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会社というのは、組織で仕事をする場である。組織で仕事をするということは、個人でするよりも大きな仕事をすることができる。1人より2人、2人より3人と多い方がより大きな仕事ができる。と言っても、数に単純比例するわけでもなく、人には考え方の違いがあり、能力の違いもある。1人が2人分以上の成果を上げる場合も当然ある。優秀な人間はやがて部下を使うようになる。どんな組織であれ、有能なリーダーがいる組織の方が強いのは当然である。そしてそんな有能なリーダーの下で働く有能な部下もまた然りである。
有能なリーダーももとは、有能な1プレーヤーから始まっている。その実績が認められ、リーダーに任命されるわけであるが、有能なプレーヤーであることは有能なリーダーであることを約束しない。なぜなら、自分がプレーすることと、部下をマネージすることは違うからである。チームとして思うような実績を挙げられず、それも部下が思う通りに動かなかったりすることが原因だったりすると、リーダーの能力が疑われてしまうかもしれない。部下を思う通りに動かしチームとして実績を挙げるというのは、また別の能力であると思う。
部下が有能であればそれに越したことはない。実際、有能な部下とそうでない部下とでは雲泥の違いがある。私も初めての部下が有能でないタイプであり、思う通りに係を動かせずに当時の支店長によく怒られたものである。支店長も実情はよくわかっていて、部下の仕事もしている私を見かねて終いには部下を変えてくれた。新たに転勤してきた部下は実に有能な男で、係の仕事が面白いようにスムーズに回るようになった。こんなに違うのかと驚いたものである。2人の部下の何が違うのかと言えば、それはやはり「考え方」であったと思う。
当時、我々は非常に多忙な環境にあったが、新しい部下は仕事に優先順位をつけ、優先度が低い仕事は遠慮なく後回しにし、事前準備を徹底して仕事の効率化を図り、前任者の倍くらいのペースで仕事をこなしていった。おかげで私も部下の仕事のカバーに向けていた手間を本来の自分の仕事に向けられたので、係の仕事もすべてがスムーズに回り出した。「使えない部下はいない、部下を使えない上司がいるだけ」という言葉を私は気に入っているが、「使える部下」がいると上司も仕事ができるようになる。それは紛れもない事実である。
私にとって「いい部下」とは、やはり第一に「考え方がしっかりしている部下」である。何より「人は考え方でできている」と考える私としては、これが第一である。これができていれば自ずと仕事もできるであろう。そういう有能な部下がいれば、自分は本来自分がやるべき仕事ができるし、そうすればチームの業績も上がるだろう。1人ひとりが自分のやるべき仕事をきっちりこなせるチームほどそのパフォーマンスは最大に近づくものである。そこはまず第一に挙げたいと思う。
孔子と子游の会話の中で、子游は澹臺滅明という部下を評して「近道やぬけ道を歩かず、公用でなければ決して私の部屋に入ってこない」としている。私とは異なる考え方である。「近道や抜け道」が何を意味しているかは不明だが、大事なのが「目的地に着く事」であれば、通る道は違法でない限り問題はないと私は考える。それに用がなくても気軽に部屋に入ってきてほしいと思う。雑談の中からお互いの理解が深まったり、貴重なヒントを得られたりするものである。部屋のドアは常に開けておきたい私としては、澹臺滅明という部下はちょっと使い難いかもしれない。
最も当時の(今もか)中国では、賄賂などの不正行為がありふれていたのだろうし、澹臺滅明のような「堅すぎる」スタンスこそが信頼につながったのかもしれないから、一概にはなんとも言えない。人はやっぱりコミュニケーションによって信頼は深まるものであるし、部下と以心伝心的な関係を築くにはコミュニケーションは欠かせない。そしてそんなコミュニケーションは、いつでも「ちょっといいですか」と話しかけられる関係がないと取り難いし、用がなくても部屋に来て雑談を交わすような関係も大事だと思う。そして上司たる自分は、そんな部下が気軽に入って来られるよう、部屋のドアは常に開いておきたいと思うのである(部屋はないけど)・・・
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