2022年8月7日日曜日

うまく議論を進めていく方法

 人と意見が対立した時、昔は相手を論破しようとあれこれと考えたものである。基本的に自分の意見は正しいと思っているし、それゆえに「間違っている相手の考えをいかに正すか」が大事であったのである。どうしたら相手に対し、自らの考えの過ちに気づいてもらえるか。あれこれと説明するも、どうしても相手が考えを改めないと、こちらもだんだんと熱くなってしまい、ついつい余計な一言を発してしまうこともあった。それで関係を悪くしてしまった相手もいる。

 かつて職場の同僚と大きな衝突をしたことがある。相手の主張は平たく言えば、「目的が正しければ手段は逸脱しても許される」というもの。それに対し、私が「目的が正しくても手段は逸脱するべきではない」と反論したのである。よく刑事ドラマであるような、証拠をでっち上げて犯人を逮捕するみたいなものである。どちらが正しいかは本当に難しい問題だと思うが、その時我々が直面していた問題に限って言えば、私は自分の意見が正しかったと今でも思う。

 では、自分が正しかったから相手と仲違いしてよかったのかと言えば、そうではない。そこはもう一工夫あっても良かったと思う。また別のケースでは、相手の意見がどうしてもおかしく、さらにその間違いに気が付かないのにイラつき、相手がしゃべるそばから論破してしまった。その時は相手も黙ってしまい、結局は私は自分の主張を通して会社としての対応を決めた。それは結果的に正しい選択であったが、論破された相手が納得していたかと言うとそうではなかったと思う。それ以来、私と意見が衝突すると自分の意見を簡単に引っ込めるようになったように思われる。

 意見が対立するケースでは、大抵相手に対し、「どうして理解できないのか」という苛立ちが生じてしまう。そういう場合、大抵相手に対する尊敬は持てないどころか、腹の中でバカにしてしまうことが多い。きっとそういう気持ちも相手に伝わるのかもしれない。それに自分自身、大抵後で自己嫌悪感に苛まれることになる。一方、それに対して、相手が素直に同意してくれた場合は気分も良い。「どうしたら相手に理解してもらえるのか」は、私にとって大きなテーマであった。

 しかし、ここ最近、そんな考え方も変わってきている。転職を機に、自分の考え方を変えるようにしたのである。すなわち、「相手は自分の意見こそが正しいと考えていて、その考えは変わらない」と考えるようにしたのである。また、相手がなぜそういう考え方をするのかと考えるようにもしたのである。大抵、相手がそう考えるには十分な理由がある。ならば、まずその考えをしっかり聞くことが大切だと考えたのである。当然ながら、相手と同じように考えるのであれば、自分もそう考えるかもしれない。

 そもそも人は自分の知識や経験をもとにさまざまな判断を下す。よくよく突っ込んで聞いてみると、過去の知識や経験からそのように考えたときちんと説明してくれる。じっくり聞くと、「なるほど」と思えるものである。「なるほど」と思えても、自分が同じように考えるかと言えばそうではなく、もっと大局的に判断しようよと思うことも多い。同じ経験をしたとしても、立場を変えれば考え方も変わったりする。違うのは、知識か経験か立場か、それによって同じ事象を目にしても意見は異なってくる。

 そうわかれば、議論もしやすくなる。相手の立ち位置が違うという場合は、立ち位置を変えてみるように促すが、それも難しければ、それ以上説得しても無駄なこと。相手には相手の意見があって、それは自分の意見と比べ、正しさは五分と五分。そう考えれば無闇に相手を否定する必要もないし、否定そのものもできない。相手の意見を一つの意見として受け入れ、ただ自分とは違うと思うしかない。そしてそう相手に伝えるしかない。

 そんなことを繰り返してきたところ、このところ人間関係は良好である。意見の違いに際し、それを真っ向からぶつけ合うのではなく、意見の違いの根拠を説明するに止める(私は全社ベースで考えている、とか)のである。面白いことに、それで相手が考え直してくれることもあるし、そこまでいかなくても議論は続けてくれる。そのほかの相談事にも応じてくれるし、そんな対応をしていたら、私自身いつの間にか会社の役員会では取締役間の潤滑油的な存在になっている。

 私がそんな経験を通して学んだのは、「他人の意見」を否定しないということである。まずは相手の考えの根拠をじっくりと聞き出し、そこで根拠がわかれば、その根拠に対する意見をぶつけてみる(「部長の立場ではなく、取締役の立場で考えてみたらどうでしょう」みたいな感じ)。どちらかに決めなければならない問題であれば、どうするのが良いか相手の意見を聞くのも良い。相手が責任を持ってやるというならそれに従って任せるのも手だし、相手の対応によっては自分が責任を持つからと言って了解をもらうのも手である

 そうした「相手の意見を否定しない」対応は、意外に物事をスムーズに進めさせることができる。激論を飛ばす必要などどこにもない。かつてもこういう対応が取れていたら、随分と違っていただろうなとつくづく思う。まぁ、そういう経験をしてきたからの境地であるからかつての激論も意味はあったと言える。せっかく「痛い思い」をして身につけた知恵なので、これからも大いに活用していこうと思うのである・・・


Susanne Jutzeler, Schweiz,によるPixabayからの画像 


【今週の読書】




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