2021年7月29日木曜日

仕事とモラル

 先日、【「あなたから買いたい」と言われる超★営業思考】(読書日記№1282) という本を読んだのだが、その中でTBSからプルデンシャル生命保険に転職した著者が、最初はなかなか契約が取れず、後輩に圧力をかけて契約を取ったエピソードが紹介されていた。プルデンシャル生命保険は、完全成功報酬制らしく、契約が取れないと給料がもらえないらしい。家族も養わなければならないとなれば、なりふりなど構っていられず、体育会系で言うことを聞きやすいと踏んだ後輩から契約を取ろうとしたらしい。その事情はよくわかる。

 実は、私もソニー生命から転職しないかとオファーを受けたことがある。サラリーマンであればこういうオファーが来るということはちょっと誇らしいことでもあり、その時は私も「話ぐらいは」と面接に出かけて行ったのである。そこで根掘り葉掘り聞かれたのは、銀行でのお客さんとの親密度。「年賀状は何通ぐらい出しているのか」とか、担当が外れてもお付き合いが続いているお客さんは何人ぐらいいるのかとかである。質問を受けながら、「あぁ、これは転職後に保険の勧誘ができそうな『見込み客』をどれくらい持っているのか確認しているんだな」と感じたのである。

 ソニー生命もプルデンシャルも、基本的に営業マンが紹介をもらって営業するスタイルを取っている。最初は家族や友人、知人からスタートするのだろう。その時は転職する気もそれほどなかったので断ったが、こういうセールスを伴う保険勧誘の仕事は、私には合いそうもない。背に腹は変えられず、無理に契約してもらうのも気がひける。先の本の著者は、一旦後輩から契約を取るが、すぐにクーリングオフをされ、後輩は電話にも出てくれず、人間関係が壊れてしまったようである(その後、やり方を変えなんとトップセールスになったそうである)。

 保険に限らず、不動産仲介業なんかも基本的に成果報酬制を取っているところが多く、「お行儀の悪い」営業マンはかなりいる。例えば賃貸の仲介手数料は、法律で「貸し手と借り手から合計で家賃の1ヶ月分」と決まっているが、通常「借り手」から1ヶ月分をもらい、貸し手からは「広告料」という名目で1ヶ月分をもらう。これを「礼金を1ヶ月分上乗せして請求していいから広告料を2ヶ月分くれ」なんてことは当たり前になされている。法人契約で礼金が2ヶ月以上の場合は注意が必要である。

 「お客様は神様」的に「顧客ファースト」の精神からすれば大きく外れる行為である。エイブルグループなどは、会社をあげて良心的に営業しているが、名前の知れていない街の仲介屋さんはちょっと注意しないといけない。「自分の成績か顧客の利益か」どちらを優先すべきかと言えば、それは「顧客の利益」というのが正解であるが、それで自分の給料がもらえない(あるいは少なくなる)場合、それでも「顧客の利益」と言えるだろうか。不動産業界では、「自分ファースト」の営業マンの方が残念ながら圧倒的に多い。

 私は不動産業界にこれまで属していたが、幸い仲介業は片手間にやるだけで、成果報酬でもなく、こんな事をしなくても困らなかったから余裕を持って「顧客ファースト」の行動が取れた。だが、仮に仲介業社で働いていたら、顧客ファーストの精神を貫き通せただろうか。もちろん、必死で顧客ファーストを貫くべく創意工夫と努力をしたと思うが、究極的に自分と顧客とを天秤にかけたらわからないと思う。

 法律の世界には、「緊急避難」という考え方がある。溺れかかっている時に、近くに浮かんでいた浮き輪を人と争って奪い、結果相手が溺死した場合に責任を問われることはないという概念である。もちろん、生命、身体の危機を前提にした「緊急避難」と単なる仕事の「自分ファースト」とが同じだと言うつもりはないが、完全成功報酬型の仕事や外資系などですぐクビにされるような場合、その恐怖(特に家族がいる場合)は軽く見ることはできないと思う。

 本当に生きるか死ぬか(失業するかしないか)という状況であればまだしも、少しでもゆとりのある状況でどう行動するかはその人自身のモラルと言える。人を押しのけてでも自分を優先したり、人の取り分を考えずに自分の分だけを考えたりはその人自身の人間性と言える。先の著者は、後輩から契約を取った時はよほど追い込まれていたのだろうが、そのあとすぐに気がついて、後は平日は毎日会社に泊まり込んで仕事をしたという。つまりそこまでやれば、モラルを持って仕事ができるわけであり、トップセールスという成功者の道を歩めたのであろう。

 自分もかくありたいと思う。どんな状況においても顧客や同僚や友人知人に対し、恥ずべき行為をしなくても済むようにしたいと思う。こういう事は、常日頃考えて意識していないとついつい魔がさしてしまいそうである。サラリーマン人生もそろそろ先が見えてきている。それゆえに、最後の最後まで襟を正して働きたいと思うのである・・・



【本日の読書】
  


2021年7月25日日曜日

持てる者と持たざる者

 子供の頃、「金持ちの家に生まれたかった」という思いは幾度となく思ったものである。それは小学校も高学年になると家に友だちを呼ぶことに抵抗感を抱くようになったことにも表れていた。その頃住んでいた家は、2階建ての家の1階に住んでいたのであるが、六畳間と八畳間に風呂と台所、今で言えば2Kの家であった。その家に親子4人で暮らしていたのである。友だちの中には四畳半にトイレと台所というアパート住まいもいて、それに比べると自分の家が恥ずかしいというほどではなかったが、それでももっと広い家に住み、自分の部屋がある友だちもいて羨ましく思ったものである。

