【原文】
子曰天生德於予桓魋其如予何
【読み下し】
子曰く、天德を予於生せり、桓魋其れ予に如くこと何ぞ。
【訳】
先師がいわれた。
「私は天に徳を授かった身だ。桓魋などが私をどうにも出来るものではない。」
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「天に徳を授かった身」と自ら言ってしまうところが、自己主張の強い中国人気質なのか、日本人的には抵抗感のある物言いである。それはともかくとして、桓魋という人物との関係がよくわからない中、この言葉だけを採り上げて何かを論じるのは適さない。言葉はその時々の前後の状況によって解釈が変わるからである。一説によると、孔子は桓魋に命を狙われていたという。その理由はよくわからないが、己の信じるところに従い、危険などに怯みたくないという孔子の思いなのであれば、強い信念を感じる言葉である。
自分に何か確たる考えがあり、それを他人によって変えさせられたくないというのは、現代でも良くあること。徳を授かったとまでは言わなくとも、「正義は我にあり」くらいは誰にでもあることだろうと思う。1年半にわたって裁判で争った前職の社長との係争も和解することになった。お互い「正義は我にあり」という思いを抱いているわけで、どちらが正しいのかは立場によるのだろう。
改めて振り返ると、持病もあって会社経営を終わらせたいと考えた社長は、M&Aで会社を売却した。購入した相手は「従業員はいらない」という条件を出し、社長は全員に解雇を告げた。一応、就職先として知古の上場企業に再就職の斡旋をしてくれた。ただし、正社員ではなく契約社員であり、給料は保証してくれるものではなく、私などは半減であった。退職金は「規定がない」という理由で支給を拒否された。とうてい受け入れられるものではなく、社員を代表してそれは酷いだろうと抗議したら、一応、雀の涙ほどの退職金の支給に応じた。私などは1ヶ月分の給料にも満たない額である。
その会社は、もともと親が金を出して設立し、社員も親が集めてできた会社で、その息子は用意してもらつた社長の椅子に苦労もなく座ったのである。社長とは言いながら何か考えがあって経営していたわけではなく、会長として後見していた父親が亡くなると、途端に経営は迷走。私が誘われて入社した時点で、過去8年中6年赤字を計上し、累積赤字は1億を超えて債務超過一歩手前であった。それを私がテコ入れし、他の社員の協力を引き出して、在籍していた6年間すべてで黒字計上し、累積赤字も一層した。最終年度は過去最高益を計上したが、そこでお役御免となったのである。
裁判も我々社員vs社長という構造。社長は裁判で、「退職金の多寡は立場によって意見が分かれるもので、十分払った」と自らの正当性を主張するのに終始。我々からすれば呆れる主張だったが、元々自分の父親が金を出して設立した会社であり、「会社のすべての資産は受け継いだ自分のもの、社員にはきちんと給料とボーナスを払って来たので十分報いている」という意識があったようである。それはそれでわからなくもない。自分も病気を抱えて先行き不安であるし、会社を売ったお金を(億単位なのであるが)すべてもらって何が悪いということなのだろう。
そこはお互いの正義があり、相手が何と言おうと自分の正義に従って恥じることはないのだろう。「天に徳を授かった身」と思っているか否かは別として、己を正当化する心理はお互いに共通であろう。人は皆そういうものではないかと思う。条件的には負けに等しい和解であり、忸怩たるものがあるが、そこは仕方がない。気持ちを切り替えて今の仕事に邁進するしかない。お互いに正義を信じていても、その正義は人の数だけあるものなのだろう。自分が信じるものを絶対視するのは、今も昔も変わらぬ人の心理であると思うのである・・・
Sang Hyun ChoによるPixabayからの画像 |
【本日の読書】
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