2025年1月22日水曜日

論語雑感 泰伯第八 (その16)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感
【原文】
子曰、狂而不直、侗而不愿、悾悾而不信、吾不知之矣。
【読み下し】
子(し)曰(いわ)く、狂(きょう)にして直(ちょく)ならず、侗(とう)にして愿(げん)ならず、悾悾(こうこう)として信(しん)ならざるは、吾(われ)之(これ)を知(し)らず。
【訳】
先師がいわれた。「熱狂的な人は正直なものだが、その正直さがなく、無知な人は律義なものだが、その律義さがなく、才能のない人は信実なものだが、その信実さがないとすれば、もう全く手がつけられない」
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論語も訳によっては微妙な違いがあったりする。今回の言葉については、「気位が高いくせに不正直であったり、ばかなくせにずるかったり、無能な上に不まじめだったりしては、わしも手がつけられぬわい」という訳もある。言わんとするところは、1つでも痛い欠点に付け加えてもう1つ痛い欠点があるという事だろうか。「できが悪いけど頑張っている」となれば、人は見捨てにくいが、「できが悪いのに努力もしない」となれば誰も助けようとは思わない。当たり前と言えば当たり前の人の世の理屈である。

でもそれはなぜなのだろうか。どうして人は「できが悪いけど頑張っている」人を助けたいと思うのであろうか。そしてどうして「できが悪いのに努力もしない」人を助けたいと思わないのだろうか。比較してみると、「できが悪い」というのは、「助けたい」と思う事に影響する要素ではないようである。同じように「熱狂的(気位が高い)」「無知(ばか)」「才能のない(無能)」というのも同様である。影響するのは「努力」「正直」「律儀(正直)」「信実(真面目)」である。

なぜ、人は努力をする人に心を動かされるのであろうか。「できが悪い」人を捨てる事ができても(できの悪い我が子は別)、「努力をする人」を捨てる事はできないのはなぜだろうか。もちろん、「努力よりも結果」と言って努力を認めない人もいる(特にビジネスの現場で、あるいは外資系企業とかで、)が、そういう考え方に対して、理解はできても心の中ですんなりと納得しかねるしこりが残ったりするのではないだろうか。

努力をする事に関して否定する者はいないだろうと思う。努力をする姿を良いものと思うのは、人間の本能に近いものなのかもしれないと思う。だから、その姿を見ると心を動かされる。それを否定したくないし、されたくない。自分の努力は当然認めてもらいたいし、人の努力も認めたい(何かその人に悪意でもあれば別であるが)。そういう気持ちが、どこか人の心の根底にあるのかもしれない。

その昔、初めてもった部下は正直言ってできの悪い部下だった。当時、総合職として採用された銀行員であれば、融資、取引先係といった部署に配属されるのが常で、預金の窓口に配属される事はない。それは預金の窓口が一段低く見られていたからにほかならないが、その部下はあまりにもできが悪くて、最後には預金係に転属させられたほどである。そんなできの悪い部下に、新米上司の私はさんざん苦労させられた。

ある時、やはりいろいろと指導していた時の事、その部下は開き直ったのか、堂々と私に主張してきた。「でも私も真面目に頑張っていますから!」と。当時の私はそれを聞いて体の力が抜けていった。真面目に頑張るのは給料をもらう以上当たり前の事で、それは「毎日会社に来ています」という事と同じである。それは大前提で、その上でどれだけ実績を出すのかが問われているのである。それでも家に帰って仕事に役立つ勉強でもしていればともかく、そういう事もなく、「当たり前」の事の主張は、幼稚園児でもあるまいし、評価の以前の問題である。

学生時代、ラグビー部に高校時代ほとんど運動をしていなかった者が入部してきた。軽い練習ですぐに息が上がり、見るも辛そうで、きっとすぐに辞めるだろうと思っていた。しかし、彼は頑張って練習に通い、ドンケツだったが何とか練習についてきた。夏合宿が過ぎてもうまくはならなかったが、やがて普通に練習についてこられるようになった。そして4年間を過ごし、レギュラーにはなれなかったが、きちんと卒業した。私は今でも彼の頑張りは評価している。レギュラーになるという結果は残せなかったが、辞めなかったのは彼の誇るべき勲章だと思う。

同じ頑張りでもラグビー部の後輩には「努力」が伴う。だから評価ができる。しかし、毎日出勤して仕事をするのは「努力」とは言い難い。そこが2人の違いである。同じ「頑張る」でもそこに「努力」という要素が入っているかどうかが重要であると言える。そういう「努力」を人は否定できない。逆に言えば、「できが悪いならせめて努力しろ」という事になる。それすらしないとなれば、人はもう認めてはくれない。寛大なイメージのある孔子ですらお手上げなのである。それが人の正直な感情なのだと改めて思うのである・・・


SimonによるPixabayからの画像


【本日の読書】

わが投資術 市場は誰に微笑むか - 清原達郎  戦略文化 脅威と社会の鏡像としての軍 (日本経済新聞出版) - 坂口大作





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