 今でこそ、両親は長野県から裸一貫で出てきて、中卒の親父は頑張って一軒家を構え、自営業を全うして借金もすべて返済して引退した。親父もまた恵まれた環境ではなかったが、私も大学を出させてもらい今がある。それほど恵まれていなかったからこそ、努力して難関国立大学を出られたと言える。高校生から小遣いをもらっていなかったし、自分で言うのもなんだが、この自立心は自分の育った環境ゆえであることは間違いない。もしも金持ちの家に生まれ、恵まれて育っていたらどんな人間になっていただろうか。

 親が会社を上場させた成功者で、金持ちの家に育ったある知り合いは、その親のコネで知り合いの上場会社に就職し、何年か修行をした後、30代の若さで父親の経営する上場企業の取締役となった。その後、父親の有り余る資金で会社の設立資金を出してもらい、社長に収まった。社員も父親が子飼いの部下を集めて順風満帆で事業をスタートした。そしてそれほど苦労もせずに会社を売却して引退生活である。ただ、経営手腕としては父親の帝王学までは伝授されず、おそらく普通の会社ではサラリーマンとしては通用しないだろうレベルであった。

 自分と比べて羨ましいと思う半分、では自分もそうなりたいかと言うと難しい。お金か実力か。どちらが好ましいだろうか。その人はおそらくもう何もしなくても十分食べていける。仕事も趣味みたいなものだったとさえ言える。多少仕事なんてできなくてもお金があれば喰うに困らない。「俺の方が実力がある」などと言っても、所詮負け惜しみである。私はまだまだ働かなくては家族を養っていけない。実力といったって、銀行では役員になるほどではなく、自分で事業を起こすほどでもない。腕一本で外資系を渡り歩き、年収何千万円というレベルには程遠い。つまり、典型的な中堅サラリーマンである。

 それでもどちらがいいのだろうか。女性であれば、金持ちのボンボンと普通のサラリーマンとどちらと付き合うかとたとえられるだろうか。お金か愛か。愛はないけどお金のある生活か、愛はあるけどお金のない生活か。理想は「愛」であるが、迷わず答えられるのは10代までではないだろうか。今の自分の姿は、間違いなく両親が作り上げた生活環境の賜物である。金持ちの家庭であれば、今の自分ではない自分だったと思う。それはどんな自分だっただろうか。嫌味で傲慢な奴になっていたかもしれないが、もしかしたら慈善活動を熱心にやり、気前の良いいい奴になっていたかもしれない。

 ただ中学を卒業してすぐ東京に出てきて住み込みで働き始めるしかなかった親父よりは、はるかに恵まれていたことは確かである。上を見ればキリがないが、普通に大学まで出られる環境だったことは間違いなく、それは恵まれていたと今では断言できる。もっと金持ちの家に生まれていたら、親の残した金で何不自由なく暮らせていたかもしれないが、親の残した財産を減らして終わる人生だっただろうと思う。今の両親で良かったのである。

 転職にあたり、今度就職する会社の社長さんからは意外にも熱心に誘っていただいた。それは間に入ってくれた方が、この6年半の私の仕事ぶりを評価して推薦してくれたことに他ならないが、それも持たざる家庭に育ったがゆえに、ささやかではあっても自らつけた実力の成果とも言える。親の残した財産を減らして生きるよりも遥かにいいと思う。そうして自分対しては納得するが、では果たして自分の子供たちはどう思っているのだろうかとふと思う。やはり「金持ちの家に生まれたかった」と思っているだろうか。

 ひいき目に見ても見なくても我が家は典型的な中流家庭である。4LDKの一戸建てと言えど、住宅ローンは70歳まで払わなければならない。借りた時は「途中で繰り上げ返済して・・・」なんて考えていたが、それで返済額は減ったが、依然として70歳まで返済は続いていく。教育費はこれからまだまだ重い負担が続く。車の買い替えも家族揃っての海外旅行も当分お預けである。それほど不自由はさせていないと思うが、当の本人たちはどう思っているのだろうか。ただ、思うのである。むしろ、「金持ちの家に生まれたかった」と思う方がいいのかもしれないと。

 「貧しさの中なら、労りだけで十分子供は育つ。だが豊かさの中では精神的な厳しさを与えなければ鍛えられない」とは松下幸之助の言葉である。子供の成長にはハングリー精神がある程度必要だろうと思う。歯を食いしばって試練の壁をよじ登る気概である。「子孫に美田を残さず」と言う諺も結局、同じことを言っているのだと思う。自分の父親が本当はすごいんだなと思ったのは働き始めてからだったかもしれない。地道にコツコツと働き、家族を養うことは大変なことなのだと理解できた時だったと思う。おかげで今の自分がある。

 子孫に残したくても残すほどの美田はないが、それもまた良しなのだろう。持たざる者こそが持てるものを持てればその方がいいだろう。そういう気持ちを子供たちには背中で伝えたいと思うのである・・・


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【今週の読書】
     


 

