痛い事でも直接言う主義である。それで嫌われたなら仕方ないと腹を括っている。ただし、言い方には気をつけている。豪速球を投げ込むのではなく、取ることを意識した緩やかなボールである。

最近、我が社の取締役の同僚にもそのような感じで意見を言った。彼の行動が社長以下、他の取締役の考え方からズレているのである。もうずっと間接的に言ってきたが、埒開かず、直接言う事にしたのである。「こういうケースではこうした方がいい」と。ただ、「私にはそう思えるのですが、どう思いますか?」というマイルドな表現にした。それが良かったのか、彼も何とかして社長の信頼を得たいともがいているところだったからか、私の意見は素直に受け取ってもらえた様である。

人類は言葉という武器を使って発展してきた。ただ、その使い方は人によって巧拙がある。野球のキャッチボールと同様、言葉のキャッチボールも相手が「キャッチできるか」が重要である。独りよがりは良くない。「適切に伝わったか」を常に意識していたいと思う。そして伝わっていない時は、ボールを取れない相手の責任ではなく、「取れるボールを投げられない」自分の責任である。ビジネスの成果に直結する言葉のキャッチボール。より上手くできるように意識したいと思うのである・・・


stanbalikによるPixabayからの画像

【先週の読書】
こころの処方箋(新潮文庫) - 河合 隼雄  三体2 黒暗森林 下 (ハヤカワ文庫SF) - 劉 慈欣, 大森 望, 立原 透耶, 上原 かおり, 泊 功  春の雪 (新潮文庫) - 三島 由紀夫




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