2021年6月9日水曜日

豊かさと自立

 息子がこの春から高校生になった。身長もすっかり私よりも高くなり、リモート授業が多く、野球部の練習が少ないのにブツブツ言いながらも高校生活を楽しそうに送っている。ついつい自分が16歳だった頃と比べてしまうが、違いを感じるとしたら、いまだ母親に甘える部分があることと、自立心であろうか。私は割と自立心が強く、すでに高校に入る前の春休みにアルバイトをして半年分のこずかいを稼ぎ、親からこずかいをもらうことは以降なくなった。だが、息子にはそんな気持ちはないようである。

 私の場合、古くは幼稚園に一人でテクテク歩いて通っていたが、息子は母親の送り迎え付きであった。もっともこれは幼稚園からの要請であったからやむを得ないが、世の中的に過保護な方向へ向かっているような気がした。我々の頃も大学受験の会場に着飾った母親と一緒に来ているボンボンもいたが、さすがに会社を休むのに母親が本人に代わって電話をしてくるなどという話は聞かなかったから、そういう傾向はあるのだろう。

 『ウィンターズ・ボーン』という映画がある。アメリカの貧しい中西部を舞台にしたドラマで、父親が失踪し、母親が精神に異常をきたしてしまった家族の中で、わずか17歳の長女が幼い弟妹を含めて家族を支えるために孤軍奮闘するドラマである。17歳の少女には過酷な試練なのであるが、我が家の20歳の娘にはちょっとできそうもない気がする(させたいとも思わないが・・・)。

 私の父が今でもよく昔話に語ってくれるのは、中学を卒業して16歳で東京に出てきて丁稚奉公を始めた時のことである。朝、6時に起きて夜12時に寝るまで働きづめで(丁稚奉公だから基本的に無給である)、半年で鬱になったという。労働基準法がある今から見ればありえない話である。また、祖母は臨月まで農家の労働に従事し、叔父を生んだのは農作業中の畑だったという。これも今の常識からはとても考えられない。「虐待」レベルの話である。

 祖母や父の時代の感覚でいけば、それらは世の中によくあることだったのだろう。そんな祖母や父からすれば、私が育ったのはぬるま湯のような環境だったのだろうと思う。事実、(受験勉強を除けば)なんの苦労もなく当たり前のように高校・大学と通ったわけである。銀行に就職したあとも、先輩たちから「昔は除夜の鐘を聞く前に家に帰れなかった」とよく聞かされたものである。私が入行した時は、12月31日の銀行休業が認められ、さらに土曜休業がスタートするタイミングであった。

 世の中の進歩というところでは、望ましいことである。今や祖母のように臨月になって職場で出産するまで働かなければならないということはないし、無給で1日14時間以上働かなくてもいい。ただ、そうして世の中が住みやすくなるにつれ、大人になるスピードは落ちるのかもしれないと思う。考えてみれば動物の場合、生まれたその日から自分の足で立つことができるが、人間の赤ん坊は親が付きっきりで世話をしなければならない。だから人間が劣っているというのではなく、それは人間の進化の結果らしい。

 『ウィンターズ・ボーン』では、わずか17歳の少女が弟妹のために親代わりとなって奮闘する話であった。考えてみれば、それはこの主人公が特別優れた少女だったわけではなく、置かれた環境下でやむにやまれずそういう行動を取らざるを得なかったとも言える。我が家の娘もそういう環境に置かれたとしたら、しっかりと自立した行動を取るのかもしれない。我が家が困窮して明日の米にも事欠くようであれば、息子も率先してアルバイトをして家にお金を入れるのかもしれない。

 そう考えてみれば、自立とは豊かさと反比例するものなのかもしれない。「15でねえやは嫁に行き」という歌は、社会の貧しさを表しているものとも言える。子供時代が長いというのは、それだけ社会なり家庭なりが豊かであるということなのだろう。子供が子供でいられるというのは、豊かな証拠だと言える。どれだけ長く子供時代を過ごせるかは、親や社会の豊かさの証なのかもしれない。

 とは言え、さすがにいつまでもというのは困る。私個人としては、一刻も早く自立した人間になってほしいと思う。我が家は、両親の頃よりは多少豊かかもしれないが、それでも一介のサラリーマンであり、ダイエットしなくても脛は十分スリムである。精神的にも早く自立して欲しいと思うし、それにはやはり温室ではなく、寒風が必要なのかもしれないとも思う。千尋の谷とまではいかなくても、ある程度の谷には早く落とした方がいいのかもしれないと、特に息子については思うのである・・・



【本日の読書】

  



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