2021年7月22日木曜日

論語雑感 公冶長第五(その24)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。
【原文】
子曰。巧言令色足恭。左丘明恥之。丘亦恥之。匿怨而友其人。左丘明恥之。丘亦恥之。
【読み下し】
子(し)曰(いわ)く、巧言(こうげん)、令色(れいしょく)、足恭(すうきょう)なるは、左(さ)丘(きゅう)明(めい)之(これ)を恥(は)ず。丘(きゅう)も亦(ま)た之(これ)を恥(は)ず。怨(うら)みを匿(かく)して其(そ)の人(ひと)を友(とも)とするは、左(さ)丘(きゅう)明(めい)之(これ)を恥(は)ず。丘(きゅう)も亦(ま)た之(これ)を恥(は)ず。
【訳】
先師がいわれた。「言葉たくみに、顔色をやわらげて人の機嫌をとり、度をこしてうやうやしく振舞うのを、左丘明は恥じていたが、私もそれを恥じる。心に怨みをいだきながら、表面だけいかにも友達らしく振舞うのを、左丘明は恥じていたが、私もそれを恥じる」
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 「面従腹背」という言葉がある通り、世の中では心とは裏腹に他人に合わせなければならないというのはよくあることである。サラリーマン社会では典型であるし、それはサラリーマン社会ならずともママ友同士の間だったり、ご近所付き合いだったり、人と人の間ではごくありふれていることであろう。左丘明という人物も孔子もそれを恥じるとしている。それはその通りだろうと思う。だが、その通りにならぬのもまた人の世である。

 人間誰しもその人なりの考えがあり、それは必ずしも誰もが同じというわけではない。考え方が違えば、時に不快な思いをするのも事実。私も銀行員時代、部長の顔色ばかり伺う課長に辟易していたことがあったが、ぐっと堪えて課長に接していた。そうしなければ仕事に支障をきたすし、それはプロとして問題である。表面だけは「いい部下」を演じていたものであるが、それは左丘明からすると卑しむべき態度なのだろうかとふと思う。

 そうではなくて、「度を越した」態度だとするなら大丈夫かもしれない。ただ、では課長は「度を越していた」かと言うと、そうも言い切れない。判断基準を「(課長として)自分がどう思うか」ではなく、「部長ならどう判断するか」に置いていただけである。簡単に言えば「忖度」であるが、会社は「部下の考え」で動くのではなく、基本はトップの考え、およびそれに基づく部長の考えであり、それを受けた課長の考えで動くものである。であれば、自分の考えより「部長がどう考えるか」に判断基準を置いていた課長の態度は間違いではない。

 さすがに漫画に出て来るような揉み手擦り手で上司に寄り添うような人は見たことはないが、何を言われても自分の考えを主張できず、影でブツブツ言っている人なら山のように見ている。『きみはいい子』という映画では、ママ友仲間に馴染めず苦労する若い母親が出てくるが、そういう表面だけいかにも友達らしく振舞っている人は多いだろう。

 だが、では自分の考えがすべてで、媚びへつらうのは悪いのかと言うと、まず「媚びへつらっている」かどうかはその人にしかわからないことである。先の課長もずいぶん部長に気を使っていたが、揉み手はしていなかった。呼ばれればいそいそと駆けつけていたが、本人は「媚びへつらっている」とは思っていなかったと思う。それはあくまで主観の問題であると思う。理不尽な指示に耐えなければならないこともあるが、だからと言って媚びへつらっているわけではない。

 実際、バカであっても上司なら立てないといけないし、取引先であればなおさらである。それは面従腹背であっても、「関係性の維持」という意味では大事なことだと思う。気にくわないからと言って片っ端から喧嘩していたのでは仕事は成り立たない。だから人によってはストレスも溜まるのだろう。私の好きな言葉に「ライオンに勝てると思えば猫にもなれる」というものがある。表向き「いい部下」「いいママ友」「いい隣人」を演じるのは人間関係を維持する上で大事だったりする。

 それは心の中では毛嫌いしている人物であっても、軽蔑している人物であっても同様である。それらにいちいち嫌だといっていたら会社勤めなんてできないし、ご近所付き合いもギスギスしたものになるだろう。なんでも心の赴くままに人と接することができるわけではない。付き合わなくて済むなら当然そうするが、付き合わざるを得ないのであれば、面従腹背もまたやむを得ない態度である。

 時に表向きの顔を作るのは大事だったりする。とくに女性なんかはそうであろう。私も同僚の女性がいつも笑顔を向けてくれるからといって、安心しきってはいけないのではないかと思うべきかもしれない。現代社会で心の思うままに生きられるという人は、それだけで幸せなのだと思うのである・・・


Thomas WolterによるPixabayからの画像 


【今週の読書】

  



2021年7月18日日曜日

子供の人格形成には何が影響するのだろうか

 高校1年になった我が息子。小学生から野球を始め、いずれラグビーをやってほしいという親の願い虚しく、高校でも野球部に入部。この夏、甲子園の東京予選では1年ながらレギュラーで試合に出場した。もっとも、弱小都立高の野球部ゆえ部員の層が薄いのが幸いしたと言える。本当はいきなりレギュラー出場するよりも、「ライバルを追い抜けないと試合に出られない」という環境が本人の実力向上という部分では良いと思っていたが、致し方ないところである。

 さっそく、夕食の席では実力の劣る先輩をバカにするような発言をしていて、なんとかしなくてはと考えている。たとえ実力が劣っていても、先輩は先輩。仮に後輩だとしても、野球は1人ではできないチームスポーツであり、実力のいかんに関わらずメンバーがいないと試合はできない。まずはチームメイトとしていてくれるだけでありがたいものである。実力が劣るなら、チームとしてそれをどう克服するかを考える方向に向けないといけない。仲間を大事にするのはチームスポーツの基本中の基本であり、そんな仲間に対する態度としても良くない。どう伝えれば効果があるのか。頭ごなしに言って効果があるのか悩ましい。

 3代目で会社が潰れるというのはよく耳にすること。初代が会社を立ち上げて成功しても、2代目は割と初代の苦労を見ているし、直接薫陶を得られるのでまだいいが、生まれた時から恵まれた環境が当たり前だと思って育つ3代目はバカ息子になりがちで、ゆえに会社を潰してしまうというのである。初代は親として子供に自分がした苦労はさせたくないと思うのだろうが、その親心が仇になる。初代がどうやったらその成功のエッセンスを孫にまで伝えられるかは難しいと思う。

 57年も生きていれば、それなりに世の中のことも少しはわかっていて、失敗も数多く経験している。それゆえにどんな考え方をしたら良いのか、すべきなのか、ある程度の考えはある。そうした考え方は息子にも(娘にも)伝えていきたいと思っているが、そうした親のアドバイスが時として煩わしいものだったりすることは、「子供の立場」を経験してきているゆえによくわかっている。伝え方によっては、その内容の良し悪しに関わらず、受け入れてもらえないものである。

 そもそもであるが、そうした親の考え方、価値観が正しいかという問題もある。もっと言えば、正しいか否かというよりもその価値観が自分の性格に合っているか否かもある。人生の優先利益に「お金」を置く人もいるし、「仕事」を置く人もいる。タイタニック号では人を押しのけて助かった人もいるし、人を助けて犠牲になった人もいる。人を押しのけて助かった人が悪いかと言えば、人は生きていてこそなのであり、法律では「緊急避難」という概念(溺れている時は同じく溺れている他人から浮き輪を奪っても許される)も認められている。何が正しいかをこれと決めることはできないことは多い。

 社員を家族と考えて大切にする社長もいれば、自らが金儲けをするための道具と考える社長もいる。ワタミの渡邉美樹会長などは、自分が若い頃ハードワークで苦労し、それが自身のために良かったと考えているゆえに社員にそれをさせようとしたのか、一時「ブラック企業」のレッテルを貼られてしまっていた。親の心子知らずとも言えるし、人にはそれぞれの価値観というものがあるので、押し付けるのもよくはない。「仕事が大事」と考えるなら、ワタミの会長の考えはわかるが、例えば「仕事よりも家庭」と考える人には苦痛でしかないだろう。

 人は誰でも自分が正しいと思うことを子供には伝えたいと思うだろう。野球であれば(スポーツは何でもそうであるが)、やはり練習が大切であり、家に帰ってきてからも素振りくらいはしてもいいんじゃないかと思う。勉強ももちろん大事。(そこそこレベルの高い)高校に合格し、安心したのか、一学期の成績は良くない。そして本人もそれを悪いと思っていない。やっぱり文武両道は両立して欲しいと思うのは親の考えだが、うるさく言っても逆効果のように思う。

 すでに性格からして息子は私とは異なる部分が多い。明るいキャラクターでどうや人を笑わせるのが好きみたいである。友人とはどんな交流をしているのかはわからないが、「少数精鋭」的な私とは違うようである。それはそれで延ばしていって欲しいと思うが、「努力」という言葉も胸に刻み込んで欲しいと思う。黙って見守るのがいいか、あれこれとうるさく口に出すのが良いかは難しいが、「そう言えば親父はこんなことを言っていたな」と時に思い出してもらえるのが理想である。

 以前読んだ『わが子を強運にする51の言葉』という本は、経営者であった父の言葉を娘である著者が紹介するというもの。その内容もさることながら、娘がそんな形で父の言葉を記憶して自分のものとしていることに感動を覚えたものである。できるものであれば、自分もそんな言葉を子供たちに残したいし、自分が考える「こうなっては欲しくない人間」にならないように育てたいと考えている。それには何が必要なのか。それがただいまの大きな課題である。

 バカ娘にバカ息子にならないためにはどうしたら良いのだろうか。それは一番力を入れて考えたいと思うのである・・・



【今週の読書】
  



2021年7月15日木曜日

タイミング

 家を建てたのは、もうすぐ40歳を迎える時であった。ローンを組むにしても残りの期間と年齢を考えたら、「そろそろ」となったのである。探し始めてしばらくしたところ、近所の土地が売りに出ていた。我が家が探していることを知っていたママ友からの情報であった。駅からも近い今の立地は申し分なく、値段も買える範囲であったので決断したのである。当時の同僚から、「10年前に俺もそのあたりで探したが、とても手が出なかった」と羨ましがられた。地価が下がっていたことも買えた要因の一つである。これが今のタイミングだと、地価も上がっているし、土地だけで売りに出ていることも含めて難しいと思う。

 その時、探していなければもちろん買えなかったわけであり、土地を買って家を建ててとなると、今の相場環境だとかなり勇気がいるだろう。そもそも当時も駅から徒歩圏内は手が出ないだろうと思ってバス便の範囲で探し始めたくらいである。本当にラッキーだったと思う。建てたのは無名の工務店であったが、そこはもともと目をつけていた地方のハウスメーカーの東京の代理店であった。たまたま近所でオープンハウスをやっており、出かけて行ってコンタクトをとったのである。これも絶妙のタイミングであった。

 今回、突然転職せざるを得なくなり、急遽転職活動を始めることになった。幸いなことに縁あって2社から内定をいただいたが、両社ともちょうど私の求めるポジションが空いていたというのが大きな要因。1社は空席状態が続いており、1社は現担当者が引退を予定しているというもの。これもタイミングである。1年前だったら募集していなかったかもしれない。また、逆に1年後なら別の人がその椅子に座っているかもしれない。不動産も同様だが、こうしたタイミングによって人生が大きく変わるというのも何か不思議な感じがする。

 こうした「タイミング」は、個人の力ではどうしようもない。不動産を売りたい人も買いたい人も、人を採用したい会社も就職したい人も、これと狙っているわけではない(まぁ、ここというところを虎視眈々と狙っている場合もあるだろうが・・・)。いずれもたまたまのタイミングでの出逢いと言える。しかしながら考えてみれば、この世の事の大半はたまたまのタイミングなのかもしれない。恋愛なんかもたまたまのタイミングでの出逢いがきっかけであったりする。

 こうしたタイミングをもしもコントロールできたとしたら、絶大な力を発揮しそうな気がするが、なかなか難しいだろう。ターゲットが絞れていればある程度は可能かもしれない。たとえば、不動産であればこのエリアというのを決めておいて、毎日不動産の売り情報をチェックするという方法がある。周辺の仲介業者にもマメに顔を出し、「探している」という事実を告知する。これにより、新規に売り情報が出た時に、いち早く教えてもらえるということがある。いち早く教えてもらえれば、それだけ自分が買える可能性が高くなる。

 転職でも、この会社というのがあれば、転職エージェントに希望を伝えるとか、あるいは直接アプローチするという方法もある。恋愛はもっと簡単でこれと決めたらアタックするのみである。しかしながら、そうした特定のターゲットが決まっていなければ、やはりたまたまのタイミングという不思議な縁しかない。結婚して最初に住んだアパートも、いくつか回った最後に、「希望の駅ではないが、一つ先の駅の物件も見てみませんか」と不動産会社のお姉さんに言われ、案内されたところが気に入ったという経緯がある。

 狙うのも主体的でいいと思うが、世の中は広く、自分のカバーできる範囲には限りがある。自分の世界の外に可能性を求めるという意味では、「タイミング」に賭けてみる意味は大きい。私は別に運命論者という訳ではないが、たまたまのタイミングという縁には何か意味があるように思う。事実、今住んでいる家も他には考えられないくらい気に入っているし、今の会社での実績が今度の会社での採用理由になっていると思うと、前回の転職もまた結果的には良かったと思う。

 そうした「タイミング」には、何か意味があるようにも思うし、あるいはそれを意味に変えてきたのかもしれないと思う。どちらかと言えば、自分の考えは後者である。「求めた」から「出逢えた」わけであり、それが悪い結果にならなかったのは、自分の振る舞いである。そう考えると、今回の転職も自ら求めた結果であり、それが良い結果になるのもならないのもこれからの働き方次第だろう。

 いいタイミングであったと言える様、これから新しい職場で精進したいと思うのである・・・



【本日の読書】
  




2021年7月11日日曜日

天国と地獄

 生前、良い行いをした者は天国へ行き、逆に悪事を働いた者は地獄へ落ちるということは誰もが知っている話である。キリスト教でも仏教でも同じように天国と地獄があるのは偶然か、はたまたどこかで融合したのかは知らないが、昔はそれなりにいいことをしようというモチベーションと、悪いことはすまいという戒めとして子供に対する教育などの点で効果があったのだろうと思う。今はそういう効果はほとんどないかもしれない。

 それでも、ひどいことをされて泣き寝入りせざるを得ない状況なんかで、相手を恨んで「ろくな死に方はしないだろう」と考える程度は今でもあると思う。この世の中は、決して公平ではなく、むしろ当たり前のように不公平であり、理不尽である。清く正しく生きていても、幸せになれる保証は微塵もないし、ひどいことをしても何の咎めを受けないことも珍しいことではない。幸せになるか不幸になるかは、その人の行いとはまったく関係がない。まぁ、人に喜ばれる良いことをすれば、心の充足は得られるかもしれないが、悪いことをしてもそうかもしれない。

 『鬼滅の刃』19巻で登場する上弦の弐の鬼・童磨は「この世界には天国も地獄も存在しない。それは人間による空想」だと断じる。「悪人がのさばって面白おかしく生きていても天罰は下らない。だからせめて悪人は死後地獄に行くって思わなきゃ精神の弱い人はやってられないでしょ」と語る。身も蓋もないと言えばそれまでであるが、その通りだと思う。これだけ酷いことをした相手が何の咎めも受けず、バチも当たらずのほほんと生きているのが悔しいという思いがあり、消化できないその思いをせめて「いつかバチが当たるに違いない」と思うことで慰めるのである。

 イソップ童話に「すっぱい葡萄」という話がある。キツネが美味しそうなブドウを見つけるが、高いところにあって届かない。ついに諦めるが、その時に「あのブドウはすっぱくてまずいに違いない」と言って去るのである。「すっぱいから食べないほうがいいのだ」と思うことで、悔しい心を慰めているのである。身近なところでもそんな実例を目にしているが、この「すっぱいブドウ」の心境に「いつかバチが当たるに違いない」という心境は相通じるものがある。どちらも悔しい気持ちを無理やり納得させるものである。

 人は誰でも心の平穏を保っていたいものである。嬉しくてプラスになるのは構わないが、悔しくてマイナスになるのは堪らない。何とか悔しさを晴らしてプラスにしたいが、自分の力ではどうにもならない。そんな時、「神様はちゃんと見ているに違いない」、「いつか天罰が下るに違いない」と思うのは、心の平穏を保つためには効果のある考え方である。ただ、現実には天罰が下ることはない(たまたま下ることはあるかもしれないが、それはまったくの偶然である)。

 私はこうした「すっぱいブドウ」的な発想は封印するようにしている。食べられなかったブドウはきっと美味であるはずだし、諦める前に必死で何とかしようと創意工夫を重ねる。それでもダメだったら、潔く「美味しそうなブドウなのに食べられなかった」と敗北宣言を出す。酷いことをされても泣き寝入りをするのではなく、「何か一矢報いられないか」と考えるし、できないなら潔く「敗北宣言」を出して終わりにする。絶対に食べてもいないものを「すっぱい」とは言わない。何よりそれで慰められる自分ではない。

 「正しいことをしていれば神様が見ていてくださって、いつか幸せになれる」という考え方は、子供に対する教育的にはいいかもしれないが、そういうことはあり得ない。神様は存在していたとしても、1人ひとりの行いなんて見ていないし、その行いだって「自分から見た正しい行い」であって、他の人が見たら違うかもしれない。もっとも、人間なんでもドライに合理的に考えればいいというものではなく、「すっぱいブドウ」が必要な人もいるだろう。それはそれで否定はしない。ただ自分はそうではないというだけである。

 正しいことをするなら、それはいつか自分だけが天国に行くためではなく、いい事、正しいことをするのは自分が心地よいからであって、それ以上でも以下でもない。悪いことをすれば自分がカッコ悪くなるだけだし、人に恨みを買うようなことをすれば自分の居心地が悪いだけなので、そんなことはしない(ただし、それが「報復」なら話は別である)。あとでバチが当たるかもしれないから悪いことをしないのではなく、それがカッコ悪いからしないのである。それが証拠に、程度の軽い「ずるいこと」ならよくやっている。

 人生も後半戦に入ってくると、「自分だけが良ければそれでいい」とは思わなくなる。それは決して「きれいごと」ではなく、あえて人に恨みを買うくらいなら、あるいは人と揉めるくらいなら、多少損したっていいじゃないかという心境だろう。それは理屈ではなく、心の感じであり、どちらが心地よいかである。決して天国に行く準備ではない。人には慰めが必要であるが、自分にとってのそれは、「心の心地良さ」であって、天国や地獄や、「いつかバチが当たる」といったものではない。

 これからの残りの人生であるが、人には喜ばれる生き方をしたいと思う。きれいごとではなく、己の心地良さとしてそれを追求したいと思うのである・・・




【今週の読書】
  


2021年7月8日木曜日

論語雑感 公冶長第五(その23)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。
【原文】
子曰。孰謂微生高直。或乞醯焉。乞諸其鄰而與之。
【読み下し】
子(し)曰(いわ)く、孰(たれ)か微(び)生(せい)高(こう)を直(ちょく)なりと謂(い)うや。或(ある)ひと醯(けい)を乞(こ)う。諸(これ)を其(そ)の鄰(となり)に乞(こ)いて之(これ)に与(あた)えたり。
【訳】
先師がいわれた。
「いったい誰が微生高を正直者などといいだしたのだ。あの男は、ある人に酢を無心され、それを隣からもらって与えたというではないか」
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 論語もすべて名言格言であふれているわけではない。時に意味のわからないものもある。今回の言葉もその1つ。微生高という人物が、酢をくれと言われ、それを隣からもらって与えたことを孔子は批判している。なんとなく褒められこそすれ、批判されるようなことではないと思う。酢をくれと言われたが、自分は持っていなかった。「持っていない」と断れば済むところ、わざわざ隣からもらってきて与えたというのである。微生高とは、いい人のように思えてならない。

 人に何かを頼まれた時、断るのは簡単である。特にそれが自分の手に負えない時、断るのは致し方ないこと。金を貸してくれと言われ、持っていれば貸せるが、持っていなければ貸せない。金に限らず、車でも何でもものに関して言えばすべて当てはまる。会ってくれと言われても、時間が空いていれば会えるが、別の外せない予定が入っていたら会うことはできない。行動においてはすべてその通りである。しかし、微生高はそれを乗り越えている。

 自分は持っていないものを「隣からもらってくる」という手法で「持っていない」という問題をクリアしている。相手の頼みに対し、「できない」とそのまま答えるのではなく、「何とかできないだろうか」と考えたわけである。そしてそれを「隣からもらってくる」というアイディアで克服している。微生高に酢を頼みに来た者は、それで(酢をもらうという)目的を達成している。相手の問題を解決しているわけであるから、微生高という人物は「できる」人物と言える。なのになぜ孔子は批判するのだろう。

 1つには文化の違いがあるのかもしれない。なにせ2,500年も前の、しかも異なる文化圏の話である。ひょっとしたら現代の日本とは違う感覚の常識があるのかもれない。たとえば日本では人に何かをしてもらったら、「お返し」をする。しかし、中国では「お返し」はしないらしい。と言うのも、お返しをすると、「これで貸し借りチャラ」というニュアンスで捉えられるらしく、ドライに思われるようである。目先のお返しではなく、「いつかもっと大きなことで返す」というように考え、お礼はしないのだとか。末長い関係をいたしましょうというらしい。これはこれでなるほどである。

 そうした文化の違いがあるかもしれず、「さすがの孔子様もおかしなことを言う」と決めつけるのは早計である。論語の研究者などごまんといるだろうから、単なる解釈だけではなく、その言葉の裏側にある意味も含めて教えてもらいたいと思うところである。そもそも、人の真意などはそうそうわかるものではない。表面上の言葉だけを捉えると誤って真意を捉えることになる。マスコミのようにあえて悪意的に言葉の一部を切り取って都合のいいように報じるとまではいかなくても、誤解程度なら多々あるだろう。

 我が実家の母親は、その見本のような言動で人をイラつかせる。結婚したばかりの頃、お中元やお歳暮を送れば必ずケチをつけられたものである。ビールを送れば「お父さん最近飲んでいないんだよね」、コーヒーを送れば「最近胃が悪くて・・・」といった具合である。なぜ素直にお礼を言わないのか。なぜ送った者が気を悪くするようなことを言うのか。我が家の嫁姑関係が崩壊したのはそうした母親の言動が間違いなく一役買っている。当時は腹立たしく思ったものである。

 今に至ってもそれは変わらず、最近は母の日に胡蝶蘭を送ったが、「もらっても育て方が・・・」とまたブツブツ言う。しかし、それ以降、行くたびに「まだ咲いている」と嬉しそうに言うし、ご近所さんが訪ねてくると、「ほらこれ」と玄関において見せびらかしている。たぶん、内心は嬉しいのであろうが、それを素直に表現しないという悪い癖なのである。親子だから無理にでも好意的に解釈してくれるが、他人には通用しない。父によれば、母のそういう裏腹な一言は、父の親族間でも誤解を招きまくっていたと言う。

 孔子の時代には、人はその人を信用して頼みにきているのであり、ないならないで断るというのが正しいという常識だったのかもしれない。なのに(頼んだ人からすれば)よく知らない隣の人にもらって与えるなど、言語道断だったのかもしれない(何が入っているかわからないし・・・)。論語に載せて語り継ぐくらいだから、おそらく微生高の行為はどこか間違っていたのだろう。

 時に人の言動に惑わされることなく、腹の立つことも一旦堪えてその真意を冷静に探ることが必要だろうと思う。自分の常識が相手の常識と常に一致しているとは限らない。自分の正論が相手の正論と同じとも限らない。心の内は言葉では伝わらない。そんなことを改めて意識したいと思うのである・・・


【本日の読書】
   



2021年7月4日日曜日

社長の器

 「企業は社長で決まる」とか「企業は社長の器以上に大きくならない」ということはよく耳にするが、大企業はともかくとして、中小企業においては真実であると思う。「攻め」に重点を置くのと「守り」に重点を置くのとでは大きく異なる。「攻め」ばかりの経営では時として「暴走」になるかもしれないし、「守り」ばかりでは成長につながらないかもしれないし、船が沈む時に座して死を待つようにもなりかねない。攻守のバランスが取れないとうまくはいかない。

 とは言え、社長も1人で切り盛りできる規模には限度がある。ある程度の規模になれば、当然部下をうまくコントロールしていかないといけない。その時、いかに部下のモチベーションを上げていくかによって、企業全体のパフォーマンスにも影響を与えるだろう。鉄鋼王アンドリュー・カーネギーの墓石には、「己より優れた者を周りに集めた者、ここに眠る」という言葉が刻まれているという。必ずしも自分自身が優秀でなくてもいいということである。

 部下をうまく使いこなすと言うは易しいところはあるが、具体的にはどうするかと言えば、「権限委譲」がマストであろう。何をやるにしても一々お伺いを立てないといけないようでは効率も悪いし、部下も常に「決めてもらおう」という「依存心」にとらわれてしまう。それに何かあっても「決めたのは自分ではない」という言い訳ができてしまう。権限委譲には「勝手なことをされる」という恐れがつきまとうが、それについては「腹をくくる」か「委譲する範囲を明確にしておく」かしかない。そこをうまくやるのがポイントなのかもしれない。

 権限を委譲したら「後から文句を言わない」というのも大事なこと。これをやられるといかに「権限委譲」したとしても、部下としては思う通りにできないので、結局同じである。「任せる」ということは、うまくやってくれるのだろうかという不安との戦いとも言える。ゆえに「任せることができる」というのも1つの能力であり、将たる器の証とも言える。しかし、一方で、形は同じでも中身がまったく違うという場合もある。それは「お飾り」の場合である。

 たとえば、創業社長の2代目というケースで、入社した時から若くして取締役。仕事はすべて部下がやってくれる。自分はそれを裁可するだけ。よくわからないから黙って判子を押すだけというようなケースである。何か考えがあって部下にそれを伝えた時、実情にあっていればともかく、そうでなければ部下に反論されたり嗜められたりする。実力がないから説得もできないし、強引にやろうとして権力に頼れば部下のモチベーションを奪う。お飾りに徹してくれていればありがたいが、そうでなければ困った存在となる。

 そもそもそうした「できない社長」にならないためには何が必要なのかと言えば、1つには「事業に対する思い」があるだろう。「自分は何のためにこの事業をやっているのか」、「この事業を通じて何を達成したいのか」をきちんと語れるかが1つの目安である。それが明確であれば、経営にも一本筋が通る。そうすれば何を実現するかが明確になり、委譲する権限も明確になる。部下も何を目指せば良いのか理解できれば、行動も明確になる。

 中には、そんな立派な目標などないという企業もある。ただ「自分が食うために」「社員を食わすために」働いているというところである。それが悪いとは言わないが、2代目社長のようなボンボン社長の場合だと、働く必要がなくなればさっさと事業を放り出すことにつながる。金があって食うに困らず、無理に働く必要もなければ人間働かないだろう。そこに「社員を食わすため」という歯止めがあればまだしも、なければ社員の迷惑など顧みずに廃業するということもありうる。こうなると、悲劇はそこで働く社員である。

 社長になるのは誰でもなれる。金を出して登記をすれば誰でも会社は作れるし、誰でもそうして作った会社の社長になれるのである。そこで「稼げるか」という問題をクリアーして初めて経営者になれるのであり、社員を雇ってさらにどこまでそれを上手くやれるかはその人の才覚である。と言っても、自分で作った自分の会社だからと言って好き勝手できるものではない。人を使っていかに上手く事業を回して会社を維持していくかは簡単ではない。

 社長として人を雇って給料を払えば誰でも偉いというわけではない。社長には日頃の言動から「器」が滲み出る。社員はそれを敏感に感じ取る。社長の器の大きさは、社員であれば感じ取ることができる。器の大きさを事前に感じ取れればいいが、それはなかなか難しかったりする。入ってから「しまった」と思っても後の祭りである。逆に採用した社員が権限を委譲できるレベルにあるかどうかを事前に見極めるのも難しいだろうからお互い様なのかもしれない。

 転職活動をするにあたり、給与等の条件面も大事なのであるが、社長の器も大事だと考えている。入ってから果たして全力で仕えるに値する人物なのかどうか。間違いなく見極めることは不可能であるかもしれないが、そういう「視点」は持っていたいと思う。新天地でも苦難はあると思うが、まだまだ走り続けないといけないし、まだまだ走り続けたいと思う。新天地には腹を括って飛び込みたいと思うのである・・・



【今週の読書】
 


2021年7月1日木曜日

ニュース雑感

小学生の列にトラック、2人が死亡 八街市
2021年6月28日19:31
警察などによりますと、28日午後、千葉県八街市で下校途中の小学生の列にトラックが突っ込み、児童5人が巻き込まれた事故で、このうちの児童2人の死亡が確認されたということです。
日テレNEWS24
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 何とも痛ましい事故である。よくあると言えばよくあるニュースであるが、その後の展開でいろいろと感じるところが多いものである。

 どうやら運転手は酒を飲んでいたということ。現場にはブレーキ痕がないということで、居眠り運転の可能性が指摘されている。どうやら昼食時に酒を飲んで運転したらしい。そして本人の自宅どころか、勤務先の運送会社も家宅捜索を受けたと言う。たぶん管理体制を調べられたのであろう。ニュースによるとアルコール検査は行われていなかったと言う。当日の加害者の運転手の行動はよくわからないが、どこまで勤務先が責任を問われるべきか、ちょっと気になるところがある。

 まずアルコール検査であるが、運転をする以上、酒を飲まないのは常識である。されど管理する側としてはアルコール検査をやるのが理屈的には正論である。しかし、やっていなかったからと言って会社の責任を問うのも酷な気がする。たとえアルコール検査をしていたとしても、朝出発前に飲んでいなければわからない。ましてや「帰る途中に飲んだ」と供述しているらしいが、こうなるとたとえ検査を実施していたとしても意味はない。外に出ている運転手が飲酒するところまではさすがに監視できない。日頃の社員教育と言ったって、一般人でさえ「飲んだら乗るな」は常識である。それでも飲むやつに社員教育しても無駄だろう。

 また、事故の報道を受け、別の会社が迷惑を被っていると言う。何でも事故を起こしたのは「南武㈱」だが、まったく別の「南部㈱」にクレームの電話やネットの書き込みが殺到しているらしい。何ともはやである。まず、事故を起こしたのは運転手個人である。飲酒運転となれば個人の責任がほとんどである。仮に会社にも管理体制の責任があっとしても、非難するならそれがはっきりしてからにすべきだろう。それもせずに短絡的にクレームの電話を入れるという神経がよくわからない。ましてや会社名を間違えるなど、加害者の運転手にも負けず劣らずのばかものである。

 さらに被害に遭った児童らが通っていた小学校が臨時休校になったという。なぜ休校になったのかも興味をそそられる。対外的な対応(マスコミ、教育委員会、父兄等)に教職員が追われるためというのならわかるが、「事故が起こったから」というならちょっと違うと思う。よく生徒が犠牲になる事件や事故が起こると慌てて何かやるケースが多いが、起こってから何かやっても遅いし、そもそも飲酒運転の車からどう児童を守るかなんて対策は取りようがない。「何かやらなければ」と慌てた結果なら何をかやである。

 現場は小学校のPTAから「道幅が狭い一方で、交通量が多く危険だ」などと登下校時の危険性を指摘する声があがっていたらしい。10年以上前から毎年、歩道の整備などを含む道路の改善を八街市に求めていたというのであるが、こういう事故が起こるとおそらくすぐに整備が行われると思う。すぐに整備が行われたとすれば、なぜ「すぐやらないのか」という疑問が起こる。当然、それに対する「できない理由」は、お役所はきちんと説明してくれる。だが、それがこういう事故が起こるとすぐ出来てしまう理由とは相容れない。仮に出来たとして、それは飲酒運転の暴走に耐えられるのだろうかという疑問もある。

 事故の詳しい状況や、加害者が(おそらく起訴されるだろう)どのような処罰をうけるのかはこれからの話である。「酒を飲んでいた」という時点でほとんどどんな言い訳もできないだろうから、有罪判決にはなるのだろう。執行猶予などついたら被害者の児童の家族はいたたまれない気がする。道路整備や再発防止策もいいが、一番効果的なのはやはり「厳罰化」だと思う。これだけの事故である。飲酒運転は社会問題にもなっている。この状況で「飲んで乗る」など言語同断である。厳罰に処しても誰も文句は言わないだろう。運転手の男は60歳だと言うが、残りの人生は刑務所で過ごしてもらってもいいくらいだと思う。

 私も子供を持つ親であり、我が子をこんなことで亡くした親の切ない気持ちは想像してもしきれないところがある。高齢ドライバーの問題といい、飲酒運転の問題といい、これからも起こるだろう。「自分は大丈夫」と思うのが人の常だからである。それを防ぐのはもはや本人の「ヤバい」という意識しかないと思う。60歳にもなってまだ飲酒運転はダメだということがわからない男には、今後の再発防止策として思い切った長期刑を適用してほしいと思うのである・・・



【本日の読書】